武士道より学ぶ!ますらをの道を行く大和魂!

儒教的な道徳を用いた倫理観であり、「仁義を尽くす」とか「忠義を尽くす」と言ったことを求められる武士道。
武士階級が解体された後も、武士道の持つ精神性とアイデンティティは脈々として受け継がれ、義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義といったものが武士・侍の基礎になってきました。
そんな武士道を2回程に渡って、整理してみたいと思います。
まず今回は、「葉隠」や独行道を見ながら、武士道の精神性、アイデンティティについてみていきましょう。

それでは、まずは「葉隠」からです。

【葉隠】
「葉隠」(葉可久礼とも書きます)は、今から約290年前、佐賀藩士山本神右衛門常朝の武士の心得についての見解を同藩士田代陣基が筆録・編纂した、全11巻に渡る聞書体裁の佐賀鍋島武士道語録です。
誰もが一度は聞いたことのある「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名ですよね。
当時、主流であった山鹿素行が提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しています。
忠義は山鹿の説くような「これは忠」と割り切れるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いています。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻はあくまでも口伝による秘伝であったため、火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く禁書の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれています。
そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になっています。
「葉隠」は、戦もなく太平の世にて戦国侍の気風が失われつつあった当時にあって、これを嘆き正しい奉公人、侍の姿を真摯に追い求めた武士道の聖典といわれる歴史的名著。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の全体を理解せずにこの部分だけ取り出して”武士道精神”と単純に解釈されてしまっていることがあります。
実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多いのですが、こうした点を見直すためにも整理しておきたいと思います。

著書の山本常朝自身「私も人である。生きる事が好きである」と後述している様に、「葉隠」は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ません。
「葉隠」の説く「武士道」が、
・武闘を意味する「武道」だけをいうのではなく、
・「奉公」即ち「日々の勤め」をも含めてあるべき姿、心構えをまず説いたものであること、
・「死ぬ事」という言葉も、実際に命を断つことではなく、「心組」つまり「心の持ち様」を説いたものであること
に注目すべきでしょう。
また、その中核的思想は、四誓願にあります。
一、武士道においておくれ取り申すまじき事。
一、主君の御用に立つべき事。
一、親に孝行仕るべき事。
一、大慈悲を起こし人の為になるべき事。
これを見ると、主君への御用よりも武士の個人的倫理が積極的に表現されており、封建制の時代に武士の有様を主張したのは公に尽くすべき強烈な倫理であり、美意識の主張であることが見て取れます。

実際、「葉隠」の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどです。
恐らく常朝が言いたかったのは、閉塞的状況をただ嘆き告発することではなく、こうした状況をものともせず、鍋島武士としていかに恥を忘れず剛の者として生きていけばいいのか、ということだと思うのです。

戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされていましたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されています。
「葉隠」が、平和時における侍であり人である心の持ち様を説いた本であったということになれば、人間いかに生きるべきかを問い求めている現代人にとっても、大いに資するところありの良書なのです。

『「葉隠」(抜粋)』
・武士道というは死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。(中略)我人、生きる方が好きなり。多分すきの方に理がつくべし。
・恋の至極は忍恋と見立て候。逢いてからは恋のたけ低し、一生忍んで思い死することこそ恋の本意なれ。「恋死なん、後の思いに、それと知れ、ついに洩らさぬ中の思いは」この歌の如きものなり。これに同調の者「煙仲間」と申し候なり。
・慈悲より出づる智勇は本ものなり、慈悲の為めに罰し、慈悲の為め働く故に、強く正しきこと限りなし。
・大事の思案は軽く、小事の思案は重く。
・先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を呑む様に請け合わせ疵直るが意見なり。
・勝ちといふは、味方に勝つ事なり、味方に勝つといふは、我に勝つ事なり、我に勝つといふは気を以て体に勝つ事なり。
・大酒にておくれ取りたる人数多たあり先ず我が丈分をよく覚え、その上は飲まぬようにありたきなり、酒座にては気を抜かさず、思わぬ出来ごとありても間に合う様にありたし。又酒宴は公界ものなり、心得べき事なり。
・酒に酔ひたる時一向に理屈を言ふべからず。酔いたるときは早く寝たるがよきな。
・人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。 夢の間の世の中に好かぬことばかりして苦を見て暮すは愚かなことなり。
・この事は悪しく聞いては害になること故、若き衆など之は語らぬ奥の手なり。我は寝ることが好きなり。いよいよ禁足して寝て暮すべきと思うなり。

【宮本武蔵の独行道】
宮本武蔵は、晩年になって自らの生涯を振り返り、『五輪書』『兵法三十五箇条』『独行道』といった書物を遺しました。
『独行道』(獨行道)とは、「独り我が道を行く」ということで、ひたすらおのれの力だけを信じた宮本武蔵が亡くなる一週間前に残した21か条から成る「自省自戒の書」です。
この中には、孤高の求道者として生きた武蔵の処世訓が述べられており、武士道の基本となる「己を磨く」という徳に通じる見事なまでの武士道精神がそこにあります。

『独行道』
・「世々の道を背く事なし。」世の中の不変の真理、道理に背くな。
・「身に楽しみをたしまず。」自分には娯楽を求めるな。
・「万に依怙の心なし。」えこひいきをするな。
・「身を浅く思い、世を深く思う。」自分の事は少々にして、世の為、人の為に尽くせ。
・「一生の間、欲心思わず。」人生において欲望を持つな。
・「我事において後悔せず。」いかなる事があっても後悔するな。
・「善悪に他を妬む心なし。」他人を決してうらやむな。
・「いずれの道にも別れを悲しまず。」いかなる場合でも、一切別れを悲しむな。
・「自他とも恨みか二つ心なし。」決して恨み心を持つな。
・「恋慕の道、思いよる心なし。」恋慕の心一切持つな。
・「物事にすき好む事なし。」物事において、風情を求めず、一切好き嫌いするな。
・「私宅において望む心なし。」自分の家に一切執着するな。
・「身一つに美食を好まず。」美食を求めるな。
・「末々代物なる古き道具所持せず。」骨董的価値のあるような道具を所持するな。
・「我が身に至り、物忌みする事なし。」迷信、不吉な事を一切気にするな。
・「兵具は格別、世の道具たしなまず。」兵法の為の道具以外にはこだわるな。
・「道においては、死をいとわず思う。」兵法の道を究めるのに死を恐れるな。
・「老身に財宝、所領用ゆる心なし。」財産、土地を所有する心を持つな。
・「仏神貴し、仏神を頼まず。」仏神は大切に崇敬するが、加護は一切頼るな。
・「身を捨てても、名利は捨てず。」身は犠牲にしても、名誉、誇りは捨てるな。
・「常に兵法の道、離れず。」いついかなる時でも兵法の道を絶対離れるな。心はすべて常に兵法に投入せよ。

『武蔵流修行法9原則』
・「よこしまなき事を思う所」常に良き事、正しい事を思え。邪心を持ってはならない。
・「道の鍛錬する所」評論家になるな。実践人になれ。
・「諸芸にさける所」芸術でも何でも幅広く学べ。
・「諸職の道を知る事」目的をもって他の多くの仕事からも学べ。
・「物毎の損徳をまきまゆる事」物事を客観的に強み、弱み、機会、脅威を分析せよ。
・「諸事目利を仕覚ゆる事」物事の状況を見通す目利きとなれ。判断力、決断力を磨け。
・「目に見えぬ所を悟って知る事」表面の目先の現象に振り回されるな。本質を見よ。
・「わずかなる事にも気をつくる事」小事、些事こそ大事。小事にこそ細心になれ。
・「役に立たぬ事をせざる事」すべては目的の為にせよ。一切を無駄にするな。

【武士道の精神性】
武士の訓育にあたって第一に必要とされたことは、その品性を高めることでした。
そして、明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされたのです。
武士の教育において、美の価値を認めるということが重要な役割を果たしていた訳です。
また武士道においては、人に勝ち、己に克つために不平不満を並べたてない不屈の勇気を訓練することが、そして礼の教訓が行われていました。
それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表わして他人の平穏をかき乱すことなく、感情を顔に出すペからずとと考えています。
こうした日本人の習俗や風習にあるものは、外国人の目からすると冷酷と映っているかもしれないですが、沈着な振る舞いや心の安らかさは美徳とされてきました。
しかし私は、世界のどんな民族にも負けないくらいに優しい感情を持ち、何倍も物事に感じやすい気質を持っているからこそ、その自然にわき上がってくる感情を苦しみを伴いながら抑えることで心の均衡を保とうと考える、非常に民度の高い精神性だと考えるのです。

日本に怒濤のように押し寄せた西洋文明は、日本古来の精神性の美徳の痕跡を消し去ってしまったように言われていますが、その魂は簡単に滅ぶほど貧弱なものではなく、脈々とそのDNAに息づいています。
武士道は一つの無意識的な抗うことのできない力として、日本国民一人一人を動かしています。
吉田松陰が刑死前夜にしたためた歌には日本国民の偽らざる告白が込めれています。
「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」
こうした武士道はこれまでずっと日本の活動精神、推進力でありましたし、また今後も受け継がれていくもの。
こうした精神性を亡くそうとする力は、特に戦後から強く働いているように見れますが、それでも簡単に滅びゆくものではないのです。

【武士道のアイデンティティ】
封建制度の時代に自覚され起源した一定の支配権を持つ者に必要であった精神文化の一つである武士道。
武士道では、武士としての名誉を守るためであれば、一個の生命すら安いものだと確信されていました。
その武士にとって最大の名誉が義、勇、仁、礼、誠、名誉、そして忠義を守ること。

こうした武士道のアイデンティティをひとつひとつみていきましょう。

一、「義」
サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはなかった。
今の世にも受け容れられている、赤穂の四十七人は「義士」として知られているが、それは義士達の真摯な男らしい徳行が賞賛をかちえたからであった義とは正義の道理であり、勇敢という徳行と並ぶ武士道の2本の柱であった。
義から派生した義理とは本来は「正義の道理」なのであり、純粋な意味において、義理とは純粋かつ単純な義務をさしていたが、人間がつくりあげた慣習の前にしばしば自然な情愛が席を譲らなければならないような理不尽な社会で生まれるものが義理である。
「正義の道理」からはじまった「義理」は言葉を誤用され、別の意味を持つようになり、あらゆる詭弁と偽善を抱えるようになっていった。

二、「勇」
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が表すように、勇気は義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。
勇気とは正しいことをすること。
すなわちあらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に臨むことであり、しばしば勇猛と同一視されがちであるが、武士道の教えるところでは、死に値しないことの為に死ぬことは犬死にとされたのである。
サムライは幼いころから勇猛、忍耐、勇敢、豪胆、勇気を実践と手本によって訓練され胆力を錬磨した。
勇気の精神的側面は落ち着きである。
まことに勇気のある人は、常に落ち着いていて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。
彼らは戦場の昂揚の中でも冷静であり、破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っていなければならなかった。
危険や死を眼前にするとき、なお平静さを保つことができる人こそ立派な人として尊敬されるのである。

三、「仁」
愛、寛容、他者への同情、憐れみの情は至高の徳、人間の魂の持つあらゆる性質の中の最高のものと認められている。
仁は、優しく母のような徳。高潔な義と厳格な正義を男性的とすれば、慈愛は女性的な性質である優しさと諭す力を備えている。
最も剛毅なる者は、最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なる者である。
武士の情けは、その慈悲が盲目的衝動ではなく、正義に対する適切な配慮を認めているということを意味し、相手の生殺与奪権を背後に持っていることを意味する。
か弱い者、劣った者、敗れた者への仁は、特にサムライに似つかわしいものとして、いつも奨励されていた。

四、「礼」
礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することであり、物事の道理を当然のこととして尊重するということである。
他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。
他者の感情を尊重することから生まれる謙虚さ、慇懃さが礼の根源である。
長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまないものである。
そして、礼儀作法を社交上欠くことができないものとして、入念な礼儀の体系が出来上がったのである。
儀礼的な礼儀作法には、礼の厳しい尊守に伴う道徳的訓練がある。

五、「誠」
「言」と「成」の部分からなる誠という表意文字の組み合わせは、武士にとって自分達の高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求められていた。
「武士の一言」は断言したことが真実であることを充分に保証するものであり、武士の言葉は重みを持っているとされ、約束はおおむね証文無しで決められ、実行された。
「二言」二枚舌の為に死をもって罪を償った武士の壮絶な物語が数多く語られ、真のサムライは誠に対して非常に高い敬意を払っていた。

六、「名誉」
名誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。
名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼いころから教え込まれるもの。
「羞恥心」という感性を大切にすることは、幼少のころの教育においても、まずはじめに行われた。
名誉の些細な掟がおちいりがちな、行き過ぎは寛容と忍耐を説くことで相殺される。
些細な挑発に腹をたてることは「短気」として嘲笑された。
名誉は「境遇から生じるものではなく、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにある。
武士が追求した目標は富や知識ではなく、名誉であった。
もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた。

七、「忠義」
 人は何の為に死ぬるか
日本人の忠義とはいったい何か、すなわち、主君に対する臣従の礼と忠誠の義務は封建道徳を顕著に特色づけている。
しかし、忠誠心がもっとも重みを帯びるのは、武士道の名誉の規範においてのみである。
私たち日本人が考えている忠義は、他の国ではほとんどその信奉者を見出すことはできないであろう。
それは他の国では到達しなかったくらいにまで、その考え方を進めたからである。
特に、忠義とは「中心を自覚する正義に則った道義」、つまり国家や社会、組織や集団において、人間としてもっとも普遍的な評価に値する思想的裏付けをともなう自覚的行動であり、よりよいものにするために不可欠な行動に他ならなかった。

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『神皇正統記』より学ぶ!

【神皇正統記 北畠親房著】

目次

巻一 序論 天神七代 天照大神 天忍穂耳尊 彦々火瓊々杵尊 彦火々出見尊 鸕鶿草葺不合尊

巻二 神武天皇 綏靖天皇 安寧天皇 懿徳天皇 孝昭天皇 孝安天皇 孝霊天皇 孝元不皇 開化天皇 崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇 成務天皇 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 仁徳天皇 履中天皇 反正天皇 允恭天皇

巻三 安康天皇 雄略天皇 清寧天皇 顕宗天皇 仁賢天皇 武烈天皇 継体天皇 安閑天皇 宣化天皇 欽明天皇 敏達天皇 用明天皇 崇峻天皇 推古天皇 舒明天皇 皇極天皇 孝徳天皇 斉明天皇 天智天皇 天武天皇 持統天皇 文武天皇 元明天皇 元正天皇 聖武天皇 孝謙天皇 淳仁天皇 称徳天皇 光仁天皇 桓武天皇

巻四 平城天皇 嵯峨天皇 淳和天皇 仁明天皇 文徳天皇 清和天皇 陽成天皇 光孝天皇 宇多天皇 醍醐天皇 朱雀天皇 村上天皇 冷泉天皇 円融天皇 花山天皇 一条天皇 三条天皇 後一条天皇 後朱雀天皇 後冷泉天皇

巻五 後三条天皇 白河天皇 堀河天皇 鳥羽天皇 崇徳天皇 近衛天皇 後白河天皇 二条天皇 六条天皇 高倉天皇 安徳天皇 後鳥羽天皇 土御門天皇 順徳天皇 仲恭天皇 後堀河天皇 四条天皇 後嵯峨天皇 後深草天皇 亀山天皇 後宇多天皇

巻六 伏見天皇 後伏見天皇 後二条天皇 花園天皇 後醍醐天皇 後村上天皇

神皇正統記 巻一

序論

大日本(ヤマト)は神国(かみのくに)なり。天祖(あまつみおや)初めて基(もとい)を開き、日神(ヒノカミ)長く統を伝へ給ふ。わが国のみこの事あり。異朝にはその類ひなし。この故に神国と云ふなり。

神代には「豊葦原千五百秋瑞穂国(トヨアシハラノチイオアキノミズホノクニ)」と云ふ。天地開闢(かいびゃく)の初めよりこの名あり。天祖(あまつみお や)国常立尊(クニノトコタチノミコト)、陽神(おがみ=イザナギ)陰神(めがみ=イザナミ)に授け給ひし勅(みことのり)に聞こえたり。

天照大神(アマテラスオオミカミ)、天孫尊(アマミマノミコト=ニニギ)に譲りましまししにも、この名(=葦原)あれば根本の号(な)なりとは知りぬべし。

または「大八洲(おおやしま)の国」と云ふ。これは陽神・陰神(=イザナギ・イザナミ)、この国を生み給ひしが、八つの島なりしによつて名づけられたり。

または「耶麻土(ヤマト)」と云ふ。これは大八洲の中国(なかつくに=本州)の名なり。第八に当たるたび(=八番目に)、天御虚空豊秋津根別(アマツミソ ラトヨアキヅネワケ)と云ふ神を生み給ふ。これを「大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキヅシマ)(=本州)」と名づく。

今は四十八ケ国に分かてり。中洲(なかつくに=ヤマトが)たりし上に、神武天皇東征より代々(よよ)の皇都なり。よりてその名を取りて、余(ほか)の七洲(=以下参照)をもすべて耶麻土と云ふなるべし。

唐土(もろこし=中国)にも、周の国より出でたりしかば、天下を周と云ふ。漢の地より起こりたれば、海内(かいだい)を漢と名付けしがごとし。

「耶麻土」と云へることは山迹(やまあと)と云ふなり。昔天地(あめつち)分かれて泥(でい)の潤ひいまだ乾かず、山をのみ往来としてその跡多かりければ 山迹と云ふ。或ひは古語に居住を止(と)と云ふ。山に居住せしによりて「山止(ヤマト)」なりとも云へり。

「大日本」とも「大倭」とも書くことは、この国に漢字伝はりて後、国の名を書くに字をば「大日本」(=或いは「大倭」)と定めてしかも「耶麻土(ヤマト)」と読ませたるなり。

(=オオヤマトと書くのは)大日孁(オオヒルメ=天照大神)のしろしめす御国なれば、その義(=意味)をも取れるか、はた日の出る所に近ければしか(= 「大日本」と)云へるか。義はかかれども字のまま「日のもと」とは読まず。「耶麻土」と訓(くん)ぜり。

わが国の漢字を訓ずること多くかくの如し。おのづから「日の本」など云へるは文字(もんじ)によれるなり。国の名とせるにあらず。

〔裏書に云ふ。(=憶良が唐から日本を思って)日の本と詠める哥、万葉(=0063)に云ふ。
いざ子供はや日のもとへ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらん〕

また古(いにし)へより「大日本」とも、もし(=もしくは)は「大」の字を加へず「日本」とも書けり。

洲(しま)の名を「大日本豊秋津(オオヤマトトヨアキヅ)」と云ふ。懿徳(いとく=第四代天皇)・孝霊(=第七代)・孝元(=第八代)等の御謚(おくり な)みな大日本(オオヤマト)の字あり。垂仁(すいにん=第十一代)天皇の御女(むすめ)大日本姫(ヤマトヒメ)と云ふ。これみな「大」の字あり。

天神(あまつかみ)饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、天の磐船(あまのいわふね)に乗り大虚(おおぞら)をかけりて「虚空見日本(そらみつヤマト)の国」 との給ふ。神武の御名、神日本磐余彦(カンヤマトイワレビコ)と号し奉る。孝安(=第六代天皇)を日本足(ヤマトタラシ)、開化(=第九代天皇)を稚日本 (ワカヤマト)とも号し、景行天皇の御子、小碓皇子(オウスオウジ)を日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と名づけ奉る。これらは「大」を加へざるなり。

彼此(かれこれ=大を付けても付けなくて)同じく「ヤマト」と読ませたれど大日孁(オオヒルメ)の義をとらば、「オオヤマト」と読みてもかなふべきか(=上述)。

その後漢土(=中国)より字書(=文献)を伝へける時、「倭(わ)」と書きてこの国の名に用ゐたるを、即ち領納(りょうなふ=了解)して、またこの字を 「耶麻土」と訓じて、「日本」の如くに大を加へてもまた除きても同じ訓(=ヤマト)に通用しけり。

漢土(=中国)より倭と名づけける事は、昔この国の人初めて彼の土(ど)に至れりしに、「汝が国の名をばいかが云ふ」と問ひけるを、「吾国は」と云ふを聞きて、即ち倭(わ)と名付けたりと見ゆ。

漢書(=前漢書)に、「楽浪の〈彼の土の東北に楽浪郡あり〉(=北畠親房の注)海中に倭人あり。百余国を分かてり」と云ふ。もし(=おそらく)前漢の時既に通じ(=交流)けるか〈一書には、秦の代より既に通ずとも見ゆ。下に記せり〉。

後漢書に、「大倭王は耶麻堆(やまたい)に居(きょ)す」と見えたり〈「耶麻堆(やまたい)」は「山と」なり〉。

これはもし(=おそらく)既にこの国(=日本)の使人(しじん)本国の例により「大倭(ヤマト)」と称するによりてかく記せるか

〈神功皇后の新羅・百済・高麗を従へ給ひしは後漢の末ざまに当たれり。即ち漢地にも通ぜられたりと見えたれば、文字も定めて伝はれるか。一説には秦の時より書籍を伝ふとも云ふ〉。

「大倭(ヤマト)」と云ふことは異朝にも領納して書伝(しょでん=書物)に載せたればこの国にのみ誉めて称するにあらず〈異朝に大漢・大唐など云ふは大きなりと称する心なり〉。

唐書(=新唐書)に「高宗、咸亨(かんこう=670-674)年中に倭国の使ひ初めて改めて日本(にほん)と号す。その国、東にあり。日の出づる所に近きを云ふ」と載せたり。この事わが国の古記(=記録)には確かならず。

推古天皇(592-628)の御時、唐土(もろこし)の隋朝より使ひありて書を送れりしに、「倭皇(わこう)」と書く。聖徳太子(574-622)自ら筆 を取りて、返牒(へんちょう=返書)を書き給ひしには、「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」とありき。彼の国よりは倭と書きたれど、返 牒には日本とも倭とも載せられず。

これより上代には牒ありとも見えざるなり。唐の咸亨の頃は天智(668-671)の御代に当たりたれば、実(まこと)には件(くだり=これ)の頃より「日本」と書きて送られけるにや。

またこの国をば「秋津洲(アキヅシマ)」と云ふ。神武天皇、国の形をめぐらし望み給ひて、「蜻蛉(あきづ)の臋咶(となめ=雌雄連結飛翔)の如くあるか な」との給ひしより、この名ありきとぞ。しかれど、神代(かみよ)に「豊秋津根」と云ふ名あれば、神武に始めざるにや。

この外もあまた名あり。「細戈(くわしほこ)の千足国(ちたるのくに)」とも、「磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)」とも、「玉垣の内国(たまがきのうちつくに)」とも云へり。

また「扶桑(ふそう)の国」と云ふ名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の出づる所なり」と見えたり。東にあれば、よそへて云へるか。この国に彼の木ありと云ふこと聞こえねば、確かなる名にはあらざるべし。

凡(およ)そ内典(=仏典)の説に須弥(しゅみ)と云ふ山あり。この山を巡りて七つの金山(こんせん)あり。その中間は皆な香水海なり。金山の外に四大海あり。

この海中に四大洲あり。洲(しま)ごとにまた二つの中洲(ちゅうしゅう)あり。南洲(みなみのしま)をば贍部(ぜんぶ)と云ふ〈また閻浮提(えんぶだい)と云ふ。同じ言葉の転なり〉。これは樹(うえき)の名なり。

南洲の中心に阿耨達(あのくたつ)と云ふ山あり。山頂に池あり〈阿耨達、ここには無熱(ぶねつ)と云ふ(=意味である)。外書(げしょ=仏典以外)に崑崘(こんろん)と云へるは即ちこの山なり〉。

池の傍らにこの樹(=贍部)あり。迊(めぐり)七由旬(ゆじゅん)、高さ百由旬なり〈一由旬とは四十里なり。六尺を一歩(ぶ)とす。三百六十歩を一里とす。この里をもちて由旬を計るべし〉。

この樹、洲の中心にありて最も高し。よりて洲の名とす。

阿耨達(あのくたつ)山の南は大雪山(だいせつせん=ヒマラヤ)、北は葱嶺(そうれい=パミール高原)なり。葱嶺の北は胡国(ここく=匈奴)、雪山の南は 五天竺(ごてんじく=インド)、東北によりては震旦国(しんたんこく)(=秦)、西北に当たりては波斯国(はしこく)(=ペルシア)なり。

この贍部(せんぶ)洲は縱横七千由旬、里をもちて数ふれば二十八万里。東海より西海に至るまで九万里。南海より北海に至るまでまた九万里。天竺(=イン ド)は正中(ただなか)に寄れり。依つて贍部の中国(ちゅうごく=中心)とすなり。地の廻りまた九万里。震旦広しと云へども五天(=インド)に並ぶれば一 辺の小国なり。

日本は彼の土(ど)を離れて海中にあり。北嶺(ほくれい=延暦寺)の伝教大師、南都(=興福寺)の護命僧正(ごみょうそうじょう)は「(日本は)中洲 (ちゅうしゅう)なり」と記されたり。しからば南洲と東洲との中なる遮摩羅(しゃもら)と云ふ洲なるべきにや。

華厳経に「東北の海中に山あり。金剛山と云ふ」とあるは大倭(ヤマト)の金剛山の事なりとぞ。さればこの国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別洲にして神明の皇統を伝へ給へる国なり。

同じ世界の中なれば、天地開闢の初めはいづくも変はるべきならねど、三国(=天竺、震旦、日本)の説、各々(おのおの)異なり。

天竺の説には、世の始まりを「劫初」(こうしょ)と云ふ

〈劫に成(じょう)住(じゅう)壊(え)空(くう)の四つあり(=成劫、住劫、壊劫、空劫)。各二十の増減(=プラス・マイナス)あり。一増一減を一小劫と云ふ。二十の増減を一中劫と云ふ。四十劫を合はせて一大劫と云ふ〉。

「光音」(こうおん)と云ふ天の衆(=天の住人)、空中に金色(こんじき)の雲を起こし、「梵天」(ぼんてん)に偏布(へんぷ)す。

即ち大雨(だいう)を降らす。「風輪」(ふうりん)の上につもりて「水輪」(すいりん)となる。増長して「天上」にいたれり。また大風ありて沫(あわ)を吹き立てて空中に投げおく。即ち「大梵天」の宮殿となる。

その水、次第に退下(たいげ)して「欲界」の諸宮殿、乃至(ないし)「須弥山」「四大洲」「鉄囲山」(てついせん)をなす。

かくて万億の世界同時に成る。これを「成劫」(じょうこう)と云ふなり〈この万億の世界を三千大千世界と云ふなり〉。

「光音」の天衆、下生(げしょう)して次第に住す。これを「住劫」(じゅうこう)と云ふ。

この「住劫」の間に二十の増減あるべしとぞ。その初めには人の身、光明遠く照して飛行自在なり。歓喜を以て食(じき=食物)とす。男女(なんにょ)の相(そう=形)なし。

後に地より甘泉(かんせん)涌出す。味わい酥密(そみつ)のごとし〈或ひは地味(=天の味ではない)とも云ふ〉。これを嘗めて味着(みちゃく=執着)を生ず。仍(よ)りて神通(=神通力)を失ひ、光明も消えて、世間大きに暗くなる。

衆生の報いしからしめければ、黒風、海を吹きて日月二輪(=月と太陽)を漂出す。須弥の半腹(=中腹)に於きて四天下(てんげ=四大洲=世間)を照らさしむ。

これより始めて昼夜・晦朔(かいさく=朝晩)・春秋あり。地味に耽りしより顔色(=天人らしさ)も、かじけ衰へき。地味また失せて「林藤」(りんどう)と云ふ物あり〈或ひは地皮とも云ふ〉。

衆生また食(じき)とす。林藤また失せて自然の秔稲(こうとう=うるちいね)あり。諸々の美味を備へたり。朝に刈れば夕べに熟す。この稲米を食せしによりて、身に残穢(ざんえ=汚物)出来ぬ。

この故に初めて二道(にどう=大便小便)あり。男女の相各々別にして、遂に婬欲(いんよく)のわざをなす。夫婦と名付け舎宅を構へて、共に住みき。

光音の諸天(=天衆)、後に下生(げしょう)する者、女人の胎中に入りて胎生の衆生となる。その後秔稲、生ぜず。衆生うれへ歎きて、各々境ひを分かち、田種(でんしゅ)を施し植ゑて食とす。

他人の田種をさへ奪ひ盗む者出来て互にうち争ふ。これを決する人なかりしかば、衆、共に計ひて一人の平等王を立て、名づけて「刹帝利」(せっていり)と云ふ〈田主(でんしゅ)と云ふ心なり〉。

その初めの王を「民主王」と号しき。十善の正法を行ひて国を治めしかば、人民これを敬愛す。閻浮提(えんぶだい=人間世界)の天下、豊楽安穏にして病患及び大寒熱あることなし。寿命も極めて久しく无量歳(むりょうざい)なりき。

民主の子孫相続して久しく君たりしが、漸く正法も衰へしより寿命も減じて八万四千歳に至る。身のたけ八丈なり。その間に王ありて転輪の果報を具足せり。

先づ天より金輪宝(=金の輪)飛び降りて王の前に現在す。王出で(=お出かけし)給ふことあれば、この輪、転行して、諸々の小王みな迎へて拝す。あへて違ふ者なし。即ち四大洲に主(あるじ)たり。

また象・馬(め)・珠(しゅ)・玉女・居士・主兵等の宝あり。この七宝成就するを「金輪王」(=転輪王の一人)と名づく。次々に銀・銅・鉄の転輪王あり。

(=四人の転輪王は)福力不同によりて果報も次第に劣れるなり。寿量(=寿命)も百年に一年を減じ、身のたけも同じく一尺を減じてけり。

百二十歳に当たれりし時、釈迦仏出で給ふ〈或ひは百才の時とも云ふ。これより先に三仏出で給ひき〉。

十歳に至らん頃ほひに小三災(=飢餓、疾病、刀兵)と云ふことあるべし。人種ほとほと尽きてただ一万人を余す。その人、善を行ひて、また寿命も増し、果報も進みて二万歳に至らん時、「鉄輪王」出でて南一洲を領すべし。

(=寿命が)四万歳の時、「銅輪王」出て東・南二洲を領す。

六万歳の時、「銀輪王」出でて東・西・南三洲を領し、八万四千歳の時「金輪王」出でて四天下を統領す。その報い上に云へるが如し(=七つの宝)。

彼の時また減(げん=マイナス)に向ひて弥勒仏出で給ふべし〈八万才の時とも云ふ〉。

こののち十八けの減増あるべし。かくて「大火災」と云ふこと起こりて、「色界」(=凡夫の世界)の初禅(=第一段階)の梵天まで焼けぬ。

三千大千世界、同時に滅尽する、これを「壊劫」(えこう)と云ふ。かくて世界、虚空黒穴のごとくなるを「空劫」と云ふ。

かくの如くすること七けの火災をへて「大水災」あり。このたびは第二禅まで壊(え)す。七々の火・七々の水災をへて「大風災」ありて第三禅まで壊す。これを「大の三災」と云ふなり。

第四禅已上(=以上)は内外の過患(かげん=煩悩)あることなし。この四禅の中に五天あり。四つ(=広果天、無想天、福生天、無雲天)は凡夫の住所、一つは浄居天(じょうごてん)とて証果(しょうか=悟り)の聖者の住処なり。

この浄居を過ぎて摩醯首羅(まけいしゅら)天王の宮殿あり〈大自在天とも云ふ〉。色界の最頂に居して大千世界を統領す。その天の広さ、彼の世界に渡れり〈下天も広狭に不同あり。初禅の梵天は一四天下(=四大洲)の広さなり〉。

この上に「無色界」の天あり。また四地を分かてりと云へり。これらの天は小大の災に遭はずと云へども、業力(=善業悪業に応じた力)に際限ありて報(=果報)尽きなば、退没(たいもつ=下界に落ちる)すべしと見えたり。

震旦(=中国)は殊(こと)に書契(しょけい=文字)を事とする(=重視する)国なれども、世界建立(=創世)を云へる事確かならず。

儒書には伏犠氏と云ふ王よりあなたをば云はず。但し異書の説に、混沌未分の形、天・地・人の初めを云へるは、神代の起りに相似たり。

或ひはまた盤古と云ふ王あり。「目は日月となり、毛髪は草木となる」と云へる事もあり。

それより下(しも)つかた、天皇(てんこう)・地皇・人皇・五竜(ごりよう)等の諸々(もろもろ)の氏うち続きて多くの王あり。その間数万歳を経たりと云ふ。

わが朝の初めは天神(あまつかみ)の種(しゅ)を受けて世界を建立する姿は、天竺の説に似たる方もあるにや。されどこれは天祖(あまつみおや)より以来 (このかた)継体(けいたい=継嗣)違はずして、ただ一種ましますこと天竺にもその類ひなし。

彼の国の初めの民主王も衆のために選び立てられしより相続せり。また世下りては、その種姓(しゅしょう)も多く滅ぼされて、勢力あれば、下劣の種も国主と なり、あまさへ(=あまつさへ)五天竺(=インド)を統領するやからもありき。震旦またことさら乱りがはしき国なり。

昔、世素直に道正しかりし時(=尭舜の時代)も、賢を選びて授くる跡(あと)ありしにより、一種を定むる事なし。乱世になるままに、力を持ちて国を争ふ。

かかれば民間より出でて位に居たるもあり。戎狄(じゅうてき)より起こりて国を奪へるもあり。或ひは累世(=代々)の臣としてその君をしのぎ、遂に譲りを得たるもあり。

伏犠氏の後、天子の氏姓を易(か)へたる事三十六。乱れの甚だしさ、云ふに足らざるものをや。

唯わが国のみ、天地(あめつち)開けし初めより今の世の今日に至るまで、日嗣(ひつぎ=皇位)を受け給ふこと邪(よこし)まならず。

一種姓の中に於きても、自ら傍はらより伝へ給ひしすら、猶ほ正(せい=本流)に返る道ありてぞ、保ちましましける。

これ、しかしながら、神明(=天照大御神)の御誓あらた(=あらたか)にして余国に異なるべき謂はれなり。抑(そもそ)も、神道の事はたやすく表はさずと云ふことあれば、根元を知らざれば乱りがはしき始めともなりぬべし。

そのつひえ(=弱点)を救はんために聊(いささ)か勒(ろく=文章)し侍り。

神代より正理(しょうり)にて受け伝へる謂はれを述べむことを志ざして、常に聞こゆる事をば載せず。しかれば神皇(じんのう)の正統記(しょうとうき)とや名づけ侍るべき。

神皇正統記 神

夫れ天地未だ分れざりし時、混沌として、円がれること雞子(とりのこ)の如し。くぐもりて牙(きざし=芽)を含めりき。

これ陰陽の元初(=元素)未分の一気(=一体となった気)なり。その気、始めて分かれて清く明らかなるは、棚びきて天と成り、重く濁れるは続いて地(つち)となる。

その中より一物(ひとつのもの)出でたり。かたち葦牙(あしかび=葦の芽)の如し。即ち化して神となりぬ。「国常立尊」(クニノトコタチノミコト)と申す。または「天御中主神」(アマノミナカヌシノカミ)とも号し奉つる。

この神に木火土金水の五行の徳まします。

先づ水徳の神に(=神となって)現れ給ふを「国狭槌尊」(クニノサツチノミコト)と云ふ。次に火徳の神を「豊斟渟尊」(トヨクムノミコト)と云ふ。天の道 一人なす(=夫婦でない)。故に純男(=童貞)にてます〈純男と云へどもその相(=男の持物)ありとも定めがたし〉。

次に木徳の神を「泥土瓊尊」(ウイジニノミコト)「沙土瓊尊」(スイジニノミコト)と云ふ。

次に金徳の神を「大戸之道尊」(オオトノジノミコト)「大苫辺尊」(オオトマベノミコト)と云ふ。

次に土徳の神を面足尊(オモタルノミコト)・惶根尊(カシコネノミコト)と云ふ。天地の道、相交はりて、各々陰陽の形あり。しかれどその振る舞ひ(=交合)なしと云へり。

この諸々の神まことには国常立(クニノトコタチ)の一柱の神にましますなるべし。五行の徳、各々神と現れ給ふ。これを六代とも数ふるなり。二世三世の次第 (=順序)を立つべきにあらざるにや(=全部合わせて六代だがその中の順序はない)。

