修身教授録より学ぶ!日本製論語に見る、生きるための原理原則とは。

『修身教授録』の著者・森信三氏は、戦前・戦後を通じ日本の教育界最大の人物であると言われた哲学者・教育者です。
その生涯は「人生二度なし」の真理を根本信条とし、「全一学」という学問を提唱しています
「全一学」は、
・東西の世界観の切点を希求するもの
・宇宙間に遍満する絶対的全一生命の自証の学
・世界観と人生観との統一の学
など12項目以上の定義にもとづくもので、要約すると「宇宙の哲理と人間の生き方を探求する学問」というもの。
理論は実践から生まれた具体的なものが主で、立腰論(人間に性根を入れる極秘伝)はその最たる例の一つです。

その森信三氏の名著『修身教授録』は、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)本科での講義から、昭和12年3月から昭和14年3月までの2年間全79回の講義を改めて編集したものです。
当時の森信三氏の教育は、検定教科書を用いず、自身の修身に対する考えを生徒全員に口述筆記させるという形態を採っていました。
こうした破天荒なやり方のため、文部省からクレームを言われたら辞表を出そう、とまで決意して臨んでいだ講義だったそうです。
その中身は
「志の立て方」「信念の育成方法」「家庭のしつけ」
「 親孝行」「 家族・家庭」「 勤労・努力」「 勉学・研究 」
「創意・工夫」「 公益・奉仕」「 博愛・慈善」「 資質・倹約 」
「責任・職分」「 友情」「 信義・誠実」「 師弟・反省」
「正直・至誠」「 克己・節制」「 謝恩 」 「健康・養生」
「愛国心」 「人物・人格」「 公衆道徳」「国旗と国家」「 国際協調」
といった、人としての生きる基本・原理原則が書かれています。
今から80年近く前の講義ですが、一行一行がひしひしと心に沁みてくる、まさに日本版の論語といっても過言ではない名著。
そのポイントを幾つか整理してみましょう。

・人はこの一度しかない人生をいかに生きるべきであるか、人生をいかに生き貫くべきであるか?
 一切の困難に打ち克つ大決心を打ち立てる覚悟がなくてはならない、と呼びかけています。

・真の教育とは相手の眠っている魂をゆり動かし、これを呼び覚ますこと。
 教える立場の人が命がけで人を教育するということ。
 相手の魂に火をつけて、その全人格を導くという志を持つことが、真の教育だと説うています。

・どんなに才能があっても、学問修養によって自己を練磨しようとしない限り、才能も結局はうち果ててしまう。
 どこまで社会貢献できるか?役に立つことが成せるのか?を考え抜くことが重要。
 真の志を打ち立てること、そして一生をかけて志を達成する人格を作ること、そのために人間を磨くべきだと呼びかけています。

・一度しかない人生の間に、不屈の精神を確立できた人だけが、多くの人々の心に火をつけることができる。
 地位とか学歴などに縛られず、天命を受け入れ最善を尽くすべきだと説うています。

・独力で自分の道を切り開いて行ける人になるべきで、そのためにも自立の覚悟を養うことが大切。
 日常生活を充実させるために、自己の成すべき仕事の意味・意義を自覚し、こなすことが肝要だと説うています。

・人間が他の動物と違う点の一つとして、自分の人生をどう生きるか考えることができる点。
 ほとんどの人はこの点に気が付いていないが、自分が今生きていることを当たり前だと考えず、自分の生き方を考え努力することで変えていこうと呼びかけています。

こうした珠玉の言葉が散りばめれた名著、是非とも触れてみてください。

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以下のサイトには詳細の紹介もあるので、参考にどうぞ。
[修身教授録]

以下参考までに、一部抜粋です。

人間というものは、すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け入れるところに、心の根本的態度が確立すると思うのです。各自己に対して必然的に与えられた事柄については、ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩すすめこれを【天命】として受ける事が大切であり、同時にかくして初めて我々は真に絶対的態度に立つことができると思うのです。

大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。したがって、ここにわれわれの修養の根本目標があると共に、また真の人間の生活は、ここからして出発すると考えているのです。

自分がこの世の中へ人間として生まれて来たことに対して、何ら感謝の念がないということは、つまり自らの生活に対する真剣さが薄らいで来た何よりの証拠と言えましょう。というのもわれわれは、自分に与えられている、根本的な恩恵を当然と思っている間は、それを生かす事はできないからです。これに反してそれを『かたじけない、ありがたい』と思うに至って初めて真にその意義を生かすことができるのです。

われわれ、生をこの国土にうけたことを、非常な幸せと言うべきにもかかわらず、われわれはその日々の生活においては、とかくこの点おろそかになりがちで、ほとんどそれと気付かずに日を送っているわけです。それというのも、それはいわば空気のようなもので、われわれ一日として、否、一刻といえども、空気なしには生きられないにもかかわらず、空気のことを意識することは、ほとんどないにも似ていましょう。

教育が民族の運命に対していかなる意味を持つかという問題については、今更蝶々するまでもなく明らかなことであります。すなわち教育は、次の時代にわれわれにかわり、この国家をその双肩に担って、民族の使命を実現してくれるような、力強い国民を作り出すことの外ないのです。『教育は国家的な大事業であり、次の時代の運命を支配する努力だ』と言われています。

志学という言葉は論語の中にある言葉です。すなわち『吾れ十有五にして学に志す』とあって、孔子がご自信の学問求道のプロセスをのべられた最初の一句であります。これを言い換えますと、孔子の自覚的な生涯は、ここから始まったということであります。しかしこれは孔子に限らず、すべての人間の自覚的な生涯、すなわちその人の人生は、この志学に始まると言ってもよいのです。

