三経義疏 維摩経義疏より学ぶ!聖徳太子が示した、人の生きる本質!

『維摩経義疏』は、聖徳太子によって著されたとされる『三経義疏』のひとつで、『維摩経』の注釈書(義疏・注疏)として、613年に作られた3巻からなる書物となります。
なお、『三経義疏』の中では『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存していますが、『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられています。
『維摩経義疏』は、梁の吉蔵の『維摩経義疏』や敦煌出土の『維摩経義記』、智蔵や僧肇の『註維摩詰経』と類似しており、僧肇の『註維摩詰経』や智蔵(458年 – 522年)の説を論じているようです。
※)『法華義疏』については、”三経義疏 法華義疏より学ぶ!聖徳太子が記した日本最古の書物!”も参考にしてください。

『維摩経』は釈尊の十大弟子に匹敵する在家信者である維摩居士※)が、出家修行者たちに対して教えを説くという戯曲的構想で、在俗生活のなかで真理を体得することを教えているものですが、聖徳太子は『維摩経義疏』の中で、維摩居士の故事を通じて在家仏教(信仰者の立場)という太子自身の立場を宣言したものと言えます。
※)維摩居士とは、維摩経に登場する主人公で本来は金粟と言う如来で衆生を導くために下化した姿とも言われます。
 正式名称は維摩詰と言い、略して維摩となります。
 『維摩経』二章に於いて、富豪で仏教の教義に精通した在家信者と紹介されており、大乗仏教の見地から理想的な人間として記述され、菩薩の化身との説もありますが、弥勒菩薩と共に実在したとも言われています。
 居士とは、在家の主で資産・尊厳・社会的信頼を得ている者を言います。

仏教の中では「性相」という考え方があります。
「性」とはいわば仏界のことで、仏からは「迷いは生じない」つまり「悟りを得たものの世界(宇宙そのもの)」を言います。
「相」とは現世のことで、迷いはこの「相」から生じると法華経などでは説きます。
ところが聖徳太子は、大胆にも「この部分の経文」を否定し、「仏の世界とは性と相を相並べて照らすものである」と説いています。
恐らくは当時の世情を鑑みてのことだと思われますが、『維摩経』を出典としながらも「人間の体の中には良い心と悪い心が共存し、矛盾を抱えていながら生きている。そのどちらも受け入れる心が仏なのだ」ということを説いた訳です。。

そのため太子は『維摩経義疏』の中で、「出家に拘らず、世俗で人々に働きかけ弘通してゆく在家菩薩行の実践」を強調しており、飛鳥時代の流れにおける王法と仏法の静かなる調和と共生を掲げています。
太子は生涯に渡り、世間が虚假であるからこそ自暴自棄な絶望でなく、大慈大悲の仏心を持って衆生を救うことこそが大乗の菩薩行であるという信念を貫きました。
そのため、この維摩居士を自分に置き換えて生活の模範とし、その教えに直心は萬行の始めであるとし、総ての行為に前向きの姿勢が必要だとしてあらゆる拘りを捨てることを説き、発心して仏果の一切智を求めることは自己の修行の根本であるとしています。

聖徳太子の狙いは、恐らく特定の宗教に拘ることなく神仏儒道を超越した姿勢で、仏典の注釈書『三経義疏』という形で万善同帰を説いたのだと思われます。
その手段として『法華義疏』や『勝鬘経義疏』、そして『維摩経義疏』を起こしたにすぎません。
釈迦は説法のみで教えを伝え、対象毎に内容を変えられていましたが、現存する仏典は後世の人々がそれを各自の解釈で作成したものであり、そのため経典毎、宗派毎に数多の仏教があるといえます。
そうした中、恐らくは聖徳太子も宗教・宗派に拘ることなく、人が生きる本質を誰しもがわかりやすい形で示そうとしたのでしょう。

宗教的な力のみに頼るのではなく、その本質をきちんと見極める個々の力。
宗教だと一括りにして目を背けるのではなく、、その本質を捉える力。

それは太子の生きた時代だけでなく、今この現代にこそ改めて必要とされることなのだと思います。

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