秘本玉くしげより学ぶ!本居宣長から現代に通じる経済の具体策!

本居宣長は江戸中・後期の国学者で、古典研究を行い語句・文章の考証を中心とする精密・実証的な研究法により,古事記・源氏物語など古典文学の注釈や漢字音・文法などの国語学的研究にすぐれた業績を残しました。
復古思想を説いて儒教を排して古道に帰ることを唱え、「もののあはれ」論を展開するなど、国語学的研究や国学思想の基礎固めに業績を残して国学を大成させ、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに国学四大人の一人と称されました。
宣長の国学は、日本が鎖国のもとで唐心(中国の影響)から脱却し、自国の価値を意識していくプロセスの延長上にあり、日本近代史において高く評価される一方、偏狭な国粋主義的思想としてイメージされてきました。
しかし、本居は時代に支配的な価値観に合わせるのではなく、主体的に物事を考えようとする、グローバルな自立の視点を持った括目すべき人物だったのです。

「もののあはれ」の「もの」とはつまり対象であり、知的・分析的な理解の下にあるもので、「あはれ」とは感動であり感歎であり、物の心や事の心に触れてやみがたく興る感性です。
「もののあはれ」とは流動する心、物に触れて感動する精神として、知りつつ感じること、知性と感性がみごとに調和された美的な境地を示して、人の感性の重要性を主張しました。

現代の私達の日常においては、「もののあはれ」という判断基準は置き忘れられたものですが、理性万能の生活の中にあって人間的な感動をものの基準にすることは、却って重要なもののように感じます。
人が本質的に拠り所とすべきは、一辺倒な理性的論理ではなく、生身の人間の心であり感性であり、感動する心の動きであることを、宣長は伝えようとした気がするのです。

そんな本居宣長の著作も『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『古今集遠鏡』『漢字三音考』『てにをは紐鏡』『詞の玉緒』『玉勝間』など数多あるのですが、今回は実際的な政治や経済の具体策が書かれた『秘本玉くしげ』に触れてみます。

『秘本玉くしげ』は、弟子を通じて紀州藩主から政治的助言を求められた際に、国学の理念としての『玉くしげ』と共に執筆されたもので、社会の弊害を古道の精神によって是正すべきことを説いた書物です。
宣長は『秘本玉くしげ』で、安易に新しいことに手を出すことを戒め、時世に沿って先人の規範を守り、道理に適うようにしっかりと足元を固めて進むことを説いています。
また、すぐに効果が表れなくても、最後には効果が表れて続いたり、見えないところに効果が表れてくることを指摘しています。
富と利益については、富が富を次々と産み出すものの、個人経済と国家経済と世界経済には、差異があることが指摘されています。
世間の財産は平等ではないため、為政者が富裕層の財産を分配し、貧困層を救うべきことが説かれています。
最近流行りのピケティ※)と同じことを、200年以上も前に宣長は示しているのですね。
※)ピケティについては、”21世紀の資本:r > g に立ち向かう。平等をどう実現する?”を参考にしてみてください。
分限については、人間は身分相応にするのがよく、地位に応じた振る舞いが求められることを説いています。
物事の限りについては、上がりきれば自然に下がって本来の形に戻ると考えられています
世の中の害については見えないこともあり、利益に害が付随することもあるため、短期的な害だけでなく、長期的な害も含めて為政者は注意すべきだと説かれています。
新しいことについては、考慮して他人の意見を尊重し、他国の事例を参照して、皆が納得するかしないかを考えて行うべきだと説かれています。
国の緊急事態には、あらゆる支出を抑え、それでもやむを得ないときには給与を下げるしかないとされています。
政治の意見については、良い考えがあれば身分に依らず申し出るような環境が良いとされています。
宣長は、いろいろと工夫して、収入に見合った生活が肝心だと述べています。そのためには、その時代に合わせて昔のやり方を当てはめて考えるべきと説いているのです。

現代にも通じる『秘本玉くしげ』、一度触れてみてはいかがでしょうか。

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以下参考までに、『玉くしげ』原文と『玉くしげ』現代訳の一部です。

【本居宣長『秘本玉くしげ』 原文】

1  身におはぬしづがしわざも玉匣
    あけてだに見よ中の心を
我々如き下賎の者の、御國政のすぢなどを、かりそめにもとやかく申奉むことは、いともいともおふけなく、恐れ多き御事なれ共、とにかくに御武運長久、御領内上下安静ならん事を、恐れながらあけくれ祈り奉る心から、とらばやかくあらあばやと思ふ事共のおほきところに、吾 君御仁徳深くましまして、此度ありがたき思召共仰出され、猶又勘辨の事もこれあらば、隔意なく申出べしとの仰事を承はるに付ては、いよいよつねずね祈り奉る心の内のかたはしをも、申し顕さまほしくて、下賎の身分をわすれ、恐れもかへり見ず、當時うけ給はり及ぶ他國の様子共を、かれこれ引出て、存心のほどをつくろはず、かざらず、此一書に申述侍る也、然れども猶恐れあるべき事とならば、御覧に備へられむことは、ともかくも取傅へ給はん人の心にまかせ奉る也、さて又我々ごとき者の申す事、百千にひとつも、取用ひさせ給はんことなどは、思ひもかけ奉ず、たゞ願はくは、かりにも一たび、御目にふれさせられて、御咎だになくは僕が大幸也、且又高貴の御方へ御覧にも備ふべき書は、其詞を、口上に申上る趣にも書べきなれ共、左様にては返て恐れもあるべきまゝ、たゞ同輩どちの物語の心持の詞を以て書つゞり、惣體の文もかざることなく、たゞ通俗の平語を以て申す也、是又愚意のほどをおしはからせまして、何事も御覧じゆるされむ事をこひ願ひ奉るなり、あなかしこ、

2○凡て天下を治め一國一郡を治むる政道大小の事につきて、其善悪利害の料簡を立るに、まづ學問せざる人の料簡は、多くはたゞ今日眼前の手近き事のうへばかりにつきて、工夫をめぐらして、根本の所には心のつかぬことおほし、たとひ又その本の所へ心はつきても、その工夫の至らざること多し、殊に近来の世の風儀はたゞ眼前の損得の事をのみ計りて、根本の所を思ひていふ料簡をば、今日の用にたゞずまはり遠き事にして、とりあはぬならひとなれる、これ大なるひがこと也、今日眼前の利益を思はば、まづ其根本より正さずはあるべからず、本を正さずしては、いかやうに工夫をめぐらして、よき料簡を立るといへ共、諺にいはゆる飯上の蝿をおふといふ物にて、末とぐることなく、皆いたづら事となり、或はつひに大害を引出ることもあるもの也、然ればさしあたりてはまはりどほく迂遠なるやうなりとも、とにかくに根本の所に眼をつけて、諸事の料簡を立べき也、さて又少々學問にたづさはる人の料簡は、多くはたゞ四書五経など經書の趣を以て、今日の政事に施さむとす、これは根本の所には近けれども、經書の趣ばかりにては、時世のもやう、國處の風儀、古今の變化などにうとき故に、今日の政務には、まことに迂遠にして、辺て世俗の料簡にもおとれる事もある物也、然れ共惣體は、かの当座の利益にのみわるし俗吏の料簡よりは、はるかにまさるべし、又一等學問に深く身を入れて、經書のみならず、歴史諸子などをも取リあつかひ、その意味をも思ひ、古今にひろくわたりて、何事もよく辨へ經濟のすじみちをもよく呑込たる人の料簡は、本をも末をもよく照し考ること故、まことにあつはれと聞えて、俗人の及ひがたき事多し、なほ又世にもしられたるほどの學者の、經濟の心がけあるは、いよいよ學問も厚く廣ければ、なほさら宣しきことは多きなり、然れども又いかほど學問よく、經濟の筋にも鍛錬し當世の事情にも通達したるも、とかくに儒者は又儒者かたぎの一種の料簡ありて、議論のうえの理窟は、至極尤に聞えても、現にこれを政事に用ひては、思ひの外のよろしからざる事もおほくして、返て害ある事もある也、惣じて何事も、實事にかけては、その議論理窟の如くにはゆかぬ物也、又儒者はかの聖人の意を本とすること故に、國政の根本の所は、もとよりあくまでよく知れるやうに思へ共、實はなほ知(シ)らざる所あり、故にこれぞ國政の根本至極と思へる趣も、相違して、實の道には叶はぬことあり、さればこそさばかり議論かしこくとりおこなふ唐土の代々に、久しく治平のつゞけることはなし、彼國は學問をよくし、かしこき智者どもの世々に出て、面々さまざまのよき料簡を立れども、古ヘより今に至るまで、つひに治まり方宣しくて、其政の久しく行はれたることなし、そのありさまを考るに、まづ前の人の立たる料簡につきて、其通りを行ひこゝろむるに、思ひの外宣しからざるによりて、是はいかゞと思ふ所へ、後の人の出て、前の人の料簡の非なることをいへば、げにもと思ひあたる故に、又其料簡につきて行ふに、それも又よろしからず、又その非をいひたてて、又新しき料簡をたて、いつまでもかくの如くにて、ひたもの度々改め變(カフ)るほどに、よき事は出来ずして、返て改むる度ごとに害多く、その間には姦曲なる者も多く出て、さまざまと國を亡すに至れり、さて右の如くいろいろと改め改めて、代々を經たるあひだには、しばらくは久しくつゞきて、後世より見ても、その仕方まことに宜しと思はるゝ事もあれども、それも又そのかたを後に行ひ見る時は、思ふやうにもあらずして、改むるなり、すべて儒者の癖として、先代の滅びたる所以を論じて、かくの如くなりし故に、其國はほろびたれば、此度は改めてかやうにせば、必長久なるべしといふは、代々のつねのこと也、然れ共その先代の弊に懲りて、これを改ても、又それも同じことにて、久しくはつゞかず、又ぎろんには常に聖人の道みちといひたつれども、その聖人の道のまゝにても、國は治まりがたきゆえに、代々にいろいろの新法を立ることなり、惣じて古ヘより唐土の國俗として、何事によらず、舊きに依ることをば尚(タツト)ばず、たゞ己が私智を以て考へて、萬の事を改め易(カ)へて、功を立んとするならはし也、これたゞ己が才智を恃(タノ)みて、まことの道をしらざるもの也、然るを此方にても、儒者の料簡は、ひたすらかの唐土のかたをよき事に思ひて、物事を己が心もて改め變(カヘ)んとする、かの儒者かたぎの一種の料簡と申すはこれ也、儒者はとかく唐土の治めかたをよろしきやうにいへども、かの代々の治まりぶり、學者の論議のやうにはゆかざるを以て、その實はよろしからざることをさとるべし、かの國はさばかりかしこき聖賢の出て、學問もあつく、智慧深き人も多げに聞ゆる國なるに、いかなれば左様に代々の治まりかた悪しく、とりしまらぬことぞといふに、上に申せる如く、道の根本を知りがほはすれども、實は是をしらざるが故也、惣體世ノ中の事は、いかほどかしこくても、人の智慮工夫には及びがたき所のある物なれば、たやすく新法を行ふべきにあらず、すべての事、たゞ時世のもやうにそむかず、先規の有ても、大なる失はなきものなり、何事も久しく馴来りたる事は、少々あしき所ありても、世ノ人の安(ヤス)んずるもの也、新に始むる事は、よき所有ても、まづは人の安んぜざる物なれば、なるべきたけは舊きによりて、改めざるが國政の肝要也、これ即まことの道にかなへる子細あり、そのわけは別巻に委くいへるが如し、さて又唐土の治めかたにては、此方にてはいよいよ道にかなひがたきわけあり、かやうにいはば、儒者の心には返てをかしく思ひて、天地は一枚にて、人情はいづくもいづくも同じければ、唐土日本とて道に二つはなく、治めかたの根本にかはり無き事也、殊に唐土は聖人の國なれば、其道をおきて外に、身を治め國を治むべき道はあることなし、聖人のみちをおきて、外に道をいふものは、みな異端にして、正道にあらずと儒者はいふべし、然れども是は一通り誰も皆いふ事にて、めづらしからず、猶其うへを今一段高く考へて、かの聖人の道は、なほ根本の所にたがひ有て、まことの道にかなはざるところある事を探り求むべき也、うはべの論議の美しきに惑ひて、彼道になづむべきにあらず、殊に、本朝は、異国とは格別のしなあれば、別して國政を行ふに、道の根本を知らずはあるべからず、これらのわけも委く別巻にあり、但し根本の所こそ違ひたれ、唐土の道も、さばかりの聖人の智慮を以て、建立したるものなれば、末々の今日の行ひの筋などには、取用ふべき事おほし、本朝とても中古以来は、おほく漢様の政にて、風俗人心もなべて漢様に成ぬる世ノ中なれば、今は末々の事には、かの國の道をもまじへ行はではかなはぬやうなることもある也、されば國君たる人は申すに及ばず、その政を執行ふ人々も、随分に漢學をもして、其道の宜しき所をば、事によりて取用ひもすべく、又かの國の代々の治め方の、實によろしからざることをも考へ知り、その根本の所に至ては、大に違ひ有といふことをよく辨へ悟りて、ゆめゆめかの道にかたより惑ふべからず、かへすかへすも此根本の所ぞ大切なる、大かた世ノ人すべて漢學をする者は、必かの道にかたより惑ひて、他ある事をしらず、此根本の違ひをえさとらざる故に、返て國政をもあやまること多き也、此ところをだによく辨へ悟り、心にしめて動かざれば、いかほど漢籍を看て朝夕これの馴居ても、害は無かるべし、さて右の如くなれば、その大本の趣を、まづ開巻のはじめに申すべき事なれども、世に書籍をも見るほどの人の料簡は、漢によるとなれど、おのづからみな漢様の料簡なるものにて、其漢様の料簡の外なることは、耳に入がたき物なれば、始めにその大本のわけを先ズ申しては、甚迂遠に聞え、國政に無益なるいたづら事の如く聞ゆべければ、看(ミ)む人たちまち巻をすてて、末をも見給うまじきことをおそるゝが故に、これをばしばらく末へまはし、別巻として、本書には手近き事共をのみ申す也、その別巻は、先年述作せるところなるを、此度相添へ侍る也、さて國政は、甚事廣く多端なるものにて、一々はたやすく申しつくしがたければ、此所はたゞ當時さしあたりたる事共を、これかれ抜出ていさゝか愚意を申すのみなり、さて此書は、その末々の手近き事に至るまでも、根本の意を土臺として、是に背かざるやうを詮とすれば、事によりては猶まはり遠く、無益の事に聞ゆる所も多かるべし、然れ共萬の事、まことの道理にそむきては、いかほど尤に聞ゆることも、これを行ひ見る時に、その思ひし如くには行はれぬ物にて、かへりて傷害あることもあり、又當分は利益あるやうにても、必末とほりがたきもの也、又根本の道理によりておこなふときは、まはり遠きがごとくにて、返て思ひの外に速にその験ありて、よく行はるゝ事も有、或は當分はそのしるし見えざれども、つひにその験あらはれて、永久に行はれ、或は目に見えてはしるしなきやうにても、目に見えぬ所に大なる益ある事などもあるなり、されば打聞たるところ迂遠なればとて、これを取らざるは、かしこきやうなれ共、返て愚なること也、かへすかへすも道の大本の所を土臺として、末々の細事までも、これに背かざるやうを詮として、何事をもとり行ふべきことなり、

