日本霊異記より学ぶ!景戒が著した因果応報譚・仏教説話集!

『日本霊異記』(日本国現報善悪霊異記)は、平安時代前期に薬師寺の僧景戒が著した、仏教の教えを判りやすく具体的に語る、3巻116編から成る仏教説話集です。
地域は上総、信濃など37カ国にわたりますが、その3分の2は畿内に集中し、登場人物は200人以上と貴族・僧から庶民にいたるまで幅広い階層に渡っています。
その内容ですが、主に中国の仏教説話集のスタイルを踏襲しており、因果応報の仏教思想に基づいて,雄略天皇の御代の雷神の話から始まって、桓武天皇の御代の僧の転生話と平城天皇賛に終わる頃までの、仏教に関する異聞・奇伝・霊験を描いた短編説話を漢文で著しており、日本での仏教普及をすすめた聖徳太子にまつわる話や、大仏建立の頃の行基の話、当時の庶民生活と仏教との関わりなどがリアルに描かれていて、まさに”物語による日本仏教史”ともいえるでしょう。
この『日本霊異記』を起点として『今昔物語集』など、たくさんの仏教説話文学に多大な影響を与えたといわれています。
上巻序文には、混迷する世相のなかで、応報の仮借なきありようを示すことで、人心の善導教化を図ろうとする著者の意図が明瞭に述べられています。
その上で『日本霊異記』に収められた説話の多くは、
・乞食僧に施し物を拒否した者が悪い死に方をする、お経をあげることによって、あるいは仏像を作ったり、写経をしたりして、罪や困難から救われる。
・一時的に死んで地獄に行き知人に遇って話を聞く。
・役人が税金を過酷にとったり誤魔化したりして、地獄で相応の苦しみをする。
といった具合に分けられているのです。

しかしこの『日本霊異記』は、単なる因果応報を説く書ではありません。
8世紀の聖武天皇から桓武天皇の御代における怪異な話ではあるものの、明るく淡々と語られる因果応報譚が多く集められており、この本が基となって「うらめしや」と化けて出てくる後の世の怪談話が生まれてくるようになるのですが、ここには近世の怪談のような陰惨な感じはあまりないのです。
しかも当時、完全にはお上の支配する秩序に囲い込まれていない民衆が生き生きと力強く描写された生き様は、陰惨や陰湿を寄せつけないしたたかなパワーを持っているのです。
このため、淡々とした語り口で描かれたお話の数々は、仏教説話集という言葉から連想される説教臭さもなく、興味深く読むことのできる内容になっています。
こうした、一流の文学たらしめている感動がそこに伏在しているのを、是非とも読み取ってみてはいかがでしょうか。

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以下、参考までに現代語訳にて一部抜粋です。

『日 本 霊 異 記     景 戒』

第一話 雷をつかまえた話

小子部の栖軽は初瀬にあった朝倉の宮で二十三年の間天下をお治めになった雄略天皇大泊瀬稚武の天皇と申すの護衛の武官、天皇の腹心の従者であった。天皇が磐余の宮にすんでおられた時のこと、后と大極殿でいっしょにお寝になっておられたのを、栖軽はそれとも知らずに御殿に入って行ってしまった。天皇は恥ずかしがってそのまま事をやめられてしまった。
 ちょうどその時、空に雷が鳴った。天皇はてれかくしと腹いせの気持ちが手伝って栖軽に
「お前は雷を呼んでこられるか」と仰せになった。栖軽が
「お迎えして参りましょう」とお答えした。天皇は、
「ではお迎えして来い」とお命じになった。栖軽は勅命を受けて宮殿から退出し赤い色の縵を額につけ、赤い小旗をつけた桙を持って馬に乗り、阿倍村の山田の道の前から豊浦寺の前の道を通って行った。軽の諸越の街中に行きつくと、
「天の雷神よ、天皇がお呼びであるぞ」
と大声で叫んだ。そして、ここから馬を折り返して、走りながら
「たとえ雷神であっても、天皇のお呼びをどうして拒否する事ができようか」
といった。走り帰ってくると、ちょうど豊浦寺と飯岡との中間のところに、雷が落ちていた。栖軽はこれを見て、ただちに神官を呼んで、輿に雷を載せ宮殿に運んで、天皇に、
「雷神をお迎えして参りました」と申し上げた。その時、雷は光を放って明るくパッと光り輝いたのであった。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんの供え物を捧げて、落ちたところに返させたという。その落ちたところを今でも雷の岡と呼んでいる。飛鳥の郡の小治田の宮の北にある。
その後何年かたって栖軽は死んだ。天皇は勅を下して遺体を七日七夜、死体のままで安置して栖軽の忠信ぶりをしのばれ、雷の落ちた場所に栖軽の墓を作られた。栖軽の栄誉を長くたたえるために碑文を書いた柱を立て、そこに、「雷を捕えた栖軽の墓」と記された。
雷は碑文を立てたのを憎み恨んで、雷鳴をとどろかせて落ちかかり、碑文の柱を蹴飛ばし踏みつけた。ところが雷は柱の裂け目にはさまれてまたもや捕えられてしまった。天皇はこの事をお聞きになり、雷を柱の裂け目から引き出して許してやった。雷は死を免れた。しかし、七日七夜の間は放心状態で地上にとどまっていた。
 天皇は勅を下してもう一度碑文の柱を立てさせて、これに、「生きている時ばかりでなく、死んでからも雷を捕えた栖軽の墓」と書かせた。世間でいう古京の時、つまり飛鳥の京の時代にこの場所が雷の岡と名づけられた話の起こりは以上のような次第である。

第二 狐を妻として子を産ませた話

昔、欽明天皇磯城島の宮で天下を治められた天国押開広庭天皇の御代に、美濃国(岐阜県)大野郡の人が妻とするために美しい女性を求めて馬に乗って出かけた。たまたま広い野原で一人の美しい女性に出会った。女は馴れ馴れしくなまめかしい素振りをするので、男は目を細めめくばせをして、
「娘さん、どこへ行くの」と尋ねた。女は、
「お婿さん探しに歩いているの」と答えた。そこで男も
「わたしのお嫁さんになりませんか」と誘った。女は、
「よろしゅうございます」と承知した。
男は早速家に連れ帰って結婚し、一緒に住んだ。しばらくして女は解任し、男の子を産んだ。ところが、その家の飼い犬も、十二月十五日に子犬を生んだ。その子犬は、いつもこの主婦に向かうといきり立っておそいかかり、にらみつけ、歯を剥き出して吠えた。主婦はおびえ恐ろしがって、主人に、
「あなた、あの犬を打ち殺して下さい」
と頼んだ。しかし主人は犬をかわいそうと思って、どうしても殺す気になれなかった。二、三月のころ、前から用意していた米をつくとき、主婦は米つき女たちに出す間食を準備するために、踏み臼小屋に入っていった。すると、親犬の方が、急に主婦に噛みつこうと追いかけ、吠えついた。主婦はおびえ、こわがって、たちまち狐の姿に身をかえて、逃げ、籠の上に登ってすわっていた。
夫はこれを見て
「お前とわたしとの間柄は、子供まである仲ではないか。わたしは絶対にお前を忘れたりしない。いつでもやって来いよ。いっしょに寝よう」
と声をかけた。そんなわけで、この狐はもとの夫のことばを覚えていて、いつも来ては泊まっていくのであった。それからこの女を「来つ寝」ー「狐」と名づけることになった。ある時、この妻は、裾の方を赤く染めたスカート・桃色をしたスカートをはき、上品でしとやかな様子でやって来て、スカートの裾をなびかせて、どこともなく去っていった。夫は去り行く妻の顔かたちを思い描きながら、恋い慕って次のような歌を詠んだのであった。

この世にある恋の思いは、全部わたしの身の上に集まってしまったように切ない気持ちだ。ほんのちょっとだけわたしといっしょにくらして、どことも知れず、遠くに行ってしまった。あのかわいい女のせいで。恋しくて恋しくてたまらない。

そこで、二人の間にできた子供の名をキツネと名づけた。またその子の姓を「狐の直」とつけた。この子はすごい力持ちで、走る事も非常に速く、鳥の飛ぶようであった。美濃国の「狐の直」という姓の起こりは、以上のようなものである。

