『文明論之概略』は、福澤諭吉が著した、全10章から成る西洋と日本の文明を比較した文明論説です。
初版は1875年(明治8年)に刊行。
『学問のすすめ』と並んで福澤諭吉の最も重要な著作であり、『学問のすすめ』が初学者から社会の中間を担う層にかけて書かれた散文的な構成である一方、『文明論之概略』は最初から一貫して意図された構成のもとに書かれています。
そんな『文明論之概略』は、自国の文明化が新しい日本の課題であると考えた福澤が、文明社会とはどういうものかを野蛮・半開社会との対比によって論じ、文明的社会の政治体制の問題や文明化へと至る歴史的動因について論じ、旧来の道徳支配社会から文明的な智力による社会への転換を説き、いかなる分野でも権力偏重に陥る日本の文明を批判して、日本の真の目的である「独立」に立ちふさがる「外国交際」の問題まで考察したものです。
ここで福澤が展開するのは『文明論之概略』というタイトルが示す通り、「文明」とは何か、という問題です。
福澤が提示する「文明」が、西洋の枠組みにおける「文明」であり、そうである限り「文明」は、「非文明」の側との対比でしか語ることができない、という、恐らくは福澤自身が強烈に自覚していた事実でした。
福澤は、文明国が成立する条件として、個々の国民が自ら考え、多様な意見や知見が自由にぶつかり合う社会が成立していなければならないとも考えていました。
だから、国体論のように、国民がお上に頼り、すっかり心酔してしまって、意見の多様性が失われる社会を目指すことは、絶対に避けなければならないことだと主張していたのです。
その上で福澤は、最終的な目標は「文明」としつつも、まず最優先すべきは一国の独立である、と主張しています。
しかし、その後の歴史の展開は、一国の独立を確保することを最優先として、国体論による国内の統合が徹底され、軍事力を持って、遅れた「非文明国」であるアジア各国を押さえ込んでいく、という西洋的な文明国のあり方を日本は追求していくことになりました。
結果だけみれば、福澤はその後の日本が進むレールを引いたともいえますが、一方で、国体論に抗した福澤に、異なる道への可能性を見いだせたともいえるのです。
現代の日本の状況下で、福澤の国体論批判を読み直す、ということは、非常に重要なことなのかもしれません。
「東洋になきものは、有形において数理学、無形において独立心」
一身独立して一国独立となる。
これが福澤諭吉の確信です。
東洋における日本において、一身独立するにはどうするか。
福澤は私の「徳義」を捨てて公の「智恵」を選ぶことの重要性を説いていました。
そもそも福澤は儒者を嫌って、これを「腐儒」とすらよんでいたのです。
そこで智恵を得るには、そうした腐儒から脱するためにも、「公智」が必要ではないかと推断するのです。
個人の智恵ではなく社会的な智恵をつくるしかないのではないかという見解!
