【源氏物語】 (漆拾肆) 朝顔 第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心

紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。

そんな今回は、「朝顔」の物語の続きです。
【源氏物語】 (壱) 第一部 はじめ

第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
 [第一段 朝顔姫君訪問の道中]
 夕方、神事なども停止となって物寂しいので、することもない思いに耐えかねて、五の宮にいつものお伺いをなさる。雪がちょっとちらついて風情ある黄昏時に、優しい感じに着馴れたお召し物に、ますます香をたきしめなさって、念入りにおめかしして一日をお過ごしになったので、ますますなびきやすい人はどんなにかと見えた。それでも、お出かけのご挨拶はご挨拶として、申し上げなさる。
 「女五の宮がご病気でいらっしゃるというのを、お見舞い申し上げようと思いまして」
 と言って、軽く膝をおつきになるが、振り向きもなさらず、若君をあやして、さりげなくいらっしゃる横顔が、ただならぬ様子なので、
 「不思議と、ご機嫌の悪くなったこのごろですね。罪もありませんね。塩焼き衣のように、あまりなれなれしくなって、珍しくなくお思いかと思って、家を空けていましたが、またどのようにお考えになってか」
 などと申し上げなさると、
 「馴じんで行くのは、おっしゃるとおり、いやなことが多いものですね」
 とだけ言って、顔をそむけて臥せっていらっしゃるのは、そのまま見捨ててお出かけになるのも、気も進まないが、宮にお手紙を差し上げてしまっていたので、お出かけになった。
 「このようなこともある夫婦仲だったのに、安心しきって過ごしてきたことだわ」
 とお思い続けて、臥せっていらっしゃる。鈍色めいたお召し物であるが、色合いが重なって、かえって好ましく見えて、雪の光にたいそう優美なお姿を御覧になって、
 「ほんとうに心がますます離れて行ってしまわれたならば」
 と、堪えきれないお気持ちになる。
 御前駆なども内々の人ばかりで、
 「宮中以外の外出は、億劫になってしまったよ。桃園宮が心細い様子でいらっしゃっるのも、式部卿宮に長年お任せ申し上げていたが、これからは頼むなどとおっしゃるのも、もっともなことで、お気の毒なので」
 などと、人々にもしいておっしゃるが、
 「さあどんなものでしょう。ご好心が変わらないのは、惜しい玉の瑕のようです」
 「よからぬ事がきっと起こるでしょう」
 などと、呟き合っていた。

 [第二段 宮邸に到着して門を入る]
 宮邸では、北面にある人が多く出入りするご門は、お入りになるのも軽率なようなので、西にあるのが重々しい正門なので、供人を入れさせなさって、宮の御方にご案内を乞うと、「今日はまさかお越しになるまい」とお思いでいたので、驚いて門を開けさせなさる。
 御門番が、寒そうな様子で、あわてて出てきて、すぐには開けられない。この人以外の男性はいないのであろう。ごろごろと引いて、
 「錠がひどく錆びついてしまっているので、開かない」
 と困っているのを、しみじみとお聞きになる。
 「昨日今日のこととお思いになっていたうちに、はや三年も昔になってしまった世の中だ。このような世を見ながら、仮の宿を捨てることもできず、木や草の花にも心をときめかせるとは」と、つくづくと感じられる。口ずさみに、
 「いつの間にこの邸は蓬がおい茂り
  雪に埋もれたふる里となってしまったのだろう」
 やや暫くして、無理やり引っ張り開けて、お入りになる。

 [第三段 宮邸で源典侍と出会う]
 宮の御方に、例によって、お話申し上げなさると、昔の事をとりとめもなく話し出しはじめて、はてもなくお続きになるが、ご関心もなく、眠いが、宮もあくびをなさって、
 「宵のうちから眠くなっていましたので、終いまでお話もできません」
 とおっしゃる間もなく、鼾とかいう、聞き知らない音がするので、これさいわいとお立ちになろうとすると、またたいそう年寄くさい咳払いをして、近寄ってまいる者がいる。
 「恐れながら、ご存じでいらっしゃろうと心頼みにしておりましたのに、生きている者の一人としてお認めくださらないので。院の上は、祖母殿と仰せになってお笑いあそばしました」
 などと、名乗り出したので、お思い出しになった。
 源典侍と言った人は、尼になって、この宮のお弟子として勤行していると聞いていたが、今まで生きていようとはお確かめ知りにならなかったので、あきれる思いをなさった。
 「その当時のことは、みな昔話になってゆきますが、遠い昔を思い出すと、心細くなりますが、なつかしく嬉しいお声ですね。親がいなくて臥せっている旅人と思って、お世話してください」
 と言って、物に寄りかかっていらっしゃるご様子に、ますます昔のことを思い出して、相変わらずなまめかしいしなをつくって、たいそうすぼんだ口の恰好、想像される声だが、それでもやはり、甘ったるい言い方で戯れかかろうと今も思っている。
 「言い続けてきたうちに」などとお申し上げかけてくるのは、こちらの顔の赤くなる思いがする。「今急に老人になったような物言いだ」など、と苦笑されるが、また一方で、これも哀れである。
 「その女盛りのころに、寵愛を競い合いなさった女御、更衣、ある方はお亡くなりになり、またある方は見るかげもなく、はかないこの世に落ちぶれていらっしゃる方もあるようだ。入道の宮などの御寿命の短さよ。あきれるばかりの世の中の無常に、年からいっても余命残り少なそうで、心構えなども、頼りなさそうに見えた人が、生き残って、静かに勤行をして過ごしていたのは、やはりすべて定めない世のありさまなのだ」
 とお思いになると、何となくしみじみとしたご様子を、心のときめくことかと誤解して、はしゃぐ。
 「何年たってもあなたとのご縁が忘れられません
  親の親とかおっしゃった一言がございますもの」
 と申し上げると、気味が悪くて、
 「来世に生まれ変わった後まで待って見てください
  この世で子が親を忘れる例があるかどうかと
 頼もしいご縁ですね。いずれゆっくりと、お話し申し上げましょう」
 とおっしゃって、お立ちになった。

