淮南子より学ぶ!修身、人間万事、塞翁が馬!

『淮南子(准南子、えなんじ)』は『淮南鴻烈』ともいい、前漢の武帝・淮南王劉安が蘇非・李尚・伍被らの学者を集めて編纂させた10部21篇から成る思想書です。
道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて治乱興亡や古代中国人の宇宙観、逸事が体系的に記述され、一般的には雑家の書に分類されており、注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』があります。
簡単に説明すれば、荘子の道家思想をベースとしながら、それまで別と考えられていた老子思想との共通性を見出して老荘思想としてまとめ上げ、儒家法家の考えも取り込んで時代に合わせようとしたもので、「人間万事、塞翁が馬」「蟷螂の斧」「一致団結」などの故事成語も『淮南子』です。

『淮南子』には、人がどのように生きるのか、生きるべき道としての修身が説明されています。
『淮南子』の人間の修身論では、人間と自然世界との関わりを重視します。
その修身論では、老子・荘子の教説と同義で、”人は人間社会の中で天然の自然の生き方を目指すべきである”と考えるのです。
そのため、人の修身の根拠として、自然を大切に考え、善と悪とについて考えます。
自然こそが善であり、そして自然に反すれば反するほど悪であると捉えるため、人間の完全な善の状態を自然と一体となることによって達成するという考え方なのです。
では、どうしてそういう考え方になるのでしょうか?
それは、人が悪になる原因は、気持ちが外に向かい欲望を抱くためであるため、自分の外にあるものを欲しがる気持ちを抑え、欲望を抑えることで、人本来の善なる存在で居続けることが出来ると考えているためです。
要は、自分が本来持っているものに満足できれば、それで既に善なる状態は達成している、つまり今のありのままの自分を大切にしなさい、ということなのです。
人間社会の中で生きながら、人間社会の中にある様々な欲望の対象を追求せずに、自然状態の本来の自分を守り続ける姿勢を保つこと。
これが、『淮南子』の骨格となっているのです。
資料も希少ではありますが、老荘思想の萌芽が見え隠れする佳書、一度読んでみてはいかがでしょうか。

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以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【巻一 原道訓(根本を問う)】

道→相対的な判断を超越した存在であり、全てを覆うもの
道  天→覆 地→載
天地を包容し、無形の萬物に形をあたえる。
無窮にして昼夜を分かつことなく、拡げれば天地四方を覆い、縮めれば一握りにも充たないもの。
四方を支え、陰陽の気をを包含し、天地を繋ぐ綱となり、その中に日月星を輝かせる存在。
約  張
幽  明
弱  強
柔  剛
柔軟 微細