これは、徳義も私徳にとどまるようなものではあってはならないということになります。
一身独立にあたって公智を養う。
福澤が考えつづけた「文明」とは、結局はその一点の確立に行きついて初めて獲得できるものでした。
難しかろうが、従来の日本がそうでなかろうが、それ以外の方法はない。
その一点の確立を見定めるならば、福澤はそこから「自由」というものが日本にも得られるはずだという考え方です。
一人ずつの独立が公の自由をつくり、その公智が戻ってきて個を自在にするという論法なのです。
福澤が『文明論之概略』において「文明」という言葉を頻繁に使っていたのは、日本の独立のことを年頭においてのことであり、誰よりも早く、誰よりも独自に「文明としての日本」を議論してみること、それが福澤が本書の執筆を通して自身に背負った課題だったのでしょう。
残念ながら、その後の日本は立憲君主制に向かっていき、福澤の論じた「文明」は日本には実現しませんでした。
しかし、『文明論之概略』の試みは、近代以降の思想方法の原型になるほどでしたし、こうした福澤の方法は、今日もなお吟味するに値します。
特に戦後思想では、ヨコをヨコのまま輸入する思想ばかりが跋扈して、あげくのはて今日の日本の現代思想はそのような”ヨコ・ヨコ輸入思想”にまみれたままになっています。
そうした意味でも、アジアと日本が大きな転換期に書かれたという似たような時代背景にあって、文明論的な日本の設計を初めて提示したこの著作をいま読む意味が出てきます。
福澤式の文明化の設計は、脱亜論というアジアとの関係のとり方と不可分であることを踏まえながら読むということです。
その設計は、何を解体し、何を新たに据えようとしたのか。
近代日本の国家設計に実際にどのように書き込まれたのか、また何が書き込まれなかったのか。
『概略』が書かれた時代状況を踏まえて、福澤が『概略』で論敵と考えていたものが何だったのか。
改めて、読み解いてみてはいかがでしょうか。
以下、簡単ではありますが、それぞれの章の論旨です。
第一章 議論の本位を定る事
その後の議論をすすめにあたっての準備を示している。
「軽重長短善悪是非」はすべて相対的なものであると看破し極論を排する。
自分の論と相容れない相手の論に対しても「両眼を開いて長所と短所の両方を見よ」というスタンスを取る。
相手との交際を活発にし、自らの議論を表明することをすすめているのは『学問のすすめ』の論にも通じる。
第二章 西洋の文明を目的とすること
文明を最上の段階・半開・野蛮の3つに分け、日本を半開国と看做す。
すべて相対的であり、欧州等についても現代進行形ととらえる。
決して理想化するようなことはないが、遅れている分野については素直に認めて現段階としては西洋の文明を目的とすると定義する。
なお、西洋が到達した文明を目指すに当たっては、「簡単なことは後回しにして、難しいこと(内面的な精神文明)を優先して取りいれよ」と福澤は言っている。
政令・法律、ましては人びとの気風は一朝一夕に変えられないと看破する。
日本においては将軍家と皇室が程よいバランスを保ってきたとみる。
また、国体論を展開し、他の国の支配を受けていない限りは国体が保たれていると定義する。
重要なのは国体を維持することだというのが福澤諭吉の議論である。
国体を護ること=外国から占領されないために、知力を結集して古い因習を捨てて西洋の文明を取り入れて国力を高めようと論を進める。
皇室については外観を飾る愚を戒める。
「英国の王室が栄えているのは、何故かといえば、王室の虚威を減らして、人民の権利を伸長したからだ。それによって、全国の政治が実力を増し、その国力の発展とともに、王室の地位も強化されたためである。」
第三章 文明の本旨を論ず
「すべて世界中の政府は、ただその国の便利のために設けられたものだ」と福澤諭吉は語る。
江戸幕府の体制が崩壊したのは、民衆が古い体制を捨てて、新しい政府を望んだからだとの説を『学問のすすめ』の中でも展開している。
