【参考】『世説新語 劉義慶』

■第一   徳行篇(徳の高い人物の話)

陳仲挙(陳蕃)の言う事は士人の手本で、行いは世の模範である。
車に登り轡をとって(仕官して)、天下を澄清しようという志をもっていた。
豫章の太守となって赴任すると徐孺子(徐穉)の居所を聞き、まずこれに会おうとした。
すると主簿が言った。
「我々としては府に貴方様がまず入っていただきとうございます」と。
陳蕃は言った。
「武王は商容の閭に式し、席が暖まる暇も無かった。私が賢者に礼をつくすのに何の不都合があるのか」

周子居(周乗)は常に言っていた。
「私がしばらく黄叔度(黄憲)に会わなければ、鄙吝の心がまた生じる」

郭林宗は汝南に至り、袁奉高(袁閎)を訪問すると、車を停める事も無く、軛の鈴の音も鳴り止まないほど短かった。
黄叔度を訪問すれば、日を重ねて滞在した。
ある人がどうしてか訊いた。
郭林宗は言った。
「叔度は汪汪、萬頃の池のようで、澄ませようとしても清まず、これを掻き混ぜても濁らない。その器は深く広く、測量しがたい」

李元禮(李膺)の風格は秀整で、自ら高く矜持し、天下の名教是非をもって己の任としていた。
後進の士で、そのその堂(李膺の客間)に通されると、龍門に登ったと見做された。

李元禮はかつて荀淑・鍾晧を歎じて言った。
「荀君の清識は加えがたく、鍾君の至徳は師とすべきものだ」

陳太丘(陳寔)荀朗陵(荀淑)を訪問すると、貧しく従者もいなかった。
なので元方(長男の陳紀)に車の御をさせ、季方(弟の陳諶)に杖を持たせ従わせた。
長文(孫の陳羣)はまだ幼かったので車に乗せた。
到着すると、荀淑は叔慈(荀靖)を門で応対させ、慈明(荀爽)に酒をすすめさせ、残りの六龍に給仕させた。
文若(荀彧)もまた幼かったので膝の上に座らせた。
このとき、太史が上奏した。
真人が東行しましたと。

客が陳季方(陳諶)に問うた。
「足下のお父上の太丘は何の功徳があって天下の重名を荷うのか」
陳諶は言った。
「私の父は譬えるなら桂樹が泰山の一角に生えているようなもので、上は万仞の高さがあり、下には測り知れない深さがあり、上は甘露が霑され、下は淵泉の潤されます。このような場合、桂樹はどうして泰山の高さ、淵泉の深さを知ることが出来ましょうか。功徳が有る無しというのはわかりません」

陳元方の子の長文(陳羣)には英才があった。
季方の子の孝先(陳忠)と各々父の功徳を論じ、争ったが決着はつかなかった。
そこで祖父の陳寔にたずねた。
陳寔は言った。
「元方は兄たりがたく、季方もまた弟たりがたし」

荀巨伯は遠くの友人の病をみまい、胡賊が郡を攻めるのに遭遇した。
友人は荀巨伯に語って言った。
「私はもう死ぬだろう。貴方は去ってください」
荀巨伯は言った。
「せっかく遠くから来て会ったのにあなたは私を去らそうとする。義をそこなって生を求めるようなことは荀巨伯にはできない」
賊がやってくると、荀巨伯に言った。
「大軍がやってくれば一郡はことごとく空になる。お前はどういう男でどうして敢えてひとり残っているのか」
荀巨伯は言った。
「友人が病でこれを棄てるのは忍びない。むしろ我が身をもって友人の命と代えたいと思う(私を変わりに殺せ)」
賊は言った。
「我等は無義の人であるからどうして有義の国へ入ろうか」
遂に軍をけして帰った。
一郡ならびに事なきを得た。

華歆は子弟を遇すること、甚だ整い、くつろいだ部屋の中でも儼として朝廷の儀式にのぞむようにだった。
陳元方兄弟は、柔愛の道を恣にしていた。
しかも両家とも雍煕の軌を失っていないなかった。

管寧は華歆と共に園内で畑を耕していると、地面に金のかけらがあるのを見つけた。
管寧は鋤を揮うこと土石と変わらなかったが、華歆はこれを擲去した。
またかつて、同席して読書していると、貴人が車に乗って門前を通り過ぎた。
管寧はかわらず何もないかのように読んでいたが、華歆は書を置いて出て行って見た。
管寧は席を割いて座を分けて言った。
「あなたは私の友ではない」

王朗はいつも見識度量で華歆を推奨していた。
華歆は蜡の日にはいつも子や甥を集めて燕飲した。
王朗もまたこれに倣った。
ある人が張華に向かってこのことを説いた。
張華は言った。
「王朗が華歆に倣ったのは皆形骸の外で、華歆からさらに遠くなるのだよ」

華歆、王朗はともに船に乗って難を避けようとした。
一人同行したいという男がいた。
華歆は難色を示した。
王朗は言った。
「幸いな事に余裕がある。良いでないことないではないか」
後に賊が追ってくると、王朗は同行した人を捨てて行きたいと思った。
華歆は言った。
「私がもともとためらったのはこういった時のことを考えてのことだ。しかしすでに受け入れたのだから、どうして見棄てる事が出来るだろうか」
遂に今まで通り同行した。
世間ではこのことから華歆と王朗の優劣を決めた。

王祥が継母の朱夫人につかえ甚だ謹んでいた。
家に一本の李の樹があって、よく実が出来た。
母つねにこれを守らせた。
時に風雨が襲い、王祥は樹を抱いて泣いた。
またかつて、別室で寝ていると、母はみずから行って闇に王祥を斬った。
たまたま王祥は小用にたっていたのでむなしくふとんを斬っただけであった。
帰ってくると母が憾んでいるのを知り、母の前に跪いて死を請うた。
母はここにおいて感悟し、王祥を我が子のように愛した。

晋の文王(司馬昭)は褒めて言った。
「阮嗣宗(阮籍)は至慎である。いつも言う事が玄遠で、未だかつて人物を批評したことがない」

王戎は言った。
「嵆康と居る事二十年になるが、いまだかつてその喜愠の色をみたことがない」

王戎、和嶠は同時に大葬(親の死)に遭い、ともに孝をもって称揚された。
王戎は(哀しみで)痩せ衰え牀で体を支え、和嶠の哭泣は禮にかなっていた。
武帝(司馬炎)は劉仲雄(劉毅)に言った。
「あなたはしばしば王戎、和嶠を見舞ったか。和嶠が禮を超えて哀しんでいると聞いてこれを憂えている」
劉毅は言った。
「和嶠は禮に従っておりますが、神氣は損なわれておりません。王戎は禮に従っておりませんが、哀しみで痩せ骨だけになっております。私が思うに、和嶠は生孝で王戎は死孝です。陛下、和嶠を憂えないで王戎を憂えてください」

梁王(司馬彤)、趙王(司馬倫)、国の近族(皇室の親族)で投じ貴重されていた。
裴令公(裴楷)は毎年二国に祖銭数百万を請うて、貧しい親族にめぐんでいた。
ある人がこれを謗って言った。
「どうして物を乞うてまで人に恵むのか」
裴楷は言った。
「余りあまっているのを損ない、足らないのを補うのは天の道である」

王戎は言った。
「太保(王祥)は正始の時代にあって、能言の流れではないが、彼と話すと理論は清遠である。おそらく徳がその言葉をおおっていたのだろう」

王安豐(王戎)は親の喪に遭い、その嘆き方は常人を超えていた。
裴令(裴頠)は弔問に行って言った。
「もし一度の慟哭で身を傷つければ、濬仲(王戎)は必ず哀しみが過ぎて姓名を損なったという謗りを免れないよ」
王戎の父の王渾は令命が有り、官は涼州刺史にまでなった。
王渾が亡くなると歴任した九郡で恩を蒙った人々はその徳恵を思って相次いで香典を贈る事数百万に及んだ。
王戎は悉く受け取らなかった。

■第二   言語篇(外交的弁舌に優れた人物の話)

邊文禮(邊讓)、袁奉高(袁閎)に会い、応対の仕方を誤った。
袁奉高は言った。
「昔、堯が許由を招聘したが、許由の表情に怍じる色は無かった。しかし先生、貴方はどうして衣装が顚倒しているのですか」
邊文禮は答えて言った。
「貴方は初めて府に着任したばかりで、堯のような徳は未だにあらわれていません。だから私の衣装は顚倒しているのです」

徐孺子(徐穉)は九歳で、月下で戯れていた(遊んでいた)。
ある人がこれに言った。
「もし月の中に影が無ければもっと明るいだろうね。」
徐孺子は言った。
「そうじゃないよ。譬えるなら人の眼に瞳があるようなものなんだ。もしなかったら明るくないはずだよ」

孔文挙(孔融)は十歳の時に父に従って洛陽へと赴いた。
この当時、李元禮(李膺)は名声高く、司隷校尉だった。
李膺の邸の門を通る事が出来るのは皆儁才高潔の人間か、親戚と昔からの友人だけであった。
孔融は李膺邸の門に行き言った、「私は李府君の親戚です」と。
すると通されて席についた。
李膺は問うた。
「君と僕はどういう親戚かね」
「昔、私の先祖の仲尼(孔子)はあなたの先祖である伯陽(老子)に師事いたしました。だから私とあなたは代々の付き合いがあります」
李膺と賓客達で、孔融を奇としないものはいなかった。
太中太傅の陳韙が遅れてやってきて、人から先の話を聞いた。
陳韙は言った。
「小さい時に利口だといっても大きくなれば必ずしもすぐれているということはない」
孔融は言った。
「想うにあなたは小さい時にさぞお利口だったのでしょうね」
陳韙は大いに踧踖した。

孔文挙には二人の子供がいた。
大きい方は六歳、小さい方は五歳であった。
父が昼寝をした。
小さい方は枕もとの酒を盗んで飲んだ。
大きい方は言った。
「どうして拝しないのか」
答えて言った。
「盗んで飲むのにどうして禮が必要なのか」

孔融が捕らえられると朝廷の中外は恐れおののいた。
この時孔融の子供は大きい方が九歳、小さい方が八歳であった。
二人の子は琢釘の遊びをしていて、うろたえた様子は微塵もなかった。
孔融は使者に言った。
「冀こいねがわくば罪を我が身に留めていただきたく。二人の子は助けてもらえないでしょうか」
すると子がおもむろに進み出て言った。
「父上、どうしてひっくり返った巣の下に無事な卵があるのを見ることができましょうか」
ついで、子等も捕らえられた。

潁川太守が陳仲弓(陳寔)を髠刑にした。
客で元方(陳寔の子の陳紀)に問う者がいた。
「府君(太守)はどうですか」
「高明の君です」
「貴方のお父上はどうですか」
「忠臣孝子です」
「易に『二人心を同じくすれば、その利きこと金を断つ。同心の言はその臭しきこと蘭の如し』といいます。どうして高明の君が忠臣孝子である者を刑することなんてことがありえましょうか」
「貴方の言葉は間違っております。故に答えません」
「貴方はただへりくだることが恭だとしている。だから答えられないのでしょう」
「昔高宗(商王)は孝子の孝己を放逐し、尹吉甫は孝子伯奇を放逐し、董仲舒は孝子苻起を追放しました。この三君は高明の君でのあり、この三子は忠臣孝子です」
客は慙じて退いた。

荀慈明(荀爽)は汝南の袁閬と会見し、潁川の人士について問うた。
荀爽は先ず自分の諸兄を挙げた。
袁閬は笑っていった。
「士はただ親戚旧友だけに限って良いのですか」
「貴方は批難しましたが理由はどういうことですか」
「国士を聞いておきながら諸兄を挙げました。これをとがめただけですよ」
「昔、祁奚は身内を推挙して自分の子を除外しませんでした。他人を推挙するのに讎を除外しませんでした。それゆえとても公平であるとされました。周公旦の文王の詩に堯舜の徳を論じずして文武を頌するは親を親とする義である。春秋の義はその国を内として諸国を外とします。その親を愛さずに他人を愛するのは徳に悖ることではないでしょうか」

禰衡は魏武(曹操)のとがめを受け鼓吏となって、正月半ばに鼓を試された。
禰衡はばちを揚げて漁陽摻檛を演奏すると、淵淵として荘厳な響きであった。
居合わせた人々はこのため容を改めた。
孔融は言った。
「禰衡は罪を胥麋と同じくして、明王の夢をひらくことができません」
曹操は慙じて禰衡を赦した。

南郡の龐士元(龐統)は司馬徳操(司馬徽)が潁川にいると聞いて、二千里の道を越えて会いに行った。
たどり着くと、司馬徽は桑の葉を摘んでいて、龐統は車の中から声をかけて言った。
「私はこう聞いております。『大丈夫たる者、金を帯び紫を佩びるべし』と。どうして洪流の量に屈し、絲婦の仕事のようなことをしなければならないのか」
「とりあえず車から下りなさい。貴方はただ邪経の速さを知るだけで、道を失い迷うことを考えていない。昔、伯成は畑を耕し、諸侯の栄誉を慕わず、原憲は桑のあばら家に住みながら、有官の宅に代えなかった。どうして座すのに華屋を、行くのに肥えた馬を、侍女数十で、しかる後に奇としないのか。これはすなわち許父(許由と単父)が慷慨した所以で夷斉(伯夷と叔斉)が長嘆した所以である。秦から爵位や千駟の富みをぬすんだところで貴ぶに足る事は無い」
「僕は生まれて辺境に出て大義を見ることは少なかった。
もし一たび、洪鍾を叩き、雷鼓をうあたなければ、その音響を識ることが出来なかったでしょう」

劉公幹(劉楨)は不敬罪にとわれた。
文帝(曹丕)は問うて言った。
「貴方はどうして文憲を謹まないのか」
劉楨は答えて言った。
「私は本当につまらぬ人間です。また陛下の網目が疎でないことが理由です」