3○惣體上中下の人々の身分の持チやう、各その分際相應のよきほどあるべきは勿論なれども、其分際分際につきて、いかほどなるが相應のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ、實は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡して、これを按ずるに、今の世の人々の身分の持様は、上中下共におしなべて、分際よりは殊の外重々しきに過たり、まづ上をいはば、今の大名方の御身分の重々しさは、上古の天子中古の大将軍などの御様子よりもまさりて、萬事重々しき也、それに准じて中下人々もみな同じ事にて、たとへば今ノ世に千石もとる武士は、昔壹万石乃至四五萬石も取し人ほどの重々しさ也、百石とる人は、むかし千四五百石もとりしほどの人に同じ、かくのごとく上中下おしなべて、身持殊の外に重々しき故に、それに准じて、分際不相應に心持も重々しき身分のやうにて、むかしは大名の自身にせしほどの働きをも。今は百石五十石ぐらゐ取ルほどの人もみな、下なる者に云ヒつけ働かせて、自身はせぬ事のやうになれり、富メる町人などは猶更の事也、然れどもこれ天下一同の事なる故に、各分際に過たりといふことをみづからも覺えず、もとよりかやうに有べきはづの物とのみ心得居る也、身分を重々しくするは、奢リとは、別の事のやうなれ共、これ即大なる奢リ也、其中に平人のおごりは、其身一分ぎりのことにて、其害の他に及ぶことはなきを、上たる人の奢リは、其害領内に及ぶこと也、惣體治平の代久しくつゞくときは、いつとなく世上物事華美になりて、漸々に人の身持も重々しくなる事なるを、時々にこれを押へずして、すておくときは、年々月々に長じゆきて、際限なく、次第次第に世上困窮に及びて、つひにはいかゞはしき事の起る也、既に近来諸大名の家々用脚足らず、多くは御勝手大に逼迫するは、全ク此ゆゑなり、むかしは諸大名いづれも、年々に大(タイ)さうなる軍役などを勤められし時すら、今の如く逼迫する事は無くして、ゆたかなりしに、今の世はつひに軍役などは勤め給ふこともなく、知行の物成リは、新田なども出来て、多くこそなりつれ、昔より減じたることはなきに、返て御勝手の其ひっぱくするは、いかなる事ぞや、全く是世上次第に華美になり、いつとなくじねんに御みぶんのあまり重々しく成て、何に付けても御物入の昔より多きが故なり、然りとて、目に見えては先例と格別にかはりたることもあるまじけれ共、たゞ目に見えざる事共に、大にかはり来むること多かるべし、さて御身分の重々しきによりて、次第に御物入りの多くなれるわけは、まづ眼前には、飲食衣服音信さては調度などなれども、これらは大名の御身上にては、何ほどの事にもあらず、然るを世に倹約といへば、まづ第一に飲食衣服音信などをおとす事なれども、是は下々の身上にてこそ、大なるちがひもある事なれ、大名の御身上にては、これらの倹約ばかりにては、さのみ御勝手の直るほどの事は、出来がたかるべし、これらの外に、急度それとは心のつかざる事共に、廣大の費あること多し、まづ御身分の甚重々しきによりて、それにつきたる萬事を、殊の外重々しく取扱ふから、武備國政の外に、御身分の事につきたるさまざまの役人など多くして、一人にてもすむべき事にも、上役下役段々に有て、人多くかゝり、さしてもなき事にも、多くの人手間かゝり、次第に事もしげく費多く、その一々のとりあつかひに、一つとして御物入のなき事はあらず、又段々の役人多ければ、横道へ抜行ク物入も多かるべし、惣體上の事を、下々にて取扱ふこと、あまり重々しき故に、下の煩となることは申すに及ばず、無益の費も甚多きことなるを、そもこまかなる事共までは、上には御心もつきがたきことなるべし、かの飲食衣服などの如きも、上にめさるゝところは、いかほど美をつくしても、たけのしれたる事なれ共、それを下にてあまり重々しく取扱ふにつきて、役々なども多く、ひたすら念を入るゝをよき事とするならひにて、年々月々に諸事重々しく成て、無益の事に甚念をいるゝから、何に付ても費の甚多き也、すべての事を、あまりに大切に重々しくするときは、たゞ無益の費、無益のあつかひのみ多くして、返て其本意の實をば失ひ、表向ばかりになりて、麁末に取扱ふよりは、結句はるかに劣る事も多く、又返て手行の甚あしき事多し、たとへば直に御前へ達してもよき事をも、こゝの役人の手を經ヘ、かしこの役所へうかゞひなど、かれこれとする故に、無益の人手間かゝり、紙筆の費などのみ有て、返ていそぎの御用の辨じなどは滞りて、何の益はなし、萬の事これに准じて知べし、大かた今の世、大名方の御身分のうへに付たる諸事の取扱ひを見るに、十に六七はみな略きてもよき事のみ也、これ皆先規の定格のやうに思へども、昔は惣體物事無造作にして、今の世のごとく重々しくはあらざりしゆえに、何事も物入は今の半分にもあらずして、返て手行も宜しかりし也、さて軍記などを読て、むかしの大名の身分働きと、今の様子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしきことを考へ知べし、主君の然るのみならず、家中までもみなほどほどに、分際よりも殊の外重々しくなれること、上にも既に申せるがごとし、これらは戦國の時代と、治世とは、同じ口にはいふべきにあらざれども、今の世のありさまは、あまりに重々しきに過たり、たとへば甲乙丙丁と上下段々の役人有て、事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも、今は乙に云ヒ付て取扱はせ、先年は乙が勤めたリしわざをも、近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁に勤めさせて、丙は手をおろさぬやうになりて、惣體下々まで武士の身持ち、次第に重々しく成行クに付ては、國中の政事のためにも、宜しからぬこと多き也、右のごとく身を重く持ツにつきては、おのづから家内の暮しもよくなりて、身の勞はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面々のためにも損也、さて又諸大名の江戸御往来の人數、殊の外に多きこと也、今の大名の御往来の人數は、全く軍陣の人數なり、平常の往来に、かやうにおびただしき人數をめし具せらるゝ事は、和漢古来聞も及ばぬことにて、無益の費おほかるべき事也、但しこれは、昔戦國より間近かりし時代の御定めにて、武備にあづかり、公儀へかゝはる御事にて、今私に減少はなりがたきわけも有べきか知らねども、今の治平の御代の有様にとりては、大に減少し給ひて、五分の一ぐらゐにても宜しかるべく思はるゝこと也、さて主人の人數の多きに准じて、家中の人々の常々の往来の人數も甚多し、一僕にしても宜しかるべきほどの人も、三人五人めしつれ、三人五人ぐらゐにてよろしかるべきをりも、廿人卅人五十人もめしつれらるゝ、かやうに人數は多けれども、眞坂の時の用にも立べき供まはりは、稀なるべければ、これ皆無益の人數にて、たゞ外見の美々しきと、途中身の用事を自由に辨ずるとの二つには過ず、たとひ武備のためになるにもせよ、かく静謐の御代に、常々の往来に、さばかり多くの人を引連レずとも、何のあやまちかあらん、畢竟たゞ身分を重々しくするかざりにのみなることなり、さて又江戸詰の人數も、是又大抵 公儀の御定めあるかは知らねども、治平の御代にしては、甚おほくして、費おびたゝしき事なるべし、御領内の政務の筋は、みな國元にてとり行はるゝ事なれば、江戸御屋敷の御用とては、たゞ 公儀の御つとめ方、さては御親類方其外の御むつび、并に御國元との掛引などのみにて、其餘は大方みな、御方々の御身分のうへに付たる御用のみなるべければ、必しも武備のためにもならず、たゞ御身分の重々しき方に付たる、男女の人數の甚多きなれば、無益の御物入のおびた々しかるべきこと也、大かた右の事共など、今の人は、今の通りをあたりまへの御事とおもふべけれども、大に然らず、書をよみて、昔とくらべ見て、今は何事も大に過(スギ)たることをさとるべき也、惣體大名の御身分のあまり重々しきにつきて、御物入のおびた々しきは勿論の事にて、又これによりて國政の妨となること、何につけてもおほし、そのわけは其所々に申すべし、抑下民は定まれる禄なければ、困窮に及ぶ者の多きも道理なるが、武士は定まれる禄あれば、其分限相應にさへくらさば、逼迫することはあるまじき道理也、大名方も、おりおり凶年水損など有て、御収納の減ずる年もあれ共、これらは古ヘよりある事にて、今始まりたることにあらざれば、常々その御手當はなくてかなはぬ事、又 公儀の御手傅などに、過分の御物入ある、是も定まりたる事なれば、常にその手當も有べき事也、又凶年などには、御領内の民をば、随分丈夫に救ひ給ひて、一人も飢寒に至らぬやうに取計らひ給ふべきはづ、是も定まれる事也、さて御軍用のたくはえは申すにも及ばぬ事、すべてつねづね右の事共の手當をも、丈夫にして、其餘のところを量りて、年々の御用脚をまかなひ給はんには、格別の御逼迫はあるまじき道理なるに、右の御手當共の行とゞきがたきのみならず、あまつさへ年々定まれる御まかなひさへ出来がたき家々の多きは、いかなる事ぞや、古ヘは下民より上る物、今の年貢にくらぶれば、甚いさゝかなることにて有し時代すら、今の如く上の逼迫し給ふ事はなくして、民を救ひ給ふ筋も、随分ゆきとゞきて、凶年なれば年貢をも、或は半分も減ぜられ、時によりては皆ながらも免し給へる事も有て、又それそれの御手當などもよく出来てとほりし也、然るに今は、臨時に年貢を過分に免し給ふこともなく、惣體の御収納も、古ヘには十倍せるに、なほ用脚の足らざるは、惣體の事の取扱ひ、あまりに重々しく、無益の事繁多にして、御物入の過分に多きが故ならずや、さて中下の武家の、多く内証困窮するも、又同じく分限不相應に身分重々しく、諸事華美になりて、物入おほき故也、武士はおほくは町人などにくらぶれば、内々は華美とはいはれぬが如くなれども、それも世につれておのづから何事も華美になれる也、武士奢れば金銀のほしきまゝに、おのづから非義をも行ひ、又至リて困窮するときは、おのづから肝心の武備をも闕クことあり、よくよく心得べき事也、それに付て思ふに、當時役用のしげくもなき家中衆は、大小上下共に、随分多く農作をさせ、家内婦人は、女工を出精せられて宣しかるべきにや、其中に輕き人々は、随分なるべきたけは、自身鋤钁をとりて働き、又自身はさすがにそれほどにはたらく事も成がたきほどの人々も、随分かけまはりて指圖手傅等をして、惣體多く榮田(ツクリ)をせらるゝやうにあらまほしき也、さやうにするときは、さし當りてまづ内証用脚の助けにもなるべく、又武士の筋骨身體つよくなりて、第一武事の働きのためにも甚宣しかるべき也、惣體武士は、つねづね身を重々しく安佚に持ならひては、身體柔弱になりて、肝心のはたらきの時大に苦しむべき事なれば、つねつね是を心がけて、筋骨を丈夫にあらせまほしきこと也、

4○近来百姓は、殊に困窮の甚しき者のみ多し、これに二つの故あり、一つには地頭へ上る年貢甚多きが故也、二つには世上一同の奢につれて、百姓もおのづから身分のおごりもつきたる故也、まづ一つに地頭へ上るねんぐの、はなはだ多きと申す子細は、まづ唐土の上古には、十が一といふを、中分の宣しき程としたるなれども、後には段々多くなりたり、然れ共此方の今のごとくに多くはあらず、さて本朝は、大寳のころ令の御定めを考ふるに、廿分の一ほどにあたりて、たとへば米二十俵とる所にて、年貢はわづかに一俵ほどにて濟たる也、但しこれにはいさゝかふしんなること有て、別に僕が考へもあれど、たとひその考への如くにしても、十分の一には過ざること也、其外に調庸など云物ありしか共、それも何ほどの事にもあらず、大寳の比かくのごとくなれば、それより以前、上古はなほなほすくなかりけむ事、思ひやあるべし、さて中古より令の制くずれて、年貢なども、全くそのかみの定めの如くにはあらざりしかとも見ゆれども、さのみ過分にかはれる事はなかりしに、源平の亂の後、鎌倉より諸國にことごとく守護地頭といふものをおかるゝ世になりては、領主と地頭と両方へ年貢を上る事になりて、此時より年貢よほど多くなれる也、領主といふは、もとより其地を領じ居たる京家の人々也、守護地頭は武家なり、さて次第に守護地頭の威勢つよくなりて、足利の世の中比より後になりては、領主へ上クべき年貢をも、一向に皆地頭へ押シ取り、大将軍の號令も行はれぬやうになりては、天下の大名小名、面々心まかせに領地を治め、隣國を攻メ取ルをつとめとするほどに、面々武威を盛んにし、兵力を強くせんために、段段人數を多く扶時するから、年貢をも過分に多く取らでは足らぬやうになりて、年々に増シ取ルことになりし也、大かた此戦國の時のもやうは、田畠の物成リの内、わづかに農民の命をつゞけて、飢に及ばぬほどを百姓の手に残して、其餘は皆年貢に取れるくらゐの事なりしは、甚しき事ならずや、さて豐臣關白の御世に、天下統一に治まりて、何事も法制定まりて、みだりなる事は止ミぬれ共、年貢の分量は、大抵もとの戦國のときのまゝにて、舊にかへり減じたることもなかりき、次に 東照神御祖命の御時も同じ事なり、此時世ノ中治平に歸(キ)して、軍事は止むといへども、かの戦國の時のもやう、時代を經て、久しくそのならひに成ぬることなれば、俄に天下の武士を減少し給ふべきやうもなければ、たとひいかほど御志はましましても、年貢も俄に過分減じ給ふことはなりがたき、自然の勢なれば、其分にて今に至れる也、されば今の世の年貢は、かの戦國の比のまゝなれば、至て多きこと也、然に今の武士は、古ヘの定めの分量をも考へず、次第に多くなりぬるわけをも思はずして、たゞ本より今の如くに上るべはづの物と心得居て、みだりに百姓をしへたげ苦しむる國もよそには有ときくは、いかなる事ぞや、さて年貢廿分の一ほどにて濟(スミ)し、古ヘの代とても、百姓富メる者ばかりにはあらず、貧しき者も有しかども、其時代は、年貢いさゝかなりし故に、一反か二反の田を作れば、今の世に一町の餘も作るほどの米を得たる故に、貧しき者も貧しきなりに、身を勞し心を勞する事は、甚少なかりしに、今の世は年貢多き故に、古ヘに一反二反の田を作りて取しほどの米は、一町も二町も作らざれば、我物になりがたきによりて、それだけに身を勞し心をも勞する事甚しきがうへに、あまつさへ正味の米は、多くは上へ上ゲて、自分はたゞ米ならぬ麁末の物をのみ食して過す也、これを思へば、今の世の百姓といふものは、いともいともあはれにふびんなる物也、さて今の世いづれの國にもせよ、仁徳深くおはします領主有りて、右の子細をよく考へ辨へ給ひ、百姓を不便に思召て、年貢を半減にも改めまほしく思召す御志ありても、是は決してかなひがたきこと也、其故は、戦國以来諸大名の武士をおびたゝしく扶持せらるゝこと、おのづから定まりと成て、久しく年代を經来りたる事なるに、其武士を過分に減ぜられては、公儀の御軍役も勤まりがたく、又あまたの武士の、俄に難儀に及ばるゝことにて、是を減ずることなりがたければ、年貢も今更俄に減ずることは、決してなりがたき御事也、又百姓も、年代ひさしくなれ来りたる年貢の事なれば、今の定まりほどは、必上るべきはづのものと心得居て、是を過分に多しとは思はぬことなれば、ふびんながらも、年貢は定まりのとほりなるべき事なれ共、せめては右の子細を思召て、今の世の百姓は、心身を勞する事も、古ヘよりは甚しく、年貢に大に苦しむものぞといふ事を、朝夕忘れ給はす、不便に思召て、有リ来りたる定まりの年貢のうへを、いさゝかも増さぬやうに、すこしにても百姓の辛苦のやすまるべきやうにと、心がけ給ふべき事、御大名の肝要なるべく、下々の役人たちまでも、此心がけを第一として、忠義を思はば、随分ひゃくしょうをいたはるべき旨を、常々仰付らるべき御事にこそ、さて今の世には、百姓の方にも、年貢のすぢに正直ならざることをかまへて、これを免れんとする者もあることなれ共、それも畢竟は上よりのいたはりなく、あしらひの悪さに、下よりも左様のかまへをばするあり、上の御めぐみだに行とゞけば、下は速に感じ奉るものぞかし、然るに他國の様子をうけ給はれば、上々も下々の役人も、百姓をあしらふに、露ほどもめぐみいたはる心はなくして、年貢は本より今の世の定まりの如く出すべきはづのものと心得、その定まりの年貢の外にも、猶さまざまの事共を工夫し出して、たゞひたすらに取上ることをつとめとして、あきたる事なく、たまたま主君は仁心ありて、これをゆるやかにせんと思ひ給へ共、下なる役人これをゆるさず、或は下なる役人仁心あれども、上よりこれをゆるさず、たゞ百姓をば苦しめに苦しむる所もありとかやうけたまはる、右にも申せる如く、年貢は有来りたる定まりのほどは、やむ事を得ず其通りなり共、せめては其うへをいさゝかも増ぬやうにこそあらまほしきに、近来は漸々に増ス事のみにて、少しも減ずる事はなく、猶又さまざまのかゝり物などいふことさへ次第に多くなり、其外何のかのと云て、百姓手前より出す物、年々に多くなりゆく故に、百姓は困窮年々につのり、未進つもりつもりて、つひに家絶(タヘ)、田地荒(ア)るれば、其田地の年貢を村中へ負する故に、餘の百姓も又堪がたきやうになり、或は困窮にたへかねては、農業をすてて、江戸大阪城下城下などへ移りて、商人となる者も次第に多く、子供多ければ、一人はせんかたなく百姓を立さすれども、残りはおほく町人の方へ奉公に出して、つひに商人になりなどする程に、いづれの村にても、百姓の寵は段々にすくなくなりて、田地荒れ郷中次第に衰微す、これに因て法度を立て、百姓の兄弟子供などを外へ出す事を、きびしく禁ぜらるゝ國々もあれども、それは源を濁して、流の末を清くせんとするが如くなる物なる故に、其禁制もとかくに立がたく、又今の世は、たゞ當座の事をのみはかりて、始終の所を考へざるならひなれば、さしあたりまづ其としの上納だにとゝのへば、宜しき事にして、百姓の痛むをばかへり見ず、百姓いためば、ゆくゆく上の大なる御損失なることをも思はず、漸々に農民のおとろへゆく事は、かへすかへすも歎かはしき事の至り也、さて二つに、百姓の身分は、右のごとくくつろぎなきうへに、又町人のおごりを見ならひて、おのづからおごりもつきたる故に、いよいよ困窮甚しき也、尤町人の奢リにくらぶれば、百姓のおごりは、何ほどの事にもあらざれ共、地體くつろぎなきうへなれ共、いさゝかの事にても、痛みにはなるなり、困窮の百姓の身分にて、奢リなどなどいふほどの事は、とてもならぬことなれ共、世上につれて、覺えずしらずおごりの付きたる事多し、たとへば衣服など、昔はもめんならでは用ひざりし程の者も、今はおしなべて衿帯びなどには、絹類をも用ふるやうになり、むかしは藁筵ならでは敷ざりしほどの屋も、今は畳を敷クやうになり、昔は雨中に蓑笠わらんづにてありきし者も、いまは傘をさし屐をはくやうになれり、これらに准じて、餘の事にも此類多くして、物入多き也、