「開闢の時より今日に至るまで、世界にて試たる政府の体裁には、立君独裁あり、立君定律あり、貴族合議あり、民庶合議あれども、唯其体裁のみを見て何れを便と為し何れを不便と為す可らず。」
「君臣の倫は天性にあらず」生まれながらにして身分が決まっていることに対する福澤諭吉の反論。
旧来の因習を一掃したいとの福澤諭吉の想いが込められている。
第四章 一国民の智徳を論ず
「一国の文明は、国民一般の智徳の全量」
この考え方は非常に先を見通した考え方である。
偶然を排し、「統計」的を用いて人の動きを捉えよ、と論じている。
統計学や行動科学に繋がる実証的な学問を推奨する。
国全体の動きも、2、3の英雄偉人の力が左右するものではなく、社会全体の人民の気力が決める、とみなす。
そこで、天下の”衆論”、人民の間の間違いがあればそれを正すことが重要であると考える。
政府は外科手術、学者は養生であるとし、福澤諭吉は学者の視点から衆論を正すことを目指すと自らを定義する。
第五章 第四章の続き
”衆論”は単純な多数決ではなく、智徳の多少で強弱が決まると書いている。
これは修正功利主義の立場である。
維新が民衆の知力によって変革されたのだと繰り返し論じる。
西洋の会社制度や学会、寺院の団体組織など利益を同一とするものの集団制度の利点を挙げている。
「日本人が無口の習慣の結果、当然主張すべきところも黙って、事なかれ主義に甘んじ、いうべきこともいわず、問題とすべきことも問題とせぬのみ呆れるばかりである。」
日本は現代に至るまで、あまりにも長い間自己主張をすることを抑制してきたようだ。
第六章 智徳の弁
徳は古より定まっているものであり智は日々変化する。
智の教育を実施せよと説く。
第七章 智徳の行われるべき時代と場所を論ず
過去の時代・場所を論じながら智徳がどのように発揮されたかを論ず。
道徳による治世と法律による治世を論じ、法律の必要性を説く。
第八章 西洋文明の由来
教会の存在、十字軍、宗教改革。これらの中から人民の自由な精神による発露と読む。
17世紀以降のイギリス・フランスにおいても様々な上層の社会の変革の背景に、人民の知力の進歩があったと指摘する。この点が日本との大きな相違である。
日本では「階級」や「地域」を代表して変革を求めるという動きが少なかった。
第九章 日本文明の由来
権力の偏重があらゆる場所に存在していたと論じる。
支配者はたびたび変わるが、誰が天下を取ろうが、下々の生活や国勢は一向に変わらない。
第十章 自国の独立を論ず
第九章までで日本が文明が遅れてきた由来を論じて西洋文明を吸収する必要性を説いてきた。
ここでは視点を変えて、開国以来の重要事項である自国独立を達成するための要件について論じる。
江戸の時代の崩壊を促すことになった国学派であるが、皇学派流の国体論には福澤諭吉は疑問を呈す。
実際には明治から昭和にかけて皇国史観が大いに喧伝され、ついに敗戦に至るまでは皇統派が優位を占めていたのである。
江戸末期から明治のはじめにかけては、今日からみても、日本は非常に危機的な状況にあった。
福澤はここでは高い利子を払って欧米諸国に「濡れれて粟」で儲けさせる実情を観て、憤怒やるせないといった風情である。
外国人の傍若無人な振る舞いを指摘し、注意を喚起する。
外国人に対して同権の意識を以って接する人が少ない点も憂慮する。
封建制が長く続き、庶民の権利意識といったものが欠如しているためだと福澤は指摘する。
兵備についてみだりに兵を増やしても、国力全体を向上させないとダメだと論じる。
巨艦を買っても借金という敵には勝てぬと論じる。
今日の外国との様々な交渉に接して、あるいは、広く商業活動全般をみるにつけ、福澤の慧眼が輝きを増す。
封建時代はとうに去ったとはいえ、日本人の意識はなお旧態依然とした感情が残っている。
本書を通じて福澤は何度か繰り返していますが、この書は日本が現に直面する国難をどう乗り切るかという視点に立って書かれています。
