ワーズワースと共に浪漫復興の幕開けとなった「抒情歌謡集(Lyrical Ballads)」を作った、18~19世紀にかけてのイギリス・ロマン主義の詩人・思想家・哲学者・サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)についてです。
20歳代の神秘的で怪奇な三大幻想詩「クブラ・カーン(Kubla Khan)」「クリスタベル姫(Christabel)」「老水夫の詩、老水夫行(The Rime of the Ancient Mariner)」は幻想的・瞑想的な詩作で知られ、30歳代以後は哲学と宗教への関心をいっそう深め、古代から同時代にいたる思想家の書物に広く学びながら、独自の思想体系を構築。
シェイクスピア論その他の文芸批評に加え、哲学史の連続講演も行ない、自らの思想的遍歴を辿りながら「想像力」理論の確立とその応用を試みたり、晩年には宗教に仕えるものとしての哲学の位置づけを明らかにしたりしています。
「老水夫の詩」は7部625行から成るバラッド形式の長詩で、物語は婚礼の宴に招かれた若者が眼光鋭い不思議な老水夫に魅せられて話に耳を傾けるという形で語られます。
老水夫の乗った船は嵐にあい、南極近くの氷の海を漂流していると一羽のアホウドリが飛んできますが、彼はその鳥を射殺。
すると禍がふりかかり、船は赤道直下で停止してひどい渇きに苦しめられ、周囲を鬼火が飛び交い、骸骨の操る船が現れ、彼以外の水夫は全員死んでしまいます。
孤独と悔恨に苦しむ老水夫は、ある晩月光に輝く美しい海蛇を見て思わず祝福すると呪いが解け、恵みの雨によって生気を取り戻し、帰国します。
その後は懺悔の旅に出て、神を敬うことを説いているという構成なのですが、終始神秘的で絵のように鮮やかな光景が全篇に繰り広げられる「老水夫の詩」は、コールリッジの代表作ともいえるものです。
脚韻を abcb と踏む古いバラッド詩形が老水夫の航海中の罪や呪いなど超自然と言われる神秘的な雰囲気をよく表しているこの作品。
アイザック・ディネーセン原作の「アフリカの日々」においても、主人公のカレンが恋人のハットンに「老水夫の歌」の一部を諳んじるシーンがあるのですが、終始切ない叙情で流れるこの作品を、より一層心に余韻を残る効果を与えているものです。
一度、その詩篇の切なさを堪能してみてください。
「クブラ・カーン(Kubla Khan)」
所処はザナドゥ、クビラ・カーンは命ず
厳然たる歓楽の宮を建立せよ。
流るるは、聖なる河アルフ
人智の知れぬ洞穴を抜け
光なき海へと落つる。
かくて五哩に渉る肥沃な大地に
城壁、城塔が経巡らされし。
曲江の燦然たる庭園には、
香木、芬々と咲き乱るる。
小丘、森木いずれも千古を経、
新緑の燦々たるに包まるる。
されど! 深い間隙など夢
常緑の丘を走るなどあり得ぬはず!
卑しき哉! その耽美なるさま
憑かれし下弦の月のもと
魔と添いし乙女が嘆くごとし!
間隙には絶え間ない騒めき、
そはまさに大地の喘ぎ、
猛き泉がほとばしる。
間歇のさなか
跳ねる礫はあたかも雹か
もしくは脱穀鎌の下の籾殻か。
絶え間なく踊る礫の一つ
聖なる河にふと抛たるる。
あてどなく五哩をさまよい
聖なる河は密林峡谷を抜け、
人智の知れぬ洞穴に至り、
喧々と音立て死海に沈む。
而して喧噪のさなかクブラは聞けり
戦争を予言する遠い祖先の声を!
歓楽の宮殿の影が
波間に漂う。
聞こえたのは和音の調べ
泉よりの声また洞穴の声。
稀なる匠の奇跡、
燦然たる歓楽の宮にある氷の洞穴!
ダルシマー弾きの乙女を
かつて幻影に見た。
アビシニアの娘、
ダルシマーを弾きながら、
アボラの山を謡う。
思い出せるなら
あの調べ、あの歌、
あの輝きにひれ伏すだろう、
あの楽の音、あの一時があれば、
宙に宮殿を建立しよう、
あの輝く宮を! 氷の洞穴を!
耳にした者は誰もが見るはずだ、
誰もが声をあげるはずだ、気をつけろ! 気をつけろ!
その炯々たる眼、その蠢く頭髪!