鍾毓、鍾會は若いころから評判が良かった。
鍾毓が十三歳の時、魏の文帝はこれを聞いて、鍾毓の父の鍾繇に語って言った。
「二人を連れてきなさい」
そこで勅を発してまみえた。
鍾毓が顔に汗を掻いていた。
曹丕は問うた。
「どうして汗を掻いているのか」
「戦戦惶惶として汗が漿のように出るのです」
また鍾會に問うた。
「どうして汗を掻かないんだ」
「戦戦慄慄として敢えて汗が出てきません」

鍾毓兄弟が小さかった時、父が昼寝をしていたので、二人とも薬酒を偸み飲んだ。
このとき鍾繇は目を覚ましたが、しばらく寝たふりをして二人を観察した。
鍾毓は拝してから飲み、鍾會は飲んでも拝さなかった。
鍾繇はまず鍾毓に問うた。
「どうして拝したのか」
「酒は禮を成します、敢えて拝さなければなりません」
また鍾會に問うた。
「どうして拝さなかったのだ」
「偸はもとから禮ではありません。だから拝しませんでした」

魏の明帝(曹叡)は外祖母のために館を甄氏に築いた。
自ら行って視て左右に言った。
「館を何と名づけるべきか」
侍中の繆襲が言った。
「陛下のお気持ちは哲王に斉しく、孝行は曾閔(曾子と閔子騫)を上回っております、この館をお築きになったのは、舅氏を思っての事でございます。渭陽と名づければよろしいでしょう」

何平叔(何晏)は言った。
「五石散を服用すると、ただ病が治るだけでなく、また神明開朗となる」

嵆中散(嵆康)は趙景眞(趙至)に語った。
「貴方の瞳は白黒はっきりしていて白起の風格が有る。恨むべくはそれが小さい事だ」
趙至は言った。
「一尺の日時計でも天体の動きをつまびらかに出来、一寸の管でも往復の氣を測れます。どうして大きい事ばかりが重要でしょうか。ただ見識の如何を問うべきでしょう」

司馬景王(司馬師)は東征し、上党の李喜を召して、従事中郎とした。
そして李喜に問うて言った。
「昔、先公(司馬懿)が君を辟召したが応じず、今、私が君を召すとどうしてやってきたのだ。」
李喜はこたえて言った。
「先公は禮をもって待遇してくれましたので、禮に従い進退できました。明公は法をもってただされるので、私は法をおそれてやってきました」

鄧艾はどもりがあり、かたろうとすると「艾艾」と言った。
晋の文王(司馬昭)は鄧艾に戯れて言った。
「あなたは艾艾というが艾はいったい何人いるんだね」
「鳳よ鳳よといいますが鳳は一羽でございます」

嵆中散はすでに誅殺され、向子期は郡の計吏に挙げられ洛陽に入った。
文王は引見して問うて言った。
「聞くところによると、君には箕山の志が有るという。どうしてこんなところに来たのかね」
「巣許(単父と許由)は狷介の士であり、多くを慕うに足りません」
司馬昭は大いに咨溠した。

晋の武帝(司馬炎)ははじめて登祚し、策命を探ると一と出た。
王者の世数はこの数にかかっている。
司馬炎は悦ばず、群臣は顔色を失い、言葉を発する者はいなかった。
侍中の裴楷は進み出て言った。
「私はこう聞いております。侯王は一を得ても天下の貞となる」
司馬炎は悦び、群臣は嘆服した。

満奮(満寵の孫)は風を畏れた。
晋の武帝は玉座にあって北の窓は瑠璃塀で、実際は閉まっていたが、透けているので開いているように見えた。
満奮は困った顔をしていて、司馬炎はこれを笑った。
満奮は答えて言った。
「私は呉牛が月を見て喘ぐのと同じです」

諸葛靚は呉にいて、朝堂で大いに会した。
孫晧は問うた。
「貴方の字は仲思であるが、何を思うのか」
「家にあっては孝を思い、君に仕えては忠を思い、朋友には信を思う。それだけです」

■第三   政事篇(優れた統治能力を持った人物の話)

陳仲弓(陳寔)が太丘の長だった時に吏が偽って母が病気であると言って休暇を求める者がいた。
ことが明るみに出て吏は収監され、刑吏に処刑するよう命じた。
主簿は獄に付託して余罪を追求したいと願った。
陳寔は言った。
「君を欺くのは不忠で、母を病気にするのは不孝だ。不忠不孝はその罪莫大である。余罪があったとしてもこれを超えるものはない」と。

陳仲弓が太丘の長だった時に劫賊が財主(金持ち)を殺した。
主者(担当者)はこれを捕らえた。
陳寔が現場に到着しないうちに、途中で子を産んで殺した者がいると聞いて、車を返してこれをおさめた。
主簿は言った。
「賊は重罪です。先にこちらを按討してください」
「賊が財主を殺すのは、骨肉が互いに殺しあうのはどちらが重大かね」

陳元方(陳紀)は十一歳の時に袁公(袁宏)に伺候した。
袁公は問うて言った。
「賢家君(陳紀の父である陳寔のこと)が太丘におられたとき、遠近の人々はこれを称賛した。それは何をなさったからなのか」
「老父は太丘にいて強者を安んじるには徳をもってし、弱者を慰撫するのに仁をもってし、皆が満足するようにいたしました。時がたつと、ますます敬愛されました」
「私はかつて鄴の令であった時に、まさにその通りにした。あなたの父君が私に倣ったのか、私があなたの父君に倣ったのか」
「周公・孔子はそれぞれ別々の時代に生まれましたがその行動は常にどこでも同じでした。周公は孔子を師としたわけではなく、孔子もまた周公を師としたわけではありません」

賀太傅(賀邵)は呉郡太守となり、初めは門から出なかった。
呉の豪族達は賀邵を軽んじ、府門に「会稽の鷄は啼くことが出来ない」と書いた。
賀邵はこれを聞いて、出て行き、門までやってくると顧みて、筆を求めてこれに足して言った。
「啼いてならない。呉児を殺すだろう」
ここにおいて各地の屯所に行き、顧氏、陸氏の者達が官兵を私用し、逃亡者を匿っている事を調べ上げ、悉く報告した。
罰せられた者は甚だ多かった。
陸抗はこの時、江陵都督だったが、長江を下って都まで行き、孫晧に請うたので、後にゆるされることとなった。

山公(山濤)は器として重んじられ、朝廷の信望があったので七十歳をこえてもなお、投じの重任をになっていた。
貴族の年少である和嶠、裴楷、王済等のような者は皆共に宗詠した。
閣柱に落書きする者があってこう書いてあった。
「閣東に大牛がいる。和嶠は鞅し、裴楷は鞦し、王済は剔嬲し、休む事が出来ない」
一説によると、これは藩尼がこれを書いたといわれる。

賈充は初めて律令を定め、羊祜とともに太傅の鄭沖と相談した。
鄭沖は言った。
「皐陶のような厳明な主旨に関しては、僕は闇懦であるからわからないよ」
羊祜は言った。
「陛下はすこし緩くするようにとのことです」
すると鄭沖は簡単に意見を述べた。

山司徒(山濤)の人選はほぼ全ての官職におよび、間違いが無かった。
だいたいの人物批評はその通りであった。
ただ陸亮の登用だけは詔があったからで、山濤の意見とは異なる。
論争したが聞いてもらえなかった。
陸亮は後に賄賂のために罷免された。

嵆康が誅殺された後、山公は嵆康の子の嵆紹を推挙して秘書丞にした。
嵆紹は山濤に出処進退を問うた。
山濤は言った。
「君がためにこのことを思うこと久しい。天地四時にすら移り変わりが有る。いわんや人においてをや」

■第四   文学篇(学問に優れた人物の話)

鄭玄は馬融の門下にあって、三年間まみえることが出来なかった。
高弟が学問を伝授してくれるだけであった。
かつて渾天を計算して合わなかった。
弟子達の中でも解答できる者はいなかった。
ある人が言った。
「鄭玄ならできるんじゃないか」
そこで馬融は鄭玄を召して計算させると、一転してすぐに解決した。
そこにいた人々は皆感服した。
鄭玄は学業を成して帰ることとなって、馬融は禮樂が皆東へいくのを嘆いた。
また鄭玄がその道で名をほしいままにするのを恐れ内心妬んだ。
鄭玄も追っ手が来るのではないかと疑って、橋の下に座り水上で木製のはきものによっていた。
果たして馬融は式を転じて鄭玄を追おうとして、左右に告げて言った。
「鄭玄は土の下、水の上にあって木によっている。これは必ず死んでいるだろう」
そして追うことをやめた。
鄭玄は遂に免れた。

鄭玄は春秋傳の注釈をしようとして、まだ出来てなかった。
ある時、旅に出て服子愼(服虔)と客舎に同宿したが、互いにそれまで面識が無かった。
服子愼は外にいて車上で人に自分が傳を注釈した主意を説いていた。
鄭玄はこれを長い事聴いていたが、多くは自分と同じであった。
鄭玄は車によっていって共に語って言った。
「私はながいこと注釈しようと思っているのですが、まだおわりません。貴方の言葉を聴くと多くは私と同じです。私が注釈したものを悉く差し上げる」
そして服子愼の注釈ということになった。

鄭玄の家の奴婢は皆読書をした。
かつて一人の婢を使ったが、旨にかなわなかった。
そこでこの婢を鞭打とうとすると、婢は自ら申し開きをしようとした。
鄭玄は怒り、人を使って泥の中に引き据えさせた。
しばらくすると、別の婢がやってきてこの婢に問うて言った。
「胡をか泥仲に為す(詩経衛風)」
答えて言った。
「薄か言往きて愬ふれば、彼の怒りに逢う(詩経衛邶風)」

服虔は春秋に習熟していた。
注釈をつくろうとして同異を参考しようと思った。
崔烈が門下生を集めて傳を講義するのを聞いて、姓名を匿して雇われ崔烈の門下生の食事係となった。
いつも講義の時間になると密かに戸壁に隠れて聴いた。
そして自分はこえることが出来ないとわかり、門下生達と善し悪しを議論した。
崔烈はこれを聞いてどういう人間であるかわからなかった。
しかし前々から服虔の名前を聞いていたので、彼ではないかと疑った。
翌日の早朝に行って、まだ服虔が起きていなかったので、呼んだ。
「子愼、子愼」
服虔はおもわず返事をしてしまった。
そこでともに親しき友となった。

鍾會は四本論を撰し始め畢えた。
そして嵆康に読んでもらいたいと思い、ふところに入れていたが、嵆康に会うと、批判されるのを畏れ敢えて出さなかった。
戸外から遠く投げ入れ、どうなったかをみないで急に走った(帰った)。

何晏は吏部尚書となって、位望があった。
時に談客が座に盈ちていた。
王弼はまだ弱冠にもなっていなかったが出向いてまみえた。
何晏は王弼の名前を聞いて向者の勝れた理論をあげて王弼に言った。
「この理は僕には至極にあるとおもうのだが、反論できる余地はあるだろうか」
王弼がすぐに反論すると一座にいた人々は屈したと思った。
ここにおいて王弼自ら数回客主となったが一座の者は皆王弼に及ばなかった。

何平叔(何晏)は老子の注釈をなして出来上がると、王輔嗣(王弼)にのところに出向いた。
王弼の意見が精妙なのを見て神服して言った。
「このような人こそ、ともに天と人の関係を論じるべきだ」
そして注釈をもとに道徳二論をなした。

王輔嗣(王弼)は弱冠の時、裴徽をたずねた。
裴徽は問うて言った。
「無は誠に万物のもとであり、聖人はあえて言うことが無かったが、老子がこれを述べてやまないのはどうしてなのか」
王弼は言った。
「聖人は無を体得していますが、無は説明する事が出来ず、それゆえ必ず有に及びます。老荘はいまだに有を免れない。だからいつもその足りないところを説いたのです」

傅嘏は善く虚勝を言い、荀粲は談に玄遠をこのんだ。
いつも共に語り、争ってそれぞれさとることができないことがあれば、裴冀州(裴徽)は二人の論旨を明らかにして彼我の考えを疎通させ、いつも両方の気持ちを満足させ、両方が拘る事が無いようにした。

何晏は老子を注釈してまだおわらなかった。
王弼と会うと、王弼は自分の老子注の主旨を説いた。
何晏の意見はよくないところが多かった。
なので何晏は何も言わずただうなずくだけであった。
そして遂にまた注を作る事はせず、道徳論を作った。

中朝(西晋)の時、道家思想が流行った。
王夷甫(王衍)をたずねて疑問を問う者がいた。
たまたま王衍は昨日すでに多くを語っており、やや疲れており、答えなかった。
そして客に言った。
「今は体調が悪い。裴逸民(裴頠)もまた近くに住んでいるから、君はそっちへ行って聞いてくれ」

裴成公(裴頠)は崇有論を作り、時の人はこれを攻難したが、だれも論破できなかった。
ただ王衍が来ると、やや屈した。
そこで時の人が王衍の理論で反論してみると、裴頠の理論はますます冴え渡った。

諸葛宏は若いころ学問をしようとしなかった。
はじめ王夷甫(王衍)と談じると、すでに超詣していた。
王衍は歎息して言った。
「あなたは天才で傑出している。またすこし研鑽すれば、一つも愧じる所はなくなるだろう」
諸葛宏は後に荘老を看て、それから王衍と語れば互いに拮抗していた。

旧にいう。
王丞相(王導)は江左によってからは、聲無哀樂、養生、言盡意の三論を語るだけであった。
しかし自在に展開して、対処できない事は無かった。

■第五   方正篇(己の信じる義を貫いた人物の話)

陳太丘(陳寔)は友人と約束していた。
日中(正午)にと約束していたが、正午を過ぎても友人はやって来なかった。
陳寔は放って出かけた。
出かけた後友人がやって来た。
元方(陳紀)はこの時七歳で、門の外で遊んでいた。
客は陳紀に尋ねた。
「尊君はいるかい」
「長い事貴方を持ってましたが、来ないので行ってしまいました」
すると友人は怒って言った。
「人でなしが。一緒に行くと約束したのに一人で行くなんて」
陳紀は言った。
「貴方は家君と正午と約束されました。正午になっても来ないのは信がありません。子に対してその父を罵るのは禮がありません」
友人は慙じて車を降りて呼び寄せた。
しかし陳紀は門の中に入って顧みなかった。