次に化生(けしょう=生まれ出る)し給へる神を「伊弉諾尊」(イザナギノミコト)・「伊弉冊尊」(イザナミノミコト)と申す。これは正しく陰陽の二つに分 かれて造化の元(はじめ)となり給ふ。上の五行は一つづつの徳なり。この五徳をあはせて(=この二神に五徳が備わって)万物を生ずる初めとす。

ここに天祖(あまつみおや)、国常立尊(クニノトコタチノミコト)、伊弉諾(イザナギ)・伊弉冊(イザナミ)の二柱の神に勅(みことのり)しての給はく、 「豊葦原千五百秋瑞穂地(トヨアシハラノチイオアキノミズホノクニ)(=日本国)あり。汝(いまし)往きて知らす(=支配す)べし」とて、即ち天瓊矛(あ まのぬほこ)を授け給ふ。

この矛または天の逆矛(さかほこ)とも、天魔返(あまのさか)ほことも云へり。二神この矛をさづかりて、天の浮橋の上にたたずみて、矛をさしおろしてかき さぐり給ひしかば、滄海(あおうなばら)のみありき(=国はなく海だけだった)。

その矛の先よりしたたりおつる潮(しほ)凝(こ)りて一つの島となる。これを磤馭盧島(おのごろじま=淡路島の南の小島か)と云ふ。

この名に付きて秘説あり。神代、梵語(=「おんころころ」)にかよへるか。その所も明らかに知る人なし。大日本(ヤマト)の国、宝山(ほうせん=大阪と奈良の境の葛城山)なりと云ふ〈口伝あり〉。

二神この島(=オノコロジマ)に降り居(まし)て、即ち国の中の御柱を建て、八尋(やひろ)の殿を化作(けさく)して共にすみ給ふ。さて陰陽和合(わがふ)して夫婦の道あり。

この矛は伝へて、天孫(アマミマ=ニニギ)従へて天降り給へりとも云ふ。

また垂仁天皇の御宇に、大和姫の皇女、天照大神の御教へのままに国々を巡り、伊勢の国に宮所を求め給ひし時、大田命(オオタノミコト)と云ふ神まゐりあひ て、五十鈴(いすず)の河上に霊物(れいもつ=矛)を守り置ける所を示し申ししに、彼の天の逆矛・五十鈴・天宮(あめのみや)の図形(=絵柄)ありき。大 和姫命悦びて、その所を定めて、神宮を建てらる。

霊物(=矛)は五十鈴の宮(=内宮)の酒殿に納められきとも、また、滝祭神(タキマツリノカミ=五十鈴川の神)と申すは竜神なり、その神預りて地中に納め たりとも云ふ。一つには大和の竜田神(タツタノカミ)はこの滝祭と同体にます、この神の預り給へるなり、よりて天柱国柱(アマノミハシラクニノミハシラ) と云ふ御名ありとも云ふ。

昔、磤馭盧島(おのころじま)に持ちて下り給ひしことは明らかなり。世に伝ふと云ふ事は覚束なし。

天孫(アマミマ)の従へ給ひしならば、神代より三種の神器のごとく伝へ給ふべし。さし離れて、五十鈴の河上にありけんも覚束なし。

但し天孫も玉矛は自ら従へ給ふと云ふこと見えたり〈古語拾遺の説なり〉。しかれど矛も大汝神(オオナムチノカミ=大国主)の奉らるる国を平らげし矛もあれば、いづれと云ふ事を知りがたし。

宝山(ほうせん=葛城山)に留まりて不動の印(=不動明王の剣)となりけんことや正説なるべからん。竜田も宝山ちかき所なれば、竜神を天柱国柱(アマノミ ハシラクニノミハシラ)と云へるも、深秘の心あるべきにや〈凡そ神書に様々の異説あり〉。

日本紀・旧事本紀(くじほんぎ)・古語拾遺等に載せざらん事は末学の輩ひとへに信用しがたかるべし。彼の書の中、猶一決せざること多し。況(いはん)や異書におきては正とすべからず。

かくて、この二柱の神、相ひ計らひて八つの島を生み給ふ。先づ、淡路の洲(しま=1淡路島)を生みます。淡路穂之狭別(アワジノホノサワケ)と云ふ。

次に、伊与の二名(ふたな)の洲(=2四国)を生みます。一つの身に四つの面あり。一つを愛比売(えひめ)と云ふ、これは伊与なり。二つを飯依比売(いい よりひめ)と云ふ、これは讚岐なり。三つを大宜都比売(おおげつひめ)と云ふ、これは阿波なり。四つを速依別(はやよりわけ)と云ふ、これは土左なり。

次に、筑紫の洲(=3九洲)を生みます。また一つの身に四つの面あり。一つを白日(しらひ)の別(わけ)と云ふ、これは筑紫なり。

後に筑前・筑後と云ふ。二つを豊日別(とよひわけ)と云ふ、これは豊国(とよくに)なり。後に豊前・豊後と云ふ。

三つを昼日別(ひるひわけ)と云ふ、これは肥の国なり。後に肥前・肥後と云ふ。

四つを豊久士比泥別(とよくじひねわけ)と云ふ、これは日向(ひむか)なり。後に日向・大隅・薩摩と云ふ〈筑紫・豊国・肥の国・日向と云へるも、二神の御代の始めの名には非らざるか〉。

次に、壱岐の国(4)を生みます。天比登都柱(アマヒトツハシラ)と云ふ。次に、対馬の洲(5)を生みます。天之狭手依比売(アマノサデヨリヒメ)と云 ふ。次に、隠岐の洲(6)を生みます。天之忍許呂別(アマノオシコロワケ)と云ふ。次に、佐渡の洲(7)を生みます。建日別(タケヒワケ)と云ふ。次に、 大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキヅシマ=8本州)を生みます。天御虚空豊秋津根別(アマツミソラトヨアキヅネワケ)と云ふ。

すべてこれを大八洲(おおやしま)と云ふなり。この外あまたの島を生み給ふ。後に海山の神、木の祖(おや)、草の祖までことごとく生みましてけり。

いづれも神にましませば、生み給へる神の洲(しま)をも山をも作り給へるか。はた洲山を生み給ふに神の現れましけるか(=神が先に生まれて自分の名前の島 を作ったのか、島が先に生まれて同じ名前の神が現れたのか)、神世のわざなれば、まことに測りがたし。

二柱の神また計ひての給はく、「我既に大八洲の国及び山川草木を生めり。いかでか天の下の君たる者を生まざらむや」とて、まづ日神(ヒノカミ)を生みま す。この御子、光うるはしくして国の内に照り通る。二神悦びて天に送りあげて、天上の事を授け給ふ。

この時、天地、相去ること遠からず。天の御柱を以て(=日神を)上げ給ふ。これを大日孁尊(オオヒルメノミコト)と申す〈孁(れい)の字は霊と通ずべきな り。陰気を霊と言ふとも云へり。女神(=陰神)にましませば自から相叶ふにや(=霊の文字が合っている)〉。また天照大神とも申す。女神にてましますな り。

次に、月神(ツキノカミ)を生みます。その光、日に継げり。天にのぼせて夜の政(まつりごと)を授け給ふ。

次に、蛭子(ヒルコ)を生みます。三歳になるまで脚立たず。天の磐樟(いはくす)船に乗せて風のまま放ち捨つ。

次に、素戔烏尊(スサノオノミコト)を生みます。勇み猛く不忍(いぶり=乱暴)にして父母(かぞいろ)の御心に叶はず。「根の国(=黄泉)に去(い)ね」との給ふ。この三柱は男神(おがみ)にてまします。

よりて一女三男と申すなり。全てあらゆる神みな二神の所生(しょしょう)にましませど、国の主たるべしとて生み給ひしかば、ことさらにこの四柱の神を申し伝へけるにこそ。

その後、火神(ひのかみ)軻倶突智(カグツチ)を生みましましし時、陰神(めがみ)焼かれて神退(かんさり=死んだ)給ひにき。

陽神(おがみ)恨み怒りて、火神を三段に斬る。その三段各々神となる。血の滴りもそそいで神となれり。経津主神(フツヌシノカミ)〈斎主神(イワイヌシノ カミ)とも申す。今の檝取神(カトリノカミ)〉健甕槌神(タケミカヅチノカミ)〈武雷神とも申す。今の鹿島の神〉の祖なり。

陽神、猶、慕(した)ひて黄泉(よみのくに)までおはしまして様々のちかひ(=呪いと誓い)ありき。陰神恨みて「この国の人を一日に千頭(ちがしら)ころ すべし」との給ければ、陽神は「千五百頭(ちいほがしら)を生むべし」との給けり。

よりて百姓をば天益人(あまのますびと)とも云ふ。死ぬる者よりも生ずる者多きなり。

陽神帰り給ひて、日向(ひむか)の小戸の川、檍原(あわぎがはら)と云ふ所にて禊(みそ)ぎし給ふ。

この時あまたの神、化生し玉へり。日と月の神もここにて生まれ給ふと云ふ説あり。伊弉諾尊、神功(かむこと=神の功業)既に終はりければ、天上に昇り、天祖(あまつみおや)に報命(かへりごと)申して、即ち天に留まり給ひけりとぞ。

或る説に伊弉諾・伊弉冊は梵語なり、伊舎那天(いしゃなてん)・伊舎那后(いしゃなくう)なりと云ふ。

○地神(ちじん)第一代、大日孁尊(オオヒルメノミコト)。これを天照大神と申す。または日神(ヒノカミ)とも皇祖(スメミオヤ)とも申すなり。

この神の生れ給ふこと三つの説あり。

一つには伊弉諾・伊弉冊尊あひ計らひて、天下(あめのした)の主を生まざらんやとて、先づ、日神を生み、次に、月神、次に、蛭子、次に、素戔烏尊を生み給ふと云へり。

または伊弉諾尊、左の御手に白銅(ますみ)の鏡を取りて、大日孁尊(オオヒルメノミコト)を化生し、右の御手に取りて月弓尊(ツキユミノミコト)を生み、御首(こうべ)を廻らしてかへりみ給ひし間に、素戔烏尊を生むとも云へり。

また伊弉諾尊、日向の小戸の川にて禊ぎし給ひし時、左の御眼を洗ひて天照大神を化生し、右の御眼を洗ひて月読尊(ツキヨミノミコト)を生じ、御鼻を洗ひて素戔烏尊を生じ給とも云ふ(=古事記の説)。

日と月の神の御名も三つ(=日神・大日孁尊・天照大神、月神・月弓尊・月読尊)あり、化生の所も三つ(=二神、鏡、左右の目)あれば、凡慮(ぼんりよ)は かりがたし。またおはします所も、一つには高天原(たかまのはら=天上)と云ひ、二つには日の小宮(ひのわかみや=天上の宮)と云ひ、三つにはわが日本 (ヤマト)の国これなり。

八咫(やた)の御鏡をとらせましまして、「(=この鏡を)われをみるが如くにせよ」と(=天照大神が)勅し給ひけること、和光(=あらゆる物に生まれ変つ て世を救ふ)の御誓も現れて、ことさらに深き道あるべければ、三所に勝劣の義をば存ずべからざるにや。

爰(ここ)に、素戔烏尊、父母(かぞいろ)二柱の神にやらはれて「根の国」に下り給へりしが、天上に詣でて姉の尊(=天照大神)に見え奉りて、「ひたぶる に去なん」と申し給ければ、「許しつ」との給ふ。よりて天上に昇ります。大海とどろき、山丘鳴り吠えき。この神の性(さが)猛きがしからしむるになむ。

天照大神、驚きましまして、兵(つわもの)の備へをして待ち給ふ。彼の尊、汚き心なきよしをおこたり(=弁明し)給ふ。「さらば誓約(うけい=占い)をな して、清きか、汚きかを知るべし。誓約の中に女を生ぜば、汚き心なるべし。男を生ぜば、清き心ならん」とて、素戔烏尊の奉られける八坂瓊(やさかに)の玉 を取り給へりしかば、その玉に感じて男神、化生し給ふ。素戔烏尊、悦びて、「まさや吾勝ちぬ」との給ける。よりて御名を正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサ ヤ・アカツ・カツノ・ハヤヒ・アマノオシホミミ・ノミコト)と申す〈これは古語拾遺の説〉。

またの説には、素戔烏尊、天照大神の御首に掛け給へる御統(みすまる)の瓊玉(にのたま)を乞ひ取りて、天真名井(あまのまない)にふり濯(すす)ぎ、こ れを噛み給ひしかば、先づ吾勝尊(アカツノミコト)生まれまします。その後猶四柱の男神生れ給ふ。

「物の核(さね)我が物なれば我が子なり」とて、天照大神の御子になし給ふと云へり〈これは日本紀の一説〉。この吾勝尊をば大神「めぐし」と思して、つね に御脇元に据ゑ給ひしかば、腋子(わきこ)と云ふ。今の世に幼き子を「わかこ」と云ふは僻事(ひがごと)なり。

かくて、素戔烏尊なほ天上にましけるが、様々の咎を犯し給ひき。天照大神怒りて、天の石窟(いわや)に篭もり給ふ。国の内、常闇(とこやみ)になりて、昼夜の弁(わきま)へなかりき。諸々の神達うれへ歎き給ふ。

その時、諸神の上首にて高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)と云ふ神ましましき。

昔、天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト=国常立尊)、三柱の御子おはします。長を高皇産霊とも云ひ、次をば神皇産霊(カミムスビ)、次を津速産霊(ツ ハヤムスビ)と云ふと見えたり。陰陽二神こそ初めて諸神を生じ給ひしに、直(じき=単独)に天御中主(アマノミナカヌシ)の御子と云ふこと覚束なし。〈こ の三柱を天御中主の御子と云ふ事は日本紀には見えず。古語拾遺にあり〉。

この神(=タカミムスビ)、天の安川のほとりにして、八百万(やおよろず)の神を集(つど)へて相ひ議し給ふ。その御子にて思兼(オモヒカネ)と云ふ神の 謀(たばか)りにより、石凝姥(イシコリドメ=鏡作りの神)と云ふ神をして日神の御形の鏡を鋳せしむ。

その初め成りたりし鏡、諸神の心に合はず〈紀伊の国日前(ひのくま)の神にます〉。次に鋳給へる鏡麗しくしくましましければ、諸神悦びあがめ給ふ〈初めは皇居にましましき。今は伊勢国の五十鈴の宮に居つかれ給ふ、これなり〉。

また、天明玉神(アマノアカルタマノカミ)をして、八坂瓊玉(やさかにのたま)を作らしめ、天日鷲神(アマノヒワシノカミ)をして、青幣・白幣(あおにぎ て・しらにぎて)を造らしめ、手置帆負(タオキホオイ)・彦狭知(ヒコサシリ)の二神(=工匠の神)をして、大峡・小峡(おおかい・おかい=あちこち)の 材(き)を切りて瑞殿(みづのみあらか)を造らしむ〈このほか種々(くさぐさ)あれど記さず〉。

その物(=必要な物)既に備はり(=準備)にしかば、天香山(あまのかぐやま)の五百箇(いおつ)の真賢木(まさかき)を根こじ(=根こそぎ)にして、上 (かみ)つ枝(え)には八坂瓊の玉をとり掛け、中つ枝には八咫(やた)の鏡をとり掛け、下つ枝には青和幣・白和幣をとり掛け、天太玉命(アマノフトダマノ ミコト)〈高皇産霊神の子なり〉をして捧げ持たらしむ。

天児屋命(アメノコヤネノミコト)〈津速産霊(ツハヤムスビ)の子、或ひは孫とも。興台産霊(ココトムスビ)の神の子なり〉をして祈祷せしむ。

天鈿女命(アマノウズメ)、真辟(まさき)の葛(かづら)を鬘(かづら)にし、蘿葛(ひかげのかづら)を手襁(たすき)にし、竹の葉、飫鴰木(おけのき) の葉を手草(たぐさ)にし、差鐸(さなぎ)の矛をもちて、石窟の前にして俳優(わざおぎ=歌い舞う)をして、相ひ共に歌ひ舞ふ。

また庭燎(にわひ)を明らかにし、常世の長鳴鳥を集へて、互ひに長鳴きせしむ〈これはみな神楽の起りなり〉。

天照大神、聞こし召して、「我このごろ石窟に隠れをり。葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)は常闇ならん。いかんぞ、天鈿女命(アマノウズメ)かく笑らぐするや」と思して、御手をもて細めに開けて見給ふ。

この時に、天手力雄命(アマノ・タヂカラオノミコト)と云ふ神〈思兼の神の子〉磐戸の脇に立ち給ひしが、その戸を引き開けて新殿に移し奉る。

中臣の神〈天児屋命なり〉忌部(いんべ)の神〈天太玉命なり〉「しりくへなは」(=しめ縄)を〈日本紀には端出之縄と書けり。注には左り縄の端出だせると 云ふ。古語拾遺には日御縄(ひのみなわ)と書く。これ日影の像(かたち)なりと云ふ〉引き回らして「な帰りましそ」と申す。

上天初めて晴れて、諸々共に相ひ見る。面(おもて)皆明らかに白し。手をのべて哥ひ舞ひて、

「あはれ〈天の明らかなるなり〉。あな、おもしろ〈古語にいとせつなるをみな『あな』と云ふ。面白、諸々のおもて明らかに白きなり〉。あな、たのし。あ な、さやけ〈竹の葉の声〉。おけ〈木の名なり。その葉を振る声なり。天鈿女の持ち給へる手草なり〉」

かくて、罪を素戔烏尊に寄せて、負ほするに千座(ちくら)の置戸(おきど=押込め)をもて、首(こうべ)の髪、手足の爪を抜きて贖(あが)はしめ、その罪を払ひて神やらひ(=追放)に遣(や)らはれき。

彼の尊(=スサノウ)、天より下りて、出雲の簸(ひ)の川上と云ふ所に至り給ふ。その所に一人の翁と姥(うば)とあり。一人の少女(をとめ)を据ゑてかき撫でつつ泣きけり。素戔烏尊「たそ」と問ひ給ふ。

「われはこれ国つ神なり。脚摩乳(あしなつち)・手摩乳(てなつち)と云ふ。この少女はわが子なり。奇稲田姫(くしいなだひめ)と云ふ。先に八ケの少女あ り。年毎に八岐(やまた)の大蛇(おろち)のために飲まれき。今この少女また飲まれなんとす」と申しければ、尊、「我にくれんや」との給ふ。

「勅(みことのり)のままに奉る」と申しければ、この少女を湯津(ゆつ)のつま櫛にとりなし(=形を変へ)、みづら(=髪)にさし、八塩折(やしほをり=極上)の酒を八つの槽(ふね)に盛りて待ち給ふに、はたして彼の大蛇来たれり。

頭(かしら)各々一つの槽(ふね)に入れて飲み酔ひて眠りけるを、尊、佩(は)かせる十握(とつか)の剣を抜きてづたづたに切りつ。尾に至りて剣の刃すこし欠けぬ。

裂きて見給へば一つの剣あり。その上に雲気ありければ、天の叢雲の剣と名づく〈日本武尊に至りて改めて「草なぎの剣」と云ふ。それより熱田の社にます〉。

「これあやしき剣なり。われ、なぞ、あへて私に置けらんや」との給ひて、天照大神に奉り上げられにけり。その後、出雲の清(すが)の地に至り、宮を建てて、稲田姫と住み給ふ。

大己貴神(オオアナムチノカミ=大国主神)〈大汝(オオナムチ)とも云ふ〉を生ましめて、素戔烏尊は遂に根の国に出でましぬ。

大汝の神、この国に留まりて〈今の出雲の大神にます〉天下を経営し、葦原の地を領じ給ひけり。よりてこれを大国主神(オオクニヌシノカミ)とも大物主(オ オモノヌシ)とも申す。その幸魂・奇魂(さきたま・くしたま=霊魂)は大和の三輪の神にます。

○第二代、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサヤ・アカツカツノ・ハヤヒ・アマノ・オシホミミノ・ミコト=アカツノミコト)。高皇産霊尊(タカミムスビ)の女 (むすめ)栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)に会ひて、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)・瓊々杵尊(ニニギノミコト)を生ましめ給ひて、吾勝尊 (アカツノミコト)葦原中洲(あしはらのなかつくに)に下りますべかりしを、御子生み給ひしかば、「かれ(=子供たち)を下すべし」と申し給ひて、天上に 留まります。

まづ、饒速日尊を下し給ひし時、外祖高皇産霊尊(タカムスビ)、十種(とくさ)の瑞宝(みずたから)を授け給ふ。瀛都鏡(おきつのかがみ)一つ、辺津鏡 (へつのかがみ)一つ、八握剣(やつかのつるぎ)一つ、生玉(いくたま)一つ、死反玉(しにかへりのたま)一つ、足玉(たるたま)一つ、道反玉(みちがへ しのたま)一つ、蛇(へみ)の比礼(ひれ=布)一つ、蜂の比礼一つ、品物(くさぐさのもの)の比礼一つ、これなり。

この尊(=ニギハヤヒ)早く神去り(=死去)給ひにけり。凡そ国の主(あるじ)とては(=ニギハヤヒを)下し給はざりしにや。

吾勝尊(アカツノミコト)下り給ふべかりし時、天照大神三種の神器を伝へ給ふ。後にまた瓊々杵尊(ニニギノミコト)にも授けましまししに、饒速日尊はこれ を得給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし〈このこと旧事本紀の説なり。日本紀には見えず〉。

天照大神・吾勝尊は天上に止まり給へど、地神の第一、二に数へ奉る。その始め天の下の主たるべしとて生まれ給ひし故にや。

○第三代、天津彦々火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホ・ニニギノミコト)。天孫(アマミマ)とも皇孫(スメミマ)とも申す。

皇祖(スメミオヤ)天照大神・高皇産霊尊(タカミムスビ)(=がニニギを)いつきめぐみましましき。葦原の中洲の主として天降(あまくだし)給はんとす。

ここにその国、邪神(あしきかみ)在て、容易く下り給ふこと難かりければ、天稚彦(アメワカヒコ)と云ふ神を下して見せしめ給ひしに、大汝(オオナムチ)の神の女、下照姫(シタテルヒメ)に嫁ぎて、返り事申さず。三歳になりぬ。

よりて名無し雉(きぎし)を遣はして見せられしを、天稚彦射殺しつ。その矢天上に昇りて大神の御前にあり。血に塗れたりければ、怪(あや=不審)め給ひ て、投げ下されしに、天稚彦、新嘗(=新穀を食す)して臥せりける胸に当たりて死す。世に「返し矢」を畏むはこの故なり。

さらにまた下さるべき神を選ばれし時、経津主命(フツヌシ)〈檝取(カトリ)の神にます〉、武甕槌(タケミカズチ)の神〈鹿島の神にます〉勅(みことのり)を受けて下りましけり。

出雲の国に至り、佩(は)かせる剣を抜きて、地に突き立て、その上にゐて、大汝(オオナムチ)の神に大神の勅を告げしらしむ。その子都波八重事代主(ツミ ハヤエ・コトシロヌシ)の神〈いま葛木の鴨にます〉あひ共(=親子ともに)に従がひ申す。

また次の子、健御名方刀美神(タケミナカタトミノカミ)〈いま諏訪の神にます〉従はずして、逃げ給ひしを、諏訪の湖まで追ひて攻められしかば、また従ひぬ。

かくて(=ニ神は)諸々の悪き神をば罪なへ(=罰して)、服(まつろ)へるをば褒めて、天上に昇りて返り事申し給ふ。大物主(=オオナムチ)の神〈大汝の 神はこの国を去り、やがて隠れ給ふと見ゆ。この大物主は先に云ふ所の三輪の神にますなるべし〉事代主神(コトシロヌシ)、相共に八十万(やそよろず)の神 を率ゐて、天(あめ)に詣づ。大神ことに褒め給ひき。「宜しく八十万の神を領じて皇孫(=ニニギ)を守りまつれ」とて、先づ返し下し給けり。

その後、天照大神、高皇産霊尊(タカミムスビ)、相ひ計らひて皇孫を下し給ふ。八百万(やおよろず)の神、勅を承はりて御供に仕(つかうまつ)る。

諸神の上首(じょうしゅ)三十二神あり。その中に五部(イツトモノオ)の神と云ふは、天児屋命(アメノコヤネ)〈中臣の祖(おや)〉天太玉命(フトタマ) 〈忌部の祖〉天鈿女命(アマノウズメ)〈猿女(さるめ)の祖〉石凝姥命(イシコリドメ)〈鏡作りの祖〉玉屋命(タマノヤ)〈玉作りの祖〉なり。

この中にも中臣・忌部の二柱の神はむねと神勅(しんちょく)を受けて皇孫を助け守り給ふ。

また三種(みくさ)の神宝(かむたから)を(=アマテラスが)授けまします。先づあらかじめ、皇孫に勅して曰く、

「葦原千五百秋瑞穂国(アシハラノチイオアキノミズホノクニ)は、これ吾が子孫(うみのこ)の主(きみ)たるべき地(ところ)なり。爾(いまし)皇孫(す めみま)、就いて治(しら)すべし。さきく行き給へ。宝祚之(あまつひつぎ=皇位)の隆(さか)えまさむこと当(まさ)に天壌(あめつち)と窮まりなかる べし」

また大神、御手に宝鏡を持ち給ひ、皇孫に授け祝(ほき)て、

「吾が児、この宝の鏡を視ること当になほ吾を視るがごとくすべし。ともに床を同じくし殿(みあらか)を共(ひとつに)して斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」との給ふ。八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を加へて三種とす。

また「この鏡の如くに分明(ふんみょう)なるを以て、天下に照臨(しょうりん)し給へ。八坂瓊の広がれるが如く曲妙(たくみなるわざ)を以て天下をしろし めせ。神剣をひきさげては順(まつろ)はざるものを平らげ給へ」と勅ましましけるとぞ。この国の神霊(しんれい)として、皇統一種正しくまします事、まこ とにこれらの勅に見えたり。

三種の神器世に伝ふること、日月星の天にあるに同じ。鏡は日の体なり。玉は月の精なり。剣は星の気なり。深き習(ならい=謂われ)あるべきにや。

抑(そもそ)も、彼の宝鏡は先に記し侍る石凝姥命(イシコリドメノミコト)の作り給へりし八咫の御鏡〈八咫に口伝あり〉、

〔裏書に云ふ。咫は説文に云ふ。中の婦人の手の長さ八寸、これを咫といふ。周尺なり。但し、今の八咫の鏡の事は別に口伝あり。〕

玉は八坂瓊(ヤサカニ)の曲玉、玉屋の命〈天明(あめのあかる)玉とも云ふ〉作り給へるなり〈八坂にも口伝あり〉。剣は素戔烏命の得給ひて、大神に奉られし叢雲剣なり。

この三種につきたる神勅(しんちょく)は正しく国を保ちますべき道なるべし。

鏡は一物(いちもつ)を蓄へず。私(わたくし)の心なくして、万象を照らすに是非善悪の姿現れずと云ふことなし。その姿に従ひて感応するを徳とす。これ正 直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源なり。

この三徳を翕受(あわせうけ)ずしては、天下の治まらんことまことにかたかるべし。神勅明らかにして、詞(ことば)つづまやかにむねひろし。あまさへ神器に現れ給へり。いとかたじけなき事をや。

中にも鏡を本(もと=根本)とし、宗廟(=伊勢神宮)の正体(しょうたい)と仰ふがれ給ふ。鏡は明(めい)を形とせり。心性(しんしょう)明らかなれば、 慈悲決断はその中にあり。また正しく御影(=天照大御神の姿)を映し給ひしかば、深き御心をとどめ給ひけんかし。天にある物、日月より明らかなるはなし。 仍りて文字を制(=定める)するにも「日月を明とす」と云へり。

わが神、大日(だいにち=大日如来)の霊(みたま)にましませば、明徳をもて照臨し給ふこと陰陽におきて測りがたし。冥顕(みょうけん=冥界と顕界)につ きて頼みあり。君も臣も神明の光胤(こういん)を受け、或ひはまさしく勅を受けし神達の苗裔なり。誰かこれを仰ふぎ奉らざるべき。この理(ことわり)を悟 り、その道にたがはずは、内外典(ないげてん=仏書儒書)の学問もここにきはまるべきにこそ。

されど、この道(=国体)のひろまるべき事は内外典流布の力なりと云ひつべし。魚を得ることは網の一目(いちもく)に依るなれど、衆目の力なければこれを得ることかたきが如し。

応神天皇の御代より儒書を広められ、聖徳太子の御時より、釈教を盛りにし給ひし、これ皆権化の神聖(かみ)にましませば、天照大神の御心を受けてわが国の道を広め深くし給ふなるべし。

かくてこの瓊々杵尊(ニニギノミコト)、天降りまししに猨田彦(サルタヒコ)と云ふ神まゐり会ひき〈これはちまたの神なり〉。(=サルタヒコが)照り輝き て目を合はする神なかりしに、天鈿目(=天鈿女ニニギに同行するアマノウズメ)の神行き会ひぬ。

また(=アマノウズメが)「皇孫いづくにか至りましますべき」と問ひしかば、「筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)の峯(たけ)にましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上に至るべし」と申す。

彼神の申しのままに、(=ニニギは)槵触(くしふる)の峯にあま下りて、しづまり給ふべき所を求められしに、事勝(コトカツ)・国勝(クニカツ)と云ふ神 〈これも伊弉諾尊の御子、または塩土老翁(シオツチノオジ)と云ふ〉参りて、「わがゐたる吾田(あた)の長狭(ながさ)の御崎なんよろしかるべし」と申し ければ、その所に住ませ給ひけり。

ここに山の神大山祇(オオヤマツミに)、二人の女(むすめ)あり。姉を磐長姫(イワナガヒメ)と云ふ〈これ磐石(ばんじゃく)の神なり〉、妹を木花開耶姫 (コノハナノサクヤヒメ)と云ふ〈これは花木の神なり〉。(=ニニギが)二人を召し見給ふ。

姉は貌(かたち)醜くかりければ返しつ。妹をとどめ給ひしに、磐長姫恨み怒りて、「我をも召さましかば、世の人は命長くて磐石の如くあらまし。ただ妹を召 したれば、生めらん子は木の花の如く散り落ちなむ」と呪(とこ)ひけるによりて、人の命は短くなれりとぞ。

木花開耶姫、召されて一夜に孕みぬ。天孫(=ニニギ)の怪(あや=疑う)め給ひければ、腹立ちて無戸室(うつむろ=戸がない部屋)を作りて籠りゐて、自ら 火を放ちしに、三人の御子生れ給ふ。炎の起こりける時、生れますを火闌降命(ホノスソリノミコト)と云ふ。火の盛りなりしに生ますを火明命(ホアカリノミ コト)と云ふ。後に生ますを火々出見尊(ホホデミノミコト=彦火火出見尊)と申す。

この三人の御子をば火も(=は)焼かず、母の神も損なはれ給はず。父の神悦びましましけり。この尊(=ニニギ)、天下を治め給ふ事三十万八千五百三十三年と云へり。

これより先、天上に留まります神達の御事は年序(ねんじょ)測りがたきにや。天地分かれしより以来の事、幾年を経たりと云ふことも見えたる文なし。

抑も、天竺の説に、人寿無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時〈或百才とも〉釈迦仏出で給ふと云へる、この仏、出世は鸕 鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト=ヒコホホデミノミコトの子)の末ざまの事なれば〈神武天皇元年辛酉(かのととり)、仏滅の後二百九十年に当た る。これより上は数ふ(=逆算す)べきなり〉、百年に一年を増してこれを計るに、この瓊々杵尊(ニニギノミコト)の初めつかたは迦葉仏(かしょうぶつ)の 出で給ひける時にや当たり侍らん。人寿二万歳の時、この仏は出で給ひけりとぞ。

○第四代、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)と申す。

御兄火闌降命(ホノスソリノミコト)、海の幸(=収穫)ます。この尊は山の幸ましけり。試みに相ひ代へ給ひしに、各々その幸なかりき。(=兄は)弟の尊の 弓箭(ゆみや)に魚の釣鉤(つりばり)を換へ給へりしを、弓箭をば返しつ。弟の尊、鉤(つりばり)を魚に食はれて失ひ給けるを、(=兄が)あながちに攻め 給ひしに、(=弟は)せんすべなくて海辺にさまよひ給ひき。

塩土老翁(シオツチノオジ)〈この神の事先に見ゆ〉まゐりあひて、憐れみ申して、謀を廻らして、海の神、綿積(わたつみ)の命〈小童(しょうとう)とも書けり〉の所に送りつ。

その女を豊玉姫(トヨタマヒメ)と云ふ。天神(あまつかみ)の御孫にめで(=惚れ)奉りて、父の神に告げてとどめ申しつ。遂にその女とあひ住み給ふ。三歳 ばかりありて故郷(もとつくに)を思す御気色ありければ、その女、父に云ひ合はせて返し奉る。

(=海の神は)大き小さき鱗(いろくず=魚)を集へて問ひけるに、口女(くちめ)と云ふ魚、やまひありとて見えず。しひて召し出づれば、その口はれたり。 これを探りしに、失せにし鉤(つりばり)を探り出づ〈一つには赤女(あかめ)と云ふ。またこの魚は「なよし」と云ふ魚と見えたり〉。

海の神、戒めて、「口女いまより釣り(=えさ)食ふな。また天孫の饌(おも)のに参るな」となん云ひふくめける。また海神、干珠(ひるたま)満珠(みつたま)を(=弟の尊に)奉りて、兄(このかみ)を従へ給ふべき形を教へ申しけり。

さて故郷(もとつくに)に帰りまして鉤(つりばり)を返しつ。満珠(みつたま)を出だしてねぎ(=祈り)給へば、塩満ち来て、兄(このかみ)溺れぬ。なや まされて、「(=我)俳優(わざおぎ)の民とならん」と誓ひ給ひしかば、干珠(ひるたま)をもちて塩を退(しり)ぞけ給ひき。

これより(=弟が)天日嗣(あまつひつぎ)を伝へましましける。

海中にて豊玉姫孕み給ひしかば、「産期(うみがつき)に至らば、海辺に産屋(うぶや)を作りて待り給へ」と(=弟の尊に)申しき。はたして(=豊玉姫は) その妹(いも)玉依姫(タマヨリヒメ)を率ゐて、海辺に行きあひぬ。屋を作りて鸕鶿(う)の羽にて葺かれしが、ふきもあへず、御子生まれ給ふによりて鸕鶿 草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)と申す。また産屋を「うぶや」と云ふ事も、うのはをふける故なりとなん。

さても「産みの時見給はな」と契り申ししを、のぞきて見ましければ、竜になりぬ。恥恨みて、「吾に恥見せ給はずは、海陸(うみくが)をして相かよはし隔つることなからまし」とて、御子を捨ておきて海中へ帰りぬ。

後に御子のきらきらしくましますことを聞きて憐み崇(あが)めて、(=豊玉姫は)妹の玉依姫を奉りて養ひまゐらせけるとぞ。この尊、天下を治め給ふこと六十三万七千八百九十二年と云へり。

震旦の世の始めを云へるに、万物混然としてあひ離れず。これを混沌と云ふ。その後軽く清き物は天となり、重く濁れる物は地となり、中和(ちゅうか)の気は 人となる。これを三才と云ふ〈これまではわが国の初まりを云ふに変はらざるなり〉。

その初めの君、盤古(ばんこ)氏、天下を治むること一万八千年。天皇(てんこう)・地皇・人皇など云ふ王、相ひ続ぎて、九十一代一百八万二千七百六十年。 先(=一万八千年?)に合はせて一百十万七百六十年〈これ一説なり。実には明らかならず〉。

『広雅(こうが)』と云ふ書には、開闢より獲麟(かくりん=魯の哀公の十四年)に至りて二百七十六万歳とも云ふ。獲麟とは孔子の在世、魯の哀公の時なり。 日本の懿徳(いとく=天皇)に当たる。しからば、盤古の初めはこの尊(みこと=ヒコホホデミ)の御代の末つかたに当たるべきにや。

○第五代、彦波激武・鸕鶿草葺不合尊(ヒコナガサタケ・ウガヤフキアエズノミコト=神武天皇の父)と申す。御母豊玉姫の名づけ申しける御名なり。御姨(お ば=母の妹)玉依姫にとつぎて四柱の御子をうましめ給ふ。彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナイノミコト)、三毛入野命(ミケイリノミコト)、 日本磐余彦尊(ヤマトイワレヒコノミコト=神武天皇)と申す。