三重に取り囲み、
畏怖もて瞳を閉じよ、
彼の者は甘露を食し、
楽園の乳を飲んだのだから。
「老水夫の詩(The Rime of the Ancient Mariner)」
一人の年老いた水夫が結婚披露宴に招かれた三人の今風の若者に出会い、うち一人を引き留める。
年老いた水夫がいた。
彼は三人のうち、一人を引き止めた。
「あなたの長い髭とぎらめく眼にかけて、
なぜ今、僕を止めるのです?
花婿の家の扉は広く開かれていて、
僕は彼の最も近い親族です。
招待客はそろい、宴の用意は整いました。
祝辞のざわめきが聞こえませんか?」
老人は若者を痩せた骨のような手でつかんだまま、
「船があったのだ」と言った。
「寄るな!離せ、このまぬけジジィ!」
すぐに、老人の手は弛められた。
けれども、披露宴の招待客である若者は、年老いた船乗りの眼に魅入られて、彼の物語に耳を傾ける。
老人はぎらめく眼で若者を引きつける――
結婚式に列席するはずの若者は立ち止まったまま、
みっつの子どものように耳を傾けた。
水夫は彼の意志を押し通したのだ。
若者は石の上に腰を降ろし、
そして老人は話を始める。
若者は聞かざるを得なかった。
光る眼をしたこの老人の話を。
「船は歓声に送られ、港を離れた。
我らは上々気分で波間を抜けた。
あの教会を背に、あの丘を背に、
あの灯台の頂も見えなくなった。
水夫はどうやって船が順風と晴天の中、赤道に至るまで南方へ航海したかを語った。
太陽は左手から昇ってきた。
奴は海からぽこりと出てくるのだ!
それから光を照りつけて、
右手の海へどぷんと沈むのだ。
太陽は日に日に高く、さらに高く、
ついに真昼には帆柱の上にまで――」
結婚式に列席するはずの若者は
バソンの大きな音を聞いて胸を叩いた。
若者には結婚式の音楽が聞こえる。けれど水夫は彼の話を続けた。
花嫁はホールを緩やかに歩む。
彼女は薔薇のように赤く、
彼女の行く先では晴れやかな楽団が
音楽に合わせて頭をゆらす。
結婚式に列席するはずの若者は胸を叩いた。
だが、老人は話を始める。
若者は聞かざるを得なかった。
光る眼をしたこの老人の話を。
船は嵐の中、南極へと航海する。
やがて、暴風雨がやってきた。
奴は暴虐で強く、我らを凌駕した。
奴はその翼で我らを打ちのめし、
南へ我らを追いつめた。
帆柱は傾き、舳先は波を被った。
奴は叫び、打ち続けながら、
いつまでも敵の影を追い続け、
頭を前へ傾けた。
風は大きく咆哮したが、船は足を速め、
我らは南へ航海を続けた。
次は、霧と雪が同時にきた。
それからすさまじい寒さになった。
氷、それも帆柱の高さまである奴が、漂ってきた。
エメラルドのように緑の奴が。
氷と恐ろしい音の土地には、目に映る生き物はない。
氷雪の断崖の裂け目を漂い抜け、
妖しい微光が送られてきた。
人も獣も我らの外には姿形もない――
そこにあるのは、ただ氷のみ。
こちらも、あちらも、氷、氷、
全ての方角を氷に囲まれた。
奴は砕け、唸り、轟き、吼え、
この世と思えぬ音を響かせるのだ!
アルバトロスと呼ばれる巨大な海鳥が雪と霧の向こうからあらわれ、歓迎される。
ついに、一羽のアルバトロスがあらわれた。
鳥は霧をぬけて来たのだ。
それはまるで基督者の魂のようで、
我らは神の御名を讃えた。
鳥はそれまで口にしたことがないものを食べ、
幾度も弧を描いて飛んだ。
氷は轟音を響かせて縦に割れ、
舵手は巧みにその間をすり抜けた!
そして見よ!吉兆の鳥アルバトロスは霧と流氷の海を抜け、船を北へ帰すように導く。
南のよき風は後方より吹き、
あのアルバトロスは我らについてきた。
毎日、えさをねだるか、遊ぶために
水夫たちの呼び声に応えたのだ!
霧や曇天の中、マストや帆綱の上に
九つの夕の間、鳥は舞い降り留まった。
その全ての夜の間、霧の白い靄のむこうで、
白い月光が細く光っていた。
老水夫は冷酷にも吉兆をもたらした敬虔な鳥を殺す。
「どうしたのです、老水夫よ!
