『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』より学ぶ!日本の倫理観、美意識、そして叡智とは?

司馬遼太郎がその存在を知らず、一読して『福翁自伝』にひけをとらぬ内容、と驚嘆した自伝『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』。
戊辰戦争当時の長岡藩の筆頭家老で、河井継之助と幕末に対立し、藩の役職を追われた稲垣平助の六女・杉本鉞子が今回の対象です。

明治19年に15歳で単身上京し、23歳で結婚のために渡米。
和骨董店を営んでいた夫の死後に一時は日本に帰国したが、再び二人の幼い娘達を連れて渡米。
食べるために始めた雑誌“Asia”での連載が編集者の目に留まり、大正15年アメリカで『武士の娘』が刊行され、その年のベストセラー・リストに載ったばかりでなく『グレート・ギャツビー』と並ぶ売れ行きで、異例の8万部が世に出、その本は欧米8ヶ国語に翻訳され出版されています。
当時この本を読むと日本のことがわかるといわれた『武士の娘』は、アインシュタインやインドの詩人タゴールらに愛読され、日本文化論『菊と刀』の著者ベネディクトは、本書に触発されて日本研究に励んだ、とも言われています。
『武士の娘』以降3冊の本を書いた鉞子は、後年は米国コロンビア大学の講師を勤め、鉞子が住んだシンシナティの人々は彼女を「グレート・レディ」として敬愛したそうで、昭和25年に息をひきとるまで日米の架け橋となった程の人物ですが、アメリカでの評価と比べると日本では忘れられた無名の存在ともいえる女性。

武士道は古いという風潮が強まっていた明治期においても、侍の精神を疑うことなく守り続けていた稲垣家で厳格に育てられた鉞子の著した『武士の娘』は、自らの人生経験の中から静かで品位を失わない文章と、志操の高さ、謙譲と忍耐の精神と毅然とした姿勢が描かれ、子々孫々と受け継がれてきた日本の倫理観、美意識、そして叡智に溢れている自伝です。
そのため、現在に至るも世界で大絶賛されており、いまでも日本に来る欧米の留学生の多くは、福澤諭吉の『福翁自伝』と『武士の娘』から日本人の道義心と志操、精華する気質と美質を学び、必読の書としているといいます。

興味を持たれた方は、是非ご一読ください。

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『A Daughter of the Samurai(武士の娘) 目次』

序 章  エツ・イナガキ・スギモト
第一章 幕末維新に翻弄される父と娘
第二章 戊辰戦争と明治の稲垣家
第三章 婚約、そして東京へ
第四章 空白の五年間
第五章 アメリカへの旅立ち
第六章 フローレンス・ウイルソン
第七章 帰国
第八章 賞賛された「不屈の精神」
第九章 協力者の死と戦争への道
第十章 鉞子が遺したこと
終 章 黒船(The Black Ships)

『A Daughter of the Samurai(武士の娘) あらすじ』

序 章  エツ・イナガキ・スギモト

1898(明治31)年、アメリカ東部のある町。
大陸横断鉄道の列車が停まると、長袖の着物姿のうら若い日本人の娘が降り立った。
プラットフォームの人混みの中では、一人の日本人青年が汽車から降りてくる乗客を熱心に見守っていた。
お互いにすぐに相手に気がついた。
青年の第一声は「どうして日本の着物を着て来たのですか」と不満そうな言葉だった。

娘の名は稲垣鉞子、25歳。
鉞子は明治5(1872)年、越後の長岡藩の城代家老を代々努めてきた稲垣家の6女として生まれ、アメリカで貿易商を営む杉本松雄と結婚するためにアメリカにやってきたのだった。
鉞子が日本を発つとき、何を着ていくかが問題となり、親族会議まで開かれた。
兄は洋服で行くことを主張し、東京の叔父も賛成したが、祖母は物静かに、しかし威厳をこめて言った。

絵で見ると、あの筒っぽ袖は品が悪くて、まるで人足の着る半被のようですがの、私の孫が人足を真似るまでになる時節が来たかと思えば、情けないことですわい。
この席では一番偉い祖母の意見が通り、結局、洋服は米国へ行ってから夫の意のままにすることとして、花嫁の方では和服のみを用意することとしたのである。

