『三国志演義』 第一回 桃園に宴して三豪傑義を結び、黄巾を斬って英雄始めて功を立つ!

 漢朝は高祖が白蛇を斬って義兵を興し、天下統一をしたのに始まり、後に光武帝の中興があって、以来献帝まで伝わり、ついに三国に分かれた。
 このたびの乱の源は、桓帝と霊帝の二帝に始まったといえる。
 桓帝は正義の士を弾圧し宦官を重用した。桓帝崩じて霊帝即位するや、大将軍トウブ、大傳チンパンが補佐に当たった。
 宦官曹節らが権力を持ち大将軍トウブ、大傳チンパンが誅滅を謀ったが殺害され、宦官の力は専横きわまった。
 建寧二年(169年)、温徳殿にて青色の大蛇が現れ、すさまじい雷雨となり雹までまじえて夜半まで降り続いた。
 倒壊家屋は数しれなかった。
 建寧四年(171年)、洛陽に地震があり、大津波もおそった。
 光和元年(178年)、雌鶏が雄になった。
 五原の山々に激しい山崩れがあった。
 このような事件が重なり、帝が臣下に原因を尋ねたところ、議郎サイヨウが女子や宦官が政治に関わるためと上奏した。
 しかし、その上奏を宦官曹節がひそかに読み、サイヨウを罪に陥れた。
 その後、張譲、張遼、ホウショ、ダンケイ、曹節、コウラン、ケンセキ、テイコウ、カウン、郭嘉ら宦官は十常侍と呼ばれ、帝は張譲を信じて敬い「父上」と呼んだ。
 これより、政道日々に乱れるに至った。

 時に鉅鹿郡に張角という秀才がおり、一日、山中で南華老仙に出会い太平要術を与えられた。
 中平元年(184年)正月、疫病が流行したときに護符と水を施した。
 そして、自ら大賢良師と称した。
 弟子は500人、各地を渡り歩いた。
 「蒼の世はすぎ黄の世だ。甲子の年は天下大吉だ。」と言い広めた。
 張角は、バゲンギに金帛を持たせてひそかに宦官のホウショと結んで内応を頼もうとしたが、弟子の董襲が謀反の事を朝廷に密告した。
 大将軍カシンがバゲンギを打ち首にし、ホウショ達を獄に落とした。
 張角は、事が露見したので、にわかに兵を挙げて、自ら天公将軍、弟の張苞を地公将軍、張遼を人公将軍として乱を起こした。
 人はみな、黄色の布で頭をくるみ黄巾と呼ばれた。
 その数、4、50万。
 時の大将軍、カシンは帝に上奏し、各地の乱を抑えようとした。
 中郎将魯粛、皇甫嵩、朱儁を討伐に向かわせた。

 張角の軍が幽州の境界を侵した時、幽州太守劉焉は配下の雛靖の進言で義兵を募集した。
 その高札をみた劉備はそこで張飛と出会った。
 そして酒場で関羽に出会い意気投合した3人は張飛の屋敷で義兄弟の契りを交わした。
「生まれた時は違っても、願わくば死す時は同じに。」と誓いあった。
 そして、鍛冶屋で劉備は雌雄一対の剣、関羽は青竜円月刀、張飛は鋼の矛を造らせた。
 総勢500人ほどの義勇兵を集め劉焉の所へ行った。
 劉焉は雛靖に命じ、賊の討伐に劉備らを向かわせた。
 敵の副将、鄧茂を張飛が討ち、大将程遠志を関羽が討った。
 そして、大勝を博して帰陣した。
 次の日、青州太守キョウケイからの加勢の要請に、劉焉は雛靖に5千の兵を授けて劉備らと向かった。
 これも討伐し、劉備らは引き上げる時、手勢500で中郎将魯粛の加勢に向かった。
 中郎将魯粛の命により、皇甫嵩、朱儁の加勢に向かった。
 到着した頃には曹操らによって鎮圧されており、再び中郎将魯粛の所へ戻ったが、中郎将魯粛は軍情視察に来た宦官左豊に賄賂を贈らなかったために讒言をして罪に陥れ、護送される所であった。
 頼る者のいなくなった劉備らは故郷に引き返した。
 途中、中郎将魯粛の後を継いだ中郎将董卓が、黄巾に討ち崩されていた。そこに劉備達が加勢し難を逃れたが、中郎将董卓は劉備に官職のないのを知ると手のひらを返したようにすげなく扱った。
 怒った張飛は本陣に駆け込んで中郎将董卓を殺そうとする。

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