5○百姓町人大勢徒して、強訴濫放することは、昔は治平の世には、おさおさうけ給はり及ばぬこと也、近世になりても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は年々所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり、これ武士にあづからず、畢竟百姓町人のことなれば、何程のことにもあらず、小事なるには似たれ共、小事にあらず、甚大切の事也、いづれも困窮にせまりて、せん方なきよりおこるとはいへども、詮ずる所上を恐れざるより起れり、下民の上をおそれざるは、亂の本にて、甚容易ならざる事にて、まづ第一その領主の恥辱、これに過ぎたるはなし、さればたとひいさゝかの事にもせよ、此筋あらば、其起るところの本を、委細によくよく吟味して是非をたゞし、下の非あらば、その張本のともがらを、重く刑し給ふべきは勿論の事、又上に非あらば、その非を行へる役人を、重く罰し給ふべき也、抑此事の起るを考ふるに、いづれも下の非はなくして、皆上の非なるより起れり、今の世百姓町人の心も、あしくなりたりとはいへ共、よくよく堪がたきに至らざれば、此事はおこる物にあらず、たとひ起さむと思ふ者ありても、村々一致(イツチ)することはかたく、又悪黨者ありて、これをすゝめありきても、かやうの事を一同にひそかに申シ合す事は、もれやすき物なれば、中中大抵の事にては、一致はしがたかるべし、然るに近年此事の所々に多きは、他國の例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取はからひもいよいよ非なること多く、困窮も甚しきが故に、一致しやすきなるべし、然れ共又近来世間に此事多きに付ては、何れの國も、上にもつねづねその心がけおこたらず、起しがたきやうのかねての防(フセ)きもあることなれば、下はいよいよ一致しがたく、起しがたき道理也、上のかねての防きは、隠(カク)すべき事にあらざれば、いかやうにも議しやすく、表向にてとりはからふ事なれば、行ひやすく、又たとひ下へ隠してはからふ事も、上はもとよりいっちなれば、いかやうにもなる事なるに、下のかやうの事を起さんとするは、上へ隠して、至て密々に談合すべき事にて、殊に世間ひろければ、かならず中途にて漏(モレ)顕はるべき道理なるに、近年たやすく一致し固まりて、此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらす、上たる人深く遠慮をめぐらさるべきこと也、然りとていかほど起らぬやうのかねての防き工夫をなす共、末を防くばかりにては、止ミがたかかるべし、とかくその因て起る本を直さずはあるべからず、その本を直すといふは、非理のはからひをやめて、民をいたはる是なり、たとひいかほど困窮はしても、上のはからひだによろしければ、此事は起る物にあらず、然るに近年は、こゝにもかしこにも多きによりて、めずらしからぬ事になりて、まづ一旦静まればよきことにして、さのみ跡の吟味もくはしからず、張本人を一兩とらへて、定まりのとほり刑に行へば、其むきにて、跡の上の取計らひをたしなみ改むることもせず、世間に例多ければ、さのみ恥辱とも思はれぬやうの所もありとど、さてその張本人といふものも、近来はたゞ假(カリ)にまうけたる者にて、實の張本人にあらず、その假リの者といふは、かねて此事をおこす始より、相對にてかりにこれをちょうほんにんといふ物にたてて、後に刑に行はるべき覺悟にて定めおく故に、これを刑しても何の益もなく、あたら罪もなき民を殺すは、あはれむべき事也、上にも假リの者といふことは知ながら、たゞ定法だに立テばよき事にして濟す也、近来はすべてかやうの輕薄無実の刑多きは、甚あるまじき事也、たとひ我レ張本人と名乗出る者あり共、よくよくその實否を吟味して、疑はしくは、實の張本人の出る迄は、そのにせ物を刑すべきにあらず、草の根を分ても、まことの張本人を尋ぬべき事也、さて又近来此騒動多きにつきて、其時の上よりのあしらひも、やゝきびしくて成て、もし手ごはければ、飛道具などをも用ふる事になれり、これによりて下よりのかまへも、又先年とは事長じて、或は竹槍などをもち、飛道具などをも持出て、惣體のふるまひ次第に増長する様子也、これいよいよ容易ならず、此さわぎに乗じて、萬一不慮の變など相添フ事あらんも、又はかりがたき物也、まづ下は高が百姓町人のことにて、その願ふ所を聞とゞけだにすれば宣しく、又たとひ眞坂に及びても、武具などもそろはず、戦の法などもしらぬ者なれば、畢竟は恐るゝにはたらぬ事のやうなれども、もし上より用捨なくきびしくこれをふせがば、下よりも又いよいよ用捨なく、身命をすててかゝる事もあらん、其時たとひ武士一人は、百姓町人の三人五人つゞに當るほどの働きありとも、つひに多勢に及びがたからん事も、はかりがたく、又たとひいかやうの計略をめぐらして、十分勝ちをとるとも、敵とするところ、みな自分の民なれば、一人にてもそこなふは、畢竟は自分の損也、又手にあまれる時、近國などより加勢ありて、人數を出されては、たとひ早速静まりても、いよいよ恥辱の至りなり、但しさしあたりては、手強(テゴワ)きときは、やむ事を得ず、少々人を損じてなりとも、まづ早く静むるやうにはからんこと、もとより然るべきこと也、又後来を恐れしめんためにも、一旦は武威を以て、きびしく押へ静むるも權道也、然れども始終は武威ばかりにては押へがたし、此方よりきびしくあしらふは、以後又彼方よりもいよいよきびしくかゝれと、教ふるやうの道理なればなり、然れば此事はとにかくに、その因て起る本をつゝしむ事緊要たるべし、

6○今の世町人の奢リは、殊に甚しき事也、すべて飲食衣服よりはじめ、書道具住居等、みな高貴の人のうへとさのみ異ならず、中にもすぐれて富メる者などは、内々こまかなる事のおごりは、だいみょうにもをさをさおとらず、何事も善美をつくして、ゆたかにくらすこと也、さて町人は、殊に定まれる階級のなきものにて、先ツはひら一まいなるが故に、身上の大小は雲泥ちがひても、とかく富たる者のうへを見ならひうらやみて、さしもなき者もそのまねをして、分不相應にゆたかに暮さんとするから、内証は困窮する者甚多き也、或はその困窮を隠さむとするから、いよいよ困窮つのり、或は身上を持直さんために、急に大利を得んと欲して、あらぬことにかゝり、家をほろぼす者も多し、さてかやうに惣體殊の外におごり長じたれ共、これ天下一同の事なる故に、地になりて奢リといふやうにも見えず、面々みづからもおごり也といふ事を覺えず、本よりかやうにあるべき物のやうに思ひ居る也、その中にたまたま、世上奢リの長じぬる事に心つきて、物事質素を心がくる者もあれ共、世間並をはづれては、返て變(ヘン)なるやうに云ヒなされ、人にわろく思はるゝによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるゝことあたはず、又時々倹約倹約といひたてて、省略する事共もあれ共、或は止(ヤ)めてもさのみ為(タメ)にもならぬ事を止(ヤ)めなどして、惣體の奢リは相替らず、又しばらく倹約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事は露ほどもなくて、年々月々世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれておのづから物入多く、困窮する者のみ多きなり、さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなる物なれども、左様にはあらず、上中下ともに身分不相應におごりて、内証は困窮なる故に、商事は多くても、買たる物の價をえ出さざる者殊の外多く、又借リたる金銀を返さざる者おほき故に、賣ル者貸ス者利を得ることなりがたくて、損をすることおほく、又世上の惣體の商は多けれども、百姓の商人になるが多くて、商人の數次第に多き故に、手前手前の一分の商高は多からず、商高すくなくては、渡世になりがたき故に、しひて多くせんとすれば、掛損など多くなりて、又困窮に至る、さて町人は内証は困窮しながらも、百姓よりは身を勞する事もすくなく、又百姓よりは奢りてとほる物ゆゑに、百姓は是をうらやみて、とかく町人になることを願ふ者多し、それ故に商人は年々に多くなりて、友つぶれになること也、さて又世上の奢リ甚しき故に、其奢リのすぢに用るもろもろの物おびたゝしく、それに人の手間をつひやす事もおびたゝしき也、およそ人間の用をなす一切の物は、其本は皆地より生ずる事なるが、其中に無くてかなはぬ物と、無益のおごりに用る物とあるを、世上のおごり長じぬれば、その無益の事に多くの物を費やす、その無益の物のために、田地山林多くつひえて、有用の物の出る妨となり、又無益の事にさまざま人の手間入ル事多き故に、有用の業をなすべき者も、その無益のわざをなして世を渡る、これ天下の手間の費エにして、かの無益の物に土地をつひやすも同じ事也、然るに世ノ人此子細をわきまへずして、何事をしてなり共、人の渡世になる事多く、商事おほければ、世上のにぎはひ繁盛也と心得るは、ひがことなり、平民の身一分のうへにては、いかにも何わざをしてなりとも、金銀を得る事の多きが利なれ共、上に立て民を治むる人の身にとりては、領内おしならして利益あることならでは、損ある也、たとへば城下はにぎはふて、商人は利を得ること多くても、在在百姓のつまりてと成ては、本を失ふて末を益する也、但しこれは、天下と一國一國との差別あり、たとへば何にもせよ、世上に無益の奢リのために用る物を、多く作り出す國あらんに、これは天下のうへよりいへば損なれども、其國にとりては損にあらず、いかにといふに、其物を多く作り出すだけ、米穀を作り出す事すくなけれども、其物の價を取て、米穀等をば、それだけは他國より買取ルゆゑに、其國には損なし、然れども、其國にてその米穀を作り出さざるだけ、天下のうへにては損ある也、すべてこれらに限らず、天下と一國一國とのうへにて、其趣のかはる事外にも多し、さて又こうえきのために、商人もなくてはかなはぬ物にて、商人の多きほど、國のためにも民間のためにも、自由はよきもの也、然れ共惣じて自由のよきは、よきほど損あり、何事も自由よければ、それだけ物入多く、不自由なれば、物入はすくなし、然るに今の世は、人ごとの我おとらじとよき物を望み、自由なるがうへにも自由よからんとするから、商人職人、年々月々に、便利よく自由なる事、めずらしき物などを、考へ出し作り出して、これを賣弘むる故に、年々月々に、よき物自由なる物出来て、世上の人の物入は、漸々に多くなること也、すべて何事も、今まで無ければ無くて足リぬる事も、あるをみては、無きが不自由に覺え、又今までは麁相なる物にて事たれるも、それより美(ヨキ)物出れば、麁相なるは甚わろく思はるゝ故に、次第次第に事も物も數々おほくなり、華麗になりゆくこと也、かくて事も物も、一つにても多くなり、華美になれば、それだけ世話も多く、物入は勿論おほき也、これ皆世中の奢リの長ずるにて、畢竟は困窮の基となることぞ、さて又世間の困窮に付ては、富る者はいよいよますます富を重ねて、大かた世上の金銀財寳は、うごきゆるぎに富商の手にあつまる事也、富メる者は、商の筋の諸工事面よき事は、申すに及ばず、金銀豊かなるによりて、何事につけても手行よろしくて、利を得る事のみなる故に、いやとも金銀は次第にふゆる事なるを、貧しき者は、何事もみなそのうらなければ、いよいよ貧しくなる道理なり、さて世上困窮して、不勝手なる商人多ければ、その不勝手なる方は、何事も手行あしきから、賣ル者も買フ者も、多く手行のよき方へつく故に、富商はいよいよ工面よき也、又世上困窮に付ては、金銀を借ル者多き故に、ゆたかなる者は、これを貸シて利を得る事多きに、貧しき者は、借りて利を出して、いよいよ苦しむ也、尤借りて返さざる者も多けれ共、それに付ては貸ス者は又いろいろと勘辨して、慥なるやうを考へて、かしこく立まはる故に、損をする方はまづ少(スク)なし、惣じて今の世は、大抵利を得る事は難(カタ)くして、そんはしやすき時節なる故に、富商は随分金銀をへらさぬ分別を第一として、慥なるかたにつく故に、まずは減ずる事はすくなくて、とにかくにふゆる方おほきなり、さてそれも少(スコ)し不廻(フマハ)りなる方に趣くときは、又萬事みな右のうらへまはる故に、鉅萬の金銀も、消やすき事も又春の雪の如し、されど其金銀も、貧民へは潤はずして、それも又富商の手に入ルなり、又富メる者は、一旦大に損をする事あれ共、土臺が丈夫なれば、又取返すこともやすきに、貧しき者は、損をしても、再ヒ取返すべきたねなければ、永くその損をいやすことあたはず、何に付ても貧人と富人との堺は、甚しく違ひにて、貧人は富人のために貧を増し、富人は貧人によりて、いよいよ富をかさぬる事也、右は商人のみならず、百姓などのうへにても同じ事にて、富メる者は、百姓ながらに多く商をもし、金銀のやりくりのうへにて利を得る事も、商人にかはることなく、又農作のうへにても、富る者はりを得ること多し、肥(コヤ)しなどをも丈夫にいれ、人手間をも十分にかけてつくる故に、みのりも殊に宜しく、米などを売出すにも、利の多き時を待て賣ル故に、急に賣レば見す見す利を得ることなりがたくして、すべて商人の趣とかはることなし、とにかくに貧民は、何に付てもふびんなる物なり、然れども世上の金銀財寳は、とかく平等には行わたりがたき物にて、片ゆきのするは古今のつねにて、ほどよく融通するやうにはなりがたき事也、其内にも今の世は別して、貧しき者はますます貧しく、富る者はますます富ムことの甚しければ、上に立て治め給ふ人の御はからひを以て、いかにしても、甚富る者の手にあつまるところのきんぎんを、よきほどに散(サン)じて、専ら貧民を救ひ給ふやうにあらまほしき物也、但しその散(サン)じやうは、其者の歸服して、心から出すやうにあらではおもしろからず、いかほど多く蓄へ持たればとても、これみな上より賜はりたるにもあらず、人の物を盗めるにもあらず、法度に背きたる事をして得たるにもあらず、皆これ面々の先祖、又は己己は働きにて得たる金銀なれば、一銭といへ共、しひて是を取ルべき道理はなし、金銀はいかほど澤山に持ても、人毎に猶ふやさむとこそ思へ、いさゝかにても、故なくてこれを出す事をば、甚愁ふるもの也、然れ共又、心より歸服だにすれば、よしなき佛寺などのためにも、多くの金銀を出して、惜しむことなければ、ましてりょうしゅのひんみんを救ひ給ふ、御仁政のためならんには、其模様に依て随分心から感服して、相働き御用に立ツべき事にて、是には宜しき仕方の有べき事也、とにかくにしひてこれを召(メサ)む事は心よからず、又其金銀を、他の事に用ひんも心よからず、ひたすら貧民を救はまほしきこと也、上より民を救ふ御仁政の専ら行はれて、貧民其御めぐみを有がたく存じ奉る様子を見は、仰付られずとも、おのづから富人は救ひの志シ出来べきこと也、さてもし志ありて、貧民を救ふ者あらんには、其ほどほどに厚くこれを賞美し給はば、いよいよ相はげみて、救ふ者多かるべし、然れ共他國の様子をうけ給はるに、近来民を救ふ政はすくなくして、たゞひたすら上の御用の金銀をのみ云ヒ付らるゝ故に、富人はこれを恐れて、志ある者も、救ヒをば得せず又たまたま救ふ者あれども、それをば賞せらるゝ事もなくして、たゞ上の御用に立ツ者をのみ、賞せらるゝやうなるが、左様に金銀を以て、上の御用に立て、賞味せられ、はぶりのよき者をば、世上にては返てそねみ悪(ニク)むこと故、それを望む者はすくなし、貧民を救ひて賞せられんは、世の中の人の甚悦ぶ事なれば、そねみにくむものはなくして、これをうらやむ者のみ多かるべし、此所をよく考へて、富人の金銀を散(サン)じて、貧民を賑(ニギ)はすべき仕方はあるべき事也、さて右にも申せる如く、富人とても、その金銀は、面々の働きにて得たるところなれば、しひてこれをめされんは、心よからぬ事也、又やむ事を得ずこれを借リ給ふことあり共、それもしひては心よからず、但し御領内に住居して、ゆたかにくらす君恩を、ありがたく思ひ奉て、冥加のたねにさし上んことを願う者あらんは、格別の事也、されど左様の金銀も、皆貧民に施して、なるべきたけは、上の御用には用ひ給はぬやうにこそあらまもしけれ、又面々の勝手のためにもなり、冥加のためにてもあればとて、常に金銀の御用をうけ給はるに付て、人に金銀を貸スにも、その御用の筋にことよせて貸シつくること、近世何方のも多し、これますます富商を富マす事にて、世の貧民のための大なる害也、たとひ上のためには、御勝手になる事なりとも、下民にために害あらん事は、すべて禁ぜらるべきのこそ、さて又今の世は、武家大小によらず、仕送(シオク)りといひて、町民に勝手をまかなはすること多し、是は便宜にして自由はよきやうなれ共、つまる所は損多し、町人はこれによりて、多くの利を得る、それだけ武家に損あることは、目に見えたれども、困窮の節など、さしあたりて便宜なるによりて、損をば知ながら、皆申シ付る事也、然れども是は皆、富商のうけ給はりてする事なれば、ますます富を重ねさせて、武家には損あることなれば、なるべきたけは無用にせまほしき事なり、