神よ、憑き苦しめる悪霊より彼を救いたまえ!――
なぜあなたはそんな顔をするのです?」
「――私は、私の石弓で、あのアルバトロスを撃ったのだ。」
今や太陽は右手から昇るようになったが、
陽は海から出てきても、
霧に隠されたまま、左手に移り、
そのまま海に沈んだ。
南のよき風は、後方から吹き続いていた。
けれど、あのかわいい鳥はもはやついて来なかった。
えさをねだるためにも、遊ぶためにも、
もはや水夫たちの呼び声に応えないのだ!
船乗りの仲間は幸運の鳥を殺した老水夫をののしった。
私は道に背くことをしたのだ。
皆を苦悶に落とすことを。
私が殺したあの鳥が、
優しい風をくれていたのにと皆が私を責めた。
『なんて非道い奴だ!』彼らは言った。
『お前は優しい風をくれたあの鳥を殺したのだ!』
けれど霧が晴れたとき、彼らは老水夫と同じ判断をし、同じ罪を共有することになる。
陰りなく、赤くもなく、神の頭のように
光り輝く日が昇った。
すると、私が殺したあの鳥が、
霧と霞をもたらしていたのだと皆が言った。
『お前は正しかったよ』彼らは言った
『霧や霞を運ぶような鳥を殺したことは』
穏やかな風は吹き続いた。船は太平洋に入り、赤道に至るまで北へ航海を続ける。
穏やかな風が吹いていた。波が白く泡立ち、
航跡は軽やかにのびていった。
我らは静寂を破った最初の存在になった。
あの、沈黙の海の。
船は突然凪に捕らえられる。
風がはたと止み、帆は弛んで落ちた。
あぁ、あんなに悲しいことはない。
我らの話す声だけが、
あの海の静寂を壊す唯一のものだった!
全ては灼熱の赤銅色をした空の中で、
真昼には血の色に染まる太陽が、
帆柱の上に突き刺さるようで、
月ほどに大きく見えた。
来る日も、来る日も、その次の日も
我らは嵌ったまま、風なく、動きなく、
まるで描かれた船のように止まったまま、
大海の絵の中で。
そしてアルバトロスの復讐が始まる。
辺り一面に、水、そして水、
だのに、甲板は乾きに縮んで軋んだ。
辺り一面の、水、そして水、
だのに、一滴たりとも飲むことはできぬ。
かの深き海は腐敗したのだ。あぁ、神よ!
この世であんな事が起ころうとは!
そう、ぬらぬらとした生物が這いまわっていたのだ、
ぬらぬらとした海の上で。
夜には鬼火がよろめきながら列になり、
ぐるり、ぐるりと踊り回った。
水はまるで魔女の油のように
緑に、青に、そして白く燃えた。
妖霊は彼らを追ってきた。
それは幽魂でも天使でもなく、この地球上に存在する不可視のものである。
ユダヤが教えるこの存在に関しては、ヨセフ(ユダヤの歴史家)やプラトン学派、コンスタンチノープルのミカエル・プセルロスによって説かれているだろう。
かれらは数え切れないほど存在し、地域にとらわれることも、単一も複数の元素にとらわれることもない。
我らを苦しめる妖霊を
幾人かが夢に見たといった。
霧と氷の彼の国から、九尋の深みをぬけ、
我らを追ってきたのだと。
ひどい乾きのせいで、皆の舌は
付け根まで干上がろうとしていた。
我らは話もできなかった。よしんば話せたとしても、
煤を喉に詰められているようだった。
船乗りの仲間は苦悩の内で全ての罪を老水夫になすりつけた。
罪の印として、彼らはあの海鳥の死骸を老水夫の首に下げる。
あぁ!なんたることか!悪意に満ちた眼を
老いも若きも私に向けた!
十字架の代わりにあのアルバトロスが、
私の首に架けられたのだ。
憂いの時が流れた。皆の喉はひからび、皆の眼は濁っていた。
憂いの時!憂いの時だ!
眼はそれほどまでに濁っていたのに、
私が西方を見つめた時に、
彼方に何かが見えた。
老水夫は遠くに物影を見つける。
始めそれは小さな点のようだった。
それから靄に見えるようになった。
それはどんどんと近づき、とうとう
はっきりそれと分かる形になった。
そうだ!点から靄、そしてあの形に。
それは更に、更に近づいてきた。
まるで水妖からのがれるように、
それは前進し、波を切り、舵を切った。
近づくにつれ、それが船だとわかるようになり、老水夫は代償を払って喉の渇きを取り去り、知らせを告げる。
ひからびた喉で、ひび割れ黒ずんだ唇で、
我らは笑うことも泣くこともできなかった。
ひどい乾きのせいで、我らは沈黙の中に竦んでいた!