万物生成の理は、動かさざるべき根本を知り、流れに応ずべき所有るも妄りにせざるを知る。
故に無窮なるを窮め、無極なるを極め、事物を明らかにして惑わず、その化育は留まらず、これ天下の大道である。
故に道を得る者は志弱くして事強く、心は虚にして全てを容る。
いわゆる志弱くして事強しとは、静にして和するのである。
あえて競うことなく、強いて為すことなく、恬淡虚無なりて妄りに動きて時を失わず、万物生成の理に順いて共に往き、先んじて妄りに発することなく、感じて遂に通ずるに至る。
この故に貴きは必ず賤を以て号とし、高きは必ず下を以て基と為す。
小に居るも大を容れ、中に在りて外を制し、柔にして剛、弱にして強、事に応じて変化窮まり無く、道は一にして全てを統ぶ。
いわゆる其の事強しとは、変に遇えばにわかに応じて患いを除き難を防ぎ、力は勝たざること無く、敵を凌がざること無く、変化に応じて時を見定めるが故に誰も害することはできないのである。
この故に剛を欲すれば必ず柔を以て守るべきを知り、強きを欲すれば必ず弱を以て保つべきを知らねばならない。
真に剛なるは柔を積むが故であり、真に強なるは弱を積みし故である。
その積みし所を観れば、自ずと禍福終始の生ずる所以を察することができるであろう。
強きは己に及ばぬ者に勝つも、己に及びし者に対すれば勝たざることも有るが、柔なればたとえ剛強なる者であろうとも必ず勝つに至る。
柔なれば深く蔵して虚の如く、その力は表面に顕われざるが故に到底量り知ることはできないのである。
故に国家在りて兵強かろうともそれだけではいずれ滅するし、木在りて剛木なろうとも風に逆らい続ければいずれは折れ、革在りて如何に固かろうとも引っ張り続ければ裂けるに至り、歯は舌よりも堅きものなれども朽ちるのは必ず歯が先なのである。
この故に柔弱というものは生の根幹なりてそこに安んじて精根生ずるも、堅強というものは精を用いて尽さざるを得ないが故に死に向かえし者であると云える。
先んじて唱える者は窮するの路であり、後れて動きし者は達するの原であると云う。
なぜ斯様な言葉が存するのであろうか。
凡そ人の寿命たるや七十歳、人は日々に言行動静ありて、やがてその非を悔いるも、死に至りし頃なるが関の山である。
蘧伯玉は年五十にして四十九年の非を知ると云った。
なぜかといえば、先んずる者は知を為し難く、後れし者は修め易きが故である。
先んずる者が高きに在らば後れし者はそこを目指せば善いし、先んずる者が低きを越えて往けば後れし者も又これを越えて往けば善い。
先んずる者が陥らば後れし者はその所以に学べば善いし、先んずる者が敗れてしまえば後れし者はそれを回避するように動けば善い。
このように考えてゆけば、先んずる者は後れし者の弓矢の的のようなものであり、先と後は刃と柄の如きものである。
刃は危険なるものなれども柄にはその患いを存しない、この所以は何であろうか。
それは先に難ありて後に安んずる所あるが故なのである。
この道理は誰しもが察して居ることであって、如何なる賢知であろうとも決して避けることはできない。
いわゆる後れし者というのは、単に底に滞留して発せず、凝結して流れざることを云う訳ではない。
ただ、数を察して時宜を得て、自らで命を運ぶを貴ぶのである。
もしも道理に由りて変遷と共に自らが在れば、先なろうとも後なろうとも行き着く先は一である。
なぜかと謂えば、道理が存するが故に人を制する所以を失うことなく、また、道理に由れば誰もこれを制することが出来ぬからである。
時の流転は変化極まり無く迅速であって、智力を尽すも先ならんとすれば過分となり後ならんとすれば不及となってしまう。
日々流れて月もまた流れ、時は人を待たず、故に聖人は大なる宝玉を貴ばずして、わずかなる光陰を重んずる。
此れ時は得難くして失い易しなるが故である。
禹は時の大事を知りて履物が脱げるも取らず、冠が掛かろうとも顧みず、これは先なるを争うに非ずして、わずかな時をも惜しんだのである。
この故に聖人は静にして和し、柔弱を内に存し、道理に従ひて変遷に応じ、常に後なるを旨として先なるを慎むのである。
柔弱なるは静に居る所以であり、人は安んじて始めて定まるを知り、大を内に蔵し堅を磨きて時宜を待つ、是れ自然と己のままに導きて争う所以すら生じないのである。

【巻二 俶真訓(めでたい真理)】
『日本書紀』の冒頭「古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となっている。

【巻三 天文訓(天文について)】

天地日月星辰
陰 陽   陰  陽
清 濁   天  地
易 難   天  地
熱 寒   陽気 陰気
火 水   日 月
天→日月星辰
地→雨水塵埃
萬物→天地「精気」、陰陽、四時

天円方地
天円→明   →気「吐く」→火→外形→萬物を施与する。
方地→幽「暗」→気「含む」→水→内景→萬物を同化させる。
円→天の道
方→地の道
萬物の働きは本と末が相応じている。
四時→天の官吏
日月→天の使者
星辰→天の時を定めるもの