7○人は何事も、其身の分限相應にするがよき也、分限に過て奢るがわろき事は、申すに及ばず、又あまりに降して輕くするも、正道にはあらず、大名は大名相應に御身を持給ふがよし、質素がよきとて、下々の武士の如く御身を持給ふべきにもあらず、次に其下にたつ武士も、又その相應相應がよし、百姓町人も、又其身上相應に身を持ツが宜しきなり、すべて事を輕くするがよろしとても、又あまり身持かろがろしければ、それに應じて、おのづから心も萬の行ひも、いやしく輕々しくなりて、上にたつ人などは、殊によからぬ事多きもの也、又倹約を心がくれば、おのづから悋嗇(シハ)かかたに流れやすき物にて、必スすべき事をも止(ヤメ)てせず、人にとらすべき物をも、倹素にしてしかも悋嗇に流れぬやうにはありにくき物也、殊に上にたつ人など、此わきまへなくして、悋嗇なるときは、下の潤ヒかわきて、甚よろしからず、されば倹約も實には宜しき事のあらず、とかく上中下各身分相應にくらすがよきなり、然りといへども、その相應といふは、いかほどが相應なりや、てほんのなき物なれば、よきほどは知がたき事なるに、惣じて華美なるかたにはうつりやすく、すこしも質素なる方へはうつりにくき物なれば、治平の久しくつゞける世は、一同に段々華美の長ずるならひにして、上にも申せる如く、今の世ほど下が下まで華美なることは、古今の間になきことなれは、今の世にこれぞ分限相應のよきほどならんと思ふ事は、皆大に分限には過てある也、然れば、これをよきほどにせんと思ふときは、萬事を大にそぎすてて、狂人かと人に笑はるゝほどに落(オト)さざれば、おのおの身分相應の所へは當りがたし、然れどもさほどまでには、とてもおとしがたき物にて、たとひ自分一人は、人にかまはず、右の如くにおとしても、家内にまでにも行とゞきがたく、又上よりいかほど厳しく命令を下して、これを制せられても、時世の勢は、中々防きがたく、人力の及びがたきところある物也、たとひしばらくは命令に恐れて、これを慎しむやうにても、末とげがたく、又うはべは命令を守るやうにても、内内にては皆これを破る、衣服の制などみな然なり、又一國ぎりこれを制しても、天下一同ならざれば、其制立チがたき事も多し、又惣體表向へ見ゆる事は、制も立べけれ共、今の世は上下共に、表へは出ざる、家内のこまかなる事の奢リの甚しきを、一つ一つ吟味をとげて、これを禁ずべき由なければ、とにかくに此世上一同の華美おごりは、いかやうにしても、俄には停めがたく、年々月々に長じゆくばかり也、然れ共物はかぎり有て、のぼりきはまる時は、又おのづから降ることなれば、いつぞは又本へかへる時節も有べき也、されど此世上の奢リなどの、左様に自然と質素の方へかへるといふことは、まづは何ぞ變なる事などのなくては、復(カヘ)りがたきことなれば、その變の有て、自然とかへるを、安閑として待居るべきにもあらず、されば上にたつ人は、随分なるべきたけは、工夫をめぐらして、自他奢リの長ずることなければ、起るべき變事もおこらずして、長久に無事なるべし、さてそのはからひはいかにといふに、右に申せる如く、此事は厳しき命令ばかりにては、とても直りがたきことにて、たゞ面々自然とたしなむ心になりて、おのづから化するやうにはからふべき事也、下はとかくに、よき事もあしき事も、上にならふものなれば、先ツ上より物事おとさるゝたけ落して、輕くして見せ給はば、漸々におのづから、御家中も下々の民も、それにならひ其心に成て、つひには返て華美なる事を笑ふやうにもなるべき事也、すべて何事にても、心より歸服してする事にあらざれば、末とほりがたく、永くは行はれぬものなり、さてその下々を心より歸服せしむることは、皆うえよりのはからひ仕方によることぞかし、

8○金銀通用はその法によりて、大に得失の有べき事成、まづ此金銀といふ物は、上ヘもなき寶にてあれ共、實は飲食のかはりにもならず、衣服のかはりにもならず、すべて何の用にも立がたき物なるに、これを通用するは、その何の用にもたゝぬ物を以て、世中の一切の用を辨じさする仕方なる故に、その仕方によりて、得失はある事也、其仕方とは、まづ第一に天下に通用する所の金銀の多少によりて、大に得失あるべし、抑金銀を廣く通用する事は、慶長のころより始まれることにて、その以前はたゞ錢のみの通用なりき、然るに此金銀通用始まりては、甚世上の便利にして、尤自由よろしき事也、さて通用の金銀は、隨分多きほど便利にして、自由は宜し也、然れ共それに付て又失ある事多く、返て世上の困窮に及ぶ基ともなること也、かくて當時天下に通用する金銀は、殊の外に多くして、甚便利はよき事なるに、今の人は、もとよりかくのごとくなる世に馴たる故に、金銀の甚多きといふことをしらず、便利の甚宜しき事をも覺えずして、返て世上通用の金銀の拂底にて、得がたき故に、世は困窮するやうに思ふは、商人心にして、末をのみ思ひて、本を知らざるもの也、今の世に金銀の得がたきは、少(スクナ)き故にはあらず、あまり多きよりおこれること也、その道理はいかにといふに、まづ米穀をはじめ、其外何にても、萬の物を取引するに、その正物を取引するよりは、價をはかりて金銀にて取引するが、格別に便利よき故に、昔は正物にて取引したる事をも、今はみな金銀にてするやうになり、其外萬の事、みな金銀にてとりはからふやうになりて、次第に金銀のとりやり多くしげくなり、其とりやりかけ引の間に、なほ又さまざま便利なる仕方などある、かやうに萬物萬事みな、金銀にて間(マ)の合フやうになれるは、これ全く世上通用の金銀の甚多きが故也、少なくては、いかほど便利よき事有ても、かやうに廣く何事にも用ふることはなりがたし、さて昔は金銀を取引することも、今よりはすくなく、又金銀にて萬の事を取はからふ事も、まれなりし故に、人のこれを願ふ心も、今のやうに甚しくはあらざりしを、今は右の如く世間に此とりやり掛引しげく、金銀つねに人の耳目にちかく親しく、又金銀にて何事も濟む故に、人毎にこれを得んことを願ふ心も、むかしよりは格別に甚しく切(セツ)なるによりて、甚得がたきやうに覺ゆる也、惣じて至て得がたき物は、これを得んと欲する念もなきものなるに、今の人の金銀の得がたきを憂ふるは、地體が多くて得がたからぬ故也、さて又何事につけても金銀のはたらきしげく、いそがはしき故に、實に得がたくもあり、得がたきによりては、少(スク)なきやうに思ふ也、たとへば毎年盆前と極月には、常よりも又格別に金銀ひつはくして、いよいよ得がたきは、いかなるゆゑぞ、此時とても世上の金銀、つねよりすくなくなるにあらず、常には遊ばしおく金銀をさへ、二季には出して働かす事なれば、常よりは多きに、返て左様に得がたき事は、常よりも又やりひきしげく、金銀いそがはしきが故ならずや、是を以て惣體金銀の得がたきは、少なき故にあらざる事をさとるべし、基本を尋ぬれば、實には世上通用の金銀甚多くして、自由に手まはるから起りて、何事にもこれを用ふるやうになり、次第にはたらきいそがはしくなれるによりて、其多さよりも、なほいそがはしき方が勝ツゆゑに、得がたくて、すくなきやうに思はるゝ也、さて金銀通用始まりて、いまだ久しからざりし程は、多ければますます便利のよろしきのみにて、さのみ其幣はなかりしが、漸く年代久しくなるにつきては、その幣も多くなれる也、右に申せるごとく、世上何事にも是を用ひて、取引する事多きまゝに、其取引の間にて、過分の利を得る事多く、或は商人ながら、物の交易をもせず、たゞ金銀のうへのみを以て、世を渡る者もおびたゝしく、富人は別してこれによりて、ますます富を重ぬること甚し、惣じて金銀のやり引しげく多き故に、世上の人の心みなこれにうつりて、士農工商ことごとく、己が本業をばおこたりて、たゞ近道に手早く金銀を得ることにのみ、目をかくるならひとなれり、世に少(スコ)しにても、金銀の取引にて利を得る事あれば、それだけ作業をおこたる故、世上の損也、いはんや業をばなさずして、たゞ金銀のうへのみにて世を渡る者は、みな遊民にて、遊民の多きは、國の大損なれば、おのづから世上困窮の基となれり、又世上の金銀おほくして便利なれば、人々買フまじき無益の者をも買ひ、爲(ス)まじき無益の事をも爲(シ)などする故に、おのづから奢リを長ずる、これらみな世の困窮の端となること也、なほ又上下の人ことごとく、金銀にのみ目をかくるゆゑに、今の世は武士も百姓も出家も、みな鄙劣なる商人心になりて、世上の風儀も輕薄になる事ぞかし、かくのごとく世上通用の金銀甚多くして、自由便利なるにつきては、其失も甚多けれ共、年久しく馴來りたる事なれば、此ならひは俄には改めがたし、不便利なる事すら、久しく馴たるを俄に改めては、人の歸服しにくき物なるに、ましてこれは甚便利なる事なるを、今更通用の金銀を減少などしては、當分大にさしつかゆる事など多くして、返て大に失あるべし、且又金銀通用の筋などは、天下のうへの事なれば、いかほど害ある事有とても、一國ぎり私には、いかに共すべきやうなし、然れ共右の子細どもを、つねづねよく心得居て、惣體正物にて取引すべき事は、少々不便利にはあり共、やはり正物にて取引をして、金銀の取引の筋をば、なるべきたけはこれを省き、猶又さまざまの金銀のやりくりなどをも、なるべきたけは隨分これを止(ヤ)め、又爲(ス)べき事を、金銀にて仕切るやうの筋は、猶更無用にあらまほしき事なり、それも民間にて下々どちの細事などは、さる事もあるべけれ共、少々金高にも及ぶほどの事には、決してあるまじきわざ也、惣じて物事は、不便利にても地道なることは、始終全くして、失なきものなるを、算用にかゝり、便利にわしるときは、必間違いもいでき、詐欺のすぢもありやすく、思ひかけぬ失のあることなれば、國の政をとり行はん人などは、此所をよく考へて、萬事なるべきたけは、金銀便利の筋にはかゝらぬやうに心がけ給ふべきにこそ、さて金銀のやりくり取引をば、なるべきたけは、省きて、少(スク)なくするときは、自然とすこしづゝも、人情金銀にうとく遠ざかるやうになりて、面々の本業を大切にはげむやうになり、金銀にのみ目をかけて、近道にわしるならひ、少々づゝもうすらぎて、人の鄙劣なる心、輕薄の風儀も直るべきもの也、とかく下は上を見ならふものなれば、かやうの事も、上のしならはせ計らひに有べきことにこそ、

9〇天下のため國のために害なる事、世に多し、其中に、實は大に害あれども、害と見えざる事もあり、又こゝには益あれども、かしこに害ある事あり、又當分は益あるやうなれ共、後日に大害となる事あり、これら皆人の惑ふこと也、国政をとらん人つねに心を付らるべし、又眼前に大害と知れながらも、停めがたく、國君の勢にても、公儀の御威光にても、俄には禁止しがたき事も多くある也、然るにその類を、俄にしひて禁ぜんとするときは、返て又害を生じて、いかん共しがたき事もある物なり、されば害ながらも、俄に禁じがたき事は、常々に心をつけて、隨分長ぜぬやうにはからひ、いつとなくそろそろとこれを押へて、おのづからと止(ヤ)む時節をまつより外なし、萬の事は、日々に增長することも、思ひの外に、又いつとなく衰へゆく時節もあるものなれば、かならず事を急にして、しそんずまじき也、又國のため民のために、利益ある事を考へ出して、これを行はむとするも同じ事にて、たとひ利益ある筋も、新規に俄にこれを行はむとすれば、人も歸服しがたく、又返てそこなひも出來ることある物也、とかく人は、久しく馴來りたる事は、少々勝手あしき事も、其分にて安(ヤス)んじ居るもの也、ある事も、新規なる事は、煩はしく思ふならひなれば、有來りたる事は、少々はあしくとも、大抵のことはそのまゝにて有べく、新規の事は、大抵はまづはせぬがよき也、すべて世中の事は、何事もよきもあしきも、時世の勢によるものにて、いかほど惡きを除かんとすれども、いかほど善キ事を行はむとすれ共、極意のところは、人力には及びがたきものなれば、しひて急にこれを行はんとはすべからず、たゞつねづね、善キ事はそのかたのくづれざるやうに、止(ヤマ)ぬやうにはからひ、惡き事は、少々づゝも消するやうに、長ぜぬやうにと心がけ、さて又新規に始めんとする事は、よくよく考へて、人々の料簡をもきゝ、他國の例などをも聞合せ、諸人の歸服するかせぬかをよく勧へて行ふべし、すべて新法は、これを始めて、國のため人のためにもまことに宜しくて、末長く行はるゝときは、後世までの功にもなることなれ共、思ひの外人も歸服せず、ためにもならず、或は思ひかけぬつまづきなど有て、長くは行ひがたくて、程なく是を止(ヤ)めなどするときは、返て費のみ有て、國政のかろがろしき譏りをもとること也、隨分かしこき人の工夫し出て、大益あらんと思ふ事も、爲(シ)て見ぬ事は賴みにならぬ物にて、思ひの外最初の料簡のごとくにはゆきがたき物なれば、とにかくに大抵事すまば、舊きにしたがふにしくはなし、

10 ○近來上下おしなへて、内證困窮する者多きわけ、又奢リの自然とうすらぐべき仕方など、段々上に申せるが如し、然れども困窮甚せまりて、いかに共すべき方なく、さしつまりたる時に至りては、右のごとくゆるやかなる仕方ばかりにては、とてもさしあたりての間(マ)には合ひがたき事なれば、左様の時は、いかにしてなりとも、急にそのはからひなくてはかなはず、上下大小ともに皆同じ事なり、其中に、大名の御勝手の甚逼迫して、さしつまりたる時の作略は、まづ町人百姓の金銀をめさるゝが、近代世間並の事也、然れども是は上にも申せる如く、甚心よからぬ事也、たとひしひてこれをめされても、それは限ある事なれば、いつまでも左様にて濟ムことにあらず、始終のすまぬ事に、大切なる御國政に瑕をつけん事は、いかにしても残念なること也、さればさしつまりてやむ事を得ざる時は、御家中の禄を、年を限りて減じ給ふより外の上策は無し、これ當然のあたりまへなり、但し御家中大小上下、いづれもいづれもほどほどに、先祖よりその禄を賜はり、御によりて家をたて、代々妻子をはぐゝみ、家の子を扶持し來りたるに、俄にその禄を過分減ぜられては、一同に甚難儀の至り、殊に近年世上困窮の時節、御家中は別して切つめたる禄にて、餘分くつろぎもありにくきうへなれば、いよいよ難澁の人々多からん事、まことにいとほしき御事なれば、なるべきたけは、此事はなくてあらまほしき物なれ共、上の御身分につきたる御物入共をも、なるべきたけ省略減少せられ、はしばしくまぐままで御手をつめられて、そのうへやむことを得ぬ時は、此法より外に作略は有まじきこと也、故に近年此法を行はるゝ方々、諸國に多きなり、これ全く已(ヤム)事を得ざる故の事なれば、もし此事ありとても、必々御はからひを恨み奉るべきに、ありがたくも静謐の御代に生れて、身命を全くし、飢ず寒からず、安穏に世を渡る君恩を思ひ奉りて、戰場に命をすつるかはりに、いさゝか大恩を報じ奉るのみぞと思ひとりて、しばらくの難儀をばしのぎ給ふべき也、さてもし何國にもせよ、此法を行はれんに付ては、おのおの禄の大小によりて、減少の差別あるべきこと、勿論なれども、下々に至て微禄の人々は、殊にくつろぎなければ、迷惑甚しかるべし、此所かへすかへすも御かへりみあるべき也、さて又此年限の内に、是非とも御勝手の立なほるべきやうの、算用のつもり、其しまり方、且又年限終りて後のしまり方など、かねてよくよくつもりあるべき事也、もし此つもりのしまりあしくては、年限の内恩収納の過分に多きがくせに成て、年限終りたる時、又俄に大に御手づかへ有て、數年御家中一同の辛法も、いたづら事になり、返て御勝手のひつはくいやまさること有べし、其時又年限を延られんは、いよいよ氣の毒也、とかく物はくせづきやすきならひなれば、此年限の間に、御収納多きが癖にならぬやうの作略、かへすかへすも肝要たるべきにや、

11 ○上と下との間甚遠くして、下の情態の上へとほりがたく、知れがたきことは、古ヘより誰もよく知れることなるが、近代は別して大名の御身分殊の外に重々しき故に、猶更此幣は甚しきなり、たとひ此御心つきて、下の様子を知らんと思召しても、委しく知給ふべきてだてなし、御前へ出る人々とても、たゞ恐れ愼しむのみにて、中々こまごまとしたる事を、御咄し申上るやうの事はなりがたく、一通り申上る事も、たゞあたりさはりを思ひ、御機嫌をあやぶむ故に、たゞ不調法を申さぬやうに、難のなきやうにのみ申上て、下の事はたゞ宜しきやうに、諸民ありがたがる様子にのみ申上て、すこしにても、わろき事を申上る者とてはあることなし、是は其人の申上ざるがあしきにはあらず、たゞ上の重々しくて、申上がたきやうのならはしなるがあしきなり、同輩どちの中にてすら、その人のわろき事などは、少(スコ)しにても云ヒにくき物なれば、まして主君に對し奉りては、其はづの事也、家老たる人をはじめとして、右の如くなれば、まして下々の人は、いかほど目にあまる事の下に有ても、直に申上るなどいふことは、叶はぬこと也、階級を經て段々に申上る事は、其中途にて、次第に違ひゆく物なれば、下々の有さま、とかくありのまゝには上へはとほりがたし、學問をし給へば、書物のうへにて、大抵下々の役人の事、民間の事も、おほだゝいの所は知(シ)ることなれ共、當時のこまかなる趣は、中中書物のうへなどにて知るゝことにあらず、下々には、上の御存シ寄リも無き事共のさまざまあるなり、さればたゞ書物のうへの一通りの趣を以てはからひては、思召ス旨とは違ふこと多かるべし、たとへば上には深く下をいたはり給ふ御心にて、いさゝかにても民の痛みとならぬやうにとおぼしめしても、其通り下へはとほりがたく、他國の様子をうけたまはるに、下々の取はからひは、上の思召シとは、大に相違する事共のある様子なりとかや、その下のくはしき様子は、上には御存知のなければ、たゞ仰出されたる通りにゆく事とおぼしめすなるべし、又下より願ふ筋なども、とかくに中途にて滯りて、上へはとほりがたき事がち也、これら皆、上のあまり重々しくして、遠き故の失也、小身の御大名などは、さほどにもあらぬ事もあるべけれど、御大家ほど此失は多きなり、

