江戸時代前期に水戸藩で生き、水戸黄門様として今も親しまれている徳川光圀公は、十八才の時に史記の伯夷伝を読んだことをきっかけに大きく変貌し、やがて『大日本史』の編纂を始めます。
その編纂の過程において、史臣の才能を活用して史学以外に新しい学問として、和文・和歌等の国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学、書誌等々の学問を興され、それぞれ貴重な著書編纂物を残されました。
また光圀公は後世を考え、古典の異本を集めて異同を考証し、考証の経過を註記させたり、史料も六国史以外は註記といった形で諸種の校正本、参考本を造り校刻したのですが、そうした中で儒学・史学を基盤に、次第に国学・神道の要素をも包括してできあがって来た学問のことを『水戸学』といいます。
『水戸学』は、光圀公時代から18世紀の始めまでの『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、斉昭公の時代の18世紀末から幕末にかけての『大日本史』編纂事業の継続と当時の時局問題の解決に目を向けた後期とに区別して論じられていますが、他藩からも注目されるようになったのは天保年間以後で「天保学」「水府の学」などと呼ばれ、それが明治以後になって『水戸学』と言われています。
そんな『水戸学』は、水戸藩天保改革の思想的裏付けとなっただけでなく、吉田松陰らに多大の感化を及ぼして幕末に高揚した尊王攘夷運動の指導理念となり、さらには明治国家の支配原理ともいうべき「国体」思想の源流ともなった点で、重要な歴史的意義を持つ学問です。
当時の『水戸学』は、内憂外患の国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張を持つようになるのですが、その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物が、「正名論」を著わした藤田幽谷※)です。
※)正名論より学ぶ!吉田松陰らの明治維新の志士や国体の源流ともいえる藤田幽谷!
幽谷は、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えましたが、その思想を継承・発展させたのが、『新論』を著わした門人の会沢正志斎と、『弘道館記述義』を著わした幽谷の息子・藤田東湖です。
『新論』は国家的視野から日本政治のあり方を論じたもので、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたもので、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説きました。
その主張は、藩財政の窮乏、農村の疲弊、士風の弛緩などに現れた内政問題と、西欧列強の圧力が増大する対外問題との、両面から迫りくる幕藩体制の危機を深刻に受けとめ、その危機打開策としてまず民心の統合を実現し、国内政治の改革を断行して国家の統一強化をはかることの必要性を説いた点に特色があります。
ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成されたのですが、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初といわれています。
日本の危機を救う!『新論』会沢正志斎(国体.形勢.虜情.守禦.長計)
一方、『弘道館記述義』は改革政治の眼目の一つとして開設された藩校弘道館の教育目標を示した『弘道館記』の解説書なのですが、国民が実践すべき道徳論を論じたもので、日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題としています。
そこから『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史過程に即して「道」を説き、日本固有の道徳理念を明らかにするため、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が、それを支える「天地正大の気」であると説きました。
そのため東湖は、内憂外患の時期にこそ「天地正大の気」を発揮して国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、と主張したのです。
更に東湖は、自叙伝的詩文『回天詩史』や文天祥の正気歌に寄せた詩文『和文天祥正気歌(正気歌)』を著していますが。ともに逆境の中で自己の体験や覚悟を語ったものだけに全編悲壮感が漂うことから、幕末の志士たちを感動させ、佐幕・倒幕の志士ともに愛読されたと言われています。
ここで藤田東湖自身について、少し触れておきましょう。
東湖は幼少の頃より、父・藤田幽谷から薫陶を受けて育ち、父の家塾「青藍舎」で儒学を修めるなど、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現していました。
やがて尊王思想「水戸学」藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編修、彰考館総裁代役などを歴任、徳川斉昭派に加わり、斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役を経て、側用人として藩政改革にあたるなど藩主、斉昭の絶大な信頼を得るに至り、その名は藩の内外に知れ渡るようになりました。
結果、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集める存在となり、各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれています。
佐久間象山、吉田松陰、橋本左内、横井小楠、有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など次々と訪ね、東湖の怪気炎に圧倒されるだけでなく、訪ねてきた若者同士が議論する“場づくり”をした意味でも、東湖の果たした役割は大きいといわれています。
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維新の時代に生きていたら、東湖はどのような役割を果たしていたのでしょうか。
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そもそも『水戸学』の思想は、朱子学や陽明学の歴史思想に基づいて日本の歴史を理解しようとする傾向が強く、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたものだったと考えられます。
しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われたことから、『水戸学』を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩を強め、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家の元での教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていきました。
今でこそ、荻生徂徠が唱えた新しい儒学の思想と、本居宣長の唱えた国学の思想などから影響を受けて独自の思想が形成された、18世紀末から幕末にかけての後期の水戸の学問が『水戸学』だと言われがちですが、これはあくまでも当時の時代背景を元にした狭義の意味でしかない、ということを私達は意識しておかねばなりません。
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その『水戸学』の神髄をしかと見極めながら、今の時代に貴重な精神性だけでもしっかりと残していきたいものです。