南陽の宗世林(宗承)は魏武(曹操)と同時代の人だった。
曹操のひととなりを軽んじ、交友しようとしなかった。
曹操が司空となり、朝政を統べるようになって、従容として宗承に問うた。
「交友を結んでくれますか」
「松柏の志はまだ存在します(最初の気持ちはまだ失っていません)」
宗承は曹操の意にさからったので疎んぜられその位は徳にあっていなかった。
文帝(曹丕)の兄弟は、宗承の家を訪ねるたびに、皆牀の下で獨拝した。
その尊敬されようは、こんな感じだった。

文帝が禅譲を受けると陳羣は憂えた表情をしていた。
帝は陳羣に問うた。
「朕は天に応じて命を受けた。貴方はどうしてそんな顔をしているのか」
「私と華歆はともに先朝に仕えておりました。今、聖化をよろこんでおりますが、先朝への義理が顔にでているのです」

郭淮は關中都督となって、甚だ民情を得て、またしばしば戦功をあげた
郭淮の妻は太尉である王淩の妹で、王淩の事件に連座してともに誅殺されることとなった。
使者の徴発はとても急なことだった。
郭淮は支度をさせ、日を決めて出発させることにした。
州府の文武官および百姓は、郭淮に兵を挙げることを勧めたが郭淮は許さなかった。
期日になり郭淮は妻を遣わした。
百姓は号泣し郭淮の妻を呼ぶ者は数万人に及んだ。
数十里行くと、郭淮は左右の者に命じ夫人を追いかけていって連れ戻させた。
すると文武官は駆け出し、自身の危急にしたがうようであった。
帰ってくると、宣帝(司馬懿)に手紙を書いた。
「私の五人の子が哀戀して母親を慕っております。その母が死ねば五人の子は生きていないでしょう。五人の子がもし死ねば私もまた生きていないでしょう」
司馬懿は上表して特別に郭淮の妻を連座させないようにした。

諸葛亮が渭水のほとりに侵出すると、關中は震動した。
魏の明帝(曹叡)は深く晋の宣王(司馬懿)が戦う事を懼れ、辛毗を遣わして軍司馬とした。
司馬懿はすでに諸葛亮と渭水を挟んで陣を構え、諸葛亮が誘い出そうとした挑発はあらゆる種類のものだった。
司馬懿は果たして大いに怒り、重兵をもって応戦しようとした。
諸葛亮が間諜を放って敵陣を覗わせた。
間諜が帰還して報告した。
「老人が一人いて、毅然として黄鉞をもって軍門に立っておりました(だから敵は出陣できません)」
諸葛亮は言った。
「それは辛佐治(辛毗)に違いない」

夏侯玄はすでに枷をはめられ、この時鍾毓は廷尉だった。
鍾會は今までに夏侯玄と面識が無かったので、この状態をかさにきて狎れた態度をとった。
夏侯玄を言った。
「刑余の身といえども敢えて命を聞かず」
拷問されたが初めから一言も発する事無く、東市で処刑される時も、顔色を変える事はなかった。

夏侯泰初(夏侯玄)は廣陵の陳本と仲が善かった。
陳本と夏侯玄は陳本の母(陳矯の妻)の前で酒宴をした。
陳本の弟の陳騫が帰ってきた。
すぐに堂戸までやってきた。
夏侯玄はたって言った。
「同席しても良いが、乱してはいけない」

高貴郷公(曹髦)が亡くなり、内外は喧騒とした。
司馬文王(司馬昭)は侍中の陳泰に問うて言った。
「どうやってこれを静めようか」
陳泰は言った。
「賈充を殺して天下に謝罪するしかありません」
司馬昭は言った。
「それ以下のほかの方法はないだろうか」
陳泰はこたえて言った。
「これ以上はありますが、これ以下はありません」

和嶠は武帝(司馬炎)の親重されるところとなった。
和嶠に語って言った。
「東宮(皇太子の司馬衷)はこの頃さらに成長したようだが。卿は試しに行って見てきなさい」
和嶠が還ってきたので問うた。
「どうだったかね」
答えて言った
「皇太子の聖質は初めと同じです」

諸葛靚は後に晋に入り、大司馬に任命され、召されたが出仕しなかった。
晋室に讎があるので、いつも洛水に背を向けて座っていた。
武帝(司馬炎)と旧交があり、司馬炎は会いたいと思ったが、方法がなかった。
そこで、諸葛妃(諸葛靚の娘)に請うて、諸葛靚を呼ばせた。
諸葛靚がやって来ると、司馬炎は太妃のところへ行き相対した。
禮がおわり、酒がたけなわになって司馬炎は言った。
「貴方は竹馬の好を憶えているかな」
諸葛靚は言った。
「私は炭を呑み、身に漆を塗る事はできない(豫譲の故事)。今日またご尊顔を拝見ました」
そしてとめどなく涙を流した。
司馬炎は慙悔して退出した。

武帝は和嶠に語って言った。
「私は先ず、王武子(王済)を痛罵し、それから彼に爵位を与えようと思う」
和嶠は言った。
「王済は儁爽です。おそらく屈することはないでしょう」
司馬炎は王済を召し叱責して言った。
「愧を知るか」
王済は言った。
「尺布斗粟の謡、いつも陛下のために恥じております。他人を疎遠でも親密になれますが、私は親密な者を疎遠にできません。このようなことから陛下に愧じております」

杜預は荊州へ赴任することとなり、七里橋にとどまって、朝士はことごとく送別した。
杜預は若いころ賤しく、豪侠を好み、認められなかった。
楊済はすでに名族の雄俊だったので堪えられず座につかず去った。
しばらくして和長輿(和嶠)がやって来て楊右衛(楊済)がどこにいるか問うた。
客が言った。
「さきほど座することもなく、去りましたよ」
和嶠は言った。
「必ずや大夏門の下で馬を乗り回しているだろう」
大夏門に行ってみると、果たして大いに騎兵の閲兵をしていた。
和嶠は抱きかかえて車に乗せ、一緒に返って、初めのように座った。

杜預が鎮南将軍を拝命すると、朝士は悉くやってきて皆連榻(長椅子)に座った。
この時、裴叔則(裴楷)もいた。
羊穉舒(羊琇)は遅れてやって来て言った。
「杜元凱は長椅子に客を座らせるのか」
そして座ることなく立ち去った。
杜預は裴楷に頼み羊琇を追ってもらった。
羊琇は数里進んでから馬を止め、一緒に杜預のところへ戻った。

晋の武帝の時、荀勗は中書監となり、和嶠は令となった。
故事に監と令は車を共にする。
和嶠は雅正な性格で、いつも荀勗の諂諛をにくんでいた。
後に公車がくると和嶠を乗って、正面に座り、荀勗を乗せなかった。
荀勗は別に車をもとめ、やっと行くことができた。
監と令に各々別の車を支給するのは、このことから始まった。

山公(山濤)の長男は背が低く丸帽をつけて、車中でよりかかっていた。
武帝はこれを見たいと思った。
山濤は敢えてことわる事が出来ず、子に聞いた。
子は行くことを承知しなかった。
時の評判は次のようだった。
「山濤に勝っている」

■第六   雅量篇(度量の広い人物の話)

豫章太守の顧邵は顧雍の子である。
顧邵は豫章郡で亡くなった。
顧雍は僚属を集めて碁盤を囲んでいた。
外から知らせが来たことを告げられ、子の手紙が無かった。
顔色が変わらなかったが、心中は顧邵が亡くなったことを察し、爪が掌を刺して、血が流れ褥をうるおした。
賓客は散会すると、はじめて歎息して言った。
「延陵(季札)のような高い心は無い。なのに涙で目を潰すような責を受けるわけにはいかない」
ここにおいて情をひろやかにし、哀しみを散じて、顔色は自若とした。

嵆中散(嵆康)は東市で処刑に臨み、顔色は変わらなかった。
琴を求め、これを弾き、廣陵散を演奏した。
曲が終わって言った。
「袁考尼(袁準)がかつてこの散を学びたいと請うたが、私は靳固してまだ教えていない。廣陵散は今絶える」
太学生三千人が書を奉り、師としたいと請うたが、許されなかった。
文王(司馬昭)もまた後に後悔した。

夏侯太初(夏侯玄)はかつて柱によって手紙を書いた。
この時大雨が降り、霹靂が夏侯玄のよっていた柱を破った。
衣服が焦げたが、顔色を変わらず、書くことも何もなかったようにやめなかった。
賓客左右は皆うろたえ落ち着くものはいなかった。

王戎は七歳の時、子供等と遊び、道端の李の樹が、実を多くつけ枝がしなっているのを看た。
子供等は争ってこれを取ったが、ただ王戎だけは動かなかった。
人が王戎にどうしてか問うと、答えて言った。
「樹は道端にあって、実はたわわです。これは必ず苦い李のはず」
取ってみるとその通りであった。

魏の明帝は宣武場の上で虎の爪牙を断ち、百姓がこれを見ることをゆるした。
王戎は七歳であったが、行って看た。
虎は隙をみて檻に攀じ登り吼え、その声は地を震わせた。
見ていた者達であとずさり倒れ臥さない者はいなかった。
王戎は湛然として動じることなく、少しも恐れる色がなかった。

王戎が侍中だった時、南郡太守の劉肇は筒中の箋布五端を王戎に贈った。
王戎は受け取らなかったが、厚く返書した。

裴叔則(裴楷)はとらえられても、顔色が変わることなく、挙止は自若としていた。
紙筆を求めて遺書を書いた。
遺書が出来上がったが、助命嘆願者は多かった。
なので免れ、後に儀同三司となった。

■第七   識鑒篇(シキカン、知識、判断力に優れた人物の話)

曹公(曹操)は若い時、橋玄にまみえた。
橋玄は言った。
「天下はまさに乱れ。群雄は虎争している。これを治めるのは君に違いない。しかし君は乱世の英雄にして、治世の姦賊である。恨むべくは、私は老いていることだ。君の富貴をみることは適わないだろう。なので子孫をよろしく頼みます」

曹公は裴潜に問うて言った。
「貴方は昔、劉備と共に荊州にいた。貴方は劉備の才をどう思われるか」
裴潜は言った。
「中国にいれば能く人を乱すでしょうが、治める事はできません。もし辺境に拠って険峻の地を守れば、一方の守となることは出来るでしょう」

何晏、鄧颺、夏侯玄は皆傅嘏に交友を求めたが、傅嘏は遂に許さなかった。
諸人は荀粲に頼んで説いてもらおうとした。
荀粲は傅嘏に言った。
「夏侯太初(夏侯玄)は当代の傑士であなたのために心を虚しくしてます。なのに貴方の意中は交友しようと思っていません。交友がなれば好が出来、交友しなければ溝がができます。二賢がむつまじければ、国の幸いです。これは藺相如が廉頗に下ったのとおなじことです」
傅嘏は言った。
「夏侯太初は志は大きいいが心労多く、よく虚名を得ている。誠にいわゆる利口覆国の人である。何晏、鄧颺は能力はあるが、さわがしく、博識であるが、要領を得ず、外では利を好んで内ではだらしが無い。仲間を貴ぶが、異なる者はにくみ、言葉は多く自分以上の者を嫉妬する。言葉が多ければ諍いは多く、自分以上の者を嫉妬すれば親しむ人はいない。私が彼等を見る限り、、この三賢といわれている者達は、皆背徳の人にすぎない。彼等を遠ざけても禍に巻き込まれまいかと恐れるのに、いわんやこれを親しもうとは」
後に皆言ったとおりになった。

晋の武帝(司馬炎)は宣武場で閲兵を行った。
帝は武をふせて文を修めようと思い、自ら親しく臨幸して群臣を悉く召した。
山公(山濤)はいけないと思い、尚書等と孫呉の用兵の本意を言い、議論を究めた。
座をあげて感嘆しない者はいなかった。
皆言った。
「山少傅は天下の名言だ」
後に諸王は驕り軽々しく禍難をひきおこした。
ここにおいて寇盗が諸所に蟻の様に蜂起し、郡国は備えが無く、制圧する事が出来ず、寇盗の勢いは盛んになった。
皆山濤の言うとおりであった。
時の人は思った。
「山濤は孫呉の兵法を学ばなかったが、闇にこれを理解していた」と
王夷甫(王衍)も歎息して言った。
「公(山濤)は闇に道と合していた」

王夷甫(王衍)の父の王乂は平北将軍であった。
公の事が有って、使者を派遣して論じさせたが、埒があかなかった。
この時王衍は京師にいた。
車を用意させ、僕射の羊祜、尚書の山濤にまみえた。
王衍はこの時少年であったが、容姿才能は抜きん出ており、話は明快で、内容に理があった。
山濤はこれを奇として王衍が退いても後姿を見続けた。
そして歎息して言った。
「子を持つなら王夷甫のようでなければな」
羊祜は言った。
「天下を乱すのは必ずこの子だろう」

■第八   賞誉篇(厳正に公平に人を褒め称えた人物評)

陳仲挙(陳蕃)はかつて歎息して言った。
「周子居(周乗)のような者は、眞に国を治める器である。これを宝剣に譬えるなら干将である」

世間では李元禮を次のように評した。
「謖謖としてつよい松の下の風のようだ。」

謝子微(謝甄)は許子将兄弟(許靖、許劭)を見て言った。
「平輿の淵に二龍あり」
弱冠のころの許子政(許虔)を見て歎息して言った。
「許子政のような者は幹国の器である。色を正して直言するのは陳仲許のあしである。悪を伐ち不肖を斥けるのは范孟博(范滂)のようである」

