武経七書 李衛公問対から学ぶ!解説書、文献としての価値について

武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。
当時流行していた兵書340種余の古代兵書の中から『司馬法』『孫子』『呉子』『六韜』『三略』『尉繚子』『李衛公問対』の七書が選ばれ、武経七書として制定されました。

その中の『李衛公問対』は唐の太宗李世民と李靖の対話形式で構成されている兵法書で、別名『唐太宗李衛公問対』『唐李問対』ともいわれます。

上,中,下の3篇から成っており『孫子』、『呉子』をはじめとする古代の兵法、歴史的故事の意味、唐代初期の戦略などきわめて多岐にわたって論じていますが、兵法の文献としてはあまり評価されていません。
色々な有名人が出てくるので読み物として楽しむのもよいのではないでしょうか。

3篇の概要を以下に記します。

上巻
 兵における「奇」「正」について論じています。

中巻
 兵における「虚」「実」、分散と集中、隊伍の編制、陣形について論じています。

下巻
 実例や名言を引用しつつ、様々な用兵の要点について論じています。

武経七書の中では一番成書年代の新しい書ということもあるのですが、『孫子』の解説書といっても良い内容になっています。
また兵法の極意だけでなく、現在では伝わらない書を含め様々な兵書の解説、評論などを実戦を例に出して述べていることから、他の多くの文献の資料としての価値も高い書です。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【上巻】

太宗「高麗がしばしば新羅を攻めている。朕は使いを遣わして諭しても聞こうとしない。これを討とうと思うが、どうか」
李靖「高麗の蓋蘇文を調べますに、自らの用兵術に頼み、中国に討伐されるとは思っていません。ですから命に叛くのです。わたしに兵3万をお預けください。 これを虜にしましょう」
太宗「3万では少なく、遠征は遠い。どのような戦略で臨むのか」
李靖「正兵を使うつもりです」
太宗「突厥を平定した時に、そなたは奇兵を使っている。今度は正兵を使うというのはどうしてか」
李靖「かつて諸葛亮は猛獲を7回捕らえましたが、まさしく正兵を用いたものです」
太宗「なるほど、晋の馬隆が涼州を討伐した時、諸葛亮の八陣図をもとに偏箱車を作ったという。戦場が広ければ鹿角車を並べて布陣し、 狭い道では車の上に木屋をつくって戦いながら前進した。そなたの言うように古人は正兵を重んじていたのだな」
李靖「臣が突厥を討伐した時も、西に進むこと数千里。もし正兵でなければ耐えられなかったでしょう。
偏箱車や鹿角車は用兵の要です。馬隆も古の兵法をよく学んだのです」

太宗「朕が宋老生を破ったとき、わが軍が少し後退し、敵が攻め入ったところを朕は自ら鉄騎兵を率いて横からこれを突いた。敵軍は分断されて総崩れになり、 宋老生を捕らえることができた。これは正兵というべきか、奇兵というべきか」
李靖「陛下の用兵は天性のものであり、学んで得られたものではありません。臣が思いますに、黄帝よりこのかた、 正兵を先にして奇兵を後にし、仁義を先にして策略を後にしました。
さて霍邑の戦いに陛下は義をもって臨みましたので、これは正兵です。右軍の建成様が落馬したため右軍が後退せざるを得なかったのは奇です」
太宗「あのとき後退したので危うく大敗するところであった。それを奇というのはなぜか」
李靖「前進するのを正、後退するのを奇と言います。あのとき右軍が後退しなければ宋老生は進撃しなかったでしょう。 宋老生は兵法をわきまえなかったので陛下の虜となったのです。奇を変じて正と成すとは、これをいうのです」
太宗「なるほど霍去病の用兵は孫呉の兵法にかなっていたというが、まことにそうであろう。右軍が退いた時、太祖は色を失ったが、朕が奮戦したので勝利することが出来た。 これも孫呉の兵法にかなっていたというわけで、まことにそなたの言うとおりである」

太宗「軍を撤退させることは、すべて奇と言ってよいか」
李靖「そうではありません。撤退の時、旗はバラバラで金鼓も揃わず、号令も混乱しているのなら、ただ敗走しているだけで、奇とは言えません。 これらが全て揃っているなら、敗走しているわけではなく、そのなかに必ず奇を秘めているのです」
太宗「霍邑の戦いで右軍が退いたのは天の采配であったが、宋老生を捕虜にできたのは人力のいたすところであると言ってよいか」
李靖「正から奇へ、奇から正へと変化することが出来なければ、どうして勝つことが出来ましょう。用兵に長けた者は、その機微を心得ているのです。 ただし、奇正の変化は、人智をもって極め尽くすことは出来ません。それで天意に帰しているのです」
太宗は大きくうなずいた。