第三 雷の好意で授かった子供が力持ちであった話

一 雷神の子の誕生

昔、敏建天皇の御代に、尾張国愛智郡片輪の里に一人の農夫がいた。耕作している田に水を引き入れていると小雨が降って来たので、雨宿りのために木の下に隠れて、鉄の杖を地面に突き立てて立っていた。折から雷がとどろきわたった。農夫はほっとして思わず鉄の杖を振り上げた。
 ちょうどその時、雷が農夫の前に落ちて来て、小さな子供の姿になった。農夫が杖でつこうとすると、雷は
「わたしを殺さないで下さい。かならずご恩返しをいたしますから」といった。農夫が
「お前さん、何を報いるというのかね」と問うた。雷は、
「あなたに子供ができるようにして、お礼します。だから、わたしのために、楠の木で水槽を作って水を入れ、竹の葉を浮かべて下さい」といった。そこで雷のいうとおりにこしらえてやった。雷は、
「わたしに近寄ってはいけない」と農夫を水槽から遠ざけた。するとたちまち霧をまきおこし、あたりを曇らせて天に昇っていった。その後、産まれた子供の頭には蛇が二巻き巻きついて、頭としっぽが後頭部に垂れ下がっていた。

二 雷神の子の強力

大きくなって十才余りになったころ、(大和国の桜井付近にあった)朝廷に力の強い人がいるときいて、ためしにその人と力くらべをしてみようと思い、大和の郡の皇居の近くに住んでいた。ちょうどその頃、力のずば抜けて強い王がいた。皇居の東北の隅にあった別邸に住んでいた。その東北隅には八尺(約2.5m)立方もある大きな石があった。力持ちの王は家から出てその石を取って投げた。石は住まいに入って門を閉じ、他人の出入りができなくなってしまった。sakurai.jpg
 その子供はこれを見て、「世に聞こえた有名な力持ちの王というのはこの人なんだな」と思ったので、彼は夜、人に見られないようにして、その石を反対方向に力持ちの王よりは一尺(約30cm)以上も遠くへ投げ飛ばしておいた。力持ちの王はそこで、手につばをつけ手首をしなやかにするため準備運動までして意気込んで、石を取って投げ飛ばした。しかし前回よりも遠い距離に投げ伸ばす事はできなかった。その子供はさらに二尺も遠くの方に投げておいた。王はこれを見て再び投げてみたがやはり最初の時より遠くに投げ伸ばす事はできなかった。その子が立って投げた場所に、子供の小さい足跡が、深さ三寸(約10cm)ばかり地面にめり込んでいた。しかも投げた距離はさらに三尺も遠くであった。王はその足跡を見て、ここに住んでいた子供が投げたのだと知って、つかまえようと寄って来た。と、その子供は逃げた。王が追いかけると子供は逃げる。王は追う、子供は身体が小さいので垣根を抜け逃げる。そして垣根をくぐって戻ってくる。王は垣根を飛び越えてさらに追う。子供はまた垣根をくぐり抜けて逃げ走った。こんなふうで王はその子供をついにつかまえる事ができなかった。そして自分より力の強いやつだと思ってそれ以上追わなかった。

三 元興寺の強力な童子

その後、その子供は元興寺の童子となった。その頃、その寺の鐘つき堂で夜ごとに死人が出るという事件が起きた。童子はこれを見て、僧たちに、
「わたしがこの死の災いをとり除きましょう」
と申し出た。僧たちはそれを聞き入れた。子供の童子は、鐘つき堂の四隅に四つの燈を置いて、四隅に待機させた四人の者に、「わたしが鬼をつかまえたら、いっせいに燈の覆いをとってください」と言い含めた。そうして彼は鐘つき堂の戸の所に隠れていた。夜中頃に鬼がやって来た。童子のいるのをちらりとのぞきき見て、一度は姿を隠した。が、また、深夜になって堂の中に入って来た。すかさず童子は鬼の髪の毛をつかまえて引っ張った。鬼は外に逃げようとし、童子は内側に引きずり入れる。待機させておいた四人は、うろたえ、腰を抜かしてぼんやりとしてしまって、燈のふたを開けようともしない。童子は抵抗する鬼を引きずりながら四隅を順番にまわって四つのふたを皆開けてしまった。夜明け方、鬼はすっかり髪を引き抜かれ逃げていった。
 翌日その鬼の血の痕をたどって探し求めていくと、その寺の悪い奴を埋めた街の辻にたどりついた。そこで初めて、鬼はその悪い奴の霊鬼であったという事が判明したのであった。かの鬼の髪の毛は、今も元興寺に収められ、寺の宝となっている。 それから後、童子は在俗の修行者となって、なおも元興寺に住み続けていた。その寺では田を作っていたが、その田に水を引き入れた。朝廷の王たちが邪魔をして水田に引いた水をせき止めた。それで、寺の田が干上がりそうになった時に、その修行者は「わたしが田に水を引き入れましょう」と申し出た。元興寺の僧たちはそれを聞き入れた。十人がかりでやっと担ぐ事ができる鋤を作り、修行者に持たせた。修行者はその鋤の柄を持って、杖にしながら行って、水口のところに立てておいた。朝廷の王たちは、この鋤の柄を抜いて投げ捨てて、また水口をふさぎ、寺の田に水が流れないようにしてまった。そこで修行者たちは今度は、百人以上の力がいるような大きな石で水口をふさぎ、寺の田に水が入るようにした。王たちは修行者の怪力を恐れて、二度と水門に手をつけなかった。そんなわけで寺の田は干ばつにあう事もなく、よい収穫をおさめる事ができた。そこで、寺の僧たちは、その修行者に僧となる儀式を行って出家させて、道場法師と名づけた。後世の人が、「元興寺の道場法師は怪力だ」と言い伝えているのは、こうした話にもとづいている。道場法師が怪力を身につけたのは、前の世に善となる業を励み修めたためであって、そのためにこの世で、このような結果を得たという事をよく理解すべきである。これは日本国に伝わる不思議な話である。

第四 聖徳太子が不思議な言動を示された話

聖徳太子は大和国の香具山の東方にある、磐余の池のほとりの双槻の宮で天下を治められた用明天皇の御子であった。小墾田の宮で天下を治められた推古天皇の御代に、皇太子になられた。太子にはお名前が三つつけられていた。一つの名は厩戸豊聡耳。二つには聖徳太子、三つには上つ宮と申し上げた。
 第一の名は、馬の役所の厩の戸のほとりでお生まれになった。それで厩戸と申すようになった。生まれつき賢くて、十人が同時に訴えを申すことを、ひとことも漏らさずに、よくお聞き分けになった。それで豊聡耳と申すようになった。
 皇太子は立居振舞いが僧のようであり、その上『勝鬘経』『法華経』などの注釈書をお書きになり、仏法を広めて人々に利益を与え、また冠位の制を定められた。それで聖徳と申したのである。第三の名は、天皇のお住みになる宮よりも南にある宮、つまり、上の宮に住んでおられた。それで上つ宮の太子と呼ぶようになったのである。
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 聖徳太子が斑鳩の岡本の宮に住んでおられたとき、ついでがあって御殿を出て巡幸にお出ましになられた。片岡村にさしかかると、路の傍らに、毛のむさくるしい乞食が病気にかかって伏していた。太子はこれを見て、御輿から下りて尋ねられ、召していた衣をお脱ぎになり、病人にかけてやり、そのまま巡幸を続けられた。巡幸を終えられて御輿を返してもとの場所にもどると、脱いで乞食にかけてやった衣は、木の枝にかかっていて乞食はそこにいなかった。太子はその衣を取ってお召しになった。すると、一人の臣下が、
「賤しい人にふれて穢れた衣ですのに、何の不自由があって、その衣をお召しになるのですか」とお尋ねした。太子は、
「いや、そのことはいわないほうがい。お前たちにはわかるまい」と答えられた。その後、その乞食は他の場所で死んだ。太子はこれを聞いて使いを遣わし、乞食の遺体を祭られ、岡本村の法林寺の東北隅の守部山に墓を作って葬り、そこを入木の墓と名づけられた。後に、使いを遣わして墓の様子を見に行かせたところ、墓の入口は開いていないのに、葬ったはずの乞食の遺体は何処かに消えてしまい、ただ、歌が一首詠まれて、墓の入口に立ててあった。その歌にはこういっている。

 富の小川の流れの絶えるときがあるのなら、その時こそ聖徳太子さまの御名を忘れる時もありましょうが、この川の流れの絶えぬ限り、わたしはけっしてあなたさまのお名を忘れはいたしません。