公孫度は邴原を評した。
「いわゆる雲中の白鶴である。燕雀の網で捕らえられているものではない」

鍾士季(鍾會)は王安豐(王戎)を評して言った。
「阿戎は了了人の意を解する」
また言った。
「裴公(裴楷)の談は日を経てもつきない」
吏部郎に欠員ができたので、文帝(司馬昭)は鍾會に誰を用いるべきか問うた。
鍾會は言った。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
ここにおいて裴楷が用いられた。

王濬沖(王戎)、裴叔則(裴楷)の二人は、成人前に鍾士季を訪ねた。
しばらくして去った後、客が鍾會に問うた。
「さっきの二童はどうですか」
鍾會は言った。
「裴楷は清通、王戎は簡要である。二十年後この二人は吏部尚書となるだろう。こいねがわくばその時天下に埋もれている才がないように」

ことわざにいう。
「後来の領袖に裴秀有り」

裴令公(裴楷)は夏侯太初(夏侯玄)を評して言った。
「粛粛として廊廟の中へ入るように敬を修めなくとも、人は自ずから尊敬する」
あるいはこう言った。
「宗廟に入るに琅琅としてただ樂禮の器を見るようだ。鍾士季を見れば武庫に入ってただ矛戟を見るようだ。傅蘭碩(傅嘏)を見ればおおきく備わらないものは無いようだ。山巨源(山濤)を見れば、山に登って下を望んで幽然として深淵であるようだ」

羊公(羊祜)が洛陽に帰還すると郭奕(郭嘉の子ではない)は野王の令であった。
羊祜が県境に達すると、人をやってむかえさせた。
そして郭奕はすぐに自ら行った。
そして会って歎息して言った。
「羊叔子(羊祜)はどうして郭太業(郭奕つまり自分自身)よりも劣ろうか」
また羊祜のもとへ行きしばらくして帰り、また歎息して言った。
「羊叔子は人よりはるか遠くへ行っている」
羊祜が去ると、郭奕は数日見送り数百里も行ってしまった。
県境から出てしまった罪で免官された。
また歎息して言った。
「羊叔子はどうして顔子(顔回)に劣るだろうか」

王戎は山巨源(山濤)を評した。
「璞玉渾金の如し。人は皆その寶として欽ぶが、その器をなんと呼んで良いかわからない」

羊長和(羊忱)の父の羊繇は太傅の羊祜の従兄弟で仲が善かった。
出仕して車騎掾に至ったが、早くに亡くなった。
羊忱の兄弟五人は、幼くして孤児となった。
羊祜は弔問にきて哭し、羊忱の哀しみ方、挙止を見て、歎息して言った。
「従兄は死んではおらぬ」

山公(山濤)は阮咸を推挙して吏部郎にしようとして評して言った。
「清眞寡欲にして、万物でも心を動かす事は出来ない」

王戎は阮文業(阮武)を評した。
「清倫でいて鑒識が有る。漢のはじめからこのような人はいなかった」

武元夏(武陔)は、裴楷と王戎を評して言った。
「王戎は約をとうとび、裴楷は清通である」

庾子崇は和嶠を次のように評した。
「森森として千丈の松のようで、磊砢として節目有りといえども、これを大邸につかえば、棟梁のはたらきをするであろう」

王戎は言った。
「太尉(王衍)は神姿高徹、瑤林瓊樹のようだ。自然、これは風塵の外の物である」

■第九   品藻篇(品格や才能にあふれた人物の話)

汝南の陳仲擧(陳蕃)、潁川の李元禮(李膺)の二人は、(人々は)共にその功徳を論じたが、優劣を定めることは出来なかった。
蔡伯喈(蔡邕)は彼等を評して言った。
「陳仲擧は上を犯す(直言する)に強く、李元禮は下をおさむるに厳し。上を犯すのは難しく、下をおさめるのは易い」
そこで陳蕃は三君の下に、李膺は八俊の上に位置した。

龐士元(龐統)が呉に行くと、呉人は皆彼を友とした。
龐統は陸績、顧邵、全琮を見て評して言った。
「陸子はいわゆる駑馬だが足が速い。顧子は駑牛であるが重い物を背負い遠くへいける」
ある人が問うた。
「あなたの評価では陸績の方が勝っていると言う事ですか」
「駑馬は足が速いといっても一人を運べるだけだ。駑牛は一日に百里しか行けないが、運べるのは一人だけではない」
呉人は誰も反論しなかった。
さらに言った。
「全子が名声を好むのは、汝南の樊子昭に似ている」

顧邵はかつて龐統と夜通し語り合い、問うて言った。
「貴方は人を知ると聞いております。私と貴方ではどちらが勝っているでしょうか」
「世俗を教化し、時流に合わせて身を処すのは私は貴方に適いません。王覇の余策を論じ、倚伏の要害をみるのには私に一日の長があるでしょう」
顧邵もその言葉に納得した。

諸葛瑾、弟の亮および従弟の誕はともに盛名があり、それぞれ別の国に仕えていた。
当時こう評された。
蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た。
諸葛誕は魏に仕え、夏侯玄と名声を斉しくし、諸葛瑾は呉に仕え、呉の朝廷はそのひろい度量に感服した。

司馬文王(司馬昭)は武陔に問うた。
「陳玄伯(陳泰)は父の司空(陳羣)と比べてどうだろうか」
「通雅博暢、天下の風教を自らの任とするのには父に及びませんが、明練簡至、功を立て事を行うことにかけては父に勝ります」

正始年間に人士を比較論評し五荀を五陳とくらべた。
荀淑を陳寔とくらべ、荀靖を陳諶とくらべ、荀爽を陳紀とくらべ、荀彧を陳羣とくらべ、荀顗を陳泰とくらべた。
また八裴を八王とくらべた。
裴徽を王祥とくらべ、裴楷を王夷甫とくらべ、裴康を王緌とくらべ、裴綽を王澄とくらべ、裴瓚を王敦とくらべ、裴遐を王導とくらべ、裴頠を王戎とくらべ、裴邈を王玄とくらべた。

■第十   規箴篇(人物の良し悪しの判断に優れた人物の話)

漢の武帝の乳母が外で罪を犯した。
帝は法に則って処刑しようとし、乳母は救いを東方朔に求めた。
東方朔は言った。
「これは言葉ではどうしようもありませんね。貴方がどうしてもたすかりたいと思うのなら、陛下の前から去るときに、しばしば陛下を顧みなさい。間違っても何か言ってはいけません。これが万に一つの助かる方法です」
乳母が帝の前にやってきた。
東方朔は帝の側に侍っており、言った。
「お前は癡であるだけだ。陛下がどうしてお前に乳を貰った恩を憶えているだろうか」
帝は才雄で非情な人ではあるが、極めて情に脆いところがあった。
なので不憫に思い、勅を発して罪をゆるした。

京房は漢の元帝と共に論じ、帝に問うた。
「(周の)幽王、厲王はどうして亡んだのでしょうか。彼等が任用したのはどういった人間でしょうか」
「任用した者が忠臣でなかったのだ」
「忠臣でないと知って任用したのはどうしてでしょうか」
「亡国の君は臣下が賢臣だと思っている。忠臣でないと知っていたらどうして用いたであろうか」
ここで京房は稽首して言った。
「今、古の事を顧みているように、後世の者が今を見ることがないようにと思われます」

陳元方(陳紀)は父の喪に遭い、哭泣哀慟し、体は痩せ細った。
陳紀の母がこれをあわれみ、密かに錦のふとんをかけてやった。
郭林宗(郭泰)は弔問に訪れ、これを見て、言った。
「貴方は海内の儁才で四方は手本としている。なのに喪にあたって錦のふとんをかぶっているのはどういうことか。孔子曰く『夫の錦を衣て夫の稲を食う、汝に於いて安きか』と。私は納得できない」
言い終わると衣を払って立ち去った。
この後、百日ほど客は来なかった。

孫休は雉を射るのが好きだった。
季節になると、早朝から出かけ、夕刻にかえった。
群臣でやめるよう諫めない者はいなかった。
「雉はつまらないものです。どうしてそれに耽るに足りましょうや」
孫休は言った。
「つまらないものといえども節操の堅さは人に勝っている。朕が好むのはそういうことだ」

孫晧は丞相の陸凱に問うて言った。
「貴方の宗族で朝廷にいるのは何人かね」
「二相、五侯、将軍十余人です」
「盛んであるな」
「君主が賢で臣が忠であるのは国が盛んであることです。父が慈で子が孝であるのは家が盛んです。今は政治が荒れ民は疲れ、国家の転覆を懼れています。私がどうして盛んといえるでしょうか」

何晏と鄧颺は管輅に卦を作らせて(占わせて)言った。
「位は三公に至るであろうか」
卦が出ると管輅は古義をひいて深く二人を戒めた。
鄧颺は言った。
「これは老生の常談(口癖)だよ」
何晏は言った。
「幾を知るは其れ神か(物事のかすかな現れを知るのは神妙である)、古人も難しいとしている。交わりが疎いのに誠を言うのは今の人には難しい。今、貴方は一度会っただけで二つの難しいことをしてくれ、明徳惟れ馨しというところだ。詩(経)にも言うではないか、中心之を蔵す、何れの日にか之を忘れん(この思いを心に抱きいつか忘れなさい)と」

晋の武帝(司馬炎)は太子(司馬衷)の愚昧さを悟らず、必ず位を継がせたいと思っていた。
諸名臣もまた多く直言した。
帝がかつて陵雲臺に座っていた。
衛瓘が側にいてその懐の内をのべようと思い、酔ったふりをして帝の前に跪き、手で牀を撫でながら言った。
「この座を惜しみます」
帝は悟ったが、笑って言った。
「公は酔っておるな」

■第十一  捷悟篇(問題に対する対応力に優れた人物の話)

楊徳祖(楊脩)は魏武(曹操)の主簿だった。
時に相国府の門を作り、始めて榱桷を構えた。
曹操自らやってきてこれを見て、人を遣って門に活の字を書かせ去っていった。
楊脩はこれを見ると即刻門を壊させ、壊し終わると言った。
「門の中に活といえば闊の字だ。王(魏王の曹操)は門が大きいことを嫌ったのだ」

ある人が、曹操に一盃の酪を贈った。
曹操は少し飲むと、蓋の上に合の字を書いてそこにいた人々に示した。
人々は理解する事が出来なかった。
楊脩のところにまわってきた。
楊脩はのんで言った。
「公(曹公つまり曹操)は皆に一口ずつ飲ませようとなさっておいでだ。ためらうことはない」

魏武はかつて曹娥碑のもとを通った。
楊脩が従っていた。
碑の背上に「黄絹、幼婦、外孫、韲臼」の八字が書いてあるのが見えた。
曹操は楊脩に言った。
「わかるか」
楊脩は言った。
「わかります」
曹操は言った。
「貴方はまだ答えを言ってはいけない。私が解くまで待て」
三十里すすむと曹操は言った。
「私もわかった」
そして楊脩に別に解答を記させた。
楊脩は言った。
「黄絹は色絲でこれは絶の字です。幼婦は少女、少女は妙の字です。外孫は女子、女子は好の字です。韲臼は辛を受けます、辛を受けるのは辤の字です。いわゆる絶妙好辞です」
曹操が記したのも楊脩と同じであった。
そして嘆息して言った。
「私の才が貴方に及ばないのは、すなわち三十里であることがわかった」

魏武は袁本初を征伐しようとして、軍装を整えさせると、数十斛の竹片が余った。
すべて長さは数寸。
皆は「役にたたない」と言った。
そして焼却処分すようとした。
太祖(曹操)はこれの使い道を考え、思った。
「竹椑楯をつくれば良い」
しかしまだそのことは言わずに使者をやって主簿の楊脩に問うた。
楊脩がすぐに答えると曹操と同じ考えであった。
人々はその辮悟に感服した。

■第十二  夙恵篇(大人顔負けの教養を持った子供の話)

賓客が陳太丘(陳寔)のもとを訪れ泊まった。
陳寔は元方(陳紀)、季方(陳諶)に飯を炊かせた。
客は陳寔と議論した。
二人は火を燃やしたまま、ともに放ったらかしにして密かに(陳寔と客の議論を)聴き、飯を炊くのを忘れ飯は釜の中に落ちてしまった。
陳寔は問うた。
「飯を炊いてどうして蒸かしてないのだ」
陳紀と陳諶は長跪して言った。
「父上は客と語っておりました。なのでともにひそかに聴いて、簀を忘れてしまい、飯は今粥となってしまいました」
陳寔は言った。
「お前たちはさっきの話を理解できたのか」
「髣髴とおぼえております」
二人の子はともに説き、たがいに言い、少しの違いもなかった。
陳寔は言った。
「このようであれば粥でも良い。いや必ずしも飯である必要もない」

何晏は七歳で、聡明なさまは神のようであった。
魏武(曹操)は奇として何晏を愛し、何晏が宮廷内にいるので養子にしようとした。
何晏は地面に方形を書いてその中に身を置いた。
人がその理由を聞くと、答えて言った。
「何氏の廬だよ」
曹操はこのことを知って、帰らせた。

■第十三  豪爽篇(豪快でさわやかなすっきりした性格を持った人物の話)

王大将軍(王敦)が年少の時、田舎と呼ばれ、言葉にも訛があった。
武帝(司馬炎)は投じの賢人を召喚し共に技藝のことを話し、皆多くを知っていたが、ただ王敦だけは関するものが無く、顔色はとても悪かった。
そして自ら「鼓吹を打つ術はしっている」と言った。
帝が鼓をとって与えると、座から袖を振るって立ち、ばちを揚げて奮撃した。
音は軽快で、気迫は豪上し、傍らに人がいないようであった。
座の人々は挙って雄爽さに歎息した。

王處仲(王敦)は世間に高尚であると目されていた。
かつて色の溺れ、体がこのために弱ってしまった。
左右はこれを諫めた。
王敦は言った。
「私は気づかなかった。このようなのは(解決する事は)容易いことだ」
すなわち、後閤を開き、諸婢、妾数十人を駆りたて路にだし、それぞれの行きたいところへ行かせた。
時の人はこのことに感嘆した。