太宗「奇と正はもともと別物なのか、それとも状況に応じて使い分けるものなのか」
李靖「曹公(曹操)の『新書』に『自軍の兵力が2倍なら、自軍を正と奇の半分に分ける。5倍の兵力なら、正を3、奇を2に分ける』とあります。 しかしまた『孫子』には『戦には奇と正から成り立ち、その変化は無限である』とあります。これこそ至言というべきであり、奇と正とは分けることが出来ません」
太宗「実に奥深い話だ。しかし曹操もそのことはわかっていたにちがいない。『新書』は部下に教えるために書いたもので、奇正の本義を書いたものではあるまい。
ところで曹操は『奇兵は側面から攻める』と記しているが、これについてどう思うか」
李靖「曹操は孫子の注釈のなかで『先に出て戦うのを正とし、後から出ていくのを奇とする』と記しています。思うに、主力の戦いは正とし、 状況に応じて出す部隊を奇としているのでしょう」
太宗「朕は正で対しながら敵には奇と思わせ、奇で対しながら敵には正と思わせるようにした。これは『孫子』のいう『敵の動きが手にとるようにわかる』 ということなのだろうか」
李靖「陛下はまことに英邁でございまして、古の兵法家を凌いでおられます。ましてわたくしなど遠く及ぶことが出来ません」

太宗「分散と集合を繰り返す場合、どちらが奇でどちらが正なのか」
李靖「状況に応じて正にも奇にも変化するので、味方はどちらで勝ったのかわかりません。分散と集合の妙を窮めたのは、 ただ孫武だけです。呉起より後の人は彼に及びません」
太宗「呉起の兵法はどのようなものであったか」
李靖「呉起が魏武侯に兵法に尋ねられた時『身分が低く勇気ある者を選んで攻撃させ、すぐに退却させます。 この退却を罰してはなりません。敵の出方をうかがうのです』と言ったことがあります。孫武のいう、正兵をもって戦うやり方とは考えを異にします」
太宗「韓擒虎が『李靖となら孫呉を語れる』と言ったが、これも奇正についてのことなのか」
李靖「韓擒虎は奇正の奥義をまったく理解していません。奇正が絶えず変化し、窮まりのないことなど知る由もないのです」

太宗「古に奇兵を繰り出して相手の不意をついた例がある。これは奇正の変化に則ったことではないのか」
李靖「多くの戦いはわずかな戦略、わずかな徳で勝っただけのことで、兵法を論ずるには値しません。たとえば謝玄が前秦の符堅を破ったのも、符堅に徳が欠けていたからです」
太宗「符堅のどこに徳の欠けたとことがあるのか」
李靖「全軍が総崩れになったのに、慕容垂の軍だけが無傷であったのは、間違いなく彼に陥れられたのです。味方に陥れられながら敵に勝つことはできません。 符堅は無策であったというべきでしょう」
太宗「わずかでも勝利する条件のある方が、条件のない相手に勝つことは明らかである。これは符堅だけでなく、すべての場合にあてはまるだろう」

太宗「黄帝の『握奇の文』は、『握機の文』とも呼ばれているが、どうしてか」
李靖「奇と機は音が同じだからです。意味するところはかわりません。わたくしの考えでは、握機は機を掌握するということで全ての戦いに言えることです。 それゆえ『余奇』の奇をとって握奇とするのが正しいのです」

太宗「陣の形は、5に始まり8に終わるというが、これはどういうことか」
李靖「かつて諸葛亮は八行の陣を作りましたが、世に言う方陣とはこれのことです。黄帝の『握機の文』は、ただその概略を示したものに過ぎません」
太宗「天・地・風・雲・竜・虎・鳥・蛇、この8つの陣は何を意味しているのか」
李靖「これは誤って世に伝わったものです。八陣とはもともとひとつの陣形のことで、それをただ便宜的に8つに分けただけです。これが誤って伝えられたために、 竜陣なら竜を象った陣形であるように誤解されたのです」

太宗「陣の形は、5に始まり8に終わるというが、これについて詳しく説明してほしい」
李靖「黄帝は丘井の法を定め、土地を井の字に9つに分けて、耕作させた。軍の陣形もこれにならい、 9つの区画のうち、上下、左右、真ん中の5箇所に布陣して残り4箇所を空地としました。これが陣形は5に始まるということです。
これが後になると、真ん中に大将が布陣し、周囲8箇所に陣を張りめぐらせましたので、8に終わるということです」
太宗「さすがに黄帝の軍制はすばらしいものだ。これを引き継いだ者はいたのだろうか」
李靖「周の太公望は黄帝の教えを受け継いで井田制を布き、太公望亡き後は、斉の人々がその遺法を受け継ぎ、 管仲がこれを受け継いで、桓公を覇者としました。これを節制の軍といいます」
太宗「儒者の多くは管仲を覇者の臣下に過ぎないというのは、彼の兵法が王制に基づいていることを知らないからであろう。諸葛亮は誰もが王業を補佐したというが、 彼も自らを管仲と楽毅になぞらえたというので、管仲は王業を補佐する器であるといえよう」
李靖「まことにおっしゃるとおりです。管仲の制度や『司馬法』などは、太公望の遺法を受け継いだものなのです」

