今日(12月26日)は、徳川家康が生誕した日(天文11年12月26日(1543年1月31日))ということもあり、陰陽五行の相生相剋※)の観点で、愛知県出身で名古屋に所縁のある三英傑(信長、秀吉、家康)と明智光秀の関係を見てみましょう。
※)相生相剋については、以前に整理したものもありますので、参考にしてください。
・陰陽五行 相生相剋・相克の関係について
※)もうひとつの話題については、こちらを参考にしてください。
・徳川家康と天海僧正:鬼門・裏鬼門封じと地鎮信仰で構築した都市デザインについて
三英傑と明智光秀の苗字をみると、
・織田信長:田を織る=耕すから、『土』を表す
・徳川家康:徳の川から、『水』を表す
・豊臣秀吉:木下藤吉郎の木の下から、『木』を表す
・明智光秀:明るい智=天や宗教的なもの、見えないものから『火』を表す
となります。
ここからそれぞれの人間関係を相生相剋として見てみます。
秀吉(木)は信長(土)に対して相剋の関係なので、信長(土)を利用しながら、その栄養を吸い尽くして、信長の後継者となることが読み取れます。
信長(土)は家康(水)に対して相剋の関係なので、信長(土)は家康(水)に対して圧倒的に強い立場であったことが読み取れます。(ご存じにように、明らかな上下関係です)
信長(土)と光秀(火)は相生の関係なので、光秀(火)は信長(土)に献身的に尽くし良い関係であったことが読み取れます。(史実とは異なるかもしれませんが。。)
家康(水)と秀吉(木)は相生の関係なので、これも家康(水)は秀吉(木)に献身的に尽くし良い関係であったことが読み取れます。
家康(水)は光秀(火)に対して相剋の関係なので、家康(水)は光秀(火)に対して圧倒的に強い立場であったことが読み取れます。(明らかな上下関係です)
そして秀吉(木)と光秀(火)は相生の関係なので、家康(水)⇒秀吉(木)⇒光秀(火)というのは良いバランスであり、このバランスを維持するために、中心の秀吉(木)が家康(水)と光秀(火)の相剋の関係を相殺(もしくは利用)していることが読み取れます。
図で書くとこんな感じです。
ここからはあくまでも私見としての歴史の読み方です。
相生相剋の切り口で歴史を見てみると、本能寺の変は相剋の関係であった秀吉が信長の暗殺を目論み、そこで信長に支配されていた家康と、信長の信頼を得ていた光秀が協力したがために成立した事件であった、という史実とは違った見方が出来ます。
実は江戸の都市計画を担った天海僧正は光秀であったという説もあるそうですが、信長の暗殺後、秀吉の命により家康が光秀を匿い、秀吉亡き後に崩れた家康⇒秀吉⇒光秀のバランスは、家康と光秀(天海僧正)との上下関係という形で江戸時代まで続いたという見方も出来る訳です。
光秀の天海僧正説は信憑性も真偽も定かではありませんが、天海と光秀の家紋が同じであるとか、家康家の将軍名には光秀の名前である「光・秀」が多く使われているといったことから伺えるようです。
ま、これはあくまで相生相剋の観点から見た想定でしかありません。
真実は歴史の闇の中にあり、多少の神秘性があって証明が難しいからこそ、そのロマンに想像を馳せる楽しみがあるのですから。
参考までに、徳川家康の生涯の概要です。
【徳川家康の生涯】
1542年
12月/徳川家康、三河岡崎城主・松平広忠の長男に生まれる幼名・竹千代
1544年
9月/水野信元(お大の兄)が今川に背き、織田信秀に随身のため広忠、お大を離別
1547年
8月/竹千代、今川氏の人質として駿府へ送られる途中、田原城主・戸田康光に拉致、尾張の織田信秀のもとに送られる
1549年
3月/松平広忠、家臣の岩松八弥に暗殺される
11月/竹千代と今川方の捕虜・織田信広との人質交換により、竹千代は岡崎に戻る
12月/再び人質として駿府・今川家に向かう
1555年
3月/竹千代、元服して松平次郎三郎元信となる
1557年
1月/家康が元信から元康に改名。今川義元の命で関口義広の娘、築山殿と婚儀
1560年
5月/信長、今川義元を田楽狭間で討ち取る。桶狭間の戦い
1562年
1月/尾張清洲で信長と同盟を結ぶ
1563年
7月/家康と改名する
9月/三河一向一揆が起こる
1564年
2月/家康、三河一向一揆を平定する
1565年
12月/朝廷より徳川姓を許され、同時に従五位下三河守に叙任される
1570年
6月/織田・徳川連合軍、浅井・朝倉軍を破る(姉川の合戦)
1571年
織田信長、長島一揆の攻撃を開始する
織田信長、比叡山焼打ち
1572年
12月/家康、遠江三方ヶ原で信玄軍に惨敗し浜松城へ逃げ帰る(三方ヶ原の戦い)
1573年
織田信長、義昭を追放。室町幕府滅亡
4月/武田信玄、急死
7月/本多忠勝らに命じて武田軍の三河侵略の拠点・長篠城を攻めさせる
8月/奥平父子、武田に背き家康に内応する
9月/長篠城を陥す
織田信長、長島一向一揆と交戦
1574年
越前一向一揆決起
伊勢長島一向一揆、信長に降伏申し入れるも、信長これを拒否、皆殺しにする
