理財論より学ぶ!幕末の偉人、財政再建の神様・ 山田方谷について!

山田方谷は、幕末維新期の儒家・陽明学者にして、30歳のとき佐藤一斎の門に入って佐久間象山、塩谷宕陰らと交わりを結び、3年後帰藩して藩学学頭、藩主板倉勝静の侍講を経、備中松山藩の元締役・郡奉行となり、破綻した藩財政の立て直し・改革に尽した名財政家であり、卓越した政治家です。
(象山は明治維新の精神的指導者となった長州の吉田松陰の師匠でもありますが、佐藤一斎塾では実力は方谷の方が上だったとも伝えられています)
当時、十万両の借金にあえぐ備中松山藩5万石の藩財政を、わずか八年で逆に十万両の蓄財にかえてしまったというこの逸材は、後に英雄となる河井継之助がはるばる備中まで方谷を訪ね、土下座してまで師と仰いだとまでいわれ、徳川第十五代将軍・徳川慶喜の「大政奉還の起草文」を書いたとも言われています。
明治維新後は、岩倉具視や大久保利通らが新政府への要職就任を請うたものの、「二君にまみえず。二度と仕官のつもりはない」としてこれを頑として断り、備前の閑谷学校の再興と子弟教育に生涯を捧げました。
(もし方谷が明治新政府の会計方(現在の財務省)の要職の出仕要請を受けていたら、日本資本主義の父と称される渋沢栄一の上司ともなり、山田方谷は彼以上の著名人になっていたかもしれません)
しかも、高杉晋作の奇兵隊ですら方谷の真似であったといわれる程の先見の明を持っており、武人としても戊辰戦争では藩主の板倉勝清を補佐し、最強の旧幕府軍として最後の最後(函館五稜郭の戦い)まで戦い続けたという逸話も残っています。

要は、
・思想においては、儒学の朱子学および陽明学を修得し、尊皇の志高く、漢詩も堪能
・教育者として、優秀な人材を多数輩出し、
・藩政においては、政治学・経済学・経営学・社会学のすべての知識をもって類まれなる実績を残し、
・農学・鉱物学・工学・軍事学の分野においてもその才能を遺憾なく発揮
した、明治維新の時代にして突出した才能を持った人物なのです。
しかし、その天才ぶりは現代においては何故かメジャーとはいえないため、藩政で行った政策を中心に、改めて整理しておきたいと思います。

方谷が行った藩政改革は、実は著名な米沢藩15万石の藩主・上杉鷹山※)をしのぐ見事な改革手腕でした。
※)上杉鷹山については、いずれ整理してみたいと思います。
現在に上杉鷹山が有名になっているのは、「代表的日本人」(内村鑑三著)の英訳版を読んだ、第35代アメリカ合衆国大統領・ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」と述べたからだと思われますが、どうしてどうして、藩政改革という切り口で見れば、更に偉大なる人物が居た訳です。

では、ここで方谷が行った藩政改革をざっと纏めてみましょう。

(1)財政再建
 方谷が元締役に就任した当時、松山藩の借金は10万両で破綻状態。
 そこで「理財論」を元に「義を明らかにして利を計らず」という漢の董仲舒の言葉を引いて、藩政の財政改革の基本的方向を示した。
 まずは負債の整理のため大坂商人と交渉し、藩の現状を正直に伝えた上で財政再建計画書提示。
 大阪商人達は、備中の物産の仲買をするより、10万両の借金取り立てに応じる方が得策と判断し、利子の免除と返済期限50年延期を承諾。
 結果、方谷の政策によって数年で10万両の借金を完済し、さらに10万両の蓄財にまで成功。

(2)上下節約
 方谷は上級武士にも質素倹約を実施させ、賄賂を禁止。
 恨みを抱かれないように自身の家計を公開し、みずからは質素な生活を送る。

(3)藩札刷新
 発行しすぎたことにより下落した藩札を三年かけて回収し、公衆の面前で燃やす。
 その後、新しい藩札を発行し、産業のための資金として領民に貸し、生産物を納付させた。
 貨幣経済が信用に基づいていることを見抜き、それを政策に用いた。