王大将軍は自らを評した。
「高朗疎率で学は左氏に通じている」

王處仲は酒を飲むたびに、いつも詠った。
「老驥櫪に伏すも、志は千里に在り、烈士莫年、壮心已まず」
如意で唾壺をたたいて、壺口はことごとく欠けてしまった。

■第十四  容止篇(美男子の話)

魏武(曹操)は匈奴の使者と会見しようとしていた。
自分は容姿は陋しく、遠国を圧するには足りないと思った。
崔季珪(崔琰)を身代わりにして、自分は刀を持って牀頭に立っていた。
会見が終わって間諜に次のように問わせた。
「魏王はどうでしたか」と。
匈奴の使者は答えて言った。
「魏王は雅望は普通ではありません。しかしながら牀頭で刀を持っていた人、彼は英雄です」
曹操はこれを聞いて、追ってこの使者を殺させた。

何平叔(何晏)じゃ容姿うるわしく、顔はとても白かった。
魏の明帝(曹叡)は白粉をつけているのではないかと疑い、真夏に熱いうどんを与えた。
食べ終わると大汗をかいて朱衣で自ら拭うと、顔の色は白くかがやいた。

魏の明帝は皇后の弟の毛曾を夏侯玄と一緒に座らせた。
時の人は言った。
「葦が玉樹によりかかっている」

時の人が批評して言った。
夏侯太初(夏侯玄)は朗朗として日月をふところに入れているようだ。
李安國は頽唐として玉山が崩れようとしているかのようだ。

嵆康は身の丈七尺八寸、風姿は特に秀でていた。
彼を見た者は歎息して言った。
「蕭蕭粛粛として、爽朗清挙である」
ある人は言った。
「粛粛として松の下の風が高く吹きわたるようだ」
山公(山濤)は言った。
「嵆叔夜(嵆康)のひととなりは、巖巖として一本松が独立しているようなものだ。それが酔うと傀俄として玉山が崩れようとするようだ」

裴令公(裴楷)は王安豊(王戎)を次のように評した。
眼は爛爛として巖下のいなずまのようだ。

■第十五  自新篇(過去の過ちを己が力で正した人物の話)

周處が年少の時、兇彊侠氣で、郷里の人々の憂えるところであった。
また義興の水中に蛟がいて、山中には獰猛な虎がいて、百姓を暴犯した。
義興の人達は三横としたが周處の害が最も激しかった。
ある人が周處を説いて虎を殺し蛟を斬らせようとした。
実は三横のうち一つだけを残そうとしたのであった。
周處は虎を刺殺し、また水に入って蛟を撃った。
蛟は浮いたり沈んだりして行く事数十里になり、周處はこれを追っていき三日三晩経った。
郷里では(三横が)皆死んだと思いこもごも慶びあった。
周處は遂に蛟を殺し帰ってくると里人が慶びあっているのを聞き、はじめて人の憂えるところとなっていることを知って、自ら改めようと思った。
すなわち呉へ行き二陸を尋ねた。
平原(陸機)は不在だったので、清河(陸雲)にまみえてつぶさに事情を告げそして言った。
「自ら改めようとは思いますが、年はすでに相当なので、達成する事は出来ないと思うのです」
陸雲は言った。
「古人は朝に聞いて夕に死ぬことを貴んでいる。いわんや君の前途はまだまだある。且つ、人は志の立たないのを患える。また
どうして名前があらわれない事を憂えるのだ」
遂に周處は自らを改め、最終的には忠臣孝子となった。

戴淵は若い時、遊侠にふけり行いを治めなかった。
常に江淮の間にあって、商旅を攻掠していた。
陸機が休暇となり洛陽へ帰還するのに、輜重は甚だ盛んであった。
戴淵は少年をつかって掠劫させた。
戴淵は岸の上にいて、胡牀に座って左右を指揮して皆良く従った。
戴淵はすでに風采が備わっており、いやしい事をしているといえども、その気品はそれでも人と違った。
陸機は船室の上から遠く戴淵に言った。
「あなたの才能はこのよう(にすぐれている)であるのに、どうしてこんなことをするのか」
戴淵は泣涕し、剣を投げ捨て陸機に帰順した。
(戴淵の)言辞の激しさは普通ではなかった。
陸機はいよいよ彼を重んじ交わりを定め、筆を作って(文章を書いて)彼を推薦した。
江を過ぎると(東晋になると)征西将軍となった。

■第十六  企羨篇(目標とする人物に近づこうと努力しそのようになった人物の話し)

王丞相(王導)が司空を拝命すると、桓廷尉は両髻をなして、葛の裙を着、杖をついて道端でこれを窺い歎息して言った。
「人は阿龍(王導)はずば抜けていると言うが、阿龍は最初から私を超えている」
気がつくと薹門(役所の門)についていた。

王丞相は長江を渡ると自ら言っていた。
「昔、洛水のほとりでしばしば裴成公(裴頠)、阮千里(阮瞻)等の諸賢と道を談じたものだ」
羊曼が言った。
「人々は前々からこのことで貴方を認めています。今更言う事でもありますまい」
「私も今更言う事ではないと思っているが、ただその時に戻りたいと願うが、もうできないのだよ」

王右軍(王羲之)は人が蘭亭集の序文(いわゆる蘭亭序)を金谷詩の序文とくらべ、また、自分を石崇に匹敵すると評価され、たいそう嬉しそうだった。

王司州(王胡之)は先に庾公(庾亮)の記室参軍となった。
後に殷浩を招いて長史にした。
殷浩がはじめてやってくると、庾亮は王胡之を下都に使者として赴かせようとした。
王胡之は留まりたいとして言った。
「私は盛徳の人と会ったことがほとんどありません。淵源(殷浩)が始めてやってきてのですから、しばらく彼と交友したいと思います」

郗嘉賓(郗超)は人が自分を苻堅に比したので大いに喜んだ。

孟昶がまだ世に出る前のこと、家は京口にあった。
かつて王恭が高輿に乗って鶴氅を着ているのを見た。
この時、微雪が降っていて、孟昶は垣根からこれを窺って歎息して言った。
「この人こそまさに神仙中の人だ」

■第十七  傷逝篇(死者を心から偲んだ人物の話)

王仲宣(王粲)は驢馬の鳴き声を好んだ。
埋葬は終わり、文帝(曹丕)はその喪に臨んで、顧みて友人達に言った。
「王粲は驢馬の鳴き声が好きだった。皆がそれぞれ一声鳴いて彼を送ることにしよう」
弔問客達はみな一声ずつ驢馬の鳴き声の真似をした。

王濬沖(王戎)が尚書令だった時、公服をつけ軺車に乗り、黄公の酒壚のもとを通り過ぎた。
顧みて後ろの車の客に言った。
「私は昔、嵆叔夜(嵆康)、阮嗣宗(阮籍)とともにこの壚で酣飲して、竹林の遊のにも末席に預かりました。嵆生が夭折し、阮公が亡くなって以来、時の羈紲するところとなって、今日これを視ると、近くにあるといっても遙か遠くにある山河のようだ」

孫子荊(孫楚)は自身の才能のため、人に頭を下げる事はほとんどなかった。
ただ王武子(王済)だけは尊敬していた。
王済が亡くなった時、名士で弔問に来ないものはなかった。
孫楚は遅れてやってきて、遺体の前に来ると慟哭した。
来客で涙を流さない者はいなかった。
哭礼がおわると、霊牀に向かって言った。
「あなたはいつも私が驢馬の鳴き声を真似するのをお好みでした。今、あなたのためにやりましょう」
その声は本当に似ていて賓客たちは皆笑った。
孫楚は頭を挙げて言った。
「君等のようなものを生かし、このような人を死なせるとは」

王戎が子の萬子(王綏)を亡くすと、山簡が見舞いに訪れると、王戎は悲しみにたえないようであった。
山簡は言った。
「まだむつきにいるような子のことでなぜこんなに悲しむんだ」
「聖人は情を忘れ、最下は情に及ばない。情があつまるのは、正に我等のところだ」
山簡はその言葉に感服し、あらためて彼のために慟哭した。

ある人は和長輿(和嶠)を哭して言った。
「峨峨として千丈の松が崩れるようだ」

■第十八  棲逸篇(世俗を離れ山野に下った人物の話)

阮歩兵(阮籍)の嘯く声は数百歩の距離まで聞こえた。
蘇門山中に忽ち眞人(仙人)が有って、樵伐の者(きこり)は皆その話を伝え聞いた。
阮籍が行って観ると、その人は膝を抱え巌の側にいるのが見えた。
阮籍は嶺を登りこれに近づき、足を投げ出し相対した。
阮籍は終古をかたり、上は黄農玄寂(黄帝や神農の玄なる道)を陳べ、下は三代成徳(夏商周の徳)の美考え問うただが、(先軫は)仡然として応えなかった。
また有為のほか、棲神導氣の術をのべて観るが、なお彼はさっきと同じで一点を見つめ振り向くような事は無かった。
阮籍は相対して長嘯ししばらく経った。
すると(仙人は)笑って言った。
「もっとやりなさない」
阮籍はまた長嘯し、嘯くこともなくなり退いて半嶺ばかり還ると、上に唒 然とした声を聞いた。
数部の鼓吹のように林谷に響き伝わった。
顧みれば先の人が嘯いているのであった。

嵆康は汲郡の山中で遊び、道士孫登に遇い、遂にこれと遊んだ。
嵆康は去るに臨んで孫登は言った。
「君、才は高いが、保身の道には通じていない」

山公(山濤)は選曹(官職)を去ろうとして、(後任に)嵆康を推挙しようとした。
嵆康は手紙を送り絶交を告げた。

■第十九  賢媛篇

陳嬰は東陽の人である。
若くして徳行を修め、郷里の仲間から称揚された。
秦末おおいに乱れ、東陽の人人は陳嬰を奉じて主にしようとしたが、陳嬰の母は「なりません。私がお前の家の婦となってから、若いころからずっと貧しかった。一旦(急)に富貴になるのは不祥です。兵を率い人に属したほうが良いでしょう。事が成れば少しはその利を得ることが出来、成らなくとも禍を別の人が引き受けるでしょう」と言った。

漢の元帝(劉奭之)は宮人が多かった。
だから画工(絵師)にその姿をえがかせ、呼びたい時は絵を見て決めた。
そのうちの並みの容姿の女は画工に賄賂を贈った。
王明君は容姿が甚だ麗しく、志を卑しくしてまで求めなかった。
画工はわざと彼女を醜く描いた。
後に匈奴が来朝して和睦がなり、美女を漢帝に求めた。
元帝は王明君を与える事にした。
召見すると与えるのが惜しくなった。
しかし相手に名前を伝えてしまっており、途中で改める事をしたくなかった。
ここにおいて遂にそのままやることになった。

漢の成帝(劉驁)は趙飛燕を寵幸した。
飛燕は班婕妤が呪詛をしていると讒言した。
そこで彼女を取り調べると、次のように言った。
「『死生命有り、富貴、天に在り』と申します。善行を積んでも福を蒙れないのに、邪をなして何を臨というのでしょうか。もし、鬼神が知れば邪佞の訴えを受けるわけがございません。もし(訴えた事を)知らないのであれば何の益があるのでしょうか。だからやっておりません」

魏の武帝(曹操)が崩じると、文帝(曹丕)は武帝の宮人をことごとく自分のものにして侍らせた。
文帝の病が重くなると、卞太后が見舞いにおとずれた。
太后が戸に入って宿直の侍女を見ると、皆先帝の愛幸した者たちであった。
太后は問うた。
「いつ来たんだい」
「先帝がお隠れになるとすぐです」
太后はそれ以上進もうとせず、歎息して言った。
「狗鼠でもお前の食べ残しは食べないでしょう。死んで当然です」
そして葬儀に臨んでも泣くことはなかった。

趙母(虞韙の妻)は娘を嫁にやった。
娘が去るに臨んでいましめて言った。
「慎んで好いことをしてはなりません」
娘は言った。
「好いことをしないのであれば悪いことをするべきでしょうか」
母は言った。
「好いことすらやってはいけないのに、ましてや悪いことなどを」

許允の婦人は阮衛尉(阮共)の娘で、徳如(阮侃)の妹であった。
とても醜かった。
婚礼がおわっても、許允は部屋に入る気がなかったので、家人は深く憂えていた。
たまたま許允に客がやってきた。
婦人は婢に誰か見てこさせ、婢は還ってきて言った。
「お客は桓郎です」
桓郎とは桓範のことである。
婦人は言った。
「憂えないでください。桓範はかならず入る事を勧めます」
桓範は果たして、許允に言った。
「阮家ではすでに貴方に醜女を嫁に与え、それは何か意図があってのことだろう。貴方はこれを察するべきだ」
許允は内に入り、婦人を見るとすぐに出て行こうとした。
婦人はここで出て行ったら二度とやっては来ないと思い、裾を掴んで許允を止めた。
許允は言った。
「婦に四徳有りと言う。あなたはどれだけ備えているのか」
婦人は言った。
「新婦(自分)に乏しいのは容貌だけです。ところで士に百行有りと言います。あなたはいくつ備わってますか」
許允は「皆備わっている」と言った。
すかさず婦人は言った。
「百行は徳を第一とします。貴方は色を好んで徳を好みません。どうして皆備わっていると言えるでしょうか」
許允は慙じた表情をし、互いを敬重するようになった。

許允が吏部郎となると、郷里の人間を多く用いた。
魏の明帝(曹叡)は虎賁を遣わして許允を逮捕しようとした。
許允婦人は許允を戒めて言った。
「明主は理で説く事が出来ますが、情を以っては求める事はかないません」
許允が出頭すると、帝は覈問した。
許允はこたえて言った。
「汝の知るところを挙げよと申します。私の郷里の人は私の知るところであります。陛下、職に適っているかどうかお調べください。もし職に適わなければ、私は罪を受けましょう」
調べてみると、皆、適職だった。
なのでここにおいてゆるされた。
許允の衣服が破れていたので、詔を下して新しい衣服を賜った。
初め、許允がとらえられると、家をあげて泣き叫んだ。
阮家の新婦は自若として言った。
「憂える必要ありません。もうすぐお帰りになるでしょう」
粟の粥を作って待っていた。
しばらくするっと、許允は帰ってきた。

