戦の道具でありながら、人々を魅了し続ける美しさを兼ね備えた日本刀。
今年は特に各地で日本刀ブームが起き、多くの心を捉えて離さなかった日本刀ですが、古来より戦に用いられながら、動乱の時代を迎えるたびに、実戦の中で鍛えられながら進化し続け、その機能美と芸術性を高めていきました。
そもそも日本刀は日本の歴史の中で信仰の対象ともなり、権威の象徴ともなってきました。
やがて日本刀は武士の魂と言われ、武士道の精神を今に伝えています。
その姿や反り格好は、その製作された歴史の中で、それぞれの必要性に応じて生まれ、その歴史や時代の思潮や様相を物語っています。
地がねの美しさは、和鉄の鋼を何回も折り返し鍛錬し、強靭な地がねを作ることによってもたらされた鍛え肌の美しさです。
その肌目は樹木の木肌と同じように、板目・柾目・杢目など文様はさまざまで、地肌のなかの「働き」には、地沸・地景・映りなど非常に趣き深いものがあります。
刃文の文様には沸出来、匂出来などがあって、透かして見ると秋の夜空に輝く星のようにきらきらと見える沸、またぼうっとかすんだ天の川を望むように見える匂などと言われていますが、これは刀工の美意識の集約とも言えるものです。
このように、未だに燦然と輝いている日本刀は、世界に類を見ない日本の文化財です。
日本刀に美を感じることは、日本の文化を感じることではないでしょうか。
ここでは、奥深き日本刀の世界に触れてみたいと思います。
そんな日本刀ですが、長さと作刀時期により大きく分類されています。
長さ
刃渡り二尺以上 刃を下向きにして佩き、腰に吊り下げる形で携行する。 応仁の乱を経て戦国時代に入ると、弓を主体とする戦から、槍や薙刀を主体とした打撃戦に移る。主武器である槍や薙刀を失った時に使うのが太刀で、あくまで補助武器のため一度抜き払った後に戻し構えてから使用する。 博物館などで展示する際も、刃を下にして(両端が反り上がった状態で)展示する。 室町時代には選定されていたという「天下五剣」は、時代を反映してすべて太刀となっている。 |
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刃渡り二尺以上。打刀(うちがたな)とも。 刃を上向きにして帯び、帯の間に差して携行する。 乱戦となりやすい戦国末期の戦場において、敵に出会った場合にすぐに抜刀して構えられるように刃を上向きにして装備する。左腰の鞘を左手で押え、右手で前方に抜き放つ。この抜刀術が発達して居合術が生まれた。 こと「打ち」刀と称したのは、短刀が甲冑の隙間から突いて使用したのに対して、打ち切ることを主眼とした武器であったため。 博物館などで展示する際も、刃を上にして(両端が下がった状態で)展示する。一般的にテレビの時代劇(武田上杉~織田豊臣~江戸時代幕末)で登場するのは打刀。 室町期に入るとこの打刀が流行し、応永(1394年)頃に作られた刀も刀銘のものが急増している。応永27年(1420年)に96歳で没した今川了俊が記した「今川大草紙」には、輿に載った場合に太刀と腰刀(短刀)は左側、打刀は右側に立てておくと書かれており、輿に乗るような貴人でも打刀を併用していたことがわかる。また大永8年(1528年)の奥書がある「宗吾大草紙」には、足利将軍の打刀の拵えについての説明があり、さらに将軍への献上物や武将間の贈答に打刀を用いる風潮を批判しているが、このことが当時すでに将軍でさえ打刀を用いており、有職故実家が批判せねばならないほどに打刀が流行していたことの証明になっている。 また、鎌倉以前に作られた古刀を短く磨上(すりあげ)た上で、打刀として使うことがこの時期行われた。名物で「磨上」となっているのはこのため。 |
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刃渡り一尺以上二尺未満 なお本来の「脇差し」は主武器ではない脇の武器という意味で、槍薙刀主流の際には太刀が脇差しだったが、その後打刀での戦闘が主流になると、打刀(刀)が本差、それに添える小刀を脇差しと呼ぶようになった。 一尺三・四寸までを小脇差、一尺七・八寸までを脇差または中脇差、それより二尺までを大脇差または間寸(あいすん)ともいう。 江戸時代に制定された武家諸法度では、脇差しは正規の刀ではないという位置づけで、百姓や商人、博徒なども携帯することが許された。 |