(4)産業振興
 米以外の一切の収益を管掌し、殖産興業を推進。
 タバコや茶、こうぞ、そうめん、柚餅子、高級和紙といった「備中」の名を冠した特産品を開発し、江戸で大々的に販売(「備中」をブランド化)
 当時は先端部分が平板な木製の鍬が多かったが、備中の鉄生産に力を入れ、先端部分を爪タイプに改良した鉄製の備中鍬を生産。
 当時の日本人口の8割を占める農家を相手にした備中鍬は、江戸で販売されて大ヒット。
 銅山経営の実施、役立つ植物を植えさせたり農地への肥料の足し方を教えたりといった農業指導まで行った。

(5)景気対策
 江戸の相場動向を把握し、有利な市場で米や特産品の売却に成功。
 特産品に関しては、中間手数料がかかる大坂を避け、高い収益性を確保するために江戸で販売。
 江戸への輸送には、方谷の命で購入された米製の様式帆船快風丸が利用された。
 生産・流通・販売を一体化させることで中間業者を廃し、高収益を獲得できる藩直営のバリューチェーンを構築。

(6)公共政策
 公共工事を貧しい領民に実施させ、現金収入を得させた結果、交通整備や農業用水の灌漑の充実にも成功。
 領内の蔵に援助米を確保し、凶作時には藩米を放出し、松山藩では餓死者も身売りも出ないという快挙を達成。
 (村々に方谷をまつる祠が次々と建てられ、幕末の二十年間、備中松山藩五万石のみ、百姓一揆が発生しなかった)

(7)兵制度の近代化
 方谷自身が他藩を尋ね、西洋の兵学を学んだ。
 方谷によって軍事、教育の改革が行われ、藩内には塾十三、寺子屋六十二の圧倒的な教育体制がひかれた。
 その上で、藩士や農民から志願者を募り、航海術や砲術を学ばせ、イギリス式軍隊の整備に成功。
 山田方谷の名は諸国へ広まり、長州の久坂玄瑞や越後長岡藩の河合継之助、会津の秋月悌次郎や南摩綱紀などが松山藩へ見学に訪れた。
 戊辰戦争では旧幕府側につき、最強の洋式軍団として藩主板倉勝清を先頭に立てて、箱館まで転戦した。

(8)人材育成
 藩政においては、優秀者な人材は農民や商人出身でも藩士へと取立てた。
 藩の武士達には、虚栄を貼るのではなく、武士自らが進んで藩民のために働くことを指導。
 その上で藩内の体制組織を、従来の身分制にとらわれない、能力主義による会社的機構へと改革した。
 方谷の根本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、藩士・領民全体を物心ともに幸福にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という「士民撫育」の考え方である。

山田方谷がこうした実現の背景には、「まず“義”があって、そのうえで”利”をはかる」という、明確な考え方がありました。
小手先で辻褄を合わせるのではなく、己を犠牲にし、藩や武家といった見栄を捨て、藩民のために、江戸藩邸を小売りのための商業施設化し、武家の名誉を捨てて商家にも頭を下げる”無私、利他”の姿勢です。
要は、真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)を人間としての正しい道、最高の行動規範とした「至誠惻怛」なのですね。
方谷は常に「義」を念頭に置き、それを優先し実行したからこそ、これだけの成果・結果が生まれたのです。

方谷の言葉です。
「驚天動地の功業モ
 至誠側但国家ノ為ニスル公念ヨリ出デズバ
 己ノ私ヲ為久二過ギズ」
(どんなすばらしい功績も、
 国家のための至誠と公を大事にする心から発したものでなければ、
 それはただの私欲にすぎない)

山田方谷の生涯は、現代の私達が見失いつつある”公のために生きることの凄味”を体現し、今だに教えて続けているような気がします。
方谷の信念や論説や考え方を学ぶことは、きっと現代の様々な課題を解決するのに大変参考になるはずですし、多くのヒントがあるはずです。
先人の凄味を体感すべく、私達が何を為すべきか、改めて考えてみたいものです。

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以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【理財論】
「理財論」は、方谷が佐藤一斎塾在塾中に書いた小論文であり、藩政改革においてもこの理財論を実践したとされる。