われわれは、一体何のために学問修養をすることが必要かというに、結局は『人となる道』、すなわち人間になる道を明らかにするためであり、さらに具体的に言えば、『日本国民としての道』を明らかに把握するためだとも言えましょう。またこれを自分という側から申せば、自分が天からうけた本性を、十分に実現する途を見出すためだとも言えましょう。
ところでこの自己の天分を発揮するということですが、実は単に自分のことだけを考えていたんでは、真実にはできないことであります。すなわち人間の天分というものは、単に自分本位の立場でこれを発揮しょうとする程度では、十分なことはできないものであります。ではどうしたらよいかというに、それには、自分というものを超えたある何物かに、自己をささげるという気持ちがなければ、できないことだと思うのです。

読書はわれわれ人間にとっては心の養分ですから、一日読書を廃したら、それだけ真の自己は『へたばる』ものと思わねばなりません。肉体の食物は一日はおろか、たとえ一食でもこれを欠いたら、ひもじい思いをするわけですが、心の養分としての読書となると、人々はさまで考えないでいるようですが、諸君らの実際はどうでしょうか。そこで諸君は、差し当たってまず『一日読まざれば一日衰える』と覚悟されるがよいでしょう。

『尚友』と言う言葉は、友を尚ぶという意味で、この言葉は読書と並べて、古来『読書尚友』というふうに使われている言葉であります。げんに松陰先生も、『士規七則』の中に使われているのであります。では、何故我々は、友を尚ぶ必要があるのでしょうか。言ってみれば、友人は自分の同輩であり、そうした友人を何故とくに尚ぶと言うかというに、畢意これは道の上から言うことであります。
すなわちその友人が、道の上からは、自分より一歩ないし数歩をすすめており、したがって自分は、その友において大いに尊敬すべきものを認めるという時、初めて友を尚ぶとなるわけです。我々人間が、友人関係から与えられる影響は、実に大いなるものがあると言ってよいのです。実際真の友人というものは、一面からは肉親の兄弟以上に深い理解と、親しみを持つ場合さえ少なくないのです。

孔子の論語の始めにある『朋遠方より来るあり、亦楽しからずや』の朋とは、実は『同門の友』ということだそうです。すなわちただ遠方から友人が訪ねて来たというだけでなくて、師を共にし、かつては師の許で起居を共にした同門の友が、その後国へ帰り、互いに遠く離れ住んでいる。それがはるばると訪ねて来たというわけです。かくして真の尚友とは同門の友にして初めて言うことができるとも言えましょう。

われわれ人間の価値は、その人がこの二度とない人生の意義をいかほどまで自覚するか、その自覚の深さに比例すると言ってもよいでしょう。ところで、そのように人生の意義に目覚めて、自分の生涯の生を確立することこそ、真の意味における『立志』というものでしょう。随って人生の意義は、少青年の時におけるその人の志の立て方のいかんに比例すると言ってもよいわけです。
すなわち人間の価値は、その人がこの人生の無限なる意味を、どれだけ深く自覚し、またそれをどれほど早くから、気づくか否かによって定まるとも言えましょう。これ古来わが国の教育において、『立志』の問題がもっとも重視せられたゆえんであって、極言すれば教育の意義は、この立志の一事に極まると言ってもよいほどです……また真に志が立ったなら、自分に必要な一切の知識は、自ら求めて止まないものであります。

真に国家の前途を憂える教育者は、どうしても常に、二十年先、三十年先の国家を考えていなければならないと思うのです。もちろんそれは、個人の場合と違って、刻々に移りいく現状の変化によって、常に転変してやまないわけですが、しかし、真の教育者、常にそれを考え洞察していかねばならぬと思うのです。正しい見通しを得る人はないとも言えましょうが、我々は教師としては、一個の人間として、自分が今後十年、二十年後に、自分の属している教育界に対して、果たしていかほどの貢献をなし得るか否かということについての見通し、並びにいま教えている生徒たちが、十年、二十年後にどのような人間になって、どの程度国家社会のお役に立つであろうかという見通しについて、とにかく常に心の底で考えていなくてはならぬと思うのです。真に国家の前途を憂える教育者は、どうしても常に、二十年先、三十年先の国家を考えていなければならないと思うのです。

真の道徳修養というものは、意気地なしになるどころか、それとは正反対に、最もたくましい人間になることだと言ってよいでしょう。すなわちいかなる艱難辛苦に会おうとも、従容として人たる道を踏み外さないばかりか、この人生を、力強く生きぬいていけるような人間になることでしょう。その意味からは、真の道徳修養は、またこれを剛者の道、否、最剛者の道と言ってもよいでしょう。ですから、もしこの根本の一点をとり違えて、道徳修養とは、要するに去勢せられた、お人好しの人間になることだなどと考えたら、そういう誤った修養なら、むしろない方が遥かにましだとも言えましょう。そうして言葉というものは、単に外側からながめている程度では、決してその真相の分かるものではありません。そこで今欲をすてるということも、実際に、身をもってこれにぶち当たってみないことには、その真の意味は分からないのです。

人間は、自ら積極的に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、わが一身の欲を打ち超えて、天下を相手とする大欲に転ずることとも言えるのです。しかるに世間の多くの人々は、欲を捨てるということを、単に言葉だけで考えているために、捨欲の背後に大欲の出現しつつあることに気付かないのです。そしてこのような背後の大欲が見えないために、欲を捨てるとは、意気地なしになることくらいにしか考えられないのです。
ところが人間が真に欲を捨てるということは、実は自己を打ち超えた大欲の立場にたつということです。すなわち自分一身の欲を満足させるのではなくて、天下の人々の欲を思いやり、できることなら、その人々の欲をも満たしてやろうということでもあります。かくして人間は、自分一人の満足を求めるチッポケナ欲を徹底的にかなぐり捨てる時、かつて見られなかった新たなる希望が生まれ出るものです。これ果たして弱者の道でしょうか。