私は腕をかみ切り、血を啜り、叫んだ。
船だ! 船だ!
一瞬の喜び
ひからびた喉で、ひび割れ黒ずんだ唇で、
皆は顎を落として私の叫びを聞いた。
ありがたい! 皆は喜びで笑みを浮かべ、
すぐに大きく息を飲み込んだ。
まるで水を飲むように
そして恐怖は続く。いったいどんな船が風も波もなく前進できるというのか。
見ろ!見ろ!(私は叫んだ)船はもう波を切らない!
我らを助ける喜びの船が来る。
風もなく、波もないのに、
船は竜骨を掲げて真っ直ぐに来る。
西方の波は一面に焔と化し、
日は終わろうとしていた。
西方の波の上に
燃えて輝く太陽が載っていた。
そして突然に、あの奇怪な物影が
太陽と我らの間に割り入った。
老水夫を惑わすそれは骸骨船だった。
太陽の真っ直ぐな光は格子状に遮られた。
(天の御母が我らに恵みをくださった!)
牢獄の格子の隙間から、
太陽が尊大に輝く顔を覗かせたようだった。
なんてことだ!(思うと同時に鼓動が高まった。)
船はなんと速く、速く近づいてくるのだろう!
陽光の中のあの船の帆は、
燦めきながらゆれる蜘蛛の糸のようではないか?
船の肋材が太陽を格子で遮ったように見せかけていた。
女幽鬼と彼女の死の連れ合い以外の何も、その骸骨船には乗ってはいなかった。
あの船の肋材が、
太陽が覗いた格子だったのだろうか?
そしてあの女だけが船員なのか?
そしてあの死骸は?彼ら二人だけなのか?
あの死骸は女の伴侶なのか?
船に見えた、船員に見えたのに!
彼女の唇は赤く、彼女の眼光は鋭い。
彼女の髪は黄金のように黄色い。
そして彼女の肌はレプラ病のように白い。
彼女こそは悪夢に彷徨う死霊、
その冷気で人の血を凍らせる。
死者と死霊は船員を掛けて骰子を投げ、彼女は(後に)老水夫に勝ちをおさめる。
衣をはぎ取られた船体が近づき、
二人は骰子を振っていた。
「勝負あったね!勝った、私の勝ちだよ!」
三度口笛を鳴らし、女は言った。
夕暮れを残さずに太陽が消え、
陽の欠片が落ち、一挙に星が輝き、
またたくまに闇がやってきた。
海上にかすかなささやきを残し、
亡霊船は矢のように消え去った。
そして、月が現れる
我らは耳を欹て、横目で眼を凝らした!
器を啜るように、恐怖が私の心臓から
私の生き血を啜ってゆくようだった!
星が朧になり、夜が濃くなった。
明かりに照らされた舵手の顔は蒼白で、
帆からは露がぽとりと滴り落ちる――。
東の水平線の上に、
鋭く欠けた月が、その切っ先に
輝く一つ星を伴っている。
一人、また一人、
だれも、かれも、月に従う星に引き起こされた
荒すぎる息のせいで、呻きも嘆きもできず、
皆が悲痛の形相をこちらに向け、
その眼で私を呪った。
船員達が死に倒れる。
4を50も掛けた数の男達が、
(嘆きも呻きもあげることなく)
どさりと重い音を立て、命ない塊となり、
皆が、一人、また一人と倒れていった。
しかし、老水夫には死霊によって魔法がかけられている。
魂たちは肉体を離れ、空を飛んだ――。
皆、天か地獄へと飛び去ったのだ!
まるで私の石弓の矢のように、
全ての魂が、私をかすめて放たれていった。
披露宴の招待客である若者は語りかける亡霊に恐れおののく
「老水夫よ!私はあなたが恐ろしい。
あなたのその骨のような手が!
褐色に焼かれ、細く痩せたあなたの姿は
まるで嬲られた海砂のようではありませんか。
しかし、老水夫は彼の肉体についての言及を遮り、浄罪の苦行について訴えた。
私はあなたのぎらめく眼が恐ろしい。
その骨のような手、ひどく焼かれた―――」
おびえるな、おびえるな、若者よ!
この体は崩れ斃れたものではない。
ひとり、ひとり、ただ、ただ、ひとり
広い、広い海上でただひとり!