磐余彦尊(イワレヒコノミコト)を太子に立てて天日嗣(あまつひつぎ)をなん継がしめましましける。この神の御代七十七万余年の程にや、唐土の三皇の初、 伏犠(ふくぎ)と云ふ王あり。次に、神農(しんのう)氏、次に、軒轅(けんえん)氏、三代あはせて五万八千四百四十年

〈一説には一万六千八百二十七年。しからばこの尊の八十万余の年に当たるなり。親経(ちかつね=藤原親経)の中納言の新古今の序を書くに、伏犠の皇徳に基いして(=基準に)四十万年と云へり。何れの説によれるにか。覚束なきことなり〉。

その後に少昊(しょうこう)氏、顓頊(せんぎょく)氏、高辛(こうしん)氏、陶唐(とうとう)氏〈尭なり〉、有虞(ゆうぐ)氏〈舜なり〉と云ふ五帝あり。合はせて四百三十二年。

その次に、夏・殷・周の三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代となりて第四代の主を昭王と云ひき。その二十六年甲寅 (きのえとら)の年までは周起こりて一百二十年。この年は葺不合尊(フキアエズノミコト)の八十三万五千六百六十七年に当たれり。ことし(=この年)天竺 に釈迦仏出世しまします。

同じき八十三万五千七百五十三年に、仏御年八十にて入滅しましましけり。唐土には昭王の子、穆(ぼく)王の五十三年壬甲(みづのえさる)に当たれり。その 後二百八十九年ありて、庚申(かのえさる)に当たる年、この神(=フキアエズノミコト)隠れさせまします。全て天下を治め給ふこと八十三万六千四十三年と 云へり。

これより上つかたを地神(ちじん)五代とは申しけり。二代は天上に留まり給ふ。下三代は西の洲(くに)の宮にて多くの年を送りまします。

神代のことなれば、その行迹確かならず。葺不合尊八十三万余年ましまししに、その御子磐余彦尊(=神武天皇)の御代より、俄に人王(にんおう)の代となりて、暦数(れきすう)も短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。

されど、神道の事、推して計りがたし。まことに磐長姫の詛(とこい=呪)けるまま寿命も短くなりしかば、神のふるまひにも変はりて、やがて人の代となりぬるか。

天竺の説(=上記)の如く次第ありて減じたりとは見えず。また百王ましますべしと申すめる。十々の百には非ざるべし。窮まりなきを百とも云へり。百官百姓など云ふにて知るべきなり。

昔、皇祖天照大神、天孫の尊に勅せしに、「宝祚之(あまつひつぎ)の隆(さか)んなること、まさに天壌(あめつち)と窮まりなかるべし」とあり。天地も昔 に変はらず。日月も光をあらためず。況(いわん)や三種の神器世に現在し給へり。窮まりあるべからざるは、わが国を伝ふる宝祚(ほうそ=皇位)なり。仰ぎ て尊び奉るべきは日嗣をうけ給ふ天皇(すべらぎ)になんおはします。

巻二

○人皇(にんおう)第一代、神日本磐余彦天皇(カンヤマト・イワレヒコノスメラミコト)と申す。後に神武(じんむ)と名付け奉る。地神(ちじん)鸕鶿草葺 不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の第四の子。御母玉依姫、海の神小童(わたつみ)の第二の女なり。伊弉諾尊(=イザナギ)には六世、大日孁尊(オオヒ ルメノミコト)には五世の天孫(アマミマ)にまします。

神日本磐余彦と申すは神代よりの大和言葉なり。神武は中古となりて、唐土(もろこし)の詞(ことば)によりて定め奉る御名なり。

またこの御代より代ごとに宮所(みやどころ)を移されしかば、その所を名付けて御名とす。この天皇をば橿原(かしはら)の宮と申す、これなり。

また神代より至りて尊きを尊(みこと)と云ひ、その次を命(みこと)と云ふ。

人の代となりては天皇(すめらみこと)とも号し奉る。臣下にも朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・臣(おみ)などと云ふ号出来(いでき)にけり。神武の御時より始まれる事なり。

上古には尊とも命とも兼ねて称しけると見えたり。世下りては天皇を尊と申すことも見えず、臣を命と云ふ事もなし。古語の耳慣れずなれる故にや。

この天皇御年十五にて太子に立ち、五十一にて父の神に代はりて皇位には就かしめ給ふ。ことし(=この年)辛酉(かのととり)なり。

筑紫の日向の宮崎の宮におはしましけるが、兄(このかみ)の神達及び皇子(おうじ)群臣(ぐんしん)に勅して、東征のことあり。この大八洲(おおやしま) は皆これ王地なり。神代幽昧(ゆうまい)なりしによりて西偏(にしのほとり)の国にして、多くの年序をおくられけるにこそ。

天皇、舟楫(しゅうしゅう)を整へ、甲兵を集めて、大日本洲(オオヤマトノクニ)に向ひ給ふ。

道のついでの国々を平らげ、大やまとに入りまさむとせしに、その国に天(あめ)の神、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト=上記)の御末、宇麻志間見命(ウマシ マミノミコト)と云ふ神あり。外舅(ははかたのおじ)の長髄彦(ナガスネヒコ)と云ふ、「天神(あまつかみ)の御子(=ウマシマのほかに)両種(=2つ) ありむや」とて、軍(いくさ)を起こして防ぎ奉る。

その軍強(こわ)くして皇軍(みいくさ)しばしば利を失ふ。また邪神(あしきかみ)毒気を吐きしかば、士卒(しそつ)みな病み伏せり。

ここに天照大神、健甕槌神(タカミカヅチノカミ)を召して、「葦原の中洲(なかつくに)に騒ぐ音す。汝行きて平らげよ」と勅し給ふ。

健甕槌神、申し給けるは、「昔国を平らげし時の剣あり。彼をくださば、自ら平らぎなん」と申して、紀伊の国名草(なぐさ)の村に高倉下命(タカクラジノミ コト)と云ふ神にしめして、この剣を奉りければ、天皇悦び給ひて、士卒の病み伏せりけるもみな起きぬ。

また神魂命(カミムスビノミコト)の孫、武津之身命(タケツノミノミコト)、大烏となりて軍の御先に仕(つこうまつ)る。天皇褒めて八咫烏(やたがらす) と号し給ふ。また金色の鴟(とび)下りて皇弓(みゆみ)のはずにゐたり。その光、照り輝けり。これによりて皇軍大きに勝ちぬ。

宇麻志間見命(ウマシマミノミコト)その舅(おじ=ナガスネヒコ)のひがめる心を知りて、謀りて殺しつ。その軍(いくさ)を率ゐて従ひ申しにけり。

天皇甚だ褒めましまして、天(あめ)よりくだれる神剣を授け、「その大勲(だいくん)にこたふ」とぞの給はせける。この剣を豊布都神(トヨフツノカミ)と 号す。初めは大和(ヤマト)の石上(いそのかみ)にましましき。後には常陸(ひたち)の鹿島の神宮にまします。

彼の宇麻志間見命また、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)天降(あまくだ)りし時、外祖高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)授け給ひし十種(とくさ)の瑞宝(みづたから)を伝へ持たりけるを天皇に奉る。

天皇、鎮魂(みたましづめ)の瑞宝なりしかば、その祭を始められにき。この宝をも即ち宇麻志間見に預け給ひて、大和の石上に安置す。(=石上は)または布 瑠(ふる)と号(ごうす)。「この瑞宝を一つづつ呼びて、呪文をして振る」ことあるに拠れるなるべし。

かくて天下平らぎにしかば、大和国橿原に都を定めて、宮造りす。その制度、天上の儀のごとし。

天照大神より伝へ給へる三種の神器を大殿(みあらか)に安置し、床を同じくし、在(まし)ます。皇宮・神宮一つなりしかば、国々の貢物をも斎蔵(いみくら)に納めて官物・神物の分き(=区別)なかりき。

天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の孫、天種子命(アメノタネコノミコト)、天太玉命(アメノフトタマノミコト)の孫、天富命(アメノトミノミコト)、もはら神事を司(つかさ)どる。神代の例(ためし)にことならず。

また霊畤(まつりのにわ=斎場)を鳥見山(とみのやま)の中に建てて、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)をまつらしめ給ふ。

この御代の始、辛酉(かのととり)の年、唐土の周の世、第十七代に当たる君、恵王の十七年なり。(=神武)五十七年丁巳(ひのとみ)は周の二十一代の君、 定王の三年に当たれり。ことし老子誕生す。これは道教の祖なり。天竺の釈迦如来入滅し給ひしより(=神武)元年辛酉までは二百九十年になれるか。

この天皇天下を治め給ふこと七十六年。一百二十七歳おはしき。

○第二代、綏靖(すいぜい)天皇は〈これより和語の尊号をば載せず〉神武第二の御子。御母鞴五十鈴姫(タタラ・イスズヒメ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)の女なり。

父の天皇隠れまして、三歳ありて即位し給ふ。庚辰(かのえたつ)の年なり。大和の葛城高岡(かづらきのたかおか)の宮にまします。

三十一年庚戌(かのえいぬ)の年、唐土の周の二十三代の君、霊王の二十一年なり。ことし孔子誕生す。これより七十三年までおはしけり。儒教を広めらる。

この道は昔の賢王、唐尭(とうぎょう)、虞舜(ぐしゅん)、夏(か)の初めの禹(う)、殷の初めの湯(とう)、周の初めの文王・武王・周公の国を治め、民 を撫で給ひし道なれば、心を正しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを宗(むね)とす。

されば異なる道(=特別な道)にはあらねども、末代となりて、人不正になりし故に、その道を修めて儒教を立てらるるなり。

天皇天下を治め給ふこと三十三年。八十四歳おましましき。

○第三代、安寧(あんねい)天皇は綏靖(すいぜい)第二の子。御母五十鈴依姫(イスズヨリヒメ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)の弟女(おとむすめ=次女以下)なり。

癸丑(みづのとうし)の年即位。大和の片塩(かたしお)の浮穴(うきあな)の宮にまします。天下を治め給ふこと三十八年。五十七歳おましましき。

○第四代、懿徳(いとく)天皇は安寧(あんねい)第二の子。御母渟名底中媛(ヌナソコナカツヒメ)、事代主神の孫なり。辛卯(かのとう)の年即位。大和の軽曲峡(かるのまがりお)の宮にまします。天下を治め給ふこと三十四年。七十七歳おはしましき。

○第五代、孝昭(こうしょう)天皇は懿徳(いとく)第一の子。御母天豊津姫(アマツトヨツヒメ)、息石耳命(オキシミミノミコト)の女なり。

父の天皇隠れまして一年(ひととせ)ありて、丙寅(ひのえとら)の年即位。大和の掖上池(わきがみいけ)の心の宮にまします。天下を治め給ふこと八十三年。百十四歳おはしましき。

○第六代、孝安天皇は孝昭第二の子。御母世襲足姫(ヨソタラシヒメ)、尾張の連(むらじ)の上祖(とおつおや)瀛津世襲(オキツヨソ)の女なり。乙丑(き のとうし)の年即位。大倭の秋津島宮(あきずしまのみや)にまします。天下を治め給ふこと一百二年。百二十歳おましましき。

○第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母、押姫(オシヒメ)、天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒトノミコト)の女なり。辛未(かのとひつじ)の年即位。大和の黒田廬戸宮(くろだ・いおとのみや)にまします。

三十六年丙午(ひのえうま)に当たる年、唐土の周の国滅して秦に移りき。四十五年乙卯(きのとう)、秦の始皇即位。この始皇仙方(せんぽう)を好みて長生不死の薬を日本に求む。

日本より五帝三皇の遺書(=残した書)を彼の国に求めしに、始皇悉くこれを送る。その後三十五年ありて、彼の国、書を焼き、儒を埋づみにければ、孔子の全経(ぜんきょう)日本に留まると云へり。この事異朝の書に載せたり。

わが国には神功皇后三韓を平らげ給ひしより、異国に通じ、応神の御代より経史(=儒学)の学、伝はれりとぞ申し慣はせる。

孝霊の御時よりこの国に文字ありとは聞かぬ事なれど、上古のことは慥(たしか)に注(しる)し留めざるにや。

応神の御代に渡れる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代(=考霊)より伝へけん事もあながちに疑ふまじきにや。

凡そこの国(=日本)をば君子不死の国とも云ふなり。孔子世の乱れたる事を歎きて、「九夷(=中国以外)に居らん」との給ひける。日本は九夷のその一つな るべし。異国にはこの国をば東夷とす。この国よりはまた彼の国をも西蕃と云へるがごとし。

四海と云ふは東夷・南蛮・西羌(せいきょう)・北狄(ほくてき)なり。南は蛇(じゃ)の種(しゅ)なれば、虫を従へ、西は羊をのみ飼ふなれば、羊を従へ、北は犬の種なれば、犬を従へたり(=漢字の部首の解釈)。

ただ東は仁ありて命長し。よりて(=夷は)大・弓の字を従ふと云へり。

〔裏書に云ふ。夷は説文に曰く。『東方の人なり。大に从(したが)ひ弓に从ふ』。徐氏曰く。『唯だ東夷、大に从ひ弓に从ふ。仁にして寿(=長寿)。君子不 死の国ありと云ふ。仁にして寿、未だ弓字の義に合はず』。弓は近きを以て遠きを窮むるなりと云ふ。若くはこの義を取れるか。〕

孔子の時すらこなた(=日本)の事を知り給ひければ、秦の世に通じけんこと怪しむに足らぬことにや。

この天皇天下を治め給事七十六年。百十歳おはしましき。

○第八代、孝元天皇は孝霊の太子。御母細媛(クワシヒメ)、磯城県主(しきのあがたぬし)の女なり。丁亥(ひのとい)の年即位。大倭(ヤマト)の軽境原(かるのさかいはら)の宮にまします。

九年乙未(きのとひつじ)の年、唐土の秦滅びて漢に移りき。

この天皇天下を治め給ふこと五十七年。百十七歳おましましき。

○第九代、開化天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎(ウツシコ・メ)姫、穂積(ほづみ)の臣(おみ)の上祖(とおつおや)鬱色雄命(ウツシコ・オノミコト)の妹なり。

甲申(きのえさる)の年即位。大和の春日率川宮(かすがのいさがわのみや)にまします。天下を治め給ふこと六十年。百十五歳おましましき。

○第十代、崇神(すじん)天皇は開化第二の子。御母伊香色謎(イカガシコメ)姫〈初めは孝元の妃として彦太忍信命(ヒコフト・オシマコト・ノ・ミコト)を生む〉、大綜麻杵命(オオヘソキノミコト)の女なり。

甲申(きのえさる)の歳即位。大和の磯城瑞籬宮(しきのみづかきのみや)にまします。

この御時、神代を去る事、世は十継ぎ、年は六百余りになりぬ。やうやく神威を恐れ給ひて、即位六年己丑(つちのとうし)の年〈神武元年辛酉よりこの己丑ま では六百二十九年〉神代の鏡造(かがみつくり)の石凝姥(イシコリドメ)の神の裔(はつこ)を召して鏡を写し鋳せしめ、天目一箇(あめのま・ひとつ)の神 の裔をして剣を造らしむ。

大和宇陀郡(うだのこおり)にして、この両種を写し(=剣と鏡のコピー)改められて、護身の璽(しるし)として同じ殿(みあらか)に安置す。

神代よりの宝鏡及び霊剣(=本物の方)をば皇女、豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)につけて、大和の笠縫邑(かさぬひのむら)と云ふ所に神籬(ひもろぎ)を建ててあがめ奉らる。

これより神宮・皇居各々別になれりき。その後大神(オオミカミ)の教へありて、豊鋤入姫命、神体を頂戴して所々を巡り給ひけり。

十年の秋、大彦命(オオヒコノミコト)を北陸に遣はし、武渟川別命(タケヌナカワ・ワケノミコト)を東海に、吉備津彦命を西道(さいどう)に、丹波道主命 (タニワノミチヌシノミコト)を丹波に遣す。共に印綬を給ひて将軍とす〈将軍の名初めて見ゆ〉。

天皇の叔父(しゅくふ)武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)、朝廷を傾(かたぶ)けんと謀りければ、将軍等を止めて、まづ追討しつ。冬十月(かんなづき)に将軍発路(みちたち)す。

十一年の夏、四道の将軍、戎夷(じゅうい)を平らげぬるよし復命(かへりこと)す。

六十五年秋、任那(みまな)の国、使ひをさして御調(みつぎ)を奉る〈筑紫をさること二千余里と云ふ〉。

天皇天下を治め給ふこと六十八年。百二十歳おましましき。

○第十一代、垂仁(すいにん)天皇は崇神(すじん)第三の子。御母御間城姫(みまきひめ)、大彦命(オオヒコノミコト=既出)〈孝元の御子〉の女なり。壬辰(みづのえたつ)の年即位。

大和の巻向(まきむく)の珠城(たまき)の宮にまします。この御時、皇女大和姫命(ヤマトヒメノミコト)、豊鋤入(とよすきいり)姫に代はりて、天照大神を斎(いつ=仕へる)き奉る。

神の教へにより、なほ国々を巡りて、二十六年丁巳(ひのとみ)、冬十月甲子(きのえね)に伊勢の国、度会郡(わたらひのこほり)五十鈴の川上に宮所をし め、高天原に千木(ちぎ=屋根の上の交差した木)高知(たかし=立派に造る)りて下都磐根(したついわね)に大宮柱、広敷(ふとしき)立ててしづまりまし ましぬ。

この所は昔天孫、天下り給ひし時、猿田彦神(サルダヒコノカミ)まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に至るべし」と申しける所 なり。大倭姫命(ヤマトヒメノミコト)、宮所を尋ね給ひしに、大田命(オオタノミコト)と云ふ人〈また興玉(オキタマ)とも云ふ〉まゐりあひて、この所を 教へ申しき。

この命は昔の猿田彦の神の苗裔(びょうえい)なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり〈天の逆戈(さかほこ)もこの所にありきと云ふ一説あり〉。「八万歳の間守りあがめ奉りき」となん申しける。

かくて中臣(なかとみ)の祖(おや)大鹿島命(オオカシマノミコト)を祭主とす。また大幡主(おおはたぬし)と云ふ人を大神主(おおかんぬし)になし給 ふ。これより皇大神(スメオオカミ=天照大御神)とあがめ奉て、天下第一の宗廟(そうびょう)にまします。この天皇天下を治め給ふこと九十九年。百四十歳 おましましき。

○第十二代、景行(けいこう)天皇は垂仁第三の子。御母日葉洲媛(ひはすひめ)、丹波道主王(たんばのみちのうしのみこと)の女なり。辛未の年即位。大和纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)にまします。

十二年秋、熊襲(くまそ)〈日向にあり〉背きて御調(みつぎ)奉らず。八月(はづき)に天皇筑紫に行幸(みゆき)してこれを征し給ふ。十三年夏悉く平らぐ。高屋宮にまします。十九年の秋筑紫より還へり給ふ。

二十七年秋、熊襲また背きて辺境を侵しけり。皇子小碓尊(オウスノミコト)の御年十六、幼くより雄略気(おおしきけ)まして、容貎魁(すぐ)れ偉(たた わ)し。身の長(たけ)一丈、力能く鼎(かなえ)を上げ給ひしかば、熊襲を討たしめ給ふ。

冬十月ひそかに彼の国に至り、奇謀(きぼう)を以て、梟帥取石鹿文(たけるひとごのかみ・とりいしかや)と云ふ者を殺し給ふ。梟帥(=小碓尊を)褒め奉 て、(=皇子を)日本武(ヤマトタケル)と名付け申しけり。悉く余党(=残党)を平らげて帰り給ふ。所々にしてあまたの悪神(あしきかみ)を殺しつ。

二十八年春、復命(かえりごと)申し給ひけり。天皇その功を褒めてめぐみ給ふこと諸子に異なり。

四十年の夏、東夷(とうい)多く背きて辺境騒がしかりければ、また日本武皇子を遣はす。吉備武彦(きびのたけひこ)、大伴武日(おおとものたけひ)を左右の将軍として相ひ添へしめ給ふ。

十月に枉道(よきりみち=回り道)して伊勢の神宮に詣でて、大和姫命に罷(まか)り申し給ふ。彼の命(=大和姫)神剣を授けて、「つつしめ、な怠りそ」と教へ給ける。

駿河に〈「駿河」日本紀説、或ひは「相模」古語拾遺説〉至るに、賊徒(ぞくと)野に火をつけて害し奉らんことを謀りけり。火の勢ひ免(まぬが)れがたかり けるに、はかせる藂雲剣(むらくものつるぎ=神剣)を自ら抜きて、傍らの草をなぎてはらふ。これより名を改めて草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云ふ。

また火打ちを以て火を出して、向ひ火を付けて、賊徒を焼き殺されにき。

これより船に乗り給ひて上総に至り、転じて陸奥の国に入り、日高見(ひたかみ)の国〈その所異説あり〉に至り、悉く蝦夷を平らげ給ふ。

帰りて常陸を経、甲斐に越え(=越えていき)、また武蔵・上野(かみつけ)を経て、碓日坂(うすひざか)に至り、弟橘媛(おとたちばなひめ)と云ひし妾 (みめ)をしのび(=なつかしみ)給ふ〈上総へ渡り給ひし時、風波あらかりしに、尊の御命をあがはんとて海に入りし人なり〉。東南の方を望みて、「吾嬬者 耶(あづまはや)」との給ひしより、山東(さんとう=足柄峠の東)の諸国を「あづま」と云ふなり。

これより道を分け、吉備武彦をば越後の国に遣はして順(まつろ)はぬ者を平らげしめ給ふ。尊は信濃より尾張に出で給ふ。かの国に宮簀媛(みやすひめ)と云 ふ女あり。尾張の稲種宿禰(いなたねのすくね)の妹なり。この女を召して淹(ひさしく)留り給ふ間、五十葺(いぶき)の山に荒神(あらぶるかみ)ありと聞 こえければ、剣をば宮簀媛の家にとどめて、徒(かち)より出でます。

山神(やまのかみ)、化して小蛇(こへび)になりて、御道に横たはれり。尊股越えて過ぎ給ひしに、山神毒気を吐きけるに、御心乱れにけり。それより伊勢に 移り給ふ。能褒野(のぼの)と云ふ所にて御やまひ甚だしくなりにければ、武彦命をして天皇に事のよしを奏して、遂に隠れ給ぬ。御年三十なり。

天皇聞こし召して、悲み給ふ事限りなし。群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)に仰せて、伊勢国能褒野(のぼの)に納め奉る。

白鳥と成りて大和国をさして琴弾(ことひき)の原に留まれり。その所にまた陵(みささぎ)を造らしめられければ、また飛びて河内古市(かわちのふるいち)に留まる。その所に陵を定められしかば、白鳥また飛びて天(あめ)に昇りぬ。

仍りて三つの陵あり。彼の草薙剣は宮簀媛(みやすひめ)あがめ奉りて、尾張に留まり給ふ。今の熱田の神にまします。

五十一年秋八月(はづき)、武内宿禰(たけうちのすくね)を棟梁の臣とす。

五十三年秋、小碓命(おうすのみこと)の平(ことむけ)し国を巡り見ざらんやとて、東国に行幸し給ふ。十二月(しわす)あづまより帰りて、伊勢の綺宮(か んばたのみや)にまします。五十四年秋、伊勢より大和に移り、纏向宮(まきむくのみや)に帰り給ふ。天下を治め給ふこと六十年。百四十歳おましましき。

○第十三代、成務(せいむ)天皇は景行第三の子。御母八坂入姫(やさかいりひめ)、八坂入彦皇子〈崇神の御子〉の女なり。日本武尊、日嗣(ひつぎ)を受け給ふべかりしに、世を早くし、ましまししかば、この御門(みかど)立ち給ふ。

辛未(かのとひつじ)の歳即位。近江の志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)にまします。神武より十二代、大和国にましましき〈景行天皇の末つかた、こ の高穴穂に、ましまししかども定れる皇都にはあらず〉。この時初めて他国に移り給ふ。

三年の春、武内宿禰を大臣(おおおみ)とす〈大臣の号これに始まる〉。

四十八年の春、姪(おい)仲足彦尊(なかたらしひこのみこと)〈日本武尊の御子〉を立てて皇太子とす。

天下を治め給ふこと六十一年。百七歳おましましき。

○第十四代、第十四世、仲哀(ちゅうあい)天皇は日本武尊第二の子、景行の御孫なり。御母両道入姫(ふたちいりひめ)、垂仁天皇の女なり。大祖(たいそ)神武より第十二代景行までは代のままに継体(けいたい)し給ふ。

日本武尊世を早くし給ひしによりて、成務(せいむ=ヤマトタケルの弟)これをつぎ給ふ。(=成務が)この天皇(=仲哀)を太子として譲りましまししより、 代(だい)と世(せい)と変はれる初なり(=自分の子ではなく兄の子がついだ)。

これよりは世(せい)を本(もと)と記し奉るべきなり〈代と世とは常の義、差別なし。然れど凡(おおよそ)の承運(しょううん)とまことの継体とを分別せ ん為に書き分けたり。但し字書にもその謂はれ無きにあらず。代は更(こう)の義なり。世(せい)は周礼(しゅらい)の註に、父死して子立つを世と云ふとあ り〉。

この天皇御形いときらきらしく、御長(たけ)一丈ましましける。

壬申(みづのえさる)の年即位。この御時熊襲また反乱して朝貢せず。天皇軍をめして自ら征伐をいたし、筑紫に向ひ給ふ。皇后息長足姫尊(おきながたらしひ めのみこと)は越前の国、笥飯(けい=気比)の神に詣でて、それより北海を巡りて行あひ給ぬ。

ここに神ありて皇后に語り奉る。「これより西に宝の国あり。討ちて従へ給へ。熊襲は小国なり。また伊弉諾・伊弉冊の生み給へりし国なれば、討たずとも遂に 従ひ奉りなん」とありしを、天皇肯(うけが)ひ給はず。事ならずして橿日(かしひ)の行宮(かりみや)にして隠れ給ふ。長門(ながと)に納め奉る。これを 穴戸(あなと)の豊浦宮(とよらのみや)と申す。天下を治め給ふこと九年。五十二歳おましましき。

○第十五代、神功(じんぐう)皇后は息長宿禰(おきながのすくね)の女、開化天皇四世の御孫(=開化天皇の子崇神天皇の弟の曾孫)なり。息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と申す。

仲哀立てて皇后とす。仲哀神の教へによらず、世を早くし給ひしかば、皇后憤(いきどお)りまして、七日あつて別殿を作り、斎(いもお)り籠らせ給ふ。この時応神天皇孕まれましましけり。

神がかりて様々道を教へ給ふ。この神は「表筒男(うわつつのお)・中筒男・底筒男なり」となん名乗り給けり。これは伊弉諾尊(=イザナギ)、日向の小戸 (おど)の川、檍原(あわぎがはら)にて禊(みそ)ぎし給ひし時、化生しましける神なり。後には摂津の国住吉にいつかれ給ふ神これなり。

かくて新羅(しらぎ)・百済・高麗を〈この三ケ国を三韓と云ふ。正しくは新羅に限るべきか。辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)を全て新 羅と云なり。しかれど古くより百済・高麗を加へて三韓と云ひ慣らはせり〉うち従がへ給ひき。

海神形を表はし、御船を挟み守り申ししかば、思ひの如く彼の国を平らげ給ふ。神代より年序久しく積もれりしに、かく神威を表はし給ける、測(はか)らざる御ことなるべし。海中にして如意の珠を得給へりき。

さて(=如意の珠のおかげで出産日をのばして)筑紫に帰りて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申し給ひしによりて、これを胎中の天皇とも申す。皇后摂政して辛巳(かのとみ)の年より天下をしらせ給ふ。

皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄(このかみ)忍熊王(おしくまのおう)謀反を起こして、防ぎ申さんとしければ、皇子をば武内大臣にいだかせ て、紀伊の水門(みなと)につけ、皇后はすぐに難波に着き給ひて、程なくその乱れを平げられにき。

皇子おとなび給ひしかば皇太子とす。武内大臣もはら朝政を輔佐し申しけり。大和の磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)にまします。これより三韓の国、 年ごとに御調(みつぎ)を備へ、この国よりも彼の国に鎮守の司(つかさ)を置かれしかば、西蕃(せいばん=外国)相ひ通じて国家富み盛りなりき。

また唐土へも使ひを遣はされけるにや。「倭国の女王、使ひを遣はして来朝す」と後漢書に見えたり。

元年辛巳(かのとみ)の年は漢の孝献帝(こうけんてい)二十三年に当たる。漢の世始りて十四代と云ひし時、王莽と云ふ臣、位を奪ひて十四年ありき。

その後、漢に帰りてまた十三代孝献の時に、漢は滅ぼしてこの御代の十九年己亥(つちのとい)に献帝、位を去りて、魏の文帝に譲る。これより天下三つに分かれて、魏・蜀・呉となる。

呉は東によれる国なれば、日本の使ひもまづ通じけるにや。呉の国より道々の匠(たくみ=いろんな技術者)などまで(=日本に)渡されき。また魏の国にも通ぜられけるかと見えたり。

四十九年乙酉(きのととり)と云ひし年、魏また滅びて晉の代に移りにき〈蜀の国は三十年癸未(みづのとひつじ)に魏のために滅ぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年辛丑(かのとうし)晉のために滅ぼさる〉。

この皇后天下を治め給ふこと六十九年。一百歳おましましき。

○第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后なり。胎中の天皇とも、または誉田天皇(ほんだのてんのう)とも名付け奉る。

庚寅(かのえとら)の年即位。大和の軽島豊明宮(かるしまとよあかりのみや)にまします。この時百済より博士を召し、経史を伝へられ、太子以下これを学び習ひき。

この国に経史及び文字を用ゐることは、これより始まれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後なりと云ふ」と云へり。返々(かへすがへす)当たらぬことなり。

昔日本は三韓と同種なりと云ふ事のありし、かの書をば桓武の御代に焼き捨てられしなり。

「天地(あめつち)開けて後、素戔烏尊、韓の地に至り給ひき」(=日本書紀)など云ふ事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみ(=間違い)なきにや。

それすら昔より用ゐざることなり。天地神(あめつちのかみ)の御末なれば、なにしにか、代下れる呉の太伯が後にあるべき。

三韓・震旦(=中国)に通じてより以来、異国の人多くこの国に帰化しき。秦の末、漢の末、高麗・百済の種、それならぬ蕃人(ばんじん=それ以外の外国人) の子孫も来たりて、神・皇の御末と混乱せしによりて、『姓氏録(しょうじろく)』と云ふ文を作られき。それも人民(=皇室以外)にとりてのことなるべし。

異朝にも人の心まちまちなれば、異学の輩の云ひ出だせる事か。後漢書よりぞこの国の事をばあらあら記せる。符合したることもあり、また心得ぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まで明らかに載せたり。

さてもこの御時、武内大臣の筑紫を治めんために彼の国に遣はされける頃、おととの讒によりて、既に追討せられしを、大臣の僕(やっこ=家来の中に)真根子 (まねこ)と云ふ人あり。顔貌(かおかたち)大臣に似たりければ、相ひ代はりて誅せらる。

大臣は忍びて都に詣でて、咎なきよしを明らめられにき。上古神霊の主、猶かかる過ちましまししかば、末代、争(いかで)か慎ませ給はざるべき。天皇天下を治め給ふこと四十一年。百十一歳おましましき。

欽明天皇の御代(=六世紀)に始めて(この応神天皇が=)神と現れて、筑紫の肥後の国菱形の池と云ふ所に現れ給ひ、「われは人皇(にんおう)十六代、誉田八幡丸(やはたまろ)なり」との給ひき。

誉田はもとの御名、八幡(やはた)は垂迹(すいじやく=仏のなり代わりとしての神)の号なり。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給ひしかば(=しかれど も)、聖武天皇東大寺建立の後、(=この神が)巡礼し給ふべきよし託宣ありき。仍りて(=聖武天皇が)威儀を整へて迎へ申さる。

また神託ありて御出家(=この神が仏になる)の儀ありき。やがて彼の寺(=東大寺)に勧請(=招くこと)し奉らる。されど(=その後も)勅使などは宇佐(=八幡神社)にまゐりき。

清和の御時、大安寺(だいあんじ)の僧、行教(ぎょうきょう)宇佐に詣でたりしに、霊告ありて、今の男山石清水に移りまします。爾来、行幸も奉幣(ほうへい)も石清水にあり。一代一度宇佐へも勅使を奉らる。

昔天孫(あまみま)、天降り給ひし時、御供の神八百万(やおよろず)ありき。大物主(おおものぬし)の神従へて天(あめ)へ昇りしも、八十万(やそよろず)の神と云へり。今までも幣帛(へいはく)を奉まつらるる神、三千余坐なり。

しかるに天照大神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡を仰ぎ申さるること、いと尊き御事なり。

八幡と申す御名は御託宣に「道を得てよりこのかた、法性(ほっしょう)を動かさず。八正道を示して、権迹(ごんじやく)を垂る。皆な苦の衆生を解脱することを得たり。この故に八幡大菩薩と号す」とあり。

八正(はちしょう)とは、内典に、正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進 (しょうしょうじん)・正定(しょうじょう)・正恵(しょうえ)、これを八正道と云ふ。

凡そ心、正なれば身口(しんく)は自ら清まる。三業に邪まなくして、内外真正なるを諸仏、出世の本懐とす。神明の垂迹もまたこれがためなるべし。

また八方に八色の幡(はた)を立つることあり。密教の習ひ、西方阿弥陀の三昧耶形(さんまやぎょう=仏の徳の形象)なり。

その故にや行教和尚には(=八幡が)弥陀三尊の形にて見えさせ給ひけり。光明(=八幡の姿が)、袈裟の上に移らせましましけるを頂戴して、男山には安置し 申しけりとぞ。神明の本地(=仏)を云ふことは確かならぬ類ひ多けれど、大菩薩の応迹(おうじやく=垂迹)は昔より明らかなる証拠おはしますにや。

或ひはまた、(=仏については)「昔於霊鷲山(りょうじゅせんにおいて)説妙法華経(みょうほけきょうをとく)」とも、或ひは弥勒(みろく)なりとも、大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ)なりとも託宣し給ふ。

中にも八正の幡を立てて、八方の衆生を済度(さいど=救う)し給ふ本誓(ほんぜい=仏の誓約)を、能々(よくよく)思ひ入れて仕(つかうまつ)るべきにや。

天照大神もただ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へましまししことの起りは、先にも記し侍りぬ。

また雄略天皇二十二年の冬十一月(しもつき)に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷り出でて後、神主物忌(ものいみ=下働き)等ばかり留 りたりしに、皇大神(すめおおみかみ=天照)・豊受(とようけ)の大神、倭姫(ヤマトひめの)命(みこと)にかかりて(=神がかりして)託宣し給ひしに、 「人は即ち天下の神物(じんもつ)なり。心神(=正直さ)をやぶることなかれ。神は垂(た)るるに祈祷を以て先とし、冥(みょう=神慮)は加ふるに正直を 以て本とす」とあり。

同き二十三年二月(きさらぎ)、重ねて託宣し給ひしに、「日月(じつげつ)は四洲を巡り、六合(りくごう=上下東西南北)を照らすと云へども、正直の頂きを(=特に)照らすべし」とあり。

されば二所(ふたところ)の宗廟の御心を知らんと思はば、只だ正直を先とすべきなり。大方、天地の間ありとある人、陰陽の気を受けたり。

不正にしては立つべからず。こと更にこの国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいただくまじき謂はれなり。

倭姫の命、人に教へ給ひけるは「汚き心なくして丹(きよ)き心をもて、清く潔く斎(いもお)り慎しめ。左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を 左とし右を右とし、左に代へり右に巡ぐることも万(よろ)ずの事違ふことなくして、大神(おおみかみ)に仕(つかうまつ)れ。元々本々(はじめをはじめと しもとをもととす)故なり」となむ。

まことに、君に仕へ、神に仕へ、国を治め、人を教へんことも、かかるべしとぞ覚え侍る。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。

周易に、「霜を履んで堅き氷に至る」と云ふことを、孔子釈しての給はく、「積善(しゃくぜん)の家に余慶(よきょう)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり。君を弑(しい)し父を弑すること一朝一夕の故にあらず」と云へり。

毫釐(ごうり)も君をいるかせ(=ゆるがせ)にする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕(かいたい=少しで)も親をおろそかにする形あるものは、果たして賊子となる。