太宗「『司馬法』は司馬穰苴の表したものだというが、本当だろうか」
李靖「斉の威王のときに伝えられてきた『司馬法』を整理し、穰苴の学んだことを追加して、今に伝わる『司馬法』ができあがりました」
太宗「漢の張良と韓信はそれまでの兵法書を182家に分類し、 余分なものを削り取って35家を選んだというが、今に伝わっていないのはどうしてか」
李靖「張良は『六韜』『三略』を学び、韓信は穰苴や孫武に学びました。しかしそれは三門四種に勝るものではありません」
太宗「三門とは何か」
李靖「臣が思いますに、太公望の『謀』81篇、『言』71篇、『兵』85篇を指して三門といいます」
太宗「では四種とは何か」
李靖「漢の任宏が兵法を論じて、権謀・形勢・陰陽・技巧の4つに分類しました。これを四種といいます」

太宗「『司馬法』は冒頭で蒐と狩について書いているのはなぜか」
李靖「蒐狩の目的は、狩の名を借りて兵を鍛えることにありました。ですからこのことを重んじたのです。周成王の岐陽の蒐、 康王の?宮の朝、穆王の塗山の会が行われ、周が衰えると斉桓公が召陵の師を、 晋文公が践土の盟を開きました。
天子は諸侯を招集したり、諸侯を巡行する時に軍事訓練を行いましたが、それは平穏な時にはみだりに軍事行動を起さないことを示すとともに、 農閑期に訓練を行うことで軍備を疎かにしないことを示したのです。『司馬法』の記述方法には深い意味があるのです」

太宗「『春秋左氏伝』に楚の二広の法に触れた部分があるが、これも周の制度に基づいたものなのか」
李靖「『春秋左氏伝』には楚の部隊についても書かれていますが、これも周の制度と同じです。ただひとつ違うところは、楚では主力を100人、支援部隊を50人とし、 会わせて150人が戦車に従う形をとっていましたが、周の制度では軽装備の兵が72人、重装備の兵が3人、合わせて75人が従い、それを三隊に分けました。 楚の兵士数が多いのは、山がちの国で戦車が少なく人が多かったからです」

太宗「春秋の晋の荀呉が狄を攻めたとき、戦車を捨てて歩兵だけで行軍したという、これは正兵というべきか、奇兵というべきか」
李靖「荀呉は戦車を捨てましたが、戦車の隊伍を崩しませんでした。原則は変えなかったのです」

太宗「辺境の地では、漢人と異民族が入り混じっていて、統治が難しい。どうすれば双方の民に不安を抱かせないようにすることができるか」
李靖「漢人に対しては漢人の部隊としての訓練をし、異民族には別の方法で強化にあたり、両者の扱いを混同しないことです。外敵に不穏な動きがあれば、 ひそかに旗印や威服を取り替えさせて、奇計を出して撃ち払うのです」
太宗「それはいかなる策なのか」
李靖「策略を使って敵の判断を誤らせるのです。異民族を漢人に、漢人を異民族に見せかけて惑わせます。戦上手とは、こちらの動きを察知されるのことはないのです」
太宗「朕も同じ意見である。この戦い方をぜひそなたから辺境の将軍に教えてほしい」

太宗「諸葛亮は『統制の取れた軍は、無能な将軍に率いられても負けることがない。統制の取れていない軍は、有能な将軍が率いても勝利できない』と言ったという。 朕には本質を突いた論だとは思えないのだが」
李靖「諸葛亮は感じるところがあって語ったのでしょう。統制を欠いて自滅した例は、枚挙にいとまがありません。それは教育が徹底していないからです。 諸葛亮はこのことを言いたかったのでしょう」
太宗「たしかに兵の訓練は、揺るがせにできないものだ」
李靖「わたくしが古来からの軍制を詳細に調べて図にまとめあげているのも、ただ統制の取れた軍を作りたいからです」
太宗「ぜひそれを作り上げ、完成したら朕にも見せてほしい」