真に偉大な人格は、これに接した人々が、直接眼のあたりその人に接ていた時よりも、むしろその膝下を去って、初めてその偉大さに気付くものでもあります。金剛山の高さは、山の中にいる時よりも、これを遠ざかって石川河畔に立ち、さらに河内平野に立つ時、いよいよその偉容を加えて来るのであります。
人間もまた同様である

教育ということは、これを言い換えると『人を植える道』と言うこともできましょう。
すなわち一人の人間を真に教育するということは、たとえば一本、一本木を植えるようなものであって、たとえ植えた当の本人たる教師自身は亡くなっても、もしその木が真に植えついていたならば、木はどこまでもその生長をやめないでしょう。
ここにおいて我々が、今後真に確実に、人材を現実の大地に植えつけようとするには、単に学校教育のみが教育のすべてである、と考えるわけにはいかないともいえましょう。
そしてその立場からは現在のような教育は真の教育に対して、いわば準備期であり、一種の地ならし作業にしかすぎないとも言えましょう。
一人の偉大な教師の存在によって、二十年三十年、否、四十年五十年後に、その地方が根本から立ち直って、そこに新たなる民風が起こるというでなければならぬでしょう。
その時、その種子をまき、苗を育てた教育者の肉体は、すでにこの地上にはないでしょう。

『葉隠』という書物は、佐賀の鍋島藩の武士道を説いたものです。
「武士は死ぬことと見付けたり」と言う言葉が最初に出ているところで有名です。
この『葉隠』は武のことは三割くらいで、後の七割は、人間としての嗜みを、あらゆる方面から教えたものです。
ですからどんなひとが読んでも、読み方いかんでは、ためになります。
たとえば「多弁であるな」とか「酒席での注意」とかさらに「どうしたらあくびを人に見られないか」などというような、ごく手近な、それでいて、なかなか大切な心遣いが沢山書かれています。

人間というものは、これ大きく分けると、だいたい血、育ち及び教えという三つの要素からでき上がると言えましょう。
ここに『血』と言うのは血統のことであり、さらに遺伝と言ってもよいでしょう。また『育ち』というのは、言うまでもなくその人の生い立ちを言うわけです。
そして『教え』と言うのは、その人の心を照らす光と言うわけですが、しかしこの場合、家庭における『躾』というものは、『育ち』の中にこもりますから、結局 教えとは、家庭以外の教えということであり、とくに私としては、一個の人格に接することによって与えられる心の光というわけです。

慎独について
古来独りを慎むと言うことが大切とされていますが、慎独とはある意味では、この性欲を慎むところに、その最下の基礎があると言ってもよいでしょう。
この問題はことがらの性質上、どうも正面から話を聞くという機械は、ほとんど絶無と言ってもよいでしょう。
また古今の修養書などにしましても、この問題を正面から、しかも深い立場から解き明かしたものは、有名な貝原益軒の『養生訓』を外にしては、ほとんど絶無と言ってよいでしょう。
これここに私が、とくにこの問題に関して、諸君にお話申すことにしたしだいです。

性欲の問題
性欲の問題についてですが、まず根本的に考えねばならぬことは、性欲は人間の根本衝動のひとつだということです。すなわちこれを生理的に言っても、性欲は人間の生命を生み出す根本動力だと言えます。
その意味からは性欲はわれわれ人間にとって、最も貴重なものであって、断じておろそかに考えてはならぬと言えましょう。そこで今性欲に関する問題を結論的に言うと、性欲の萎えたような人間には、偉大な仕事はできないと共に、またみだりに性欲を漏らすような者にも、大きな仕事はできないということであります。すなわち人間の力、人間の偉大さというものは、その旺盛な性欲を、常に自己の意思的統一のもとに制御しつつ生きるところから、生まれてくるといってもよいでしょう。

すべて物事というものは、形を成さないことには、十分にその効果が現れないということです。同時にまた、仮に一応なりとも形をまとめておけば、よしそれがどんなにつまらぬと思われるようなものであっても、それ相応の効用はあるものだということです。さてこのことは、この現実世界のあらゆる方面にあてはまる事柄であって、その意味からは、この現実世界における根本理法の一つとさえ言え得るかとおもうほどです。それもまた当然のことと言えるのは、そもそもこの現実界というものは、有形の世界であり、有形の世界は、やがてまた成形の世界と言ってもよいからです。諸君らにしても、この不可不思議とも言うべき『成形の功徳』を諸君らを取り巻いている一切の日常生活の上に実現するか否かによって、諸君らの人生の行手が、大きく別れると言ってもよいでしょう。

実際各自がその顔の独自な点においては、天下に同じ人間は二人とはないはずで、その意味からはお互いに、何人も日本においてそれぞれ唯一人者のみならず、実に全世界における唯一人者であります。しかるにこの日本における唯一人者、さらに世界における唯一人者を、実際に発揮し実現するということは、必ずしも容易なことではありません。
もっとも人間は、自己の特色というものは、しいて特色を出そうとしても出るものではありません。
また故意に早くから、意識的に特色をつくろうとしますと、とかく大きな発展は遂げにくいものである。
もし諸君らにして自分の選んだ一、ニの研究を、生涯貫いていたなら、諸君らの研究といえども、ある意味では学界の一隅に、貢献し得るものとなり得ぬわけでもないということです。

そもそも謙遜ということは、我が身を慎んで己を正しく保つということが、その根本精神をなすのであります。つまりいかなる相手に対しても、常に相手との正しい関係において、自己を取り失わぬということです。すなわち必要以上に出しゃばりもしなければ、同時にまた妙にヘコへコもしないということであります。してみれば、人は真に謙遜ならんがためには、何よりもまず自己というものが確立している事が大切だと言えましょう。
すなわち相手が目下であるからといって調子にのらず、また相手が目上になればとて、常に相手との正しい身分関係において、まさにあるべきように、我が身を処するということであります。
かくして寸毫も嫌味の伴わない真の謙遜とは、結局はその人が、常に道と取り組み、真理を相手に生きているところから、おのずと身につくものと思うのであります。