五星→方位  帝 補佐 取 季節 神  獸  音 十干 
木 →東  太_ 句芒 規 春  歳星 蒼龍 角 甲乙
火 →南  炎帝 朱明 衡 夏  ?惑  朱鳥 徴 丙丁
土 →中央 黄帝 後土 繩 四方 鎮星 黄龍 宮 戊己
金 →西方 少昊 蓐收 矩 秋  太白 白虎 商 庚辛
水 →北方 __ 玄冥 權 冬  辰星 玄武 羽 壬癸

二十四節季
 陰気は馬に生じ、陽気は子に生ずる。
 淮南子では五月に夏至、十一月に冬至としている。
 二隅の間を九十一度十六分度の五として、一日に凡そ一度ずつ進み、十五日で一節と規定している。
 冬至から十五日経過して癸を示すと小寒となる。

気象現象と陰陽関係
夏至→乘陽「極陽」→陰気によって萬物は死滅に向かう
冬至→乘陰「極陰」→陽気を仰いで萬物は生生に向かう。
陽        陰
冬至から夏至   夏至から冬至
「昼」      「夜」 
陽勝つと昼長く   陰勝つと夜長い
寅卯辰巳午未    申酉戌亥子丑
卯と酉を指す時は陰気と陽気が平分であり、昼夜の長さが同様になる。

天地の間には、分かれて陰陽の二気がある。
 陽は陰によって生じ、陰は陽によって生ずる。
 陰陽の二気が相交わって四隅が通じ合い、二気の消長によって萬物が生ずる。
 生あるすべてのものの中で、最も貴いのは人である。
 されば、人のからだに具わる鼻口などの孔竅や肢体は、すべて天に通じている。
 天に九重があれば、人にも九竅があり、天に四時があって、十二月を制しているように、人にも四肢があって、十二節を駆使している。
 天に十二か月があって、三百六十日を制しているように,人にも十二肢があって、三百六十節を駆使している。
 そこで事を行って天に願わないのは、その生にそむくことである。

【巻四 堕形訓(地形訓)】
【巻五 時則訓(時の問題)】
【巻六 覧冥訓(見えざるものについて)】
【巻七 精神訓(精神論)】
八紘一宇の由来で『日本書紀』神武天皇の言葉「掩八紘而爲宇」に引用されている。

人大いに怒れば陰を破り、大いに喜べば陽を落し、大いに憂えれば内に崩れ、大いに恐れば狂気を生じる。穢れを除き煩いを去るのは始めから根本を外れないのに越したことはない。即ち大通をなす。目を清くして見ず、耳を静にして聞かず、口を閉じて云わず、心を捨てて慮らない。聡明を棄てて太素に返り、精神を休めてことさらな知を棄てる。心は覚醒していても暗愚なようであり、生きていて死んでいるようであって、終われば本に返る。まだ生まれていない時は造化と一体であった。死と生は一体だった。

【巻八 本経訓(大本の意味)】

故に、至人の治は心は神と居り身体は性と調和し、静にいて徳を体し、動けば理に通じる。自然の性に随って已むを得ない造化に縁り、為すことなくして天下自ずから和し、さっぱりとして民は自然に樸となる。祟り吉祥なく民に夭死なし、紛争なく人々生業足り、国内を包み込む政治の功沢は後の世にも及ぶも、その功労者の名は知られない。それで生前に愛称なく死後に佳いおくり名もない。事実が集まらないから名が興らない、与えるものは恩徳としない、受けるものも辞譲しない。徳それぞれに帰しても外に溢れ出ることがない。(中略)賢聖の名がある時は乱世の憂いに遭遇したからである。

