当初『古事記伝』第1巻総説に収められたものが、のち単行本として刊行 (1825) された、”直毘神のみたまにより漢意 (からごころ) を祓い清める”という意味を持つ表題『直毘霊(なおびのみたま)』。
これは江戸中期に活躍した本居宣長が著した1巻から成る国学書ですが、宣長の神道説・国体観などが説かれており、漢意を排し日本の古代にあった、ただ神意に任せ、人智を加える必要のない「ものに行く道(惟神(かんながら)の道)」を説く宣長の「古道論」「国学思想」の精髄が展開されています。
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『直毘霊』は、賀茂真淵の『国意考』と並んで復古神道(古学神道)を代表する書とも言われていますが、宣長は日本の古代こそが平和と人間性の完全な開花が実現した理想世界であり、それは神々の計らいを信じ、日神天照大神を祖神とする代々の天皇の統治に随順した古代人の生き方によってもたらされたものであるとし、この古代人の姿こそが真の神道であると説いています。
一方、当時官学であった朱子学ですべてが語られる時代背景を鑑み、当時の社会で主流であった儒教や監修として根付いていた仏教は人間がその限りある知恵をもって作り出したものにすぎず、人情に反するばかりか人間の本性をもゆがめてしまうとして、無闇に漢学を敬うのではなく、和魂漢才、和魂洋才の心を持って、自身の目で神代から連綿と続く皇御国(すめらみくに)を見つめ直そうと説いたのです。
もう少し具体的にいえば、宣長は漢籍の説く道が聖人の制作した道徳的規制・制度であるとみており、当時革命を繰り返して混乱する中国の政体や天命が常に善(聖人)を支持するという中国の教義は、聖人の道徳的正統性を保証するためのものであり、現実と整合しない教説であって、それは「さしから」な解釈の産物であると評しました。
一方、神代以来の君臣の秩序を維持している日本の特徴を説き、日本では禍津日神の働きを認めて事実をそのままに受け止めており、その時々の状況に対し無理に道徳的正統性を論じないことで、穏やかに治まってきたことを評価すると共に、日本の道が「さかしら」を加えない神代以来の自然な「ものに行く道」であったからだと評したのです。
『直毘霊』は、一見排他的で日本第一主義であるかのようですが、日本や日本の風土や文化をこよなく愛していた宣長は、当時の時代背景に反発し、古典の世界に「あるべき姿」を見出し、自分の思い描く理想世界を人心が素朴であったと思われる太古の日本に幻視し、題目に「此篇は、道といふことの論(あげつら)ひなり」と付記されているように、日本自身のアイデンティティーをあえて強く主張したとも言えるのです。
世を動かしているのが、宣長が説く禍津日神と直毘神の働きに帰着すると仮にすれば、神の荒ぶる心を鎮め、和ませる主情主義的な文化創造こそが、世の平和と民の幸福をもたらす上で最も大切な営みだと宣長は言いたかったのではないでしょうか。
殺伐とした時代に潤いを与え、和やかで真情あふれる時代の雰囲気を生み出す宣長の文化創造の立場からの視線は、「もののあはれ」に素直に感動する心を大切にしたいという気持ちに直結します。
そんな宣長の熱い気持ちの入った『直毘霊』を、冷静な目で改めて読んでみてはいかがですか。
参考までに、こんなサイトもあります。
本居宣長研究ノート「大和心とは」
以下、参考までに『直毘霊』を現代語訳にて一部抜粋です。
『直毘霊 本居宣長』
皇大御国(すめらみくに、日本の美称)は、申し上げるのも恐れ多い、神の御始祖である天照大御神がお生まれになっている大御国であり、
大御神が、手に天の世界の璽を捧げ持ち、
「万年千年にもわたる長い年月において、我が子孫が治めるであろう国である。」と、口ぞえなさるそのままに、
空の雲がはるか遠くに横たわっている限り、谷蟆(たにぐく、ひきがえるの古称)の泣き声が響き渡る限りまで、皇御孫命(天照大御神の御子孫)の大御食国(御統治なされる国)と定まって、天下には荒々しく振舞う神もなく、命に従わない人もなく、
幾千幾万の御世代の御子孫の御世に至るまで、天皇命(すめらみこと)は大御神の御子孫としていらっしゃって、
天つ神(天界出身の神)の御心をその大御心として、
神代の昔も今も変わりなく、
神でありながら国を安んじて平穏に御統治なさる大御国であるので、
大昔の大御世には、「道」という言葉をわざわざ口に出すことも全くなかった。