真の教育というものは、単に教科書を型通りに授けるだけにとどまらないで、すすんで相手の眠っている魂を揺り動かし、これを呼び醒ますところまで行かねばならぬのです。
すなわち、それまではただぼんやりと過ごしてきた生徒が、はっきりと心の眼を見ひらいて、足取り確かに、自分の道を歩み出すという現象が起こってこなくてはならないのです。
しかしながら、このような相手の魂をその根本から振り動かして目を醒ますためには、どうしてもまず教師その人に、それだけの信念の力がなければならぬでしょう。
すなわち二度とない人生を、教師として生きる外ない運命に対して真の志というものが立っていないところに、一切の根元があると思うのです。しかしそんなことで、どうして生徒たちに『志』を起こさすことができましょう。それはちょうど、火のついていない、きよ火で沢山のきよ火をつけようとするようなものです。

さて教育の力は、何よりもまず教師自身の自覚の力に待つとしたら、さらに一歩進めて『では、その教師の力は、一体どこから出てくるのか』この点を明らかにしなくてはならぬでしょう。
それは人によって、多少考え方の違いはありましょうが、結局それは我が国の現状、並びに将来を考えるということが、その根本をなすのでしょう。
すなわち国民教育者としての真の自覚は、何よりもまず我が国現下の国情について深刻に憂えるところから来るのです。
人間も、単に個人的な名利を求める動機から出る熱心さは、たいてい限度のあるものです。
かくして真に尽きせぬ努力というものは、結局私欲を越えて公に連なるところから初めて生まれると言えましょう。それはいわば普通の井戸と掘り抜き井戸の違いのようなもので、普通の井戸では幾ら水が出るといっても、そこには一定の限度があります。

真の『誠』は、何よりもまず己の『つとめ』に打ち込むところから始まると言ってよいでしょう。すなわち誠に至る出発点は、何よりもまず自分の仕事に打ち込むということでしょう。総じて自己の務めに対して、自己の一切を傾け尽くしてこれに当たる。すなわち、もうこれ以上は尽くしようがないところを、なおもそこに不足を覚えて、さらに一段と自己を投げだしていく。これが真の誠への歩みというものでしょう。そこで真の誠への歩みは、またこれを『全充実の生活』と言ってもよいわけです。
古来、誠ほど強いものはないと言われるのも、要するにこの故でしょう。
松陰先生は『至誠にして動かざるものは未だこれにあらざるなり』とおっしゃっていられますが、諸君らはこれを只事と思ってはならぬのです。自分のすべてを投げ出していく必死の歩みなればこそ誠は真の力となるのです。

『死生の問題』などと言いますと、諸君らのような若い人は、自分らのような若い者には、そんなことは縁遠いことだと思われるかも知れません。
しかし私は必ずしもそうとは思わないのです。
と申しますのも、我々人間は、死というものの意味を考え、死に対して自分の心の腰が決まってきた時、そこに初めてその人の真の人生は出発すると思うからです。
したがって、これを逆に申せば、未だ死について何らかの考えもなく、死に対して何らかの腰の決まらないうちは、その人生は、いまだ真実とは言えないと言ってよいでしょう。我々人間は、自分の力を真に残りなく発揮し尽くすことによって、そこにおのずから生死一貫の道に合することができるのであります。同時にそれはまた生死を超越する道でもありましょう。
すなわち現在の自分としては、もはやこれ以上はできないというまで生に徹することによって、そこには生命の全的緊張の中に、おのずから一種の愁々たる境涯が開かれてくると言えましょう。

ただ現在自分の眼前に、ちょこなんとして腰かけている子供たちに話しているだけでなく、その背後には、常に二十年、三十年の後、かれらが起ち上がって活躍する姿を思い浮かべて語る、という趣がなくてはならぬでしょう。すなわち諸君らが、かくあれかしと思う姿を、常にその心中に思い浮かべつつ、教えなくてはならぬでしょう。同時にその時諸君らの話す一語一語は、子供たちの心の中に種子まかれ、やがて二十年、三十年の後に開花し結実するでありましょう。かくして真の教育とは、ある意味では、相手の心の中へ種子まくことだと言えましょう。

真に我が生命の根源を把握することは、決して容易なことではありません。けだし真に生命を捉えるには、自らの生命に徹する外ないからであります。否、我が生命の根源に触れんがためには、その一分身としての私達は、文字通り自らの生命を捧げなければならないでありましょう。古来言葉をたやすくするものは、多くはこれ自らの生命に忠実なる者ではありません。

私は人生の真の出発は、志を立てることによって始まると考えるものです。
古来、真の学問は、立志を持ってその根本とすと言われているのもまったくこの故でしょう。
人間はいかに生きるべきか、人生をいかに生き貫くべきであるかという一般的真理を、自分自身の上に落として来て、この二度とない人生を、いかに生きるかという根本目標を打ち立てることによって、初めて私達の真の人生は始まると思うのです。このように私は、志を打ち立てるところに、学問の根本眼目があると信じるものです。その他のすべての事柄は、要するにこの根本が打ち立てられるところに、おのずからにしてできてくるのです。
私が諸君らに対してのべようとすることは、諸君らにとっては、『我いかに生くべきか』という問題であり、さらにそれを突き詰めれば、『国民教育者として真に意義ある人生を送るには自分は今後一体どう生きたらよいか』という問題だと言ってよいでしょう。

そもそも真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、常にその念願に現れて、自己を導き、自己を激励するものでなければならぬのです。
書物を読んで感心したり、また人から話を聞いて、その時だけ感激しても、しばらくたつとケロリと忘れ去るようでは未だもって真の志というわけにはいかないのです。
いやしくもひとたび真の志が立つならば、それは事あるごとに、常に我が念頭に現れて、直接間接に、自分の一挙手一投足に至まで、支配するところまでいかねばならぬと思うのです。
そもそも人がその一言を慎み、一つの行をもおろそかにしないということは、その根本において、その人が、この人生に対して志すところが高く、かつ深いところから発するのだと言えましょう。