いかなる聖人も哀れんではくださらなかった、
苦悶の中にいる私の魂を。
彼は凪に棲む怪物を侮蔑する
人々は皆、とても美しかった!
彼らは皆、死に横たわっているのに、
何千何万という卑しいやつらは
生きているのだ、私同様に。
これほど多くの死にもかかわらず、凪に棲む彼らには生が与えられていることを羨んだ。
私は腐った海を見渡し、
遠くまで眼を泳がせた。
私が腐った甲板を見渡すと、
そこには皆の遺骸が横たわっていた。
私は天を見上げ、祈ろうとした。
しかし、祈りの言葉が迸るより先に、
邪悪な囁きが喚起され、
私の心を塵のごとくに干上がらせた。
私は唇を閉じ、二度と開かなかった
眼球はドクドクと脈打っていた。
空と海と、海と空のせいで
私の疲れた眼に荷が重くのしかかるようだった。
そして私の足元には死があった。
しかし呪いは死人の目をした彼を生かし続けた。
亡者達の四肢からは冷たい汗が融けていた。
彼らは腐ることも臭うこともなく、
私を睨んだ眼差しも
決して消え去ることはない。
残された子の恨みは、天へ昇る魂を
地獄へと引きずるだろう。
あぁ!だが、亡者の眼に込められた呪いは更に恐ろしい。
七日七晩、私はその呪いの眼差しを直視していたのに、
まだ私は死ねなかった。
孤独と徊る月と行きながらも留まる星々への遠き憧れ。
どこへ行こうとも青き空は月と星々のものだ。
空は彼らの安息の場所、彼らの故郷、彼らの生まれた家である故に、
静かなる歓喜を持って王としての月と星々の帰還を待ち焦がれている。
徊る月は空に昇り、
とどまることはない。
彼女はやさしく歩み続ける
ひとつ、ふたつの星を伴い――
月光は蒸してうだる暑さの海をなだめた
まるで4月の和らかな霧のように。
けれど船の巨大な影が横たわる場所では
呪われた水が燃えている
変わらずに、怖ろしく赤く。
月光によって、老水夫は大凪の怪物にも神の創造物としての恩恵を見出す。
船体の影よりずっと離れたところに、
私は海蛇たちを見た。
彼らは輝く白い軌跡を辿ってゆく
ヘビたちが体を跳ね上げると、
美しい光を放った薄片がきらめき落ちた。
船体の影のなかに、
私は彼らの鮮やかな衣を見た。
青、光沢のある緑、そして天鵞絨の黒。
彼らがうねり、およいだすべての軌跡に
黄金の火が瞬いた。
彼らの美と彼らの喜びが水夫の心に賛美をもたらした。
生きとし生けるものに幸あれ!
その美を表す言葉がない。
私の心からは泉のように愛が湧き、
私は思わず賛美した。
確かに、情け深い聖人が哀れんでくださり
図ることなく彼らを賛美させたのだ。
呪いは砕けはじめた。
まさにそのとき、私は祈ることができた
そして私の首は自由になった。
あのアルバトロスは解け落ち、沈んだ。
まるで海に引き込まれるように。
眠りよ!優しきものよ、
北の極から南の極まで愛しまれるものよ!
聖母マリアに祝福を!
あなたは天の御国より安らかなる眠りを下賜くださり、
わが魂にもたらしてくださった。
聖母の恩寵により、老水夫は雨によって生気をとりもどす。
もう長い間空のままだった
甲板上の役立たずの桶に、
露が満ちていることを夢に見た。
目が覚めたとき、雨が、降っていた。
私の唇が濡れていた。私の喉は冷たく、
私の衣服は潤っていた。
そうだ、眠っている間に酒を飲む夢を見たのだ。
だから私の体はまだ酔っていたのだ。
動いてみた。けれど四肢が感じられなかった。
あまりに軽く――ほとんど
眠りながら死んだのかと、
魂が祝福されたのかと思うほど。
水夫は空に何かの音を聞き、異変を見て、それに非常に興奮する。
私は風がうなるのを聞いた。
風は近くはなかったけれど、
その音は帆を揺らした。
ひどく薄く干からびた帆を。
上空で生命が弾けた!
そして幾百もの光の旗が輝き、
急かすように乱れ飛んだ!
