二十一回猛士の説、幽囚録より学ぶ!時代の先見性と世界へ向かう志!

『幽囚録』は吉田松陰がペリー艦隊に密航しようとして失敗し、江戸伝馬町の獄につながれた後に故郷の長州へ移送され、萩城下の野山獄で幽囚の身であった時、まさにペリー艦隊への密航のことを述べたもので、当時の情勢を踏まえて、行動の動機とその思想的根拠を漢文で述べているもので、「余を罪するものも幽囚録、余を称するものも幽囚録なり」と松陰自ら言ったと伝えられているものです。
※)ちなみに松陰は、入獄中に別冊とした『幽囚録』を含めて「二十一回猛士説」「士規七則」「桂小五郎に与うる書」など五十数篇を「野山獄文稿」としてまとめています。
またこの『幽囚録』は、兵学の師匠である佐久間象山が閲覧して添削批評を加えた書でもあり、思想家としての教育実践報告書であったのですが、後世「象山翁評」が欠落し、跋文の最後の「丙辰十二月五日」なども欠落しているため、師弟共戦の完全なる結果報告とまではなりえていないのが残念です。
しかしながら、松陰の精神を充分吸収できる内容が提示されている点において、貴重な書籍であることには間違いありません。

『幽囚録』のなかで松蔭は、
「日本が統一的力を発揮した後で、まず北海道を開拓し、沖縄を完全に日本領にし、ロシアの隙に乗じて樺太を奪い、朝鮮を植民地にし、北は満州の地を割き、南は台湾および南方の諸島を領し、じりじりと日本の勢いなるものを世界に示すべきだ。
 その後に人民を愛し道徳を盛んにし、慎んで国の辺境を守れば、偉大な日本を世界に示す事ができる」
といいます。
当時、西洋列強に植民地化されていたインドや中国を前に、江戸太平の世に安寧とするばかりでは、この国を維持するのは不可能!と論じていた松陰の歴史感覚には驚かざるを得ません。
「外国人の前に膝を屈し、首をたれて、そのなすがままに任せている」現状を歎き、国勢の衰えを危惧している松陰の姿が目に浮かぶようです。
そして
「下田米艦密航については、机上の空論に走り、口先だけで論議する者たちと組することはできず、黙って坐視していることはできないので、やむにやまれぬことだった」
と吐露しているのです。
そして、「日本書紀」の敏達天皇の件を提示しながら外患の問題打開の方策を述べていくのです。
例えば、海防については下田開港決定を聞くや、京都の近くで地の利を得ているところは伏見に及ぶところはないので、ここに大きな城をつくって幕府をおき、皇都としての京都を守るべきである、など、松陰の立案は地勢を論じながら、兵学校の設置、艦船の建造、参勤交代の艦船利用、蝦夷地の開拓と幅広い提案を展開しているのです。

「二十一回猛士説」は幽囚録付録に収載されており、下田踏海事件以後、二十一回猛士の別号を用いるようになった松陰が、猛の未だ遂げざるもの尚お十八回あり、と自己を叱咤激励し、独自の境地を開いた記念すべき一文です。
現代語訳としてピックアップするとこんな感じです。
「私は天保元年、庚寅(こういん)元年(1830年)に杉家に生まれた。
 その後成長して、吉田家を継いだ。
 甲寅(安政元年)に罪を得て獄へ入った。
 夢に神が現れ、一枚の名刺を差し出された。
 それには「二十一回猛士」とあった。
 夢から覚め考えるに、杉の字には二十一の形がある(松陰の実家は杉家なので「杉」の字を分解し「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、合算すると「二十一」になる)。
 吉田の字もまた二十一回の形がある(「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、「田」の字を分解すると「口」と「十」になる。 これらを強引に組み立て直すと、「十一」と「十」、あわせて「二十一」、 「口」と「口」をあわせて「回」になる)。
 私の名前は寅(次郎)である。
 寅は虎である。
 虎の徳性は猛きことである。
 私の身分は低く、体は虚弱である。
 だから、この虎の猛々しさを師とするのでなければ、どうして立派な武士となることができようか。
 できはしない。

 私は生まれてこのかた、猛々しい行動をとったことがおよそ三回ある(一回目は、東北旅行のために脱藩したこと。二回目は、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、「将及私言」など上書を藩主に意見具申したこと。三回目は、ペリー来航時に密航を試みた「下田渡海」をさす)。
 それで罪を得たり、非難され、今は獄に入れられ再び猛を行うことが出来ない。
 そして、猛のまだ成し遂げていないものは十八回ある。
 その責任もまた重いのである。
 神はおそらく、私が日々弱くなり、微力となって二十一回の猛を成し遂げられないことを恐れ、天意として私を啓発してくださったのであろう。
 とすれば、私が志と気を合わせ養うこともやむを得ないことである」
入獄という不慮の時においても、このように意志的に生き得たところにこそ、松陰の特質と魅力があるといえるのかもしれません。