この差し迫った危機感が、本書の目的を濃縮し、読む者に高い目的意識を持たせてくれます。
今日の私達ひとりひとりもこの書を通じて、同じような危機意識が必要だということに、改めて気づいていきたいものです。
以下、参考までに『文明論之概略』の現代語訳の一部を示しておきます。
『福沢諭吉著 文明論之概略』
巻之一
緒言
文明論とは人の精神発達の議論なり。其趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、其一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、或は之を衆心発達論と云ふも可なり。蓋し人の世に処するには局処の利害得失に掩はれて其所見を誤るもの甚だ多し。習慣の久しきに至りては殆ど天然と人為とを区別す可らず。其天然と思ひしもの、果たして習慣なることあり。或は其習慣と認めしもの、却て天然なることなきに非ず。此紛擾(ふんぜう)雑駁(ざつぱく)の際に就て条理の紊れ(みだれ)ざるものを求めんとすることなれば、文明の議論亦難しと云う可し。
今の西洋の文明は羅馬(ろーま)の滅後より今日に至るまで大凡そ一千有余年の間に成長したるものにて、其由来頗る久しと云う可し。我日本も建国以来既に二千五百年を経て、我邦一己の文明は自ずから進歩して其達する所に達したりと雖ども、之を西洋の文明に比すれば趣の異なる所なきを得ず。嘉永年中米人渡来、次いで西洋諸国と通信貿易の条約を結ぶに及んで、我国の人民始て西洋あるを知り、彼我の文明の有様を比較して大に異別あるを知り、一時に耳目を驚かして恰も人心の騒乱を生じたるが如し。固より我二千五百年の間、世の治乱興廃に由て人を驚かしたることなきに非ずと雖ども、深く人心の内部を犯して之を感動せしめたるものは、上古、儒仏の教を支那より伝へたるの一事を初と為し、其後は特に輓近の外交を以て最とす。加之、儒仏の教は亜細亜の元素を伝えて亜細亜に施したることなれば、唯粗密の差あるのみにて之に接すること難からず。或は我のためには新にして奇ならずと云ふも可なりと雖ども、彼の輓近の外交に至ては則ち然らず。地理の区域を異にし、文明の元素を異にし、其元素の発育を異にし、其発育の度を異にしたる特殊異別のものに逢ふて頓に近く相接することなれば、我人民に於て其事の新にして珍しきは勿論、事々物々見るとして奇ならざるはなし、聞くとして怪ならざるはなし。之を譬へば極熱の火を以て極寒の水に接するが如く、人の精神に波瀾を生ずるのみならず、其内部の底に徹して転覆回旋の大騒乱を起さゞるを得ざるなり。
此人心騒乱の事跡に見はれたるものは、前年の王制一新なり、次で廃藩置県なり。以て今日に及びしことなれども、是等の緒件を以て止む可きに非ず。兵馬の騒乱は数年前に在りて既に跡なしと雖ども、人心の騒乱は今尚依然として日に益甚しと云ふ可し。蓋し此騒乱は全国の人民文明に進まんとするの奮発なり。我文明に満足せずして西洋の文明を取らんとするの熱心なり。故に其期する所は、到底我文明をして西洋の文明の如くならしめて之と並立する歟、或は其右に出るに至らざれば止むことなかる可し。而して彼の西洋の文明も今正に運動の中に在て日に月に改進するものなれば、我国の人心も之と共に運動を与にして遂に消息(停止)の期ある可らず。実に嘉永年中米人渡来の一挙は恰も我民心に火を点じたるが如く、一度び燃へて又これを止む可らざるものなり。
人心の騒乱斯の如し。世の事物の紛擾雑駁なること殆ど想像す可らざるに近し。此際に当て文明の議論を立て条理の紊れざるものを求めんとするは、学者の事に於て至大至難の課業と云ふ可し。西洋諸国の学者が日新の説を唱えて、其説随て出れば随て新にして人の耳目を驚かすもの多しと雖ども、千有余年の沿革に由り先人の遺物を伝へて之を切磋琢磨することなれば、仮令ひ其説は新奇なるも、等しく同一の元素より発生するものにて新に之を造るに非ず。之を我国今日の有様に比して豈同日の論ならんや。今の我文明は所謂火より水に変じ、無より有に移らんとするものにて、卒突の変化、啻に之を改進と云ふ可らず、或は始造と称するも亦不可なきがごとし。其議論の極て困難なるも謂れなきに非ざるなり。