許允は晋の景王(司馬師)に誅殺され、門下生は走ってこのことを婦人に告げた。
婦人はちょうど機織りをしていたが、顔色を変えず言った。
「こうなることはあらかじめわかっていました」
門下生は許允の子供を隠そうとした。
婦人は言った。
「子供達の事は心配要りません」
後に居を墓所にうつすと、司馬師は鍾會を遣ってこれを看させた。
「もし才能が父に及ぶのなら捕らえよ」と。
子供は母にどうしたらよいか相談した。
母は言った。
「お前たちは佳と言えるでしょうが、才は多くありません。胸懐に従って語れば憂える必要はないでしょう。必要以上に哭泣せず、鍾會が哭禮をやめればお前たちもやめなさい。また、朝廷の事を聞いてはなりません」
子供はこれに従った。
鍾會は帰り、上奏して回答し、遂に免れた。

王公淵(王廣)は諸葛誕の娘を娶った。
部屋に入り、始めて言葉を交わすや、王廣は婦人に言った。
「新婦(あなた)の顔は卑下ている。公休(諸葛誕)に似ていないな」
婦人は言った。
「大丈夫(あなた)も彦雲(父の王淩)を彷彿とさせる事ができないのに、婦人を英傑と比べようとなさるのですか」

王経若くして貧苦であったが、仕官して二千石になった。
母はこれに語って言った。
「お前はもともと貧しい家の出身です。出仕して二千石となりました。これでもうよいでしょう(これ以上出世する必要はないでしょう)」
王経は聞かなかった。
尚書となって魏を助け、晋に忠でなかったのでとらえられた。
王経は涕泣して母に別れを告げ言った。
「母のいましめに従わずこういうことになりました」
母は悲しむそぶりを見せずに言った。
「子となっては考、臣となっては忠。考あって忠あり、どうして私にそむいたといえましょうか」

山公(山濤)は嵆康、阮籍と一度遭っただけ、で交わりは金蘭のようであった。
山濤の妻の韓氏は山濤が二人との交際が普通ではないと思い、山濤に聞いた。
山濤は言った。
「私は今友とすべき者はこの二人だけだよ」
妻は言った。
「釐負羈の妻もまた親しく、狐偃、趙衰を観ました。私もお二人をじかに拝見したいのですが、よろしいでしょうか」
後日、二人がやって来た。
妻は山濤にすすめて二人を泊め、酒肉を具え、夜に墉を穿ってこれを見て、夜明けになるまで帰るのを忘れた。
山濤は部屋に入ってきて言った。
「二人はどうだった」
妻は言った。
「貴方の才は二人に及びません。見識と度量で交友されるべきでしょう」
山濤は言った。
「彼等も私の度量が勝れていると言っているよ」

王渾の妻の鍾氏は娘を生んで令淑であった。
武子(王済)は妹のために美しいつれあいを求めたがいまだ見つけられなかった。
兵家の家の子がいて、儁才があった。
妹をこれと妻そうと思い、母に言った。
すると母は「誠に才があるなら、家柄はどうでも良いです。しかしながら私に一度会わせて欲しい」と言った。
王済は兵家の家の子と大勢のつまらないのとを雑處させ、母に帷の中から見させた。
母は王済に言った。
「あのような服装の者が、お前が望んでいる者ですか」
王済は「そうです」と答えた。
母は言った。
「あの人の才能は抜群でしょう。しかし家柄が低い。長生きしないと才能を発揮する事はできないでしょう。その形骨を観ると必ず短命におわるでしょう。結婚させるわけにはいきません」
王済はこの言葉に従った。
兵家の子は数年後、果たして亡くなった。

賈充の前妻は李豐の娘(李婉)であった。
李豐が誅殺されると、離婚して辺境(楽浪郡)に流された。
後に恩赦に遇い還ることが出来たが、賈充は郭配の娘(郭王璜)を娶っていた。
武帝(司馬炎)は特別の左右夫人を置く事を許した。
李氏は外に別居し、敢えて賈充の舎に還ろうとしなかった。
郭氏は賈充に語って、李氏を訪問したいと言った。
賈充は言った。
「彼女は剛介で才気があって、お前は行かないほうが良いだろう」
郭氏はここにおいて威儀を盛んにして多くの侍女を従え向かった。
戸口までやってくると、李氏は立って迎えた。
郭氏は無意識に跪き再拝した。
帰って賈充にこのことを語った。
賈充は言った。
「私はお前に何と言った」

賈充の妻の李氏(李婉)は女訓を作り、世間にひろまった。
李氏の娘は斉献王の妃、郭氏の娘は恵帝の后である。
賈充が亡くなると、李、郭の娘が各々母を合葬しようと思い、年が経っても決まらなかった。
賈后が廃されると、李氏が祔葬されることが遂に定まった。

■第二十  術解篇(占術、医術、馬術などに優れた人物の話)

荀勗は音声をよく理解し、当時の人々はこれを闇解と呼んだ。
遂に律呂を調え、雅楽を正した。
正月になるたびに、宮殿の庭で楽を演奏し、自ら宮商を調え、韻律にかなわないものはなかった。
阮咸は妙賞である。
時に神解と呼ばれた。
公会で楽を演奏するたびに、内心調っていないと思っても、一言も直さなかった。
荀勗は心中これを忌み、遂に阮咸を外に出して始平太守とした。
後に一人の田夫が野を耕して、周時代の玉尺を見つけたの者がいた。
つまりこれが天下の正尺であった。
荀勗は試しに自分が調整した鍾鼓、金石、絲竹をくらべてみると、皆、黍一つ分だけ短かった。
ここにおおいて阮咸の神識に感服した。

荀勗はかつて晋の武帝(司馬炎)の宴席にいて、筍を食べ、食事進め、同席の人達に言った。
「これは古い木を薪にして炊いたものだ」
同席者達はこれを信じず、密かにこのことを問わせると、本当に古い車の脚を使っていた。

羊祜の父の墓を占う者がいて、後に受命の君(天命を受けた皇帝)だすだろうと言った。
羊祜はその言葉をにくみ、遂に墓の後ろを掘断して、その勢い(占いの卦)を破った。
占い師はたちどころにこれを見て言った。
「それでもまさに臂を折った三公がでるだろう」
間もなく羊祜は落馬して臂を折り、位は果たして公になった。

王武子(王済)は善く馬の性質を理解していた。
かつて一頭の馬に乗り、連銭の障泥をつけていた。
前に水(川)があって終日渡ろうとしなかった。
王済は言った。
「これは必ず障泥を惜しんでいるからだ」
人に命じて障泥を脱がせると、すぐに渡った。

陳述は大将軍(王敦)の掾となり、甚だ愛重された。
陳述が亡くなると、郭璞が行って哭泣する姿は甚だ哀しそうであった。
そして(棺に)呼んで言った。
「嗣祖(陳述)、どうして福でない事を知っていたのだ」
間もなく王敦が叛乱し、その言う通りとなった。

■第二十一 巧芸篇(芸術に長けた人物の話)

弾棊は魏の宮廷内で化粧箱を使った遊びから始まった。
文帝(曹丕)はこのあそびが特にうまかった。
手巾の角を使ってこれを拂うとあたらないことは無かった。
客で自ら得意だと言う者がいた。
曹丕がその客にやらせてみると、客は葛巾をつけ、その角で頭を下げて棊を拂い、その巧妙さは曹丕をこえていた。
陸雲臺の楼観は精巧であった。
まづ、材木の軽重をはかり、それから組み立てたので、ほんの少しの狂いもなかった。
臺は高峻にしつらえられ、常に風に揺られていたが、ついに倒壊することはなかった。
魏の明帝(曹叡)が臺に登り、その危うさを懼れ、別の大材をつかってこれを補強させると、楼は倒壊してしまった。
論者が言った。
「軽重の力が偏ったせいだろう」

韋仲将(韋誕)は書に巧みであった。
魏の明帝が宮殿を建造し、額を掲げようと思い、韋誕に梯子に登らせて書かせた。
韋誕が書き終わって降りてくると頭鬢が真っ白になっていた。
そこで児や孫にいましめて二度と書を学ばないようにさせた。

鍾會は荀済北(荀勗)の従舅(おじ)であったが、二人の仲は悪かった。
荀勗は宝剣を持っていて、百万の値がした。
いつも母の鍾夫人のもとに在った。
鍾會は書が巧かったので、荀勗の手蹟をまねて手紙をつくり、それを(荀勗の)母に送り剣を受け取り、そのまま盗んでかえさなかった。
荀勗は鍾會の仕業であるとわかったが、取り返すすべがなかった。
そして鍾會に復讐しようと思った。
後に鍾兄弟(鍾毓と鍾會)は千万もの費用をかけて邸宅をつくった。
出来上がり、とても精麗であったが、まだ移り住んでいなかった。
荀勗は非常に絵が得意であった。
だから密かに行って門堂に太傅(鍾繇)の肖像を描いた。
二鍾(鍾毓と鍾會)は門に入り、大いに感動し、そのまま新居は廃屋となった。

■第二十二 寵礼篇(才能などを認められた上で寵愛を受けた人物の話)

元帝(司馬睿)は正會(正月の儀式)の時に王丞相(王導)をうながして御牀に登らせようとした。
王公(王導)は固辞した。
中宗(司馬睿)はさらにねんごろに促した。
王導は言った。
「太陽が万物と輝きを同じになれば臣下は何を仰ぎ見ればよいのでしょうか」

桓宣武(桓温)はかつて参佐(幕僚)呼んで宿直させた。
袁宏、伏滔が相次いでやってきた。
府中(役所内)で点呼をとるともう一人(袁宏以外に)袁参軍がいた。
彦伯(袁宏)はこれを疑い、伝令にもう一度確認した。
伝令は言った。
「参軍といえば袁伏の袁です。どうして疑ったりするのですか」

王珣と郗超はともに奇才が有り、大司馬(桓温)の抜擢されるところとなった。
王珣は主簿となり、郗超は記室参軍となった。
郗超のひととなりは髯が多く、王珣は背が低かった。
当時、荊州の人々は彼等を語って言った。
「髯参軍、短主簿の二人は、よく公を喜ばせ、よく公を怒らせる」

許玄度(許詢)が都にとどまること一月、劉尹は一日として訪ねない日はなかった。
そして歎息して言った。
「貴方が少しでも去らなければ、私は軽薄の京兆尹と成るだろう」

■第二十三 任誕篇(世俗にとらわれぬ人々の話)

陳留の阮籍、譙國の嵆康、河内の山濤、三人は皆年が近く、その中でも嵆康が最年少であった。
この交わりに預かったのは、沛國の劉伶、陳留の阮咸、河内の向秀、琅邪の王戎である。
七人は常に竹林の下に集まって気ままに酒を酌み交わした。
そのため世間では彼等を竹林の七賢と呼んだ。

阮籍は母の喪に遭い、晋の文王(司馬昭)の宴席にはべり酒を飲み肉を食らった。
司隷校尉の何曾もまた宴席に参加していて言った。
「明公は孝をもって天下を治めておいでです。なのに阮籍は重喪にありながら、公の宴席にあって酒を飲み肉を食らっております。よろしく彼を海外に流刑して風教を正すべきです」
司馬昭は言った。
「嗣宗(阮籍のあざな)が痩せ衰えているのはあの通りだ。君が共にこれを憂えないのはどういうことだ。また病があって酒を飲み肉を食らうのはもともと喪禮だ」
阮籍は飲食して、表情も自若していた。

劉伶は二日酔いでとても喉が渇き、婦人に酒を求めた。
婦人は酒をすて、酒器を毀し、なきながら諫めて言った。
「あなたの酒量は多すぎです。摂生の道ではありません。必ず断ってください」
「よろしい。私は自分で酒をやめることは出来ないから、鬼神に祈り、誓いを立てて酒絶ちをしようと思う。だからそのための酒と肉を用意してくれ」
「わかりました」
婦人は酒肉を神前に供え、劉伶に誓いを立てるよう促した。
劉伶は跪き祈りながら言った。
「天は劉伶を生み酒をもって名をなさしめた。一飲一斛、五斗飲めば二日酔いも解ける。婦人言葉なんぞ絶対に聞かないぞ」
そして酒を引き寄せ肉を食らい、酔っ払ってしまった。

劉公榮(劉昶)は人と酒を飲むのに身分を問わなかった。
ある人はこのことを謗った。
すると答えて言った。
「私に勝る者とは飲まねばならない。私に及ばない者とも飲まねばならない。私の仲間ともまた飲まなければならない」
だから終日共に飲んで酔っていた。

歩兵校尉に欠員が生じた。
役所の厨房に数百斛の酒が蓄えられていた。
阮籍は自ら志願して歩兵校尉となった。

劉伶は常に酒びたりで奔放だった。
また衣服を脱いで裸で部屋の中にいた。
ある人がこれを見て謗った。
劉伶は言った。
「私は天地をもって住居とし、屋室を下着にしているのだ。諸君はどうして私の下着の中へ入ってくるのだ」

阮籍の兄嫁が実家へ里帰りした。
阮籍は直接会ってから別れた。
ある人がこのことを謗った。
阮籍は言った。
「禮は私のような人間のためにつくられたのではない」

阮公(阮籍)隣家の婦人は美人だった。
そして壚で酒を売っていた。
阮籍は王安豊(王戎)といつもそこで酒を飲み、阮籍は酔うとその婦人のそばで眠ってしまった。
夫がはじめは疑っていたが、観察していると、他意がないとわかった。

阮籍は母を葬るにあたり、豚一匹を蒸し、酒を二斗飲み、それからわかれに臨んで「窮れり」とだけ言った。
一たび号泣すると、血を吐き長い事ぐったりしていた。

阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)は道南に住み、他の阮氏の人々は道北に住んでいた。
北に住む阮氏は皆富み、南に住む阮氏は貧しかった。
七月七日、北の阮氏は盛んに衣服をさらし、それらはみな、紗羅錦綺だった。
阮咸は竿に大きな下着をかけて中庭に置いた。
人が何かあるのかと怪しむと、答えていった。
「まだ世俗から逃れる事は出来ないから、いささか真似した見ただけだよ」