太宗「異民族の騎兵は、奇兵にあたるのか。漢族の弩兵は正兵にあたるのか」
李靖「騎馬は短期決戦に向いており、弩兵は長期戦で威力を発揮します。この両者の長所を使いこなすことが重要です。そこには奇と正の違いなどありません」
太宗「もう少し詳しく述べてほしい」
李靖「わざとこちらの態勢を示してやり、敵が食いついてきたら、すばやく変化して迎え撃つのです」

太宗「松漠・饒楽のふたつの都督を新設することにした。ついては都護に薛万徹を起用したいと思うが、どうだろうか」
李靖「万徹では、阿史那社爾や執失思力、契?何力にとても及びません。彼らはいずれも異民族の出身ですが、戦のやり方をよく心得ています。 どうか彼らを任命してください」
太宗「相手が異民族でも、そなたなら思いのままに使いこなせるようだ」

【中巻】

太宗「将軍たちは『孫子』を読んでいるといっても、いざ実戦となると、ほんとうに虚実を活用できる者は少ない。 朕は、それは戦いの主導権を握ることができず、逆に敵に奪われてしまうからだと思うのだが、どうだろうか」
李靖「将軍たちにはまず、奇と正が互いに転化するものであることを教え、その後で虚と実の形を教えるのがよいでしょう」
太宗「孫子は勝つための条件を四つ挙げている。
一.戦局を検討して彼我の優劣を把握する
二.誘いをかけて敵の出方を観察する
三.作戦行動を起こさせて地形上の急所を探り出す
四.偵察戦を仕掛けて敵の陣形の強弱を判断する
 つまり奇正の変化はこちらが行なうものであり、虚実の態勢は敵の問題だということか」
李靖「おっしゃる通り、奇正とは敵の虚実に対応するためのものです。敵が実、つまり戦力が充実していればこちらは正で対応し、 敵が虚、つまり戦力が手薄ならこちらは奇で対応します。そこでわたくしは将軍たちにまず奇正について教えたいと思います。 そうすればおのずと虚実も明らかになりましょう」
太宗「敵の勢いをつねに虚にし、味方の勢いをつねに実にしておくのだ。このことを分かり易く将軍たちに教えてほしい」

太宗「朕は瑶地に都督を新設し、安西都護府の下に置こうと思う。かの地の異民族と漢族をどう扱ったらよいか」
李靖「異民族といっても同じ人間です。こちらが恩恵を施し信義をもって臨むなら、彼らも漢族と変わらぬようになるでしょう。
かの地にいる漢族を内地へ帰還させ、兵糧の負担を軽くするようお計らいください。これは『孫子』のいう『力を掌握する』ことです」
太宗「『力を掌握する』とは何か」
李靖「一.有利な場所に布陣して遠来の敵を待つ
二.じゅうぶんな休養をとって敵の疲れを待つ
三.腹いっぱい食べて敵の飢えを待つ
 この三つが基本です。戦巧者はここから具体的に六つの戦術を導き出します。
一.誘いをかけて飛び込んでくる敵を待つ
二.冷静な態度で妄動する敵を待つ
三.どっしりと構えて動き回って疲れる敵を待つ
四.統制のとれた状態で統制のとれない敵を待つ
五.一つにまとまって離散する敵を待つ
六.堅い守りで攻めてくる敵を待つ
この六つです。これを守らなければ力を掌握できませんし勝利を収めることもできません」

太宗「新兵を鍛え上げるためには何を教えたらよいか」
李靖「まず兵士を5人組の伍に編成し、将校に預けるのが第一段階です。伍を10集めた50人で、さらに100集めた500人で訓練するのが第二段階です。 こうして将校が訓練した兵士を陣形を訓練するのが第三段階です。さらに奇兵と正兵に選り分けたうえ、全軍に布告して賞罰を明らかにします」

太宗「隊伍の編成にはいくつかの説がある。どれを用いるべきか」
李靖「四つの説があります。
一.『春秋左氏伝』の説――戦車を前に押し立てて後ろに歩兵が従う
二.『司馬法』の説――五人一組を<伍>とする
三.『尉繚子』の説――五人一組で責任を負わせる
四.漢代の慣例――五人一組で板籍が書かれた軍の命令を受け取る。しかしこれはやがて板籍が紙で代用されたことで廃止された
 このように隊伍の組み方には諸説ありますが、いずれもが<伍>を基本としているのです。
 私はこれらを参考にして次の制度を採用しました。
 五人一組で<伍>、<伍>を五組で二五人、さらにそれを三組として七五人の組に編成します。七五人とはその昔軽歩兵七二人・重歩兵三人を合わせて七五人とした制度にならったのです。戦車を使わない場合は、馬八頭で兵二五人に相当します。これは『司馬法』の「五兵五当」によります。
 さらに五倍すれば三七五人になります。そのうち三百人を正兵、六〇人を奇兵とし、これを半分に分けて一五〇人の正兵二組、三〇人の奇兵二組に分けて左右均等の隊伍にするのです。
 司馬穰苴が五人を<伍>、五〇人を<隊>としてからこの組み合わせは今に至るまで踏襲されています。これが隊伍の基本なのです」