12 ○大小の事何によらず、よき料簡あらば、たとひ輕き人なりとも、少しも憚ることなく、申出るやうに有たきものなり、然れ共惣體たゞ上の事を重々しくするならひにて、中々輕き人などは、御政務筋の事などは、申出がたきやうのならひにて、萬一身分に過たる事などを申出れば、上を輕しむるなどいひたてて、返て咎められ、或は又よき料簡ありて申出る事ありても、傍よりとやかく妨げて、其申シ分立がたく、又何事にても一ト料簡ある事は、必スすこしは障る所も有ル物なれば、その障る所よりこれを妨げなどする程に、申出テたき事有ても、憚りて得申出ざる也、況や君へ諫言がましき事などは、決して申上られぬことになれり、諫言はさておき、主君の一度仰出されたる事は、詞をかへして否(イナ)それは共申されぬことになれるは、あまりに重々しきならはしにて、甚しき政道の妨也、隨分に威を嚴重にして、下の恐るゝやうにすべきは、勿論の事なれども、それも事により、程のあるべきこと也、とかく御政務につきては、御前へ出たる人、あまりに憚り恐れず、何事もうちくつろぎて、料簡を申上るやうにし、輕き役人をも近く召れて、心やすく何事をも申上るやうにあらまほしき物也、

13 ○惣體新法の事を立テ行ふに、思ひかけず間違あやまちなどあれば、最初に其事を申出して、始めたる者の越度として、これを咎むることなれ共、最初より惡(ア)しかれとて始めたることにあらず、思ひかけざるあやまちは是非なければ、其者をとがむべき事にはあらず、惣じてかやうの取はからひも、あまり上の事を重々しくするから、あたらぬ事もある也、さて武士の風儀として、上へ對して申シ譯なき事などあるとき、切腹するは、まことにいさぎよくはあれ共、よろしからぬならはしなり、實に死なでかなはぬ事は格別なれども、其餘さしての惡事にもあらず、たゞいさゝかの一時のあやまちによりて、大切なる一命をうしなひ、父母妻子の歎きも殊に深かるげきを思へば、甚いとほしき事也、願はくは此ならひをば停メまほしき事なれば、御先代に天下一同に追腹殉死を禁ぜられたる如く、此切腹の事も、上より仰付らるゝの外は、私に切腹する事をば、堅く禁止せらるべきにや、誰とても一時のあやまち、思ひはからぬ不調法は、あるまじきにあらざれば、さのみ深く咎むべきにもあらず、いさゝかの事にて、一命をすつるには及ぶまじきこと也、すべて少しの事にても、品によりて切腹するならひは、もと戰國の風なり、さて又上の事をあまり重々しく取扱ふならひなる故、すこしの不調法をしても、身のたゝぬやうに思ふから也、惣じて何事によらず、主君へ對しては、たゞいさゝかの不調法ありても、重くとがむるならひなれ共、其筋によりて、大かた心より外にあやまりてせる事は、大抵の事は宥免せらるべき也、かやうの事を至て嚴密にするも、一ツの法にてはあれども、今の世のならひを見れば、あまり嚴に過たることも多きなり、

14 ○一國の政道は、萬事家老たる人々心を一致にして、其ノ元をよくしめくゝり、其趣を以て、次々下々の諸役人まで、一國の諸事のはからひ、みな一致するやうに有べき事也、然るに近來他國の様子をうけ給はるに、御大家などは、まづ家老たる人々は、さのみ國内の政事に、こまかにはかゝはられずして、次なる役人その元をしめくゝりて、取はからはるるとかや、これ宜しからぬ事也、何事によらず、元のしめくゝり、政務の出る所は、家老たる人たるべし、惣じて重き所より出たる事は、傍よりも妨げがたく、下々の受る心持も格別にて、諸事しまり宜き物也、次なる人にては、憚るところ有て、諸事のはからひ十分に伸(ノビ)がたく、又下の受る心持も違(チガ)ひて、取リしまりがたく、一致しがたき物也、もし一國の政事一致せずして、たとへばこゝの役所の趣と、かしこの役所の趣とは相違して、同一國内の政とも見えず、本の出る所異なるが如くにては、政事とりしまりがたし、これその本のくゝりの所の、しまりわろきが故也、又それそれうけとりたる役義をば、自分の身のうへの事にして、隨分身を入レて働くべき事なるに、左様の人は少(スク)なくて、たゞ不調法さへなければよしとし、又我カ役の内不調法なくてさへすめば、跡はいかやうになりてもかまはず、たゞ身分のための用心をのみ第一にして、役義のための事は思はず、又たまたま心ある人の役の内に、惡き事を直し、よき事を始めおきなどしても、其人役替有てのけば、其跡役の人は、身に入レて世話もせぬ故、たちまち消失て、よき事を始めおきたるも益なく、又本のくゝり所にしまり無ければ、下は心々別々のやうになりて、たとへば先役人の時に、堅く約束したる事も、其人かはれば、跡役の人はそれを用ひず、その約束の事も立チがたきやうになる、これら大にあるまじき事也、何國にても役人は、下々のためには、殿様も同前なれば、たとひ其人はいくたり替るとも、前に一度約しおかれたる事は、決して變ずまじきはづ也、すべたかやうの事とりしまりなく、約束などたやすく變じては、おのづから上を輕しむる端と成て、命令なども行はれがたくなる事也、

15 ○世に目附といふ役あれども、猶又所役人いづれも、互に目附役をするがよき也、それはいかにと云に、まづ今は自分の受取リまへの役目をさへ勤むれば、他の役義の事はかゝはらぬこととして、たとひ傍に目にあまるほどのわろき事、或はぶてうはふなるはからひをする事有て、上の御ためにも、よろしからぬ事とは見うけながらも、我役義にあづからぬ事は、たゞそのまゝ見て居るばかり也、これ甚不忠なることなれ共、左様なるならひなれば、心ある人もせんかたなし、然るをたとひ己がかゝはらぬ他の役義のうへの事にもせよ、宜しからずと思ふ事あらば、互に心を添て相助け、又事によりては、早速に申出るやうにあらば、これ諸役人みなたがひに目附役となること也、

16 ○惣じて物を得ることを願ふは、千人萬人まぬかれがたき人情のつねにて、本より然るべき理也、それに付ては、物を人のくるゝを悦ぶも、又人情なる故に、物を人に贈りて、志のほどをあらはすも、本より然あるべき道理、古今いづれの國とても皆同じ事也、されば萬の事に、その相手の人を悦ばせて、其事を成就せんとはかるに、賄賂といふ物をつかふ事のあるも、おのづから然るべき勢也、さて物を得るを悦ぶは、本より人情なれば、その賄を受るも、さのみ咎ともいひがたし、殊更此事世中のなべてのならひと成ぬる事なれば、其人を深くとがむべき事にもあらず、然れ共此賄の筋は、甚國政の害となる事故に、古ヘより深くこれをいましむる事なれ共、とにかくに止(ヤミ)がたき物にして、次第に増長し、近來は殊に甚しき事共あり、それも主君たる人正しければ、さすがに身分重き役人は、おのづからたしなむ事もあれ共、下々の役人は、上へは知れぬ事をよくのみこみるうへに、たとひ萬一知れても、身分輕ければ、高をくゝりて、憚る所なく、何事にもこれをむさぼる也、又主君ぐるみに昧きは、上中下おしなべて、いよいよ甚しき事あり、其中にたとひたまたま廉直なる人有ても、其自分の役義ばかりこそ廉直なれ、外々の防きにはならず、又目附横目をつけても、多くは其人ぐるみに、此道におちいる故に、益あることなし、惣體近世は何事によらず、此賄の行はれざる事はなくして、公事訴訟に横しまなるさばきをなし、刑罸にあたらざる事多きなどは、申すに及ばず、其外諸の作事普請などに付ても、此筋もつはら行はるゝこと也、それも少々づゝの事は、さても有べきなれ共、甚しき事のみ多くして、すべて賄を多くつかへば、其仕方わろくても、よしとして是を濟マし、賄すくなければ、よくても、わろしといひて、濟マさず、それゆゑに下なる者もそこを計りて、爲スべき事をば多く手抜キをして、賄をつかひて、其事のすむやうにし、又法度にそむきたる事をする者も、賄をつかへば、見ぬふりをして、是を咎めざる故に、賄を行ふて惡事をなす者も世に多し、猶此外も此筋に付ては、種々さまざまの正しからざる事多くして、ことごとくは擧るにいとまあらず、餘はおしはかりて知べき也、すべて世中に此筋盛んなる故に、おのづから國政正しくは行はれがたく、又上に損失ある事おびたゝしく、下にも損害甚多し、たとへば金千兩入ルべきところをも、役人へ三百兩賄すれば、五百兩にて濟ム故に、下にも二百兩の得(トク)あれども、上には五百兩だけの所の損あり、或は五百兩にて濟ムべき事も、賄をせざれば、七百兩も八百兩も入リて、其二百兩三百兩は脇道へ抜ケ行クやうの事も有て、上にも利なく、下には大損ありて、あまつさへ上を恨み奉ること甚し、されば國政の大害下民の大患、此賄に過たるはなし、然れ共上と下とは甚遠ければ、その吟味もとかくに行とゞきかぬる事なれば、これを止ムる法は、まづ賄を取ル者を禁むるのみならず、これをつかふ者をきびしくいましめて、何事によらず、いさゝかにても賄をつかふ者、相知るゝに於ては、急度曲事に申付べしとの旨を、つねづね觸おかれて、もし犯す者あらんには、一人二人きびしく咎められなどせば、つかふ者は勿論にて、取ル人もおのづから氣味わろかるべく、上の制禁ならんには、これをつかはぬを怒ることもえせじ、そもそも賄は、つかふ者にはとがなくして、罪は取ル者にある事なれ共、取ル者をのみ制しては、止(ヤミ)がたければ、つかふ者をいましむるも、一つの權道なるべきにや、

17 ○公事訴訟願ひ事、御咎め筋などの類、早く濟マしてもよきことは、隨分なるべきたけ早く濟マすべき也、なほざりにして、一日もすておくべきにあらず、下にては、惣じて上へかゝりたる筋の事は、いさゝかの事にても、相濟ムまでは、甚心勞することにて、殊に貧しき者などは、家業にも障り、甚迷惑する事なるに、上にかまふ事なければとて、なほざりに捨置て、長引カするは、いと心なき事なり、又訴訟にかぎらず萬の事に、權門がゝりの筋は、取リさばく役人の、甚迷惑なるものにて、これ大なる國政の妨となる事あり、されば何事によらず、權門の威を以て押す事、又下々まで主人の權威をふるひて、無理非道のふるまひをすまじき旨、常にきびしく制せらるべく、又諸役人、いさゝかも權門を憚りて、不正の叛斷などをなすまじき旨をも命ぜらるべきなり、此事は古ヘより異國にも本朝にも、つねにあるならひにて、誰もよく合點はしたることなれ共、とかく止がたき物也、

18 ○刑は隨分ゆるく輕きがよき也、但し生(イケ)ておきては、たえず世の害をなすべき者などは、殺すもよき也、さて一人にても人を殺すは、甚重き事にて、大抵の事なれば、死刑には行はれぬ定まりなるは、まことに有がたき御事也、然るに近來は、決して殺すまじき者をも、其事の吟味のむつかしき筋などあれば、毒藥などを用ひて、病死として、その吟味をすます事なども、世には有とかうけ給はるは、いともいとも有まじきこと也、又盗賊火付ケなどを吟味する時、覺えなき者も、拷問せられて、苦痛の甚しきにえたへずして、僞りて我也と白状する事あるを、白状だにすれば、眞僞をばさのみたゞさず、其者を犯人として、其刑に行ふやうの類もありとか、是又甚あるまじき事也、刑法の定まりは宜しくても、其法を守るとして、返て輕々しく人を殺す事あり、よくよくつゝしむべし、たとひ少々法にははづるゝことあり共、とかく情實をよく勘へて、輕むる方は難なかるべし、さて又異國にては、怒リにまかせては、みだりに死刑に行ひ、貴人といへども、會釋もなく嚴刑におこなふならひなるに、本朝にては、重き人は、それだけに刑をもゆるく當(アテ)らるゝは、これ又ありがたき御事なり、

19 ○何事にても、先規よりの方を守るといふは、天下一同の事にて、まことによろしきこと也、然れ共近來は、これを守るといふはたゞ名ばかりにて、實は大にくづれて、其法の本意にも背ける事のみ多し、又法は法と立チおきて、其法をよけて、さはらぬやうに惡事をなす者甚多きを、たゞ法だに立テば、いかほど惡事をなす者有ても、とがめざる事あり、たとへば關所をこゆることかなはざる者も、ぬけ道をして通れば、とがむる事なく、其關をさへ超ざれば、見のがすやうのことあり、萬の事に此類おほし、但し昔定まりたる法も、年代久しくうつり、世のもやうのかはれるにつきては、今は其法の如くならでも、害なき事、又其法の守りがたき事などもあるをば、大目に見ゆるしながらも、ひたすらに先代の法を癈せんことをば憚りて、其法をばやはり法と立テおきて、背かざるやうにするは、おのづから本朝の厚き古意にかなひて、宜しき事なれば、其事の筋にもよるべきものなり、

20 ○近來は上より命令ある事をも、下にはゆるかせに思ひて、是を守らざる事多く、又しばらくは守る事もあれ共、程なくくづるゝ、これ甚あるまじき事也、一度仰付られたる事は、長く堅くこれを守るやうにあれざれば、政道立がたし、然るにかやうに制令法度の立がたきは、いかなる故ぞといふに、上より命令出る事あれども、たゞ一通り是を觸渡すばかりにて、其令を守るか守らざるかの吟味もなく、犯す者有ても、咎めもなき故に、やぶれやすくしまりがたく、又上にも申せる如く、急度約束有し事も、たちまち變じ、或は重き役人の證文などさへ、反古になりてやくにたゝず、すべてかやうに、下に對して、上の信なき事多きときは、下民も上の仰せをつゝしまず、おのづから輕しむる心出來て、命令をも守らざるやうになる也、又すべて命令の趣は、ことごとく道理のつみたる事にあらざれば、下の心から歸服はせぬものなり、いさゝかにても、上の勝手にまかせて、尤ならざる事のまじる時は、うはべこそ威勢に畏れて、服せるやうなれ、内々にてはあざ笑ひて、中々歸服はせず、かやうの事も、上をかろしむる端となる事なれば、よくよく心すべきこと也、とにかくに下の上を恐れず、輕しむる心のあるは、第一に宜しからざる事ぞかし、

21 ○近來諸大名方、用脚不足なるが多きに付て、御勝手方と云役人多くある事也、是はその領分の内何事によらず、内外物入の筋に心をつけて、隨分はぶかるゝたけははぶき、或は諸事に算用工夫をつけて、物入すくなく、費なきやうをはかるべき役にして、それは當時隨分尤なる事也、然るに他國の様子をうけたまはるに、此役人は、たゞいろいろと働きて、金銀の工面をするをつとめとせり、さてそれは、專ら金銀を得る工面の事なれば、おほく町人を相手とすること故、武士かたぎの人にては、手行よろしからざれば、商人心の、金銀やりくりに巧者なる人をえらむ事故、下をいたはる憐愍の心などはなく、いかやうにしてなり共、當分金銀を多く得るを働きとして、後日の大害をもかへり見ず、君の御恥辱をも思はず、ひたすらに利をむさぼる商人の如し、然るに上役の人々とても、まづさし當りて金銀の手まはりて、誤用の達するが、當分目前の功なる故に、これを賞するから、いづくにても此筋の役人は、すらすらと立身をする事にて、大かた當時は、此御勝手をはたらくが、第一の政務のやうに成て、金銀を多く得るは、敵國を切取リたらん如くの功となる所もありたかやうけ給はる、抑かやうに、當分の御間(マ)を合さんためばかりに、君の御威光をも損じ、國政の妨となる事、何に付ても多く、又下の上を恨み奉ることも甚しく、おのづから上をかろしむるはし共なるは、いといとなげかはしき事なり、然りといへ共、まことに御勝手大にさしつまりて、當分のまかなひも出來がたき時に於ては、まづ金銀を得るにあらざれば、さしあたりていかにとも作略すべきやうなければ、左様の時は、此働きを重く賞するも、理の當然也、又これを働くも、時に望みての大功なれば、全く其人をわろしといふべきことにもあらず、たゞわろきは、左様に御勝手のさしつまるやうになるがわろきなれば、とかく其本をよく吟味して、諸事をいかやうにつめてなり共、物入の少なきやうにして、是非とも御収納にて何事も事足るやうに相働かんぞ、肝要なるべき、

22 ○いづれの御大名にも、無益の輩に、永々扶持知行を給ふ事おほし、昔はいづれも御勝手ゆるやかなりし故に、させてもなき遊藝の輩などにも、左様に御扶持を多く給ひて、代々御扶持人となれる者多けれ共、これらは無益の費也、儒者醫師のたぐひも、其時にすぐれたるを撰て、召抱らるべきは勿論の事なれども、いづれも其子の代になりては、學問も藝も大におとる物にて、殊に身に祿あれば、家業におこたりて、多くは御用にも立がたく、祿おほければ、身分重々しく成て、殊更業をばおこたる也、其外雜藝の輩なども、御用あらば、時々に召抱られて、少々づゝの祿を給はん事は、御大名の御身上にては、隨分さも有べきことなれ共、一たび抱えられたる者は、何の御用もなきに、永々いたづらに多くの御扶持を給はりて過す者、江戸京などにも、其國元にも多きは、甚しき奢リの費也、すべて何の職も、祿を世々にするは、本朝の古格にて、厚き風儀にてはあれ共、その筋にもよるべき事也、然れども久しく有來りたる事の、俄に改まりては、大に難義に及ぶ者多ければ、右の類とても、御先代より有來りたる分は、今さら故なく祿をめしはなたるべき事にあらず、されば左様の輩は、隨分御用にも立ツやうに、それそれの家の道を出精し、相はげみて、其道々に、此上ヘ新加の人なくて、御間(マ)の合フやうにあらせまほしく、猶又その藝すぐれて、其殿の御内の其人と、他國までも名をあぐるほどにもあらば、殊更忠勤にて有べき事也、