この故に古の聖人、「道は須臾も離(はな)るべからず。離るべきは道にあらず」と云ひけり。

但しその末を学びて源を明らめざれば、ことに臨(のぞ)みて覚えざる過ちあり。その源と云ふは、心に一物(=たくらみ)を蓄へざるを云ふ。しかも虚無の中に留まるべからず。

天地あり、君臣あり。善悪の報ひ影響(かげひびき)の如し。己が欲を捨て、人を利するを先として、境々(さかいさかい)に対すること、鏡の物を照らすが如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云ふべきにや。

代下れりとて自ら苟(いやし)むべからず。天地の始めは今日を始めとする理(ことわり)なり。加之(しかのみならず)、君も臣も神を去ること遠からず。常 に冥(みょう)の知見をかへりみ、神の本誓を悟りて、正(しょう)に居(きょ)せんことを心ざし、邪まなからんことを思ひ給ふべし。

○第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫(なかつひめ)の命、五百城入彦皇子女(いおきいりひこのみこのむすめ)なり。大鷦鷯(おおさざき=仁徳天皇)の尊と申す。

応神の御時、菟道稚皇子(うじのわかのみこ)と申すは最末の御子にてましまししを愛(うつくし=応神が)み給ひて、太子に立てむと思し召しけり。兄(この かみ)の御子達うけがひ給はざりしを、この天皇(=後の仁徳天皇)ひとりうけがひ給ひしによりて、応神悦びまして、菟道稚を太子とし、この尊を輔佐(ふ さ)になん定め給ける。

応神隠れましまししかば、御兄(このかみ)たち太子を失なはんとせられしを、この尊悟りて太子と心を一つにして彼(=兄たち)を誅(ちゅう)せられき。爰 (ここ)に太子天位を尊に譲り給ふ。尊、堅くいなみ給、三歳になるまで互ひに譲りて位を空(むなし)くす。

太子は山城の宇治にます。尊は摂津(つ)の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたに受け取らずして、民の愁へとなりしかば、太子自ら失せ給ぬ。

尊、驚き歎き給ふこと限りなし。されど逃れますべき道ならねば、癸酉(みづのととり)の年即位。摂津の国、難波高津の宮にまします。日嗣を受け給ひしより 国を鎮め民を憐れみ給ふこと、例もまれなりし御事にや。民間の貧しきことを思して、三年の御調(みつぎ)を止められき。高殿に昇りて見給へば、賑(にぎ わ)はしく見えけるによりて、

「高き屋に昇りてみれば煙り立つ民のかまどはにぎはひにけり」とぞ詠ませ給ける。

さて猶三年を許されければ、宮の中破れて雨露もたまらず。宮人の衣壊れてその装(よそお)ひ全(また)からず。御門(みかど)はこれを楽しみとなむ思しけ る。かくて六年と云ふに、国々の民、各々まゐり集りて大宮造りし、色々の御調を備へけるとぞ。ありがたかりし御政なるべし。天下を治め給ふこと八十七年。 百十歳おましましき。

○第十八代、履中(りちゅう)天皇は仁徳の太子。御母磐之姫(いわのひめ)の命、葛城の襲津彦(そつひこ)の女なり。庚子(かのえね)の年即位。また大和 の磐余稚桜(いわれのわかさくら)の宮にまします。後の稚桜の宮と申す。天下を治め給ふこと六年。六十七歳おましましき。

○第十九代、反正(はんぜい)天皇は仁徳第三の子、履中同母の弟なり。丙午の年即位。河内の丹比(たじひ)の柴籬(しばがき)の宮にまします。天下を治め給ふこと六年。六十歳おましましき。

○第二十代、允恭(いんぎょう)天皇は仁徳第四の子、履中反正同母の弟なり。壬子(みづのえね)の年即位。大和の遠明日香(とおつあすか)の宮にまします。

この御時までは三韓の御調年々に変はらざりしに、これより後はつねに怠りけりとなん。八年己未(つちのとひつじ)に当たりて、唐土の晉ほろびて南北朝とな る。宋・齊・梁・陳あひつぎて起こる。これを南朝と云ふ。後魏・北齊・後周つぎつぎに起これりしを北朝と云ふ。百七十余年はならびて立ちたりき。

この天皇天下を治め給ふこと四十二年。八十歳おましましき。

巻三

○第二十一代、安康(あんこう)天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中(おしさかのおおなかつ)姫、稚渟野毛二派(わかぬのけふたまた=名前)の皇子〈応神の御子〉の女なり。

甲午(きのえうま)の年即位。大和穴穂(あなほ)の宮にまします。大草香(おおくさか)の皇子〈仁徳の御子〉を殺してその妻を取りて皇后とす。彼の皇子の子眉輪の王幼くて、母に従ひて宮中に出入しけり。

天皇高楼(たかどの)の上に酔ひ臥し給ひけるを(=眉輪の王が)うかがひてさし殺して、大臣(おおおみ)葛城円(かづらきのつぶら)が家に逃げこもりぬ。この天皇天上を治め給ふこと三年。五十六歳おましましき。

○第二十二代、雄略(ゆうりゃく)天皇は允恭第五の子、安康同母の弟なり。大泊瀬(おおはつせ)の尊と申す。安康殺され給ひし時、眉輪の王及び円(つぶら)の大臣を誅(ちゅう=罰して殺した)せらる。

あまさへその事にくみせられざりし市辺押羽(いちべのおしは)の皇子をさへに殺して位に即き給ふ。

今年丁酉(ひのととり)の年なり。大和の泊瀬朝倉(はつせあさくら)の宮にまします。天皇、性(せい)猛くましましけれども、神に通じ給へりとぞ。

二十一年丁巳(ひのとみ)冬十月に、伊勢の皇大神(すめおおみかみ=天照)、大和姫の命に教へて、丹波の国与佐の魚井(まない)の原よりして豊受(とようけ=伊勢外宮の神)の大神を迎へ奉らる。

大和姫の命、奏聞し給ひしによりて、明年戊午(つちのえうま)の秋七月(ふみづき)に勅使をさして(=豊受大神を)迎へ奉る。九月(ながつき)に度会(わたらい)の郡(こおり)山田の原の新宮にしづまり給ふ。

垂仁天皇の御代に、皇大神五十鈴(いすず)の宮に遷(うつ)らしめ給ひしより、四百八十四年になむなりにける。

神武の始めより既に千百余年に成りぬるにや。またこれまで大倭姫命、存生(ぞんしょう)し給ひしかば、内外宮(ないげぐう)の造りも、日の小宮(わかみや=天上の宮)の図形・文形(もんぎょう)によりてなさせ給けりとぞ。

そもそもこの神(=豊受、外宮の神)の御事異説まします。

外宮には天祖(あまつみおや)天御中主(アマノミナカヌシ=国之常立で祖先)の神と申し伝へたり。

されば皇大神(=天照)の託宣にて、この宮の祭を先きにせらる。神拝み奉るも先づこの宮を先とす。

天孫、瓊々杵(ににぎ)の尊、この宮(=外宮)の相殿(あいどの)にまします。仍りて天児屋(アメノコヤネ)の命・天太玉(アメノフトタマ)の命も天孫につき申して相殿にますなり。これより二所の大神宮と申す。

丹波より(=豊受大神が)遷らせ給ふことは、昔豊鋤入姫(とよすきいりひめ)の命、天照大神を頂戴して、丹波の吉佐(よさ)の宮に移り給ける頃、この神あま下りて一所(ひとつところ)におはします。

四年ありて天照大神はまた大和にかへらせ給ふ。それよりこの神は丹波にとまらせ給ひしを、道主(みちぬし=丹波の人)の命と云ふ人いつき(=神に仕え)申しけり(=それをこの天皇の時に外宮に迎えたのである)。

古(いにしえ)はこの宮にて御饌(みけ)を整へて、内宮へも毎日に送り奉りしを、神亀(じんき)年中より外宮に御饌殿(みけどの)を建てて、内宮のをも一所にて奉るとなん。

かやうの事によりて、(=外宮の主神を)御饌(みけ)の神と申す説あれど、御食(みけ)と御気(みけ)との両義あり。

陰陽元初(いんようげんしょ)の御気(みけ)なれば、天の狭霧(あめのさぎり)・国の狭霧と申す御名もあれば、猶、先の説(=天御中主)を正とすべしとぞ。

天孫さへ相殿のにましませば、御饌の神と云ふ説は用ゐがたき事にや。この天皇天下を治め給ふこと二十三年。八十歳おましましき。

○第二十三代、清寧(せいねい)天皇は雄略第三の子。御母韓姫(からひめ)、葛城の円(つぶら)の大臣の女なり。庚申(かのえさる)の年即位。大倭(やまと)の磐余甕栗(いわれのみかくり)の宮にまします。誕生の始め、白髪おはしければ、しらがの天皇とぞ申しける。

御子なかりしかば、皇胤の絶えぬべき事を歎き給ひて、国々へ勅使を遣はして皇胤を求めらる。市辺押羽(いちべのおしは)の皇子、雄略に殺され給ひしとき、 皇女一人、皇子(おうじ)二人ましけるが、丹波国に隠れ給ひけるを求め出でて、御子にして養ひ給けり。天下を治め給ふこと五年。三十九歳おましましき。

○第二十四代、顕宗(けんそう)天皇は市辺押羽(いちべのおしは)の皇子第三の子、履中天皇の孫なり。御母荑媛(はえひめ)、蟻の臣(おみ)の女なり。白髪の天皇養ひて子とし給ふ。

御兄(このかみ)仁賢(にんけん=第二十五代)先づ位に即き給ふべかりしを、相共に譲りましまししかば、同母の御姉飯豊(いいとよ)の尊しばらく位にゐ給ひき。

されどやがて顕宗定まりましまししによりて、飯豊天皇をば日嗣には数へ奉らぬなり。

乙丑(きのとうし)の年即位。大和の近明日香八釣(ちかつあすかやつり)の宮にまします。天下を治め給ふこと三年。四十八歳おましましき。

○第二十五代、仁賢(にんけん)天皇は顕宗同母の御兄(このかみ)なり。雄略の(=が)我が父の皇子を殺し給ひしことを恨みて、「御陵(みささぎ)をほり て御屍(かばね)をはづかしめん」との給ひしを、顕宗いさめましまししによりて、徳の及ばざることをはぢて、顕宗を先だて給ひけり。

戊申(つちのえさる)の年即位。大和の石上広高(いそのかみひろたか)の宮にまします。天下を治め給ふこと十一年。五十歳おましましき。

○第二十六代、武烈(ぶれつ)天皇は仁賢の太子。御母大娘(おおいらつめ)の皇女、雄略の御女なり。己卯(つちのとう)の年即位。

大和の泊瀬列城(はつせなみき)の宮にまします。性さがなくまして、悪としてなさずと云ふことなし。仍りて天祚(あまつひつぎ)も久しからず。仁徳さしも(=あれほど)聖徳ましまししに、この皇胤(=仁徳の系統)ここに絶えにき。

「聖徳は必ず百代にまつらる」〈春秋に見ゆ〉とこそ見えたれど、不徳の子孫あらば、その宗(そう)を滅ぼすべき先蹤(せんしょう=前例)甚だおほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛に溺れず、器にあらざれば伝ふることなし。

尭(ぎょう)の子、丹朱(たんしゅ)不肖なりしかば、舜(しゅん)に授け、舜の子、商均(しょうきん)また不肖にして夏の禹(う)に譲られしが如し。

尭舜よりこなたには猶天下を私しにする故にや、必ず子孫に伝ふることになりにしが、禹(う)の後、桀(けつ)暴虐にして国を失ひ、殷(いん)の湯(とう)聖徳ありしかど、紂(ちゅう)が時無道(ぶどう)にして永くほろびにき。

天竺にも仏(ほとけ)滅度(めつど)百年の後、阿育(あいく=アショーカ王)と云ふ王あり。姓は孔雀氏(=マウリア朝)、王位につきし日、鉄輪(てちりん =既出)飛び降(く)だる。転輪の威徳をえて、閻浮提(えんぶだい=インド)を統領す。あまさへ諸(もろも)ろの鬼神を従へたり。

正法を以て天下を治め、仏理に通じて三宝をあがむ。八万四千の塔を立てて、舎利を安置し、九十六億千の金(こがね)を棄てて功徳に施する人なりき。

その三世の孫、弗沙密多羅(ふしゃみったら=プシャミトラ、実際はマウリア朝の将軍の名でマウリア朝を滅ぼしてジュンガ朝を起こした)王の時、悪臣のすす めによつて、祖王の立てたりし塔婆を破壊(はえ)せんと云ふ悪念を起こし、諸々の寺をやぶり、比丘(びく)を殺害す。

阿育王のあがめし雞雀寺(けいじゃくじ)の仏牙歯(ぶつげし)の塔をこぼたんとせしに、護法神(ごほうじん)怒りをなし、大山を化して王及び四兵(しひょう)の衆をおしころす。

これより孔雀の種、永く絶えにき。かかれば先祖大きなる徳ありとも、不徳の子孫宗廟のまつりを絶たむこと疑ひなし。

この天皇天下を治め給ふこと八年。五十八歳おましましき。

○第二十七代、第二十世、継体(けいたい)天皇は応神五世の御孫なり。応神第八の御子隼総別(はやぶさわけ)の皇子、その子大迹(おおと)の王、その子私斐(しい)の王、その子彦主人(ひこぬし)の王、その子、男大迹(おおと)の王と申すはこの天皇にまします。

御母振姫(ふるひめ)、垂仁七世の御孫なり。越前の国にましける。武烈隠れ給ひて皇胤絶えにしかば、群臣うれへ歎きて国々に巡り、ちかき皇胤を求め奉りけ るに、この天皇王者(おうじゃ)の大度(たいど=大きな度量)まして、潜竜(せんりょう)の勢ひ、世に聞こえ給けるにや。群臣相ひ議(はから)ひて迎へ奉 る。

三たびまで謙譲し給ひけれど、遂に位に即き給ふ。ことし丁亥(ひのとい)の年なり〈武烈隠れ給ひて後、二年、位(くらい)をむなしくす〉。

大和の磐余玉穂(いわれたまほ)の宮にまします。仁賢の御女、手白香(たしらか)の皇女を皇后とす。即位し給ひしより誠とに賢王にましましき。

応神御子多く聞こえ給ひしに(=その中で)仁徳賢王にてましまししかど、御末絶えにき。

隼総別(はやぶさわけ)の御末、かく世をたもたせ給ふこと、いかなる故にか覚束なし。仁徳をば大鷦鷯(おおさざき)の尊と申す。第八の皇子をば隼総別(はやぶさわけ)と申す。

仁徳の御代に兄弟たはぶれて、鷦鷯(さざき)は小鳥なり、隼は大鳥なりと争ひ給ふことありき。隼の名に(=よって)勝ちて、末の世を受け継ぎ給ひけるにや。

唐土にもかかる例あり〈左伝に見ゆ〉。名を作ることも慎み重くすべきことにや。それもおのづから天命なりといはば、凡慮の及ぶべきにあらず。

この天皇の立ち給ひしことぞ思ひの外の御運と見え侍べる。但し、皇胤絶えぬべかりし時、群臣択(えら)び求め奉りき。賢名によりて天位を伝へ給へり。天照大神の御本意にこそと見えたり。

皇統にその人ましまさん時は、賢き諸王おはすとも、争(いかで)か望みをなし給ふべき。皇胤絶え給はんにとりては、賢にて天日嗣(あまつひつぎ)に備はり(=皇位につき)給はんこと、即ちまた天のゆるす所なり。

この天皇をばわが国中興の祖宗と仰ぎ奉るべきにや。天下を治め給ふこと二十五年。八十歳おましましき。

○第二十八代、安閑(あんかん)天皇は継体の太子。御母は目子(めのこ)姫、尾張の草香(くさか)の連(むらじ)の女なり。甲寅(きのえとら)の年即位。大和の勾金橋(まがりのかなはし)の宮にまします。天下を治め給ふこと二年。七十歳おましましき。

○第二十九代、宣化(せんか)天皇は継体第二の子、安閑同母の弟なり。丙辰(ひのえたつ)の年即位。大和の檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)にまします。天下を治め給ふこと四年。七十三歳おましましき。

○第三十代、第二十一世、欽明(きんめい)天皇は継体第三の子。御母皇后手白香(たしらか)の皇女、仁賢天皇の女なり。両兄ましまししかど、この天皇の御末(=血筋)世をたもち給ふ。御母方も仁徳の流れにてましませば、猶もその遺徳尽(つ)きずしてかく定まり給けるにや。

庚申の年即位。大倭の磯城島(しきしま)の金刺(かなさし)の宮にまします。

十三年壬申(みづのえさる)十月に百済の国より仏・法・僧を渡しけり。この国に伝来の始めなり。

釈迦如来滅後一千十六年に当たる年、唐土の後漢の明帝、永平十年に仏法初めて彼の国に伝はる。それよりこの壬申の年まで四百八十八年。

唐土には北朝の齊(せい)の文宣帝(ぶんせんてい)即位三年、南朝の梁(りょう)の簡文帝(かんぶんてい)にも即位三年なり。簡文帝の父をば武帝と申しき。大きに仏法をあがめられき。この御代の初めつかたは武帝同時なり。

仏法初めて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、わが国の神慮に違ふべきよし、群臣固く諌め申しけるによりて捨てられにき。されどこの国に三宝の名を聞くことはこの時に始まる。

また、私しにあがめ仕へ奉る人もありき。天皇聖徳ましまして三宝を感ぜられけるにこそ、群臣の諌めによりて、その法を立てられずといへども、天皇の叡志(えいし=賢明)にはあらざるにや。

昔、仏在世に、天竺の月蓋長者(がつがいちょうじや)、鋳奉りし弥陀三尊の金像を伝へて渡し奉りける、難波の堀江に捨てられたりしを、善光と云ふ者とり奉て、信濃の国に安置し申しき。今の善光寺これなり。

この御時八幡大菩薩、始めて垂迹しまします。天皇天下を治め給ふふこと三十二年。八十一歳おましましき。

○第三十一代、第二十二世、敏達(びだつ)天皇は欽明第二の子。御母石媛(いしひめ)の皇女、宣化天皇の女なり。壬辰(みづのえたつ)の年即位。

大倭(やまと)の磐余訳語田(いわれおさだ)の宮にまします。

二年癸巳(みづのとみ)の年、天皇の御弟豊日(とよひ)皇子の妃、御子を誕生す。厩戸(うまやど)の皇子にまします。生れ給ひしより様々の奇瑞あり。ただ人にましまさず。

御手をにぎり給ひしが、二歳にて東方にむきて、南无仏(なむぶつ)とて開き給ひしかば、一つの舎利ありき。仏法流布のために権化し給へること疑ひなし。この仏舎利は今に大倭の法隆寺にあがめ奉る。

天皇天下を治め給ふこと十四年。六十一歳おましましき。

○第三十二代、用明(ようめい)天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫(きたしひめ)、蘇我の稲目大臣(いなめのおおおみ)の女なり。豊日(とよひ)の尊と申す。厩戸の皇子の父におはします。丙午の年即位。

大和の池辺列槻(いけのへのなみつき)の宮にまします。仏法をあがめて、わが国に流布せむとし給けるを、弓削守屋(ゆげのもりや)の大連(おおむらじ)かたむけ(=反対)申し、遂に叛逆に及びぬ。

厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一つにして誅戮(ちゅうりく)せられ、即ち仏法を広められにけり。天皇天下を治め給ふこと二年。四十一歳おましましき。

○第三十三代、崇峻(すしゅん)天皇は欽明第十二の子。御母小姉君(こあねきみ)の娘(いらつめ)。これも稲目(いなめ)の大臣の女なり。戊申(つちのえさる)の年即位。

大和の倉橋の宮にまします。天皇横死の相(そう)見え給ふ。慎みますべきよしを厩戸(うまやど)の皇子奏し給ひけりとぞ。

天下を治め給ふこと五年。七十二歳おましましき。或人の云ふ。外舅蘇我の馬子大臣と御中あしくして、彼の大臣のためにころされ給ひきとも云へり。

○第三十四代、推古天皇は欽明の御女、用明同母の御妹なり。御食炊屋(みけしかや)姫の尊と申す。敏達天皇、皇后とし給ふ〈仁徳も異母の妹を妃とし給ふことありき〉。崇峻隠れ給ひしかば、癸丑(みづのとうし)の年即位。

大倭(やまと)の小墾田(おはりた)の宮にまします。

昔、神功皇后六十余年天下を治め給ひしかども、摂政と申して、天皇とは号し奉らざるにや。この御門(みかど)は正位(しょうい)につき給ひにけるにこそ。即ち厩戸の皇子を皇太子として万機の政をまかせ給ふ。摂政と申しき。

太子の監国(かんこく=太子が天皇の代理になった)と云ふこともあれど、それはしばらくの事なり。これ(=推古)はひとへに天下を治め給ひけり。太子聖徳ましまししかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。

太子いまだ皇子にてましましし時、逆臣守屋を誅し給ひしより、仏法始めて流布しき。まして政をしらせ給へば、三宝を敬ひ、正法を広め給ふこと、仏世にも異ならず。

また神通自在にましましき。御身づから法服を着して、経を講じ給ひしかば、天より花をふらし、放光動地(ほうこうどうち)の瑞ありき。

天皇・群臣、尊(たふと)びあがめ奉ること仏のごとし。伽藍を建てらるる事四十余け所におよべり。

またこの国には昔より人すなほにして法令なんども定まらず。十二年甲子に初めて冠位と云ふことを定め〈冠(こうぶり)のしなによりて、上下をさだむるに十 八階あり〉、十七年己巳(つちのとみ)に憲法十七か条を作りて奏し給ふ。内外典の深き道をさぐりて、むねをつづまやかにして作り給へるなり。天皇悦びて天 下に施行せしめ給ひき。

この頃ほひは、唐土には隋の世なり。南北朝相ひ分かれしが、南は正統をうけ、北は戎狄(じゅうてき)より起こりしかども、中国をば北朝にぞ(=が)治めける。

隋は北朝の後周と云ひしが譲りをうけたりき。後に南朝の陳(ちん)を討ち平らげて、一統の世となれり。

この天皇の元年癸丑(みづのとうし)は文帝一統の後四年なり。十三年乙丑(きのとうし)は煬帝(ようだい)の即位元年に当たれり。

彼の国より初めて使を送り、よしみを通じけり。隋帝の書に「皇帝恭(つつし)んで倭皇に問ふ」とありしを、これは唐土の天子の諸侯王(=属国の王)に遣は す礼儀なりとて、群臣あやしみ申しけるを、太子のの給ひけるは、「皇の字はたやすく用ゐざる詞(ことば)なれば」とて、返報をもかかせ給ひ、様々饗禄 (きょうろく=贈り物)をたまひて使(つかい)を返し遣はさる。

これよりこの国よりもつねに使を遣はさる。その使を遣隋大使(けんずいたいし)となむ名づけられしに、二十七年己卯(つちのとう)の年、隋滅びて唐の世に移りぬ。

二十九年辛巳の年太子隠れ給ふ。御年四十九。天皇を初め奉りて、天下の人かなしみ惜(お)しみ申すこと父母に喪するがごとし。

皇位をも継ぎましますべかりしかども、権化(ごんげ=仏の化身)の御事なれば、定めて故(ゆえ)ありけんかし。御諱(いみな)を聖徳となづけ奉る。

この天皇天下を治め給ふこと三十六年。七十歳おましましき。

○第三十五代、第二十四世、舒明(じょめい)天皇は忍坂大兄(おしさかおおえ)の皇子の子、敏達(びだつ)の御孫なり。御母糠手(ぬかて)姫の皇女、これも敏達の御女なり。

推古天皇は聖徳太子の御子(=山背大兄王)に伝へ給はんと思し召しけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫(ちゃくそうそん)にまします。

また太子御病ひにふし給ひし時、天皇この皇子(=舒明)を御使としてとぶらひまししに、天下のことを太子の申し付け給へりけるとぞ。

癸丑(みづのとうし)の年即位。大倭の高市郡岡本(たけちのこおりおかもと)の宮にまします。

この即位の年は唐土の唐の太宗の初め、貞観(じょうがん)三年に当たれり。天下を治め給ふこと十三年。四十九歳おましましき。

○第三十六代、皇極天皇は茅渟(ちぬ)の王の女、忍坂大兄(おしさかおおえ)の皇子の孫、敏達の曾孫なり。御母吉備姫(きびひめ)の女王と申しき。舒明天皇、皇后とし給ふ。

天智・天武の御母なり。舒明隠れまして皇子幼くおはしまししかば、壬寅(みづのえとら)の年即位。

大倭明日香河原(やまとのあすかのかわら)の宮にまします。

この時に蘇我蝦夷(そがのえみし)の大臣〈馬子(うまこ)の大臣の子〉ならびにその子入鹿(いるか)、朝権(ちょうけん)を専(もは)らにして皇家(こうか)をないがしろにする心あり。

その家を宮門(みかど)と云ひ、諸子を王子となむ云ひける。上古(しょうこ)よりの国紀重宝(こくき・ちょうほう)みな私の家に運びおきてけり。

中にも入鹿、悖逆(はいげき=謀反)の心甚だし。聖徳太子の御子達の咎(とが)なくましまししを滅ぼし奉る。

ここに皇子、中大兄(なかのおおえ)と申すは舒明の御子、やがて(=すなわち)この天皇(=皇極)御所生(ごしょしょう=お腹を痛めた子)なり。中臣鎌足(なかとみのかまたり)の連(むらじ)と云ふ人と心を一つにして入鹿を殺しつ。

父蝦夷も家に火をつけて失せぬ。国紀重宝はみな焼けにけり。蘇我の一門久しく権をとれりしかども、積悪(しゃくあく)の故にや、みな滅びぬ。

山田石川丸(やまだのいしかわまろ)と云ふ人ぞ皇子と心をかよはし申しければ滅せざりける。この鎌足の大臣は天児屋根(アメノコヤネ)の命二十一世の孫なり。

昔天孫(アメミマ=ニニギ)天下り給ひし時、諸神の上首(じょうしゅ=リーダー)にて、この命(=アメノコヤネ)殊に天照大神の勅を受けて輔佐(ふさ)の 神にまします。中臣(なかとみ)と云ふことも、二柱の神(=天孫と天照)の御中(なか)にて、神の御心をやはらげて申し給ひける故なりとぞ。

その孫天種子(あめのたねこ)の命、神武の御代に祭事を司どる。上古は神と皇(きみ)と一つにましまししかば、祭りを司どるは即ち政をとれるなり〈政の字の訓にても知べし〉。

その後天照大神、始めて伊勢国にしづまりましし時、種子(たねこ)の命の末大鹿島(おおかしま)の命、祭官になりて、鎌足の大臣(おおおみ)の父〈小徳冠(しょうとくかん)〉御食子(みけこ)までもその官にて仕へたり。

鎌足に至りて大勲(たいくん)を立て、世に寵せられしによりて、祖業(そぎょう)を起こし先烈(=先祖の功績)を栄(さか)やかされける、無止(やんごとなき)ことなり。

かつは神代よりの余風(=遺風)なれば、しかるべき理(ことわり)とこそ覚え侍れ。後に内臣(うちつおみ)に任じ大臣に転じ、大織冠となる〈正一位の名なり〉。

また中臣を改めて藤原の姓を給はらる〈内臣に任ぜらるる事はこの御代にはあらず。事の次(ついで)に記す〉。

この天皇天下を治ふ給ふこと三年ありて、同母の御弟軽(かる)の王(=孝徳天皇)に譲り給ふ。御名を皇祖母尊(すめみおやのみこと)とぞ申しける。

○第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟なり。乙巳(きのとみ)の年即位。摂津国長柄豊崎(つのくにながらのとよさき)の宮にまします。

この御時初めて大臣を左右に分かたる。大臣(おおおみ)は成務の御時、武内の宿禰(すくね)初めてこれに任ず。

仲哀の御代にまた大連(おおむらじ)の官を置かる。大臣・大連ならびて政をしれり。この御時、大連をやめて左右の大臣とす。また八省百官を定めらる。

中臣の鎌足を内臣(うちつおみ)になし給ふ。天下を治め給ふこと十年。五十歳おましましき。

○第三十八代、齊明(さいめい)天皇は皇極の重祚(ちょうそ)なり。重祚と云ふことは本朝にはこれに始まれり。

異朝には殷大甲(いんのたいこう)不明(=おろか)なりしかば、伊尹(いいん)これを桐宮(とうきゅう)に退ぞけて三年政をとれりき。されど帝位を捨つるまではなきにや。大甲過ちを悔いて徳を修めしかば、もとのごとく天子とす。

晉の世に桓玄(かんげん)と云ひし者、安帝(あんてい)の位を奪ひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給ふ。

唐の世となりて、則天皇后、世をみだられし時、わが所生の子なりしかども、中宗を捨て(=廃位し)て廬陵(ろりょう)王(=中宗を)とす。同じ御子(=中宗の弟)予王(よおう)を立てられしも、また捨てて自ら位にゐ給ふ。

後に中宗位にかへりて唐の祚(そ=帝の継承)絶えず。予王もまた重祚あり。これを睿宗(えいそう)と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代には立てず(=それぞれ一代と数えた)。中宗・睿宗とぞつらねたる。

わが朝に皇極の重祚を齊明(さいめい)と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり(=それぞれ二代に数えた)。天日嗣(あまつひつぎ)を重くする故 か。先賢の議(=昔の人の考え)、定めてよしあるにや。乙卯(きのとう)の年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の岡本の宮と申す。

この御世は唐土の唐の高宗の時に当たれり。高麗を攻めしによりて救ひの兵(つわもの)を申しうけしかば、天皇・皇太子筑紫まで向かはせ給ふ。されど三韓、 遂に唐に属ししかば、軍をかへされぬ。その後も三韓よしみを忘るるまではなかりけり。

皇太子と申すは中大兄皇子の御事なり。孝徳の御代より太子に立ち給ひ、この御時は摂政し給ふと見えたり。天皇天下を治め給ふこと七年。六十八歳おましましき。

○御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇なり。壬戌(みづのえいぬ)の年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣(うちつおみ)鎌足を内大臣大織冠とす。

また藤原朝臣の姓を給ふ。昔の大勲を賞し給ひければ、朝奨(ちょうしょう)ならびなし。先後(=全部で)封(ふう)を給ふこと一万五千戸なり。病ひの間にも行幸してとぶらひ給けるとぞ。

この天皇中興の祖にまします〈光仁(こうにん)の御祖なり〉。国忌(こくき=先帝の命日)は時に従ひてあらたまれども、これ(=この天皇の命日)はながく変はらぬことになりにき。天下を治め給ふこと十年。五十八歳おましましき。

○第四十代、天武天皇は天智同母の弟なり。皇太子に立ちて大倭(ヤマト)にましましき。天智は近江にまします。御病ひありしに、太子を呼び申し給ひける を、近江の朝廷の臣の中に告げしらせ申す人ありければ、御門の御意の趣(おもぶ)きにやありけん(=帝の意図を察して)、太子の位を自ら退ぞきて、天智の 御子太政大臣大友の皇子に譲りて、芳野(よしの)の宮に入り給ふ。

天智隠れ給ひて後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をおそはんとぞはかり給ける。天皇(=天武)ひそかに芳野を出で、伊勢に越え、飯高 (いいたか)の郡に至りて大神宮を遥拝(ようはい)し、美濃へかかりて(=入って)東国の軍を召す。

皇子高市(たけち=天武の長男)まゐり給ひしを大将軍として、美濃の不破(ふわ)をまぼらしめ、天皇は尾張の国にぞ越え給ける。国々従ひ申ししかば、不破の関の軍(いくさ)に打ち勝ちぬ。

則ち勢多(せた)に望みて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或ひは誅(ちゅう)にふし、或ひは遠流(おんる)せらる。

軍(いくさ)に従ひ申す輩しなじなによりてその賞を行なはる。壬申(みづのえさる)の年即位。大倭の飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)の宮にまします。朝廷の法度(ほうと=律令)多く定められにけり。

上下(かみしも)漆塗りの頭巾(かぶり)を着ることもこの御時より始まる。天下を治め給ふこと十五年。七十三歳おましましき。

○第四十一代、持統天皇は天智の御女なり。御母越智娘(おちのいらつめ)、蘇我の山田の石川丸の大臣の女なり。天武天皇、太子にましまししより妃とし給ふ。後に皇后とす。

皇子草壁、若くましまししかば、皇后(=自らが)、朝(ちょう)に(=天皇になることを)望み給ふ。戊子(つちのえね)の年なり。庚寅(かのえとら)の春 正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立ち給ひしが、世を早くし給ふ。よりてその(=草壁の)御子軽(かる)の王(=孝徳天皇も軽 皇子)を皇太子とす。文武(もんむ=天皇)にまします。

前の太子は後に追号(ついごう)ありて長岡の天皇と申す。この天皇天下を治め給ふこと十年。位を太子に譲りて太上天皇と申しき。

太上天皇と云ふことは、異朝に、漢の高祖の父を太公と云ひ、尊号ありて太上皇(たいじょうこう)と号す。その後、後魏の顕祖(けんそ)、唐の高祖・玄宗・睿宗等なり。

本朝には昔はその例なし。皇極天皇、位をのがれ給ひしも、皇祖母尊(すめみおやのみこと=既出)と申しき。この天皇(=持統)よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましましき。

○第四十二代、文武(もんむ)天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫なり。御母阿閇(あえ)の皇女、天智の御女なり〈後に元明天皇と申す〉。丁酉(ひのととり)の年即位。なほ藤原の宮にまします。

この御時唐国の礼を移して、宮室の造り、文武官(ぶんぶかん)の衣服の色までも定められき。また即位五年辛丑より始めて年号あり。大宝(たいほう)と云ふ。

これより先に、孝徳の御代に大化・白雉(はくち)、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀(すざく)・朱鳥(しゅちょう)なんど云ふ号ありしかど、大宝より後 にぞ絶えぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始めとするなり。また皇子を親王と云ふこと、この御時に始まる。

また藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをも選び定められき。藤原の氏、この大臣よりいよいよ盛りになれり。

四人の子おはしき。これを四門(しもん)と云ふ。一門は武智麿(むちまろ)の大臣の流れ、南家(なんけ)と云ふ。二門は参議中衛(ちゅうえ)の大将房前 (ふささき)の流れ、北家(ほくけ)と云ふ。いまの執政大臣及びさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。

三門(さんもん)は式部卿(しきぶきょう)宇合(うまかい)の流れ、式家(しきけ)と云ふ。四門(しもん)は左京大夫麿(まろ)の流、京家(きょうけ)と云ひしが早く絶えにけり。

南家・式家も儒胤(じゅいん)にていまに相続すと云へども、ただ北家のみ繁昌す。房前の大将、人に異なる陰徳(いんとく)こそおはしけめ。

〔裏書に云ふ。正一位左大臣武智丸、天平九年(737)七月薨ず。天平宝字(てんぴょうほうじ)四年(760)八月太政大臣を贈らる。

参議正三位中衛大将房前、天平九年(737)四月薨ず(=二人とも当時流行の天然痘で死亡)。十月左大臣正一位を贈らる。宝字四年(760)八月太政大臣を贈らる。

天平宝字四年(760)八月大師(=太政大臣)藤原恵美押勝(=武智麻呂の子)奏す、「帯ぶる所の大師之任(=太政大臣の位)を廻らして、南北の両大臣(=南家武智麻呂と北家房前)に譲らんと欲する者なり」。

勅処分、「請(こい)に依りて南卿藤原武智丸に太政大臣を贈らる、北卿〈贈左大臣房前〉には転じて太政大臣を贈らる云々」。〕

また不比等(659-720)の大臣は後に淡海公(たんかいこう)と申すなり。興福寺を建立す。この寺は大織冠の建立にて山背(やましろ)の山階(やましな)にありしを、この大臣、平城に移さる。仍りて山階寺とも申なり。

後に玄昉(げんぼう)と云ふ僧、唐へ渡りて法相宗(ほっそうしゅう)を伝へて、この寺に広められしより、氏神春日の明神も殊にこの宗を擁護し給ふとぞ

〈春日の神は天児屋(アメノコヤネ)の神を本とす。本社は河内の平岡にます。春日に移り給ふことは神護景雲(じんごけいうん、767-770)年中のことなり。しからば、この大臣以後のことなり。

また春日第一の御殿、常陸鹿島(ひたちのかしま)の神、第二は下総の香取(かとり)の神、三は平岡、四は姫御神(ひめおんかみ)と申す。しかれば藤氏(とうじ)の氏神は三の御殿にまします〉。

