『三国志演義』第四十九回 七星壇に諸葛風を祭り、三江口に周瑜火を縦つ

周瑜はすぐさま本陣にかつぎこまれ諸侯がこぞって見舞いに現れていた。
諸葛亮は魯粛から周瑜の容態を聞いて、
「それならば私がその病、治してみせましょうぞ。」
と言って本陣に赴いた。
本陣では周瑜が床にふせっており、諸葛亮は人払いをして二人で話をした。
「都督の病のもとは、火攻めを用いる計が万全なれど東風を欠くことでござろう。」
これに周瑜は仰天して、
「なんと恐ろしい男か。この上は実情を打ち明けてしまおう。」
と決めた。
「それがしの病はどのようにすればなおるでござろうか。」
と問うと、
「それがし非才ながら風を呼び雨を喚べます。七星壇を築きそこで法術にて三日三晩東南の風を借り受けましょう。」
「三日三晩はおろか一夜でそれがしの計略は成功致します。」
「されば、十一月二十日甲子の日に風を祭り、二十二日にはやむようにいたしましょう。」
これを聞いた周瑜は大いに喜んでさっそく準備にかかった。
かくて諸葛亮は七星壇で祈って風を呼んだ。が、未だ東南の風は起こる気配がなかった。
周瑜は東南の風を待って待機していたが風が起こらず苛立ちも出てきたころ、ふと風が西北に流れ、見る間に東南に変わった。
周瑜は愕然として
「あの男は法術も我が物にしておる。ここで禍根を断たねばならぬ。」
と言って丁奉と徐盛に諸葛亮を捕らえに向かわせた。しかし諸葛亮は趙雲の迎えの舟で夏口に向かった後であった。二人は諸葛亮を追うが、趙雲が矢を放って徐盛の舟の帆綱を射切ったので失敗した。
周瑜はこの知らせを聞くが、取り合えず魏を破る事を先決にし兵を進めた。

一方、夏口に戻った諸葛亮は曹操の敗走路を読んで、趙雲、張飛、劉琦にそれぞれ配置につかせた。関羽は何も命を与えられないのを不服に思い、
「以前の恩義で曹操を見逃したりはしない。」
と誓紙をしたため、諸葛亮もそこまで言うならと華容道の配置につかせた。
関羽が出た後、劉備は
「ああ言っても弟は見逃すだろう。」
と言った。諸葛亮も
「ここで彼に義理を果たさせておけば良いでしょう。」
と答え、ともに樊口に出向いて周瑜の指揮ぶりを見に行った。

呉は東南風と共に行動を起こし、周瑜は蔡和の首をはねて黄蓋を先鋒にして内応の目印である旗を掲げて船を出した。
曹操は黄蓋が内通してやってきたものを思っていたが、乗っている兵糧船が兵糧を積んでいるはずなのに軽々と浮かんでいることに気付いた。しかし、時遅く黄蓋の船は火を上げて突入してきた。曹操の船はしっかりとつなぎ止めてあるので散開できず、炎は風にあおられて一気に燃え広がった。
曹操は張遼に守られて逃げ出したが、黄蓋に見つかり襲いかかられる。しかし、張遼が矢をつがえて黄蓋を狙った。黄蓋は肩先を矢にさされもんどりをうって水中に落ちた。

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