太宗「そなたが考え出した『六花の陣』とは何に基づいているのか」
李靖「諸葛亮の『八陣の法』に基づいています。『八陣の法』とは、大きな陣地が小さな陣地を包み込み、広い陣営が狭い陣営を包み込み、前後左右に対称な形をしているもので、 古の陣形とはみなこのようなものでした。そこでわたくしは外側に方陣を組み、内側に円陣を組みました。それが6つの花の形をしているのでそう呼ばれるようになったのです」
太宗「内側に円陣、外側に方陣を組むのはどうしてか」
李靖「方陣によって歩行を正し、円陣によって循環を連続させることができるようになります。そして両者が兼ね備わってこそどんな変化にも対応できるのです」

太宗「方陣と円陣の両方を自在に行なえるようになれば、兵の訓練はほぼ完成と言えるのか」
李靖「『孫子』にもまず地形を把握してかかることが前提となっております」
太宗「なるほど、土地の遠近、地形の広狭を知らなければ、正しく軍を動かすことはできぬ」
李靖「凡庸な将はそのあたりが理解できないのです」

太宗「曹操は『陣を布くときには、まず目印の柱を立てて兵士を集結させて陣を作る。敵の襲撃を受けたとき、他の救援に向わなければ斬り捨てる』とある。これはどういうことか」
李靖「敵と対陣してから目印を立てるのは遅すぎます。これは訓練の時にしか役立ちません。
陛下の作られた『破陣楽の舞い』を見させていただきましたが、他の観衆はただ賑々しい舞楽に酔いしれているだけで、 そこに軍陣のありようが示されているのを誰一人として気づいていないようでした」
太宗「わしの意図を見抜いたのは、そなただけである。これで後世の人もわしの意図を理解してくれよう」

太宗「集中と分散を自在に行なうには、どうすればよいか」
李靖「わたくしは古法を参考にしています。部隊を集結させたい時は、旗を寄り合わせたり交差させたりし、角笛を合図に旗を開けば分散します」

太宗「曹操の騎兵には戦騎、陥騎、遊騎があったというが、今の騎兵はどれにあたるのか」
李靖「曹操は騎兵を3つにわけ、それぞれに名前をつけただけのことです。曹操は騎兵を前・後・中に分けて三覆と名づけました。後世の人々は、 この三覆の意図を悟らなかったため、わからなくなったのです」
太宗「みな曹操に惑わされてしまったようだ」

太宗「戦車も歩兵も騎兵も、使いこなせるかどうかは、それを使う人如何であると思うがどうか」
李靖「春秋時代の魚麗の陣は戦車を前にし、歩兵を後にして布陣しました。晋の荀呉が狄を討ったときは戦車を捨てて歩兵と騎兵だけで追撃しましたが、 これは奇によって勝とうとしたのです。
騎兵1騎を歩兵3人分の戦力と考え、歩兵と戦車を騎兵の戦力につりあうように揃えて、三者をまとめて統率するのです」

太宗「太公望の布陣について説明してほしい」
李靖「武王が紂を討伐した時は、勇猛な人物にそれぞれ3000の兵を与え、 東・西・南・北・中央の各陣にそれぞれ6000人、合計3万人が布陣しました。これが太公画地の法です」
太宗「そなたの六花の陣はどうか」
李靖「わたしが兵を訓練した時は、5000の兵を6隊に分け、中央に将軍直属の隊を置き、残りの5隊に方・円・曲・直・鋭の5つの陣形を組ませます。それぞれの隊が5たび変化し、 25回の変化をして閲兵を終わります」
太宗「『五行の陣』とはどのようなものか」
李靖「東西南北と中央を青・赤・黄・白・黒の五色になぞらえ、地形に応じて陣形に方・円・曲・直・鋭をつくります。この陣形に五行の名をつけたのは、 いかにも神秘的であるように見せかけているだけです。実際は、地形に応じた無理のない布陣をすることなのです」

太宗「李勣が牝牡、方円、伏兵について語ったことがあるが、これは古からあったものなのか」
李靖「牝牡とは、陰陽の別称です。范蠡は『後手に回ったら陰を用い、先手を取ったら陽を用いる』と言い、 また『右に布陣するのを牝、左の兵力を増強するのを牡と言う』と言っています。この左右は時の状況に応じて変化し、すなわち奇正の変化にほかなりません。
伏兵の場合も同じで、山や谷だけでなく、草むらや森にもひそみます。敵はその奇正を見定めることができません」

