陰陽道 鬼門について

鬼門とは、陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして北東:艮(うしとら:丑と寅の間)の方位を定めており、万事に忌むべき方角としてます。
ちなみに、鬼門とは反対の南西:坤(ひつじさる:未と申の間)の方角は人門といいますが、別名裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる方角になります。
※)東南(巽)は「風門」、北西(乾)は「天門」、南西(坤)は「人門」、北東(艮)は「鬼門」という感じ。
このあたりは、八卦にも繋がりますので、易のお話しとして別の機会に説明しましょう。

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で、話しを戻しますと、陰陽道においては北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境で不安定になるため、鬼門、裏鬼門と称される訳です。
そもそも太陽や五惑星が通る道筋を地球上に投影した黄道は、平面上では北東と南西を結んだ線になります。
古代ではその黄道が神が通過する道筋と考え、そこから神が通る聖なる通路を常に清浄にしておくという風習が生まれ、北東の玄関を「鬼門」、南西の神が去っていく裏玄関を「裏鬼門」と呼ぶようになったのです。

門鬼思想は中国から伝来した考え方ではあるのですが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっています。
誤解しがちなのですが、風水に鬼門思想はなく、日本の陰陽道と神道、仏道、宮廷での鬼門思想の文化で出来上がった日本独特の思想なのです。

現代でも、縁起を担いで鬼門の方角である家の北東に魔よけの意味をもつひいらぎ南天を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りする風習が残っています。
また、十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が坤(ひつじさる)であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりした風習もあるそうです。
京都御所や東寺などには、御所や五重塔の北東角に軒下に木彫りの猿が鎮座していますし、京都御所の築地塀の北東方位を凹ませてあるのも、鬼門避けのひとつの手法とされてきた訳です。

他にも平安京や江戸城などは有名ですよね。

平安京に遷都した際に京都の平穏を祈るため、鬼門の方位にあたる比叡山に延暦寺を建てて鬼門鎮護の霊場としましたし、徳川幕府も江戸城の鬼門にあたる上野に東の叡山ということで東叡山寛永寺を造営し、表鬼門の鎮護にあたったとのことです。
※ちなみに、江戸城の裏鬼門を鎮護するのが芝の増上寺。二つの寺は幕府安泰の意を込め、代々の将軍の墓所が交互に設けられています。また、江戸の街の北座にあたる日光に東照宮を造営し、家康を神として祀ってあるのですが、その真北に北極星が位置しているというのは偶然ではないでしょう。
 信じるか信じないかは、貴方次第。(って、どこぞのTV番組みたいになってきました)

もう少し余談を加えておくと、徳川の繁栄に万全を期すため、将軍家に世継ぎが生まれなかった場合は、徳川御三家の尾張あるいは紀州から世継ぎを迎えることとしました。
そんな中、水戸は常に江戸にあって将軍家を支え、決して将軍を出してはならないとしたのですが、それは水戸が江戸城から見て鬼門の方位だったためです。
そもそも徳川幕府を作り上げるときに、水戸から将軍を出すときが幕府の終わるときである、という訓戒があったらしいのですが、徳川最後の将軍徳川慶喜が最初の水戸出身だったというのは、偶然というだけでは信じがたい何かがあります。
江戸時代は、二百六十年もの間戦乱もなく平和が続いた世界でも稀に見る時代ですが、これひとつとっても、鬼門や陰陽道の考え方が単なる風習だけで片づけられない理由がそこにあるのです。

学問として興味が涌くのはこんなところにあるのかもしれません。

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