あちらこちらへ、現れは消え、
その影の間にも星が瞬いていた。
そして来たれり風は咆哮し、
セージの葉のように乱れた帆は息をついた。
雨が黒雲から降り、
月が雲の端に顕れた。
黒い叢雲に裂け目ができ、
月はその傍らにあった。
まるで水が高き懸崖から迸るように、
乱れ折れることなく雷光は
巾広く流れる大河のように。
船員達の体に息が吹き込まれ、船は動き出す。
うなる強風は船までは届かなかったが、
そのとき、船が動きはじめた!
雷光と月の下、
死者たちがうめき声をあげた。
皆がうめき、皆が動いた、全員が起き上がった。
無言のまま、目を座らせたまま
死者が起き上がるのを見るのは、
夢であったとしても奇怪だった。
操舵手が舵を取り、船は動いた。
風が吹いていたのではない。
水夫達はみな綱を取り仕事を始めた。
皆がかつてそうしていたように、
操り人形のように四肢を持ち上げ――
我らは不気味な船員だった。
私の兄弟の息子の肉体が、
膝を突き合わす距離で私の側に立った。
その肉体と私は一本の綱を引いたのに、
彼は私に何も語らなかった。
それは人の魂によってではなく、地底や中空の悪魔によってでもなく、
守護聖人の嘆願によって使わされた祝福されし天使の一群によって。
「私はあなたが恐ろしい、老水夫よ!」
落ち着いてくれ、若者よ!
呪いが再び訪れて
苦痛の内に去った魂によっておきたことではなく、
祝福されし天使の一群によるものだ。
夜が明けると――彼らは手を休め
帆柱の周りに集まった。
彼らの口からは妙なる音が発せられ
肉体を離れ立ち上っていった。
ひとつ、ひとつ、妙なる音は浮き上がり、
陽に向かって飛びゆき、
また、緩やかに戻り響いた。
交じり合い、次には分かたれて。
時折、雲雀の歌声が空から落ちてくるのを
私は聞いたような気がする。
時折、全ての小鳥達の
甘くさわがしい合奏で、
海と大気が満たされている気がしたと!
その音は全ての楽器のようであり、
一筋の笛の音のようであった。
その音は天国に静寂をもたらす
天使の歌声のようだった。
歌が止まった。けれど帆は張ったまま、
真昼まで心地よい音を孕んでいた。
まるで六月の青草に隠れた
小川のせせらぎの音。
それは夜の森を眠らせる
子守唄の旋律。
真昼まで我らは順調に航海した。
いまだ風は吹いていなかったが、
ゆっくりと穏やかに、船はいった、
広い海を前へと動かされて。
天使たちの意志に従い、船は赤道まで遠く運ばれたが、
南極からの孤独な妖霊はまだ復讐を望んでいた。
九尋の深みをぬけ、
霧と氷の彼の国から
この妖霊は追ってきた。この妖霊が
船を前へと進ませたのだ。
真昼に帆からあの旋律が離れると、
船は立ち留まってしまった。
太陽は帆柱の真上に昇り、
船を海に押さえつけた。
船が動こうとすると、
短く不安な動き――
半身の長さだけ戻ったり進んだりと
短く不安に動いた。
それから暴れる馬が放たれるように
船は突然跳ね上がった。
私の頭に血が上り、
私は気を失った。
目に見えぬ力の存在は南極の妖霊の眷族である怪魔の悪意に協調する。
すなわち南へ帰る南極の妖霊の求めに応じ、老水夫へさらに長く重い
苦行を課すことをお互いに同意する。
どれほどの間、私は倒れていたのか、
私に確かなことが言えない。
けれど意識が戻るより前に
私の魂のなかで
空より二つの声を聞いた。
「こいつか?」片方が言った「この男か?
十字架の上で死んだかの人に懸けて、
この男の残忍な弓が打ち落としたのか、
あの無実のアルバトロスを。
妖霊は独りで堪えたのだ
霧と氷の彼の国で。
妖霊はあの鳥を愛していた、
自分を弓で撃った人を愛したあの鳥を。」
他方はもっと柔らかな声だった。
まるで甘露のように柔らかく、
曰く、「この男の浄罪の苦行は成された、
だがこれからも自らに苦行を課すだろうよ。」
第一の声
「だが、教えてくれ、私に!もう一度、
君の優しい応えをもう一度――
何があの船をあれほど速く走らせるのか、
海はいったい何をしているのか。」
第二の声
「主の前の奴婢のごとくたたずみ
その海に風はない。
その大きく輝く眼はただ静かに
空の月を見上げているのだ――
月が海を凪にも嵐にも導くから、
行く先を知ることができないかと。
見給え、兄弟よ!なんと慈愛にみちて
月は海を見下ろしているか。」
水夫は白昼夢を見続ける。
天使の力により船は人力の及ぶところよりはるかに速く北へ疾走する。
第一の声
「だが、なぜ波も風なく、
船はあれほど速く走れる?」
第二の声
「前方の空気が割れ、
後方で閉じられる。
飛べ、兄弟よ、飛べ!さらに高く、高く!