太宗「竜・虎・鳥・蛇の『四獣の陣』を、商・羽・徴・角の4つの音階をもって呼ぶことがあるが、特別な意味があるのか」
李靖「たんなるまやかしにすぎません」
太宗「では禁止すべきだろうか」
李靖「いや、自然に廃れるのを待つべきです。禁止すれば、さらにひどいまやかしが出てきましょう」
太宗「どういうことか」
李靖「このまま残しておけば、これ以上、同じようなまやかしは出てこなくなるでしょう」
太宗「このことはそなたの胸のうちに秘めておくがよい」

太宗「刑罰を厳しくすれば部下はわたしを恐れ、敵を恐れなくなると言う者が居るが、これは疑問だ。光武帝は僅かな兵で王莽の100万の軍を破ったが、 厳しい厳罰をしたからではない。では、何が勝因となったのか」
李靖「戦の勝敗には、さまざまな原因があって、一つの事例から述べるべきではありません。 陳勝呉広は敗れましたが、秦よりも厳しい刑罰をしませんでした。
光武帝の時は、王莽に対する怨嗟の声が溢れ、また王莽の王尋・王邑は兵法に疎かったので、王莽は自滅したのです。孫子にある『兵士がなついていないのに厳罰をすれば、 兵士は心服しない。なついているからといって罰しないなら、これも使いこなせない』とありますが、まさにその通りです」
太宗「『書経』に『威厳が愛情に勝れば成功し、愛情が威厳に勝れば失敗する』とあるが、これはどういうことか」
李靖「『書経』が説明しているのは、ものごとの結果について戒めたもので、前後の関係について語ってはいません。孫子こそ、いつの時代にもあてはまる真理と言えましょう」

太宗「そなたが蕭銑を平定したとき、将軍たちはその家財を没収して部下への褒賞にしたいと望んだが、そなたが許さなかったので、結局江漢の者たちは喜んで帰順した。 古人も『文をもって民を心服させ、武をもって敵を威圧する』と言っているが、そなたのしたことはこれと同じである」
李靖「光武帝は赤眉の乱を平定した時、降服したばかりの賊の陣中を軽騎で巡行しました。賊は光武帝がまごころを持って接してくれたと感激したと言います。 わたくしも突厥を平定した際、異民族に対しても漢民族に対してもまごころを持って接しました。
陛下から文武を兼ね備えているとは、まことに過分なおことばでございます」

太宗「かつて唐倹を使者として突厥に遣わしたとき、そなたは好機と見て総攻撃をかけたが、唐倹を囮に使ったと批判する者も多い。そなたの真意を知りたい」
李靖「わたしは唐倹の弁舌では突厥を説き伏せることはできないと判断しました。つまり大きな災いを除くために小さな義を捨てたのです。 陛下には何とぞお疑いのなきようお願い致します」
太宗「かつて周公旦は大義のためにあえて兄に手をかけたという。まして一使節など言わずもがなである。 そなたの真意はよくわかった。もはや一点の疑念もない」

太宗「戦は短期決戦を目指し、長期戦になることを避ける。これはなぜか」
李靖「戦はやむを得ず行うもの、受身で長期戦になっては勝利は望めません。孫子に『軍事物資を遠方まで輸送すれば民の負担が重くなる』とあります。 わたしは敵の主導権を奪い、敵を受身にする方法を見つけました」
太宗「詳しく教えてほしい」
李靖「敵地で食糧を調達できれば主導権を握ることができます。逆に敵の糧道を絶てば受身にさせることができます」
太宗「今言ったことは、過去にも例があるのか」
李靖「昔、越が呉に攻め入ったとき、迎え撃つ呉を見た越軍はひそかに渡河を命じて急襲して呉軍を討ち破りました。これが主導権を敵から奪い取った例です。
また石勒が姫澹と戦ったとき、石勒はわざと退却して敵を追撃させ、伏兵をもってこれを打ち破りました。これは疲れている兵に休養を取らせて勝利した例です。 このような例は、枚挙にいとまがありません」

太宗「鉄菱と行馬は太公望が考えた武器だと言うが、ほんとうか」
李靖「その通りです。太公望の『六韜』でとりあげられています。これらは守りのためのもので、攻撃には使えません」

【下巻】

太宗「太公望は、歩兵が戦車や騎馬と戦う時は必ず丘墓や険阻に布陣するといっており、『孫子』には丘墓、城跡に兵を駐屯させてはならないとある。 どういうことか」
李靖「軍を率いるには兵士の気持ちをひとつにすることが大切です。ですから、軍を駐屯させる場所は、兵士が安心して動ける所でなければなりません。 ただし丘墓や城跡はさほど険しい土地とは言えず、そこを占領すれば戦に有利です。太公望の言っていることは的を得ているのです」