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一尺未満のもの。 古くは腰刀と呼ばれた。 俗称「九寸五分」。ごろが良いために軍記物などで使用される。 大石の魂たった九寸五分(川柳) 九寸五分の語源として、(1).眼口鼻耳の七孔に父母の2ツを咥えて九寸、それに五臓を五分として加えたもの。(2).天地人日月に五行を併せて九寸五分にしたもの。(3).経緯説(方位)では九寸は乾で家内和合、五分は巽で子孫繁栄を意味する。などの諸説がある。 本阿弥家では、四寸から五寸のものを懐剣と呼んだ。本来は、装束着用時や貴人の前に出る時など脇差も佩用できないときに懐中に忍ばせた短刀のこと。 |
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直刀は湾頭(わんとう=まっすぐでなく、そりのついた刀)以前の刀で、古墳時代から奈良時代にかけて制作された。 そりがほとんどなくまっすぐか、わずかに内反りで、平造り(平作)や両切刃造(もろきりはづくり)となっている。 直刀と同様な作りの刃は現代まで制作されている。 反りが付く前の刀剣はいわゆる直刀であり、中には大陸や半島由来のものも伝わっている。 |
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両面に刃がついていて、反りのつかないものを剣と呼ぶ。 | |
茎(なかご)を長く作り、薙ぎ払うために使われたもの。 刀身の先端へと反りがつき、中には穂先にかけて両刃(もろは)となるものもある。 また一般的に薙刀と長巻(ながまき)を区別して、薙刀造(なぎなたづくり)で横手(よこて)のないものを薙刀、あるものを長巻とする説があるが、今日では薙刀に統一している。 ※ 横手:鋒(きっさき)部分にある、鎬筋(しのぎすじ)と垂直に交わる筋のこと。 |
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柄(え)の先端に剣形の穂をはめ込んで使用されたもの。 穂先の部分の形状と柄の長短や大小は、時代や使用方法によって異なる。 先端の形状は、剣形(両鎬(りょうしのぎ))、平三角(ひらさんかく)、笹穂、十文字、片鎌(かたかま)など各種あり、直槍(ちょくそう)系と十文字槍(じゅうもんじやり)系に大別される。 |
作刃時期
古墳時代~707年あたりまでに作られた刀。 | |
平安中期 、鎌倉時代、吉野時代 、室町時代 、平安時代から文禄までに作られた刀 。 | |
桃山時代、江戸時代中後期まで、慶長以降、安永(江戸中後期)までに作られた刀 | |
江戸時代、幕末時代、 明治時代初期までに作られた刀 | |
明治時代中期から大正、 昭和、 平成に、昔のままの鍛練法によって作られた刀 |
分類
古刀期の著名な刀工 | 新刀期の著名な刀工 | ||
山城伝 | 直刃(すぐは=直線的な刃文)が多い | 三条宗近、来国俊、 来国光 |
梅忠明寿、肥前忠吉、 伊賀守金道 |
大和伝 | 基本は柾目肌 (まさめはだ=柾目板のような鍛肌) |
千手院一類、当麻、 手懸 |
越前康継、仙台国包、 南紀重国 |
相州伝 | 焼刃の乱れ刃にの中に 細かい粒がみられる。 |
新藤五国光、正宗、 貞宗 |
繁慶、直胤、 清麿 |
美濃伝 | 刃中に尖り刃をまじえる。 | 兼氏、兼定、 村正一類 |
政常、大道、 大村加ト |
備前伝 | 焼刃の形に白い線が見られる。 丁子乱か腰の開いた乱刃。 |
友成、正恒、 包平 |
河内守国助、助広、 水心子正秀 |
では次回からは、美しくも強い名刀の数々を、その物語と共にまとめていきたいと思います。