ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン!苦悩の天才・楽聖トリビア!

今日(3月26日)は、楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の没後188年目の日です。

ということで、ブログ上でベートーヴェンの楽曲を奏でる訳にもいかないので、この楽聖のエピソードの中で気になるものをざっと整理しておきたいと思います。

●まずはその名前から。
彼の名前は Ludwig van Beethoven ですが、これは正しい発音でカタカナ読みすると”ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン”となります。
私達が普段目にする表記は、英語読みで”ベートーヴェン”というものが多いですが、教科書やNHKなどは”ベートーベン”となっていますよね、不思議なことに。
彼をドイツ語風に正しく呼んであげるのであれば、”ベートホーフェン”という形になるのでしょうが、馴染みがないだけにちょっと違和感がありますね。

●メトロノームを最初に使った作曲家は、ベートヴェンだそうです。
1815年に製品化されたものを気に入ったベートヴェンは、それまでの自身の全ての作品をメトロノームで測り、楽譜の速度記号を全て書き直したという逸話も残されている程。
ベートーヴェンの墓碑の形がメトロノームなのは有名ですが、彼のおかげでメトロノームが音楽家達に一気に普及したそうです。
(ちなみにメトロノームを製品化したメルツェルは、難聴のベートーヴェンのために数多くの補聴器を試作した記録が残っているそうです)

●そこで難聴の話題ですが、どうも原因はワインだったのでは、といわれているそうです。
当時のワインは醗酵しすぎて酸っぱかったことから、この酸味を抑えるために酢酸鉛を含んだ甘味料を加えられていたらしく、非常にワイン好きだったベートーヴェンは鉛中毒であった可能性が高いそうです。
(一説には、腹痛を紛らわす目的も含めてワインを常飲していたともいわれています)
ベートーヴェンの難聴は20代後半から始まり、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態でしたし、生涯慢性的な腹痛や下痢に悩まされていましたが、死去後彼の毛髪を検査したところ通常の100倍近い鉛が検出されたそうです。
癇癪持ちで気まぐれという性格も、実は鉛中毒によるものかもしれませんね。

●大変な引っ越し魔で、ウィーンとその近郊を79回にわたって引っ越しています。
そのため、現在ではウィーンの至る所に「ベートーヴェンの住んだ家」という、ウィーン市の案内プレートを見つける事が出来る訳です。

●無類のコーヒー好きで、毎朝自分で正確に豆60粒を数えて、トルコ式ミルでひいたといわれています。
後にこのミルを、ベートーヴェン・ミルと呼び、現在でもウィーンのコーヒー・ショップの看板やウィンドウでよく見かけられます。

●ベートーヴェンの容姿は小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕で酷く荒れており、髪は縮れ、マユは太く乱れ、ハンサムではなく、コンプレックスを持っていたことが伺えます。
ヴェーリング墓地(シューベルト公園)に埋葬されていたベートーヴェンとシューベルトですが、墓地の改修で遺骨を発掘した際に測定したところ、ベートーヴェンの身長は165cm、シューベルトの身長は153cm前後だという事がわかっています。
ハイドンからは「蒙古大王」というあだ名をつけられていました。
また、ピアノ教則本で有名な弟子のチェルニーは、少年時代に初めてベートーヴェンに会った時、ロビンソン・クルーソーを思わせる、という感想を抱いたそうです。

●楽聖最後の言葉は、「友よ、喝采せよ、喜劇は終わった(Plaudite,amici,comedia finita est) 」
ベートーヴェンの葬儀には、3万人もの人が集まっています。
生涯独身であったベートーヴェンですが、著名な作曲家としてはシューベルト、ブラームス、リストなども生涯独身を通しています。

●それでは彼の作曲した作品から幾つか。
名曲ピアノ小品 イ短調WoO.59「エリーゼのために(Für Elise, am 27, April 1810, für Erinnerung von L.v.Bthvn)」は、実は「テレーゼのために」が正しいようです。
この曲は、かつてベートーヴェンが愛した女性テレーゼ・マルファッティに捧げられ、後世テレーゼの手紙箱から発見されたものです。
しかし、ベートーヴェンの字があまりにも汚かった為、後世の研究者達が「テレーゼ(Thelese)」を「エリーゼ(Elise)」と読み間違えてしまい、そのまま100年以上もの間、エリーゼという人のために書かれたと思われていました。
こうした事実がわかってからも、現代に至るまでこの楽曲は「エリーゼのために」です。
後世に残る字は、出来る限り注意したいものですね。

ちなみに、ピアノソナタ第24番嬰ヘ長調「テレーゼ」は、テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックという伯爵令嬢に捧げられたため、このように呼ばれていますが、このテレーゼは「エリーゼのために」のテレーゼとは、別人です。

●ベートーヴェンの弟子アントン・シントラーは、良し悪し含めて何かとお騒がせな人物のようです。
日本では第五交響曲は『運命』という呼び名が一般的ですが、これはベートーヴェンが「冒頭の4つの音は何を示すのですか」と問われたのに対して「運命はこのように扉をたたくのだ」と答えたことに由来しています。
しかし、これはベートーヴェンの没後に弟子のアントン・シントラーが書いた伝記から由来しているだけで、ベートーヴェン自身が名付けた訳ではありません。

ちなみに第五交響曲は、第二次世界大戦中に英国BBCでさかんに放送されていました。
というのも、冒頭の「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」が、モールス信号のV[トン・トン・トン・ツー( ..._ )](=Victory)を意味していたからだそうです。