使いが帰ってきて、この状況を太子に報告した。太子はこれを聞きだまったままなにもいわなかった。これによって、聖人は聖なる人を知るが、凡人にはそれが誰であるのかわからない。凡人の眼には賤しい乞食とみえるが、聖人が物を洞察する眼は、凡俗にやつした賤しい姿の中に、聖人の真の姿を見抜くものであるということがよくわかった。ほんとうに不思議な話である。

四 百済の僧、円勢の奇跡

 また、籍法師の弟子の円勢師は、百済の国から来た高僧であった。この僧はわが日本の大和国の御所高宮寺に住んでいた。その頃一人の法師がいて、北の僧坊に住んでいた。名前を願覚といった。願覚は、毎日早朝に寺を出て里に行き、夕方帰ってきて坊に入っていた。これを日課としていた。円勢師の弟子で在俗のままで修行している者がこれを見て、師にこのことを告げた。師は
「誰にもはなしてはいけない。黙っていなさい。」と注意した。しかしこの修行者はひそかに坊の壁に穴をあけて、こっそり願覚法師の部屋の中の様子をのぞいて見ると、部屋の中は光にあふれ照り輝いていた。修行者はまた見た様を師の円勢法師に告げた。師は、
「だから私はお前に注意して、誰にもはなしてはいけないと言ったのです。」
と答えた。その後、願覚は急にこの世を去った。円勢師は弟子の修行者に
「火葬にして葬りなさい」
と命じた。修行者は師の命に従って、火葬し終わった。そしてその後、この修行者は近江国(滋賀県)に移り住んでいた。近江国のある人が、
「ここに願覚師がおられる」
と言った。修行者が行ってみると、その人は本当に、火葬したはずの願覚その人であった。願覚は、修行者に会い、かたりかけて
「このごろお目にかからないので、いつも恋しく思って、気になっていて落ち着きませんでした。」
というのであった。この人はひじりの生まれ変わった姿であることがよくわかるだろう。五種辛みのある野菜を食べることは仏法で禁じられているけれども、ひじりの僧がこれを食べた場合は罪を得るということはまったくなおのである。

第五 仏法をうやまい信じてこの世でよい報いを受けた話

大華位、大部屋栖野古の連の公は紀伊国名草郡宇治(和歌山市紀三井寺宇治)の大伴連らの先祖である。生まれつき心が清らかで、仏・法・僧の三宝を信じ敬っていた。屋栖野古の正しい伝記を調べると次のように書いてある。
 敏達天皇の御代に、和泉国の海中から楽器の音がきこえてきた。その音は、ある時は笛・箏・琴・箜篌などを合奏しているようであった。また、ある時は雷が鳴りとどろく音のようでもあった。昼は鳴り夜は輝き、その音と光は東をさして流れていった。
 大部屋栖野古はこの噂を聞いて時の敏達天皇に申し上げた。天皇は黙ったままでご返事をなさらずお信じにならなかった。そこで彼は今度は皇后へ申し上げた。皇后はこれをお聞きになり屋栖野古に、
「そなたが行ってお調べなさい」
とお命じになった。屋栖野古が詔を体して行ってみると、本当に噂に聞いたとおり音や光がありそこには落雷に打たれた楠が流れ着いていました。屋栖野古は都に帰って来、「高脚の浜に楠が流れ着いていました。お願いいたします。あの楠で仏像を造ることをお許し下さい。」と申し上げた。皇后は、
「そなたの望むとおりになさるように」と仰せられた。
屋栖野古は皇后のお許しを得てたいへん喜び、さっそく、島の大臣蘇我馬子に皇后の詔をお伝えした。大臣もまた喜んで、池辺直氷田を招いて、仏像を彫り、菩薩三体の像を造った。像は豊浦寺に安置し、多くの人々がお参りしてあがめ奉った。

ところが、物部弓削守屋の大連は、皇后に、
「だいたい仏像などを都の近くに置いたりしてはなりません。遠い所に捨てるべきです。」
と進言した。皇后はこれをお聞きになり、屋栖野古に
「早くあの仏像を隠してしまうように」
とお言いつけになった。屋栖野古は命を受けて、氷田直に仏像を稲藁の中に隠させた。すると、弓削の大連の公は火をつけて寺を焼き多くの仏像を探し出して、難波の堀江に流してしまった。そして屋栖野古に
「今、国に災害が起こっているのは、隣の国、百済の客神の像などを、わが国内で祀っているからだ。早くその像を差し出せ、すぐにもとの百済の国に流し捨てよ。」
と責め立てた。しかし屋栖野古は頑強にこれを拒否して、最後までこの仏像を差し出さなかった。弓削の大連の公はこんなことをし、気が狂って逆上し、皇位をも奪おうとの謀反をいだき機会を狙った。
 この時、天の神も地の神も、これを嫌い憎んで、用明天皇の御代に、弓削の大連を誅罰してしまった。その後にこの仏像を取り出し、後世に伝わることとなったのである。
仏像は勅命によって大和国吉野郡の窃寺に安置された。光を放っておられる阿弥陀仏の像がこれである。

第九 乳飲み子が鷲にさらわれ、他国で父親に合えた話

飛鳥川原の板蓋の宮で天下を治められた皇極天皇の御代の二年(634)の春三月の頃、但馬国美方郡の山里のある家に、女の赤子がいた。中庭をはっていたところ鷲がさらって空に飛び上がり、東の方へ飛んで行ってしまった。父母たちは悲しみかわいそうに思って、泣いて追いかけたけれども行方が分からなくなってしまった。そこでひたすらにそのこのために供養の法事を営んで、冥福を祈ったのであった。それから八年たって、丹波の北方の加佐郡のあるところへ出かけ、はからずも、とある家に泊まった。
 その家の召使いの女の子が水を汲みに井戸へ行った。泊まっていたこの父親も脚を洗おうと思って女の子の後について行った。一方村の娘たちも井戸に集まり水を汲もうとして、泊まった家の召使いのつるべを奪い取った。召使いはつるべを取られまいと反抗した。すると村の娘たちは口をそろえて、この子をばかにしていじめ、
「お前は鷲の食い残し、なんでそんな礼儀しらずのことをする」
とわめき、押さえつけてぶった。召使いの女の子は打たれて、泣きながら家に帰った。家の主人が
「お前どうして泣くんだ」
と尋ねると、この家に泊まった父親が、見たとおりのいきさつを詳しく説明した。そして村の娘たちが、なぜこの子を打ち鷲の食い残しなどと悪口をいうのかとわけを聞いた。家の主人は答えて
「ある年の某月某日のこと、わたしが鳩を獲ろうと木に登っていると、鷲が赤子をさらって西の方から飛んできて巣の中に落して雛の餌にしようとしたのです。赤子はおびえて泣き雛はこれを見て恐ろしがってついばもうともしませんでした。私はなく声を聞いて巣からおろして育てたのがこの子なのです。」
と説明した。父親は自分の子のさらわれた年月日と、主人のいう年月日を考え比べてみるとぴったり符合した。この父親は、この子はまさしくさらわれた子であるとわかった。
 そこで父親は悲しみ泣きながら鷲にさらわれた時の状況を詳しく説明した。主人は真相を知ったので父親の申し入れに応じて、女の子を実の親に返すことを承知した。ああ、この父親は、たまたまさらわれたわが子のいる家に泊まりあわせ、ついに実の子をさがし出すことができた。天が哀れんで助けてくれたもので、父子の縁はまことに深いということがしみじみとわかった。これは本当に不思議な話である。