1575年
4月/信長、石山本願寺を攻撃
5月/織田・徳川連合軍、三河長篠において武田勝頼を破る(長篠の戦い)
8月/信長、越前一向一揆を鎮圧
1576年
2月/織田信長、安土城築城。狩野永徳、安土城の襖絵を描く
1579年
4月/秀忠誕生
7月/織田信長、信康・築山殿の処断を命ずる
8月/築山殿を遠江富塚で殺害
1580年
9月/信康、二股城で切腹
1582年
3月/武田勝頼、織田・徳川軍に攻められ、甲斐国田野で自害。信長より駿河を与えられ、駿河・遠江・三河の大名となる
6月/明智光秀、本能寺に信長を攻め自害させる。信長49歳(本能寺の変)
1583年
秀吉、大坂築城に着手
1584年
秀吉、大坂城に移る
2月/家康、従3位、参議に叙任される
3月/織田信雄が家康と組んで秀吉に対抗し、小牧・長久手の戦いがはじまる
11月/秀吉と信雄が家康抜きで単独に和睦し、小牧・長久手の戦いが終わる
12月/家康、秀吉と和睦し、次男秀康を秀吉の養子とし大坂に入る
1585年
7月/秀吉、関白となる
11月/家康の重臣・石川数正が秀吉のもとに出奔する
1586年
秀吉、太政大臣になり、豊臣姓を賜る
5月/家康、秀吉の異父妹旭姫を娶る
9月/秀吉、大政所を人質に送ることを約し、家康の上洛を促す
11月/正親町天皇が譲位し、後陽成天皇が即位する
12月/家康、駿府に拠城を移す
1587年
6月/秀吉、バテレン追放令を出す
12月/秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を受ける
1588年
4月/後陽成天皇、聚楽第に行幸。翌日、家康、諸大名とともに秀吉に絶対服従の誓紙を提出す
1589年
2月/家康、真田昌幸(信州上田城主)と講和。昌幸の長子信之が家康の人質となる
12月/家康、秀吉から小田原征伐の相談を受ける
1590年
4月/家康、秀吉の北条・小田原攻めの先鋒として多古に陣取る。また、秀吉より伊豆国を与えられる
7月/北条氏、秀吉に降伏。小田原城開城。家康、秀吉から関八州を与えられる
8月/家康、江戸城に移る(江戸御打ち入り)
1591年
秀吉、関白職を秀次に譲る
7月/家康、奥州の九戸政実の乱を鎮圧するため江戸を発つ
10月/奥州を平定し江戸に戻る
1592年
5月/家康、秀吉の朝鮮渡海を利家らと諫める。第一次朝鮮出兵(文禄の役)
1593年
5月/家康、明の使者の接待を秀吉に命ぜられる
12月/家康、儒学者藤原惺窩を招いて「貞観政要」を講じさせる
1594年
5月/家康、柳生但馬守宗厳から新陰流兵法の奥義を伝授される
1595年
7月/家康、毛利輝元・小早川隆景と連署して秀吉親子に忠誠を誓う5か条の起請文を差し出す
1596年
5月/家康、正2位内大臣に進む
1597年
第二次朝鮮出兵(慶長の役)
1598年
8月/秀吉、家康・利家に遺言状を託す
8月/秀吉死す(63歳)。家康と利家、秀吉の死を秘し朝鮮在陣の諸将の撤退を命ず
1599年
1月/家康、秀吉の遺命に背いて婚姻をすすめたとして利家らにとがめられる
3月/前田利家の死去で、家康と三成間の対立が先鋭化する
4月/加藤清正らが三成の殺害を図るが、三成は伏見の家康邸に逃げ込む
9月/家康、大坂城西の丸に移る
1600年
3月/家康、豊後に漂着したオランダ船籍リーフデ号のウイリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンらを大坂城で引見する
5月/家康、会津討伐のため諸大名に出兵を命ずる
6月/大坂城から奥州に出陣
7月/江戸城入り(7/2)、江戸出発(7/21)
8月/石田三成ら西軍が挙兵。伏見城を落とす(家康、江戸城に戻る)
9月/家康、関ヶ原の戦いに勝利。西軍敗走
10月/石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らを六条河原で処刑
1602年
5月/家康、諸大名に二条城築城を命ず
1603年
2月/家康、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く
江戸建設の天下普請開始。
出雲の阿国(おくに)が京都でかぶき踊りを演ずる
1604年
2月/東海・中山・北陸の3道に1里塚をつくり、榎を植える
1605年
4月/征夷大将軍を秀忠に譲る。秀忠、内大臣を兼ね、正2位に叙せられる
1607年
天下普請により江戸城天守完成
7月/家康、駿府に移る
幕府の儒者に林羅山を起用
1610年
1月/角倉了以らに渡海朱印状を与える
2月/名古屋城築城の助役を、前田・毛利・黒田らの諸大名に命じる
1611年
3月/家康、豊臣秀頼と二条城で会見する
1614年
10月/大坂冬の陣
12月/豊臣氏と講和成立
1615年
4月/大坂夏の陣
5月/豊臣氏滅亡・大坂城焼け落ちる
1616年
3月/家康、太政大臣に任ぜられる
4月/家康没(75歳)