そもそも世の中のことというものは、真実に願うことは、もしそれが単なる私心に基づくものではない以上、必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものであります。このことは、これを信ずる人には、必然の真理として実現するでしょうし、これを信じない者には、単に一片の空言として終わるのです。
総じて人間界の真理というものは、こうしたものなのてす。少なくとも私自身は、この真理をかたく信じて疑わぬものであります。
また実に今日まで私の見て来たところによれば、古来偉人と呼ばれるほどの人は、皆ことごとくこの真理を確信して、その生涯を生き貫いた人々のように思われます。

そもそもこの世の中のことというものは、大低のことは多少の例外があるものですが、この『人生二度なし』という真理のみは、古来只一つの例外すらないのです。しかしながら、この明白な事実に対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか。
すなわち自分のこの命が、今後五十年くらいたてば、永久に消え去って、再び取り返し得ないという事実に対して、諸君たちは、果たしてどれほどの認識と覚悟とを持っていると言えますか。諸君たちが、この『人生二度なし』という言葉に対して深く驚かないのは、要するに、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。
要するにこのことは、諸君たちが自分の生命に対して、真に深く思いを致していない何よりの証拠だと言えましょう。
すなわち諸君らが二度とない人生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。

思えば私達が、何ら自らの努力によらないで、ここに人間としての生命を与えられたということは、まことに無上の幸と言うべきでしょう。しかも私達は、これが何ら自己の努力によるものでないために、かえってこの生命の貴さに対して、深い感謝の念を持ち得ないのです。すなわち自分のこの生命に対して、真の感謝、愛惜の念を抱き得ないのです。
諸君、試しに深夜、一本のローソクを机の上に立てて端座瞑目して過ぎ去った自分の過去を願みてごらんなさい。そして自分がすでに人生の四分の一(学生向けの講義)近くを空費したことに想い至る時、諸君は、果たしてどのような感概に打たれるでしょうか。
その時諸君らの人生は、初めて真に自覚的な一歩を踏み出すと言えましょう。

そもそも偉人と言われるほどの人間は、何よりも、偉大な生命力を持った人でなくてはならぬはずです。
しかもそれが、真に偉人と呼ばれるためには、その偉大な生命力が、ことごとく純化し浄化せられねばならぬのです。
ですから生命力の大きさ、力強さというものを持たない人間は、真に偉大な人格を築きあげることはできないわけです。
そこでですね。偽り性とか意地とかいうようなものは――とくに意地というようなものは、それ自身としては、決して立派なものでないばかりか、むしろ醜いものとも言うべきでしょうが――しかしそういうものを足場とし、それをもとでとして純化し浄化するものでなければ、人格の偉大な内容というものはできようがないのです。
実際修養ということさえ、ある意味では負けじ魂がなければ、なかなかできるものではありません。
その点からは、偉人とは道を履く行う上で、何人にも負けをとるまいと、生涯覚悟して生き貫いた人と言ってよいでしょう。

そもそも人間が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは、火を点けられて初めて光をはなつものです。同様にまた人間は、その志を立てて初めてその人の真価が現れるのです。
志を立てない人間というものは、いかに才能のある人でも、結局は酔生夢死の徒にすぎないのです。そして酔生夢死の徒とは、その人の足跡が、よたよたして、跡形もなく消えていくということです。
そこからしてまた私達は、また野心という言葉と『志』という言葉との区別をせねばならぬでしょう。
野心とか大望というのは自己中心なものです。
すなわち自分の名を高め、自己の位置を獲得することがその根本動機となっているわけです。ところが、真の志とは、この二度とない人生をどのように生きたら、真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを考えて、心中つねに忘れぬということでしょう。

そもそも気品というものは、ある意味からは、人間の値打のすべてを言い表すと言ってもよいでしょう。
人間の人格的価値を言い表す上において、この気品という言葉ほど適当なものは、ちょっと外にはないでしょう。
なるほど一面からは、気品とはいかなるものかということを、個条的分析に申すことは容易ではないでしょう。しかし、それだけにかえって、この気品というものが、ある意味では、全人格の結晶だと言うこともできましょう。
実際気品というものは、その人が発する、いわば内面的な香りとでも言うべきもので、ここぞと、形の上にいって捉えることのできないものです。
真の気品というものは、人間一代の修養のみでは、その完成に達し得ないほどに、根深いものであると同時に、他面また気品を身につけるには、依然として修養によって心を清める以外に、その途のないことが明らかなわけです。

我々気品のある人間になるためには、何よりも根本のこころの雲りを拭うようにしなければならぬと申したわけですが、しかしさらに大切なことは、慎独、すなわち、人間がただ一人いる場合にも、深く己を慎むということです。他人と相対する場合、我が内心の曇りをはらって、常にそのこころの清らかさを保つということも、もとより大切ですが、しかし気品を高める上から申せば、独りを慎むということの方が、ある意味では大切だとも言えましょう。
そもそも『慎独』という言葉は、儒教の言葉であり、しかも工夫としては、儒教において最も根本的なものですが、しかし真に独りを慎むということは、結局は天を相手にしなくてはできないことだからでしょう。

私の信ずるところによれば、修身科というものは、何よりもまず人間をして、力強くこの人生を生きるような、覚悟をさせるものでなくてはならぬと思うのです。すなわち、これまで眠っていた魂が、一箇の人格を通じて、人生の大道に触れることにより、俄然として自己に目覚めて、自らの力の限り力強く、その人生行路を歩み出すようでなければならぬと思うのです。
すなわちそれによって、新たなる人生のスタートが切られて、そこに魂の新生が始まるのです。
そもそも人間の偉さというものは、大体二つの要素から成り立つと思うのです。すなわち一つは、豊富にして偉大な情熱であり、次には、かかる豊富にして偉大な情熱を徹頭徹尾浄化せずんば已まぬという根本的な意志力であります。