第十 子の物を盗んで使い、後に牛に生まれ変わって使われ、不思議なことが現れた話

大和国添上郡の山村の里に、昔、椋の家長の公という人がいた。十二月の頃、『大通方広経』を信じたよって、前の世で犯した罪を悔い改めようと思った。召使いに、
「お坊さんを一人お迎えして来い」と命じた。召使いは、
「何寺のお坊さんをお迎えしましょうか」と尋ねた。
「どこの寺のお坊さんでもよい。だれでもよい。最初に出会ったお坊さんをお連れ申せ」といいつけた。召使いは主人の希望のとおり、道を歩いている一人の僧をお招きして、家に連れてきた。家の主人は真心込めて、この僧を供養した。
 その夜、法会が滞りなく終って、僧が寝ようとしたとき、主人は掛け布団を僧にかけてやった。そのとき僧は心の中で「明日の法事でお布施をもらうより、この布団を盗んで逃げた方がましだ」と思った。とたんに声がして
「これこれ、その布団を盗むでないぞ」
といった。僧はびっくりして家の中を振り返って見回したが、だれもいない。ただ牛が一頭倉の下に立っているだけであった。僧が牛のそば行くと、牛は、
「わたしは実はここの家の主人の父親なのだ。前の世でわたしは人にやるために、子には無断で稲を十束ほど盗んだ。そのため今は牛の身に生まれ変わって、前の世の罪の償いをしている。あなたが私の身の上話の真意のほどを知りたければ、私のために座席を用意しなさい。わたしはかならずその席に座ってみせましょう。そうすればまちがいなく、私がこの家の主人の父親であることがわかるだろう」と語った。
 僧は大変恥ずかしく思い、部屋にもどって一夜を明かした。明くる朝、法事がすっかり終わった後で、僧は、
「他人をみんな遠ざけて下さい」
といった。人々を遠ざけてから、親族の人々を呼び集めて、詳しく昨夜のことを説明した。主人は悲しんで、牛のそばに近づいて、藁をしき、
「牛よ、お前は本当に私の父上だったのか」
といった。そして一同は立ち上がって牛に礼拝し、牛に
「前の世でお使いになった稲十束は、いっさい帳消しにしましょう」
といった。牛はこれを聞いて、涙を流し、大きくため息をついた。その日の午後の四時半ごろ牛は死んだ。
 その後、昨夜僧がかけた掛け布団やその他の品物を、僧にお布施として与え、そのうえ、父のために広く追善供養のわざを営んだ。この話でわかるように、原因結果の道理をどうして信じないでいられようか。信じないわけにはいかないのである。
 
 
第十一 幼い時から網で魚を捕り、そのためこの世で悪い報いを受けた話

播磨国飾磨郡(兵庫県姫路市付近)の濃於寺で、奈良の元興寺の僧慈応上人が信徒の招きを受け、夏の三ヶ月の修行を行ない『法華経』の講義をした。
 そのころ、寺の近くに一人の漁師がいた。小さい時から網を使って魚を捕ることを仕事にしていた。あるとき、彼は屋敷の内にある桑の林の中をはらばい回って、大声を上げ、
「熱い炎がおそいかかる」
とわめきたてていた。身内の者が助けようとして近づくと、その漁師は、
「おれに近寄るな。今にもおれは焼けこげそうだ」
と叫びわめいた。そこで親が濃於寺にかけ込んで、夏の修行をしている行者、慈応上人にご祈祷をお願いした。行者が陀羅尼を唱えると、しばらくたってやっと火の難から免れられた。しかし身につけていた袴はすっかり焼けこげていた。漁夫はおそれおののいた。濃於寺へ行き、夏の修行をしている大勢の僧侶の中に入って、動物を殺した罪を悔い、心を改め、衣服の類いを寺にお布施として納めて、お経を読んでもらった。それからというものは、二度と殺生なことはしなかった。
『顔氏家訓』という本に、「昔、江陵の劉氏は、鰻を捕らえ、これで吸い物をこしらえて売ることを職業としていた。後に一人の子供が生まれたが頭はどう見ても鰻そっくりで、首から下はまさに人間の身体であった。」とかいているが、まさにこの説話と同一で、殺生の罪を諭したものである。
 
 
第十二 人や獣に踏みつけられていた髑髏が、収集してもらったため、不思議な霊力を示して、恩を返した話
高麗の留学僧であった道登は元興寺の僧で、山城国(京都府)の恵満の家の出身であった。ずっと昔の大化二年(646)に宇治橋をかけるために、再三現場に往復した時、髑髏が奈良山の谷間にあって、人や獣に踏みつけられていた。道登はこれを哀れんで、従者の万侶に命じて、髑髏を拾い上げて木の上におかせた。
 同じ年の大晦日の日の夕方であった。一人の人が寺の門前にやってきて、
「道登ひじりの従者の万侶というかたにお会いしたい」といった。万侶は出て会った。その人は、
「あなたの師の道登ひじりさまの御慈悲をいただき、このごろはたいへん安らかで、楽な毎日を送っています。ところでご恩返しをしたいのです。しかし、大晦日の今晩より他の日では、あなたさまにご恩返しをすることができないのです」
といった。その人は万侶を引き連れてある家へ行った。家に着くと戸がしまったままなのに中にすーっと入って行った。家の中には沢山のお供え物が供えてあった。その人は、自分に供えられたごちそうを万侶に分けてやり、二人で一緒に食べた。夜半から朝方にかけてのころ、男の声がした。万侶に対して、
「私を殺した兄がやってきそうなので、早々に帰りましょう」
といった。万侶は不思議に思って尋ねると、
「わたしは昔、兄といっしょに商売に行ったのです。そこでわたしは銀六百四十両ほどもうけました。すると兄はねたみ憎んで、わたしを殺して銀を奪い取ってしまったのです。それから後というものは、長い年月の間、往来の人や獣が私の頭を踏みにじってきました。このたびあなたの師の道登上人さまが御慈悲をかけて下さり、あなたにわたしの髑髏を木の上に置かせなさったので、わたしの苦痛は免れました。このご恩が忘れないままに、今宵ご恩返しをさせていただいたわけでございます」と答えた。
 ちょうどそのとき、母と兄とが大晦日の魂祭りで、死んだ弟などの霊を拝むために、この仏間に入ってきて、見知らぬ万侶がいるのを見つけて驚き恐れ、ここへ来たわけを尋ねた。万侶は、さきほどからのいきさつを説明した。そこで母は長兄に向かって
「ああ、わたしのいとしいあの子はお前に殺されたのか。他の人ではなかったのだ」
とののしった。そして万侶に敬意をあらわし、万侶にごちそうを用意した。やがて万侶はその家から帰ってきて、一切の事情を師の道登に報告した。だいたい、このように死人の霊や白骨でさえも、なおかつ恩を忘れないのだ。まして生きている人間が、どうして恩を忘れて良いものであろうか。
 
 
第十三 心の高潔な女性が仙人の霊薬を食べ、現在の身体のままで天上に飛んで行った話

大和国宇陀郡の漆部の里に心の高潔な一人の女性がいた。この女性は、同じく漆部の里にいた漆部の造麿の側室であった。彼女は生まれつき高雅で、行ないも気品に満ちていた。家政全般に気を配り、とくに料理のことは心をかけていた。七人の子供を産み育てていた。家は大変貧しく、食べるものもないので育児にも事欠いた。着るものもないので、自分で藤の皮で布を織って用いた。そして毎日水を浴びて身体を洗ってから、つづれの着物を身につけるのを習慣としていた。野原に行くごとに野草を摘んで帰るように心がけた。
 またふだん家にいる時は、部屋のすみずみまできれいに掃除するのを習わしとしていた。摘んできた野草を調理し終わると、食器に盛りつけ、子供たちを呼んできちんと座らせ、にこやかに笑みをうかべ、和やかに家族の者たちと語り、感謝して食事をした。日常の起居、行動、心がけなど毎日の暮らしぶりは、すべてこうした調子で続けられていた。まるで天から下ってきた仙人のようであった。
 さて、大阪の長柄の豊前の宮で天下を治められた孝徳天皇の白雉五年(654)に彼女のこうした高潔な心ばえが、神仙の心に通じて、その感応があったのだろう。彼女が春の野原で野草を摘み、これを食べているうちに、はからずも仙草を食べ、仙人と化して天上に飛んで行った。
 なにも仏法を修めないでも、高潔な心に徹し、自己の信念に基づいてその道一筋に身を処していると、神仙の薬草がこれに感応することが、よく理解出来る。『精進女問経』に、「俗人の家に住んでいても、心を正しくして仏塔のある寺などの庭を掃くと、浄土に行ってからの五つの福徳が得られる」とお言葉のあるのは、まさにこの話のような場合をさしているのである。
 