23 ○武士の兵術軍法を第一に心がくべき事は、今さら申すにおよばざれども、今治平の御代久しくつゞきたることなれば、法も術も、實用をこゝろ見知れる人は、一人もなければ、たゞ家々に傳はりたる通りを學びならひて、其上ヘはたゞ面々の工夫のみなるが、その工夫とても、實にこれを試むるに非れば、畢竟みな空按也、さればその同じ空按の中にも、ただ道理のあたるあたらざるばかりをば考へずして、とかく實用の所を心がくべき也、さて又時代のうつるにつきては、世中のもやう人の氣質なども、うつりかはる物なれば、昔の法のまゝにては、今は宜しからざる事もあるべければ、其時代時代の世中のもやう、人の氣分などをよく辨へて、昔の法をも、これに引當て考ふべき也、さて又もろもろの武術も、治平の代には、實用する事なき故に、おほくは華法といふ物にして、見分のよろしきをよきことにして、巧拙を定め、實用の巧拙をば思はざる事多し、弓を學ぶにも、たゞ的にあたることを詮とし、強弓をひく事をのみよしとす、此二つはいかにも弓の肝要にはあれ共、實用はあながちこれらのみにも限るべからす、其外にも、敵をうけたる時、防くにも攻るにも、これを用ひて、利方おほからんやうを考ふべし、又馬を乘ルとても、たゞ馬にばかりいかほどよく乘ても、實用には益すくなし、たゞ馬上にての働きを心がくべし、馬に乘るほどの人は、今の世の火消などの如く、たゞ下知ばかりをして濟ム物と思ひては、大に違ふべし、軍書を見て、むかしの馬上の働きを知べき也、すべて武術を稽古するには、何によらず、皆此心がけ肝要たるべき也、

24 ○武道軍術のためには、とかく軍談の書を常々見るがよきなり、それも源平盛衰記太平記などの類は、おもしろくはあれ共、よほど時代ふるき故に、近世とはもやうの違ひたる事多し、たゞ足利の代の末つ方の戰のやうをよく考ふべし、殊に織田豐臣の御時代の軍は、古今にすぐれて、たぐひなく巧者なるもの也、大かた武士は、つねづねかの時代に在て、かの戰の中にまじり居る心持になりて、武道をば心がくべき事也、さて唐土の通俗の軍書共は、見て益すくなし、國の模様も大にかはり、時代も遠ければ、間(マ)にあはぬ事のみ多し、かの國の古ヘの名將共の、大利を得たる計策など、今の人に用ひて、心やすく欺かるゝ物にあらず、其外すべて唐土は、軍法議論などは道理をつくして尤に聞え、甚巧者なるやうに見ゆれ共、實用に至ては、さやうにもあらず、軍の仕方は、此方の近代にくらぶれば、大きにつたなし、然るを世人の心に、唐土といへば、軍の仕方も格別に妙なるべきもののやうに思ひ、又殊の外大國と心得、それに應じて軍勢も、甚大軍なるべきやうに心得て、おぢ恐るゝは、皆大なるひがこと也、まづ彼國をひたすら大國とのみ心得るも、料簡違ヒあり、其故は、國の廣さは、いかにも甚廣き事にて、日本の十陪〔ママ〕などよりも過たれども、然れ共日本にくらぶれば、いづくもいづくも空虚の地多くして、廣さ相應には、田地も人民もすくなく、物成リもいとすくなければ、軍もさのみ格別の大軍なることもなし、これみな世々の書にのせたる、彼國中の戸口の數、軍賦の數などを見ても、よく知らるゝこと也、既に豐臣太閤朝鮮御征代の時、唐土よりの加勢の軍などをも、此方の人は、或は五十萬百萬などと聞て、おびたゝしきことのやうにいひふらしつれども、大なる相違にて、其時の軍兵、始終十萬にも過たることはなし、それ程の軍兵も、大抵の事にては、かり催しがたくて、いろいろと世話をやきて、やうやうに催し立チたるところ、右のごとくなりし、これ皆彼國の書共に見えたる事也、さてかの時の戰ヒは、此方にも小西の如き、臆病神のつきたりし衆もありつればこそ、まれまれには負ケ軍もありつれ、左様の聞懼(キキオヂ)だにせずは、始終毎度十分の勝たるべし、さて加藤主計頭殿の、蔚山に籠城せられし時に、明(ミン)の寄セ手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど嚴重なりし事にて、朝鮮の諸人驚き感じて、たのもしく思ひ悦びしが共、久しく攻て、つひに彼城を落すことあたはず、あまつさへはてには、行長が後詰に切リ立チられて、蜘の子をちらすが如く、とる物もとりあへず、我先キにと逃ケ去リしは、あさましかりける有様なりき、すべて唐土は何事もみなかくの如くにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、實用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし、殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、彼國の書に見えたるを、それさへ右の如く、あさましき敗軍に及びたりしを思ふべし、又此方戰國のころ、西國邊あふれ者共、唐土へ渡りて、濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と稱して、殊の外に恐れ、毎度大に手にあまりて靜めかね、國中の大騒動なりし事也、これ此方にては、世の人も一向しらざりし程の事にて、たゞわづかのあふれ者のしわざにて有しすら、彼國にては右のごとく、毎度大きなる騒ぎなりし、これを以ても、唐國の軍法の拙く弱き事を知るべし、然るを例の唐びいきの儒者などの、ひたすら彼國の軍法などをほめあげ、高ぶりて、武士をおどすは、いとをかしくかたはらいたき事也、吾日本は、ありがたき神威の護リの嚴重なる事は、申すに及ばず、國の殷富、田地人民の甚多きこと、外國のかけても及ぶところにあらず、殊更御當代、天下諸國の蕃鎭の盛大なる、今たとひ武備は少々おこたり有といふ共、なほ甚堅固なれば、たとひ他のいかやうの大國より、寇賊來るといへ共、さのみ畏るゝにはたらず、ゆめゆめ聞キおぢなどすべきにあらず、これ又武士の常に心得居るべき事にて、西國方は申すに及ばず、何方にても、海面を受たる國々は猶更也、凡そ天下の大名たちの、 朝廷を深く畏れ厚く崇敬し奉り給ふべき筋は、 公儀の御定めの通りを守り給ふ御事勿論也、然るに 朝廷は今は、天下の御政をきこしめすことなく、おのづから世間に遠くましますが故に、誰も心には尊き御事は存じながらも、事にふれて自然と敬畏のすぢなほざりなる事もなきにあらず、抑本朝の 朝廷は、神代の初メより、殊なる御子細まします御事にて、異國の王の比類にあらず、下萬民に至るまで、格別に有がたき道理あり、此事別卷に委く申せるが如し、されば一國一郡をも治め給はむ御方々は、殊さらに、此子細を御心にしめて、忘れ給ふまじき御事也、是レ即チ、大將軍家への第一の御忠勤也、いかにと申すに、まづ 大將軍と申シ奉るは、天下に 朝廷を輕しめ奉る者を、征伐せさせ給ふ御職にましまして、これぞ 東照神御祖(アヅマテルカムミオヤノ命の御成業の大義なれば也、さて又御武運長久、御領内上下安靜、五穀豐登の御祈?にも、これに過たる御事あるべからず、その子細は、朝廷を畏れ尊み奉り給ふは、 天照大御神の大御心に叶い給ふ御事にて、天神地神の御加護厚かるべければなり、世間の學者たゞ漢流の道理をのみ説て、此子細をしらざるが故に、今ことさらに顯はし申す也、かの 水戸西山公の、格別に此御志シ厚かりし御事、大日本史を修撰し給へる御趣など、道の大本を辨へ給へるほど、まことに有がたき御心ばへなり、そもそも御子孫の中に、かばかり明良なる殿の出給へりしも、ひとへに 神御祖ノ命の御盛德の餘烈、 天照大御神の御はからひと、かへすがへすたふとく有がたき御事也、然れば御大名方、御自身の御心得は申すに及ばず、御家中の人々迄にも、此子細をよく仰渡されて、つねづね相愼みて 朝廷を畏れ奉るべきやう、又公卿官人たちも、其祿こそ輕けれ、ほどほどに官職を帶て、皇朝にしたしく仕奉り給ひ、其重き御禮典をも執行ひ給ふ人々なれば、貴き御方々は申すに及ばず、末々の官人衆に至るまでも、ほどほどに厚く敬禮を加ふべき御事也、その祿うすく身分の輕きをあなどりて、あなかしこ非禮あるべからず、たとひ輕き人にても、官人は 皇朝に仕奉る人也、然るに今の世大かた、堂上の御方々をば厚く敬することなれ共、地下と申す官人衆をば、その祿うすく身分の輕きをあなどりて、物の數とも思はぬやうなるは、いとあるまじき事也、祿のうすきは、亂世にみな武士に奪ヒ取られたる故也、されば心あらむ人は、此所をよく思ひわきまへて、いよいよ大切に存ずべきこと也、

25 ○天下の神社は、古ヘはほどほどに、 朝廷より祭らせ給ふ御事にて、諸國の小社までも、その國ノ守のうけ給はりて、祭られし事なるに、今は天下の事、 大將軍家の執リ行はせ給ふ御代にて、諸國の神社の御事、 朝廷よりは御力及ばせ給はねば、其國々を治め給ふ御方々の、ねんごろに祭り給ふべき御事也、然るに中比久しき兵亂によりて、天下の神社大に荒廢し、祭典もすたれ、或は其社跡もなく絶はて、又存在せるもそれと分れずなど、惣じて神社は、いみしき衰微なるを、治平の御代に復(カヘ)りては、御再興ありしもあれども、猶あまねくは御手の及ばざるにや、今に至るまで、すたれたるまゝなるが多きは、いともいとも歎かはしき事なり、今時惣體大名の、領内の神を祭り給ふさまはたゞ戰國の比の風にて、おろそかなる事也、今の世國家の繁昌、諸大名の盛大なる勢に應じては、神社はいかほど興立し給ひても宜しき事なるに、神國の實にも似ず、神社の衰へたる事は、返す返す歎かはしきことなり、そもそも神を敬ひ祭る事は、たれもよく知たる事にはあれども、まことの道の根本の子細をしらざる故に、世人の思ふところは、猶甚おろそか也、別卷に其子細は委しく申せり、今かくめでたき治平の御代久しくつゞけるに付ては、大名方はいよいよ、領内領内の神社を興立し、厚く祭り給ひ、殊に式内の社などは、御自身もをりをり御参詣あるべき御事也、殊に又尾張に田ノ大神、紀の國に日前國懸ノ兩大神、出雲に杵築ノ大國主ノ大神などの類、其外もかやうの殊なる由緒まします大社は、なほさら其領主領主の、大切に厚く敬祭し給ふべき御事也、むかし神領なりし地も、中比の兵亂に、みな奪ひ取られ給ひて、今は大名の領地となれる所多ければ、その御冥加のためばかりにも、なほざりには有まじき事也、其外御武運長久の御ためにも、國内安全のためにも、五穀豐登のためにも、かならず神を厚く祭り給ふ御政あらまほしくなん、さて又領内村々の産神、城下町々の神社など、領主より祭り給ふほどの神社にはあらず共、命令を出されて、其所々の神社を隨分大切に致し、神事を麁略に致すまじきよしを、つねづねねんごろに示し給ふべき御事也、然るに當時は惣じて、神社神事などの、上(カミ)の取扱ひ甚おろそかにて、村々町々の神事などは、假令のいたづら事のやうに心得て、これを押へ、輕くすべきやうにいひつけ、下々にても、神事に物入多きは、無益の費のやうに心得る者もあるは、皆甚しきひがこと也、何事も神の御めぐみ、御守りにあらでは、世によき事はなし、困窮して苦しくは、いよいよ神をば厚く祭るべきこと也、然るを世に儉約といへば、まづ第一に此神事、或は先祖の祭より省略せんとするは、いかにぞや、抑今世上一同に、次第次第に華美になり、奢リ長じたることなれば、それに准じて、神事をも次第に華美に丁寧にすべきは、あたりまへ也、己が身分のみ奢リを增して、神を祭る事をば、增さずしてはいかゞ也、たとひ身分の事をば、昔にかへして萬を省略すとも、神事のみは、次第に加へ增さんこそ本意ならめ、又神事に、風流俳優などをなし、或は酒を飲み遊ぶを、無益の事と思ふも、大にひが事なり、神に物を供じて祭るのみならず、人も同じく、飲食し面白くにぎはしく樂み遊ぶを、神は悦び給ふこと也、これらの子細は、通例の學者、又神道者なども、夢にもしらざる事にて、世間共に大に料簡違ある事也、惣じて世間の人のよき料簡と思ふは、みな唐流の理窟なる故に、其中には、まことの道理にかなはざる事も多し、領主たる御方、并ニ役人中なども、國のためを思ひて、災害おこらず、凶事無く、上下共に安全に榮えて、長久ならんことを願ひ給はば、これらの根本の所の心がけ、大切なるべき御事にこそ、

天明七年十二月

附録 活字板祕本玉くしげの序
かうやうのすぢの書(フミ)くさぐさあれども、みな鹽沫(シホノアワ)の凝(コリ)て成たる漢書(カラブミ)にくちあひまじこられたるひとどもの、おのが精進(サカシラ)ごゝろよりあげつらひ定めたるなめれば、うちきくにはさてこそとおもはるれど、取行ひたらむには、民のうれひ國のそこなはるゝことのみおほくて、いと味氣(アヂキ)なかるべし、かけまくもあやにかしこき現神(アキツカミ)吾大皇の神ろぎ神ろみの尊、八百萬の神たちを高天原に神集え(ツドヘ)々たまひ神議(ハカリ)々たまひて、天地の依相之極(ヨリアヒノキハミ)遠(トホ)く長く堅石(カキハ)に常磐に動(ウゴ)くまじくさだめたまへりしおほむ政のおほん法(ノリ)を、古き大御書等(フミラ)によりてさとり明良目(アキラメ)、今の大御代のおほむ形勢(アリサマ)を深くおもひ遠くはかりて、本居の大人のあきいでたるこれの書はも、野中の淸水ぬるきやうなれど、おこなひたらむには、よきこやしいれたる廣田の若苗(サナヘ)の、ひにけにみどりそひつゝさかゆく如くに、靑人くさの榮え行なむこと疑(ウツ)なし、然而(サテ)かくありがたくたふとき書、うつし卷にてよに乏しくまれなりけるを、こたびわが大御神に同じく仕奉る祝部雄、うゑもじのすりし此書、いはまくもゆゝしき今の現(ウツツ)に、天地八方(ヤモ)にてりとほり大まします天照大御神、珍(ウヅ)の大御子現神吾大皇に依(ヨサ)したまへる大御民を、徒(タダ)にあづかり奉(マツ)りてあらむは、大御神の御照覽(ミソナハシ)、天皇(オオキミ)の御念(オモホシ)めさむ大御こゝろも甚恐懼(イトカシコ)し、いかでやすらかにたひらかにをさめまし、樵(キコリ)にもとひ、くさかりにもきゝて、よきたばかりごともあらばと、寐てもさめてもおきふしにも憂ひおもへる國の守、はたその事執(ト)れる人などの許に洩ゆきたらむには、いかにうれしかるべき、さてはかくひにけにかゞふりてあるおほむめぐみの、千々のひとつもむくへ奉るこゝろにひとしからざらめや、あなかしこあなたのし、
 嘉永四年といふとしのう月廿三日
座摩宮社務
從五位上渡邊近江守都下朝臣資政
(刊記) 嘉永四年五月 座摩宮祝部 薑園藏

附録 玉くしげ別本序

こは曽祖父宣長翁の、ゆゑありて紀の國のかうの殿、大納言の君のおまへに奉りたる書にて、もとより學の道の書にあらず、世に廣く見すべきものにもあらねば、久しく文筐の底にひめおきしを、先つ年浪花にて活字の板にものすることとなりにたれど、うゑもじなれば誤もあり、はた世にそのすり卷多からず、翁のかゝれたるもの、これのみ正しき摺卷ならぬが口惜しとて、此ごろ人々のすゝむるに、もとよりおのが心もおなじければ、やがてひとわたりよみ校へて、かくすりまきとはなしつるなり、なほ詞のさとびたる、はた徳川氏のことをいへる處々に、いかにぞやおもはるゝ書ざまもあれど、そのかみの世にして、ことに紀の殿に奉れるものにて、正しくみやびにとつとめたるものならねば、今あらためむも中々ならんと、さておきつ、
 明治三年三月
                                平朝臣豐穎
(刊記)    本居氏藏板
明治四辛未年官許

【本居宣長『玉くしげ』秘本玉くしげ別巻 現代語訳】
・玉くしげの序
この書物は、我が鈴屋大人が、ある国の君に、道の概要について、今の世を諭すための詞で、誰でもたやすく理解できるように書いて、奉られた書であるが、下書きが、名の由来である櫛箱の底に残っていたのを、この里の広海がお願いして出して、版木に彫り付けたのについて、私に一言を付け加えよと言われるままに、書き付ける。そもそも我が大人の、導きのおびただしい功績は、言うも愚かであるが、それでも少々いうと、この真実の道は、外国の書物の、うわべは良い誤謬と共に、かき消されて、あの須佐之男命が、勝ち誇って荒々しく振舞われた際に、天照大御神が、恐れ多くも天の石屋に篭られて、世の中が常に夜のようになったかのように、光を見る人も泣く八百年千年と長い年月を経ているうち、思いかねて神の御心があったのであろうか、この大人が深く慮り遠大に考察し、そのままに会得なされた、その真実の意味よ。長鳴鳥の声が高く遠く、天下に響き渡って、世間の人がみな秋の長い夜の夢から覚めて、朝日を仰ぎ見るようだ。朝日の光は、美しい事だ繊細なことだ、明るい事だ尊い事だ。時は寛大な政治、すなわち寛政と元号が改まって、天下が喜び栄える始めの年の春半ば。このように言うのは。
尾張の殿人 横井千秋

・玉くしげ
この書物は、ある御方に、道の概要や今の世の心得を書いて奉ったものである。それに歌を詠んで書き添えたのであるが、その中の言葉を取って、このように名付けた。その歌は、
身におはぬしづがしわざも玉くしげあけてだに見よ中の心を
(不相応な賎しい者の行いですが、玉のような櫛箱を開けて中の心を御覧下さい)