阮歩兵(阮籍)が母を亡くしたので、裴令公(裴楷)は弔問に行った。
阮籍は酔い、髪は散じて牀に座って足を投げ出し哭礼をしなかった。
裴楷がやってきて、地面にすわって哭礼を行い弔辞を述べおわると帰った。
ある人が裴楷に問うた。
「弔というのは主人が哭礼してから客が哭礼を行うものです。阮籍が哭礼をしなかったのにあなたはどうして哭礼をしたのですか」
「阮籍は世俗の外にいる人だ。だから礼制を崇ばない。私は世俗の中にいる。だから儀の軌の中にいるのだよ」
時の人は両方ともその中を得ていると歎息した。

■第二十四 簡傲篇(驕り高ぶった性質を持った人物の話)

晋の文王(司馬昭)は、功徳は盛大で、座席は威厳があり、王者のようであった。
ただ阮籍だけは、座にあって、嘯き歌い、自由気ままに酔っ払っていた。

王戎は弱冠(二十歳)で阮籍のもとを訪れた。
このとき劉公榮(劉昶)が座にいた。
阮籍は王戎に言った。
「たまたま二斗の美酒がある。一緒に飲もうじゃないか。あそこの公榮とかいうのは仲間に入れないだろう」
二人は觴を交えて酒を飲んだが、劉昶は一杯も飲めなかった。
しかしながら談笑して三人とも変わるところが無かった。
このことを尋ねる人がいた。
阮籍が答えて言った。
「公榮に勝る者は共に酒を飲まなければならない。公榮に及ばない者も共に酒を飲まなければならない。ただ公榮だけはともに酒を飲まなくとも良い」

鍾士季(鍾會)は精細で才能、理論が有った。
まだ嵆康と面識が無かった。
鍾會は当時における賢儁の士を誘い、共に行って嵆康を尋ねた。
嵆康は大樹の下で鍛冶をしていて、向子期(向秀)が助手として鞴を吹いていた。
嵆康は槌を挙げる手を止めず、傍らに人がいないように振る舞い、しばらく一言も発しなかった。
鍾會は立ち上がって去ろうとした。
嵆康は言った。
「何を聞いてやって来て、何を見て去るのか」
鍾會は言った。
「聞いた事を聞いて来て、見たことを見て去るのだ」

嵆康は呂安と仲が善かった。
一度でも相手の事を思うたびに、千里の距離を車に乗って会いに行った。
呂安が後に訪ねてくると、たまたま嵆康はいなかった。
嵆喜(嵆康の兄)が戸から出て招きいれようとしたが、入らず、門の上に鳳と書いて去った。
嵆喜は意味がわからず、とりあえずよろこんだ。
鳳の字を書いたのは、凡鳥の意味であった。

陸士衡(陸機)は初めて洛陽を訪れ、張公(張華)に自分が挨拶に訪れるべきところを尋ねた。
劉道眞(劉宝)はそのうちの一人である。
陸機が行くと劉宝は服喪中であった。
劉宝は酒を嗜む性格であった。
挨拶がおわり他に言葉はなく、たた聞いた。
「東呉に長柄の壺廬(酒を入れる瓢箪)があるというが、貴方はその種を持って来たかね」
陸兄弟(陸機・陸雲)はことさら失望して、行ったことを後悔した。

■第二十五 排調篇(他人を言い負かしたりやりこめたりする話)

諸葛瑾が豫州刺史だった時、別駕を朝廷に遣わそうとして、つげて言った。
「小児(諸葛恪)は談論を知っている。君はともに語ってみたら良いだろう」
別駕は何度も諸葛恪を訪ねたが、諸葛恪は会おうとしなかった。
後に張輔呉(張昭)の宴席で出会うと、別駕は諸葛恪を「これはこれは若君」と呼んだ。
諸葛恪はこれを嘲って言った。
「豫州は乱れている。何がこれはこれはだ」
別駕は答えて言った。
「君は明らかで、臣は賢です。いまだ乱れていると聞いた事はありません」
諸葛恪は言った。
「昔、唐堯が上にいたが、四凶が下にいたではないか」
別駕は答えた。
「四凶だけでなく丹朱(堯の不肖の息子)もおりましたよ」
そこで一座にいた者たちは大いに笑った。

晋の文帝(司馬昭)は二陳(陳泰と陳騫)と同じ車に乗って、鍾會のところを通り過ぎ、同乗を呼びかけながら、捨て置いて先に行ってしまった。
鍾會が準備して出てきたころにはすでに遠くへ行ってしまっていた。
なんとか追いつくと司馬昭は嘲って言った。
「一緒に行こうと約束しておきながらどうして遅々としている。遙々として来なかったではないか」(注:当時父祖の諱を口にしたり聞いてはいけなかった。鍾會の父鍾繇の繇と遙は同じ音なのでそれをかけてからかった。)
鍾會は答えて言った。
「矯然として懿實なればどうして羣れて行く必要がありましょうか」(陳騫の父は陳矯、司馬昭の父は司馬懿、陳泰の父は陳羣)
司馬昭はまた鍾會に尋ねた。
「皇繇はどういう人だったのかね」
「上は堯舜に及ばず、下は周公、孔子に及びませんが、それでも一代の懿い人物です」

鍾毓は黄門郎となって機知があった。
景王(司馬師)の宴席にあって燕飲した。
この時陳羣の子の玄伯(陳泰)、武周の子の元夏(武陔)は同じ座にいて、共に鍾毓を嘲った。
司馬師は言った。
「皇繇はどういう人だったのかね」
鍾毓はこたえて言った。
「古の懿士です」
そして陳泰、武陔を顧みて言った。
「君子は周して比せず、羣して党せず」

嵆康、阮籍、山濤、劉伶は竹林にいて盛んに酒を飲んでいた。
王戎が遅れてやってきた。
歩兵(阮籍)は言った。
「俗物がやってきて人の気分をぶち壊す」
王戎は笑って言った。
「貴方がたの気分も壊せるほどであったか」

晋の武帝(司馬炎)は孫晧に問うた。
「南人は好んで爾女の歌をつくると聞いているが、頗るよくできるかね」
孫晧はちょうど酒を飲んでいた。
そこで觴を挙げて司馬炎に勧めて言った。
「昔はお前のお隣さん。今はお前の臣となる。お前に一杯の酒をたてまつる。お前の長寿は万春となるだろう」
司馬炎は後悔した。

孫子荊(孫楚)は若い時から隠棲したかった。
王武子(王済)に語って言うには、
「まさに石に枕し流れに漱がん」と言うべきところを間違って「石に漱ぎ流れに枕せん」と言ってしまった。
王済は言った。
「流れに枕し石に漱ぐことなんて出来るのかね」
孫楚は言った。
「流れに枕するというのは耳を洗いたいと思うからだ。石に漱ぐのは歯を砥ぎたいとと思うからだ」

■第二十六 軽詆篇(他人を軽蔑し誹る行いをした人物の話)

王太尉(王衍)は眉子(王衍の子の王玄)に問うた。
「お前の叔(おじ)は名士である。それなのにどうして尊重しないんだ」
王衍は答えた。
「終日でまかせばかり言っている名士なんていますか」

庾元規(庾亮)は周伯仁(周顗)に語って言った。
「人々は君を樂になぞらえているよ」
「どの樂かね。樂毅か」
「ちがう。樂令のことだ」
「どうして無塩の醜女を飾り立てて西施に突きつけるのか」

深公(竺法深)は言った。
「人は庾元規を名士というが、胸中にはとげが三斗ばかりある」

庾公(庾亮)の権能は重く、王公(王導)を圧倒するほどであった。
庾亮は石頭にいて、王導が治城にいて座っていると、大風が塵を巻き上げた。
王導は扇で塵を払って言った。
「元規が塵で人を汚す」

■第二十七 仮譎篇(カケツ、他人をうまくあざむいた話)

魏武(曹操)が若かった時、好んで袁紹と游侠を気取っていた。
人が新たに結婚するのを觀て、密かに主人の庭へ入り込み、夜になると大声で「泥棒がいるぞ」と叫んだ。
青廬(花嫁を迎える小舎)の中の人皆出てきて様子をうかがった。
その隙に曹操は青廬に入り、刃を抜いて新婦をおどし略奪して、袁紹と逃げたが、道に迷って棘の中に落ち、袁紹は動けなかった。
曹操はまた大声で叫んだ。
「泥棒はここにいるぞ」
袁紹は慌てて自力で抜け出し、二人ともたすかった。

魏武が行軍していたら、汲道(水場に通じる道)を見失い、三軍の兵が皆喉が渇いた。
すると曹操は号令して言った。
「前に大きな梅林があるぞ。実がたくさんなっていて甘酸っぱい。そで喉の渇きを満たせ」
士卒はこれを聞いて皆口の中が唾でいっぱいになった。
このため、水源地へたどり着く事が出来た。

魏武はいつも言っていた。
「人が私に危害を加えようとすると、私は胸騒ぎがする」
そして身近に使えている小者に語って言った。
「お前は刃を抱いて密かに私の近くへ来い。私は胸騒ぎがすると言って、お前を捕らえ処刑させようとする。お前は何も言うな。決して悪いようにはしない。あとで厚く報いてやろう」
とらわれた者はこれを信じて、畏れるそぶりを見せなかった。
しかしそのまま斬られてしまった。
この人は死ぬまで欺かれたことに気がつかなかった。
まわりの人間は真実だったと、叛逆を謀っていた者はやる気を挫かれた。

魏武はいつも言っていた。
「私が寝ているときは妄りに近づいてはならない。近づかれると人を斬ってしまい、自分では無意識である。周りは間違っても近寄らないように」
後に眠ったふりをしていると、寵愛している者が蒲団をかけてくれた。
するとその男を斬り殺した。
これ以後曹操が眠っているところに周りの人間で近づくものはいなかった。

袁紹が年少の時、かつて人を使って魏武に剣を投げつけさせたが、低かったので当たらなかった。
曹操は次は高いだろうと牀(ベッド)の上に臥せていると、はたして次に投げられた剣は高かった。

■第二十八 黜免篇(チュツメン、左遷や免職に関する話)

諸葛宏は西朝(西晋)にあって、若いころから名声があり、王夷甫(王衍)に重んぜられた。
当時の世論もまた諸葛宏を王衍になぞらえていた。
後に継母の族党に讒言され、諸葛宏を誣告し狂逆として、遠くに流されることになった。
王衍ら友人が檻車のところまで来て別れを告げた。
諸葛宏は問うた。
「朝廷はどういう罪状で私を流罪にしたのか」
王衍は答えた。
「貴方を狂逆と言っている」
諸葛宏は言った。
「逆なら殺すべきで、狂なら流罪にする必要は無い」

桓公(桓温)は蜀に入り、山峡までやってくると、部隊の兵の中に猿の子を捕まえた者がいた。
母猿は岸によって哀しげに叫び、百余里進んでも去らなかった。
遂に船に飛び込んだがそのまま息絶えた。
母猿の腹を割いてみると腸が皆ずたずたに断たれていた。
桓温はこれを聞いて怒り、命じてその男を退けさせた。

殷中軍(殷浩)は廃され、庶人として信安にいた。
終日ずっとそらに字を書いていた。
揚州の吏民が昔の恩義から追ってきて、密かに見ると、ただ「咄咄怪事」の四字を書いてばかりいるのだった。

桓公(桓温)の宴席に参軍の椅という者がいた。
蒸した韮がほぐれず、一緒に食事をしていた者達は助けようとしなかった。
それでも椅は手を置くようなことはしなかった。
座にいた者達は皆笑った。
桓温は言った。
「同じ皿で食事をしてさえ助け合わない、ましてや危難をや」
そして命じて助けなかった者達を罷免させた。

殷中軍は廃された後、簡文帝(司馬昱)恨んで言った。
「人を上らせて百尺の楼上に置いて、梯子をかついで持ち去りやがった」

■第二十九 倹嗇篇(ケンショク、けちんぼの話)

和嶠はとんでもない倹約家であった。
家に好い李(すもも)の木があった。
王武子(義弟の王済)が求めたが、数十個しか与えなかった。
王済は和嶠が上直(朝廷での宿直)した機に、よく食べる少年をひきつれ、斧を持って果樹園に入った。
飽きるまで食べ、食べおわると木を伐ってしまい、車一台分の枝を送って和嶠に与えて言った。
「君のすももと、どうですか」
和嶠はどうなったのかわかり、ただ笑うだけであった。

王戎は吝嗇であった。
従子が結婚すると単衣を一つ与えたが、後にその代金を責めたてた。

司徒の王戎は貴い位にいて富んでいた。
邸宅、童牧、肥えた田、水車碓、のたぐいは洛陽に並ぶものがいなかった。
証文の仕事が多く、いつも夫人と蝋燭の下で数とり棒を散乱させて計算していた。

王戎は好い李の木を持っていた。
何時もこれを売っていたが、他人が種を入手するのを恐れて、いつもその核を穿っていた。

王戎の娘が裴頠に嫁ぎ、銭数万を貸した。
娘が帰省したが、王戎の表情は悦んでいなかった。
娘があわてて銭を返すと、機嫌が直った。

■第三十  汰侈篇(タイシ、ぜいたくに関する話)

石崇は客をむかえて宴会をひらくたびに、いつも美人に酌をさせた。
客で酒を飲み干さない者がいると、黄門(宦官)に命じてかわるがわる美女を斬らせた。
王丞相(王導)が大将軍(王敦)とともに石崇を訪ねたことがあった。
王導はもとから飲めなかったが、勉強して(無理して、頑張って)泥酔するに至った。
王敦は杯が巡ってくるたびに固辞して飲まず、なりゆきをみていた。
すでに三人斬られていたが、顔色はまったく変わらず、それでも飲もうとしなかった。
王導は王敦を責めた。
王敦は言った。
「自ずから自分の家の人間を殺しているんだ。どうして貴方と関係があるのですか」