第十四 ある僧が般若心経を念じ、現実に不思議な霊異を示された話

僧義覚は、もとは百済の国の人であった。百済の国が滅びた時は、日本では後の岡本の宮で天下を治められた斉明天皇の御代にあたるのだが、その頃日本に渡ってきて難波の百済寺に住んでいた。義覚法師の身の丈は七尺もあり、仏教を広く学び、いつも『般若心経』を唱えていた。
 そのころ、同じ寺に慧義という僧がいた。夜中にただ一人部屋を抜け出して、あたりを歩いていた。ふと義覚法師の部屋に光がこうこうと輝き渡っているのを見つけた。慧義は不思議に思って、こっそりと義覚法師の部屋の窓の紙に穴をあけて、のぞいて見た。法師はきちんと座ってお経を唱えていた。光はその口から出ているのであった。慧義は驚き恐ろしくなって、明くる日、ひそかに、他の室をのぞき見たということの罪を懺悔して、このことを広く寺内の僧たちに告白した。
 すると義覚法師は、弟子たちに対し次のように語った。
「わたしは毎晩、一夜に『般若心経』を百編ほど唱えた。昨夜も唱え終わって、そっと目を開けてみると、部屋のまわりの壁はすべて消え去って、戸外の庭のなかまではっきり見通すことができた。そこでわたしは不思議なことだと思って、部屋からでて、寺院の境内を一巡し帰ってきて室内を見ると、消えたはずの壁も戸も、みなもとどおり閉ざされていた。そこで今度は戸外へ出て心経を唱えると、また壁や戸が消えて、外から室内がすっかり見通すことができた」
といった。これは『般若心経』の霊験によることである。
 批評のことばに「まことに偉大な人というべきであるよ、義覚法師は。多くの経典を学んで知識が広く、外には人々を仏法で教化し、それ以外は一室にこもってひたすら『般若心経』を唱えた。心眼が開いて自由に障壁をも突き抜けて往来した。平常は奥深く静寂の境地におり、動揺、乱れなどはない。一たび『般若心経』を誦すると、その輝く姿は部屋の壁をもつき抜けて照り輝いたのである」という。

第十五 悪人が乞食の僧を迫害し、この世で悪い報いを受けた話

 昔、郡が奈良に定められる前の時代こと、一人の男がいた。仏法の原因結果の道理を全く信じなかった。僧が乞食となって修行し、門前で物を乞う姿を見て、腹を立てて打とうとした。僧は田んぼの中に逃げ込んだ。男は追いかけて僧をつかまえた。僧は我慢ができなくなり、呪文を唱え、法力によってその男の身体の自由がきかないようにした。この愚かな男はどたりと倒れ、狂ったようにあちこと走り回った。呪文でしばったまま、僧はそのまま遠くへ去ってしまったので、愚かな男の面倒を見る者たちは手のくだしようがなかった。
 この男には二人の子供がいた。父の呪文による縛めをといてもらおうと思い、お寺に駆け込んで、そこの坊さんにお願いした。坊さんはことのいきさつを尋ね、実情を知ったので行くことを承知しなかった。二人の子は丁重に再三にわたって、父の災難を救済して欲しいとお願いした。そこで坊さんはやっとのことで腰をあげ、現場に行って『法華経』の観音品の初めの段を唱えた。唱え終わるとたちまちその人は解き放たれた。その後、彼は仏法を信ずるようになり、邪悪の心をひるがえして正しい道に入ったのであった。

第十六 慈悲の心がなく、生きている兎の皮をはいで、この世で悪い報いを受けた話。

大和国に一人の男がいた。その村の名も、その男の名もまったくわかっていない。この男は生まれつき慈悲の心がなく、生き物を殺すことを平気でやっていた。ある時、この男は兎をつかまえ、生きながら皮をはいで、これを野に放った。その後、幾日もたたない頃、この男の体に悪質の腫れ物が一面にでき、皮膚はただれくずれた。その苦痛はなんともたとえようがなかった。腫れ物は最後まで治ることがなかった。男は叫びわめきつつ、ついに死んだ。ああ、悪い業に対するこの世での報いはてきめんで、すぐに報いは現れる。我が身のことをよく考えて、他人に対しては思いやりをかけてやるべきである。慈悲の心は持たなくてはならない。

第十七 戦乱にあって観音菩薩の像を祈り、この世でよい報いにあった話

 伊予国(愛媛県)越智郡の郡長の先祖にあたる越智直という人は、百済の国を救うために、百済の国に派遣された。方々に転戦していた時に、唐の軍勢に追いつめられ、捕虜となって唐の国まで連れて行かれた。そしてわが日本人の八人が捕虜となって、同じ一つの島に住むことになった。八人は観音菩薩の像を得て、これを信仰し、あがめ奉っていた。八人は共同して、松の木を伐って一隻の舟を作った。そして観音像をお迎えして舟中に安置して、それぞれが無事に日本に帰れるようにと観音像に祈願した。すると西風が吹き出し、この風に乗ってまっすぐに九州に到着した。
 朝廷ではこのことを聞き、事の次第をお尋ねになった。天皇は哀れに思われて、望むところを申すようにとおいいつけになった。そこで越智直は
「新しく一郡を設けていただき、ここに観音様を安置し、礼拝奉仕したいと思います」
と申し出た。天皇はこれをお許しくださった。そこであたらしく越智という郡を設けて、そこに寺を建て、観音様を安置することになった。その時から今日に至るまで、越智直の子孫が相ついでこの像を心から信仰している。
 思うに右のことは観音のご利益であり、また観音信仰の結果であろう。昔、親孝行の丁蘭が母の木像を造り、それに仕えた事により、本当に生きているような姿を示してくれたし、僧が愛した絵の中の女性でさえ、僧をいとしんでこれに応じてくれたという。ましてやこれは観音菩薩である。どうして感応のないことがあろうか。

第十八 法華経を心に念じて常に唱え、この世で不思議を示した話

 昔、大和国葛城上郡に、専一に『法華経』を唱えて修行している人がいた。丹治比氏の出の人である。この人は生まれながら利口であった。八歳以前に『法華経』をほとんど暗唱することができたが、ただ一字だけはどうしても覚えられなかった。
 二十歳余りになっても、やはりその一字だけは覚えることができなかった。そこで観音菩薩に祈って仏前で前世の罪を懺悔し、その罪悪の報いを免れようとした。
 ある日、夢を見た。その夢の中に一人の人が現れて、「お前はこの世に生まれて来る前の世では、伊予国別郡の日下部の猿という者の子であった。その時に、『法華経』をよく暗唱していた。燈火で経文の一字を焼いてしまった。だからその字だけは覚えることができなくなってしまったのだ。すぐにその家へ行ってみるといい」と告げた。夢から覚めて不思議に思い、親に、「急な用ができたので伊予国まで行って来たいと思うのですが」と相談した。両親はすぐに許してくれた。
 さて、道中、道を聞きながら、目当ての猿の家にたどりついた。門をたたいて人を呼ぶと、一人の下女が出て来て、にっこり笑って家の中に駆け込み、その家の主婦に、「門にお客様が見えています。亡くなられた坊ちゃんにそっくりの方です」
といった。主婦が出てみると、ほんとうに死んだ息子とそっくりの客人であった。これを見た主人も不思議に思い、
「あなたはいったいどなたですか」
と尋ねた。客は国や郡の名を答えた。客の方もいろいろと質問し、主人も詳しく自分の姓と名を紹介した。それは夢の中で聞いたとおりの名前だったので、彼は、この人たちは自分の前世での両親であることが、はっきりわかり、そこで彼はひざまずいてあいさつした。
 主人の猿もまた、いとしく思って客を家の中に呼び入れ、客座に座らせてじっと見つめ、
「ひょっとしたら、死んだわが子の霊魂ではないかと思うほどです」
といった。客は夢の中で見たことを詳しく話し、ここにおられる老夫婦は、前の世におけるわたしの両親なのですと説明した。猿もまた昔の因縁を話して、
「わたしの死んだ子の名前はこれこれといい、住んでいた堂はあそこ、読んでいたお経、また持っていた水瓶はこれでした」
と示すのであった。客はこれを聞いて、先に死んだその子が住んでいたという堂の中に入って、その『法華経』を手に取って開いてみた。どうしても覚えることのできなかった文字のところが燈火で焼け失せていた。そこで経の一部を焼いた前の世での罪を悔い、焼けたところを修復すると、完全に覚えることができた。そこでこの親と子は互いに顔を見合わせて、怪しんだり、喜んだりしたが、改めて親子の契りを結んで、その後は孝養の誠を失うことがなかった。
 批評のことばに、「すばらしいことよ、日下部氏は。あなたはお経を読み、仏道を求め、過去と現在にわたって『法華経』を読誦した。この世では二人の父親に孝養を尽くし、よい名声を後の世まで残した。これこそひじりであって凡人ではない。ほんとうに『法華経』の威光はすばらしく、観音の威力の大きいことがよくわかるであろう」という。
『善悪因果経』に、「過去の原因を知ろうと思うなら、現在の結果を見よ。未来の報いを知ろうと思うなら、現在の行状を見るのがいい」とおっしゃっているのは、この話の場合のようなことをいうのである。