松雄は世話になっているウィルソン夫妻の手前を思って、着物に関して不満を言ったのだが、鉞子を連れて行くと、夫妻は真心を込めて温かく出迎えてくれたのだった。

第一章 幕末維新に翻弄される父と娘

鉞子は一八七三(明治六)年、新潟県長岡市に生まれた。
生家の稲垣家は旧長岡藩の家老職を勤めた家柄で、父も国家老の一人であった。
明治になり禄と格式は失ったが、一家の日常にも地域の暮らしにも、まだ維新前の風俗習慣は色濃く残っており、そのなかで成長した鉞子は、江戸期の武家の躾(しつけ)や物の見方を身につけてゆく。

当時の稲垣家には、父母、曾祖母、すぐ上の姉、鉞子の他に、下男や女中もおり、末娘の鉞子は皆に「ヱツ坊」「ヱツ坊さま」と愛された。
この男児のような呼び名は、彼女が尼になるべき子とされていたためのもので、これは鉞子にとっては一種の幸運だった。
まだ男女の育て方がはっきりと分かれていた当時、鉞子は裁縫、生け花など女子本来の躾のほか、通常は男子の学問である漢籍の手ほどきを、尼になる準備として受けることができたのである。

師の僧侶と二人、冬でも火の気のない部屋で威儀を正して受ける授業は厳しいものだったが、鉞子はその重々しい空気も、難しい漢語の響きも好きだった。

もうひとつ鉞子が何より好きだったのは、お噺(はなし)を聞くことだった。
乳母や物識りの曾祖母が語ってくれる様々なお噺は、彼女の幼い胸を躍らせた。
こうして鉞子の好奇心や感受性は、当時の女の躾の枠に矯(た)められることなく、伸び伸びと成長していったのである。

鉞子の育った稲垣家は家老職の家柄だけあって、明治維新後とは言え、鉞子は幼い頃から厳格な躾をうけた。
数えで6歳、満で言えば4、5歳の頃から、家の菩提寺の僧が、3と7の日に家にやってきて、鉞子に四書、すなわち大学、中庸、論語、孟子を教えるようになった。
広い明るい、埃一つなく掃き清められた部屋に文机が置かれ、お師匠様は優しい顔でそこに座って、2時間ほどは手と唇以外は、身動き一つせずに講義をした。

数えわずか6歳の幼女が論語など分かるはずもなかったが、鉞子が時に何かを質問しても、お師匠様は「まだまだ幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分を越えます」「よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります」と答えるのみだった。

鉞子は何も理解できなかったが、音楽のような韻律のある言葉をあれこれと暗唱していった。
後に成長するにつれて、よく憶えている句がふと心に浮かび、雲間から漏れた日の光の閃きのように、その意味が理解できることがあった。
お師匠様と相対している間、鉞子は畳の上に正座したまま、微動だにも許されなかった。
ただ一度、ほんの少し体を傾けて、曲げていた膝をちょっとゆるめたことがあった。

すると、お師匠様の顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じて、やさしく「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。
お部屋にひきとって、お考えになられた方がよいと存じます」と言われた。

恥ずかしさの余り、鉞子の小さな胸はつぶれんばかりだったが、どうしたものやら判らないまま、お師匠様にお辞儀をして、部屋を退出した。
成人してからも、鉞子はこの時のことを思い出すと、古傷の痛みのように、心を刺される思いがした。

勉強している間は体を楽にしないということは僧侶の習わしであったので、それに従って寒三十日(1月5日頃の小寒から2月4日頃の立春まで)の間は、難しいことを、時間も長く勉強させられた。
特に最も寒さの厳しい9日目の「寒九」の日のことは忘れられない。

この寒九の日、東雲に暁の光がさし始めると、乳母のいしが鉞子を起こした。
肌を刺すようなきびしい寒さだった。
この日は習字の稽古をすることになっていた。
硯(すずり)、筆、墨などの道具を揃える。
学問は非常に貴いこととされていたので、用いる道具も、一つひとつ丁寧に絹の布で拭いてあった。

用意ができると、いしに背負われて、庭に出て、庭木の枝から雪をとり、これを硯に入れる。
庭は降ったばかりの真白い雪に一面覆われていた。
時折、雪の重みに耐えかねた竹が、鋭い音を立てて折れると、灰色の空にぱっと粉雪が舞い上がるのだった。

居心地をよくしては天来の力を心に受けることができないということで、火の気のない部屋で習字をした。
精妙な筆のあやには、心の乱れや不注意は覆うべくもなく現れるので、一点、一画にも心をこめて筆を運ばなければならない。
それを辛抱強く続けることによって、子供は自制心を身に付けていく。