今の学者は此困難なる課業に当たると雖ども、爰に亦偶然の僥倖なきに非ず。其次第を云へば、我国開港以来、世の学者は頻に洋学に向ひ、其研究する所固より粗鹵(そろ)狭隘なりと雖ども、西洋文明の一斑は彷彿として窺ひ得たるがごとし。又一方には此学者なるもの、二十年以前は純然たる日本の文明に浴し、啻に其事を聞見したるのみに非ず、現に其事に当て其事を行ふたる者なれば、既往を論ずるに憶測推量の曖昧に陥ること少なくして、直に自己の経験を以て之を西洋の文明に照らすの便利あり。此一事に就いては、彼の西洋の学者が既に体を成したる文明の内に居て他国の有様を推察する者よりも、我学者の経験を以て更に確実なりとせざる可らず。今の学者の僥倖とは即ち此実験の一事にして、然も此実験は今の一世を過れば決して再び得べからざるものなれば、今の時は殊に大切なる好機会と云ふ可し。試に見よ、方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し。二生相比し両身相較し、其前生前身に得たるものを以て之を今生今身に得たる西洋の文明に照らして、其形影の互に反射するを見ば果して何の観を為す可きや。其議論必ず確実ならざるを得ざるなり。蓋し余が彷彿たる洋学の所見を以て、敢て自から賎劣を顧みず此冊子を著すに当て、直に西洋緒家の原書を訳せず、唯其大意を斟酌(しんしやく)して之を日本の事実に参合したるも、余輩の正に得て後人の復た得べからざる好機会を利して、今の所見を遺して後の備考に供せんとするの微意のみ。但其議論の粗鹵にして誤謬の多きは固より自から懺悔白状する所なれば、特に願くば後の学者、大に学ぶことありて、飽くまで西洋の諸書を読み飽くまで日本の事情を詳にして、益所見を博くし益議論を密にして、真に文明の全大論と称す可きものを著述し、以て日本全国の面を一新せんことを企望するなり。余も亦年未だ老したるに非ず、他日必ず此大挙あらんことを待ち、今より更に勉強して其一臂の助たらんことを楽しむのみ。
書中西洋の諸書を引用して其原文を直に訳したるものは其著書の名を記して出典を明にしたれども、唯其大意を撮て之を訳する歟、又は諸書を参考して趣意の在る所を探り、其意に拠て著書の論を述べたるものは、一々出典を記す可らず。之を譬へば食物を喰て之を消化したるが如し。其物は外物なれども、一度び我に取れば自から我身内の物たらざるを得ず。故に書中稀に良説あらば、其良説は余が良説に非ず、食物の良なる故と知る可し。
此書を著はすに当り、往々社友に謀て或は其所見を問ひ、或は其嘗て読たる書中の議論を聞て益を得ること少なからず。就中小幡篤次郎君へは特に其閲見を煩はして正刪(せいさん)を乞ひ、頗る理論の品価を増たるもの多し。明治八年三月二十五日、福沢諭吉記。
巻之一
第一章 議論の本位を定る事
軽重長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重ある可らず。善あらざれば悪ある可らず。故に軽とは重よりも軽し、善とは悪よりも善しと云ふことにて、此と彼と相対せざれば軽重善悪を論ず可らず。斯の如く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名く。諺に云く、腹は脊に替へ難し。又云く、小の虫を殺して大の虫を助くと。故に人身の議論をするに、腹の部は脊の部よりも大切なるものゆゑ、寧ろ脊に疵を被るも腹をば無難に守らざる可らず。又動物を取扱ふに、鶴は鰌(どぜう)よりも大にして貴きものゆゑ、鶴の餌には鰌を用るも妨なしと云ふことなり。譬へば日本にて封建の時代に大名藩士無為にして衣食せしものを、其制度を改めて今の如く為したるは、徒に有産の輩を覆(くつがへ)して無産の難渋に陥れたるに似たれども、日本国と諸藩とを対すれば、日本国は重し、諸藩は軽し、藩を廃するは猶腹の脊に替へられざるが如く、大名藩士の禄を奪ふは鰌を殺して鶴を養ふが如し。