第十九 法華経を読む人をあざけり、この世で口が曲がり悪い報いを受けた話

 昔、山城国に官許を受けず、私的に僧形となった一人の私度の僧がいた。いつも碁ばかり打っていた。この私度の僧が俗人と碁を打っていた。乞食がやって来て『法華経』を読み、物を乞うた。私度の僧はこれを聞き、笑いあざけって、わざと自分の口をひん曲げて、声をなまらせ、乞食の口まねで『法華経』を唱えてみせた。俗人はこれを聞いて恐ろしがり、一目打つたびに、「畏れ多いことだ。恐ろしいことだ」とつぶやきながら、碁石を置いていた。それから以後は、俗人は打つたびに勝ち、私度の僧は打つたびに負けた。と、たちまち私度の僧の口がゆがんでしまった。医者を呼び寄せ、治療をさせたけれども、ついに治らなかった。『法華経』に、「もし法華経を信ずる者を軽蔑し、あざ笑う者がいたとしたら、この世でたちまち歯は抜けてまばらになり、唇は醜く、鼻は平らになり、手足はねじれ、目はすがめになるだろう」と書かれているのは、すなわち、この話の場合のようなことを言われているのである。
 むしろ悪鬼に取り付かれて口走るようなことがあっても、『法華経』を信じ、それに頼っている人をそしってはいけない。よくよくことばは慎まなければならない。

第二十 僧が湯を沸かすための薪を他人に与え、死後、牛となって使われ、不思議な結果を示した話

 僧恵勝は延興寺の僧であった。この僧は、生前、寺の風呂用の薪一束を盗んで、他人に与えたままで死んだ。その寺に一頭の牝牛がいて、子供を生んだ。子牛は成長してから、体に車を付けられ、薪を積み、休むひまなく追い使われ、車を引いて寺に入った。すると、見知らぬ僧が寺の門にたたずんでいて、
「恵勝法師は『涅槃経』を上手に読んだが、車はうまく引けないだろう」
とつぶやいた。牛はこれを聞き、涙を流し、嘆息するかとみると、たちまち死んだ。牛の御者はその僧をせめて、
「お前は、よくもおれの牛を呪い殺しやがったな」とどなりつけ、僧を捕えて政庁の王に届け出た。
 王は事情を尋ねようと、この僧を呼び出されたところが、顔はただ人とは思えないくらいに貴く、姿かたちは麗しくすぐれていて、畏れ多いほどであった。そこでひそかにその僧を清めた一室に控えさせて、絵師を呼び、「あの法師の顔かたちを、寸分違いなく絵にして持ってくるように」と命じられた。絵師たちは、命令を受けて筆をふるい、その絵を王に差し出した。王がご覧になるとどの絵師の絵も、みな僧の形ではなく観音菩薩の像そのものの絵であった。と、その見知らぬ僧はたちまち消えてしまっていた。まことに、観音菩薩が種々の姿を示されることは、少しも疑ってはいけないことがわかる。
 たとえ飢えに苦しめられて砂や土を食べることがあっても、寺の僧の常用品を盗んで食べたりすることは、絶対に慎まなければならない。だから『大方等経』に、「四種の重罪、五つの大逆罪を犯した人でも、自分はよくこれを救ってやろうと思う。しかし、僧の物を盗むような者は、自分は断じて救済はしない」と記されてあるのは、このことをいうのである。

第二十一 慈悲の心がなく、馬に重い荷物を負わせ、この世で悪い報いを受けた話

昔、河内国(大阪府)に瓜を売る者がいた。名を石別といった。その男は馬の能力以上に重い荷物を背負わせていた。馬が重さに絶えられず歩けなくなると、怒って鞭で打ちまくり、ひどくこき使った。重い荷物を背負って、馬は疲れ果て二つの目から涙をこぼした。瓜を売り終えると、男は哀れみの気持ちもなく、馬を殺してしまった。こうして殺した馬の数は、数えきれないほどであった。後日、石別が熱湯が煮え立っている釜のそばに、ちょっと近づくと、湯気で二つの目は煮られてしまった。
 悪い行いに対するこの世での報いはてきめんで、はなはだ早いものである。仏法の因果応報の道理は、心から信じなければならない。この世における畜生は、一見われわれに縁がないように見えるが、実はそれが前の世の自分の父母であることが往々にしてあるのである。死後の六道の世界といい、生物の生まれる四つの形式などは、いずれも、われわれの来世に生まれて行く家である。だからこの世では、慈悲の心を欠いてはならない。

第二十二 一心に仏法を学び世に広めて利益を与え、死ぬ時に不思議な霊異を示した話

今は亡き道照法師は、姓は船の氏で、河内国の人である。勅命を受けて、仏法を求めるために中国に渡り、玄奘三蔵と巡り会い、弟子になった。三蔵は弟子たちに、
「この方は、故郷の日本に帰って、さらに多くの人々に教化なさる方だ。そなたたちはこの方を軽んじてはいけない。不自由のないようによくよくお世話をするように」
と諭したほどである。勉学の業を終えて日本に帰り、禅院寺を建てて、ここにとどまり住んだ。道照は、智恵の優れたことは、無欠の玉のように円満完璧であり、学殖知識の優れていることは、いつも輝く曇りのない鏡のようであった。あまねく各地を歩き回り、仏法を広め、人々を教化した。後には寺に住みついて、ここで弟子のために中国から持ち帰って来た多くの経典の大要を説いた。死に際した時、体を洗い、着物を着替え西方極楽浄土に向かって正座した。そのとき光がへやいっぴに輝いた。道照は目を開き、弟子の知調を呼んで、
「知調、お前にはこの光が見えるか」と問うた。知調が、
「はい、見えました」と答えると、道照は、
「むやみにこのことを人に言いふらしてはいかんぞ」
と口止めをした。世も明けようとするころ、光は部屋から出て、寺の庭の松の木を一面に輝かせた。しばらく輝いた後に、光は西をさして飛んでいった。弟子たちはみな驚き、不思議に思わないものはいなかった。ちょうどそのとき道照ひじりは西に向かって正座し、心安らかに息が絶えた。ひじりが極楽浄土に往生したことは疑いのないことである。
 批評のことばに、「船の氏、道照ひじりは徳をみがき、遠い中国まで仏法を求めて留学した。これはひじりのすることであって、凡人にできることではない。また死に際しては、光を放つ奇瑞を示して大往生を遂げられた。」という。

第二十三 非道の男が母に孝養を尽くさないで悪い死に様の報いを受けた話

大和国添上郡に一人の非道な男がいた。本名は明らかでない。通称を瞻保といった。このものは難波宮で天下を治められた孝徳天皇の御代、大学寮の学生ふうのものである。前々から儒教の本のうわべだけ学んで、精神をつかまず、母に孝養を尽くさなかった。
 あるとき母は息子から稲を掛け売りで買ったが代わりに返すものがなかった。瞻保は怒って代わりを出せと責め立てた。そのとき母は地面に土下座し息子は朝床に寝そべっているという傲慢な無礼さであった。まわりの人はこの様子をよくよく見かねた。そして瞻保に対し、
「君はどうして孝の道に背くのかな。よその人を見たまえ。父母のために塔を建て、仏像を造り、お経を写し坊さんを大ぜい招いて夏の三ヶ月間も修行させる人もいるのだぞ。君の家は財産も豊かじゃないか。貸している稲も沢山あって何の不自由もない。それなのに、どうして聖賢の道に反して母に孝養を尽くさないのかな」
と諌めた。瞻保は、
「よけいなことをいうな」
といって従おうともしなかった。そこでまわりの人たちは、その母に代わって借財を返し、一同はその場を立ち去った。
 母は自分の乳房を出して、泣き悲しみながら
「わたしがお前を育てる時は夜も昼も休む時はなかった。よその子が親に孝行を尽くしているのを見ているが、わたしの子はこんなありさまで、かえってお前から辱めを受けている。わたしの願いは完全に期待はずれになった。ところで、お前はわたしの借りた稲を取り立てた。それならわたしもまた、お前から飲ませた乳の代金をいただこう。こんなことをいうなんて、これで親子の間も絶え切れた。天の神も地の神も、みな知っている。ああ、悲しいことだ」
と嘆き訴えた。瞻保は何もいわずに立ち上がり、部屋の奥の間に入り、これまでの借用証書の類を取り出し、庭の中でみな焼いてしまった。それから山に入り、心が狂ってどうしようもなかった。髪を取り乱し、体は傷つき、あちらこちらと狂い走り、家に帰ったかと思うと、また外をうろつき、家には住みつかない。三日の後には、突然火災が起きて、内外の家や倉はことごとく焼け失せてしまった。そして妻子たちは生活もできなくなってしまった。瞻保は身を寄せるところもなく、飢え凍えてついに死んだ。
 この世での悪い行いの報いは、たちどころに現れるものである。どうして。信じないでおられようか。そのために、あるお経にも、「親不孝の者たちは必ず地獄に堕ちる。父母に孝行を尽くす人は、必ず浄土に往生しよう」といわれている。これはまさしく釈迦如来の説かれているところであり、大乗仏教の真のおことばなのである。