長い時間習字をしていると、すっかり指が凍えて、手が紫色になった。
いしがそれを見てすすり泣きをしているので、鉞子は初めてその事に気がつくのだった。

稽古が終わると、いしは温めてあった綿入れの着物に鉞子をくるんで、急いで祖母の部屋に連れて行った。
祖母は温かくおいしい甘酒を用意しており、鉞子は冷え切った膝を炬燵に入れて、その甘酒をいただいた。

第二章 戊辰戦争と明治の稲垣家

鉞子を殊に愛した父は、不遇の時代にも明るさを失わない人物だった。
日本の将来に理想を抱き、新しい変化を進んで受け入れたが、自らが生きた過去の文化への深い敬愛も最後まで捨てなかった。
この父の開けた視野、物の考え方は、後の鉞子に大きな影響を与えたと思われる。

父はよく東京へ出掛けては、新しい文物の様子を家族に語って聞かせた。
珍しい舶来の土産もあった。
その中で最も鉞子を喜ばせたのは、当時出始めたばかりの子供向けの翻訳本であった。
この出会いは鉞子の中に、まだ見ぬ西洋への憧れを芽生えさせた。

そんな父が病で亡くなったのは、鉞子十歳の秋だった。

正月やお盆などの年中行事も厳格なしきたりに従ってとりおこなわれたが、その中には家族との楽しい一時があった。
盂蘭盆はご精霊さまをお祀りする日で、数々の年中行事の中で、一番親しみ深いものでありました。
ご先祖さまはいつも家族のことをお忘れにならないものと思い、年毎にみ魂をお迎えしては親しみを新たに感じさせられるのでありました。

ご精霊さまをお迎えする準備は、万事万端しきたりに従って、数日前から家中のものがたち働いた。
爺やと下男は庭木に鋏を入れ、床下まで掃き清め、庭石を洗う。
女中たちは柱や天井板までお湯で雑巾がけをする。
母がお納戸から父の秘蔵の軸を出して、床の間にかけると、女中がその前に花瓶を据えて秋の七草を挿した。

鉞子は祖母と一緒に、お仏壇の前に座り、飾り付けをする。
ナスとキュウリで作った牛と馬をお供えした。

どこの子供も同じことで、私もご先祖様をお迎えするのは何となく心うれしく感じておりましたが、父が亡くなりました後は、身にしみて感慨も深く、家族一同仏前に集いますと、心もときめくのを覚えるのでありました。
誰も彼も、召使達も質素ながら新調の着物を着ていました。
黄昏の色がこくなりますと、みあかしをともし、障子をひらき
入口の戸をあけひろげて、外からお仏壇への途をあけました。

それから大門の前に一同、打ち揃って、二列に並び、ご精霊様を待つ。
ご精霊様は何処とも知れぬ暗黒の死の国から、白馬に乗ってやってくるものと、言い伝えられていた。

街中が暗く静まりかえり、門毎に焚く迎え火ばかり、小さくあかあかと燃えておりました。
低く頭をたれていますと、まちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遙か彼方から蹄の音がきこえて、白馬が近づいてくるのが判るようでございました。

それからご精霊様との楽しい2日間を過ごす。

家の中は心楽しい空気に満たされ、わがままな業をする者もなく、笑いさえ嬉しげでした。
それも、皆が新調の着物を着、お互いに作法正しく、お精進料理を頂いて楽しみあうことをご先祖様も喜んでいて下さると思うからでございます。
祖母のお顔はいろいろ穏やかに母の面は静かなやすらいに満たされ、召使いまでが笑いさざめき、私の心の
中にも、静かな悦びが湧きあふれるのでございました。

16日の朝まだき、ご先祖様を送り出す。
母は蓆を二つに折り、両端を蔓で結んで舟を作った。
それにおにぎりや団子を入れ、皆で川に赴く。
川岸には、み送り舟を流そうとする人々がたくさんつめかけていた。
鉞子らは橋の上にいて、爺や一人が水辺に降りて、火打ち石で灯籠に火を灯し、舟を流れに浮かべる。
朝日の光が山の端から差し出ると、人々は一斉にみ送り舟を放した。

あたりの明らむにつれ、浮きつ沈みつ、小さな蓆舟が流れ流れていく様を、はっきりとみとることが出来ました。
朝日がいよいよ光をまし、山の端をのぼりきる頃、川辺に頭をたれた人々の口からは静かに深い呟きがおこるのでございます。