都て事物を詮索するには枝末を払て其本源に遡り、止る所の本位を求めざる可らず。斯くの如くすれば議論の箇条は次第に減じて其本位は益確実なる可し。「ニウトン」初て引力の理を発明し、凡そ物、一度び動けば動て止まらず、一度び止まれば、止まりて動かずと、明に其定則を立てゝより、世界万物運動の理、皆これに由らざるはなし。定則とは即ち道理の本位と云ふも可なり。若し運動の理を論ずるに当て、この定則なかりせば其議論区々にして際限あることなく、船は船の運動を以て理の定則を立て、車は車の運動を以て論の本位を定め、徒に理解の箇条のみを増して其帰する所の本は一なるを得ず、一ならざれば則ち亦確実なるを得ざる可し。
議論の本位を定めざれば其利害得失を談ず可らず。城郭は守る者のために利なれども攻る者のためには害なり。敵の得は味方の失なり。往者の便利は来者の不便なり。故に是等の利害得失を談ずるためには、先づ其ためにする所を定め、守る者のため歟、攻る者のため歟、敵のため歟、味方のため歟、何れにても其主とする所の本を定めざる可らず。古今の世論多端にして互に相齟齬するものも、其本を尋れば初に所見を異にして、其末に至り強ひて其枝末を均ふせんと欲するに由て然るものなり。譬へば神仏の説、常に合はず、各其主張する所を聞けば何れも尤の様に聞ゆれども、其本を尋れば神道は現在の吉凶を云ひ、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするを以て両説遂に合はざるなり。漢儒者と和学者との間にも争論ありて千緒万端なりと雖ども、結局其分るゝ所の大趣意は、漢儒者は湯武(殷の湯王と周の武王)の放伐(追放)を是とし、和学者は一系万代を主張するに在り。漢儒者の困却するは唯この一事のみ。斯の如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、其趣は恰も武用に弓矢剣槍の得失を争ふが如く際限ある可らず。若し之を和睦せしめんと欲せば、其各主張する所のものよりも一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢剣槍の争論も嘗て一時は喧しきことなりしが、小銃の行はれてより以来は世上に之を談ずる者なし。《神官の話を聞かば、神官にも神葬祭の法あるゆゑ未来を説くなりと云ひ、又僧侶の説を聞かば、法華宗などには加持祈祷の仕来もあるゆゑ仏法に於ても現在の吉凶を重んずるものなりと云ひ、必ず込入たる議論を述るならん。されども是等は皆神仏混合の久しきに由り、僧侶が神官の真似を試み、神官が僧侶の職分を犯さんとせしのみにて、神仏両教の千年来の習慣を見て明なり。今日又喋々の議論を聞くに足らず。》
又議論の本位を異にする者を見るに、説の末は相同じきに似たれども中途より互に枝別して其帰する所を異にすることあり。故に事物の利害を説くに、其これを利としこれを害とする所を見れば両説相同じと雖ども、これを利としこれを害とする所以の理を述るに至れば、其説、中途より相分れて帰する所同じからず。譬へば頑固なる士民は外国人を悪むを以て常とせり。又学者流の人にても少しく見識ある者は外人の挙動を見て決して心酔するに非ず、之を悦ばざるの心は彼の頑民に異なることなしと云ふも可なり。此一段までは両説相投ずるが如くなれども、其これを悦ばざるの理を述るに至て始て齟齬を生じ、甲は唯外国の人を異類のものと認め、事柄の利害得失に拘はらずして只管これを悪むのみ。乙は少しく所見を遠大にして、唯これを悪み嫌ふには非ざれども、其交際上より生ずべき弊害を思慮し、文明と称する外人にても我に対して不公平なる処置あるを忿るなり。双方共に之を悪むの心は同じと雖ども、之を悪むの源因を異にするが故に、之に接するの法も亦一様なるを得ず。即是れ攘夷家と開国家と、説の末を同ふすれども中途より相分れて其本を異にする所なり。都て人間万事遊嬉宴楽のことに至るまでも、人々其事を共にして其好尚を別にするもの多し。一時其人の挙動を皮相して遽に其心事を判断する可らざるなり。