この天皇天下を治め給ふこと十一年。二十五歳おましましき。

○第四十三代、元明(げんめい)天皇は天智第四の女、持統異母の妹。御母蘇我嬪(そがのひめ)。これも山田石川丸の大臣の女なり。

草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未(ひのとひつじ)の年即位。戊申(つちのえさる)に改元。三年庚戌(かのえいぬ)始めて大倭(やまと)の平城の宮に都を定めらる。

古(いにしえ)には代ごとに都を改め、即ちその御門(みかど)の御名に呼び奉りき。持統天皇、藤原宮にまししを文武初めて改めたまはず。

この元明天皇平城に移りましまししより、また七代の都になれりき。天下を治め給ふこと七年。禅位(ぜんい=譲位)ありて太上天皇と申ししが、六十一歳おましましき。

○第四十四代、元正(げんしょう)天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉なり。乙卯(きのとう)の年正月に摂政、九月に受禅(じゅぜん=譲位を受ける)、即日即位、十一月に改元。

平城の宮にまします。この御時、百官に笏(しゃく)をもたしむ〈五位以上牙笏(げしやく)、六位は木笏(もくしやく)〉。天下を治め給ふこと九年。禅位の後二十年。六十五歳おましましき。

○第四十五代、聖武(しょうむ)天皇は文武の太子。御母皇太夫人(こうたいぶにん)藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女なり。豊桜彦(とよさくらひこ)の尊と申す。

幼くまししによりて、元明・元正まづ位にゐ給ひき。甲子の年即位、改元。平城の宮にまします。

この御代、大きに仏法をあがめ給ふこと先代に越えたり。東大寺を建立し、金銅(こんどう)十六丈の仏を作らる。また諸国に国分寺及び国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。

また多くの高僧他国より来朝す。南天竺(なんてんじく=南インド)の波羅門僧正(ばらもんそうじょう)〈菩提と云ふ〉、林邑(りんおう=ヴェトナムとタイ)の仏哲、唐の鑑真和尚等これなり。

真言の祖師、中天竺(=中央インド)の善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう 637-735)も来たり給へりしが、密機(みつき=密教を伝える機運)いまだ熟せずとて帰り給ひにけりとも云へり。

この国にも行基菩薩、朗弁僧正など権化人(=仏の生まれかわり)なり。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖(ししょう=東大寺建立の聖人)とぞ申し伝へたる。

この御時太宰少弐(しょうに)藤原広継と云ふ人〈式部卿宇合(うまかい)の子なり〉謀叛の聞こえあり、追討せらる〈玄昉僧正の讒(ざん=中傷)によれりとも云へり。仍りて霊となる。今の松浦(まつら)の明神なり云々〉。

祈祷(きとう)のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。また左大臣長屋王〈太政大臣高市王(たけちのおう)の子、天武の御孫なり〉罪ありて誅せらる。

また陸奥の国より始めて黄金を奉る。この朝に金(こがね)ある始めなり。国の司(つかさ)の王、賞ありて三位に叙す。仏法繁昌の感応(=神の応報)なりと ぞ。天下を治め給ふこと二十五年。天位を御女高野の姫の皇女に譲りて太上天皇と申す。後に出家せさせ給ふ。天皇出家の始めなり。

昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子も同じく出家せさせ給ふ。この天皇五十六歳おましましき。

○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女なり。聖武の皇子安積(あさか)の親王世を早くして後、男子ましまさず。仍りてこの皇女立ち給ひき。

己丑(つちのとうし)の年即位、改元。平城の宮にまします。天下を治め給ふこと十年。大炊(おおい)の王を養子として皇太子とす。位を譲りて太上天皇と申す。出家せさせ給ひて、平城宮の西の宮になむましましける。

○第四十七代、淡路廃帝(あわじはいてい)は一品(いちほん=一位)舎人の親王の子、天武の御孫なり。御母、上総介当麻(たいま)の老(おきな)が女なり。

舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事(ちだいじょうかんじ)と云ふ職を授けられ、朝務を輔(たす)け給ひけり。日本紀もこの親王、勅(みことのり)を受けたまはつて選び給ふ。

後に追号ありて尽敬(じんけい)天皇と申す。孝謙天皇御子ましまさず、また御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にして譲り給ふ。ただし、年号なども改められず。女帝(=孝謙)の御ままなりしにや。

戊戌(つちのえいぬ=758年)の年即位。天下を治め給ふこと六年。事(=恵美押勝の乱に加担)ありて淡路の国に移され給ひき。三十三歳おましましき。

○第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚なり。庚戌(かのえいぬ=770年?、乙巳765年のことか)の年正月一日、更に即位、同じき七日改元(=天平神護)。

太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸(こう)し給ひき。大師〈その時太政大臣を改めて大師と云ふ〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給ひき。

天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云ふ法師〈弓削の氏人なり〉また寵幸(ちょうこう)ありしに、押勝怒りをなし、廃帝をすすめ申して、上皇の宮をかたぶけんとせしに、こと現れて誅にふしぬ。

帝も淡路に移され給ふ。かくて上皇重祚あり。先に出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極みなりけんかし。

唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗隠れ給ひて、尼に成りて、感業(かんぎょう)と云ふ寺におはしける、高宗見給ひて長髪せしめて皇后とす。

諌め申す人おほかりしかども用ゐられず。高宗崩じて中宗位にゐ給ひしを退ぞけ、睿(えい)宗を立てられしを、また退ぞけて、自ら帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名を失はんと思ひ給けるにや。

中宗・睿宗もわが生み給ひしかども、捨てて諸王とし、自らの族(やから)武氏のともがらを以ちて、国を伝へしめんとさへし給ひき。

その時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世に謗(そし)らるる例多く侍りしか。

この道鏡初めは大臣に准じて〈日本の准大臣の初めにや〉大臣禅師と云ひしを太政大臣になし給ふ。それによりてつぎつぎ納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のままにしければ、争ふ人のなかりしにや。

大臣吉備の真備(まきび)の公、左中弁藤原の百川(ももかわ)などありき。されど、力及ばざりけるにこそ。

法師の(=を)官に任ずることは、唐土より始めて、僧正・僧統など云ふ事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。

いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、唐土にも南朝の宋の世に恵琳(えりん)と云ひし人、政事にまじらひしを黒衣宰相と云ひき〈但しこれは官に任ずとは見えず〉。

梁の世に恵超(えちょう)と云ひし僧、学士の官になりき。北朝の魏の明元帝(めいげんてい)の代に法果(ほうか)と云ふ僧、安城(あんじょう)公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまた聞こえき。

粛宗(しゅくそう)の朝に道平(どうへい)と云ふ人、帝と心を一つにして安禄山が乱を平らげし故に、金吾将軍になされにけり。

代宗の時、天竺の不空三蔵(705- 774)をたふとび給ふ余りにや、特進試鴻臚卿(しこうろけい)を授けらる。後に開府、儀同三司(ぎどうさんし)粛国公(しゅくこくこう)とす。帰寂(き じゃく)ありしかば司空(しこう)の官をおくらる〈司空は大臣の官なり〉。

則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治め給ふこと五年。五十七歳おましましき。

天武・聖武、国に大功あり、仏法をも広め給ひしに、皇胤ましまさず。この女帝にて絶え給ひぬ。女帝隠れ給ひしかば、道鏡をば下野(しもつけ)の講師になして流しくだされにき。

そもそもこの道鏡は法王の位を授けられたりし、猶ほあかずして皇位につかんと云ふ心ざしありけり。女帝さすが思ひわづらひ給ひけるにや、和気の清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。

大菩薩様々託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのままに奏聞す。道鏡怒りをなして、清丸がよぼろすぢ(=膝の後ろの筋)をたちて、土左の国(=実は鹿児島)にながし遣はす。

清丸うれへ悲しみて、大菩薩を恨みかこち申しければ、小蛇、出で来てその傷をいやしけり。

光仁(こうにん)位につき給ひしかば、即ち召しかへさる。神威をたふとび申して、河内の国に寺を立て、神願寺(じんがんじ)と云ふ。後に高雄の山にうつし立つ。今の神護寺これなり。

件(くだり)の頃までは神威もかく著(いちじる)きことなりき。かくて道鏡、遂に望みをとげず。女帝もまた程なく隠れ給ふ。

宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりし上に、皇統を定め奉ることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。

○第四十九代、第二十七世(=直系では27代目)、光仁(こうにん)天皇は施基(しき=志貴)の皇子の子、天智天皇の御孫なり

〈(=施基)皇子は第三(=類聚三代格による)の御子なり。追号ありて田原の天皇と申す〉。

御母贈皇太后紀旅子(きのもろこ=橡姫(とちひめ))、贈太政大臣旅人(もろひと=紀諸人)の女なり。

白壁(しらかべ)の王と申しき。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給ひて、正三位勲二等大納言に至り給ひき。

称徳隠れましまししかば、大臣以下皇胤の中を選び申しけるに、各々異議ありしかど、参議百川と云ひし人、この天皇に心ざし奉りて、謀を廻らして定め申してき。

天武世を知り給ひしより争ひ申す人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給ふ。そのかみ(=天智が)逆臣(=蘇我氏)を誅し、国家をも安くし給へり。

この君(=光仁天皇)のかく継体(=皇位継承)にそなはり給ふ、猶正しきに返るべき謂はれなるにこそ。まづ皇太子に立ち、即ち受禅〈御年六十二〉。

ことし庚戌(かのえいぬ)の年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治め給ふこと十二年。七十三歳おましましき。

○第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野新笠(たかののにいがさ)、贈太政大臣乙継(おとつぐ)の女なり。

光仁即位の初め井上(いのへ)の内親王〈聖武御女〉をもて皇后とす。彼所生(しょしょう=彼女から生まれた)の皇子沢良(さわら)の親王、太子に立ち給ひき。

しかるを百川朝臣、この天皇にうけつがしめ奉らんと心ざして、また謀を廻らし、皇后及び太子を捨てて、遂に皇太子に据ゑ奉りき。

その時しばらく不許(ふきよ)なりければ、四十日まで殿の前に立ちて申し(=伺候し)けりとぞ。類ひなき忠烈の臣なりけるにや。

皇后・前の太子(=天皇によって)攻められて失せ給ひにき。怨霊を安められんためにや、太子は後に追号ありて崇道(すどう)天皇と申す。

(=桓武天皇は)辛酉の年即位、壬戌(みづのえいぬ)に改元。初めは平城にまします。山背(やましろ)の長岡に移り、十年ばかり都なりしが、また今の平安城に移さる。山背の国をも改めて山城と云ふ。

永代に変はるまじくなん謀(はか)らはせ給ひける。昔聖徳太子蜂岡(はちおか)に昇り給ひて〈太秦これなり〉いまの城(じょう=平安京)を見めぐらして、 「四神(しじん)相応の地なり。百七十余年ありて都を移されて、変はるまじき所なり」との給けりとぞ申し伝へたる。

その年紀(=百七十年後)も違はず、また数十代不易(=不変)の都となりぬる、誠に王気相応の福地たるにや。

この天皇大きに仏法をあがめ給ふ。延暦二十三年伝教・弘法、勅を受けて唐へ渡り給ふ。その時即ち唐朝へ使ひを遣はさる。

大使は参議左大弁兼越前守、藤原葛野麿朝臣(かどのまろのあそん)なり。伝教は天台の道邃和尚(どうすいかしょう)に会ひ、その宗をきはめて同じき二十四年に大使と共に帰朝せらる。

弘法は猶ほかの国に留まりて大同(だいどう=806~810)年中に帰り給ふ。この御時東夷叛乱しければ、坂上の田村丸を征東大将軍になして遣はされしに、悉く平らげて帰り詣でけり。この田村丸は武勇人に優れたりき。

初めは近衛の将監になり、少将に移り、中将に転じ、弘仁(こうにん=大同の次)の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文をも兼ねたればにや、納言の官にものぼりにける。

子孫はいまに文士にてぞ伝はれる。天皇天下を治め給ふこと二十四年。七十歳おましましき。

巻四

○第五十一代、平城(へいせい)天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏(おとむろ)、贈太政大臣良継(よしつぐ)の女なり。

丙戌(ひのえいぬ)の年即位、改元。平安宮にまします〈これより遷都なきによりて御在所を記すべからず〉。天下を治め給ふこと四年。太弟(=天皇の弟)に譲りて太上天皇と申す。

平城の旧都に帰りて住ませ給ひけり。尚侍(ないしのかみ)藤原の薬子(=平城天皇の愛人)を寵しましけるに、その弟参議右兵衛督仲成(なかなり)等申しすすめて逆乱の事ありき。

田村丸を大将軍として追討せられしに、平城(=上皇)の軍やぶれて、上皇出家せさせ給ふ。御子東宮高岡の親王もすてられて、同じく出家、弘法大師の弟子になり、真如(しんにょ)親王と申すはこれなり。

薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおましましき。

○第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟なり。太弟(≒皇太子)に立ち給へりしが、己丑(つちのとうし)の年即位、庚寅(かのえとら)に改元。

この天皇幼年より聰明にして読書を好み、諸芸を習ひ給ふ。また謙譲の大度もましましけり。桓武帝鍾愛無双の御子になんおはしける。儲君(ちょくん=皇太 子)にゐ給けるも父の帝、継体(=後継)のために顧命(こめい=遺言)しましましけるにこそ。

格式などもこの御時より選び始められにき。また深く仏法をあがめ給ふ。先の世に美濃の国神野と云ふ所に尊(とう)とき僧ありけり。橘太后(きったいこう= 嵯峨天皇の后)の先世(=前世)にねむごろに給仕しけるを感じて相共(=嵯峨天皇と橘皇后が)に再誕(さいたん=再びこの世に生まれた)ありとぞ。

御諱(いみな)を神野と申しけるも自然にかなへり。

伝教〈御名最澄〉弘法〈御名空海〉両大師唐より伝へ給ひし天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。この両師、直(ただ)なる人(=常人)におはせず。

伝教入唐以前より比叡山を開きて練行(れんぎょう)せられけり。今の根本中堂の地をひ<ら>かれけるに、八の舌ある鎰(かぎ)を求めいでて唐までもたれたり。

天台山(=中国の山)に昇りて智者大師〈天台の宗起こりて四代の祖なり。天台大師とも云ふ〉六代の正統道邃(どうすい)和尚に謁して、その宗を習はれし に、彼の山に智者帰寂(きじゃく=入滅)より以来鎰(かぎ)を失ひて開かざる一つの蔵ありき。(=伝教が)心みにこの鎰にて開けらるるにとどこほらず(= 開いた)。

一山こぞりて(=伝教を)渇仰しけり。仍りて一宗の奥義残る所なく(=伝教に)伝へられたりとぞ。その後慈覚・智証両大師また入唐して天台・真言をきはめ習ひて、叡山に広められしかば、彼の門風いよいよ盛りになりて天下に流布せり。

唐国乱れしより経教(=経典)多く失せぬ。道邃より四代に当たれる義寂(ぎじゃく)と云ふ人まで、ただ観心(かんじん=修行)を伝へて宗義を明らむること絶えにけるにや。

呉越国の忠懿王(ちゅういおう)〈姓は銭、名は鏐(りゅう)、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇(へんば=辺境)の主たり〉この宗の衰へぬることを 歎きて、使者十人をさして、わが朝に送り、教典を求めしむ。悉く写し終はりて帰りぬ。

義寂これを見あきらめて、更にこの宗を再興す。唐土には五代の中、後唐(こうとう)の末ざまなりければ、わが朝には朱雀天皇の御代にや当たりけん。日本より返し渡したる宗なれば、この国の天台宗はかへりて本となるなり。

凡そ伝教、彼宗の秘密を伝へられたることも〈唐の台州刺史(しし=地方官)陸淳が印記の文にあり〉、悉く一宗の論疏を写し国にかへれることも〈釈志磐が『仏祖統紀』に載せたり〉、異朝の書に見えたり。

弘法は母懐胎の始め、夢に天竺の僧来りて宿を借り給ひけりとぞ。宝亀(ほうき)五年甲寅六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日に当たれり。不空三蔵入滅す。仍りてかの後身と申すなり。

かつは恵果和尚(746- 805)の告げにも「我と汝と久しき契約あり。誓ひて密蔵を弘めん」とあるもその故にや。渡唐の時も或ひは五筆の芸を施し、様々の神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰ぎ信じ給ひき。

彼の恵果〈真言第六の祖、不空の弟子〉和尚六人の附法(=弟子)あり。剣南(=四川)の惟上、河北の義円〈金剛一界を伝ふ〉、新羅の恵日(えにち)、訶陵 (=インドネシア)の弁弘〈胎蔵一界を伝ふ〉、青竜(=西安)の義明、日本の空海〈両部を伝ふ〉(=金剛胎蔵の両方)。

義明は唐朝におきて灌頂(かんじょう)の師(=正導師)たるべかりしが世を早くす。弘法は六人の中に瀉瓶(しゃびょう=皆伝の弟子)たり〈恵果の俗弟子、 呉殷が纂(さん=編纂)の詞にあり〉。しかれば、真言の宗には正統なりと云ふべきにや。これまた異朝の書に見えたるなり。

伝教も、不空の弟子順暁に会ひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、深く学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にも訪ぶらはれけり。またいまこの流絶えにけり。

慈覚・智証は、恵果の弟子義操、法潤と聞こえしが弟子法全に会ひて伝へらる。

凡そ本朝流布の宗、今は七宗なり。この中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧(いこう)専(もは)ら鎮護国家のためと心ざされけるにや。

比叡山には〈比叡と云ふこと桓武・伝教、心を一つにして興隆せられし故名づくと彼山の輩、称するなり。しかれど旧事本紀に比叡の神の御こと見えたり〉顕密ならびて紹隆(=発展)す。

殊に天子、本命(ほんみょう)の道場(=国家護持の道場)を建てて御願を祈る地なり〈これは密につくべし〉。また根本中堂を止観院と云ふ。法華の経文につき、天台の宗義により、かたがた鎮護の深義ありとぞ。

東寺は桓武遷都の初め、皇城の鎮めのためにこれを建てらる。弘仁の御時、弘法に給ひてながく真言の寺とす。諸宗の雑住(ぞうじゅう=一緒に行う)を許さざる地なり。

この宗を神通乗(じんづうじょう)と云ふ。如来果上(にょらいかしょう=最高の覚り)の法門にして諸教に越えたる極く秘密と思へり。就中わが国は神代より の縁起、この宗の所説に符合せり。この故にや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、則ち日本に留まりぬ。

また「相応の宗」なりと云ふも理(ことわり)にや。大唐の内道場に准じて宮中に真言院を建つ〈もとは勘解由使の庁なり〉。大師奏聞して毎年正月この所にて御修法あり。

国土安穏の祈祷、稼穡(かしょく=農業)豊饒の秘法なり。また十八日の観音供、晦日の御念誦等も宗によりて深意あるべし。

三流の真言いづれと云ふべきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜の御宇に綱所(こうしょ)の印鎰(いんやく)を東寺の一の阿闍梨に預けらる。仍りて法務のことを知行して諸宗の一座たり。

山門・寺門(=延暦寺・園城寺)は天台をむねとする故にや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主と云ふめり。

この天皇諸宗を並べて興(こう)ぜさせ給ひけり。中にも伝教・弘法御帰依深かりき。伝教始めて円頓(えんどん=教え)の戒壇をたつべきよし奏せられしを、 南京の諸宗、表を上(たてまつ)りて争ひ(=反対)申ししかど、遂に戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法(=天皇は弘法と)はことさら師 資(しし=師匠と弟子)の御約ありければ、重くし給けるとぞ。

この両宗の外、華厳・三論は東大寺にこれを広めらる。彼の華厳は唐の杜順(とじゅん)和尚より盛りになれりしを、日本の朗弁僧正伝へて東大寺に興隆す。この寺は則ちこの宗によりて建立せられけるにや、大華厳寺と云ふ名あり。

三論は東晉の同時に後秦と云ふ国に羅什三蔵(らじゅうさんぞう=鳩摩羅什)と云ふ師来りて、この宗を開きて世に伝へたり。孝徳の御世に高麗の僧恵潅(えか ん)来朝して伝へ始めける。しからば最前(=最初)流布の教へにや。その後道慈律師請来(しょうらい=中国から持ち帰って)して大安寺に広めき。今は華厳 とならびて東大寺にあり。

法相は興福寺にあり。唐玄弉三蔵、天竺より伝へて国に広めらる。日本の定恵(じょうえ)和尚〈大織冠の子なり〉彼の国に渡り玄弉の弟子たりしかど、帰朝の 後、世を早くす。今の法相は玄昉(げんぼう)僧正と云ふ人入唐して泗州の智周大師〈玄弉二世の弟子〉にあひてこれを伝へて流布しけるとぞ。

春日の神もことさらこの宗を擁護し給ふなるべし。この三宗に天台を加へて四家の大乗(=華厳三論法相天台)と云ふ。倶舎・成実(じょうじつ)なんど云ふは 小乗なり。道慈律師同じく伝へて流布せられけれども、依学(えがく=学問)の宗にて、別に一宗を立つることなし。

わが国大乗純熟(じゅんじゅく)の地なればにや、小乗を習ふ人なきなり。また律宗は大小に通ずるなり。鑒真和尚来朝して広められしより東大寺及び下野の薬 師寺・筑紫の観音寺に戒壇を建てて、この戒をうけぬものは僧籍につらならぬ事になりにき。

中古より以来、その名ばかりにて戒体(かいたい=戒の実体)を守ること絶えにけるを、南都の思円(しえん)上人等、章疏(しょうしょ=注釈)を見明(あき)らめて戒師となる。

北京(ほくきょう=京都)には我禅(がぜん)上人、入宋して彼の土の律法を受け伝へてこれをひろむ。南北の律、再興して彼の宗に入る輩は威儀を具すること古きがごとし。

禅宗は仏心宗とも云ふ。仏の教外別伝(きょうげべつでん=心から心へ伝える)の宗なりとぞ。梁の代に天竺の達磨大師、来りて広められしに、武帝に機、叶はず。江を渡りて北朝に至る。

嵩山(すうざん)と云ふ所に留まり、面壁(めんぺき)して年をおくられける。後に恵可(えか)これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師(くにんぜんじ)と聞こえし、嗣法(しほう=伝承)南北に相ひ分かる。

北宗(ほくしゅう)の流れをば伝教・慈覚伝へて帰朝せられき。安然和尚〈慈覚の孫弟〉教時諍論(きょうじそうろん)と云ふ書に教理の浅深(せんじん)を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、受け伝ふる人なくて絶えにき。

近代となりて南宗の流れ多く伝はる。異朝には南宗の下に五家あり。その中、臨済宗の下よりまた二流となる。これを五家七宗(しちしゅう)と云ふ。

本朝には栄西僧正(1141-1215)、黄竜(おうりゅう1002-69)の流れをくみて伝来の後、聖一上人(=円爾1202~1280)、石霜(せき そう986-1039)の下つかた虎丘(くきゅう1077-1136)のながれ無準(ぶしゅん1178〜1249)に受く。

彼宗のひろまることはこの両師(=栄西と聖一)よりのことなり。うち続き異朝の僧もあまた来朝し、この国よりも渡りて伝へしかば、諸家の禅多く流布せり。

五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権(ごん)・実(じつ)等の不同には相ひ似るべからず。

いづれも直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)の門をば出でざるなり。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを聊(いささ)か記し侍るにつきて、大方の宗々伝来のおもむきを載せたり。

極めて誤り多く侍らん。但し君としてはいづれの宗をも大概しろしめして捨てられざらんことぞ国家攘災(じょうさい=災いをはらいのける)の御謀(はかりごと)なるべき。

菩薩・大士(だいし=菩薩の別名)も(=それぞれに)司さどる宗あり。わが朝の神明もとりわき擁護し給ふ教へあり。一宗に志しある人、余宗を謗りいやしむ、大きなる誤りなり。

人の機根(=素質)も品々なれば教法も無尽なり。況んやわが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだ知らざる教を謗(そし)らむ、極めたる罪業にや。われはこの宗に帰すれども、人はまた彼の宗に心ざす。共に随分の益(やく)あるべし。

これ皆、今生一世(こんじょういちせ=現世だけの)の値遇(ちぐ=出会い)にあらず。国の主ともなり、輔政(ふせい=摂政)の人ともなりなば、諸教をすて ず、機をもらさずして得益(とくやく=利益)の広からんことを思ひ給ふべきなり。

且は仏教に限らず、儒・道の二教乃至諸々の道、いやしき芸までも起こしもちゐるを聖代と云ふべきなり。

凡そ男夫(なんぷ)は稼穡(かしょく=農業)を務めておのれも食し、人にも与へて、飢ゑざらしめ、女子は紡績を事として自らも着、人をして暖かにならしむ。賎しきに似たれども人倫の大本なり。

天の時に従ひ、地の利によれり。このほか商沽(=商估、商業、しょうこ)の利を通ずるもあり、工巧(くぎょう)のわざを好むもあり、仕官に心ざすもあり、これを四民(=士農工商)と云ふ。

仕官するにとりて文武の二つの道あり。坐して以て道を論ずるは文士の道なり。この道に明らかならば相(しょう)とするにたへたり。征きて功を立つるは武人 のわざなり。このわざに誉れあらば将とするに足れり。されば文武の二つはしばらくも捨て給ふべからず。

「世乱れたる時は武を右にし文を左にす。国収まれる時は文を右にし武を左にす」と云へり〈古(いにしえ)に右を上(かみ)にす。仍りてしか云ふなり〉。

かくのごとく様々なる道をもちゐて、民の憂へを安め、各々争ひなからしめん事を本(もと)とすべし。民の賦斂(ふれん=税を無理にとりたてる)を厚くして自らの心をほしきままにすることは乱世乱国のもとゐなり。

わが国は王種のかはることはなけれども、政乱れぬれば、暦数久しからず。継体も違ふ例、所々に記し侍りぬ。いはんや、人臣としてその職を守るべきにおきてをや。

抑も民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢(ようすう)なり。古には詩・書・礼・楽(がく)をもて国を治むる四術とす。本朝は四術の学を立てらるること 確かならざれど、紀伝・明経・明法の三道に詩・書・礼を摂(せっ=代用)すべきにこそ。算道を加へて四道と云ふ。

代々(よよ)にもちゐられ、その職を置かるることなれば詳しくするにあたはず。医・陰陽の両道またこれ国の至要(しよう)なり。

金石糸竹(きんせきしちく=楽器)の楽は四学の一にて、もはら政をする本なり。今は芸能の如くに思へる、無念のことなり。「風(ふう)を移つし俗を変ふる には楽よりよきはなし」と云へり。一音より五声・十二律に転じて、治乱を弁へ、興衰(こうすい)を知るべき道とこそ見えたれ。

また詩賦哥詠(しふかえい)の風もいまの人のこのむ所、詩学の本には異(こと)なり。しかれど一心より起こりて、よろづの言の葉となり、末の世なれど人を 感ぜしむる道なり。これをよくせば僻(へき=ひがみ)をやめ邪をふせぐ教へなるべし。

かかればいづれか、心の源をあきらめ正にかへる術なからん。輪扁(りんぺん=車輪職人)が輪をけづりて齊の桓公を教へ、弓工が弓を作りて唐の太宗を悟らしむる類ひもあり。

乃至、囲碁弾碁(だんぎ)の戯れまでも、おろかなる心を治め、軽々しきわざをとどめんがためなり。

ただしその源に基づかずとも、一芸は学ぶべきことにや。孔子も「飽くまでに食うて終日(ひねもす)に心を用ゐる所なからんよりは博奕(ばくえき=賭け事)をだにせよ」(=論語17-22)と侍るめり。

まして一道をうけ、一芸にも携さはらん人、本を明(あき)らめ、理をさとる志しあらば、これより理世(=治世)の要ともなり、出離(しゅつり=悟り)の謀(はかりごと)ともなりなむ。

一気一心に基づけ、五大五行により相剋・相生を知り、自からも悟り他にも悟らしめん事、よろづの道その理一つなるべし。

この御門、誠に顕密の両宗に帰し給ひしのみならず、儒学も明らかに、文章もたくみに、書芸も優れ給へりし、宮城の東面の額も御自ら書かしめ給ひき。

天下を治め給ふこと十四年。皇太弟(=淳和天皇)に譲りて太上天皇と申す。帝都の西、嵯峨山と云ふ所に離宮をしめてぞましましける。

一旦、国を譲り給ひしのみならず、行末までも授けましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世親王(=淳和第一皇子)を太子に立て給ひしを、親王また固く辞退して世を背き給ひけるこそありがたけれ。

上皇ふかく謙譲しましけるに、親王またかくのがれ給ひける、末代までの美談にや。昔、仁徳兄弟相ひ譲り給ひし後には聞かざりしことなり。五十七歳おましましき。

○第五十三代、淳和(じゅんな)天皇、西院の帝とも申す。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子(もろこ)、贈太政大臣百川の女なり。癸卯(みづのとう)の年即位、甲辰(きのえたつ)に改元。天下を治め給ふこと十年。太子に譲りて太上天皇と申す。

この時両上皇ましましければ、嵯峨をば前の太上天皇、この御門をば後の太上天皇と申しき。

嵯峨の御門の御掟(おきて)にや、東宮にはまたこの帝の御子恒貞親王(=淳和第二皇子)立ち給ひしが、両上皇隠れましし後に故ありてすてられ給ひき。五十七歳おましましき。

○第五十四代、第三十世、仁明(にんみょう)天皇。諱(いみな)は正良(まさら)〈これより先、御諱確かならず。多くは乳母の姓などを諱にもちゐられき。これより二字正しくましませば載せ奉る〉、深草の帝とも申す。

嵯峨第二の子。御母皇太后橘の嘉智子(かちこ)贈太政大臣清友の女なり。癸丑の年即位、甲寅(きのえとら)に改元。

この天皇は西院の御門(=淳和)の猶子(ゆうし=養子)の儀ましましければ、朝覲(ちょうきん=上皇への行幸)も両皇にせさせ給ふ。

或時は両皇同所にして覲礼(きんれい=朝覲の礼)もありけりとぞ。わが国のさかりなりしことはこの頃ほひにやありけん。

遣唐使もつねにあり。帰朝の後、建礼門の前に、彼の国の宝物の市を立てて、群臣にたまはすることもありき。律令は文武の御代より定められしかど、この御代にぞ選び整へられにける。天下を治め給ふこと十七年。四十一歳おましましき。

○第五十五代、文徳(もんとく)天皇。諱は道康、田村の帝とも申す。仁明第一の子。御母太皇太后(=天皇の祖母)藤原の順子〈五条の后と申す〉、左大臣冬嗣の女なり。庚午(かのえうま=850年)の年即位、辛未に改元。天下を治め給ふこと八年。三十三歳おましましき。

○第五十六代、清和天皇。諱は惟仁(これひと)、水尾の帝とも申す。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子(あきらけいこ)〈染殿の后と申す〉、摂政太政大臣良房の女なり。

わが朝は幼主位にゐ給ふことまれなりき。この天皇九歳にて即位、戊寅(つちのえとら)の年なり。己卯に改元(=貞観)。践祚(=先代の死で践祚その後即位)ありしかば、外祖良房の大臣初めて摂政せらる。

摂政と云ふこと、唐土には唐尭(とうぎょう)の時、虞舜を登用して政をまかせ給ひき。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。

殷の代に伊尹(いいん)と云ふ聖臣あり。湯(とう)及び大甲を輔佐す。これは保衡(ほうこう)と云ふ〈阿衡とも云ふ〉。その心は摂政なり。

周の世に周公旦また大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王若くて位につき給ひしかば、周公自ら南面して摂政す〈成王を負ひて南面せられけりとも見えたり〉。

漢の昭帝また幼にて即位。武帝の遺詔(ゆいじょう)により博陸侯霍光(かくこう)と云ふ人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤(=先例)にも申すめる。

本朝には応神生まれ給ひて襁褓(きょうほう=おしめ)にましまししかば、神功皇后天位にゐ給ふ。しかれど摂政と申し伝へたり。これは今の儀にはことなり。

推古天皇の御時厩戸の皇太子摂政し給ふ。これぞ帝は位に備(そな)はりて天下の政しかしながら摂政の御儘(=意のまま)なりける。

齊明天皇の御世に、御子、中の大兄の皇太子摂政し給ふ。元明の御世の末つかた、皇女浄足姫(きよたらしひめ)の尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給ひき。

この天皇(=清和天皇)の御時、良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することは始まりにける。但しこの藤原の一門、神代より故ありて国王を助け奉ることは先にも所々に記し侍りき。

淡海公(=不比等)の後、参議中衛の大将房前、その子大納言真楯(またて)、その子右大臣内麿、この三代は上二代(=鎌足、不比等)のごとく栄えずやありけむ。

内麿の子冬嗣の大臣〈閑院の左大臣と云ふ。後に贈太政大臣〉藤氏の衰へぬることを歎きて、弘法大師に申しあはせて興福寺に南円堂を建てて祈り申されけり。

この時、明神(=春日明神)役夫(やくぶ=人夫)にまじはりて、「補陀落(ふだらく)の南の岸に堂建てて今ぞ栄えん北の藤浪(ふじなみ=藤原氏北家)」と 詠じ給けるとぞ。この時、源氏の人あまた失せにけりと申す人(=大鏡)あれど、大なるひがごと(=間違い)なり。

皇子皇孫の源の姓を給はりて高官高位に至ることはこの後のことなれば、誰れ人か失せ侍ふべき。されど彼一門の栄えしこと、まことに祈請にこたへたりとは見えたり。

大方この大臣(=冬嗣)遠き慮(おもんばか)りおはしけるにこそ。子孫親族の学問をすすめんために勧学院を建立す。

大学寮に東西の曹司(=教室)あり。菅・江の二家これを司さどりて、人を教ふる所なり。この大学の南にこの院を立てられしかば、南曹とぞ申すめる。氏の長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及び氏の社のことをとり行なはる。

(=この院の管領職は)良房の大臣摂政せられしより彼一流に伝はりて、絶えぬことになりたり。

幼主の時ばかりかと覚えしかど、摂政関白も定まれる職になりぬ。おのづから摂関と云ふ名を止めらるる時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。

(=良房は)天皇おとなび給ひければ、摂政まつりごとを返し奉りて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶ほも権をもはらにせらるとも争ふ人あるまじくや。

されど謙退の心ふかく閑適を好みて、つねに朝参などもせられざりけり。

その頃、大納言伴善男と云ふ人、寵ありて大臣を望む志なんありける。時に三公、闕(けつ=欠官)なかりき〈太政大臣良房、左大臣信(まこと=源信)、右大臣良相(よしすけ=藤原良相)〉。

信の左大臣を失ひて、その闕に望み任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼かしむ。左大臣世をみだらんとする企てなりと讒奏(ざんそう)す。

天皇驚き給ひて、糺明(きゅうめい)に及ばず、右大臣に召し仰せて、既に誅せらるべきになりぬ。

太政大臣このことを聞き驚き遽(あわ)てられける余りに、烏帽子・直衣を着ながら、白昼に騎馬して、馳せ参じて申しなだめられにけり。

その後に善男が陰謀現はれて流刑に処せらる。この大臣の忠節まことに無止(やんごとなき)ことになん。

天皇仏法に帰し給ひて、つねに脱屣(だっし=退位)の御志ありき。慈覚大師に受戒し給ひ、法号を授け奉らる。素真と申す。在位の帝、法号をつき給ふこと世の常ならぬにや。

昔隋の煬帝の晉王と云ひし時、天台の智者(=智者大師)に受戒して惣持(そうじ)と云ふ名をつかれたりし、(=煬帝は)よからぬ君の例なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへ用ゐられにけるにや。

またこの御時、宇佐の八幡大菩薩、皇城の南、男山石清水に移り給ふ。天皇聞こし食して勅使を遣はし、その所を点じ、諸々のたくみにおほせて、新宮を造りて宗廟に擬せらる〈鎮坐の次第は上に見えたり=応神天皇の項〉。

天皇天下を治め給ふこと十八年。太子に譲りて退ぞかせ給ふ。なか三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて灌頂うけさせ給ふ。丹波の水尾と云ふ所にうつらせ 給ひて、練行(れんぎょう)しまししが、程なく隠れ給ふ。御年三十一歳おましましき。

○第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原の高子〈二条の后と申す〉、贈太政大臣長良の女なり。丁酉(ひのととり)の年即位、改元。

右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈この大臣は良房の養子なり。もとは中納言長良の男。この天皇の外舅なり〉。忠仁公(=良房)の故事のごとし。

