【源氏物語】 (佰拾) 真木柱 第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動

紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。

そんな今回は、「真木柱」の物語の続きです。
【源氏物語】 (壱) 第一部 はじめ

第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動
 [第一段 鬚黒の北の方の嘆き]
 宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっとの暇のお許しを申し上げなさる。このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。
 北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのある人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお気に障るようなことが多いのであった。
 女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりになって、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像していたことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなことである。
 式部卿宮がお聞きになって、
 「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。自分が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」
 とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。
 生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時たまおありなのであった。

 [第二段 鬚黒、北の方を慰める(1)]
 お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。
 「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。たいそう身体も苦しそうにしていらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。
 長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、とてもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。
 幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けていらっしゃる。最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。
 式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。ほんとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」
 と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。

 [第三段 鬚黒、北の方を慰める(2)]
 殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。
 「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、もし、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。耳馴れていますから、今さら何とも思いません」
 と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。
 たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ることもほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。
 つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあろうか。
 「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、
 「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。
 太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。
 穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。いずれにせよ、今さらわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」
 と、とりなし申し上げなさると、
 「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。
 大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親のように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。なさりよう見ているばかりです」
 とおっしゃるので、
 「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。大殿の北の方がご存知になることでもございません。箱入り娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。あの人の親らしくなくおいでのようです。このようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」
 などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。

 [第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする]
 日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。このような天候にあえて出かけるのも、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くのだが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近くに物思いに耽っていらっしゃった。
 北の方がその様子を見て、
 「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。夜も更けたようですわ」
 とお促しになる。「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。
 「このような雪では、どうして出かけられようか」
 とおっしゃる一方で、
 「やはり、ここ当分の間だけは。わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置くのは気の毒です。落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。このように普通のご様子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」
 などと、お慰めなさると、
 「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡れた袖の氷もきっと解けることでしょう」
 などと、穏やかにおっしゃっていられる。

 [第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける]
 御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、
 「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。
 やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。
 侍所で、供人たちが声立てて、
 「雪が小止みです。夜が更けてしまいましょう」
 などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。
 中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。
 あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。
 正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、
 「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」
 と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。
 大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。
 「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。

 [第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る]
 一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。
 「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。あなたのお気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」
 と、生真面目にお書きになっている。
 「心までが中空に思い乱れましたこの雪に
  独り冷たい片袖を敷いて寝ました
 耐えられませんでした」
 と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。筆跡はたいそうみごとである。漢学の才能は高くいらっしゃるのであった。
 尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。男は、落胆して、一日中物思いをなさる。
 北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もなく、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っていらっしゃった。

 [第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う]
 日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。
 昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。御下着にまでその匂いが染みていた。嫉妬された跡がはっきりして、相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。
 木工の君、お召物に香をたきしめながら、
 「北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが
  思い余って炎となったその跡と拝見しました
 すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」
 と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思われなさるのであった。薄情なことであるよ。
 「嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと
  後悔の炎がますます立つのだ
 まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」
 と、溜息ついてお出かけになった。
 一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思われて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。

 

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