それは、ただ物事に自然に従って信仰する「道」があったのみである。
物事の道理があってしかるべき方法や、様々な教えについて、「何の道」「これの道」と言葉に出して言う事は他国の方法である。
しかしながら時代がやや下って、書物と言うものが中国から渡来して参り、それを読んで学ぶ事が始まって後に、その書物の国の方法を真似して、段々といろいろな事に混じって用いられる御世になって、大御国の古来よりの大御てぶり(御方法)を区別して、神道と名付けられたのである。それは、例の外国の「道」らと区別が付かないため「神」と呼び、また他国の呼び名を借用して、これについても「道」というのである。
そのようにして御世御世を重ねるにつれて、ますます中国の方法を思慕し学ぶ事が次第に盛んになり、遂には天皇の御統治なさる大御政も、専ら中国風になり切って、
庶民の心までも中国風に変わっていった
禍津日神の所業は、本当に悲しむべきことであった。
(※)王莽は前漢から禅譲させて新朝を建国。曹操は後漢から政権を引き継ぐ魏の実質的建国者であるが、実際に禅譲を受けたのは子の曹丕であることは周知のとおり)
そのようにして安泰で平穏にやってきた御国の乱脈な事が出てきて、異国に少々似た事も後世には混じったのである。
しかしながら、天照大御神が、高天原におわしましまして、大御光がいささかも曇りなさることなく、この世を御照らしましまして、天津御璽もまた、他へさまよう事もなく御子孫に伝わりましまして、力添えなさるそのままに、天下は、御孫命である皇室が御統治なさって、
天津日嗣の高御座(たかみくら)(皇位)は、
天地と共に、常盤(巨岩)のようにとこしえに変動する事がないのが、この国の「道」の霊妙で奇跡的に、異国の幾万の道よりも優れて、正しく高く貴いという証拠である。
さてそれではこの「道」は、どのような「道」であるかと尋ねるなら、天地の間に自然にできた「道」ではない。
人が作った「道」でもない。この「道」は、恐れ多い事に高御産巣日神の御霊によりて、
神々の祖・伊邪那岐(イザナギ)大神・伊邪那美(イザナミ)大神が御始めになり、
天照大御神が受け継ぎなさり、お守りになって、伝えなさる道である。こうした理由のため、「神の道」と申し上げるのであるぞ。
さて、その「道」の意味するところは、この古事記を始め、様々な古書をよく味わってみれば、今も大変よく分かるのであるが、世間の物知り顔な人々の心は、みな禍津日神に交わり凝り固まって、ただ中国の文書にばかり心を惑わされ、思うこと全て、言う事全ては、皆仏教と儒教の言う事ばかりで、本との「道」の心を理解していないのである。
そのため、そうした世の知識人は、自らの身に受け継いで行うべきである、神道の教えであるなどと言って、様々な物を書いているのも、全て他国の道の教えを羨んで近年に作り出した私的な物である。
ああおそれおおいことに天皇が天下を統治なさる「道」を下の中の下として、自分自身の私的なものとしていることよ。
人はみな産巣日神の御霊によって生まれたそのままに、身にあってしかるべき限りの行いは、自然と知ってしっかりとするものであるから、
太古の大御代には、下々まで、ただ天皇の大御心を心として、
ひたすらに大命を謹んで承り申し上げて、大いなる立派である神の御蔭に人目につかないようにして、誰も彼も祖神を奉り祭祀しつつ、
分相応にあるべきである限りの事をして、穏やかに楽しく世を過ごす他はなかったのであるから、
今またその「道」と言って、他に教えを受けて、実行するべきことはあるであろうか、そんなものはありはしない。
もし強いて求めるというならば、穢れた他国の書物に被れた心を祓い清めて、清々しい御国心をもって、古典を良く学びなさい。
そうすれば、改めて受け入れ行うべき道がないことは、自然とわかるであろう。
それを知ることが即ち「神の道」を受け入れ実行することである。
そうであるのでこのようにまで論争するのも、「道」の本意ではないけれども、禍津日神の御所業を見ていながら黙っていることはできず、神直毘神大直毘神の御霊を賜って、この過ちを正そうと思ったのである。
これは、私の自分勝手な心で言うのではない。ここで述べたことは、すべて古典に逐一証拠のあることだから、それらをよく読む人は決して疑わないだろう。
以上は、明和八年十月九日、伊勢国飯高郡の御民、平の阿曾美宣長が、かしこみかしこみも記す。