この天皇、性悪にして人主の器に足らず見え給ひければ、摂政歎きて廃立のことを定められにけり。

昔漢の霍光(かくこう)、昭帝を助けて摂政せしに、昭帝世を早くし給ひしかば、昌邑王(しょうゆうおう)を立てて天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即ち廃立を行ひて宣帝を立て奉りき。霍光が大功とこそ記し伝へはべるめれ。

この大臣(=基経)まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義を思ひて定め行なはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそ多く聞こえしかど、摂政関白はこの大臣の末のみぞ絶えせぬことになりにける。

つぎつぎ大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔(びょうえい)なり。積善の余慶なりとこそ覚え侍れ。天皇天下を治め給ふこと八年にて退ぞけられ、八十一歳までおましましき。

○第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松の御門とも申す。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継(ふさつぐ)の女なり。

陽成退ぞけられ給ひし時、摂政昭宣公(=基経)諸々の皇子を相し申されけり。この天皇一品式部卿兼常陸の太守と聞こえしが、御年たかくて小松の宮にましま しけるに、俄かに詣でて見給ひければ、人主の器量、余の皇子たちに優れましけるによりて、即ち儀衛を整へて迎へ申されけり。

本位(=元の位)の服を着しながら鸞輿(らんよ)に駕して大内(だいだい=大内裏)に入らせ給ひにき。ことし甲辰(きのえたつ)の年なり。乙巳(きのとみ)に改元。

践祚の初め摂政を改めて関白とす。これわが朝、関白の始なり。

漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時、政(まつりごと)を返して退ぞきけるを、「万機の政、猶ほ霍光に関白(あづかりまうさ)しめよ」とありし、その名を取りて授けられにけり。

この天皇、昭宣公の定めによりて立ち給ひしかば御志しも深かりしにや、その子(=基経の子時平)を殿上に召して元服せしめ、御自ら位記をあそばして正五位下になし給ひけりとぞ。

久しく絶えにける芹川(せりかわ)の御幸などありて、古きあとを起こさるることども聞こえき。

天下を治め給ふこと三年。五十七歳おましましき。

大かた天皇の世継を記せるふみ、昔より今に至るまで家々にあまたあり。かく記し侍るもさらに珍しからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ一端を申さんがためなり。

わが国は神の国なれば、天照大神の御計らひに(=皇位継承が)まかせられたるにや。されどその(=天皇たちの)中に御誤りあれば、暦数(=治世)も久しか らず。また遂には正路にかへれど、一旦もしづませ給ふ例もあり。これはみな(=天皇)自らなさせ給ふ御咎(とが)なり。冥助(みょうじよ=神助)のむなし きにはあらず。

仏も衆生をみちびき尽くし、神も万姓(ばんしょう)をすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報(=前世の業)しなじなに、受くる所の性、同じからず。 十善(=前世の積善)の戒力にて天子とはなり給へども、代々の御行迹、善悪またまちまちなり。

かかれば本を本として正にかへり、元めを初めとして邪を捨てられんことぞ祖神の御意(みこころ)には叶はせ給ふべき。

神武より景行まで十二代は御子孫そのままつがせ給へり。疑はしからず。日本武尊、世を早くしまししによりて御弟成務へだたり給ひしかど、日本武の御子にて仲哀伝へましましぬ。

仲哀・応神の御後に仁徳伝へ給へりし、武烈悪王にて日嗣絶えましし時、応神五世の御孫にて、継体天皇選ばれ立ち給ふ。これなむ珍しき例に侍る。

されど、二つ(=の候補)をならべて争ふ時にこそ傍正(ぼうしょう=傍流、正嫡)の疑ひもあれ、群臣、皇胤なきことをうれへて求め(=捜し)出だし奉りし うへに、その御身、賢にして天の命をうけ、人の望みにかなひましましければ、とかくの疑ひあるべからず。

その後、相続ぎて天智・天武御兄弟立ち給ひしに、大友の皇子の乱れによりて、天武の御流れ久しく伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。また政も乱りがはしく聞こえしかば、確かなる御譲りなくて絶へにき。

光仁また傍らより選ばれて立ち給ふ。これなんまた継体天皇の御事に似たまへる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそ誤りて天下をえ給 はざりしかど、第二の皇子にて施基(しき)の皇子御とがなし。その御子なれば、この天皇の立ち給へること、正理にかへるとぞ申し侍るべき。

今の光孝また昭宣公の選びにて立ち給ふといへども、(=陽成は)仁明の太子文徳の御流れ(=正統)なりしかど陽成悪王にて退ぞけられ給ひしに、仁明第二の御子にてしかも賢才諸親王に優れましましければ、疑ひなき天命とこそ見え侍し。

かやうに傍らより出で給ふことこれまで三代なり。人のなせることとは心得奉るまじきなり。先に記し侍る理をよく弁へらるべきをや。

光孝より上つかた(=つまり、ここまでの時代)は一向上古なり。よろづの例を勘がふるも仁和(=光孝天皇の年号、885~889、にんわ)より下つかたを ぞ申すめる。古へ(=光孝天皇より以前)すら猶ほかかる理にて天位を嗣ぎ給ふ。まして末の世にはまさしき御譲りならでは、たもたせ給ふまじきことと心得奉 るべきなり。

この御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞ正しく伝へられにける。上は光孝の御子孫、天照大神の正統と定まり、下は昭宣公の子孫、天児屋命の嫡流となり給へり。

二柱の神の御誓ひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。

○第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省(さだみ)、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野の親王〈桓武の御子〉の女なり。

元慶(がんぎょう887~885)の頃、(=宇多天皇は)孫王(=天皇の孫)にて源氏の姓を給はらせまします(=源定省となった)。

そのかみ(=源定省であったころ)、つねに鷹狩りを好ませ給ひけるに、ある時、賀茂の大明神現れて皇位につかせ(=天皇になり)給ふべきよしを示し申され けり。践祚の後、彼の社の臨時の祭を初められしは、大神の申しうけ給ひける故とぞ。

仁和三年丁未(ひのとひつじ887年)の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをおきて譲りをうけ給ふ。先づ親王とし(=皇籍復帰)、皇太子に立ち、即ち受禅。同じき年の冬即位。中一とせありて己酉(つちのととり889年)に改元。

践祚の初より太政大臣基経また関白せらる。この関白薨(こう)じて後はしばらくその人なし。天下を治め給ふこと十年。位を太子に譲りて太上天皇と申す。中 一とせばかりありて出家せさせ給ふ。御年三十三にや。若くよりその御志しありきとぞ仰せ給ける。

(=宇多法皇は)弘法大師四代の弟子益信(やくしん)僧正を御師にて東寺にして灌頂せさせ給ふ。また智証大師の弟子増命僧正にも〈時に法橋(=法印、法眼 の次位)なり。後に謚(おくりな)して靜観と云ふ〉比叡山にて受けさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、その御法流(=宇多法皇の)とて今に絶え ず、仁和寺に伝へ侍るはこれなり。

およそ弘法の流に広沢〈仁和寺〉・小野〈醍醐寺・勧修寺〉の二つあり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正〈敦実(あつみ)親王の子、法皇の御孫なり〉(=に伝わって)。寛朝広沢にすまれしかば、かの流れと云ふ。

その後代々の御室(=仁和寺の住職は皇族のみ)相ひ伝へてただ人はあひまじはらず〈法流を預けられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり〉。

小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒(ねんかい=経験年数)おとられける故にや、 法皇御灌頂の時は色衆(=聖宝は次席)につらなりて歎徳(たんどく=徳を賛嘆する)と云ふことをつとめられたりき。

延喜(=醍醐天皇の時代)の護持僧にて、ことに(=天皇は聖宝を)崇重し給ひき。その弟子観賢僧正もあひついで護持申す。同じく崇重ありき。

綱中の法務(=僧侶を管理する僧綱の中の一役所)を東寺の一の阿闍梨につけられしもこの時より始る〈正の法務(=主席)はいつも東寺の一の長者なり。諸寺 になるはみな権(ごん=次席)の法務なり。また仁和寺の御室、惣の法務にて、綱所を召し仕かはるる(=御室が総務として僧綱を統括した)ことは後白河以来 の事か〉。

この僧正(=観賢)は高野に詣でて、大師入定(=死亡)の窟を開きて御髪を剃り、法服を着せかへ申しし人なり。その弟子淳祐〈石山の内供と云ふ〉相ひ伴なはれけれどもつひに見奉らず。

師の僧正、その手を取りて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至りを歎きて卑下の心ありければ、弟子元杲(げんごう)僧都〈延命院と云ふ〉に許可ばかりに て授職(=阿闍梨にする)をゆるさず。(=元杲は)勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職灌頂をとぐ。

彼の元杲の弟子仁海僧正また知法の人なりき。小野と云ふ所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にましますなり。王位を去りて釈門に入ることはその例おほし。

かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、ありがたき例にや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦(=醍醐・村上)と申し慣らはしたれ ど、この御世(=宇多)こそ上代によれれば(=古代に譬えれば)無為の御政(=聖人政治)なりけんと推し量られ侍る。

菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給ひしもこの御時なり。また譲国(=譲位)の時、様々教へ申されし、寛平の御誡(ぎょかい=寛平御遺誡)とて君臣あふぎてみ奉ることもあり。

昔唐土にも「天下の明徳は虞舜より始る」と見えたり。(=しかし)唐尭のもちゐ給ひしによりて、舜(=虞舜)の徳も現れ、天下の道も明らかになりにけるとぞ。

二代の明徳をもてこの御事推し量り奉るべし。御寿(いのち)も長くて朱雀の御代にぞ隠れさせ給ける。七十六歳おましましき。

○第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子(たねこ)、内大臣高藤の女なり。丁巳(ひのとみ)の年即位、戊午(つちのえうま)に改元。

大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅を受けて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任じて共に万機を内覧せられけりとぞ。

御門御年十四にて位につき給ふ。幼くましまししかど、聰明叡哲に聞こえ給ひき。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下の望む所なり。左相は譜第(=代々の家臣)の器なりければ、すてられがたし。

或る時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶ほ右相(=一人に)にまかせらるべしと云ふ定めありて、既に召し仰せ玉ひけるを、右相固くのがれ申されてやみぬ。その 事世にもれにけるにや、左相憤りをふくみ、様々の讒をまうけて、遂にかたぶけ奉りしことこそ浅ましけれ。

この君の御一失と申し伝へ侍り。但し菅氏、権化(ごんげ=神の成り代わり)の御事なれば、末世の(=教訓の)ためにやありけん、はかりがたし。

善相公清行(ぜんしょうこうきよつら=三善清行)朝臣はこの事いまだ兆(きざ)さざりしに、かねて悟りて菅氏に災ひをのがれ給ふべきよしを申しけれど、沙汰なくてこの事出来にき。

先にも申し侍りし、わが国には幼主の立ち給ふこと昔はなかりしことなり。貞観(じょうがん)・元慶(がんぎょう)の二代始めて幼にて立ち玉ひしかば、忠仁公(=良房)・昭宣公(=基経)摂政にて天下を治めらる。

この君(=醍醐天皇)ぞ十四にてうけつぎ給ひて、摂政もなく御自ら政をしらせましましける。猶ほ御幼年の故にや、左相の讒にもまよはせ給ひけん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。その趣き経書に見えたり。

されば曾子は、「吾れ日に三たび吾が躬(み)を省みる」と云ひ、季文子は「三たび思ふ」とも云ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよいよ慎みましますべきことなり。

昔応神天皇も讒を聞かせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮及びがたし。程なく神と現れて、今に至るまで霊験無双なり。

末世の益を施こさんためにや。讒を入れし大臣はのちなくなりぬ。同心ありける類ひもみな神罰をかうぶりにき。

この君久しく世をたもたせ給ひて、徳政を好み行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平、民間安穏にて、本朝仁徳の古き跡にもなぞらへ、異域、尭舜のかしこき道にもたぐへ申しき。

延喜七年丁卯(ひのとう)の年、唐土の唐滅びて梁と云ふ国に移りにけり。うち続き後唐・晉・漢・周となん云ふ五代ありき。この天皇天下を治め給ふこと三十三年。四十四歳おましましき。

○第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明(ひろあきら)、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子(おんし)、関白太政大臣基経の女なり。御兄保明(やすあきら)の太 子〈謚(おくりな)を文彦(ぶんげん)と申す〉早世、その御子慶頼(よしより)の太子もうち続き隠れまししかば、保明一腹(ひとつはら=同じ母)の御弟に て立ち給ふ。

庚寅(かのえとら)の年即位、辛卯(かのとう)に改元。外舅左大臣忠平〈昭宣公の三男、後に貞信公と云ふ〉摂政せらる。寛平に昭宣公薨じて後には、延喜御 一代まで摂関なかりき。この君また幼主にて立ち給ふによりて、故事にまかせて万機を摂行(せっこう)せられけるにこそ。

この御時、平の将門と云ふ物あり。上総介高望が孫なり〈高望は葛原(かづらはら)の親王の孫、平の姓を給はる。桓武四代の御苗裔なりとぞ〉。執政の家(= 藤原忠平)に仕まつりけるが、使の宣旨(=検非違使の任官)を望み申しけり。不許なるにより憤りをなし、東国に下向して叛逆を起こしけり。

まづ伯父常陸の大掾(たいじよう)国香を攻めしかば、国香自殺しぬ。これより坂東(=関東)をおしなびかし、下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、自ら平親王と称し、官爵(=官位)をなし(=人に)与へけり。

これによりて天下騒動す。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基〈清和の御末六孫王と云ふ。頼義・義家の先祖なり〉・藤原仲舒(なかのぶ)〈忠文の弟なり〉を副将軍としてさし遣はさる。

平貞盛〈国香が子〉・藤原秀郷等心を一つにして、将門を滅ぼしてその首を奉りしかば、諸将は道より帰りまゐりにき〈将門、承平(じようへい)五年二月に事を起こし、天慶(てんぎょう)三年二月に滅びぬ。その間六年へたり〉。

藤原純友と云ふ物、かの将門に同意して西国にて叛乱せしかば、少将小野好古を遣はして追討せらる〈天慶四年に純友はころさるとぞ〉。

かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧なりしに、いつしかこの乱れ出来たる。天皇もおだやかにましましけり。また貞信公の執政なりしかば、政違ふことははべらじ。時の災難にこそと覚え侍る。

天皇御子ましまさず。一つ腹の御弟太宰の帥(そち)の親王を太弟に立てて、天位を譲りて尊号(=上皇)あり。後に出家せさせ給ふ。天下を治め給ふこと十六年。三十歳おましましき。

○第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟なり。丙午の年即位、丁未(ひのとひつじ)に改元。兄弟相譲らせ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。

この天皇賢明の御ほまれ先皇(せんこう)のあとを継ぎ申させ給ひければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好み給ふこともかはりまさざりけり。
よろづの例には延喜・天暦の二代とぞ申し侍る。

唐土のかしこき明王も二、三代と伝はるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康〈文王は正位につかず〉、漢には文・景なんどぞありがたきことに申しける。光 孝、傍らより選ばれ立ち給ひしに、うち続き明主の伝はり給ひし、わが国の中興すべき故にこそ侍りけめ。

また継体もただこの一流にのみぞ定まりぬる。末つかた天徳年中にや、初めて内裏に炎上ありて内侍所も焼けにしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損 ずることなくして分明に現れ出で給ふ。見奉る人、驚感せずと云ふことなし」とぞ御記(ぎょき)に見え侍る。

この時に神鏡南殿(なでん)の桜にかからせ給ひけるを、小野宮の実頼の大臣袖にうけられたりと申すことあれど、ひが事をなん云ひ伝へ侍るなり。

応和元年辛酉の年唐土(もろこし)の後周(こうしゅう)滅びて宋の代に定まる。唐の後、五代、五十五年の間彼の国大きに乱れて五姓移りかはりて国の主たり。五季とぞ云ひける。宋の代に賢主うち続きて三百二十余年までたもてりき。

この天皇天下を治め給ふこと二十一年。四十二歳おましましき。

御子多くましましし中に冷泉・円融は天位につき給ひしかば申すに及ばず。親王の中に具平(ともひら)の親王〈六条の宮と申す。中務卿に任じ給ひき。前に兼 明親王(=中務卿=先の中書王)名誉おはしき。仍りてこれをば後の中書王と申す〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相ひ継ぎ申し玉ひけり。

一条の御代に、よろづ昔を起こし、人を用ゐましましければ、この(=具平)親王昇殿し給ひし日、清涼殿にて作文ありしに〈中殿の作文と云ふことこれより始 まる〉「貴き所に是れ賢才」と云ふ題にて韻をさぐらるることあり。この親王の御ためなるべし。凡そ諸道に明らかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。

昔より源氏おほかりしかども、この御末(=具平親王の子孫、村上源氏)のみぞいまに至るまで大臣以上に至て相ひ継ぎ侍る。

源氏と云ふことは、嵯峨の御門世のつひえ(=国費)を思し召して、皇子皇孫に姓を給ひて人臣となし給ふ。即ち御子あまた源氏の姓を給はる。

桓武の御子葛原の親王の男高棟(たかむね)、平(たいら)の姓を給る。平城の御子阿保(あぼ)の親王の男、行平(ゆきひら)・業平等在原の姓を給ることもこの後のことなれど、これはたまたまの儀なり。

弘仁以後代々の御後はみな源の姓を給ひしなり。親王の宣旨を蒙(こうぶ)る人は才不才によらず、国々に封戸など立てられて、世のつひえ(=国費)なりしか ば、人臣につらね宦(みやづかへ)し学(ものまな)びして朝要にかなひ、器に従ひ、昇進すべき御おきてなるべし。

姓を給る人は直に四位に叙す〈皇子皇孫に取りての事なり〉。当君(=当代の天皇の子)のは三位なるべしと云ふ〈かかれどその例まれなり。嵯峨の御子大納言 定(さだむ)の卿三位に叙せしかども、当代にはあらず〉。かくて代々の間、姓を給はりし人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上に至りて二 代と相続する人の今まで聞こえぬこそいかなる故なるらん、覚束なけれ。

嵯峨の御子姓を給はる人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常(ときわ)の左大臣兼大将、信(まこと)の左大臣、融(とほる)の左大臣。

仁明の御子に姓を給はる人十三人。大臣にのぼる人、多(まさる)の右大臣、光(ひかる)の右大臣兼大将。

文徳の御子に姓を給はる人十二人。大臣にのぼる人、能有(よしあり)の右大臣兼大将。

清和の御子に姓を給はる人十四人。大臣にのぼる人、十世の御末に実朝の右大臣兼大将〈これは貞純(さだすみ)親王の苗裔なり〉。

陽成の御子に姓を給はる人三人。光孝の御子に姓を給はる人十五人。宇多の御孫に姓を給はりて大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣〈共に敦実(あつみ)親王の男なり〉。

醍醐の御子に姓を給はる人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣〈後には親王とす。中務卿に任ず。前の中書王これなり〉。

この後は皇子の姓を給はることは絶えにけり。皇孫に(=姓を給はる)はあまたあり。任大臣を本と(=おもに)記すによりて悉くは載せず。ちかくは後三条の 御孫に有仁の左大臣兼大将〈輔仁親王の男、白川院御猶子にて直に三位せし人なり〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。

かやうにたまたま大臣に至りてもいづれか二代と相ひ継げる。ほとほと納言以上まで伝はれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までも昇りて残りたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしも早く絶えにき。

いかにも故あることかと覚えたり。皇胤の貴種より出でぬる人、蔭(おん)をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきに や。人臣の礼に違ふことありぬべし。寛平の御記にそのはしの見え侍りしなり。後をもよくかんがみさせ給けるにこそ。

皇胤は誠に他に(=一般とは)ことなるべきことなれど、わが国は神代よりの誓ひにて、君は天照大神の御末、国をたもち、臣は天児屋の御流、君を助け奉るべき器となれり。

源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官に昇りて人におごらば二柱の神の御とがめありぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫も多くて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。

崇神天皇十年に始めて四人の将軍を任じて四道へ遣はされしも皆これ皇族なり。

景行天皇五十一年始めて棟梁の臣を置きて武内の宿禰を任ず。

成務天皇三年に(=宿禰を)大臣とす〈わが朝大臣これに始る〉。六代の朝に仕へて執政たり。この大臣も孝元(=天皇)の曾孫なりき。しかれど、大織冠、氏 をさかやかし、忠仁公、政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立ち帰り、神代の幽契のままに成りぬるにや。

閑院の大臣冬嗣、氏の衰ろへたることを歎きて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、その印も相ひ加はり侍りけんかし。

この親王(=具平親王)ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。その子師房(もろふさ=源師房)姓を給はりて人臣に列せらしれ、才芸古えに恥ぢず、名望 世に聞こえあり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将に昇りて、懸車(けんしや)の齢(=七十歳)まで仕へらる。

親王の女、祇子(きし)の女王は宇治の関白の室なり。仍りてこの大臣(=師房)をば彼関白の子にし給ひて、藤氏に変はらず、春日社にもまゐり仕られけりとぞ。

また(=師房は)やがて御堂(=道長)の息女(=尊子)に相ひ嫁せられしかば、子孫もみな彼の外孫なり。この故に御堂・宇治をば遠つ祖(おや)の如くに思 へり。それより以来和漢の稽古をむねとし、報国の忠節を先とする誠あるによりてや、この一流のみ絶えずして十余代におよべり。

その中にも行跡疑はしく、貞節おろそかなる類ひは、おのづから衰ろへてあとなきもあり。向後(きょうこう=今後)と云ふとも、慎み思ひ給ふべきことなり。

大かた天皇の御ことを記し奉る中に、藤氏の起こりは所々に申し侍りぬ。源の流れも久しくなりぬる上に、(=何事も)正路をふむべき一端を心ざして記し侍るなり。

君も村上の御流一通りにて十七代に成らしめ給ふ。臣もこの御末の源氏こそ相ひ伝はりたれば、ただこの君の徳優れ給ける故に余慶あるかとこそあふぎ申し侍れ。

○第六十三代、冷泉院。諱は憲平(のりひら)、村上第二の子。御母中宮藤原安子、右大臣師輔(もろすけ)の女なり。丁卯(ひのとう)の年即位、戊辰(つちのえたつ)に改元。

この天皇邪気(=病気)おはしければ、即位の時大極殿に出で給ふこともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿にてその礼ありき。ニ年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。

この御門より天皇の号を申さず(=天皇と呼ばず院と呼んだ)。また宇多より後、謚(おくりな)を奉らず。遺詔(ゆいじょう)ありて国忌(こくき=休日)・ 山陵(=天皇陵)をおかれざることは君父の賢き道なれど、尊号をとどめらるることは臣子の義にあらず。

神武以来の御号(=天皇名)も皆後代の定めなり。持統・元明より以来、避位或は出家の君も謚を奉る。天皇とのみこそ申すめれ(=天皇と呼ぶべき)。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。

○第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟なり。己巳(つちのとみ)の年即位、庚午(かのえうま)に改元。天下を治め給ふこと十五年。禅譲、尊号つねの如し。

翌(つぎ)の年の程にや御出家。永延(えいえん)の頃、寛平の例をおふて、東寺にて灌頂せさせ給ふ。御師は即ち寛平の御孫弟子寛朝(かんぢょう)僧正なり。三十三歳おましましき。

○第六十五代、花山院。諱は師貞(もろさだ)、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子(かねこ)、摂政太政大臣伊尹(これまさ)の女なり。甲申(きのえさる)の年即位、乙酉(きのととり)に改元。

天下を治め給ふこと二年ありて、俄かに発心して花山寺にて出家し給ふ。弘徽殿の女御〈太政大臣為光の女なり〉隠れて(=亡くなったのを)悲み歎きましける をりをえて、粟田関白道兼の大臣のいまだ蔵人弁と聞こえしころにや、そそのかし申してけるとぞ。

山々を廻りて修行せさせまししが、後には都に帰りてすませ給ひけり。これも御邪気ありとぞ申しける。四十一歳おましましき。

○第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁(かねひと)、円融第一の子。御母皇后藤原詮子〈後には東三条院と申す。后宮(=皇后)院号の始なり〉、摂政太政大臣兼家の女なり。

花山の御門、神器をすてて宮を出給ひしかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内にまゐり、諸門をかためて譲位の儀を行なはれき。

新主も幼くましまししかば、摂政の儀、古きがごとし。丙戌の年即位、丁亥(ひのとい)に改元。その後摂政(=兼家)、病により嫡子内大臣道隆に譲りて出家、猶ほ准三宮の宣を蒙る

〈執政の人出家の始なり。その頃は出家の人なかりしかば、入道殿となん申す。仍りて源満仲(=頼朝の祖先)出家したりしを、(=入道殿を)はばかりて新発(しんぼち)とぞ云ひける〉。

この道隆はじめて大臣を辞して前官(=前大臣)にて関白せられき〈前官の摂政もこれを始とす〉。病ひありてその子内大臣伊周(これかた)しばらく相代はり て内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられけるに、道隆隠れて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。(=道兼は)七日と云ひしにあへなく失せられに き。

その弟にて道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣まで至られしかど、延喜・天暦の昔を思し召しけるにや、関白はやめられにき。三条の御時 にや、関白して、後一条の御世の初め、外祖にて摂政せらる。兄弟多くおはせしに、この大臣のながれ一つに摂政関白はし給ふぞかし。

昔もいかなる故にか、昭宣公(=基経)の三男にて貞信公(=忠平)、貞信公の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条の大臣(=兼家)、東三条 の三男にて〈道綱の大将は一男か。されど三弟に越されたり。仍りて道長を三男と記す〉この大臣、みな父の立てたる嫡子ならで、自然に家をつがれたり。祖神 のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈いづれも兄にこえて家を伝へらるべき故ありと申すことのあれど、ことしげければ記さず〉。

この御代(=一条院)にはさるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までも優れたる人おほかりき。されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり」 とぞ自から歎ぜさせ給ひける。天下を治め給ふこと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給ふ。三十三歳おましましき。

○第六十七代、三条院。諱は居貞(いやさだ)、冷泉第二の子。御母皇太后藤原の超子、これも摂政兼家の女なり。花山院世をのがれ給ひしかば、太子に立ち給 ひしが、御邪気の故にや、をりをり御目の暗くおはしけるとぞ。辛亥(かのとい)の年即位、壬子(みづのえね)に改元。天下を治め給ふこと五年。尊号あり き。四十二歳おましましき。

○第六十八代、後一条院。諱は敦成(あつひら)、一条第二の子。御母皇后藤原彰子〈後に上東門院と申す〉、摂政道長の大臣の女なり。丙辰の年即位、丁巳に改元。

外祖道長の大臣摂政せられしが、後に摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしに譲り、猶ほ太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそ珍しく侍りしか。

冷泉・円融の両流かはるがはるしらせ給ひしに、三条院隠れ給ひてのち、御子敦明(あつあきら)の御子、太子にゐ給ひしが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申しき。これより冷泉の御流は絶えにけり。

冷泉はこの上(=円融院の兄)にて御末も正統とこそ申すべかりしに、昔天暦(=村上天皇)の御時元方(もとかた)の民部卿のむすめ御息所、一の御子広平親 王を生み奉る。九条殿(=藤原師輔)の女御まゐり給ひて、第二の皇子〈冷泉にまします〉いでき玉ひしころより、(=広平親王は)悪霊になりてこの御子(= 冷泉)も邪気になやまされましき。

花山院の俄かに世をのがれ、三条院の御目のくらく、この東宮のかく自ら退ぞき給ひいぬるも(=広平の)怨霊の故なりとぞ。

円融も一つ腹の御弟におはしませど、これまでは(=悪霊が)悩まし申ささざりけるもしかるべき継体の御運ましましけるにこそ。東宮退ぞき給ひしかば、この 天皇同母の御弟敦良(あつなが)の親王立ち給ひき。天皇も御子なくて、彼の東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治め給ふこと二十年。二十九歳おまし ましき。

○第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良(あつなが)、後一条同母の弟なり。丙子の年即位、丁丑に改元。

天皇賢明にましましけるとぞ。されどその頃執柄権をほしきままにせられしかば、御政のあと聞こえず。無念なることにや。長久の頃、内裏に火ありて、神鏡焼 け給ふ。猶ほ霊光を現じ給ひければその灰を集めて安置せられき。天下を治め給ふこと九年。三十七歳おましましき。

○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子(きし)〈本は尚侍(ないしのかみ)〉、摂政道長の大臣第三の女なり。乙酉の年即位、丙戌改元。

この御代の末つかた、世の中やすからず聞こえき。陸奥にも貞任(さだとう)宗任(むねとう)など云ひし者、国を乱りければ、源頼義に仰せて追討せらる〈頼 義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍を兼す。彼の家鎮守将軍に任ずる始なり。曾祖父経基は征東副将軍たりき〉。十二年ありてなむ鎮め侍ける。

この君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条、東宮(=皇太子)にゐ給へりしかば、継体はかねてより定まりけるにこそ。天下を治め給ふこと二十三年。四十四歳おましましき。

巻五

○第七十一代、第三十八世、後三条院。諱は尊仁、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王〈陽明門院と申す〉、三条院の皇女なり。

後朱雀の御素意にて太弟に立ち給ひき。また三条の御末(=血筋)をも受け給へり。昔もかかる例侍き。両流を内外(=両親として)に〈欽明天皇の御母、手白 香(たしらか)の皇女、仁賢天皇の御女(=娘)、仁徳の御後(=子孫)なり〉うけ給ひて継体の主となりまします。戊申(つちのえさる)の年即位、己酉(つ ちのととり)に改元。

この天皇東宮にて久しくおはしましければ、しづかに和漢の文、顕密の教へまでも暗からず知らせ給ふ。詩哥の御製もあまた人の口に侍るめり。

後冷泉の末ざま世の中あれて民間のうれへありき。四月(うづき)より位にゐ給ひしかば、いまだ秋のをさめにも及ばぬに、世の中のなほりにける、有徳の君におましましけるとぞ申し伝へはべる。

始めて記録所なんど云ふ所おかれて国のおとろへたることをなほされき。延喜・天暦よりこなたにはまことにかしこき御ことなりけんかし。天下を治め給ふこと四年。太子に譲りて尊号あり。後に出家せさせ給ふ。

この御時より執柄の権おさへられて、君の御自ら政をしらせ給ふことに帰り侍りにし。されどその頃までも譲国の後、院中にて政務ありとは見えず。四十歳おましましき。

○第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子(もちこ)、贈太政大臣能信(よしのぶ)の女、まことは中納言公成(きんなり)の女なり。壬子(みづのえね)の年即位、甲寅(きのえとら)に改元。

いにしえのあとを起こされて野の行幸なんどもあり。また白河に法勝寺を立て、九重の塔婆なども、昔の御願の寺々にも越え、例なき程ぞ作り整へさせ給ひけ る。こののち代ごとにうち続き御願寺を立られしを、造寺熾盛(しじょう)の謗りありき。造作のために諸国の重任なんど云ふこと多くなりて、受領の功課もた だしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費えとこそ成り侍りにしか。

天下を治め給ふこと十四年。太子に譲りて尊号あり。世の政を初めて院中にてしらせ給ふ。後に出家せさせ給ひても猶ほそのままにて御一期(いちご)はすごさせましましき。

おりゐにて世をしらせ給ふこと昔はなかりしなり。孝謙脱屣(だっし)の後にぞ廃帝(=淡路)は位にゐ給ふばかりと見えたれど、古代のことなれば確かならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もただ譲りてのかせ給ふ。

円融の御時はやうやうしらせ給ふこともありしにや。院の御前にて摂政兼家の大臣うけ玉はりて、源時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資(=藤原957- 1046)の大臣などは傾け(=非難)申されけるとぞ。

されば上皇ましませど、主上幼くおはします時はひとへに執柄(=摂関家)の政なりき。宇治の大臣(=藤原頼通)の世となりては三代の君(=後一条、後朱雀、後冷泉)の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。

先代(=頼通以前)には関白の後は如在(=節度)の礼にてありしに、(=頼通は)余りなる程になりにければにや、後三条院、坊(=皇太子)の御時よりあし ざまに思し召すよし聞こえて、御中らひ悪しくてあやぶみ思し召す程のことになんありける。践祚の時即ち関白をやめて宇治にこもられぬ。

弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外にその権もなくおはしき。ましてこの御代(=白河)には院にて政を聞かせ給へば、執柄はただ職にそなはりたるばかりになりぬ。

されどこれよりまた古き姿は一変するにや侍りけん。執柄世を行なはれしかど、宣旨・官符(=天皇による)にてこそ天下の事は施行せられしに、この御時より 院宣・庁の御下文を重くせられしによりて、在位の君また位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれる姿なるべきにや。

また城南の鳥羽と云ふ所に離宮を建て、土木の大きなる営みありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。また冷然院にも〈然の字、火のこ とにはばかりありて泉の字に改む〉おはしけるに、彼の所々(=朱雀院と冷泉院)には住ませ給はず。白河より後には鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とは定めら れにけり。

御子堀河の御門・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年〈在位にて十四年、院中にて四十三年〉世をしらせ給ひしかば、院中の礼なんど云ふことも これよりぞ定まりける。全て御心のままに久くたもたせ給ひし御代なり。七十七歳おましましき。

○第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁(たるひと)、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実(もろさね)の大臣の猶子なり。丙寅の年即位、丁卯に改元。

この御門和漢の才ましましけり。ことに管絃・郢曲(えいきよく)・舞楽の方、明らかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下(ぢげ=殿上人以外の家)に伝へたるもこの御説なり。天下を治め給ふこと二十一年。二十九歳おましましき。

○第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子(じし)、贈太政大臣実季(さねすえ)の女なり。丁亥の年即位、戊子(つちのえね)に改元。天下を治め給ふこと十六年。太子に譲りて尊号あり。

白河、代をしらせ給ひしかば、新院とて所々の御幸にも同じ御車にてありき。雪見の御幸の日、御烏帽子直衣に深沓をめし、御馬にて本院の御車の先にましましける、世にめづらかなる事なればこぞりて見奉りき。

昔弘仁の上皇(=嵯峨上皇)、嵯峨の院にうつらせ給ひし日にや、御馬にて都よりいでさせまして宮城の内をも通らせ給へりと云ふことの見え侍りし、かやうの例にやありけん。

御容儀めでたくましましければ、きらをも好ませ給ひけるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ふこともその頃より出来にき。花園の有仁(=源有 仁)の大臣また容儀ある人にて、おほせ合はせて上下(=君臣が)同じ風になりにけるとぞ申める。

白河院隠れ給ひて後、政をしらせ給ふ。御孫ながら御子の儀なれば、重服(じゅうぶく=重い喪、父母の喪に着る)をきさせ給ひけり。これも院中にて二十余 年、その間に御出家ありしかど、猶ほ世をしらせ給ひき。されば院中の古き例には白河・鳥羽の二代を申し侍るなり。五十四歳おましましき。

○第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子〈待賢門院と申す〉、入道大納言公実(きんさね)の女なり。癸卯の年即位、甲辰に改元。

戊申(つちのえさる)の年、宋の欽宗皇帝靖康三年に当たる。宋の政、乱れしより北狄(てき)の金国起りて上皇徽宗並びに欽宗を取りて北に帰りぬ。皇弟高 宗、江を渡りて杭州と云ふ所に都を建てて行在所(あんざいしょ)とす。南渡(なんと)と云ふはこれなり。

この天皇天下を治め給ふこと十八年。上皇(=鳥羽上皇)と御中らひ心よからで退ぞかせ給ひき。保元に事ありて御出家ありしが、讚岐の国に移され給ふ。四十六歳おましましき。

○第七十六代、近衛院。諱は体仁(なりひと)、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子〈美福門院と申す〉、贈左大臣長実(=藤原長実、白河上皇の側近)の女なり。辛酉の年即位、壬戌に改元。天下を治め給ふこと十四年。十七歳にて世を早くしましましき。

○第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟なり。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子なりしに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給ふべかりしに、もとより御中、心よからでやみぬ。上皇思し召しわづらひけれど、この御門たたせ給ふ。

立太子もなくてすぐにゐさせ給ふ。今はこの御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞ覚え侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕(あんが=崩御)ありしかば天下をしらせ給ふ。

左大臣頼長と聞こえしは知足院入道関白忠実の次郎なり。法性寺関白忠通の大臣この大臣の兄にて和漢の才たかくて、久しく執柄にて仕へられき。この大臣(= 頼長)も漢才はたかく聞こえしかど、本性悪しくおはしけるとぞ。父の愛子(あいし)にてよこざま(=わがまま)に申しうけられければ、関白をおきながら藤 氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。