かくして情熱というものは、人間の偉大さを形づくるところの素材であり、その基礎といってもよいでしょう。したがってまた始めから情熱のない干からびたような無力な人間は、いわば胡瓜のうらなり見たいなもので、始めから問題にならないのです。
なるほど情熱は、それがいつかは浄化されるのでなければ、真の人格内容とはならないことは、今更申すまでもないのですが、しかし他の半面、情熱のない人間は、いわばでくの坊づあって何の手の下しようがないとも言えましょう。
真に大きく成長してやまない魂というものは、たとえ幾つになろうと、どこかに一脈純情な素朴さを失わないものです。

世間では、哲学者というものは、冷静でなくてはならぬと言われていますが、そしてそれにも一面の道理がないわけではありませんが、しかしこの言葉をもって、哲学者とは何ら感動もないもののように考えたら、それは大きな誤りだと言えましょう。
それというのも、真の哲学の世界は、実に果しても知れぬ深くて、かつ大いなる感動の世界でなければならぬからです。
そして真の哲学とは、このような偉大な情熱の澄みきるところに、初めて生まれ出るものだからです。
自分の情熱を深めていくには、一体どうしたらよいかというに、それはやはり偉人の伝記を読むとか、あるいは優れた芸術品に接することが、大きな力になるでしょう。
そしてそれを浄化するには、宗教及び哲学が大いに役立つものです。

この人間の長所短所の問題については、私は平素から大体次のように考えているのです。それは知識とか技能というような、いわば外面的な事柄については、一般的には短所を補うというよりも、むしろ長所を伸ばす方がよくないかと考えるのです。ところがこれに反して、自分の性格というような内面的な問題になりますと、私は、長所を伸ばそうとするよりも、むしろまず欠点を矯正することから始めるのが、よくはないかと考えるものです。以上が、人間の長所、短所の問題に対する、私のかねてからの考えなのです。

偉人の伝記というものは、一人の偉大な魂がいかにして自己を磨きあげ、鍛えていったかというその足跡を、もっとも具体的に述べたものですから、象徴的な理論の書物と違って誰にも分かるし、また何人にもその心の養分となるわけです。あらゆる知識のうちで、我々にとって一番根本的な知識は、この二度とない自分の一生を、いかに送るべきかという問題、すなわちこれを一言で申せば、我いかに生きぬくべきかという知識だと思うんです。
しかるに今日の学校教育では、この最も大切なものが比較的閑却せられつつある現状です。

伝記というものは、我々にとって、人間の生き方を教わる意味において、いついかなる時期に読んでも、それぞれ深い教訓を与えられるわけですが、しかし私の考えでは、人間は一生のうち、とくに伝記を読まねばならぬ時期が、大体二度はあると思うのです。
そして第一は大体十二、三歳から十七、八歳前後にかけてであり、今一つは、三十四、五歳から四十前後にかけてです。
そのうち最初の方は立志の時期であり、また第二の時期は発願の時期と言ってよかろうと思うのです。
なおかつ人間が伝記を読むべき第三の時期は六十歳前後であって、それは自分の一生のしめくくりをいかにすべきかを学ぶために、今一度先人の生き方について学ぶべき必要があると思います。

人生を深く生きるということは、自分の悩みや苦しみの意味を深く噛みしめることによって、かような苦しみは、必ずしも自分一人だけのものではなくて、多くの人々が、ひとしく悩み苦しみつつあるのだ、ということが分かるようになることではないかと思うのです。これに反して、人生を浅く生きるとは、自分の苦しみや悩みを、ただ自分一人だけが悩んでいるもののように考えて、これを非常に仰山なことのように思い、そこからして、ついには人を憎んだり怨んだりして、あげくの果ては、自暴自棄にも陥るわけです。これはちょうど、あの河の水が浅瀬において波立ち騒ぐにも似ているとも言えましょう。
自分の悩みや苦しみを噛みしめていくことによって、周囲の人々、さらにはこの広い世間には、いかほど多くの人々が、どれほど深い悩みや苦しみをなめているかということに思い至るわけです。私には、人生を深く生きると言うても、実はこの外にないと思うのです。

忍耐ということにはどういう意味があるかと申しますと、大体二つの方面があると思うのです。すなわち一つには、感情を露骨に現さないようにする…。
とくに怒りの情を表さないように努めるという方面と、今一つは、苦しみのために打ちひしがれないで、いかに永い歳月がかかろうとも、いったん立てた目的は、どうしても、これを実現せずんば已まぬという方面とです。
もちろんこの二つは、全然別物でなくて、そこには深い関係がありましょう。
そこで普通には、この二つをいずれも『忍耐』という一つの言葉で表しているわけですが、しかし分ければ、以上のような二つの方面があると言えましょう。
そこで今この両面を区別して名付けるとすれば、前のを『堪忍』と言い、後の方を『隠忍』と呼んでもよいでしょう。しかも『忍』の一字に至っては、深く両者に共通しているわけです。

とにかく人間は、『自己を築くのは自己以外にない』ということを、改めて深く覚悟しなければならぬと思います。すなわち、我々の日々の生活は、この『自分』という、一生に唯一つの彫刻を刻みつつあるのだということを、忘れないことが何より大切です。そしてこれすなわち真の『自修の人』と言うべきでしょう。なるほど学校には、学校独特の長所のあることは申すまでもありません。しかしながら、人は決して学校だけでは完成されるものではないのです。人間としての深みや味わいは、学校のみにたよらず、常に他の半面、自ら自己を築いていく覚悟によって得られるものなのです。