 [第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす]
 西面では御格子を下ろしていたが、お嫌い申しているように思われるのもどうかと、一間、二間は下ろしてない。月が顔を出して、うっすらと積もった雪の光に映えて、かえって趣のある夜の様子である。
 「さきほどの老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないものの例とか聞いた」とお思い出されなさって、おかしくなった。今宵は、たいそう真剣にお話なさって、
 「せめて一言、憎いなどとでも、人伝てではなく直におっしゃっていただければ、思いあきらめるきっかけにもしましょう」
 と、身を入れて強くお訴えになるが、
 「昔、自分も相手も若くて、過ちが許されたころでさえ、亡き父宮などが好感を持っていらっしゃったのを、やはりとんでもなく気がひけることだとお思い申して終わったのに、晩年になり、盛りも過ぎ、似つかわしくない今頃になって、その一言をお聞かせするのも気恥ずかしいことだろう」
 とお思いになって、まったく動じようとしないお気持ちなので、「あきれるほどに、つらい」とお思い申し上げなさる。
 そうかといって、不体裁に突き放してというのではない取次ぎのお返事などが、かえってじれることである。夜もたいそう更けてゆくにつれ、風の具合が、激しくなって、ほんとうにもの心細く思われるので、体裁よいところで、お拭いになって、
 「昔のつれない仕打ちに懲りもしないわたしの心までが
  あなたがつらく思う心に加わってつらく思われるのです
 自然とどうしようもございません」
 と口に上るままにおっしゃると、
 「ほんとうに」
 「見ていて気が気でありませんわ」
 と、女房たちは、例によって、申し上げる。
 「今さらどうして気持ちを変えたりしましょう
  他人ではそのようなことがあると聞きました心変わりを
 昔と変わることは、今もできません」
 などとお答え申し上げなさった。

 [第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む]
 何とも言いようがなくて、とても真剣に恨み言を申し上げなさってお帰りになるのも、たいそう若々しい感じがなさるので、
 「ひどくこう、世の中のもの笑いになってしまいそうな様子、お漏らしなさるなよ。きっときっと。いさら川などと言うのも馴れ馴れしいですね」
 と言って、しきりにひそひそ話しかけていらっしゃるが、何のお話であろうか。女房たちも、
 「何とも、もったいない。どうしてむやみにつれないお仕打ちをなさるのでしょう」
 「軽々しく無体なこととはお見えにならない態度なのに。お気の毒な」
 と言う。
 なるほど、君のお人柄の、素晴らしいのも、慕わしいのも、お分かりにならないのではないが、
 「ものの情理をわきまえた人のように見ていただいたとしても、世間一般の人がお褒め申すのとひとしなみに思われるだろう。また一方では、至らぬ心のほどもきっとお見通しになるに違いなく、気のひけるほど立派なお方だから」とお思いになると、「親しそうな気持ちをお見せしても、何にもならない。さし障りのないお返事などは、引き続き、御無沙汰にならないくらいに差し上げなさって、人を介してのお返事、失礼のないようにしていこう。長年、仏事に無縁であった罪が消えるように仏道の勤行をしよう」とは決意はなさるが、「急にこのようなご関係を、断ち切ったようにするのも、かえって思わせぶりに見えもし聞こえもして、人が噂しはしまいか」と、世間の人の口さがないのをご存知なので、一方では、伺候する女房たちにも気をお許しにならず、たいそうご用心なさりながら、だんだんとご勤行一途になって行かれる。
 ご兄弟の君達は多数いらっしゃるが、同腹ではないので、まったく疎遠で、宮邸の中がたいそうさびれて行くにつれて、あのような立派な方が、熱心にご求愛なさるので、一同そろって、お味方申すのも、誰の思いも同じと見える。

 

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