太宗「せっかく好機をつかみながら、迷信や占いに惑わされてためらってはならない。今後、そのような者がいたら、そなたからそく戒めてほしい」
李靖「『尉繚子』に、黄帝は徳をもって国を治め、刑によって敵を討ったわけで、天文の吉凶に頼ったわけではないとあります。しかし後世の凡庸な将軍たちは、 陰陽家や占星師の言うことを信用して敗北してきました。くれぐれも戒めなければなりません」

太宗「兵の分散と集中は、状況に応じて行うことが大切だが、過去の戦いでふさわしいのを挙げてくれ」
李靖「苻堅は100万の大軍を率いましたが、?水の戦いで大敗しました。これは集結した兵をうまく分散できなかった例です。
呉漢が蜀の公孫述を討ったとき、公孫述が呉漢に襲い掛かると、副将の劉尚が呉漢と合流してこれを撃破しました。これは分散していた兵をうまく集中できた例です」
太宗「その通りだ。苻堅は王猛が死ぬと破れてしまった。これは縻軍といえるだろう。 一方、呉漢は光武帝の厚い信頼を受けて作戦に制約を受けなかったので蜀を平定することができた。これらの事例は、長く後世の鑑とすることができる」

太宗「多くの兵法書を読んだが、その要諦はさまざまな策を講じて敵の誤りを引き出すことに尽きると思うが」
李靖「仰せの通りです。敵に誤りがなければどうして勝利できましょう。古来、勝敗を分けたのは、たった1回の誤りによるものでした」

太宗「攻めと守りは、実はひとつのことではあるまいか。しかし『孫子』には、敵味方の勢力が均衡していて双方が攻め合い、守り合う状況については触れていない。 このような場合は、どう戦えばよいか」
李靖「人々は『孫子』を読んで、劣勢とは弱いこと、優勢とは強いことだと単純に考えています。しかし兵力の強弱は劣勢、優勢に関係ありません。 後の人々はこの意味を悟らず、攻めるべき時に守り、守るべき時に攻めています」
太宗「なるほど。兵の優勢と劣勢をただちに強弱と結びつける者が多い。守るとは、わざと劣勢を示して敵に攻撃させ、攻めるとは優勢を示して敵を守りにつかせることであるが、 それがよく理解されていないのだ」

太宗「『司馬法』に、大国だからといって戦いを好めば国を滅ぼし、平和だからといって軍備を怠れば、必ず危険になるとあるが、これも攻めと守りが同じものであることを説いたものか」
李靖「攻めるとは、敵の心を攻めることでもあります。守るとは、自軍の気を充実させて情勢の変化を待つことでもあります」
太宗「その通りだ。朕は戦場では、敵味方の状況を知るようにした。敵を知り己を知ることは、最も大切なことである」

太宗「『孫子』には敵の士気を喪失させる方法について書いているが、詳しく説明してほしい」
李靖「戦いに際しては、まず兵士の状態を把握し、気を奮い立たせなければなりません。呉起も勝利する条件として四機を挙げ、そのなかで気機を第一に推しています」

太宗「そなたはかつて李勣を兵法に通じていると言ったが、はたしてこのまま使い続けてもよいものだろうか。わしでなければ使いこなせないのではないか。 治が後を継いだ時、使いこなせるだろうか」
李靖「いったん李勣を失脚させ、太子が即位されてから改めて登用してはいかがでしょう。そうすれば太子に恩を感じ、その恩に報いようとするでしょう」
太宗「なるほど、その通りにしよう」
しばらくして、
太宗「李勣に長孫無忌とともに国政を任せた場合、どうなるだろうか」
李靖「李勣は忠義の臣であり、無忌は建国に大功があり、陛下とは近い姻戚にあります。しかし無忌には賢者を妬む性癖があり、尉遅敬徳はその短所を諫言したのち隠退しましたし、 侯君集は恨みによって反逆を企てました。これらは無忌に原因があります」
太宗「このことはけっして他言してはならぬ。ゆっくり考えることとしよう」

太宗「漢の高祖は将に将たる器と称されたが、韓信や彭越を誅殺し、 蕭何は獄につながれた。これはどうしてか」
李靖「劉邦や項羽は、わたしの思うところでは、将に将たる器とは言えません。劉邦が天下を手に入れたのは、張良の計画と蕭何の働きによるものです。 韓信や彭越が誅殺されたのは、范増が項羽に用いられなかったことと同じです」
太宗「光武帝は王朝を興してから、建国の功臣を守るために、責任を取らされるような役職にはつけなかった。これこそ将に将たる器と言ってよいか」
李靖「光武帝のときは、相手の王莽は項羽ほどの勢いを持ち、部下の鄧禹や冠恂は蕭何や曹参に及びませんでした。 そのなかでゆるやかな善政を布いて功臣たちの身分をまっとうさせました。これは高祖よりもはるかに勝っています。将に将たる器であると言えましょう」