長者の他人に渡ること、摂政関白始まりてはその例なし。内覧は昔醍醐の御代の初めつかた、本院の大臣(=時平)と菅家と政を助けられし時、あひならびてその号ありきと申すめれども、本院も関白にはあらず、その例違ふにや。

兄の大臣は本性おだやかにおはしければ、思ひいれぬ(=気にしない)さまにてぞすごされける。近衛の御門隠れ給ひしころより(=頼長は)内覧をやめられた りしに恨みをふくみ、大方、天下を我ままにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申しすすめて世をみだらる。

父の(=鳥羽)法皇晏駕ののち七ケ日ばかりやありけん。忠孝の道欠けにけるよと見えたり。法皇もかねて悟らしめ給ひけるにや、平清盛・源義朝等に召し仰せて、内裏を守り奉るべきよし勅命ありきとぞ。

(=崇徳)上皇鳥羽よりいで給ひて白河の大炊殿と云ふ所にて、既に兵を集められければ、(=後白河は)清盛・義朝等に勅して上皇の宮を攻めらる。官軍勝つ にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流れ矢に当たりて、奈良坂の辺りまでおちゆかれけるが、遂に客死せられぬ。

上皇御出家ありしかど猶ほ讚岐に移され給ふ。大臣の子共国々へ遣はさる。武士どもも多く誅にふしぬ。その中に源為義と聞こえしは義朝が父なり。いかなる御 志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別(=敵味方)になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこ そ例なきことに侍れ。

嵯峨の御代に奈良坂の戦ひ(=薬子の変)ありし後は、都に兵革と云ふことなかりしに、これより乱れそめぬるも時運の下りぬる姿とぞ覚えはべる。

この君(=後白河)の御乳母の夫にて少納言通憲法師(=信西)と云ひしは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりし に、この御世にいみじく用ゐられて、内々には天下の事さながらはからひ申しけり。

(=信西は)大内(だいだい=皇居)は白河の御代より久しく荒廃して、里内(りだい=臨時の皇居)にのみましまししを、謀を廻らし、国のつひえもなく作り 立てて、絶えたる公事どもを申し行ひき。全て京中の道路などもはらひきよめて昔に帰りたる姿にぞありし。

天下を治め給ふこと三年。太子に譲りて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給ふこと三十余年。その間に御出家ありしかど政務は変はらず。白河・ 鳥羽両代のごとし。されどうち続き乱世にあはせ給ひしこそ浅ましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おましましき。

○第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子(いし)、贈太政大臣経実(つねさね)の女なり。戊寅(つちのえとら)の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。

右衛門督藤原信頼と云ふ人あり。上皇いみじく寵せさせ給ひて天下のことをさへまかせらるるまでなりにければ、おごりの心きざして近衛の大将を望み申ししを 通憲法師いさめ申してやみぬ。その時、源の義朝朝臣(あそん)が清盛朝臣におさへられて恨みをふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思ひくはだてけり。

保元の乱には、義朝が功たかく侍りけれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかに召し遣はる。通憲法師・清盛等を失ひて世をほしきままにせむとぞはからひける。

清盛熊野に詣でける暇をうかがひて、先づ上皇御坐の三条殿と云ふ所をやきて大内にうつし申し、主上をも傍らにおしこめ奉る。通憲法師のがれがたくやありけん、自ら失せぬ。その子共やがて国々へながし遣はす。

通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非を知り、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。信頼が非をばいさめ申しけれど、わが子共は顕職顕官に 昇り、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上(いじょう)にあがるもありき。かくて失せにしかば、これも天意に違ふ所ありと云ふことは疑なし。

清盛このことをきき、道より昇りぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだし奉り、清盛が家にうつし申して けり。即ち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首(こう)べをきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれ ぬ。その首を梟(きょう=晒すこと)せられにき。

義朝重代の兵(つわもの)たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍りしに、父の首べをきらせたりしこと大きなるとがなり。古今にもきかず、和漢にも例な し。勲功に申し替ふとも、自ら退ぞくとも、などか父を申したすくる道なかるべき。名行(めいこう=人の道)欠け果てにければ、いかでか遂にその身を全くす べき。滅することは天の理なり。

凡そかかることはその身の咎(とが)はさることにて、朝家(=朝廷)の御誤りなり。よく案あるべかりけることにこそ。その頃名臣もあまたありしにや、また通憲法師専ら申し行ひしに、などか諌め申さざりける。

「大義、親を滅す」云ふことのあるは、石碏(せきしゃく)と云ふ人その子を殺したりしがことなり。父として不忠の子を殺すは理なり。父不忠なりとも子として殺せと云ふ道理なし。

孟子にたとへを取りて云へるに、「舜の天子たりし時、その父瞽叟(こそう)人を殺すことあらんを、時の大理(=司法官)なりし皐陶(こうよう)とらへたら ば舜はいかがし給ふべきと云ひけるを、舜は位をすてて父を負ひて去らまし」とあり。大賢の教へなれば忠孝の道現れておもしろく侍り。

保元・平治より以来、天下乱れて、武用さかりに王位軽く成りぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることとぞ見えたる。

かくてしばししづまれりしに、主上・上皇(=二条天皇と後白河上皇)御中あしくて、主上の外舅大納言経宗(つねむね)〈後にめしかへされて、大臣大将まで なりき〉・御めのとの子別当惟方等上皇の御意に背きければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所に遣はさる。

これより清盛天下の権をほしきままにして、程なく太政大臣にあがり、その子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき〈(=平家の専横は)こ の御門の御世のことならぬもあり。ついでに記しのす。〉天下の諸国は半ば過ぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがご とくになりぬ。この天皇天下を治め給ふこと七年。二十三歳おましましき。

○第七十九代、六条院。諱は順仁(のぶひと)、二条の太子。御母大蔵少輔(しょう)伊岐兼盛が女なり〈その品いやしくて、贈位までもなかりしにや。〉乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治め給ふこと三年。

上皇(=後白河)世をしらせ給ひしが、二条の御門の御事により心よからぬ御ことなりし故にや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世を早くしましましき。

○第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁(のりひと)、後白河第五の御子。御母皇后平滋子〈建春門院と申す〉、贈左大臣時信の女なり。戊子(つちのえね)の年即位、己丑に改元。

上皇天下をしらせ給ふこと元のごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらにこの御代のことなり。その女徳子入内して女御とす。即ち立后ありき。末つか たやうやう所々に反乱の聞こえあり。清盛一家非分のわざ天意に背きけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行なども諫めとどめけるさへ世を 早くしぬ。いよいよ驕りをきはめ、権をほしきままにす。

時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、(=清盛と)中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長(もろなが)の大臣も京中をいださる。その外に罪せらるる人おほかりき。

従三位源頼政と云ひし者、院の御子似仁(もちひと)の王とて、元服ばかりし給ひしかど、親王の宣などだになくて、傍らなる(=不遇な)宮おはせしをすすめ 申して、国々にある源氏の武士等にあひふれて、平氏を失はんと諮りけり。こと現れて皇子も失はれ給ぬ。頼政もほろびぬ。

かかれど、それより乱れそめてけり。義朝朝臣が子頼朝〈前右兵衛佐従五位下、平治の頃六位の蔵人たりしが、信頼ことを起こしける時任官すとぞ〉平治の乱に 死罪を申しなだむる人ありて、伊豆の国に配流せられて、多くの年を送りしが、以仁の王の密旨を受け給はり、院よりも忍びて仰せ遣はす道ありければ、東国を すすめて義兵を起こしぬ。

清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかく歎かせ給ふ。俄かに避位(ひい)のことありしも世をいとはせましましける故とぞ。天下を治め給ふこと十二年。

(=高倉院は)世の中の御祈りにや、平家のとりわきあがめ申す神なりければ、安芸の厳島になむまゐらせ給ける。この御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふか かりき。管絃のかたも優れておはしましけり。尊号ありて程なく世を早くし給ふ。二十一歳おましましき。

○第八十一代、安徳天皇。諱は言仁(ときひと)、高倉第一の子。御母中宮平徳子〈建礼門院と申す〉、太政大臣清盛女他。庚子(かのえね)の年即位、辛丑に改元。

法皇猶ほ世をしらせ給ふ。平氏はいよいよおごりをなし、諸国は既に乱れぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛住む所のありしに行幸せさせ申しける。法皇・上皇も同じくうつし奉る。

人の恨多く聞こえければにや返し奉る。いく程なく、清盛隠れて次男宗盛その後をつぎぬ。世の乱れをもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にも及ばざり けるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍既にこはく成りて、平氏の軍所々にて利を失ひけるとぞ。

法皇忍びて比叡山に昇らせ給ふ。平氏力をおとし、主上をすすめ申して西海に没落す。中三歳ばかりありて、平氏悉く滅亡。清盛が後室従二位平時子と云ひし人 この君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣を腰にさしはさみ、海中に入りぬ。

浅ましかりし乱世なり。天下を治め給ふこと三年。八歳おましましき。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申すなり。

○第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成(たかひら)、高倉第四の子。御母七条院、藤原殖子〈先代の母儀(ぼぎ)多くは后宮ならぬは贈后なり。院号 ありしはみな先づ立后ののちの定めなり。この七条院立后なくて院号の初めなり。但し先づ准后の勅あり〉、入道修理大夫信隆の女なり。

先帝(=安徳)西海に臨幸ありしかど、祖父法皇(=後白河)の御世なりしかば、都は変はらず。摂政基通の大臣ぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申 す輩ありけるにや、九条の大路の辺りより留まられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。

(=安徳天皇に)還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引(しょういん)申さず。よりて太上法皇の詔(みことのり)にてこの天皇たたせ給ひぬ。親王の宣 旨までもなし。先づ皇太子とし、即ち受禅の儀あり。翌年甲辰に当たる年四月に改元、七月に即位。

この同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇この君を選び定め申し給ひけるとぞ。

先帝三種の神器をあひ具せさせ給ひし故に践祚の初めの違例に侍りしかど、法皇、国の本主にて正統の位を伝へまします。皇大神宮・熱田の神、明らかに守り給ふことなれば、天位つつが(=障礙)ましまさず。

平氏ほろびて後、内侍所・神璽は帰りいらせ給ふ。宝剣は遂に海にしづみて見えず。その頃ほひは昼(ひ)の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告げにて神剣を(=伊勢神宮から)奉らせ給ひしによりて近頃までの御守りなりき。

三種の神器の事は所々に申し侍りしかども、先づ内侍所は神鏡なり。八咫の鏡と申す。正体(=本体)は皇大神宮にいはひ(=祭り)奉る。内侍所にましますは 崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡(=レプリカ)なり。村上の御時、天徳年中に火事にあひ給ふ。それまでは円規かけましまさず。後朱雀の御時、長久年 中に重ねて火ありしに、灰燼の中より光をささせ給ひけるを、納めてあがめ奉られける。されど正体はつつがなくて万代の宗廟にまします。

宝剣も正体は天の叢雲の剣〈後には草薙と云ふ〉と申すは、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代に同じく作りかへられし剣なり。失せぬるこ とは末世の印にやと恨めしけれど、熱田の神あらた(=あらたか)なる御ことなり。

昔新羅の国より道行(どうぎょう)と云ふ法師、来たりて盗み奉りしかど、神変を表はしてわが国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとほき御守りとして国土のあまねき光となり給へり。

失せにし宝剣はもとより如在(じょさい=在り続ける)のこととぞ申し侍るべき。

神璽は八坂瓊(やさかに)の曲玉と申す。神代より今に変はらず、代々の御身を離れぬ御守りなれば、海中よりうかび出で給へるも理なり。

三種の御ことはよく心得奉るべきなり。なべて物知らぬ類ひは、上古の神鏡は天徳・長久の災ひにあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申し伝ふること侍るにや。返々すひがことなり。

この国は三種の正体をもちて眼目とし、福田(ふくでん=善行)とするなれば、日月の天を廻らん程は一つも欠け給ふまじきなり。天照大神の勅に「宝祚(=皇 位)の栄えまさんこと天地と極まりなかるべし」と侍れば、いかでか疑ひ奉るべき。今よりゆく先もいと頼もしくこそ思ひ給ふれ。

平氏いまだ西海にありし程、源義仲と云ふ物、まづ京都に入り、兵威をもて世の中のことをおさへ行ひける。征夷将軍に任ず。

この官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。その後将門が乱れに右衛門督忠文(ただふん=藤原忠文)朝臣征東将軍を兼ねて節刀(=全権を委 任する印とした刀)を給はりしより以来久しく絶えて任ぜられず。義仲ぞ初めてなりにける。

余りなること多くて、上皇御憤りの故にや、近臣の中に軍を起こし対治(=退治)せんとせしに事成らずして中々浅ましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼・義経等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅びぬ。

さてそれより西国へ向ひて、平氏をば平らげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾(きょかつ)もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力及ばせ給はぬにや。

かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御ままなるべきかと覚えしに、頼朝勲功まことに例なかりければ、自らも権をほしきままにす。君もまたうちまかせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。

諸国に守護をおきて、国司の威をおさへしかば、吏務(りむ=役人としての職務)と云ふこと名ばかりに成りぬ。あらゆる庄園郷保(ごうほう)に地頭を補せしかば、本所(=荘園領主)はなきがごとくになれりき。

頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階(おっかい)して正四位下に叙し、平氏追討の賞にまた越階、従二位に叙す。建久の初めに初めて京上りして、やがて一度に権大納言に任ず。また右近の大将を兼す。

頼朝しきりに辞し申しけれど、叡慮によりて朝奨(ちょうしょう)ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館(たち)になん下りし。その後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のままに成りにき。

平氏の乱れに南都の東大寺・興福寺焼けにしを、東大寺をば俊乗と云ふ上人すすめ立てければ、公家(=朝廷)にも委任せられ、頼朝もふかく随喜して(=協力し)程なく再興す。

供養の儀、古きあとをたづねて行なはれける、ありがたきことにや。頼朝も重ねて京上りしけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。

法皇隠れさせ給ひて、主上世をしらせ給ふ。全て天下を治め給ふこと十五年ありしかば、太子に譲りて尊号れいのごとし。院中にてまた二十余年しらせ給ひしが、承久に、ことありて御出家、隠岐の国にて隠れ給ぬ。六十一歳おましましき。

○第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子(ありこ)、内大臣通親の女なり。

父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにて即ち践祚あり。戊午(つちのえうま)の年即位、己未に改元。天下を治め給ふこと十二年。太弟に譲りて尊号例の如し。

この御門まさしき正嫡にて御心ばへも正しく聞こえ給ひしに、上皇鍾愛(=順徳院)に移されましけるにや、程なく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成りにき。

承久の乱に、時の至らぬことを知らせ給ひければ(=思っていた)にや、様々(=後鳥羽院を)諫めましけれども、こと破れにしかば、玉石共にこがれて(=善悪ともに滅びる)、阿波の国にて隠れさせ給ふ。三十七歳おましましき。

○第八十四代、順徳院。諱は守成(もりなり)、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣範季の女なり。庚午(かのえうま)の年即位、辛未に改元。

この御時征夷大将軍頼朝の次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家が子に、公暁と云ひける法師にころされぬ。また継ぐ人なくて頼朝が跡はながく絶えにき。

頼朝が後室に従二位平政子とて、時政と云ふものの女なりし、東国の事をば行ひき。その弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申して、あふぎ奉るべきよ し奏しけれど、不許にやありけん、九条摂政道家の大臣は頼朝の時より外戚に続きてよしみおはしければ、その子をくだして扶持し申しける。

大方のことは義時がままになりにき。天下を治め給ふこと十一年。譲国ありしが、事乱れて、佐渡の国に移され給ふ。四十六歳おましましき。

〔裏書に云ふ、実朝前右大将征夷大将軍頼朝卿二男なり。建久十年正月頼朝薨ず。嫡男頼家諸国守護の事を奉行すべき由宣下せらる。〈時に左近中将、正五位下〉。建仁二年七月征夷大将軍に任ず。同三年病を受く〈狂病〉。伊豆国修禅寺に遷され、翌年害に遭ふ。

頼家病を受けしの後、母並びに義時等の沙汰の為に、実朝を似て之を継がしむ。従五位下に叙し、即日征夷大将軍に任ず。次第に昇進す。具記する能はず。建保六年十二月二日右大臣に任ず〈元内大臣、左大将。大将猶ほ之を帯ぶ〉。

同じき七年〈四月承久元と改元す〉正月二十七日拝賀せんとして鶴岡八幡宮に参る。実朝始中終遂に京上りせず。その煩ひある故なり云々。仍ほ参宮を以て拝賀 に擬するか。而して神拝畢りて退出の処、彼の宮別当公暁刺客を設けて之を殺す〈年二十八云云〉。

今日扈従人々

公卿
権大納言忠信坊門左衛門督実氏西園寺宰相中将国通高倉平三位光盛池刑部卿宗長難波

殿上人
権亮中将信能朝臣文章博士仲章朝臣(同被殺云々)右馬権頭能茂朝臣因幡少将高経伊与少将実種伯耆前司師孝右兵衛佐頼経

地下前駈
右京権大夫義時修理大夫雅義甲斐右馬助宗泰武蔵守泰時筑後前司頼時駿河左馬助教利蔵人大夫重綱藤蔵人大夫有俊長井遠江前司親広相模守時房足利武蔵前司義氏丹波蔵人大夫忠国前右馬助行光伯耆前司包時駿河前司季時信濃蔵人大夫行国相模前司経定美作蔵人大夫公近藤勾当頼隆平勾当時盛

随身
府生秦兼峯番長下毛野篤秀近衛秦公氏同兼村播磨定文中臣近任下毛野為光同為氏

随兵十人
武田五郎信光加々見次郎長清式部大夫河越次郎城介景盛泉次郎左衛門尉頼定長江八郎師景三浦小太郎兵衛尉朝村加藤大夫判官元定隠岐次郎左衛門尉基行〕

○廃帝(=仲恭天皇)。諱は懐成(かねなり)、順徳の太子。御母東一条院藤原立子、故摂政太政大臣良経女なり。

承久三年春の頃より上皇思し召し立つことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身を軽めて合戦の事をも一つ御心にせさせ給はん御はかりごとにや、新主 に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第(てい=屋敷)へのがれさせ給ふ。

三種の神器をば閑院の内裏(=冬嗣の屋敷)に捨ておかれにき。譲位の後七十七ヶ日の間、しばらく神器を伝へ給ひしかども、日嗣(=歴代天皇)には加へ奉ら ず。飯豊の天皇の例になぞらへ申すべきにこそ。元服などもなくて十七歳にて隠れまします。

さてもその世の乱れを思ふに、まことに末の世には迷ふ心もありぬべく、また下の上をしのぐ端ともなりぬべし。その謂はれをよく弁へらるべき事に侍り。

頼朝勲功は昔より類ひなき程なれど、ひとへに天下を掌(たなごころ)にせしかば、君(=天皇家)としてやすからず思し召しけるも理なり。況やその跡絶えて 後室の尼公、陪臣の義時が世になりぬれば、(後鳥羽上皇が=)彼の跡(=頼朝のあと)をけづりて(天下を=)御心のままにせらるべしと云ふも一往謂ひ(= 理由)なきにあらず。

しかれど白河・鳥羽の御代の頃より(=院政によって)政道の古き姿やうやうおとろへ、後白河の御時、兵革(=戦乱)起こりて姦臣世を乱る。天下の民ほとん ど塗炭におちにき。頼朝一臂(いっぴ)の力を振るひてその乱れを平らげたり。王室は古きにかへるまでなかりしかど、九重(ここのえ=都)の塵も治まり、万 民の肩も安まりぬ。

上下、堵(と)を安く(=安堵する)し、東より西よりその徳に服せしかば、実朝なくなりても背く者ありとは聞こえず。これにまさる程の徳政なくして、いかでたやすく覆へさるべき。

縱(たと)ひまた失なはれぬべくとも(=倒幕出来たとしても)、民安かるまじくは、上天よも与(くみ)し給はじ。

次に王者の軍と云ふは、咎あるを討じて、傷なきをば滅ぼさず。頼朝高官に昇り、守護の職を給る、これみな法皇の勅裁なり。わたくしに盗めりとは定めがたし。

後室その跡をはからひ、義時久しく彼が権を取りて、人望に背かざりしかば、下(=臣下)にはいまだ傷ありと云ふべからず。一往の謂はれ(=源家断絶)ばか りにて追討せられんは、上の御咎とや申すべき。謀叛起こしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。

かかれば時の至らず、天の許さぬことは疑ひなし。但し下の上を剋するは極めたる非道なり。終ひにはなどか皇化に不順(まつろわざる)べき(=従わないでい られようか)。先づ(=後鳥羽院によって)まことの徳政を行なはれ、朝威(=朝廷の威光)を立て(=確立して)、彼(=朝敵)を剋するばかりの道ありて、 (=兵をだすのは)その上のこととぞ覚えはべる。

且は世の治乱の姿をよくかがみしらせ給ひて、私の御心なくば、干戈を動かさるるか、弓矢を納めらるるか、天の命にまかせ、人の望みに従はせ給ふべかりしことにや。

遂にしては、継体の道も正路に帰り、御子孫(=後醍醐)の世に一統の聖運をひらかれぬれば、(=後鳥羽院の)御本意の末、達せぬにはあらざれど、一旦も沈ませ給ひしこそ口惜しく侍れ。

第八十五代、後堀河院。諱は茂仁(ゆたひと)、二品守貞親王〈後高倉院と申す〉第三の子。御母北白河院、藤原陳子(ちんし)、入道中納言基家の女なり。

入道(=守貞)親王は、高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御選びにもれ給ひし御ことなり。承久にことありて、後鳥羽の御流れのほか、この御子 (=守貞)ならでは皇胤ましまさず。よりてこの孫王(=高倉の孫)を天位につけ奉る。入道親王尊号ありて太上皇と申して、世をしらせ給ふ。

追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申し、淡路の帝の御父舎人の親王を尽敬天皇と申し、光仁の御父施基(しき)の王子を田原天皇と申す。早良 (さわら)の廃太子は怨霊を安められんとて崇道天皇の号をおくらる。院号(=の追号)ありしことは小一条院ぞましける。

この天皇辛巳の年即位、壬午(みづのえうま)に改元。天下を治め給ふこと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給ひしが、二十一歳にて世を早くしおましましき。

○第八十六代、四条院。諱は秀仁(みつひと)、後堀河の太子。御母藻壁門院(そうへきもんいん)、藤原の竴子(そんし)、摂政左大臣道家の女なり。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。

一とせばかりありて、上皇隠れ給ひしかば、外祖にて道家の大臣王室の権を取りて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経もこの大臣の 胤子(いんし)なれば、文武一つにて権勢おはしけるとぞ。天下を治め給ふこと十年。俄かに世を早くし給ふ。十二歳おましましき。

○第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。

承久の乱れありし時、二歳にならせ給ひけり。通親の大臣の四男大納言通方は、父の院(=土御門)にも御傍親(=傍系の親族)、贈皇后(=母)にも御ゆかり なりしかば、(=二歳の後嵯峨天皇を)収養(しゅうよう=秘かに育てた)し申して隠しおき奉りき。

十八の御年にや、大納言さへ世を早くせしかば、いとど無頼(ぶらい=無縁)になり給ひて、御祖母承明門院になむ移ろひましましける。二十二歳の御年、春正 月十日四条院、俄かに晏駕(あんが=崩御)、皇胤(=息子)もなし。連枝(=兄弟)の皇子もましまさず。

順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都に留まり給ひし、入道摂政道家の大臣、彼御方(=順徳院)の外家(がいけ=外戚、順徳院皇后立子 の弟)におはせしかば、この御流れを天位につけ奉り、元のままに世を知らんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰せ遣はしけれど、鎌倉の義時が子、泰時は からひ申してこの君(=後嵯峨天皇)を据ゑ奉りぬ。

誠に天命なり、正理なり。土御門院、御兄(=順徳院の)にて御心ばへもおだしく、孝行もふかく聞こえさせ給ひしかば、天照大神の冥慮に代りてはからひ申しけるも理なり。

大方、泰時、心正しく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御事を重くし、本所(=荘園領主)のわづらひをとどめしかば、風の前に塵なくして、天の下、即ちしづまりき。

かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申し伝ひぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。その主たりし頼朝すら二世をば過ぎず。

義時いかなる果報にか、はからざる家業を始めて、兵馬の権をとれりし、例(たぐい)まれなることにや。されど異なる才徳は聞こえず。また大名(たいめい) の下にほこる心やありけん、なか二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼の泰時あひつぎて徳政を先とし、法式を固くす。

己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までも戒めて、高き官位を望む者なかりき。その政、次第のままにおとろへ、遂に滅びぬるは天命の終る姿なり。七代まで保てるこそ彼が余薫なれば、恨むるところなしと云ひつべし。

凡そ保元・平治より以来の乱りがはしさに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふ者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。

この謂はれをよく知らぬ人は、故もなく、皇威のおとろへ、武備の勝ちにけると思へるは誤りなり。

所々に申しはべることなれど、天日嗣(あまつひつぎ)は御譲りにまかせ、正統にかへらせ給ふ(=天皇)にとりて、用意(=資格)あるべきことの侍るなり。 神は人をやすくするを本誓(ほんぜい)とす。天下の万民は皆神物(じんもつ)なり。君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる 事は、天もゆるさず神も幸ひせぬ謂はれなれば、政の可否に従ひて御運の通塞(とうそく=良し悪し)あるべしとぞ覚え侍る。

まして人臣としては、君を尊とび民を憐れみ、天にせくぐまり(=謙虚にする)地に抜き足し、日月の照らすをあふぎても、心の汚れなくして光に当たらざらん ことをおぢ、雨露の施すを見ても身の正しからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。

朝夕に長田狭田(ながたさた)の稲のたね(=米)を食ふも皇恩なり。昼夜に生井栄井(いくいさくい)の水の流れを飲むも神徳なり。これを思ひもいれず、あ るにまかせて欲をほしきままにし、私を先として公を忘るる心あるならば、世に久しき理もはべらじ。

いはんや国柄をとる仁にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにおきて、いかでその運を全くすべき。

泰時が昔を思ふには、よく誠ある所ありけむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、固くしける法のままに行ひければ、及ばずながら世をも重ねしにこそ。異朝の ことは乱逆にして紀(のり=紀律)なき例多ければ、例とするにたらず。わが国は神明の誓ひいちじるしくして、上下の分定まれり。しかも善悪の報ひ明らか に、困果の理むなしからず。かつは遠からぬことどもなれば、近代の得失をみて将来の鑒誡(かんかい)とせらるべきなり。

抑もこの天皇、正路に帰りて、日嗣をうけ給ひし、先立ちて様々の奇瑞ありき。また土御門院阿波国にて告文(こうもん=起請文)をかかせまして、石清水の八 幡宮に啓白せさせ給ひける、その御本懐(=願い)すゑとほり(=叶う)にしかば、様々の御願(=約束)を果たされしもあはれなる御ことなり。遂に継体の主 としてこの御末(=後嵯峨の子孫)ならぬはましまさず。

壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身を慎み給ひければにや、天下を治め給ふこと四年。太子幼くましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしら せ給ひ、御出家の後も変はらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。

○第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の姞子(きつし)、太政大臣実氏(=西園寺実氏)の女なり。

丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治め給ふこと十三年。后腹(きさいばら)の長子にてましまししかども、御病おはしましければ、同母(=姞子)の 御弟恒仁親王を太子に立てて、譲国、尊号例のごとし。伏見(=天皇)の御代にぞしばらく政をしらせ給ひしが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給ふ。 五十八歳おましましき。

○第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院同母(=姞子)の御弟なり。己未(つちのとひつじ)の年即位、庚申(かのえさる)に改元。

この天皇を継体(=治天の君)と思し召しおきてけるにや、后腹(=僖子)に皇子(=亀山院の子、後宇多院)生まれ給ひしを後嵯峨とりやしなひまして、いつ しか太子に立て給ひぬ。後深草の〈その時新院と申しき〉御子(=伏見院)も先立ちて生れ給ひしかどもひきこされましにき〈太子は後宇多にまします。御年二 歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になり給ひける〉。

後嵯峨隠れさせ給ひてのち、兄弟の御あはひ(=間)に争そはせ給ふことありければ、関東より母儀(ぼぎ=母親)大宮院(=姞子)にたづね申しけるに、先院 (=後嵯峨)の御素意は当今(とうぎん=亀山)にましますよしをおほせ遣はされければ、こと定まりて、禁中にて政務(=治天の君)せさせ給ふ。

天下を治め給ふこと十五年。太子に譲りて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給ふ。事あらたまりにし後(=北條の指図)、御出家。五十七歳おましましき。

○第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原の僖子〈後に京極院と申す〉、左大臣実雄の女なり。甲戌の年即位、乙亥改元。

丙子の年、唐土の宋の幼帝徳祐二年に当たる。ことし、北狄の種、蒙古起こりて元国と云ひしが宋の国を滅ぼす〈金国起こりにしより宋は東南の杭州に移りて百 五十年になれり。蒙古起こりて、先づ金国をあはせ、後に江を渡りて宋を攻めしが、ことし遂に滅ぼさる〉。

辛巳の年〈弘安四年なり〉蒙古の軍多く船をそろへてわが国を侵す。筑紫にて大きに合戦あり。神明、威を表はし形を現じて防がれけり。大風にはかに起こりて 数十万艘の賊船みな漂倒(ひょうとう)破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約(「宝祚(=皇位)の栄えまさんこと天地と極まりなかるべ し」)の変らざることこれにて推し量るべし。

この天皇天下を治め給ふこと十三年。思ひの外にのがれ(=国政から離れ)ましまして十余年ありき。後二条の御門立ち給ひしかば、世をしらせ給ふ。

遊義門院(=皇后)隠れまして、御歎きの余りにや、出家せさせ給ふ。前の大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて灌頂せさせ給ふ。めづら かにたふとき事に侍りき。その日は後醍醐の御門、中務の親王とて(=として)、王卿の座につかせ御座ます。(=当時を思い出すと私は)只今の心地ぞしはべ る。

後二条隠れさせ給ひしのち、いとど世を厭(いとは)せたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云ふ所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立ててぞ行なは せ給ひし。その後、後醍醐の御門位につきましまししかば、またしばらく世をしらせ給ひて、三とせばかりありて譲りましましき。

大方この君は中古よりこなたにはありがたき御事とぞ申し侍るべき。文学の方も後三条の後には、かほどの御才聞こえさせ給はざりしにや。寛平の御誡(=宇 多)には、「帝皇の御学問は『群書治要』などにて足りぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふな」と見えたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門み な宏才博覧に、諸道をも知らせたまひ、政事も明らかにましまししかば、先の二代(=醍醐・村上)はことふりぬ(=言うまでもない)、つぎては寛弘・延久 (=一条・後三条)をぞ賢王とも申すめる。

和漢の古事をしらせ給はねば、政道も明らかならず、皇威も軽くなる、定まれる理なり。『尚書』に尭・舜・禹の徳をほむるには「古へに若(した)がひ稽(か んが)ふ」と云ふ。傅説(ふえつ=殷の大臣)が殷の高宗を教へたるには「事古へを師とせずして、世に長き(=治世が長い)ことは説(えつ=傅説)が聞かざ る所なり」とあり。

唐に仇士良(きゅうしりょう)とて、近習の宦者(=宦官)にて内権をとる、極めたる奸人(=悪人)なり。その党類に教へけるは「人主(=皇帝)に書を見せ 奉るな。はかなき遊びたはぶれをして御心を乱るべし(=乱させておけ)。書を見てこの道を知りたまはば、わがともがらは失せぬべし」と云ひける、今もあり ぬべきことにや。

寛平の『群書治要』をさしての給ひける(=上の言葉は)、部狭(ぶせば=範囲が狭)きに似たり。但しこの書は唐太宗、時の名臣魏徴をして選ばせられたり。 五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文を載せたり。全経の書(=儒学書)・三史(=「史記」「漢書」「後漢書」)等をぞ常の人は学ぶる。この書に 載せたる諸子なんどはみる者少なし。ほとほと名をだに知らぬ類ひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまで学ばせ給ふことよしなかる(=必要がない) べきにや。

本経等を習はせましましそ(=だけを習わせろ)まではあるべからず。已(すで=上記に)に「雑文」とてあれば、経・史の御学問のうへに(=以外にさらに)この書(=『群書治要』)を御覧じて、諸子等の雑文までなくともの御心なり。

寛平はことにひろく学ばせ給ひければにや、周易の深き道をも愛成(ちかなり)と云ふ博士に受けさせ給ひき。延喜の御こと左右にあたはず(=当然のこと)。 菅氏輔佐し奉られき。その後も紀納言(=紀長谷雄)・善相公(=三善清行)等の名儒ありしかば、文道の盛りなりしことも上古におよべりき。

この御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申す人のはべる、浅ましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。

この君(=後宇多)は在位にても政事をしらせ給はず、また院にて(=後二条崩後)十余年閑居し給へりしかば、稽古に明らかに、諸道をしらせ給ふなるべし。御出家の後もねむごろに(=学問を)行なはせましましき。

上皇の出家せさせ給ふことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・後深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病重くなりてぞせさせ給ひし。

(後宇多のように)かやうにあまた聞こえさせ給ひしかど、戒律を具足し、始終欠くることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給ひしこといとありがたき御ことなり。

この御末に一統の運をひらかるる、有徳の余薫とぞ思ひ給ふる。元亨(げんこう)の末甲子の六月に五十八歳にて隠れましましき。

巻六

○第九十一代、伏見院。諱は煕仁(ひろひと)、後深草第一の子。御母玄輝門院、藤原の愔子(やすこ)左大臣実雄の女なり。

後嵯峨の御門、継体(=治天の君)をば亀山と思し召し定めければ、後深草の御流(=持明院統)いかがと覚えしを、亀山、弟順の儀を思し召しけるにや、この君を御猶子にして東宮に据ゑ給ぬ。

その後、御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき(=北條の命令で伏見が即位)。丁亥(ひのとい)の年即位、戊子(つちのえね)に改元。東宮にさへこの天皇の御子(=後伏見院)ゐ給ひき(=北條の命令で)。

天下を治め給ふこと十一年。太子に譲りて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給ひしが、程なく時移りにしかど、中六とせばかりありてまた世を知り給ひき。

関東の輩も亀山の正流をうけたまへることは知り侍りしかど、近頃となりて、世を疑はしく思ひければにや、両皇の御流をかはるばる据ゑ申さんと相計ひけりとなん。後に出家せさせ給ふ。五十歳おましましき。

○第九十二代、後伏見院。諱は胤仁(たねひと)、伏見第一の子。御母永福門院、藤原しょう子、入道太政大臣実兼の女なり。実の御母は准三宮藤原経子、入道参議経氏女なり。

戊戌の年即位、己亥(つちのとい)に改元。天下を治め給ふこと三年。推譲(すいじょう=譲位)のことあり。尊号例のごとし。正和(しょうわ)の頃、父の上 皇の御譲りにて世をしらせ給ふ。時の御門は御弟(=花園)なれど、御猶子(=兄の養子だったから)の儀なりとぞ。

元弘に、世の中乱れし時またしばらくしらせ給ふ。事あらたまりても(=建武の新政)、変はらず都にすませましまししかば、出家せさせ給ひて、四十九歳にて隠れさせましましき。

○第九十三代、後二条院。諱は邦治、後宇多第二の子。御母西花門院、源基子、内大臣具守の女なり。辛丑(かのとうし)の年即位、壬寅に改元。天下を治め給ふこと六年ありて、世を早くし給ふ。二十四歳おましましき。

○第九十四代の天皇(=花園、神皇正統記が書かれた時は存命のため天皇の名がない)。諱は富仁、伏見第三の子。御母顕親門院、藤原季子、左大臣実雄の女なり。戊申(つちのえさる)の歳即位、改元。