真実の道は、天地の間に行き渡って、どの国にまでも、同じようにただ一筋である。そうであるのにこの道が、ただ皇国にだけ正しく伝わって、外国ではみな、太古から既にその言い伝えを失っている。そのために異国では、また別に様々な道を説いて、それぞれその道を正しい道のように申すけれども、異国の道は、どれも末梢の枝葉の道であり、根本の真実である正しい道ではない。たとえあちこちと似ている所はあるといっても、その煩瑣な枝葉の道の内容を交えて用いては、本当の道に適う事はない。
それではその一筋の根本である真実の道の内容を、大雑把に申し上げるには、まず第一に、この世の中の全体的な道理を、よく理解すべきである。その道理とは、この天地も神々も万物も、どれもことごとくその根本は、高皇産霊神・神皇産霊神と申す二柱の神の、産霊(むすび)の御霊と申すもので、成立し出来たもので、世の中に人類が生まれ出て、万物万事が成立したのも、みなこの御霊でないというものはない。したがって、神代の始めに、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の大御神が、国土万物や様々な神々を生み出しなさったのも、その根本は皆、あの二神の産霊の御霊によるものである。そもそも産霊の御霊と申しあげるのは、奇跡的で霊妙な神の御仕業であるので、どのような道理でそうなっているのかということは、全く人の知恵では、測り知ることはできない。それなのに外国では、正しい道が伝わっていないために、この神の産霊の御仕業を知らず、天地万物の道理もあるいは陰陽八卦五行などという理屈を立てて、これを説明しようとするが、これらはどれも、人智で推し量った妄説であり、実際にはそのような道理はないのである。
さて、伊邪那岐大御神は、女神(伊邪那美)がお隠れになられたのを、深くお悲しみになって、予美国(よみのくに、来世)まで慕って行かれたのであるが、この顕国(うつしくに、現世)にお帰りになり、その予美国の穢れに触れられたのを、お清めになろうとして、筑紫の橘小門の檍原で御禊なさって、清浄にお成りになった所から、天照大御神がお生まれになって、御父大御神の御委託によって、永く高天原を統治なさるのである。天照大御神と申し上げるのは、勿体無くもすなわち今この世を照らしておられる、天津日の御事である。そしてこの天照大御神が、その皇孫尊に、葦原中国を統治せよということで、天上からこの地に降し申し上げなさる。その時に、大御神の勅命に、「宝祚之隆当与天壌無窮者矣」(あまつひつぎはあめつちのむたときはかきはにさかえまさむ、「天津日嗣、すなわち太陽神の子孫は天地の限り栄えるであろう」)とある。その勅命こそ、道の根源大本である。
こうして大体の世の中の道理、人の道は、神代の段階での内容で、ことごとく備わっており、これから漏れ落ちたものはない。したがって真実の道を志す人は、神代の内容をよくよく研究して、何事につけてもその事跡を追求して、物の道理を知るべきである。その段階の内容は、どれも神代の古い伝説である。古伝説とは、誰が言い出したということもなく、ただ大変大昔から、語り伝えたものであり、すなわち「古事記」「日本書紀」で記されたものをいうのである。
そしてその二つの神典に記された内容は、大変明らかであり、疑いもないことなのに、後世に神典を説く者が、あるいは神秘口授などというものを作り出し、ありもせぬ偽りを説いて教え、あるいは異国風の理屈にばかりなじんで、神代の霊妙な趣を信じる事が出来ず、世の中の道理は、どれも神代の内容に備わっている事を理解できず、全く我が国の古伝説の内容を、理解できないで、あの異国の説の内容に依拠して処理しようとするから、その異国の言う内容に合わない部分は、どれも私的な料簡で、みだりに自分が好むように歪曲して、あるいは高天原とは、帝都を言うなどと解釈して、天上の事ではないとして、天照大御神も、ただ本朝の太祖でこの土地にいらっしゃった神人のように説明して、天津日ではない様に申す類は、どれも異国風の理屈に合わせて、無理にその内容を合致させようとする私事であり、古伝説を、殊更に狭小にして、その趣旨が広く行き渡らず、大本の意味を見失い、大いに神典の趣旨に背くものである。
そもそも天地は一枚であり、隔てはないので、高天原は、万国が同じく戴く高天原であり、天照大御神は、その天を統治なさる御神であらせられるので、宇宙の間に並ぶものなく、永久に天地の限りを余すところなく照らしなさって、四海万国にこの御徳光を蒙らないというところはなく、何れの国でも、その大御神の御蔭から漏れると、一日片時もやっていくことは出来ない。世の中で至って尊くありがたいのは、この大御神である。
そうであるのに、外国ではどこも、神代の古伝説を失ったために、これを尊敬し申し上げるべきであることを知らず、ただ人智で推し量った考えで、みだりに日月は陰陽の精であるなどと決め付けて、他にあるいは中国では、天帝というものを立てて、この上なく尊いものとし、その他の国々でも、それぞれに主として尊敬し崇めるものはあるが、それらはあるものは推し量った理屈で言っており、あるものは妄説を作って言っているものであり、どれもみな、人が仮に名をつけただけのものであり、実際には天帝も天道も何も、あるものではない。そもそも外国では、このように実体のないものばかりを唐頓画、天照大御神の御蔭が、大変尊く有り難い御事を、知らずにいるのは、大変情けないことであるのに、
皇国は格別の詳細があるので、神代の正しい古説が、詳細に伝わって、この大御神の御由来も窺い知ることが出来、これを尊び申し上げる道理が分かるのは、大変有り難い御事でございます。
さて皇国は格別の詳細があると申したのは、まずこの四海万国を照らしなさる天照大御神が、お生まれなさった御本国であるため、万国の根本大本である御国であり、全ての事が異国より優れて素晴らしい。その一々は、申し尽くすことが出来ないが、まず第一に稲穀は、人の命を繋ぎ保って、この上もなく大切なものであるが、この稲穀が万国より優れて、比類ない点から、その他の事も準じて分かるであろう。
しかしながらこの国に生まれた人は、元から慣れているので、当たり前のことであるため、気がつかないのであろう、幸いに御国人として生まれて、これほど優れて素晴らしい稲を、朝夕に飽きるまで食べるにつけても、まず皇神たちのかたじけない御恩頼を思い申し上げるべきであるのに、それをわきまえる事すらなく過ごすのは、大変もったいない事である。
さてまた本朝の皇統は、すなわちこの世を照らしておられる、天照大御神の御末裔でいらっしゃって、かの天壌無窮の神勅のように、万々歳の末の代までも、変動なさることなく、天地のある限り伝わりなさる御事。まず道の大本であるこの一事が、このように、あの神勅の効験があって、実際に違わずにおられる事から、神代の古伝説が、虚偽でない事が分かり、異国が及ばないことも分かり、格別の詳細と申す事も分かるであろう。異国では、あのように小賢しくその道を説いて、それぞれ自国のみが尊い国のように申すけれども、その根本である王統が続かず、しばしば変動して、大変乱れていることから、万事言うところはみな虚偽・妄想であり、実際ではないことを推測できるであろう。
さてこのように本朝は、天照大御神の御本国であり、その皇統が統治なさる御国であり、万国の根本大本である御国であるから、万国共に、この御国を尊び戴き臣として服従して、四海の内はみな、この真実の道に依拠して従わずにはおられない理屈であるのに、今に至るまで外国では、全く上述の詳細を知ることはなく、ただなおざりに海外の一小島とばかり理解し、勿論真実の道がこの皇国にある事を夢にも知らず、妄説ばかり言っているのは、大変に情けない事で、これはひとえに神代の古伝説がないためである。
それにしても外国には、古伝説がないので、その詳細を知らないのも、致し方ないが、本朝には、明白に正しい伝説があるというのに、世の人はこれを知ることが出来ず、ただあの異国の妄説だけを信じて、その説に馴染み耽溺して、かえって詰まらない西方の国を尊び仰ぐのは、ますます情けない事ではないか。たとえ他国が勝っているとしても、縁のない他国の説を用いるよりは、自分の本国の伝説に従い依拠する事こそ、順当であるのに、ましてや異国の説はどれも虚妄であり、本朝の伝説は真実であるから尚更である。
そうは言っても異国風の生半可で小賢しい見識が、千年以上も心の底に染み付いて、その他を考えない世間の人であるから、今このように申しても、誰もすぐには信じないであろうが、総じて異国風の小賢しい料簡は、よく考えれば、逆に愚かであることだ。今一段高いところから考えて、真実の理屈は、思慮が及ばないものであり、人が思い測るところとは、大いに相違している事があるものだと言うことを、よく理解するべきである。
また異国の人が思っているように、本朝の人も、この御国を、ただ小国のように理解している点については、天地の間に行き渡っている真実の道が、このような小国にだけ伝わっているのはどういうことかと、疑っている人もあるであろうが、これまた生意気で小賢しい一面的な料簡であり、深く考えていないものである。総じて物の尊卑美悪は、その形の大小によるものではないので、国も、どれほど広くても、賎しくて悪い国があり、狭くても尊くて美しい国もある。その中で、昔から外国の様子を考えると、広い国は、大抵は人民も多くて強く、狭い国は、人民は少なくて弱いので、勢いに押されて、狭い国は、広い国に従属するから、自然と広いのは尊く、狭いのは賎しいように思われるが、実際の尊卑美悪は、広い狭いにはよらないのである。
その上一般に外国は、土地は広大でも、いずれもその広大さに応じてみれば、田地人民は大層希少である。中国などは、諸外国の中では、良い国と聞いているが、それすら皇国と比べると、やはり田地人民は、大変少なくまばらであり、ただ無駄に土地が広いだけである。これはあの国の書物に、時代ごとの総人口数・戸数を挙げているのを、本朝の戸数・人口数と比べたら、よく分かる事である。また今現在、本朝の国々で、同じ一つの国という扱いであっても、土地は広くて、人民や生産高が少ない所もあり、土地は狭くても人民や生産高は多い所もあることを考えると、総じて土地の広い狭いには拘ってはならないことが分かるであろう。昔に大国・上国・中国・下国、大郡・上郡・中郡・下郡と分けて定められたのも、必ずしも土地の大小には拘らなかったのである。そうであるのに昔から世間の人は、これを理解しておらず、ただ土地の広さ狭さで、その国の大小を決めているのは、当たらないのである。皇国は昔から、田地人民が大変多く稠密であるのは、全く異国には類ないため、この人口や生産高で考える時は、大変な大国であり、特に豊饒・殷富・勇武・強勢であることは、どの国が及ぶ事が出来ようか。これまた格別な詳細であり、何事も神代から皇神たちが、このように尊卑優劣を定めておかれたものである。
そうであるのに近年の儒者は、ひたすら中国を褒めて尊び、何事もどれもあの国が優れているように言い、恐れ多くも皇国を見下す事を、見識が高いものと思い、殊更にみだりに賤しめ貶めようとして、あるいは本朝は昔に道はないと言い、総じて文化が開けたのも、中国よりはるかに襲いと言い、あるいは本朝の古書は、「古事記」「日本書紀」と言っても、中国の古書に比べると、はるかに後世の作品であるといって、古伝説を否定し、あるいは「日本書紀」の文を見て、太古の事はみな、構成の作り事だとけなす類は、これらはどれも例の生半可な小賢しい、上辺だけの一面的な議論であり、詳細に考察していないものである。その上に中国の書にばかり馴染み惑わされて、他にも国があることを知らないものであるから、逆に見識も大変卑小になることではないか。またこのように他国を主として、自分の本国を関心の外とするのは、自分が依拠する孔子の意志にも、大変背いている事である。
全く上述の議論が、当たっていない事を言うには、まず皇国の昔には道がないというのは、こちらに真実の優れた道があることを知らず、ただ中国の道のみを道と理解している間違いである。あの中国の道などは、末梢の枝葉であるから、ともかく、それに関わるべきではない。また文化が早くから開けたと言って、中国を優れていると思うのも、間違いである。早く文化が開けたように見えるのは、全ての事が早く変化したのであって、これはあの国の風俗が悪く軽薄であるためである。何故かと言えば、あの中国は、太古から人心が生半可に小賢しく、物事が古い事を尊ばず、ひたすら自分の思慮工夫で、改め帰るのを良いとしている国の風俗であるから、自然と世の中の様子は、時代ごとに速やかに移り変わったのである。しかしながら皇国は、正直重厚な風儀であり、何事もただ古いままを守り、軽々しく私的な知恵で改める事をしなかったために、世の中の模様が時代ごとに移り変わる事も、自然と速やかにはならなかったのである。この重厚な風儀は、今もなお残っているのである。なおこの変化の遅い早いの優劣を言えば、牛馬鶏犬などの類は、生まれてから成長するのが大変速いのに、人間はこれらに比べると、成長するのが大変遅い。これらに準じて考えると、優れたものが、変化するのが遅いと言う道理もあってしかるべきである。またあの成長するのが速い鳥獣などは、命が短く、人は成長が遅くて、命が長いのを見ると、世の中の様子が、移り変わるのが早いところは、その国の命は短く、移り変わるのが遅い国は、存続する事が永久であろう。その証拠は、数千年を経て後に分かるであろう。また古書について、その選定された時代で論じるのも、上辺だけの事である。その理由は、上述したように、中国は生半可に小賢しく、私的な知恵を振るう国の風俗であり、その古書も、それぞれ作者の自分の心から書き出したので、その時代に応じて、古い新しいの優劣があるのであるが、皇国の昔は、重厚な風儀であり、全ての事に、自分の小賢しい知恵を用いず、軽々しく古いものを改める事はしなかったので、古伝説も、ただ神代から語り伝えたそのままで、伝わってきたのを、その古伝説のままに書き記されたのが、「古事記」「日本書紀」であるので、あの軽薄な中国の著した書物と同じように、時代で論じるべきではない。選録された時代こそ後であるが、その伝説の内容は、神代のままであるから、中国の古書よりは、逆にはるかに古いことではないか。ただし「日本書紀」は、中国の書籍の有様を羨んで、漢文で文飾したものであるから、その文によって解釈する時は、疑わしい事が多いであろう。したがって「日本書紀」を見るには、文には関わらず、「古事記」と比べてみて、その古伝説の趣旨を知るべきである。大体上述の詳細をよく理解して、決して儒者たちの生半可で小賢しい議論には、惑わされてはならないのである。
さて世の中のあらゆる、大小の様々な事は、天地の間に自然とあることも、人の身の上のことも、行うことも、どれもことごとく神の御霊によるもので、神の御計らいであるのだが、総じて神には、尊卑善悪正邪とさまざまであるので、世の中のことも、吉事善事ばかりではなく、凶事悪事なども混じって、国の乱れも時々は起こり、世のため人のために良くない事なども行われ、また人の禍福などが、正しく道理に当たらない事も多いのは、これはみな悪い神の仕業である。悪い神と申すのは、あの伊邪那岐大御神の御禊の時、予美国の穢れから出来た、禍津日神と申す神の御霊によって、様々な邪悪な事を行う神々であって、そのような神が盛んに荒々しく振舞う時は、皇神たちの御守護の御力も及びなさらない事もあるのは、これは神代からの習いである。
そして正しい事や善い事ばかりではなく、このような邪悪な事も必ず混じるのは、これもまた然るべき根本の道理である。これらの内容も皆、神代から決まっており、その事は「古事記」「日本書紀」に見られる。その詳細な内容は、「古事記伝」で申しており、長くなるので、ここでは言い尽くせない。さて予美国の穢れというのについて、一つ二つ申すべきである。まず伊邪那美尊がお隠れになり、その予美国にお行きになられたのであるが、黄泉戸喫(よもつへぐひ)と言って、その国で作られたものを召し上がられた穢れによって、永くこの顕国にお帰りになることは出来ない。この穢れによって、ついに凶悪の神とおなりになって、その穢れから、あの禍津日神はお出来になったので、その道理をよく考えて、世の中で大切に忌み慎むべきものは、物の穢れである。
さて世の中の人は、貴い人も賎しい人も善い人も悪い人も、みなことごとく、死んだら、必ずあの予美国に行かないわけにはいかず、大変悲しい事であります。このように申すと、ただ大変そこが浅く、何の道理もないように聞えるが、これこそ神代の真実の伝説であり、霊妙な道理のそうさせるものであるから、生半可な平凡な知恵で、とやかく考察議論すべきものではない。それなのに異国では、様々な道を作り、人の生死の道理も、大層面白く小賢しげに説いているのだが、それはあるいは人の知恵で推し量った理屈を言っており、あるいは世間の人がもっともであると信じられるように、都合よく作ったものであり、どれも面白く聞えるが、どれも虚構な妄想で、真実ではない。総じて人が小賢しく作った説は、もっともらしく聞え、真実の言い伝えは、逆に底が浅く、愚かなように聞えるものであるが、人の知恵は限界があり、測り知れない所が多いので、全くその浅はかで愚かに聞える事に、逆に限りなく深い神妙な道理はあるのであるが、及ばない平凡な知恵でこれを疑い、あの作り事で、もっともらしく聞えるほうを信じるのは、自分の心を信じると言うもので、逆になんとも愚かな事である。
そして死んだら、妻子眷属朋友家財や万事を振り捨てて、慣れたこの世から永遠に別れさって、再び帰ってくることはできなず、必ずあの穢れた予美国に行くのであるから、世の中に、死ぬということほど悲しいものはないのに、あの異国の道では、あるいはこれを深く悲しんではならない道理を説き、あるいはこの世での所業の善悪、心を裁くことによって、死後にどうなるかを、色々と広く詳しく説いているので、世間の人はみなこれらに惑わされて、その説をもっともなものと思い、信仰して、死を深く悲しむのを、愚かな心の迷いのように思っているから、これを恥じて、無理に迷わないふり、悲しまない様子を見せ、あるいは辞世などといって、大げさに悟りを極めたような言葉を残したりなどするのは、どれも大変な偽りの作為であって、人情にそむき、真実の道理にかなわぬことである。それにしても喜ぶべきことを、それほど喜ばず、悲しむべきことも、それほど悲しまず、驚くべきことにも驚かず、とにかく物に動じないのを、良い事として尊ぶのは、どれも異国風の虚偽であって、人の真実の情ではない。大変わずらわしいことである。中でも死は、特に悲しくなくてはいられないもので、国土万物を生み出し、世の中の道をお始めになった、伊邪那岐大御神ですら、あの女神(伊邪那美)がお隠れになられた時には、ひたすら小児のように、なき悲しみ焦がれなさって、あの予美国まで、慕ってゆかれたのでなかったか。これこそ真実の人情であり、世の人も、必ずそのようでなくてはならない道理である。そのため、太古においてまだ異国の説が混じらない以前、人の心がまっすぐであった時には、死後にどうなるかという理屈などを、あれこれと工夫するような、無益な小賢しい料簡はなく、ただ死んだら予美国に行くのだと、道理のままに考えて、泣き悲しむよりほかはなかったのである。もっともこれらは、国政などには必要ない内容であるが、皇神の道と異国の道との、真偽の区別にはなるべきであろうことである。