石崇の邸の厠にはいつも十余の婢が並び控えており、皆綺麗なに着飾っていた。
甲煎粉、沈香汁のたぐいが置いてあり、備わっていない物は無かった。
新しい服を与えて着替えて出て来させたが、客の多くは恥ずかしがって厠へ行けなかった。
王大将軍(王敦)は行って、古い服を脱ぎ、新しい服を着て、表情は傲然としていた。
婢達は次のように言いあった。
「この客は必ず賊(謀反)を為すでしょう」

武帝(司馬炎)は王武子(王済)の邸へ行幸した。
王済は料理をだすのに、すべて瑠璃の器を使い、婢子百余人は、皆綾衣を纏い、飲食物を捧げ持っていた。
蒸し豚が美味で味が普通ではなかった。
司馬炎が不思議に思い問うと、王済は答えて言った。
「人の乳を豚に飲ませているのですよ」
司馬炎は非常に不快に思い、食事を畢えずして立ち去った。
王(王愷)、石(石崇)もまだやったことないことであった。

■第三十一 忿狷篇(短気な人物の話)

魏武(曹操)に一人の妓女がいて、声が最も清高であったが、性格はとても悪かった。
殺したいと思っていたが、その才を愛しんで、置いておこうとも思うがやはりその性格が堪えられない。
そこで百人の歌妓を選んで同時に教えさせた。
しばらくすると、一人だけ彼女に及ぶ者がいたので、性悪の妓女を殺した。

王蘭田(王述)は性急であった。
かつて鶏子(卵)を食べようとして、箸で刺したが上手くいかなかった。
すると大いに怒って取り上げて地面に投げつけると、卵は地面に転がって止まらなかった。
なので地面に立って、屐の歯でこれを踏もうとしたがまた上手くいかなかった。
瞋ること甚だしく、また地面から取り上げ口の中に入れて噛み砕いてから吐きすてた。
王右軍(王羲之)はこれを聞いて大いに笑って言った。
「安期(王述の父王承)ですらこんな性格であれば毛筋ほどの取り柄もない。まいてや蘭田をや」

王司州(王胡之)はかつて雪に乗じて王螭のもとへ行き、王胡之の言い方が王螭の癇に障った。
つまり顔色がたいらかでなかった。
王胡之は悪感情を覚え、牀をかついで王螭に近づき、王螭の肘を持って言った。
「お前なんぞは私と計るに足りない」
王螭はその手を払って言った。
「冷たきこと鬼手のようで、死体が来て人の肘をつかんだ」

桓宣武(桓温)は袁彦道(袁耽)と樗蒱をした。
袁彦道の思うような目が出ず、遂に顔色を変え五木を投げ捨てた。
温太眞(温嶠)が言った。
「袁生が八つ当たりするのを見て顔氏(顔回)の貴さを知ったよ」

■第三十二 讒険篇(悪説により他人を陥れた人物のはなし)

王平子(王澄)は見かけはとてもさっぱりしているが、内実は勁侠である。

袁悅には口才があって、短長の説をよくして、理論は清然としていた。
はじめ謝玄の参軍となって、頗る礼遇された。
後に、親の喪に遭い、服喪を除き都へ還ると、戦国策を持っているだけであった。
人に語って言った。
「少年の時、論語、老子を読み、また荘(荘子)、易(易経)を看たが、これらは皆読むのが辛く、何の役にも立たない。天下に必要なのはただ戦国策があるだけだ」
都から下ると、司馬考文王(司馬道子)を説き、大いに信任され、ほとんど機軸を乱そうとしてにわかに誅殺された。

考武(司馬曜)は甚だ、王國寶と王雅を親敬していた。
王雅は王珣を帝に推薦し、帝はこれに会いたいと思った。
かつて夜に王國寶と王雅と相対し帝はわずかに酔っていたが、王珣を喚ばせた。
王珣が到着するころになり、取次ぎの声が聞こえた。
王國寶は自分の才が王珣に劣っている事を知っていたので、帝の寵愛を奪われる事を恐れ、言った。
「王珣は当今の名流です。陛下は酒色あるときに彼と会ってはなりませぬ。別の日に詔を下して召しだすべきです」
帝はその言葉にそれもそうかと思い、心にもって忠であるとして、遂に王珣に会わなかった。

王緒しばしば殷荊州(殷仲堪)のことを王國寶に讒言した。
殷仲堪はこれを患え、手段を王東亭(王珣)に求めると、王珣は言った。
「あなたは、ただ、しばしば王緒を訪ね、人を遠ざけて何も関係ないことを論じなさい。このようにすれば、二王のよしみは離れるでしょう」
殷仲堪はこれに従った。
王國寶は王緒に会って言った。
「この頃、殷仲堪と人を遠ざけて何を話しているのかね」
王緒は言った。
「もとよりいつもの往来で特別の話はしていませんよ」
王國寶は王緒が自分に隠し事をしていると思った。
はたして二人の情好は日々疎遠になった。
讒言も自然にやんだ。

■第三十三 尤悔篇(同じ過ちを繰り返し起こしてしまった人物の話)

魏の文帝(曹丕)は弟の任城王(曹彰)が驍壮なのを忌んでいた。
卞太后の部屋で共に碁を打ち、ならびに棗を食べるにおよんで、曹丕は毒を棗の蔕に仕込み、自らは大丈夫な物を選んで食べた。
曹彰は悟らず、毒の入った物も食べてしまった。
毒に中ってしまうと、太后は水をもとめて曹彰を救おうとしたが、曹丕があらかじめ左右に勅してつるべを毀してしまっていたので、太后が裸足で井戸へ赴いても水を汲むことが出来ず、しばらくすると遂に亡くなった。
また東阿(曹植)を害そうとしたが、太后は言った。
「お前はすでに私の任城を殺しました。また私の東阿を殺す事はなりません」

王渾の後妻は琅邪の顔氏の娘で、王渾はこの時徐州刺史であった。
交禮で新婦が拝しおわり、王渾が答拝しようとすると、見ていた者皆が言った。
「王侯は州将で、新婦は州民である。答拝する理由は無いでしょう」
なので王渾は答拝をやめた。
武子(子の王済)は父が答拝せず、禮をなしていないので、夫婦ではないとして、彼女を母として拝せず、顔妾と呼んだ。
顔氏はこれを恥じたが、名門の家柄なので、敢えて離縁しようとはしなかった。

陸平原(陸機)は河橋で敗れ、盧志に讒言され誅殺された。
処刑に臨んで歎息して言った。
「華亭の鶴の鳴き声を聞きたいと思うが二度と叶わないのだな」

劉琨は人を招くのは上手かったが、統率は拙かった。
一日に数千人が帰投したことがあったが、逃散して去るのも同じようだった。
遂に手柄を立てることが出来なかった。

■第三十四 紕漏篇

王敦が公主を娶った当初、厠へ行って、漆の箱に乾燥棗が盛ってあるのを見た。
これは鼻に詰めるものである。
王敦は「厠にも果物を置いている」と思った。
そしてすべて食べてしまった。
厠から戻ってくると、婢達が金の盥に水を張り、瑠璃のお椀に澡豆(豆の粉で作った洗い粉)を盛り捧げ持っていた。
なので澡豆を水中に投げ入れ飲んだ。
乾飯だと思ったのだ。
婢達は口をおおって笑わない者はいなかった。

元皇帝(司馬睿)が初めて賀司空(賀循)に会うと、話が呉の時の話になり、次のように問うた。
「孫晧が焼いた鋸で賀なにがしの頭を斬ったらしいが誰だったか」
司空がまだ答えないうちに元皇は思い出した言った。
「そうだ賀邵だ」
司空は涙を流しながら言った。
「私の父は無道に遭遇し、親を失った痛みは深く、ご下問に答える事が出来ませんでした」
元皇は愧慙して三日も引きこもって出てくることが出来なかった。

■第三十五 惑溺篇(女性に迷い溺れた人物の話)

魏の甄后は聡明で美しかった。
はじめ袁煕の妻となって寵愛を受けた。
曹公(曹操)が鄴を陥落させると、すぐに甄氏を連れてくるように言った。
左右が言った。
「五官中郎将(曹丕)がすでに連れて行きました」
曹操は言った。
「今年賊を破ったのはあいつのためにしてやったようなものだな」

荀奉倩(荀粲)は婦人(曹洪の娘)と至って仲睦まじかった。
冬になると婦人が発熱し病となると、中庭へ出て自分を冷やしてかえり、身をあてて(婦人を)暖めた。
婦人が亡くなると荀粲も間を置かずに亡くなった。
このため世間からそしりを受けた。
荀粲は言っていた。
「婦人は徳称するほどのものではない。容姿を一番とするべきだ」
裴令(裴頠)はこれを聞いて言った。
「これは興が乗ったから言っただけで盛徳の言葉ではない。願わくば後世の人がこの言葉にくらまされないように」
賈公閭(賈充)の後妻の郭氏は嫉妬が激しかった。
男児がいて、名を黎民といい、生まれて満一歳であった。
賈充が外から帰ってくると、乳母が子供を抱いて中庭にいた。
子供は賈充を見て喜びはしゃいだ。
賈充は乳母の手の中の子に口づけをした。
郭氏は遠くからこれを見て、賈充が乳母を愛していると思い、乳母を殺した。
子供は悲しんで啼泣し、他の人の乳を飲まず、遂に死んでしまった。
郭氏にこの後子供が生まれることはなかった。

孫秀が晋に降服すると、晋の武帝(司馬炎)は厚く寵愛し、妻の妹の蒯氏を娶わせた。
二人の中は厚く睦まじかった。
かつて妻が嫉妬して、孫秀を罵って貉子と言った。
孫秀は穏やかでなく遂に妻の部屋に入ろうとしなかった。
蒯氏は大いに後悔して帝に救いを求めた。
この時、大赦があって、群臣は皆謁見した。
群臣が退出すると、帝は独り孫秀を引き止めて従容として言った。
「天下は曠蕩である。蒯夫人もその例に従うべきではないかね」
孫秀は冠を脱いで謝罪し、遂に夫婦仲は初めと同じようになった。

韓壽の容姿は美しかった。
賈充は韓壽を辟召して掾(属官)にした。
賈充が聚会するたびに賈充の娘(賈午)は青塗りの飾り窓越しに韓壽を覗き見て悦び、いつも恋慕いそれを詩にして発した。
後に婢が韓壽の家へ行き、事情を話すとともに賈午が光麗であると言った。
韓壽はこれを聞いて心が動き、遂に婢に頼んで密かに手紙を届けてもらい、期日になると行って泊まった。
韓壽は人並みはずれて身軽で、塀を越えて侵入したが、家の中の人間は誰も気づかなかった。
賈充は娘が盛んに化粧して話す調子がいつもと違う事に気がついた。
後に諸吏と会合を開いた時、韓壽に奇香があると聞いた。
これは外国からの貢物で一たび人につけば数ヶ月は匂いが消えないものであった。
賈充は考えると、この香は武帝(司馬炎)が自分と陳騫に賜っただけで、他所の家にはこの香は無いのだから、韓壽と娘が通じているのかと疑った。
しかし、垣や塀が何重にもなっていて門が高く聳えているのだからどうして忍び込む事が出来ようか。
泥棒が入った事にかこつけ、塀を修繕させた。
修繕させた者が帰ってきて言った。
「他のところに異常はありません。ただ東北の角に人の足跡があります。しかし塀が高いので人が超える事は出来ないでしょう」
賈充は娘の周りの婢を訊問するとありのままを答えた。
賈充はこれを隠して、娘を韓壽に嫁がせた。

王安豊(王戎)の婦人はいつも王戎を卿と呼んだ。
王戎は言った。
「婦人が夫を卿と呼ぶのは、禮によれば不敬にあたる。今後そう呼ぶ事が無いように」
婦人は言った。
「卿に親しみ卿を愛す、だから卿を卿と呼ぶのです。私が卿を卿と呼ばなかったら、誰が卿を卿と呼ぶのですか」
遂にこれを許した。

王丞相(王導)に妾がいて、姓は雷で政事に預かって賄賂をとった。
蔡公(蔡謨)はこれを雷尚書と言った。

■第三十六 仇隟篇(キュウゲキ、仇を恨んだ人物の話)

孫秀は、石崇が緑珠をくれなかったことを恨み、また藩岳が昔礼遇しなかったことを憾んでいた。
後に孫秀が中書令となると、藩岳は中書省内で孫秀を見かけたので呼んで言った。
「孫中書令は昔の周旋を憶えておられますか」
孫秀は言った。
「中心はこれを蔵しています。いつになってもこれを忘れないでしょう」
藩岳はここにおいて必ず免れない事を知った。
後に石崇と歐陽堅石(歐陽建)とをとらえ、日を同じくして藩岳もとらえられた。
石崇がまず刑場に送られ、互いのことは知らなかった。
藩岳は遅れて送られてきた。
石崇は藩岳に言った。
「安仁(藩岳)、あなたもそうなのですか」
藩岳は言った。
「白首帰るところを同じくするというやつだよ」
藩岳の金谷集の詩に、「分を投じて石友に寄せ、白首帰るところを同じくする」とある。
すなわち、その讖をなしたのだった。

劉輿兄弟は、わかい時、王愷に憎まれた。
かつて二人を召して邸に泊まらせ、彼等を除こうと思い、坑を掘らせた。
坑が掘り畢わり、害そうとした。
石崇は以前から劉輿、劉琨と仲が善かった。
王愷の家に二人が泊まっている聞き、まさに変がおこると察し、夜に王愷邸へ向かい訪ね、二劉の所在を問うた。
王愷は逼迫していたので隠す事が出来ず言った。
「奥にいて眠っているよ」
石崇はすぐに入って、自ら二人を牽き出し、同じ車に同乗して去った。
そして二人に語って言った。
「少年よ、どうして軽々しく人で泊まるのか」

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