第二十四 悪い女が母に孝行しないで、この世で悪い死にざまの報いを受けた話

 都が奈良に移される前の京にこと、一人の心のよくない女がいた。姓も名前もはっきりしない。生まれつき少しの孝心もなく、その実母を大切にする気持ちはなかった。母はある斎日の日に食事の用意をしなかった。斎食しようと思って、娘のところに行って食事がしたいと頼んだ。
「今日は夫とわたしも同じように斎食しようと思っていたの。私たちの食べる分を取ると、ほかに、あげる余分のご飯はないわ」
と断った。その時、母は一人ではなく、幼い子供を連れていた。母は仕方なく、幼い子供を連れて、自宅に帰って行った。途中ふとうつむいて道ばたを見ると、誰かが置き忘れたのか、飯の包みがあった。それを拾ってどうにか飢えをしのいだものの、疲れのあまり、そのまま部屋で寝てしまった。だいぶ夜がふけたころ、ある人が、やって来て、戸をたたき、
「あなたの娘が、大声で、『わたしの胸に釘がささる』と叫んでいます。今にも死にそうです。行って看てやって下さい」
と知らせてくれた。しかし、母は疲れ果てて寝込んでいたので、自分の娘のところに行って助けることはできなかった。そしてその娘はついに死んでしまい、ふたたび母と会うことはできなかった。親に孝行を尽くさないで苦しんで死ぬ。それよりは、自分の分け前をさいて、母に孝行を尽くして死ぬのに越したことはないのだ。

第二十五 欲が少なく分を知った忠義な臣が、諸神の感応を得ることができ、この世でよい報いがあり奇跡を示した話

 なくなった中納言従三位大神高市万侶の卿は持統天皇の時の忠臣である。ある記録に、次のように記されている。
「朱鳥七年(692)二月、天皇はもろもろの役人に詔して、『三月三日を卜して伊勢に行幸しようと思う。この意向を体して万端の準備をせよ』
と仰せになった。時に高市万侶中納言は、天皇のお出かけが農事の妨げになるのを心配して、意見書を奉ってお諌め申した。しかし天皇は了承なさらず、なおもおいでになろうとされた。そこで高市万侶中納言は冠をぬいで朝廷に返上し、辞任を覚悟して、重ねて諌められた。
『時まさに耕作の忙しい季節です。お出かけになるべきではありません』
と進言もうしたのであった。
 また、こういう話もある。あるひでり続きで困っているとき高市万侶中納言は、自分の田の水口をふさがせて、水を多くの人々の田に流れるようにした。その水も尽きると、神々は高市万侶中納言の善行に感じて、竜神がたちまち雨を降らせた。その雨は、ただ中納言の田に降り注いで、他の土地にはまったく降らなかった。これはまさに、堯のような慈しみの雲がたれ込め舜のような情けの雨が降り注ぐ、とでもいうべきものであろう。こうした不思議なしるしは、ほんとうにこの中納言の真心込めた忠臣ぶりの致すところであり、庶民を思う仁徳の偉大さによるものである」。
 批評のことばに、「長い家系を伝えている大神氏よ。小さい時から学問を好む。真心を尽くして事に当たり、人々に慈しみの情で接している。こころは高潔で、汚れるところがない。人々に対しては恵みを施した。水を多くの人々の田に注ごうとして、自分の田の水口を塞いだほどである。天もこれに感じて、時折よろしく甘露の雨を降り注いだ。名臣としての栄誉は長く、後の世に語り伝えられることになった」といっている。

第二十六 戒めを守った僧がひたすら修行を重ね、この世で不思議な霊験をあらわした話。

 持統天皇の御代に、百済の国出身の高僧がいた。名を多羅常といった。大和国高市郡の法器山寺に住んでいた。この高僧は、仏道を勤め法力によって病を治すのを第一の仕事としていた。今にも死にそうな病人でも、この高僧のあらたかな霊験にかかると、もう一度生き返った。呪文を唱えて病人を祈ると、いつも不思議な効験が現れた。
 この高僧は柳の枝を折ろうとして木の枝に登るとき錫杖の上にもう一本の錫杖を重ねて立てた。二つの錫杖は互いに作用し、錫杖は二本とも倒れない。まるでのみで穴をあけて継あわせたようであった。このような霊験を現すので、天皇も尊びおあがめになって、いつも物を布施された。また、人々も彼の徳を仰ぎ、霊験あらたかであるという名声が伝わり、病気を治すという慈悲の徳と栄誉が、長く後世まで伝わったのである。

第二十七 不人情でむごい一人の僧が、塔の木をたたき割って、この世で悪い報いを受けた話

 石川の僧は官の許しを受けず、私的に僧となったもので、法名はない。そればかりか俗姓も明らかでない。通称として世間の人々の「石川の沙弥」と呼んでいるわけは、彼の妻が河内国石川郡の人だったからである。この人は外形は僧形となっているのだけれども、表向きはもっぱらものを盗み取ることを心がけていた。
 ある時は、表向きは塔を立てるためだといっては、人の喜捨をだまし取り、内実は妻と一緒に自分の私腹を肥やし、いろいろな物を買っては食べていた。ある時は、摂津国嶋下郡の㫪米寺に住んで、塔の柱をたたき割って燃料とするなど、仏法をけがすことをしていた。この無法ぶりに過ぎる者は誰もいないほどであった。転々として、最後には同じ三島郡の味木の里に身を寄せた。その時、急に病にかかり、
「熱い、熱い」
と大声でわめき叫んで、地面から一、二尺ぐらいはね上がって走り回るのであった。人々が集まりこれを見た。ある人が、
「なぜそんなにわめき叫ぶのか」と聞いた。
「地獄の火が襲って来て、おれの体を焼き焦がすのだ。だからこんなに苦しんでいるんだ。聞かなくてもわかるだろう」
と叫んで、その日のうちに死んだ。ああ、悲しいことだ。罪の報いは決して空しいものではないのだ。てきめんに現れる。どうして慎まないでよかろうか。『涅槃経』に「もしこの世で善い行いを行なうならば、その人の名は天上界に知られるであろう。また悪い行いを重ねるならば、その人の名はきっと地獄にしられるだろう。なぜかというと、この世での善悪の行ないは、来世でかならずその善悪の報いを受けるものだからである」といっているのは、まさこのことをいうのである。

第二十八 孔雀明王の呪法を修めて霊術を身につけ、この世で仙人となって天を飛んだ話

 役優婆塞と呼ばれた在俗の僧は、賀茂の役公で、今の高賀茂朝臣はこの系統の出である。大和国葛城上群茅原の人である。生まれつき賢く、博学の面では近郷の第一人者であった。仏法を心から信じ、もっぱら修行につとめていた。この僧は、いつも心の中で、五色の雲に乗り、果てしない大空の外に飛び、仙人の宮殿に集まる仙人達といっしょになって、永遠の世界に遊び、百花におおわれた庭にいこい、いつも心身を養う霞など、霊気を十分に吸うことを願っていた。
 このため、初老を過ぎた四十余歳の年齢で、なおも岩屋に住んでいた。葛で作った粗末な着物を身にまとい、松の葉を食べ、清らかな泉で身を清めるなどの修行をした。これらによって種々の欲望を払いのけ、『孔雀経』の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけることができた。また、鬼神を駆使し、どんなことでも自由自在になすことができた。
 多くの鬼神を誘い寄せ、鬼神をせきたてて、
「大和国の金峯山と葛城山との間に橋を架け渡せ」
と命じた。そこで神々はみな嘆いていた。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代に、葛城山の一事主の大神が、人にのり移って、
「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と悪口を告げた。天皇は役人を差し向けて、優婆塞を逮捕しようとした。しかし彼の験力で簡単には捕まらなかった。そこで母を捕まえることとした。すると、優婆塞は、母を許してもらいために、自分から出て来て捕われた。朝廷はすぐに彼を伊豆の島に流した。
 伊豆での優婆塞は、時には海上に浮かんでいることもあり、そこを走るさまは陸上をかけるようであった。また体を万丈もある高山に置いていて、そこから飛び行くさまは大空に羽ばたく鳳凰のようでもあった。昼は勅命に従って島の内にいて修行し、夜は駿河国の富士山にいって修行を続けた。さて一方、優婆塞は極刑の身を許されて、郡の近くに帰りたいと願い出たが、一事主の大神の再度の訴えで、ふたたび富士に登った。こうしてこの島に流されて苦しみの三ヶ年が過ぎた。朝廷の慈悲によって、特別の赦免があって、大宝元年(701)正月に朝廷の近くに帰ることが許された。ここでついに仙人となって空に飛び去った。
 わが国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百匹の虎の招きを受けて、新羅の国に行き、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いている虎の中に一人の人がいた。日本のことばで質問した。法師が、
「どなたですか」
と尋ねると、それは役優婆塞であった。法師は、さては「我が国の聖だな」と思って、高座から下りて探した。しかしどこにも見当たらなかった。例の一事主大神は役優婆塞に縛られてから後、今に至ってもその縛めは解けないでいる。この優婆塞が不思議な霊験を示した話は、数多くあってあげつくせないので、すべて省略することにした。仏法の呪術の力は広大であることがよくわかる。仏法を信じ頼る人には、この術を体得出来ることが必ずあるということを実証するだろう。