さて世の中に悪いことや邪なこともあるのは、みな悪い神のせいであるということを、外国では知らず、人の禍福などの、道理に当たらないこともあるのを、あるものはみな因果応報と説き、あるものは、これを天命天道と言って済ますのである。しかし因果応報の説は、上述したように、都合よいように作ったものであるから、論ずるには及ばない。また天命天道というのは、中国の太古に、あの湯武などの類の者が、君主を滅ぼしてその国を奪い取る、大逆の罪を言い逃れるのと、道理のすまないことを、無理に済ませるための、こじつけ事だと知るべきである。もし本当に天命天道であるならば、何事もみな、必ず正しい道理のままであるはずなのに、道理にあたらないことが多いのは、どういうことか。結局これらもみな、神代の真実の古伝説がないため、様々に良いように作為したものである。
さて上述のように、善神悪神、それぞれ事を行いなさるので、時代を経る間に、善悪正邪様々な事があって、あるいは天照大御神の皇統でおられます朝廷すらも、ないがしろにし申し上げて、邪悪なことをほしいままにし、武威をふるった、北条足利のような逆臣も出た。そのような者にも、天下の人はなびき従い、朝廷は大いに衰えなさって、世の中の乱れた時がないわけではないが、しかしながら悪はついに善に勝つことはできず、神代の道理、あの神勅の根本が動揺するはずがないために、そのような逆臣の家は、ついにみな滅び去って、跡形もなくなり、天下は再び、めでたく太平の御代に立ち返り、朝廷は厳然として、動揺することはない。これはどうして人の力で行うことができようか。また外国が及ぶことができようか。
さて上述のように、中世に朝廷が大いに衰えなさったのは、天下の乱れによってであると思うのは、普通の考えであるが、実はこれは朝廷が衰えなさったため、天下は大いに乱れて、全ての事も衰えて廃れたのである。この道理をよく理解しないといけない。そもそもあの足利家の末期の時代は、前代未曾有の有様で、天下はずっと闇であるのと変わらず、全ての事は、この時に至って、ことごとく衰退して、本当に壊乱の至極であった。そうであるところに、織田・豊臣の二将が出現なさって、乱逆を鎮め、朝廷を立て直し申し上げ、尊び申し上げなさって、世の中はようやく太平に向かったのであるが、その後ついにまた、今のように天下がよく治まって、太古にも類まれなほどに、素晴らしい御代に立ち返って、栄えているのは、ひとえに東照神御祖命(徳川家康)の御勲功御威徳によるもので、その御勲功御威徳と申し上げるのは、まず第一に朝廷が大変衰えなさっているのを、あの二将に続いて、やはり次第に再興し申し上げなさり、いよいよますます御崇敬を厚くし、次々に諸士万民を落ち着かせ統治なさった、そのことである。この御盛業は、自然と真実の道にかなっておられ、天照大御神の大御心に叶いなさって、天神地祇も、徳川家への御加護が厚いために、このように御代は素晴らしく治まっているのである。このように申し上げるのは、ただ時勢にへつらって、かりそめに申し上げているのではない。現に御武運隆盛で、天下が久しく太平であるのは、いうまでもなく、前の時代にはいまだかつてなかった、素晴らしいことも、数々この御時代から起こっているなど、あれこれから、そうである事が分かるからである。
総じて武家による御政治は、あの北条・足利などのように、根本である朝廷を重んじ申し上げる事がかけていては、たとえどれほど仁徳を施し、諸士を良く従え、万民をよく落ち着かせ統治しなさっても、どれも私的な知恵による術策であって、道に叶っていない。これが本朝は、異国とは、その根本が大きく異なっているところである。その詳細は、外国は、長く定まった真実の君がいないので、ただ時々に、世の中の人を良く靡かせて従えた者が、誰でも王となる国の風俗であるから、その道として立てた内容も、その国の風俗によって立てたもので、君主を殺して国を簒奪する逆賊さえ、道にかなった聖人として仰ぐのである。しかし皇国の朝廷は、天地の限りを永遠に照らしておられる、天照大御神の御皇統であり、すなわちその大御神の神勅によって、決められなさったものであるから、万々代の後世といっても、日月が天におられる限り、天地が変わらない限りは、どこまでもこれを大君主として戴き申し上げて、畏敬し申し上げなければ、天照大御神の大御心に叶わず、この大御神の大御心にそむきもうしあげると、一日片時もやっていくことはできないからである。
そうであるのに中世に、この道に背いて、朝廷を軽んじ申し上げた者も、しばらくは子孫まで栄え驕った事もあったのは、ただあの禍津日神による禍であって、どうしてこれを正しい規範とすべきであろうか。それなのに世間の人は、この根本の道理、真実の道の趣旨を知らず、儒者などはちっぽけな知恵を振るって、みだりに世間の得失を議論し、何事にもただ異国の悪い風俗の道における内容を規範として、あるいは逆臣であった北条の政治などを、正しい道であるように論じるなどは、どれも根本のところが違っているので、どれほど正論のように聞こえても、結局は真実の道には叶っていないのである。下々の者は、たとえこの根本を間違えても、その身一代限りの過ちであるが、仮にも一国一郡を領有なさる君主や、その国政を担う人などは、道の根本をよく理解しておられなければならないものである。だから末梢の細かいことのために、中国の書物なども十分に学んで、利便によってその方面の知識も交えて用いなさっても、道の根本のところでは、上述の趣旨を、常々良く理解して、これを見失いなさってはならないのです。
総じて国が治まるか乱れるかは、下が上を畏敬するか、そうでないかとにあるので、上の人が、その上を厚く畏敬なされれば、下の者も、また次々にその上の人を、厚く畏敬して、国は自然とよく治まるのである。さて、今の御代と申し上げるのは、まず天照大御神の御計らいと、朝廷の御委任により、東照神御祖命から御次々の、大将軍家が、天下の御政治を施行なさる御世であり、その御政治を、また一国一郡と分けて、御大名たちがそれぞれこれを預かり御政治を行いなさる御事なので、その御領内の民も、全く私的な民ではなく、国も私的な国ではなく、天下の民は、みなこの時これを、東照神御祖命の御代々の末裔である大将軍家に、天照大御神が預けなさった御民である。国もまた天照大御神が預けなさった御国である。なのであの神御祖命の御定め事や、御代々の大将軍家の御掟は、すなわち天照大御神の御定め事であり御掟なので、特に大切にお思いになり、この御定め事や御掟を、背かず崩さないようによくお守りになり、国々の政治は、天照大御神から預かりなさった国政なので、十分に大切にお思いになって、民を育て宥めなさるのが、御大名のなすべき大切なことなので、下々の相手をする人々も、この趣旨をよくお示しになって、心得違いのないように、いつでもお気をつけられるべきである。
さて上述したように、世の中の様子は、万事全て善悪の神の御仕業であるので、良くなるのも悪くなるのも、究極のところは、人の力が及ぶことではない。神の御計らいのようでなければ、立ち行かないものであるから、その根本をよく理解なさって、たとえ少々国のために悪いことであっても、そのままできて改めにくい事を、急に除いて改めようとなさってはならないのである。改められないものを、無理に急に正そうとすれば、神の御意思に逆らって、逆に失敗する事もあるのである。一般に世間には、悪事凶事も、必ず混じらずにはおれない、神代の深い道理があるので、とにもかくにも、善事吉事ばかりの世の中にする事は、できないことだと知るべきである。
それなのに儒教の道などは、隅から隅まで掃き清めたように、世の中を善い事ばかりにしようとする教えであり、とてもできない無理な事である。だからこそあの聖人と言われた人々の世であっても、その国の中で、決して悪事凶事が無いという事は、できなかったのではなかったか。また人の知恵は、それほど素晴らしくても限界があり、計り知れないところは、どうしても測り知ることはできないのであるから、良かれと思ってする事も、実際には悪く、良くないと思って禁じることでも、実際にはそうでなく、あるいは今は良い事でも、将来のためには良くなく、今は悪い事も、後のためには良い道理もあり、人は知ることができない事もあって、全く人の料簡が及ばない事も多いので、とにかく世の中のことは、神の御計らいでなければ、叶わないものである。
それなら何事もただ、神の御計らいに任せて、良くも悪くも成り行きのままに放っておいて、人は少しもこれをいじってはならないのか、と思う人もあるだろうが、これもまた大変な間違いである。人も、人の行える限りを、行うのが人の道であり、その上に、その事が成功するかしないかは、人の力の及ばないところである、と言う事を理解して、無理な事はすべきではないのである。それなのにその行えることすらも行わず、ただ成り行きのままで放っておくのは、人の道に背く。
この事は、神代に定まった内容である。大国主命が、天下を皇孫尊に譲りもうしあげて、天神の勅命に帰順申し上げなさったとき、天照大御神・高皇産霊大神の仰せで、御約束があった。その御約束に、「今から、世の中の顕事(あらはにごと)は、皇孫尊がこれを統治なさるべきである。大国主命は、幽事(かみごと)を御管轄なさるべきである」とあり、これは万世不変の御定めである。幽事とは、天下の治乱吉凶、人の禍福などその他、全て何者がしているのか、明らかには分からず、密かに神がなされる御所業を言い、顕事とは、世間の人が行う事業であり、いわゆる人事であるので、皇孫尊である御主上の顕事は、つまり天下をお治めになる御政治である。このようにこの御契約に、天下の政治も何もかも、すべてただ幽事に任せるべきだとはお定めにならず、顕事は皇孫尊が御管轄なさるべきとあるので、その顕事がなされなくてはならない。また皇孫尊が、天下をお治めになる、顕事の御政治がある以上は、今これを分けてお預かりなさっている、一国一国の顕事の御政治も、またなくてはならないのである。これが人もその身分身分に合わせて、必ず行える範囲で物事を、行わねばならない道理の根本である。
さて世の中の事はみな、神の御計らいによるので、顕事といっても、結局は幽事に他ならないのであるが、やはり区別があるもので、その区別はたとえるなら、神は人であり、幽事は、人が働くようなものであり、世間の人は人形であり、顕事は、その人形が首・手足で、動くようなものだ。そのようにして人形が色々と動くのも、実は人が動かしていることによるのであるが、人形が動くのは、操る人とは別に、その首・手足などがあって、それが動いていればこそ、人形の効果はあるのである。首・手足もなく、動くところがなければ、何を人形の効果と言えるだろうか。その区別をわきまえて、顕事の役目も、なければならない事を知るべきである。
さてその大国主命と申すのは、出雲大社の御神であり、最初に天下を経営なさり、また八百万神たちを率いて、上述の御約束のように、世の中の幽事を司って実行する御神でいらっしゃるので、天下上下の人が、恐れ敬い尊び申し上げなくてはならない御神である。
総じて世の中の事は、神の御霊でなければならないものであるから、明け暮れにその御恵みを忘れず、天下国家のために、面々の身のために、諸々の神を祭るのは、大事なことである。善神を祀って幸福を祈るのは、もちろんのこと、また禍を免れるため、荒々しく振舞う神を祀って宥めるのも、古来からの道である。そうであるのに、人の吉兆禍福は、面々の心の正邪、行いの善悪によるものなのに、神に祈るのは愚かである、神はどうしてこれを聞くだろうかというように言うのは、儒者のいつもの議論であるが、このように自分の理屈ばかりを立てて、神事を疎かにするのは、例の生半可に小賢しい中国の見識であり、これは神には邪神もいて、よこしまな禍がある道理を知らないための間違いである。
さてあの顕事の国政の行い方や、全体的に人が行うべき事業は、どのようであるのが真実の道に叶うかというと、まず太古に、天皇が天下をお治めになっていた御方法は、古語でも、「神随天下(かむながらあめのした)しろしめす」と申し、ただ天照大御神の大御心を御自身の大御心として、万事、神代に定まったままに行いなさって、その中で、御心で決められない事がある時は、御占で、神の御心を問うて伺って行われ、総じて何事にも決して、御自分の御さかしらな御料簡を用いなさらなかった。これが真実の道の、正しい御方法である。その時代には、臣下たちも下々の万民も、同じように心が真っ直ぐで正しかったので、みな天皇の御心を心として、ただひたすらに、朝廷を恐れ慎み、お上の御掟をそのまま従って守り、少しもそれぞれの小賢しい料簡を立てなかったので、上と下とがよく息が合って、天下は素晴らしく治まったのである。それなのに西の外国の道を交えて用いられる時代になると、自然とその理屈っぽい風俗が移って、人々は自分の私的な小賢しい料簡が出てくるそのままに、下も上の御心を心としないようになり、全てのことが難しく次第に治めにくくなって、後にはついに、あの中国の悪い習俗とも、それほど変わらないようになった。
そもそもこのように、西の外国から、様々な事や様々な物が渡来して、それを取り入れたのも、すべて善悪の神の御計らいであり、これもまたそうなる筈の道理があるのである。その詳細を申し上げるには長くなるので、ここでは言い尽くせない。さて時代が移り変わるに従って、上述したように世の中の様子も人の心も変わっていくのは、自然の形勢であるというのは、普通の議論であるが、これはみな神の御仕業であり、実際には自然にそうなったのではない。そしてそのように、世の中の有様が移り変わるのも、みな神の御仕業であり、人の力が及ばないものであるから、その中に良くない事があるからといって、これを正そうとする時は、神の当時の御計らいに逆らうことになり、却って道の趣旨に叶わないのである。
だから今の世の国政は、今の世間の様子に従って、今のお上の御掟に背かず、これまでやってきたままの形を崩さずに、事跡を守って行うのが、すなわち真実の道の趣旨であって、取りも直さずこれは、あの太古の「神に従って治めなさった」趣旨に相当するのである。そして刑罰なども、許せる範囲では寛大に許すのが、天照大御神の御心であり、神代にそうした事跡がある。しかしまた時に及んで、止むを得ない事がある際の方法については、太古にも背く者がある時などは、沢山の人を殺してでも、征伐なさったように、これもまた神代の道の一部であるから、今でもそれに準じて、何事にも、その事その時の様子によって、然るべく御計らいなさるべきである。
次に下々の全体的な人の身の振舞い方については、まず一般に人と申し上げるものは、あの産霊大神の産霊の御魂によって、人が従事し行うべきである程度の力は、元から備わって生まれたものであるから、それぞれが必ず従事して行うべき事は、教えを待たなくとも、行えるものであり、君によく仕え申し上げ、父母を大切にし、先祖を祀り、妻子奴婢をかわいがり、他人ともよく交際するといった類や、またそれぞれの家業を務める事などで、どれも人が必ずしっかり行わなければならないものであるから、どれも生きている限りは、異国の教えを借りなくても、元来誰でもよく理解して、務めて行うことができるものである。
しかしその中にはやはり、心がけが悪く、上述の行いをしていない者も、世の中にはおり、人や世間にとって悪いことを、目論み行う者もいるのは、これまた悪神の仕業であり、そのような悪い者も、いないというわけにはいかないのは、神代からの道理である。人だけでなく、全てのものも、良い物ばかりそろうことはなく、中には悪い物も必ず混じるものであるが、その大変悪いのを、捨てる事もあり、直しもするのであるから、人もそうした悪い者を、教育し矯正するのもまた道であって、これはあの橘の小門(おど)の御禊での道理である。
しかし大体において神は、物事は大概、許すことができる事は、大抵は許し、世間の人が穏やかに打ち解けて楽しむのを、お喜びになるのだから、それほど悪くない者まで、なお厳しく矯正するべきではない。そのように人の身の行いを、余りに些細に正して、窮屈にするのは、皇神達の御心に叶わないので、多くはその利益はなく、逆に人の心が偏狭で小賢しくなり、多くは悪くなるばかりである。こうした教えが詳細である中国では、邪悪な知恵が深く姦悪な者が、特に多くて、時代毎に国が治まりにくい事から、その証拠が分かる。
それなのにその道理を知らずに、大部分の人を、厳しく矯正して、ことごとく素晴らしい善人ばかりにしようとするのは、あの中国風の無理な事であって、これは譬えるなら、一年の間を、いつも三月や四月頃のように、温暖であるようにだけするようなものだ。暑さ寒さは人も何も嫌がるものであるが、冬や夏の時候があることで、全てのものは生まれ育つのである。世の中もそのようなもので、吉事があれば、必ず凶事もあり、また悪がある事によって、善は生じるのである。また昼があれば夜もあり、富裕な人があれば、貧しい人もなくてはならない道理である。
そのため太古に道が正しく行われた時代でも、この道理のようであり、悪い人も各時代にいて、それはその悪事の軽重によって、お上もお許しにならず、人も許さなかったのである。しかしながら太古は、悪い人は悪いが、大部分の人は、心が素直で正しく、ただお上の御掟を畏怖し慎み守って、身分相応に、行うべき事を行って、世を過ごしていたのである。だから今の世でも、同じ事であって、悪事をする者は、その軽重によって、お上もお許しにならず、世間の人も許さないので、その他は、少々は道理に合わない事があるからといって、人をそれほど深く咎めるべきではなく、今の世間の人はただ、今の世の中のお上の御掟を、よく謹んで守り、自分の私的な小賢しさで決めた、異様な行いをせず、今の世の中で行える程度の事を行うよりほかにない。これこそすなわち、神代からの真実の道の内容である。ああ恐れ多いことだ。

本居宣長