〔裏書に云ふ。天子の践祚は禅譲の年を以て先代に属す、年を踰(こ)えて即位する、是れ古礼なり。而るに我朝当年即位翌年改元、已(すで)に流例(=慣 例)と為る。但し禅譲の年の即位改元また先例無きにあらず。和銅八年九月元明禅位。即日元正即位、改元して霊亀とす。養老八年二月元正禅位。即日聖武即 位、改元して神亀とす。天平感宝元年四月聖武禅位。同年七月孝謙即位、改元して天平勝宝とす。神護景雲四年八月称徳崩じ、同年十月光仁即位、十一月改元し て宝亀とす。徳治三年八月後二条崩じ、同年月新主即位、十月改元して延慶とす。また年を踰えて改元せざるの例。天平宝字二年淡路の帝即位、改元せず。仁和 三年宇多の帝即位、改元せず。寛平とす。延久四年白河の帝即位、また改元せず。年を隔てて改めて承保とす等なり。即位以前改元の例、寿永二年八月後鳥羽受 禅、同三年四月改元して元暦とす、七月即位。是れ非常の例なり。〕

父の上皇(=伏見)世をしらせ給ひしが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇(=後伏見)しらせまします。法皇隠れ給ひても諒闇(りょうあん)の儀なかり き。上皇御猶子(=後伏見の養子だったから)の儀とぞ。例なきことなり。天下を治め給ふこと十一年にてのがれ(=譲位)給ふ。尊号例の如し。世の中あらた まりて(=建武の新政)出家せさせ給ひき。

○第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇(=神皇正統記成立のとき故人)。諱は尊治(たかはる)、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継(もろつぐ)の女、実は入道参議忠継女なり。

御祖父亀山の上皇やしなひ申し給ひき。弘安に、時移りて亀山・後宇多、世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰せ給ひしかば、天命の理かたじけなく 恐れ思ひければにや、俄かに立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君を据ゑ奉らんと思し召して、八幡宮に告文(こうもん)を納め給ひしかど、一の御子さしたる 故なくてすてられがたき御事なりければ、後二条ぞゐ給へりし。

されど後宇多の御心ざし(=後醍醐への)もあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥(そつ)にて節会などに出でさせ給ひき。後に中務の卿を兼ぜさ せ給ふ。後二条世を早くしましまして、父の上皇歎かせ給ひし中にも、よろづこの君にぞ委附(いふ=全てを委ねる)し申させ給ける。

やがて儲君(=皇太子)の定めありしに、後二条の一のみこ邦良(くによし)の親王ゐ給ふべきかと聞こえしに、(=後宇多)思し召す故ありとて、この親王を太子に立て給ふ。

「彼の一の御子幼くましませば、御子の儀(=皇太子ではなく)にて伝へさせ給ふべし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御末(=後醍醐)継体たるべ し」とぞ記しおかせましましける。彼親王鶴膝(かくしつ)の御病ありて、あやふく思し召しける故なるべし。

後宇多の御門こそゆゆしき稽古の君にましまししに、(=後醍醐は)その御跡をばよく継ぎ申させ給へり。あまさへ諸々の道を好みしらせ給ふこと、ありがたき程の御ことなりけんかし。

仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言を習はせ給ふ。初めは法皇(=父親)に受け(=指導を)ましましけるが、後に前大僧正禅助(ぜんじよ)に許可(こか)まで受け給ひけるとぞ。

天子灌頂の例は唐朝にも見え侍り。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に灌頂を行なはる。主上を始め奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁灌頂とぞ申すめる。

この度はまことの授職(じゅしょく=伝法灌頂)と思し召ししにや。されど猶ほ許可に定まりにきとぞ。それならず、また諸流をもうけさせ給ふ。また諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内に召してとぶらはせ給ひき。

全て和漢の道にかね明らかなる御事は中頃(=中古)よりの代々には越えさせましましけるにや。戊午(つちのえうま)の年即位、己未の夏四月に改元。元応と号す。

初めつかたは後宇多院の御まつりごとなりしを、中二年ばかりありてぞ(=後醍醐天皇に政権を)譲り申させ給ひし。

それより古きがごとくに記録所をおかれて、夙(つと=早朝)に起き、夜半に大殿篭りて、民のうれへを聞かせ給ふ。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家の古 き御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍りき(=期待した)。

かかりし程に後宇多院隠れさせ給ひて、いつしか東宮の御方(=邦良親王)にさぶらふ人々そはそはに聞こえしが、関東に使節を遣はされ天位を争ふまでの御中らひになりにき。

あづまにも東宮の御ことをひき立て申す輩ありて、御憤りの初めとなりぬ。

元亨甲子の九月の末つかた、やうやう事(=倒幕計画)現れにしかども、承り行ふ中に言ふ甲斐なき事(=犠牲者)いできにしかど、大方はことなくてやみぬ(=正中の変)。

その後程なく東宮隠れ給ふ。神慮にも叶はず、祖皇(そこう)の御戒めにもたがはせ給ひけりとぞ覚えし。今こそこの天皇疑ひなき継体の正統に定まらせ給ひぬれ。

されど坊には後伏見第一の御子、量仁(かずひと)親王ゐさせ給ふ。かくて元弘辛未の年八月に俄かに都をいでさせ給ひ、奈良の方に臨幸ありしが、その所よろ しからで、笠置と云ふ山寺のほとりに行宮(かりみや)をしめ、御志ある兵をめし集めらる(=元弘の乱)。

たびたび合戦ありしが、同じ九月に東国の軍多くあつまり昇りて、事固くなりにければ、他所にうつらしめ給ひしに、思ひの外のこと(=裏切り)いできて、六波羅とて承久よりこなたしめたる所に御幸ある(=逮捕された)。

御供に侍りし上達部・上のをのこどもも或ひはとられ、或ひはしのび隠れたるもあり。かくて東宮位につかせ給ふ(=光厳天皇)。つぎの年の春隠岐の国にうつらしめまします。

御子たちもあなたかなたに移され給ひしに、兵部卿護良親王(もりながしんのう=大塔宮)ぞ山々を廻り、国々をもよほして義兵を起こさんと企て給ひける。

河内国に橘正成(=楠木正成)と云ふ者ありき。御志ふかかりければ、河内と大和との境ひに、金剛山と云ふ所に城をかまへて、近国ををかし平らげしかば、あ づまより諸国の軍を集めて攻めしかど、固くまもりければ、たやすくおとすにあたはず。世の中乱れ立ちにし。

次の年癸酉の春、忍びて御船に奉りて、隠岐を出でて伯耆につかせ給ふ。その国に源長年(=名和長年)と云ふ者あり。御方にまゐりて船の上と云ふ山寺にかりの宮を建ててぞすませ奉りける。

彼の辺りの軍兵しばらくはきほひておそひ申しけれど、みななびき申しぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつわものよりよりうちいづれば、合戦もたび たびになりぬ。京中騒がしくなりては、上皇(=後伏見、花園)も新主(=光厳)も六波羅に移り給ふ。

伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山(=岩清水八幡宮の男山)に陣をとる。

坂東よりのぼれる兵の中に藤原親光(=結城親光)と云ふ者も彼の山にはせ加はりぬ。つぎつぎ御方にまゐる輩多くなりにけり。

源高氏(=足利尊氏)と聞こえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云ひしが後胤なり。彼の義国が孫なりし義氏は平義時朝臣(=北條義時)が外孫なり。義時等 が世となりて、源氏の号ある勇士には心をおき(=警戒した)ければにや、おしすゑ(=弾圧した)たるやうなりしに、これは外孫なれば取り立てて領ずる所な どもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。

高氏も都へさしのぼせられけるに、疑ひをのがれんとにや、告文(=北條に味方する誓い文)をかきおきてぞ進発しける。されど冥見(=神の目)をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。

官軍力をえしままに、五月八日の頃にや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこころざして落ちゆきしに、両院・新帝同じく御幸あり。

近江国馬場と云ふ所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士は戦ふまでもなく自滅しぬ。

両院・新帝は都に返し奉り、官軍これを守り申しき。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬと聞こえければ還幸(=後醍醐天皇が)せさせ給ふ。まことにめづらかなりし事になん。

東にも上野国に源義貞(=新田義貞)と云ふ者あり。高氏が一族なり。世の乱れに思ひを起こし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうち望みけるに、高時等運命きは まりにければ、国々の兵つき従ふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時を初めとして多くの一族みな自滅してければ、鎌倉また平ら ぎぬ。

符契(ふけい)をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同き月にぞしづまりにける。六七千里の間(=全国)、一時におこりあひにし、時の至り運の極まりぬるはかかることにこそと不思議にも侍しもの哉。

君(=後醍醐天皇)はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云ふ所にてぞ聞かせましましける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしか ば、威儀を整へて本の宮(=内裏)に還幸し給ふ。いつしか賞罰の定めありしに、両院・新帝をばなだめ申し給ひて、都にすませましましける。

されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶(しょうきょう)と云ひしをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月より先のままにてぞありし。

平治より後、平氏世を乱りて二十六年、文治の初め、頼朝、権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久に義時、世をとり行ひしより百十三年、全て百 七十余年の間、おほやけ(=天皇)の世を一つにしらせ給ふこと絶えにしに、この天皇の御代に掌をかへすよりもやすく一統し給ひぬること、宗廟の御はからひ も時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰ぎ奉りける。

同じき年冬十月に、先づあづまのおくを鎮めらるべしとて、参議右近の中将源顕家(=北畠顕家、筆者の息子)の卿を陸奥守になして遣はさる。代々和漢の稽古 をわざとして、朝端(ちょうたん)に仕へ政務にまじはる道をのみこそ学び侍れ。吏途(りと=地方行政)の方にも習はず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれ ば、度々いなみ申ししかど、「公家既に一統しぬ。文武の道二つあるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそ多くは軍の大将にもさされしか。 今より武をかねて蕃屏たるべし」とおほせ給ひて、御自ら旗の銘をかかしめ給ひ、様々の兵器をさへくだしたまはる。

(=国守が実際に)任国におもむくことも絶えて久しくなりにしかば、古き例をたづねて、罷り申しの儀(=天皇への暇乞いの儀式)あり。御前にめし勅語あり て御衣御馬などをたまはりき。猶ほ奥の固めにもと申し受けて、御子(=後醍醐の子)を一所ともなひ奉る。かけまくもかしこき今上皇帝(=村上天皇)の御こ となればこまかには記さず。彼の国につきにければ、まことに奥の方ざま両国(=陸奥と出羽)をかけてみななびき従ひにけり。

同き十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼ねて下向す。これも四品上野大守成良親王(なりながしんのう)をともなひ奉る。この親王、後にしばらく征夷大将軍を兼ねせさせ給ふ〈直義は高氏が弟なり〉。

抑も彼の高氏御方にまゐりし、その功は誠にしかるべし。すずろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下を鎮めしままの心ざしにのみなりにける にや(=頼朝になった気分だろうか)。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。

拝賀の先に、やがて従三位して、程なく参議従二位まで昇りぬ。三け国の吏務・守護及びあまたの郡庄を給はる。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。

昔頼朝例なき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。はたして子孫も早く絶えぬるは高官のいたす所かとぞ申し伝へたる。

高氏等は頼朝・実朝が時に親族などとて優恕(ゆうじょ=優遇される)することもなし。ただ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、(=義氏)地下前駈二十人の中に相ひ加はれり。

たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしとも覚えず。いはむや、久しき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申す輩もありけりとぞ。

関東の高時天命既に極まりて、君(=後醍醐天皇)の御運を開きしことは、更に人力と云ひがたし。武士たる輩、云へば数代の朝敵なり。御方にまゐりてその家 を失はぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望みをも企てはべるべき。しかるを、天の功を盗みておのれが功と思へり。

介子推(かいしすい)が戒めも習ひ知るものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるるもありき。

されば或人の申されしは、「公家の御世に帰りぬるかと思ひしに中々猶ほ武士の世に成りぬる」とぞありし。

およそ政道と云ふことは所々に記し侍れど、正直慈悲を本として決断の力あるべきなり。これ天照大神の明らかなる御教へなり。

決断と云ふにとりてあまたの道あり。一つにはその人を選びて官に任ず。官にその人ある時は君は垂拱(すいきょう=部下に任せっきりに)してまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世の本とす。

二つには国郡をわたくしにせず、分かつ所(=知行にするときは)必ずその理(=正当な理由)のままにす。

三つには功あるをば必ず賞し、罪あるをば必ず罰す。これ善をすすめ悪をこらす道なり。これに一も違ふを乱政とは云へり。

上古には勲功あればとて官位をすすむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位と云ひし名をおきて一等より十二等まであり。無位の人々なれど、勲功たかくて 一等にあがれば、正三位の下、従三位の上に連なるべしとぞ見えたる。また本位ある人のこれを兼ねたるも有るべし。

官位と云へるは、上、三公(=大臣)より下、諸司(=役人)の一分に至る、これを内官と云ひ、諸国の守より史生・郡司に至る、これを外官と云ふ。

天文にかたどり、地理にのとりて、各々司どる方(=職務)あれば、その才なくては任用せらるべからざることなり。「名と器(うつわもの)とは人にかさず」 とも云ひ、「天の工(つかさ)、人それ代はる」とも云ひて、君の乱りに(=位を)さづくるを謬挙(びゅうきょ)とし、臣の乱りに(=位を)受くるを尸禄 (しろく)とす。

謬挙と尸禄とは国家のやぶるる階(はし=初め)、王業の久しからざる基ゐ(=原因)なりとぞ。

中古と成て、平将門を追討の賞にて、藤原秀郷正四位下に叙し、武蔵・下野両国の守を兼す。平貞盛正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任、奥州を乱 りしを、源頼義朝臣十二年までに戦ひ、凱旋の日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。

彼等その功高しといへども、一任四、五ケ年の職なり。これ猶ほ上古の法には変はれり(=勲位でなく官位を与えている)。保元の賞には、義朝左馬頭に転じ、清盛太宰大弐に任ず。この外、受領・検非違使になれるもあり。

この時や既に乱りがはしき始めとなりにけん。平治より以来皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を盜み、太政大臣にあがり、子ども大臣大将に成りしう へは云ふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。

頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱を平らげ、二十余年の御憤りを安め奉りし、昔神武の御時、宇麻志麻見(うましまみ=宇麻志間見)の命の中洲(=日本)を 鎮め、皇極の御宇に大織冠(=藤原鎌足)の蘇我の一門を滅ぼして、皇家を全くせしより後は、類ひなき程の勲功にや。

それすら京上(きょうのぼり)の時、大納言大将に任ぜられしをば、固くいなみ申しけるをおしてなされにけり。公私のわざはひにや侍りけん。その子は彼があ となれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとと云ふ物もなし。天意には違ひけりと見えたり。

君もかかる例を始め給ひしによりて、大功なき者までも皆かかるべきことと思ひあへり。頼朝はわが身かかればとて、兄弟一族をば固くおさへけるにや。義経五 位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日、地下の前駈にめし加へたり。驕る心見えければにや、この両弟をも遂に失ひにき。

さならぬ親族も多く滅ぼされしは、奢りの端を防ぎて、世をも久しく、家をも鎮めんとにやありけん。

先祖経基(=源経基)は近き皇孫なりしかど、承平の乱れに征東将軍忠文(ただふん)朝臣が副将として彼が節度(せつど)を受く。そのより武勇の家となる。

その子満仲より頼信、頼義、義家相ひ続いで朝家の固めとして久しく召し仕はる。

上にも朝威ましまし、下にもその分に過ぎずして、家を全くし侍りけるにこそ。為義(=源為義)に至りて乱(=保元の乱)に与して誅に伏し、義朝(=平治の 乱)また功を立てんとて滅びにき。先祖の本意に背きけることは疑ひなし。さればよく先蹤を弁へ、得失をかむがへて、身を立て、家を全くするこそ賢き道な れ。

おろかなる類ひは清盛・頼朝が昇進をみて、皆あるべきことと思ひ、為義、義朝が逆心をよみして(=喜んで)、亡びたる故を知らず。

近ごろ伏見の御時、源為頼(=浅原為頼)と云ふをのこ内裏にまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼と書き たりし、いとをかしきことに申すめれど、人の心の乱りになり行く姿はこれにて推し量るべし。

義時などはいか程もあがるべくやありけん。されど正四位下右京権大夫にてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末を(=気に)かけてよく掟置きければにや。滅びしまでも遂に高官に昇らず、上下の礼節をみだらず。

近く維貞(これさだ)と云ひしもの吹挙(すいきょ)によりて修理大夫になりしをだにいかがと申しける。まことにその身もやがて失せ侍りにき。

父祖のおきてに違ふは家門を失ふ印なり。人は昔を忘るるものなれど、天は道を失はざるなるべし。さらば「など天は正理のままに行なはれぬ」と云ふこと、疑はしけれど、人の善悪は自らの果報なり。世のやすからざるは時の災難なり。

天道も神明もいかにともせぬことなれど、邪まなるものは久しからずしてほろび、乱れたる世も正にかへる、古今の理なり。これをよく弁へ知るを稽古と云ふ。

昔、人を選びもちゐられし日(=基準)は先づ徳行を尽くす。徳行同じければ、才用あるをもちゐる。才用ひとしければ労効あるをとる。また徳義・清慎(=清 廉)・公平・恪勤(かくごん=勤勉)の四善をとるとも見えたり。格条(かくじょう=法令)には「朝(あした)に廝養(しよう=雑役)たれども夕べに公卿に 至る」と云ふことの侍るも、徳行才用によりて不次(ふじ=破格)にもちゐらるべき心なり。

寛弘よりあなたには、まことに才かしこければ、種姓に関はらず、将相に至る人もあり。寛弘以来は、譜第(=家柄)を先として、その中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞ選ばれける。

世の末に、乱りがはしかるべきことを戒めらるるにやありけん、「七け国の受領をへて、合格して公文と云ふことかんがへぬれば、参議に任ず」と申し慣はした るを、白河の御時、修理のかみ顕季(あきすえ=藤原顕季)と云ひし人、院の御乳母(めのと)の夫にて、時のきら(=輝き)並ぶ人なかりしが、この労(=受 領経験)をつのりて参議を申し(=要求)けるに、院の仰せに、「それも物書きて(=文筆の才)の上のこと」とありければ、理にふしてやみぬ。

この人は哥道なども誉れありしかば、物書かぬ程のことやはあるべき。また参議になるまじき程の人にもあらじなれど、和漢の才学の足らぬにぞありけん。

白河の御代まではよく官を重くし給ひけりと聞こえたり。余り譜第をのみ取られても賢才の出でこぬ端(はし)なれば、上古に及びがたきことをうらむるやから もあれど、昔のままにてはいよいよ乱れぬべければ、譜第を重くせられけるも理なり。

但し才もかしこく徳も表はにして、登用せられむに、人の謗りあるまじき程の器ならば、今とても必ず非重代(ひじゅうだい=名家)によるまじき事とぞ覚え侍る。

その道にはあらで、一旦の勲功など云ふばかりに、武家代々の陪臣をあげて高官を授けられむことは、朝議の乱りなるのみならず、身のためもよくつつしむべきこととぞ覚え侍る。

唐土にも、漢高祖はすずろに功臣を大きに封じ、公相の位をも授けしかば、はたして奢ぬ。奢れば(=功臣を)滅ぼす。よりて後には功臣残りなくなりにけり。

後漢の光武はこの事に懲りて、功臣に封爵を与へけるも、その首たりし鄧禹(とうう)すら封ぜらるる所、四県にすぎず。官を任ずるには文吏を求め選びて、功 臣をさしおく。これによりて二十八将の家、久しく伝はりて、昔の功もむなしからず。

朝(ちょう=朝廷)には名士多くもちゐられて、曠官(こうかん=無能)の謗りなかりき。彼二十八将の中にも鄧禹と賈復(かふく)とはその選びにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいと有り難く侍りけるにこそ。

次に功田と云ふことは、昔は功のしなに従ひて大・上・中・下の四つの功を立てて田をあがち給ひき。その数みな定まれり。大功は世々に絶えず。その下つかたは或ひは三世に伝へ、孫子に伝へ、身に留まるもあり。

天下を治むと云ふことは、国郡を専らにせずして、そのこととなく不輸(ふしゅ=免税)の地を立てらるることのなかりしにこそ。国に守(かみ)あり、郡に領(=役人)あり、一国のうち皆国命の下にて治めし故に法にそむく民なし。

かくて国司の行迹をかむがへて、賞罰ありしかば、天下のこと掌をさして行ひやすかりき。その中に諸院・諸宮に御封(=封戸)あり。親王・大臣もまたかくのごとし。

その外、官田・職田とてあるも、みな官符を給はりて、その所の正税を受くるばかりにて、国はみな国司の吏務(=行政権)なるべし。但し大功の者ぞ今の庄園などとて伝ふるがごとく、国にいろはれずして伝へける。

中古となりて庄園多く建てられ、不輸の所出来しより乱国とはなれり。上古にはこの法よく固かりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸をわけて寺 に寄せん」と奏せしを遂にゆるされず。光仁天皇は永く神社・仏寺に寄せられし地をも「永の字は一代に限るべし」とあり。

後三条院の御世こそこのつひえを聞かせ給ひて、記録所をおかれて国々の庄公の文書をめして、多く停廃せられしかど、白河・鳥羽の御時より新立の地いよいよ多くなりて、国司の知り所百分が一になりぬ。

後ざまには、国司、任に赴くことさへなくて、その人にもあらぬ眼代(がんだい=代官)をさして国を治めしかば、いかでか乱国とならざらん。

況や文治の初め、国に守護職を補し、庄園・郷保に地頭を置かれしより以来は、さらに古への姿と云ふことなし。政道を行なはるる道、悉く絶えはてにき。

たまたま一統の世に帰りぬれば、この度ぞ古き費え(=弊害)をも改められぬべかりしかど、それまではあまさへ(=あまつさへ、それどころか)のことなり。 今は本所の領(=荘園)と云ひし所々さへ、みな勲功に混ぜられて、累家(=名家)もほとほとその名ばかりになりぬるもあり。

これみな功に誇れる輩、君をおとし奉るによりて、皇威もいとど軽くなるかと見えたり。かかればその功なしといへども、古くより勢ひある輩をなつけられんた め、或ひは(=元々自家の)本領なりとてたまはるもあり、或ひは近境なりとて望むもあり。

闕所(けつしょ)をもて行なはるるに足らざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までも、きほひ申しけりとぞ。

治まらんとしていよいよ乱れ、やすからんとして益々あやふくなりにける、末世の至りこそまことに悲しく侍れ。

凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人臣の道なり。必ずこれを身の高名と思ふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、その後を憐れみて賞せらるるは、君の御政なり。

下としてきほひ争ひ申すべきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分の望をいたすこと、自らあやぶむる端(はし)なれど、前車の轍を見ることはまことにありがたき習ひなりけんかし。

中古までも人のさのみ豪強なるをば戒められき。豪強になりぬればかならず驕る心あり。はたして身を滅ぼし、家を失ふ例あれば、戒めらるるも理なり。

鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとどむべしと云ふ制符たびたびありき。源平久しく武を取りて仕へしかども、事ある時は、宣旨を給は りて諸国の兵を召しぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるる(=私的に主従関係になる)族(やから)多くなりしによりて、この制符はくだされき。

はたして、(=源平は)今までの乱世の基ゐ(=原因)なれば、言ふ甲斐なきことになりにけり。この頃の諺には、一たび軍にかけあひ(=参加)、或ひは家子 郎従、節に死(=戦死)ぬる類ひもあれば、「わが功におきては日本国を給へ、もしは半国を給はりても足るべからず」など申すめる。

まことにさまで思ふ事はあらじなれど、やがてこれより乱るる端ともなり、また朝威の軽がろしさも推し量らるるものなり。「言語は君子の枢機なり」と云へり。あからさまにも君をないがしろにし、人に驕るることあるべからぬことにこそ。

先に記し侍りしごとく、かたき氷は霜を踏むより至るならひなれば、乱臣賊子と云ふ者は、その初め心、言葉を慎まざるより出でくるなり。

世の中の衰(おと)ろふると申すは、日月の光の変はるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心の悪しくなり行くを末世とはいへるにや。

昔、許由(きょゆう)と云ふ人は帝尭の国を(=自分に)伝へんとありしを聞きて、潁川(えいせん)に(=その話で汚れた)耳を洗ひき。巣父(そうほ)はこ れを聞きてこの水をだに汚ながりて渡らず(=権力を嫌う話)。その人の五臓六腑のかはるにはあらじ、よく思ひ習はせる故にこそあらめ(=体は同じだが考え が違う)。

猶ほ行末の人の心思ひやるこそ浅まし(=未来の人々の思いを想像すると今の有様が情けない)けれ。大方おのれ一身は恩(=恩賞)にほこるとも、万人の恨みを残す(=買う)べきことをばなどかかへりみざらん。

君は万姓の主にてましませば、限りある地をもて、限りなき人に分かたせ給はんことは、推してもはかり奉るべし。もし一国づつをのぞまば、六十六人にて塞が りなむ。一郡づつと云ふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも千万の人は悦こばじ。況や日本の半ばを心ざし、皆ながら望まば、帝 王はいづくをしらせ給ふべきにか。

かかる心のきざして言葉にも出で、おもてには恥づる色のなきを謀反の初めと云べきなり。

昔の将門は比叡山に昇りて、大内(だいだい=皇居)を遠見して謀反を思ひ企てけるも、かかる類ひにや侍りけん。

昔は人の心正くて自づから将門(=の失敗)に見もこり、聞きもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、この世はよくおとろへぬるにや。

漢高祖の天下をとりしは蕭何(しょうか)・張良・韓信が力なり。これを三傑と云ふ。万人に優れたるを傑と云ふとぞ。

中にも張良は高祖の師として、「謀を帷帳(いちょう=戦陣)の中にめぐらして、勝つことを千里の外に決するはこの人なり」との給ひしかど、張良は驕ること なくして、留(りゅう=地名)と云ひてすこしきなる所を望みて封ぜられにけり。あらゆる功臣多くほろびしかど、張良は身を全くしたりき。

近き代のことぞかし、頼朝の時までも、文治の頃にや、奥の泰衡を追討せしに、自ら向ふことありしに、平重忠(=畠山重忠)が先陣にてその功優れたりけれ ば、(=東北)五十四郡の中に、いづくをも望むべかりけるに、長岡の郡とてきはめたる小所を望みたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をも行なはしめん がためにや。賢こかりけるをのこにこそ。

また直実(なほざね=熊谷直実)と云ひける者に一所を与へたまふ下文に、「日本第一の甲の者なり」と書きて給ひてけり。一とせ(=ある年)彼の下文を持ち て奏聞(=天皇に)する人のありけるに、褒美の詞の甚だしさに、与へたる所の少なさ、まことに名を重くして利を軽くしける、いみじきことと口々に褒めあへ りける。いかに心得て褒めけんといとをかし。

これまでの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家の古き姿もなし。

いかになりぬる世にかと歎き侍る輩もありと聞こえしかど、中一年(=建武新政の三年)ばかりはまことに一統の印と覚えて、天の下(=人々が)こぞり集りて都の中、映えばえしくこそ侍りけれ。

建武乙亥(きのとい)の秋の頃、滅びにし高時(=北条)が余類(=残党)謀反を起こして鎌倉に入りぬ(=中先代の乱)。直義(=足利)は成良親王をひきつ れ奉りて三河の国まで逃れにき。兵部卿護良親王(=大塔宮)、ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申すに及ばず失ひ(=殺害)申してけり。乱れの中 なれど宿意(=うらみ)を果たすにやありけん。

都にも、かねて陰謀の聞こえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿(=西園寺公宗)召しおかれしも、このまぎれに誅せらる。承久より関東の方人(=味 方)にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅びぬれば、運のしからしむる事とは覚ゆれど、弘仁(=810年)に死罪を止められて後、信頼(=藤原信頼、 平治の乱)が時にこそめづらかなることに申し侍りけれ。

(=西園寺公宗は)戚里(せきり=外戚)の寄せ(=後見役)も久しくなり、大納言以上に至りぬるに、同じ死罪なりとも表(おもて)はならぬ法令もあるに、承はり行ふ輩の誤りなりとぞ聞こえし。

高氏(=足利尊氏)は申し受けて東国に向ひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望みけれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。

程なく東国はしづまりにけれど、高氏望むところ達つせずして、謀反を起こすよし聞こえしが、十一月十日余りにや、義貞(=新田義貞)を追討すべきよし奏状を奉り(=上奏した)、即ち討手(=が)昇りければ、京中騒動す。

(=尊氏の)追討のために、中務卿尊良親王(たかながしんのう)を上将軍として、さるべき人々もあまた遣はさる。武家には義貞朝臣を初めて多くの兵をくだされしに、十二月に官軍ひき退りぞきぬ。

関々を固められしかど、次の年丙子の春正月十日官軍またやぶれて朝敵既に近づく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。

内裏も即ち焼けぬ。累代の重宝も多く失せにけり。昔より例なき程の乱逆なり。

かかりし間に、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿(=畠山顕家)この乱れを聞きて、親王(=義良)を先に立て奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率ゐつして攻めのぼる。同じき十三日近江国につきて事の由を奏聞す。

十四日に江(=琵琶湖)を渡りて坂本にまゐりしかば、官軍大いに力を得て、山門の衆徒までも万歳を呼ばひき。同じき十六日より合戦始まりて三十日、遂に朝敵を追ひ落す。やがてその夜還幸し給ふ。

高氏等猶ほ摂津国にありと聞こえしかば、重ねて諸将を遣はす。二月十三日またこれを平らげつ。朝敵は船にのりて西国へなむ落ちにけり。

諸将及び官軍はかつがつ帰りまゐりしを、東国の事、覚束なしとて、親王(=義良)もまた帰らせ給ふべし、顕家卿も任所にかへるべきよし(=天皇が)おほせらる。義貞は筑紫(=九州)へ遣はさる。

かくて(=義良)親王元服し給ふ。直(じき)に三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼の国の太守は始めたることなれど、たより(=縁)ありとてぞ任じ給 ふ。勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給ふ。顕家卿はわざと賞をば申し受けざりけるとぞ。

義貞朝臣は筑紫へ下りしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを退治すべしとて、日を送りし程に五月にもなりぬ。

高氏等西国の凶徒をあひ語らひて重ねて攻めのぼる。官軍利なくして都に帰参せし程に、同じき二十七日にまた山門に臨幸し給ふ。

八月に至るまで度々合戦ありしかど、官軍いとすすまず。仍りて都には元弘偽主(=光厳天皇)の御弟に、三の御子豊仁(=光明天皇)と申しけるを(=尊氏は)位につけ奉る。

十月十日の頃にや、主上(=和睦して)都に出でさせ給ふ、いと浅ましかりしことなれど、また行末を思し召す道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。左衛門 督実世(さねよ)の卿以下の人々、左中将義貞朝臣を初めてさるべき兵もあまた仕りけり。

主上は尊号の儀(=上皇)にてましましき。(=尊氏は)御心を安め奉らんためにや、成良親王を東宮に据ゑ奉る。

同じき十二月にしのびて都を出でましまして、河内国に正成と云ひしが一族等をめしぐして吉野にいらせ給ぬ。

行宮(かりみや)を作りて渡らせ給ふ。もとのごとく存位(=天皇の位)の儀にてぞましましける。内侍所(=神鏡を置く場所)も移らせ給ひ、神璽も御身に従へ給ひけり。

まことに奇特のことにこそ侍りしか。吉野の行幸に先だちて、義兵を起こす輩も侍りき。

臨幸の後には国々にも御心ざしある類ひあまた聞こえしかど、つぎの年もくれぬ。

またの年戊寅(つちのえとら)の春二月、鎮守大将軍顕家の卿また親王を先だて申し、重ねてうちのぼる。海道の国々悉く平らぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入り、奈良の京になんつきにける。

それより所々の合戦あまたたび互ひに勝負侍りしに、同じき五月和泉国にての戦ひに、時や至らざりけん、忠孝の道ここに極まり(=戦死し)侍りにき。

(=顕家は)苔の下にうづもれぬ者とては、ただいたづらに名をのみぞとどめてし、心憂き世にもはべるかな。

官軍猶ほ心をはげまして、男山に陣を取りて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍びて(=奇襲で)社壇をやきはらひしより、事成らずして引き退ぞく。

北国にありし義貞も度々召されしかど、昇りあへず。させることなくてむなしく(=死亡)さへなりぬと聞こえしかば、云ふばかりなし。

さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子(=義良親王)また東へ向かはせ給ふべき定めあり。左少将顕信(=顕家の弟)朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の 介、鎮守将軍を兼ねて遣はさる。東国の官軍悉く彼の節度(=指揮)に従ふべき由を仰せらる。

親王(=義良親王)は儲君(=皇太子)に立たせ給ふべきむね申し聞かせ給ひ、「道の程もかたじけなかる(=旅の途中は畏れ多い)べし。国にては(=即位を)表はさせ給へ」となん申されし。

異母の御兄もあまたましましき。同母の御兄も前の東宮、恒良親王・成良親王ましまししに(=亡くなって)、かく定まり給ひぬるも天命なればかたじけなし。

七月の末つかた、伊勢に越えさせ給ひて、神宮にことのよしを啓(もう)して御船をよそひし、九月の初め、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総 の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上荒くなりしかば、また伊豆の崎と云ふ方に漂よはれ侍りしに、いとど浪風おびただしくなりて、あまたの船、 行き方知らず侍りけるに、御子の御船はさはりなく伊勢の海につかせ給ふ。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。

同じ風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船(=著者親房の船)侍りき。方々(かたがた)に漂ひし中に、この二つの船同じ風にて東西にふきわけける、末の世にはめづらかなる例にぞ侍べき。

儲(もうけ)の君に定まらせ給ひて、例なきひなの御すまひ(=東北の)もいかがと覚えしに、皇大神のとどめ申させ給ひけるなるべし。後に吉野へいらせまし まして、御目の前にて天位をつがせ給ひしかば、いとど思ひあはせられて尊とく侍るかな。

また常陸国はもとより(=親房の)心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはく(=強く)なりぬ。奥州・野州の守も次の年の春重ねて下向して、各々国につき侍りにき。

さても旧都には、戊寅(つちのえとら)の年の冬改元して暦応とぞ云ひける。吉野の宮にはもとの延元の号なれば、国々も思ひ思ひの号なり。唐土には、かかる例多けれど、この国には例なし。

されど四年にもなりぬるにや。大日本島根(やまとしまね=奈良)はもとよりの皇都なり。内侍所・神璽も吉野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さ ても八月の十日余り六日にや、秋霧に冒されさせ給ひて隠れ(=崩御)ましましぬとぞ(=私の耳に)聞こえし。

寝(ぬ)るが中(うち)なる夢の世は、いまに始めぬならひとは知りながら、数々目の前なる心ちして老いの泪(なみだ)もかきあへねば、筆の跡さへとどこほりぬ。

昔、「仲尼は獲麟(=死亡)に筆をたつ」とあれば、ここにて留まりたく侍れど、神皇正統のよこしまなるまじき理を申しのべて、素意の末をも表はさまほしくて、しひて記しつけ侍るなり。

かねて時(=死期)をも悟らしめ給ひけるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号(=諱)をば、仰せのままにて後醍醐天皇と申す。

天下を治め給ふこと二十一年。五十二歳おましましき。昔仲哀天皇熊襲を攻めさせ給ひし行宮にて神去(=崩御)りましましき。されど神功皇后程なく三韓を平らげ、諸皇子の乱を鎮められて、胎中天皇(=応神)の御代に定まりき。

この君(=後醍醐)、聖運ましまししかば、百七十余年中絶えにし一統の天下をしらせ給ひて、御目の前にて日嗣を定めさせ給ひぬ。

功もなく徳もなき盗人(=尊氏)世におごりて、四年余りが程、宸襟(しんきん=天皇)をなやまし、御世をすぐさせ給ひぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。

今の御門また天照大神より以来の正統を受けましましぬれば、この御光に争ひ奉る者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞ覚え侍る。

○第九十六代、第五十世の天皇(=後村上)。諱は義良(のりよし)、後醍醐の天皇第七の御子。御母准三宮、藤原の廉子(れんし)。この君孕(はら)まれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給ひけるとぞ。

さればあまたの御子の中に只なるまじき御事とぞかねてより聞こえさせ給ひし。元弘癸酉(みづのととり)の年、あづまの陸奥・出羽の固めにておもむかせ給ふ。

甲戌(きのえいぬ)の夏、立親王、丙子の春、都に昇らせましまして、内裏にて御元服。加冠左の大臣なり。即ち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給ふ。

同じき戊寅(つちのえとら)の年の春、また上らせ給ひて、吉野宮にましまししが、秋七月伊勢に越えさせ給ふ。重ねて東征ありしかど、猶ほ伊勢に帰りまし、己卯(つちのとう)の年三月また吉野へ入らせ給ふ。

秋八月中の五日譲りを受けて、天日嗣(あまつひつぎ)を伝へおまします。

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