私達は生命の真の趣を知るには、動物よりもかえって植物による方が便利だとも言えるわけであります。そこでかの尊徳翁のごときも、その偉大な悟りの世界は、もちろんその根本は、翁自身の深い体験によることでありますが、しかしその手掛かりとなったのは、おそらく農業だったと言ってよいでしょう。すなわち農作物という、若干の限られた植物の上に現れた宇宙的生命の相のうちに、あの深遠無比な哲理を感得せられたものと思われるのです。
私は植物のうちで最も心を引かれるのは、なんといっても巨然たる老木の持つ美しさであります。それというものも私は、老木を見るごとに、常に生涯を通して道に徹した卓れた人々のことが思われてならないからであります。

すべて物事には、基礎とか土台とかいうものが必要です。そこで我々人間も、どうしても真実を積まねばならぬわけですが、しかし事を積むには、まずその土台から築いてかからなければなりません。では人間を鍛えていく土台は、一体どういうものかというに、私はそれは『下坐行』というものではないかと思うのです。すなわち下坐行を積んだ人でなければ、人間のほとんどの確かさの保証はできないと思うのです。たとえそのひとが、いかに才知才能に優れた人であっても、下坐を行じた経験を持たない人ですと、どこか保証しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです。さて下坐行ということは、その人の真の値打以下のところで働きながら、しかもそれを不平としないばかりか、返ってこれをもって、自己を織り自分を鍛える絶好の機会と考えるような人間的な生活態度を言うわけです。

人間は、道すなわち教えというものに出合わないことには、容易に自分を反省するようにはならないのです。しかしながら、人間が深く自己の姿を顧みるには、どうしても人生の現実に突き当たらなければならぬわけです。
すなわち、単に道を聞いたり本を読んだりしているだけでは、教えはなお向こう側に揚げられた図式にとどまって、未だ真に自分の姿を照らして、その心の悩みを消し去るほどの力を持つに至らないわけです。
そこで苦労ということについて、気をつけねばならぬのは、なるほど人間は、苦労によってその甘さとお目出たさはとれましょうが、しかしうっかりすると、人間がひねくれたり冷たくなる危険があるわけです。
そこで苦労の結果、かような点に陥ることなくしみじみとした心の潤いと、暖かみとがあるようになるためには、平素から人間の道というものについて深く考え、かつ教えを受けておかねばならぬと思うわけです。

ところで人間は、この「暑い」「寒い」と言わなくなったら、そしてそれを貫いて行ったとしたら、やがては順逆を越える境地にも至ると言ってよいでしょう。ここに私が順逆というのは、丁寧に言えば『順境逆境』ということです。
総じて精神的な鍛錬というものは、肉体的なものを足場にしてでないと、本当には入りにくいもんなのです。例えば精神的な忍耐力は、肉体上の忍耐を足場として、初めて心に身につくものです。さればこそ、寒暑を気にしないということが、やがては順境逆境が問題とならなくなるわけです。
要するに平生が大事なのです。このことを昔の人は、『平常心是道』と申しています。
刀を捨てて坐禅を解いてから始まるというわけです。人間もこの辺の趣が分かり出して初めて、道に入るのです。

私は教育において、一番大事なものとなるのは、礼ではないかと考えているものです。つまり私の考えでは、礼というものは、ちょうど伏さっている器を、仰向けに直すようなものかと思うのです。器が伏さがったままですと、幾ら上から水を注いでも、少しも内に溜まらないのです。ところが一たん器が仰向きにされると、注いだだけの水は、一滴もあまさず全部そこに溜まるのです。
これはまさに天地の差とも言うべきでしょう。実際人間は、敬う心を起こさなければ、いかに優れた人に接しても、またいかに立派な教えを聞いたとしても、心に溜まるということはないのです。しかしこの敬う心を起こすということは、実際にはそう容易なことではないのです。そこでその手掛かりとして、ここに形の上から敬う心の起きるような、地ならしをする必要があるわけです。
そしてそれが広い意味での『礼』というものの意味でしょう。

松陰先生は、人間にして、爵の尊さを知って徳の尊さを知らないものは、その愚かなことを言うまでもないが、しかし徳の尊さを知って齢の尊ぶべきを知らないものは、未だに真の人物とは言いがたいということを、その『講孟余話』の中で申しておられます。
門衛の人々は、諸君らにとっては、いずれも遥かなる年長者であります。とくに門衛というのは、一校の出入り口なる校門の取締役であって、その責めの重かつ大なること、いわば昔の関所の固めにも似ているのです。その前を若い諸君らのような人らが何らかの会釈もしないで通るということは、その一事だけでも、その学園に真の教育的精神が充実していない何よりの証拠と言うべきでしょう。

そもそも人間というものは、単なる理論だけで立派な人間になれるものではありません。理論が真にいきてくるのは、それが一個の生きた人格において、その具体的統一を得るに至って、初めて真の力となるのです。
真に自分を鍛えるのは、単に理論を振り回しているのではなく、すべての理論を人格的に統一しているような、一人の優れた人格を尊敬するに至って、初めて現実の力を持ち始めるのです。同時にこのように一人の生きた人格を尊敬して、自己を磨いていこうとし始めた時、その態度を『敬』と言うのです。
さてどうしたら生徒が教師を敬うようになるでしょうか…。
それには、結局教師自身が、尊敬する人格を持つことでしょう。実際人々から尊敬されるような人は、必ず自分より優れた人を尊敬しているものです。

批評ということは、ともすると悪口や避難に陥りやすいものですが、仮にそうならずに、正当な意味で行われた場合でも、それはとかく傍観的な態度にとどまって、真に自己に吸収して、自己を太らすという態度にはなりにくいものです。
食物でも、たんに品定めをしている間は、決して腹のふくれるものではありません。
ですから単に傍観的に眺めていないで自分の欲するものは、全力を挙げてこれを取り入れるようにしてこそ、初めて自己は太るのです。
そこでまた言い換えますと、人間は批評的態度にとどまっている間は、その人がまだ真に人生の苦労をしていない何よりの証拠だともいえましょう。