【巻九 主術訓(人生と政治)】

古代において天子が政治を執り行うに、下に仕えし者は各々のあり方で諫言した。
三公九卿は諫争して直に正し、博士は詩を誦し、楽官は箴し師官は誦し、庶人は語を伝え、史官はその過失を書し、家宰は膳を取り下げるなどしてそれとなく諫めた。
それでも古代の聖王は足らぬとした。
故に堯は敢諫の鼓を置いて打たせ、舜は誹謗の木に可否を書かせ、成湯は司法官を設け、武王は戒慎の振り鼓を建て、僅かばかりの過失にさえも備えを怠ることはなかったのである。
そもそも聖人たれば、善あれば如何に小なりとも必ず讃え、己に過あれば如何に微なりとも必ず改めるものであろう。
堯舜禹湯文武の諸王は、皆な天下に坦然として君主の座に在った。
その在り方たるや、王者の禮たる食時の太鼓、食終の奏楽を欠かすことなく、食後には竃を祭って恩恵に感謝し、事を断ずるに祈ることなく、故に鬼神は祟らず、山川は禍を及ぼさず、まさに貴の至りと言えるものである。
斯様にあっても常に過ちあるを恐れ、己を省みて一日として倦むことはなかった。
このように観てみれば、聖人の心というものはなんと小なるものであろうか。
詩経に云う、
維れ此の文王、小心翼翼たり、昭かに上帝に事へ、ここに多福を懐く、と。
これはこのような聖人の姿を讃えたのであろう。
武王は紂を伐ちて、紂が民から搾り取って蓄えし金銭穀物を貧民に散じ、諫言して殺された比干の墓を封じ、諫めて辞職を余儀なくされた商容を郷里で顕彰し、殷の始祖たる成湯の廟を詣で、幽閉されていた箕子を解放し、人々を各々の宅に居らせ、その田を耕させてその生活を安んじ、古きも新しきも問わず、唯だ賢者に親しみ、己に有せざるをも用い、己に親しからざる者をも使い、その様たるや平生より己が有したるが如くに自然であった。
このように観てみれば、聖人の志というものはなんと大なるものであろうか。
文王は遍く是非得失を鑑み、堯舜の栄えし所以と桀紂の亡びし所以を明堂に掲げて常なる訓戒とし、ここにおいて智を略し聞を博め、事に応じて窮まること無く善道を行なった。
このように観てみれば、聖人の智というものは己に反るが故に自然と周りへと波及するのである。
成王、康王は文王、武王の業を継ぎ、明堂の制を守り、存亡の迹を鑑み、成敗の変を察し、道義を存して言行一致し、必ず善を択びて後に事に従った。
このように観てみれば、聖人の行というものは天理に通ずるが故に自然と為されるのである。
孔子の万能なるや、智は萇弘を凌ぎ、勇は孟賁を服し、足は狡兔に追いつき、力は城門を開く、斯様に多才であったという。
そのようであるからこそ、その勇力や技巧などは世に伝わらず、ひたすらに教道を行なって人々からその徳を慕われるまでに至った。
天下を化して自然と達するが故に、生ぜし事績は斯様に少ないのである。
春秋に記載されし二百四十二年の間、亡びた国は五十二、君を弑せし者は三十六、善を挙げて醜を棄て、王道たる在り方を論じている、その論たるやなんと博きものであろうか。
そのようであるからこそ、匡の地において害さんとする人々に囲まれるも、顔色を変ずること無く、弦歌を奏で続け、死亡の地に臨み、艱難の危を犯すとも、余裕を存して己が義を尽くし、理に由りて動き、その志は少しも屈することはなかった。
その分限を尽す様のなんと明なることであろうか。
然るに、孔子は魯の司寇となった際に、獄訴を聴けば必ず法に遵って処罰し、春秋を著すも鬼神を説かず、敢えて自分の意ばかりを通すことはなかったのである。
このように聖人の智たるや、固より既に多きものであるに、その守るところは簡約にして妄りに為さぬが故に、為すべきところは必ず為して栄えるに至る。
愚人の智たるや、固より既に少なきものであるに、意の動くままに為さんとするが故に煩雑となり、遂には窮することになる。
呉起や張儀はその智が孔子や墨子に及ばぬにも関わらず、天下の諸侯と争ったが故に、遂には処刑されてその命を失った。
つまるところ、正を以て教化せし者は易くして必ず成り、邪を以て世を巧みに渡らんとする者は難くして必ず敗れるのである。
大体において、己を尽して天下に志を存するにも関わらず、成り易き者を捨て、事の難くして必ず敗れし者に習うなどは、まさに愚惑なる者というべきであろう。
およそこの六反のことは、よくよくわきまえねばならないのである。