「さようなら、お精霊さま、また来年も御出なさいませ。お待ち申しております。」
こうして人々は家路につく。

母も私も、浄福とでも名付けがたい、穏かさを胸に湛えて、川辺を立ち去りました。
お盆を迎えて以来、にこやかにみえた母の面には、父を見送った後も、以前のような憂わしげな色は戻っては参りませんでした。
それをみるにつけましても、父は、私共のところへ参って慰め、また舟出をされた今も、私共に平和をのこして行って下さったのだと、しみじみ感ぜさせられたことでした。

第三章 婚約、そして東京へ

一家は深い悲しみに沈んだが、翌年の夏、父の病を米国で知った兄が、勘当の身を押して家族の元へと帰って来たのは大きな救いだった。

鉞子が物心つく頃から家を出ていたこの兄が、彼女の人生を大きく変えることになった。
鉞子十二歳のある日、大がかりな親族会議の結果、彼女の嫁ぎ先が決まったのである。
相手は杉本松雄という在米の青年実業家。
異国で病を得て困窮していた兄を、何くれとなく助けた友であった。

花婿不在の結納後、鉞子は主婦としての準備と躾に日々を過ごしていたが、松雄から渡米を請う手紙が届くと事態は一変した。
英語を学ぶため、急遽東京のミッション系の女学校に入学することになったのである。
鉞子、十四歳の春のことであった。

第四章 空白の五年間

雪解けを待って家を出た鉞子は、兄に連れられて越後を立った。
家族や友達との悲しい別れも、若さと持ち前の好奇心ですぐに乗り越えた鉞子だったが、東京での生活は初めての大きなカルチャーショックを彼女にもたらした。

言葉の発音の違い、派手な着物の流行、履物をぬがずに入る教室など風俗の違いに始まり、鉞子の耳には男の子のように思える言葉遣いの学友たちにも、大いにまごつかされた。
中でも驚かされたのは、外国人の若い女教師たちの様子であった。

お伽の国を連想させる外見に反して、鉞子には彼らが作法をわきまえない、威厳に欠ける教師に思われた。
また、彼らの前で自由にふるまい、うちとけて話し合う生徒達はあまりにぶしつけに感じられた。
武士の娘として厳しく躾けられ、軽々しく胸の内を人に明かさずにきた鉞子としては、無理からぬことであったろう。

だが、そんな保守的な物の見方も、日を追うごとにほぐれてゆく。
学友たちにも親しみ、教師らの気品ある明るさを知るにつれて、外国人教師と日本人教師の違いを肯定的に捉えるようにもなった。
学問にも情熱を燃やし始め、英語の原書を、辞書を繰る間ももどかしく読み耽っては、西欧の思想に触れる喜びを味わった。
英語や国語、歴史、聖書などを一心に学び、ことに旧約聖書は一番好きで、その中に出てくる英雄の生き方は日本の古武士と同じように思われた。

しかし鉞子は、新しく開けた世界に目を奪われるあまり、古いものを全て捨て去る愚を犯しはしなかった。
こうした生活の中で新しい物を受け入れてゆきながらも、鉞子は自分を育んだ文化を愛し、西洋と日本の文化の差異やその理由、両者の美点や欠点を、絶えず自らの中に問い続けたのである。

それはあたかも、日本の古い伝統と、変わりつつある新しい文化の流れが、一人の少女の中でぶつかり合い、鬩ぎ合いながらも、美しい融和を求めて混じり合おうとするかのようであった。

まさにこの時から、日本の、そして自らの、これからのあるべき姿を求める心の模索が、鉞子の中で始まったのである。

学校の校門をでると田畑が広がっており、天気の良い日には先生に連れられて田舎道へ散歩に出かけた。
八幡宮の苔むした玉垣のところで、先生は立ち停まって、葉のよく茂った桜の若木を指し示した。
その若木は老い朽ちた大木の洞(ほら)から生え出ていた。
その傍らの立て札には「千年の老樹の根から若桜」という句が書かれていた。
先生は微笑みながら言った。

この桜の木はちょうどあなた方のようなものですね。
古い日本の立派な文明は今の若いあなた方に力を与えているのです。
ですから、あなた方は勢いよく大きくなって、昔の日本が持っていたよりも、もっと大きい力と美しさを、
今の日本にお返ししなければなりません。
これを忘れないようになさいね。