又或は事物の利害を論ずるに、其極度と極度とを持出して議論の始より相分れ、双方互に近づく可らざることあり。其一例を挙て云はん。今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞て忽ち合衆政治の論と視做し、今我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんと云ひ、遂には不測の禍あらんと云ひ、其心配の模様は恰も今に無君無政の大乱に陥らんとてこれを恐怖するものゝ如く、議論の始より未来の未来を想像して、未だ同権の何物たるを糺さず、其趣旨の在る所を問はず、只管これを拒むのみ。又彼の新説家も始より古風家を敵の如く思ひ、無理を犯して旧説を排せんとし、遂に敵対の勢を為して議論の相合ふことなし。畢竟双方より極度と極度とを持出だすゆゑ此不都合を生ずるなり。手近くこれを譬へて云はん。爰に酒客と下戸と二人ありて、酒客は餅を嫌ひ下戸は酒を嫌ひ、等しく其害を述て其用を止めんと云ふことあらん。然るに下戸は酒客の説を排して云く、餅を有害のものと云はゞ我国数百年来の習例を廃して正月の元旦に茶漬を喰ひ、餅屋の家業を止めて国中に餅米を作ることを禁ず可きや、行はる可らざるなりと。酒客は又下戸を駁して云く、酒を有害のものとせば明日より天下の酒屋を毀ち、酩酊する者は厳刑に処し、薬品の酒精には甘酒を代用と為し、婚礼の儀式には水盃を為す可きや、行はる可らざるなりと。斯の如く異説の両極相接するときは其勢必ず相衝(つき)て相近づく可らず、遂に人間の不和を生じて世の大害を為すことあり。天下古今に其例少なからず。此不和なるもの学者君子の間に行はるゝときは、舌と筆とを以て戦ひ、或は説を吐き或は書を著し、所謂空論を以て人心を動かすことあり。唯無学文盲なる者は舌と筆とを用ること能はずして筋骨の力に依頼し、動もすれば暗殺等を企ること多し。
又世の議論を相駁するものを見るに、互に一方の釁(きん)を撃て双方の真面目を顕し得ざることあり。其釁とは事物の一利一得に伴ふ所の弊害を云ふなり。譬へば田舎の百姓は正直なれども頑愚なり、都会の市民は怜悧なれども軽薄なり。正直と怜悧とは人の美徳なれども、頑愚と軽薄とは常に之に伴ふ可き弊害なり。百姓と市民との議論を聞くに、其争端この処に在るもの多し。百姓は市民を目して軽薄児と称し、市民は百姓を罵(ののしり)て頑陋物と云ひ、其状情恰も双方の匹敵各片眼を閉じ、他の美を見ずして其醜のみを窺ふものゝ如し。若し此輩をして其両眼を開かしめ、片眼以て他の所長を察し片眼以て其所短を掩ひ、其争論止むのみならず、遂には相友視して互に益を得ることもある可し。世の学者も亦斯の如し。譬へば方今日本にて議論家の種類を分てば古風家と改革家と二流あるのみ。改革家は穎敏にして進て取るものなり、古風家は実着にして退て守るものなり。退て守る者は頑陋に陥るの弊あり、進て取る者は軽率に流るゝの患あり。然りと雖ども、実着は必ずしも頑陋に伴はざる可らざるの理なし、穎敏は必ずしも軽薄に流れざる可らざるの理なし。試に見よ、世間の人、酒を飲て酔はざる者あり、餅を喰ふて食傷せざる者あり。酒と餅とは必ずしも酩酊と食傷との原因に非ず、其然ると然らざるとは唯これを節する如何に在るのみ。然ば則ち古風家も必ず改革家を悪む可らず、改革家も必ず古風家を侮る可らず。爰に四の物あり、甲は実着、乙は頑陋、丙は穎敏、丁は軽率なり。甲と丁と当り乙と丙と接すれば、必ず相敵して互に軽侮せざるを得ずと雖ども、甲と丙と逢ふときは必ず相投じて相親まざるを得ず。既に相親むの情を発すれば初て双方の真面目を顕はし、次第に其敵意を鎔解するを得べし。昔封建の時に大名の家来、江戸の藩邸に住居する者と国邑(こくいふ)に在る者と、其議論常に齟齬して同藩の家中殆ど讐敵の如くなりしことあり。