第二十九 心が邪で乞食の鉢を割り、この世で悪い死にざまの報いを受けた話

 白髪部の猪丸は備中国小田郡の人であった。彼は、生まれつき心が邪で、仏法を信じなかった。時に一人の僧がいた。門の前で食物を恵んでくれと乞うた。猪丸は求められた食物を与えなかった。そればかりか、かえってこの僧をせめ苦しめて、持っていた鉢まで割って追い返した。その時、石丸はよその里に出かける用事があった。そのときしばらくの間、よその倉の軒下で雨宿りしていると、突然、倉が倒れ、石丸を押しつぶしてしまった。
 悪い行いの報いは、近い時点で現れることが、本当によくわかる。だからこの世における日々の行いを、どうして慎まないでよかろうか。『涅槃経』に、「一切の悪行はみな邪悪の心が原因になっている」といっているのも、このことをいうのである。また『大丈夫論』には、「慈悲の心を持って、たった一人の人に施しても、その功徳の大きいことは大地のようである。自分一個のことを考えて、この世のすべての人に施しても、その報いは芥子粒のように小さいものである。災難に遭っている一人の人を救うのは、その他の一切の施しに勝る云々」と記してある。

第三十 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 (その一)

膳臣広国は豊前国宮子郡(福岡県京都郡)の次官であった。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代慶雲二年(705)の秋九月十五日に、広国は突然この世を去った。死んで三日目の十七日の午後四時頃に生き返って、以下、次のように告白した。
「二人の使いがやって来た。一人は大人で髪を頭の上で束ねていた。いま一人は小さい子であった。私、広国は二人に連れられて行った。駅を二つばかり過ぎると、道の途中に大きな川があった。橋がかけてあり、その橋は黄金で塗り飾ってあった。橋を渡って対岸に着くと、目新しい見慣れない国があった。使いに向かって、
『ここは何という国ですか』と尋ねると、
『度何の国だ』と答えた。その国の都につくと、八人の役人がやって来て、武器を持って、私を追い立てた。前方に黄金の宮殿があった。門に入ってみると、そこに王がいた。黄金の座席に座っておられた。大王は私に向かって、
『いま、お前をここに召したのは、お前の妻が嘆き訴えたからなのだ』とおっしゃった。すぐ一人の女を召し出した。見ると死んだ昔の妻であった。鉄の釘が頭の上から打ち込まれ、尻まで通っており、額から打ち込んだ釘は後頭部に遠ていた。鉄の縄で手足をしばり、八人がかりで担いで連れて来た。大王が、
『おまえはこの女を知っているか』と尋ねられた。わたしが、
『確かに、私の妻です』と答えた。また、
『お前は何の罪をとがめられて、ここへめしだされたのをしっているか』と尋ねられた。私は、
『知りません』と答えた。今度は妻に受かって尋ねた。妻は、
『私はよくわかっています。あの人は私を家から追い出した者なので、私は恨めしく、口惜しく、しゃくにさわっているのです』と答えた。大王は広大に、『お前には罪はない。家に帰ってよろしい。しかし、決してこの黄泉の国のことはしゃべってはならんぞ。それから、もしそなたの父に会いたいと思うなら、南のほうに行ってみるがよい』とおっしゃった。

第三十 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 (その二)

 行ってみると、本当に父がいた。非常に熱い銅の柱を抱かされて立っていた。鉄の釘が三十七本もぶち込まれ、鉄の鞭で打たれている。朝に三百回、昼に三百回、夕べに三百回、あわせて九百回、毎日打ち攻められている。私は悲しくなり、
『ああ、お父さん。わたしはお父さんが、こんな苦しみを受けておられようとは、まったく思いもよりませんでした』と嘆いた。父は次のように語った。
『私がこんな苦しみを受けていたのを、息子よ、お前は知っていたのかどうか。私は妻子を養うために、ある時は生き物を殺した。ある時は八両の麺を打って十両の値を取り立てた。ある時は軽い秤で稲を貸し、重い秤で取り立てた。またある時は人の者を無理に奪い取り、また他人の妻をおかすこともした。父母に孝行も尽くさず、目上の者を尊敬することもせず奴隷でもない人をまるで自分の奴隷でもあるかのように、ののしり、あざけった。このような罪のため、私の体は小さいのに三十七本もの釘を打ち込まれ、毎日九百回も、鉄の鞭で打ち攻められている。とても痛く、とても苦しい。一体、いつの日になったらこの罪が許されるのか。いつの時にか体を休めることができものであろうか。お前はすぐにも私のために仏を作り、お経を写し、私の罪の苦しみを償ってくれ。忘れないで必ずやってくれ。
 私は飢えて、七月七日に大蛇となってお前の家に行き、家の中に入ろうとした時、お前は杖の先に私を引っかけてぽいと捨てた。また五月五日に赤い子犬となってお前の家へ行った時は、他の犬を呼んでけしかけ、追い払わせたので、私は食にありつけず、へとへとになって帰って来た。ただ正月一日に、猫になってお前の家に入り込んだ時は供養のために供えてあった肉や、いろいろのごちそうを腹一杯食べて来た。それでやっと三年来の空腹を、どうにかいやすことができたのだ。また私は兄弟や身分の上下を無視し、道理に背いたので、犬と生まれて食い、口から白い泡を出してあえいでいる。わたしはまたきっと赤い子犬になって食をあさることになるだろう』と語るのであった。
 およそ、米一升を施す報いは、あの世で三十日分の食もつがえられる。衣服一着分を施す報いは、一年分の衣服がえられるのである。お経を読ませた者は、東方の宮殿に住むことになり、後には願いのまま、天上界に生まれる。仏菩薩を仏像に作った者は、西方の無量浄土に生まれる。生き物を放してやった者は、北方の無量浄土に生まれるのである。欲望を抑え一日断食すると、あの世で十年間の食料が得られる。
 このほか、生前この世で善いこと悪いことをして、それからうけたあの世での報いなどを見てから地獄を出ようとした。そしてわたしはしばらくその辺をぶらぶらしていると、小さい子供がやって来た。すると、さっきの門番はその子を見て、両膝を地につけてひれ伏した。その子は私を呼んで、片側の脇門に連れて行き、門を押しあけた。そこから私が出ようとすると
『早く行きなさい』といった。わたしは、その子に、
『あなたはどなたさまですか』と聞いた。その子は、
『わたしが誰だか知りたいと思いますか、わたしはそなたがまだ幼かった時に写した「観世音経」なのです』
と答えた。そしてそのまま帰ってしまった。ふと見回すと、生き返っていたのである」という。
 広国は、黄泉の国に行き、善い行いが善い報いをえ、悪い行いに悪い報いが帰ってくるいろいろな例を見たので、この不思議な体験話を記録して、世間に広めた。
 この世で罪を犯して、あの世でその報いを受ける因縁は『大乗経典』に詳しく説いてあるとおりである。誰がこれを信じないでいられようか。このようなわけで、経典に、「この世で甘露のような甘い汁を吸っていると、未来は熱い鉄の玉を飲まされる」といっているのは、このことをいうのである。広国は、生き返ってから、父のために仏像を造り、お経を書き写し、仏・法・僧の三宝を供養して、父への恩返しをした。父の犯した邪悪の罪を滅ぼし、これからのというものは、広国ともども正しい道に入ることができたのであった。