太宗「古では、将軍を任命するとき3日斎戒したうえで鉞を授けた。この儀式が絶えて久しい。これからあらためて出陣の儀式を作りたいが、どうであろう」
李靖「今、陛下は出陣にあたり、まず重臣に謀り、宗廟に報告してから発令されています。神霊を借りる手順はすでにそこでされています。 これは古の儀式となんら変わりがありません。あらためて作る必要はありません」
太宗「よかろう」

太宗「陰陽や卜筮など、あやしげなものは、廃止すべきではないのか」
李靖「それはいけません。陰陽や卜筮は、金目当ての者や愚かな者を使いこなすのに有効です。廃止すべきではありません」
太宗「そなたはかつて、賢明な将軍は天文のようなものを信用しないといったではないか。廃止してもよいのではないか」
李靖「同じ日に商は滅び、周は王朝を興しました。日は吉凶いずれかのはずです。また宋の武帝は陰陽で不吉な日に出兵して勝利を収めました。この2点から考えても、 天文による占いなど廃止すべきなのは明らかです。
しかし斉の田単は、兵士の一人を神に仕立て、その者に燕は敗北すると告げさせて兵士の士気を向上させて、ついに燕を破りました。 天文による占いもこれと同様なもの、要は使いようなのです」
太宗「太公望は占いの道具を焼き捨てて紂を破った。田単と太公望のとった方法は反対だが、これはどういうことなのか」
李靖「太公望は占いなど信ずるに足らないとしてこれを捨て、散宜生は占いよって兵士を鼓舞しようとしました。 そのやり方には違いはありますが、兵士を鼓舞するという狙いは同じだったのです」

太宗「今、将軍にふさわしいのは李勣、道宗、薛万徹の3人だけである。道宗は親族だから除くとして、残りふたりのうち、大任を任せられるのはどちらだと思うか」
李靖「陛下はかつて『李勣と道宗は大勝もしなければ、大敗もしない。薛万徹は大勝するか大敗するかいずれかだ』とおっしゃられました。前者は軍の統制が取れているからです。 後者は初めから幸運を期待して成果をあげようとしているからです」

太宗「敵と対陣しているとき、戦いを避けたいと思ったら、どうすればよいか」
李靖「戦いを避けるべきかどうかは自軍の態勢によって決められることであり、必ず戦うべきかどうかは敵の態勢によって決められるのです」
太宗「戦いを避けるのは自軍の態勢によって決められるとはどういうことか」
李靖「敵に優秀な参謀がついていれば、お互いに退却している時も、容易に敵情をつかむことは出来ません。 それゆえ、戦いを避けるべきかどうかは自軍の態勢によって決められると申し上げたのです。
敵に優秀な参謀がいなければ、敵の方から攻め立ててくるでしょう。そこを待ち伏せして撃破するのです。それゆえ、必ず戦うべきかどうかは敵の態勢によって決められると申し上げたのです」

太宗「兵法のなかでどれが最もすぐれているか」
李靖「『孫子』です。私はかつてその中から三等の序列をつけ、兵法を学ぶ者に順を追って学ばせました。それは道、天地、将法です
一.【道】これ以上素晴らしくかつ微妙なものはありません。『易』に『聡明叡智、この世の乱れを鎮め、厳罰を用いずして万民を服させる』とありますが、これこそ道に他なりません。
二.【天地】天は陰陽、地は険易を指します。用兵に長けた将軍はわが陰をもって敵の陽を奪い、険阻な地に拠って平坦な地にいる敵を攻撃します。『孟子』の『天の時、地の利』です。
三.【将法】人材の登用と武器の充実を言います。『三略』に『人材を得る国は強大になる』とあります。管仲は『武器は堅固で使いやすいものにする』と語っています」
太宗「その通りだ。戦わずして相手を屈服させるのが上策、百戦百勝は中策、守りを固めるのは下策であるという。『孫子』はこれらをすべて網羅している」
李靖「張良、范蠡、孫武の3人は、功を遂げた後、すっぱりと現世への関心を断って身を隠してしまいました。これは道を会得していたからです。
楽毅、管仲、諸葛亮の3人ですが、戦えば必ず勝ち、守れば必ず守り抜きました。これは天の時、地の利を把握していたからです。
王猛は前秦を安泰に保ち、謝安は東晋を守り通しました。これはよく守りを固めたからです」
李靖は深々と頭を垂れて退出し、書を著してことごとく李勣に伝授した。