そして松陰は、短命ではありましたが、波乱万丈の人生を送った幕末の志士の先達でした。
兵法家・思想家・教育家そして詩人と多才な側面を持ち、兵法家としては、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の跡継ぎとしての使命を痛切に心していたであろうし、思想家としては、教育実践に有益な思想を形成して、多くの門下生を生み出しています。
しかし、改めて「野山獄文稿」に収められた「幽囚録」を読むと、長州藩に存在する松下村塾だけが松下村塾ではなく、松陰が存在し、過ごした場所すべてが松下村塾であり、そこの集まる人は誰しもがその熱き影響力を受けていたことに気付かされます。
条件やハードルを、前進できぬ言い訳にすることは容易いですが、こうした松陰の姿勢や生き方には、常に多くの学びと実践の気概を教えられるものです。
数多くの松陰の語録と共に、何をなすべきか考えてみるべき時代にあると感じて頂ければ幸いです。

・学は人たる所以を学ぶなり(松下村塾記)
・志を立てて以て万事の源と為す(士規七則)
・知を離れて人なく、人を離れて事なし人事を論ずる者は地理より始む。(講孟余話)
・万巻の書を読むに非ざれば寧んぞ千秋の人たるを得ん(松下村塾聯)
・身皇国に生まれて皇国の皇国たるを知らずんば何を以て天地に立たん(睡餘事録)
・松下は陋村なりと雖も誓って神国の幹とならん(村塾の壁に留題す)
・若し僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。(勤皇僧黙林宛書簡)
・今の幕府も諸侯最早酔人なれば、扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。(北山安世宛書簡)
・親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん(父叔兄宛書簡)
・至誠にして不動者未だ古より之れ有らず。(小田村伊之助に與ふ)
・平生の学問浅薄にして、至誠天地を感格すること出來申さず、非常の変に立ち到り申し候(父叔兄宛書簡)
・かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂(回顧録)
・世の人はよしあしごともいはばいへ賤が誠は神ぞ知るらん(回顧録・白井小助宛)
・扠も扠も思ふまいと思ふても又思ひ、云ふまいと云ふても又云ふものは國家天下の事なり(兄梅太郎宛書簡)
・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂(留魂録)

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【幽囚録 序】
道は則ち高し、美し、約なり、近なり。人徒其の高く且つ
美しきを見て以て及ぶ可からずと為し、而も其の約にして且
つ近、甚だ親しむ可きことを知らざるなり。富貴貧賤、安楽
艱難、千百、前に変ずるも、而も我は之を待つこと一の如く。
之に居ること忘れたるが如きは、豈約にして且近なるに非ず
や。然れども天下の人、方且に富貴に淫せられ貧賤に移され、
安楽に耽り艱難に苦しみ、以て其の素を失いて自から抜く能
わざらんとす。宜なるかな、其の道を見て以て高く且美しく
して及ぶ可からずと為すや。孟子は聖人の亜、其の道を説く
こと著明にして、人をして親しむ可からしむ。世蓋し読まざ
るものなし。読みて道を得たる者は或は鮮し。何ぞや。富貴
貧賤、安楽艱難の累わす所と為りて然るなり。然れども富貴
安楽は順境なり。貧賎銀難は逆境なり。境の順なる者は怠り
易く、境の逆なる者は励み易し。怠れば則ち失い、励めば則
ち得るは、是人の常なり。吾、罪を獲て獄に下り、吉村五明・
河野子忠・富永有隣の三子を得、相共に書を読み道を講じ、
往復益々喜ぶ。曰く「吾と諸君と其の境は逆なり。以て励み
て得ること有る可きなり」と。遂に孟子の書を抱きて
講究礱磨し、以て其の所謂道なる者を求めんと欲す。司獄福
川氏も亦来り会して「善し」称す。是に於て悠然として楽しみ、
莞全として笑い。復圜牆の苦たることを知らざるなり。遂
に其の得る所を録し、号して『講孟箚記』と為す。

夫孟子の説は、固より弁ずることを待たず、然れども之を喜びて足ら
ず、乃ち之を口に誦し、之を誦して足らず、乃ち之を紙に筆
するも、亦情の巳む能はざる所なれば、則ち『箚記』の作は、
其れ廃す可けんや。抑々聞く、往年獄中政なく、酒に酗し、
気をして喧豗紛争して、絶えて人道なからしめたりと。今公
の位に即くや、庶政更張し、延きて獄中に及び、百弊日に改
まり、衆美並びに興る。蓋し司獄も亦与りて力あり。今乃ち
諸君と悠々として学を講じ、以て其の幽囚を楽しむことを得
る者は、寧ぞ対揚する所以を思わざる可けんや。
安政乙卯秋日、二十一回藤寅、諸を野山の獄の北房第一舎に書す。