第八交響曲のアレグレット(第2楽章)の出だしは、1812年の春にメルツェルとベートーヴェンが一緒に昼食をとっていた際に、その場で口ずさんだメロディを即興でカノンに仕立てた、といわれていますが、このエピソードはシントラーの偽作の可能性が高いとのことです。

ピアノ小作品「ロンド・ア・カプリッチョ(奇想曲風ロンド) ト長調 作品129」には、「なくした小銭への怒り(小銭をなくして怒り心頭、カプリースで怒りをぶちまける)」という副題が付いていますが、これはシントラーによってつけられたものです。

ピアノソナタ第17番は「テンペスト(嵐)」という副題が付いていますが、これはシントラーがベートーヴェン曲の解釈を聞いたところ「シェイクスピアの『テンペスト(あらし)』を読め」と言ったことから来ているそうです。

ピアノソナタ第10番ト長調は「夫婦喧嘩」という副題が付いていますが、これはシントラーが「男女の対話(主義の争い)が認められる」と述べたことから来ていますが、ドイツでは通じないエピソードのようです。

ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ第32番は2つの楽章(通常のピアノソナタは3楽章構成)で構成されていますが、これにはシントラーがベートーヴェンに「なぜ2楽章しかないのですか?」と質問したところ、「時間がなかった」「下らない質問をするな」と返し、その意を解したシントラーは即座に恥じ入って非礼を詫びたというエピソードがあるようです。

ちなみにベートーヴェンはピアノソナタを第32番まで作曲していますが、自身が名付けた表題は「悲愴」、「告別」のみで、他の「葬送」、「月光」、「田園」、「テンペスト(嵐)」、「熱情」、「ヴァルトシュタイン(Waldstein)」,「熱情」、「テレーゼ」、「かっこう」、「ハンマークラヴィーア」などはシントラーを含めて後年の人が命名したものです。

難聴であったベートーヴェンはシントラーと筆談をしその会話帳は400冊余あったそうですが、後世シントラーは半分以上を破棄して、現存しているものは136冊のみとのことです。
しかもその残った会話帳の中にも、シントラーは改竄を加えているとのことで、ベートーヴェンとのエピソードがどれだけ信憑性が高いのかは定かではありません。

●ピアノ協奏曲第3番の初演ピアニストはベートーヴェン自身でした。
というのも、この時点でピアノの譜面はほとんど空白で、彼にしか分からない記号のようなものが書き込まれているのみで、かなりの部分を即興で弾きこなしたためだ、といわれています。

●ベートーヴェンの交響曲第7番を、ワーグナーは「舞踏の権化」と表現したが、ロマン・ロランは「酔った勢いで書いた曲だ」と言っています。
確かに、そういわれてしまうぐらい目まぐるしい交響曲ですが、私はかなり好みなんですけどね。
バーのBGMはクラッシックジャズが最適ですが、意外とベト7も合うかもしれません。

●ベートーヴェンは自分の交響曲第7番を“大きな交響曲”、交響曲第8番を“小さな交響曲”と呼び、特に交響曲第8番は、とても気に入り自信を持っていたようです。

●これも有名な逸話です。
第九交響曲の初演時、ベートーヴェンは既に聴力を失っていたため指揮は代役を立て、自身は各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がっていました。
演奏後、ベートーヴェンは初演が失敗だと思い聴衆の方を向くことができなかったのですが、聴衆は大喝采の嵐の中。
そこで見かねたアルト・ソロ歌手「ウンゲル」がベートーヴェンの手を取り振り向かせ、ベートーヴェンは初めて聴衆の喝采に気付いたと言われています。

第九初演終了後、観衆が熱狂し喝采のアンコールが4回かかり、第2楽章は二度も演奏されました。
5回目の喝采に応えようと、アンコールとして三度目の第2楽章を行おうとして警官に制止されたそうです。
というのも、当時皇帝陛下にすら喝采は3回までと決められていたからです。

第九はシラーの歌詞を引用した合唱部分を持つ第4楽章が有名ですが、第2楽章も特徴的でですよね。
というのも、当時の交響曲は第1楽章はインパクトのある曲、第2楽章はゆっくりした曲を持ってくるというのが定石だったところに、第九の第2楽章は逆にたくましい躍動感のある曲の構成にしてあるためです。
このため、第九初演では第2楽章が終わった時点で、観客からいっせいに拍手が沸き起こったそうです。

第九の原題は、シラーの頌歌「歓喜に寄す」による終結合唱を持つ、大管弦楽、四声の独唱と四声の合唱のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世陛下に最も深い尊敬の念を持って、ベートーヴェンにより献呈された交響曲、作品125 ( Sinfonie mit Schluß-Chor über Schillers Ode “ An die Freude ” für großes Orchester, 4 Solo- und 4 Chor-stimmen componirt und seiner Majestät dem König von Preussen Friedrich Wilhelm III in tiefster Ehrfrucht Zugeeignet von Ludwig van Beethoven, 125 tes Werk )」です。
そのため、初版の楽譜には「交響曲第9番」とは書かれていません。

こうした第九交響曲「歓喜の歌」は、今では欧州連合(EU)の欧州連合賛歌・国歌(歌詞はラテン語)となっており、ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアが、ユネスコ(UNESCO)の世界遺産に指定されています。

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コメント

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