さもなくば、我らは後れるぞ。
水夫が夢から目覚めたときには
船は遅く、遅くなるのだから。」
超自然の動きは緩やかになる。水夫は目覚め、彼の新しい贖罪が始まる。
目が覚めたとき、我らは恵まれた天候の中を
航海しているようだった。
夜、月の高い、静かな夜だった。
死んだ男達は共に立っていた
皆、一緒に甲板に立っていた、
死体安置所にあるように。
皆、石のような目を私に向け、
その目を月が光らせていた。
皆が死んだときの苦悶と呪いは
消え去ってはいなかった。
私は皆の視線から目を逸らすことも、
祈ることもできなかった。
呪いがついにあがなわれる
そしてそのとき、呪詛が断ち切れた。
再び、私は碧の海を見渡し、
はるかに遠くを見た。かすかな兆しか、
他の何かが見えはしないかと――
人気のない道でたった独り、
怖れと不安を抱えて歩いたように、
一度は辿った道を振り返っても、
二度と後ろを向こうとはしない。
なぜなら恐ろしい悪鬼が
すぐ後ろをつけているから。
けれどすぐに恵みの風が私に吹いた
音も立てず、気配もさせずに、
風は海の面を通らなかったので
小波も立たず、波影もなかった。
風は私の髪をかき上げ、頬をなでた。
青い牧場の春のように――
私の恐れを煽る奇妙な感もあったが、
歓迎されるようでもあった。
速く、速く、船は疾走する
すべるように速く。
爽やかに、爽やかに風は吹く――
風は私一人に吹きつけた。
そして老水夫は彼の故郷を目にする。
ああ!夢ではないか!あれに見えるのは、
本当にあの灯台だろうか?
あの丘か、あの教会か?
まさに私の故郷だろうか?
我らは港の砂州を越えた。
そして私は泣きながら祈った――
夢なら目覚めさせたまえ、神よ!
もしくはこのまま眠らせたまえ。
港の湾は硝子のように澄んでいて、
鏡のように静かだった!
月光が湾に差しこみ、
月影が映っていた。
丘が月に照らされていた、
丘の上の教会も光っていた。
月光は音もなく、
動かぬ風見鶏を照らし出した。
天使の霊が死体から離れ、
静寂の白い光に照らされた湾を前に、
何かが立ち上りだした、
とても多くの、同じ形をした影が
真紅の色を帯びて。
光の中に本来の姿を現す。
舳先から少し離れた場所に
その真紅の影はあった。
甲板に視線を戻すと、
あぁ、神よ!私がそこに見たものは!
皆の死骸が倒れていた。生命なく、静かに、
そして、聖なる十字架に誓って、
光に包まれた人、否、焔の天使が、
全ての死骸の上に立っていた。
熾天使は皆、緩やかに手を振っていた。
それはまさに天上の光景だった!
陸へ向けた合図のように
各々が美しく光った。
熾天使は皆、緩やかに手を振っていた。
存在を示す声もなく――
音もなく、だけれども、そう、静寂が沈んでいった、
まるで音楽が私の心に染み渡るように。
間もなく私は水を切る櫂の音を聞いた。
水先案内人の呼び声を聞いた。
思わず声のほうへ顔を向けると、
小船が近づいてくるのが見えた。
水先案内人とその見習いが
急いで近づいてくるのが聞こえた。
天にまします慈しみ深き神よ!それは歓喜でした。
そこに死者たちが横たわっていたとしても。
三人目の人物が見えた――私は彼の声を聞いた。
あれは隠者だ!
彼は神への聖歌を高らかに歌っている。
彼が森で作った歌を。
隠者は私の魂を清めてくれるだろう、
あのアルバトロスの血を、洗い流してくれるだろう。
森の隠者
海へと続く斜面の森に
この隠者はよき日々を暮らしている。
その歌声はなんと高く心地よく響くことか!
彼は遠い異国よりやってきた水夫達と
語らうことを楽しむ性質だった。
彼は朝に、午時に、夕に膝をつき祈る――
朽ちた楢の切り株を
覆い隠すほどに厚い苔を
膝に当てる緩衝材にして。
小船が近づいて、話し声が聞こえた。
「どういうことだ?おかしいじゃないか!