今日、理財の方策は、これまでにないほど綿密になってきています。しかし、各藩の窮乏はますますひどくなるばかりです。田地税、収入税、関税、市場税、通行税、畜産税など、わずかな税金でも必ず取り立てます。役人の棒給、供応の費用、祭礼の費用、接待交際費など、藩の出資は少しでも減らそうとします。理財の綿密なことはこのようであり、その政策を実施してきて数十年になります。であるにもかかわらず、藩はますます困窮するばかりで、蔵の中は空となり、借金は山のようです。
なぜだろう。知恵が足りないのだろうか。方策がまずいのだろうか。それとも、綿密さが足りないのだろうか。いや、そうではない。
だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています。
というのも、近ごろは、平和な時代が長く続いたために、国内は平穏で、国の上下とも安易な生活に慣れてしまっているのです。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事なのです。
そこで、国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようとして、そのほかのことをいい加減にして、放ってしまっているのです。
人心が日に日に邪悪になっても正そうとはせず、風俗が軽薄になってきても処置はせず、役人が汚職に手を染め、庶民の生活が日々悪くなっても、引き締めることができない。文教は日に荒廃し、武備(武芸)は日に弛緩しても、これを振興することができない。
そのことを当事者に指摘すると、「財源がないので、そこまで手が及ばない」と応える。
ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、なおざりにしているのです。そのために、綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、理財の道もまたゆき詰まってしまいます。にもかかわらず、ただ理財の枝葉に走り、金銭の増減にのみこだわっています。
これは、財の内に屈していることなのです。理財のテクニックに関しては、綿密になったにしても、困窮の度がますますひどくなっていくのは、当然のことなのです。
さて、ここに1人の人物がいます。その人の生活は、赤貧洗うがごとくで、居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまです。ところが、この人は、平然としているのです。貧しさに屈しないで、独自の見識を堅持しているのです。この人は、財の外に立つ物である、といえます。結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになるのです。
これに反して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることがその願いなのですが、そのわりには年中あくせくしていて、求めても手にいれることができないで、そのうち飢えが迫ってきて、とうとう死んでしまう者もいるのです。これなどは、財の内に屈する者である、といえます。
ところが、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ますと、あの財の外に立つ者にも及びません。財の内に屈する世間の普通人となんら変わらない愚行を犯しているのです。なんと悲しむべきことではないでしょうか。
ためしに、中国の政治に例をとってみましょう。その古代の、夏、殷、周という三つの時代のそれぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもありません。その後に出た政治家で、郡を抜く管子や商君について言わせてもらえば、彼らの富国強兵の策を儒家は非難しています。
ですが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を重んじており、また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重にしているのです。
このように、この二人は独自の見識を持っている者であり、必ずしも理財にのみとらわれているわけではないのです。
ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは、こまごまと理財ばかり気にしていますが、いつしか国の上下ともに窮乏して、やがて衰亡していくことになるのです。このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことなのです。
そこで、今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって、財の内に屈しない。そして、金銭の出納収支に関しては、これを係の役人に委任し、ただその大綱を掌握し管理するにとどめる。
そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針はここに確立するのです。理財の道も、おのずからここに通じます。しかしながら英明達識の人物でなければ、こういうことはなしとげることはできないのです。

ある人が、次のように言って反対します。
「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に、土地が貧困な小藩というのは、上下とも苦しんでいるのです。
綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきているのです。その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に、方法がないのでしょうか。それでもなお、財の外に立って、財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと間の抜けた論議ではありませんか」
私は、この人に次のように答えます。
「義と利の区別をつけることが重要なことです。綱紀を整えて、政令を明らかにすることは義です。餓死を逃れようとすることは利なのです。君子は、(漢代の菫仲舒の言葉にありますように)ただ、(義を明らかにして、利を計らない)ものです。ただ、綱紀を整えて、政令を明らかにするだけなのです。餓死や死をまぬがれないかは、天命なのです。
その昔、滕国に対して、ただ善行をすすめました。
侵略されて、破滅するということへの不安は、餓死や死への不安よりも、もっと恐怖です。だというのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけなのです。
貧困な弱小な国が、自ら守る方法は、他にないのです。義と利の区別を明らかにするだけなのです。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まります。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらないものなのです。飢えと死とは心配するにはおよびません。まして、理財などはいうにたまりません。
しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいないのです。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。これによって飢えや寒さによる死から逃れることができのだ〉とおっしゃるのでしたら、現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは、何故なのでしょうか。