『講孟箚記』(こうもうさっき)は、吉田松陰がペリー艦隊に密航しようとして失敗し、江戸伝馬町の獄につながれた後に故郷の長州へ移送され、萩城下の野山獄と杉家幽室で幽囚の身であった時、囚人や親戚と共に孟子を講読した読後感や批評し意見をまとめたものです。
『講孟箚記』の「箚」は針で刺すという意味で、「箚記」は書物を読む際に針で皮膚を刺し鮮血がほとばしるように肉薄し、あたかも針で衣を縫うように文章の意義を明確にする、という松陰の想いが込められていますが、後に自身その域に到達していないとして「講孟余話」と改題しています。
現代、松陰の名言として抽出されている多くがこの『講孟箚記』を出典としています。
野山の獄の囚人達は、松陰と交わることによって彼の人格に感銘を受け、当時まだ二十四歳の松陰を尊師と呼んだといわれています。
この囚人達を相手に、いかなる時でも学問は肝要だというので、松陰は自分の心を焦がすほどの気持ちを持っているという『孟子』※)を講義した、その講義録が1000ページを超える書物『講孟箚記』です。
※)『孟子』については、”孟子より学ぶ!性善説と王道に基づくリーダーの心得!”も参考にしてみてください。
松陰は強力な諸外国の開国要求に直面している状況で新しい対応策が必要であると痛感し、それには天下の人々の至誠だけが状況転換を可能にすると説きます。
孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という言葉は、この確信の支えでもあった訳ですが、松陰は「誠心」は高い極限の形であり強く人に訴える力を発揮すると確信し、その確信をまず身の回りの人々へ伝播・実践したのが、まさに『講孟箚記』でした。
「我れ亦た人心を正しくし、邪説を息め、詖行(ひこう)を距ぎ、淫辞を放ち、以て三聖者を承がんと欲す。」(滕文公章句下篇第九章)
松陰はこう説くのです。
「全章の主意は、この一節にある。
またこの一節は人心を正しくするというこの言葉に帰着する。
まさしく孟子が終身みずからに課したものもここにあった」
「そもそもこの章は、むかし禹が洪水を治め、周公が夷狄を征服し猛獣を駆逐して百姓を安らかにし、孔子が『春秋』を完成した事蹟に、孟子がみずからを対比しているところである」
「そして朱子は、この章の注でつぎのように述べている、
『思うに邪説がほしいままにはびこって人心を損なうことは、洪水や猛獣の災害よりもはなはだしく、また夷狄や、君位を奪い君主を弑する悪逆の臣の禍いより痛ましいことである。
それゆえ孟子はこのことを深くおそれて邪説から人心を救おうとつとめたのである』と。
この言は深く味わうべきである」
「今日もっとも憂うべきものは、人心の不正ではなかろうか」
「そもそもこの人心が正しくない場合には、洪水を治めたり、猛獣を駆逐したり、夷狄を征服したり、逆臣を誅殺したりすることなど、どうしてできるはずがあろうか。
天地は暗黒と化し、人道は絶滅してしまうのだ。
まことに思うだに恐ろしいことで注意すべきことである」
孟子の主意は「至誠」の二字にありましたが、松陰の至誠はまさに「人民への至誠」そのものであることが伺えます。
しかし、こうした強い信念を持つ松陰の思いにもかかわらず、明治期の元勲たちは、この至誠の言葉を「天皇への至誠」とすり替えて利用し、「富国強兵」の道へと人民を扇動していったのです。
松陰の「人民への至誠」の想いが正しく残っていれば、日本という国はもっと別の選択肢があったのかもしれない、と思わずにはいれません。
そんな吉田松陰の人としての香気の高さは、日本史上でも傑出したものですし、だからこそ現代においても多くの人を魅了し続けるのだと思います。
学問をするとは単に知識を身につけたり技術を身につけたりすることではなく、そこから学び、考え、自身の人間を磨くということだということを切々と説く松陰は、そのための方法論として「其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず」ということが、大切だといいます。
「詩」とは五経のうちの『詩経』などであり、
「書」とは四書としての『論語』『孟子』『大学』『中庸』などであり、
「世」とは史書としての『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』などでした。
つまり、東洋の古典を学ぶことこそが、学問の基本だった訳です。
※)このあたりの一連の古典については、”目次”の各リンクを参考にしてみてください。
この観点に立ってみれば、戦後70年の間日本は本来の学問をないがしろにし、その品格や品位までをも見失ってきているように感じるのです。
吉田松陰の『講孟箚記』からその精神に改めて触れ、王道としての学問に改めて取り組むべき時代にきているのではないでしょうか。
原文は、以下のサイトなども参考にしてみてください。
・講孟箚記