博識であろうとも人道を知らざれば智とは言えないし、博愛であろうとも人類を愛せざれば仁とは言えない。
仁は必ず其の類を愛することから始まり、智は人道を存するが故に惑うことはない。
仁は必ず自らの信念に由りて事を断じ、同時に憐憫の情で全てを包み込む。
智は必ず事に応じて全てを察し、惑わずして全てを明かにしてゆく。
内には恕を存し人情を巡らし、良心に反することを人に加えること無く、近きに由りて遠きを知り、己に由りて人を知る、これは仁と智が渾然と調和した姿なのである。
小を化するも遍く広がりて大なる化となり、小を誅するも遍く広がりて大なる効に至る。
これというのも仁の端たる惻隠の心を推して断行するが故であり、真の智者にして始めて成る。
故に仁智は相違い、時有りて相合する。
その相合せしときを正道と呼び、その相違いしときを権道と呼ぶが、その義は一である。
下に在りし者達は法を守り、人君たるは義に由りて定める。
故に法あろうとも義が存さねば、上に立つ者とは言えない。
如何に政務を執り行おうとも民を安んずるには至らないであろう。

【巻十 繆称訓(誤謬論)】
【巻十一 斉俗訓(世俗同化論)】

国を治める道は上主に苛酷な命令なく官僚に煩雑な職務がない。士族に偽行なく職人に見せ掛けの技巧がないなら、勤めは修まって乱れず道具の働きは完全で余計な飾りがない。乱世ではそうではなく、行ないは高尚な理想を掲げて得意になり、礼は人に誇るために偽りとなり、車はくまなく飾りが施され、道具は彫り飾りが付く。財貨を求めるものは得難さを争って宝物とし、法令を議論するものは細則をもうけて賢いとし、争って詭弁をなし議論を長引かせて結審せず政治に益がない。職人は奇器を作り時を費やして出来あがっても実用には合わない。(中略)衰世の俗は知功詐偽で多くの無用を飾り、遠方の希財を珍しがり、生計の物資を集めず、世の実質を薄くし損う。牛馬の檻を作るために牛馬を使役し、万民を混乱させて、清さを濁らせ、性命は飛び散り、乱れて迷い、貞信は散乱して人は性情を失う。

【巻十二 道応訓(タオについて)】
【巻十三 氾論訓(広く論じること)】
【巻十四 詮言訓(要点の言葉)】
【巻十五 兵略訓(兵略について)】
【巻十六 説山訓(エピソードその1)】
【巻十七 説林訓(エピソードその2)】
【巻十八 人間訓(処世とは何か)】

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

【巻十九 修務訓(人としてのありかた)】
【巻二十 泰族訓(大いなる帰結へ)】

儒家の言で秦をそしる。その実、武帝への革命の檄文と思われる。”黄老王臣列伝”に載せる。

【巻二十一 要略(まとめ)】
「道を言いて事を言わざれば世とともに浮沈するなく、事を言いて道を言わざれば化と与(とも)に游息することなし」

なぜ武帝は淮南王に『離騒』の説明を求めたのか。
なぜ淮南王劉安は自害せざるをえなかったのか。
なぜ楚の風土には巫系文化が横溢していたのか。
なぜ『淮南子』はタオの香りをもったのか。
なぜ『淮南子』は諸子百家の雑家に分類されたのか。
以上の5つのことが見えてこないかぎり、
中国思想も老荘思想も道教も、とうていわからない。