一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を、真に充実して生きる外ないでしょう。
実際一日が一生の縮図です。
我々に一日という日が与えられ、そこに昼夜があるということは、二度と繰り返すことのないこの人生の流れの中にある私達を憐んで、神がその縮図を、誰にもよく分かるように、示されつつあるとも言えましょう。
では一日を真に充実して生きるには、一体どうしたらよいかが問題でしょう。その秘訣としては私は、その日になすべきことは、決してこれを明日に延ばさぬことだと思うのです。そしてそれには、論語にある『行って余力あらば以て文を学ぶべし』というのが一つのよい工夫かと思うのです。
すなわち何よりも自分の仕事を果たす。そしてその上でなおゆとりがあったら、そこで初めて本を読む。これ実に人生の至楽というものでしょう。自分のなすべき仕事をほったらかしておいて、ただ本を読んでいれば、それで勉強や学問かのように誤解している人が、世間には少なくないようです。

生まれたものには必ず死ぬ時があり、来た者には必ず去るべき時があります。
また会うた者は必ず別れるべき時のあるのは、この地上では、どうしても免れることのできない運命と言ってよいでしょう。同時にもしそうだとしたら私達も自分が去った後の置土産というものについても、常に心を用いる所がなくてはならぬでしょう。
さて一口に置土産といっても、そこには色々な種類がありましょう。しかしながら、我々人間として最大の置土産は、何と言っても、この世を去った後に残る置土産だということを忘れてはならぬでしょう。実際私の考えでは、人間というものは、この点に対して心の眼が開いてこない限り、真の生活は始まらぬと思うのです。

人間の人柄というものは、大体その人が他人から呼ばれた際、この『ハイ』という返事の仕方一つで、大体の見当はつくと云えましょう。
それと申すのも、その人の名前を呼ぶということが、その人の全人格に対する呼びかけであるように、これに対する『ハイ』という返事も、またなるほどコトバとしては、唯一の一言ですが、これまた、全人格の発露でなくてはならぬからであります。
実際だらりと間の延びた返事を、しかも二度三度と呼ばれて初めてするようなことでは、まったくその人柄の程が分かるというものです。
つまり真面目に事にあたる気持ちのないことは、言わずして明らかだからです。
ですから、そうしたものを思い切ってかなぐり捨てて、力を込めて『ハイ』と答えてごらんなさい。必ずしも外に向かった大声ではなくても、誠実な実意のこもった返事だったら、座を起こたずにはいられないはずです。同時に座を起こった以上は、必ず着手せずにはいられないでしょう。

『躾』というものは、子供の教育の根本となるものですが、しかもそれは、全く母親の聡明と根気による他ないのであります。
例えば子供に返事一つ仕込むのも、実際にはなかなか根気のいるものです。子供の中には、親が呼んでも直ぐには『ハイ』と返事しないで『なぁーに』という子があるものです。うっかりすると現在のあなた方の中にさえあるかもしれません。
ところが一度子供にこの癖がつきますと、この『なぁーに』という一語を『ハイ』という返事に改めてさすことさえ、実際には容易ならぬ根気がいるものです。こうした意味からも女性は男子以上に根気強さを必要とすると言えるわけであります。
そのような根気というものは、一体どこから出るかというに、結局それは母親の我が子に対する慈愛の一念の他ないといってよいでしょう。

我が子を育てるに当たっても母親たるものは、男女の相違ということを深く心に入れて、女の子にはやはり女の子らしい躾をしなくてはならぬわけであります。ところが、近頃の学校教育では、男女の別をあまり重視しない傾きがありますので、世の父母たる人々も、いつしか我が子の躾の上に、
この男女の別というものをおろそかにしがちになったように思われます。
そしてこの点が、実はあらゆる方面に重大な影響を及ぼしつつあるように思われます。

そもそも物事というものは、すべて比較を止めたとき、絶対無上となるのであります。総じて善悪とか優劣などということは、みな比較から起こることでありまして、もし全然比較をしなかったとしたら、すべてがそのままに絶対無上となるわけであります。
そこでいま子としては、我が親は他人の親とは比べられませんから、そこでは親は子供にとって絶対となるのであります。
それゆえ外からみれば、色々と欠点のある親であっても、少なくとも子供の立場からは、我が親に優る親はいないわけであります。それ故、もし自分の親を他人の親、とくに友達の親などと較べて、そこに不足がましい心が起こったとしたら、それこそ親に対して赤の他人になったものといわねばなりますまい。
否、我が親を比較の対象にのぼすということは、厳密に申したら、その瞬間すでに子でありながら、子の方から親子の縁を断つものといってもよいほどでしょう。

人間の心の清らかさは、それが深まってきますと、ある意味では「報いを求めぬ心」ともなるのです。ところでこの「報いを求めぬ心」ということは、言葉で申せばただの一口で済みますが、なかなか至難なことであります。
ではこの「報いを求めぬ心」の境涯に到るには、一体どうしたらよいのかと申しますと、一つの方法は、全く知らない処で、なるべく多く善根を積む工夫をするということでしょう。今あなた方に手近なところで申せば、たとえばご不浄の中に落ちている紙屑の類を拾って、容器の中へ入れておくとか、さらには人の粗相をした跡を、人知れず浄めておくとか、あるいは教室を最後に出る場合、室の戸締まりをして出るとか、すべて人の目立たぬところで、なるべく人に気付かれないように善根を積むということであります。即ち人間が人知れず抱く心持ちや、人知れぬ処で行う善行こそ、その人の気品のもつゆかしさをつくる基礎になるわけでありまして、そのためには、この『報いを求めぬ』工夫ということが、一つの大切な心掛けと申せましょう。