『富嶽三十六景』は、ご存じ葛飾北斎の代表的な風景画・浮世絵でして、このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版されました。
作中では異体字で「冨嶽三十六景」ないしは「富岳三十六景」と表記されることもありますが、当初は題名の通り36図が出版されたものの、非常に好評であったことから、10図が追加され、最終的に46図のシリーズとなりました。
『富嶽三十六景』に限らず北斎の作品は、日本のみならずゴッホやドビュッシーなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えたことで知られています。
現状につねに満足せず、改号すること30回、転居すること93回、生涯現役として描いた絵は3万点以上。
「世界第一の画工になる」と本気で宣言し、80歳を越えても「猫一匹も描けない。意のままにならない」と、悔し泣きをした、それが葛飾北斎でした。
北斎は、
「70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかり。
73歳になってようやく、さまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろう。
そして、100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。」
とまで言わしめた程、晩年の作品は圧巻の一言です。
※)晩年の作品については、改めて整理してみたいと思います。
89歳にしてこの世を去りますが、「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし 」(もうあと5年長生きできたら、本当の画工になることができたものを)
と、その極みはまだまだ高みを目指していたことが伺えます。
北斎の辞世の句には、こうあります。
「人魂で 行く気散じや 夏野原」(人魂になって、夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)
天晴れ、北斎!の一言ではないでしょうか!
『富嶽三十六景』
当初の出版は題名どおり、36図が「表富士」と言われるものです。
著名な「赤富士」をはじめ「神奈川沖浪裏」や「尾州不二見原」など、北斎の代表作がずらりと並んでいます。
「表富士」には、藍色を基調としたモノトーンの「藍摺絵」と呼ばれる作品が10図あります。
当時、ヨーロッパから鮮やかなプルシャン・ブルーの顔料が渡来し、北斎をはじめとする絵師を魅了しました。
「富嶽三十六景」は、最終的に46点が存在ます。
というものも「表富士」が爆発的な人気を博したことから、36図出版後に追加で「裏富士」とよばれる10図の作品が出版されたのです。