合図を送っていた、あの沢山のきれいな光は、
いったいどこにいったのだ?」
小船は惑いながら近づく
「たしかに、変だ!」隠者は言った――
「それに我らの呼び声に応えもない!
船板は歪んでいるようだ、それに見ろ、あの帆を、
ずたずたに引き裂かれているではないか!
いままでこんな船は見たことがない。
例えられるものがあるとすれば、
私の森の小川を流れる
葉肉が落ち、骸となった枯葉のようだ。
蔦の茂みに重たい雪が積もり、
雌狼の仔を喰らう狼に
梟がほぅと鳴く日に。」
「あぁ、神よ!この船は悪鬼に憑かれたようだ――」
(水先案内人は答えて)
「おっかねぇ、」―「漕げ、漕げ!」
そう言って隠者は勇気づけた。
小船は船に近づいてきたが、
私は声も出ず、動けなかった。
小船は船の間近まで来て、
何かの音が聞こえた。
船が突然沈む。
音は水底から轟き、
どんどん大きく恐ろしくなっていった。
響きは船に届き、湾を割り、
船は引きずられるように沈んでいった。
老水夫は水先案内人の小船に救われる。
空と海を揺るがした
怖ろしく大きな音に撃たれて、
七日も経った溺死体のように
私の体は浮いていた。
けれど夢のように景色が変わり、
気がつくと水先案内人の小船にいた。
船が沈んだ渦の上で
小船はくるくると回っていた
辺りはひどく静かで、岡だけが
あの音のこだまを返していた。
私は唇を動かした――
水先案内人は悲鳴をあげて気を失った。
聖なる隠者は視線を天に上げ、
座したままで祈りをささげた。
私は櫂を握った。
まだ気の狂れていた水先案内人の見習いは、
目を泳がせたまま、
大声で笑いづづけた。
「はは、あはは!」曰く
「そっか、悪魔も漕ぎ方を知っているんだ!」
そしてついに、私の故郷へ、
私は懐かしい大地に立った!
隠者も小船から降りたが
ほとんど立ってはいられなかった。
老水夫は罪を清めてくださるように隠者にひたむきに懇願し、
浄罪の秘蹟が下される。
「あぁ、私を清めてください、どうか、どうか、聖なる方よ!」
隠者は額で十字を切った。
「話しなさい」曰く「汝の話を聴き判じよう――
汝はいったい何者なのだ?」
突然私の中で炎が燃え上がり
ひどい苦悶に痛めつけられた。
それは私に話すように強要し、
話すことで私は解放された。
それからの年月、老水夫はこの苦悶のために国々を旅して残りの人生を生きることになる。
それからというもの、ふいに、
あの苦悶が返ってくるのだ。
そして私の怖ろしい話を語るまで
この熱は私を焦がし続ける。
私は夜のように国々を廻る。
私は語る強い力を持っているのだ。
私は人の顔を一瞥したときに、
その人が聴かねばならない人物かが分かる。
そして、私は語っている。
扉の向こうの祝宴はなんと賑やかなことか!
結婚式の招待客たちがいるのだ。
花嫁と付き添いの娘たちは、
庭の憩所で歌っている。
だが聴け、祈りの時を告げる
あのかすかな晩鐘の音を!
あぁ、若者よ!この魂は
広い広い海をたった一人渡ってきた。
神の存在さえも疑うほどに
孤独だった。
披露宴のなんと晴れやかなことよ。
だが、私にとってより晴れやかなことは、
よき友と共に、
教会へ歩むことだ!――
共に教会へ歩み、
皆と共に祈る。
各々が偉大なる天の父に跪くのだ、
年寄りも、赤子も、愛する友も、
快活な若者や娘も!
彼の経験から神が創造し愛した全てのものへの愛と敬意を説く。
お別れだ、さようなら!若者よ、
だが、これこそ私が君に伝えたいこと。
人も、鳥も、獣も区別なく、
良く祈るものは、良く愛するものだ。
大きなものも小さきものも区別なくあらゆるものに、
最も深く祈るものは、最も深く愛するもの。
我らを愛するあの優しい神は、
全てを創造し、全てを愛してくださるのだ。
年月が白くした髭を抱え
目をぎらつかせたあの水夫は、去った。
そして今、若者は
披露宴の扉の前で踵を返した。
若者は打ちのめされたように
呆然と立ち去った。
そして哀傷と賢明を秘めた男が
翌日の朝、目を覚ます。