鉞子は武家という「千年の老樹」の根から生え育った若桜として、異国の地に移り、そこで根を張り花を咲かせようとしていた。

第五章 アメリカへの旅立ち

鉞子は特に、西洋人教師たちの考え方の底に流れる、明るい希望に引かれるようになってゆく。
それは、満開の桜を愛でる心にも、散りゆくことを哀しむ思いがあるといった、日本人の哀感漂う感性とは大きく異なっていた。

同時に、厳しく教え込まれた男尊女卑の考え方と、それゆえに女性に課せられて来た忍従の習慣に対しても、幼い頃からの疑問と悲しみが頭をもたげ始める。

これらの思いは、彼女にキリスト教入信の道を選ばせた。
卒業までに、鉞子は家族の許しを得て受洗した。

こうして四年間の学業を終え、鉞子は単身でアメリカへ発った。
涙で故郷を出た十四歳の少女は、落ち着いた娘になっていた。

長い船と汽車の旅を経て、待ち受ける婚約者の元へ無事たどり着いた鉞子は、六月のある美しい日彼女をあたたかく迎える人々に見守られ、杉本松雄と結婚の式を挙げたのである。

第六章 フローレンス・ウイルソン

慣れないうちは心細く感じることもあった結婚生活も、次第に落ち着き、新しい環境を愛するようになると、鉞子の目は周囲のあらゆる物へ向けられた。
文化の差異に対する興味は、今や自ら異国文化を体験するに及んで、いよいよ増していったのである。

鉞子のこの好奇心を共に考え、時に導いて助けたのが、名家の未亡人、フロレンス・ウィルソンだった。
彼女は杉本夫妻と共に暮らし、終生一家のよき理解者であり、庇護者であったという。
夫婦が「母上」と呼んで慕ったこの女性との出会いは、鉞子の人生で最も幸運な出来事であった。

鉞子は様々な風習の違いに目をとめてゆく。
美の感じ方、お金に対する考え、雇用者と召使の関係など、初めて知る日米文化の差異は尽きることがなかった。
そんな時、鉞子はかつてと同じく、必ず「なぜ」と問い、同様の考えや誤解がもう一方の文化にもないだろうかと、よく考えてみるのだった。

このように、日本文化への愛情や誇りも決して失うことはなかった鉞子だったが、かねてから感じていた女性の生き方の違いについては、長いこと心を悩ませた。

運命を黙って受け入れることを女性の誇りとしてきた祖母や母の強さは、今も敬愛していた。
しかし、おおらかに感情を表現し、男性からも尊重されているアメリカ人女性の生活に比べると、日本の因習はあまりに極端で、女のみならず男にも苛酷なものに思われた。
だが、やはり自分の中にも、簡単には変わることのできない日本の考え方が根付いている……。
思い惑う鉞子に、アメリカの「母上」は優しく言うのだった。

「日本の花は日蔭に咲いた花なのですから、急に強い太陽にあてると、美しさもなくなり、雑草になってしまうかもしれませんね。
日本は今、朝なのですから、花は日光に当たってだんだん成長してゆきます。
そして、お昼頃にはかこいがすっかりとれますよ。
あまり急いで垣根をとりのけてはいけませんね」

第七章 帰国

そんな穏やかな生活の中で、鉞子は長女を出産。
夫との間にも以前にない深い絆が生まれ、幸せをかみしめた。
六年後には次女が誕生したが、その後、突然の不幸が一家を襲った。
夫松雄が病に倒れ、帰らぬ人となったのである。

鉞子は日本語も話せない娘たちの将来を考えて帰国を決意、懐かしい故国へ、幼い二人の娘の手を引いて戻って行った。

この後、鉞子は長女が十五になるまで日本に留まり、再びの渡米を前に、物語りは終わっている。
「武士の娘」が雑誌「アジア」に連載されたのは、再渡米後の一九二三年のことであった。

欧米文化の中に生活しながらも、鉞子は生涯を通じて武士の娘としての誇りを失わず、日本の新しい文化の姿を探り続けた。
日本人はあまりに性急に「垣根をとりのけて」しまったのではないか。
彼女の時代からずっと、私達は大切なものを知らずに失い続けているのではないか、鉞子の物語はそんな疑問をも投げかけてくるようである。
国際化に連れて混乱する現代にあって、私達がもう一度自らの文化について考え、これからの指針を探る時、鉞子の生き方は一筋の光のように私達のゆく道を照らしてくれるに違いない。