是亦人の真面目を顕はさゞりし一例なり。是等の弊害は固より人の智見の進むに従て自から除く可きものとは雖ども、之を除くに最も有力なるものは人と人との交際なり。其交際は、或は商売にても又は学問にても、甚しきは遊芸酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接して其心に思ふ所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和はらげ、所謂両眼を開て他の所長を見るを得べし。人民の会議、社友の演説、道路の便利、出版の自由等、都て此類の事に就て識者の眼を着する由縁も、この人民の交際を助るがために殊に之を重んじるものなり。
都て事物の議論は人々の意見を述べたるものなれば固より一様なる可らず。意見高遠なれば議論も亦高遠なり、意見近浅なれば議論も亦近浅なり。其近浅なるものは、未だ議論の本位に達すること能はずして早く既に他の説を駁せんと欲し、これがため両説の方向を異にすることあり。譬へば今外国交際の利害を論ずるに、甲も開国の説なり、乙も開国の説にて、遽にこれを見れば甲乙の説符合するに似たれども、其甲なる者漸く其論説を詳にして頗る高遠の場合に至るに従ひ、其説漸く乙の耳に逆ふて遂に双方の不和を生ずることあるが如き、是なり。蓋し此乙なる者は所謂世間通常の人物にして通常の世論を唱へ、其意見の及ぶ所近浅なるが故に、未だ議論の本位を明にすること能はず、遽に高尚なる言を聞て却て其方向を失ふものなり。世間に其例少なからず。猶かの胃弱家が滋養物を喰ひ、これを消化すること能はずして却て病を増すが如し。この趣を一見すれば、或は高遠なる議論は世のために有害無益なるに似たれども、決して然らず。高遠の議論あらざれば後進の輩をして高遠の域に至らしむ可き路なし。胃弱を恐れて滋養を廃しなば患者は遂に斃(たふ)る可きなり。此心得違よりして古今世界に悲む可き一事を生ぜり。何れの国にても何れの時代にても、一世の人民を視るに、至愚なる者も甚だ少なく至智なる者も甚だ稀なり。唯世に多き者は、智愚の中間に居て世間と相移り罪もなく功もなく互に相雷同して一生を終る者なり。此輩を世間通常の人物と云ふ。所謂世論は此輩の間に生ずる議論にて、正に当世の有様を摸出(もしゆつ)し、前代を顧て退くこともなく、後世に向て先見もなく、恰も一処に止て動かざるが如きものなり。然るに今世間に此輩の多くして其衆口の喧しきがためにとて、其所見を以て天下の議論を画し、僅にこの画線の上に出るものあれば則ちこれを異端妄説と称し、強ひて画線の内に引入れて天下の議論を一直線の如くならしめんとする者あるは、果して何の心ぞや。若し斯くの如くならしめなば、かの智者なるものは国のために何等の用を為す可きや。後来を先見して文明の端を開かんとするには果して何人に依頼す可きや。思はざるの甚しきものなり。試に見よ、古来文明の進歩、其初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし。「アダム・スミス」が始て経済の論を説きしときは世人皆これを妄説として駁したるに非ずや。「ガリレヲ」が地動の論を唱へしときは異端と称して罪せられたるに非ずや。異説争論年又年を重ね、世間通常の群民は恰も智者の鞭撻を受て知らず識らず其範囲に入り、今日の文明に至ては学校の童子と雖ども経済地動の論を怪む者なし。啻にこれを怪まざるのみならず、此議論の定則を疑ふものあれば却てこれを愚人として世間に歯(よは)ひせしめざるの勢に及べり。又近く一例を挙て云へば、今を去ること僅に十年、三百の諸侯各一政府を設け、君臣上下の分を明にして殺生与奪の権を執り、其堅固なることこれを万歳に伝ふ可きが如くなりしもの、瞬間に瓦解して今の有様に変じ、今日と為りては世間にこれを怪む者なしと雖ども、若し十年前に当て諸藩士の内に廃藩置県等の説を唱る者あらば、其藩中にてこれを何とか云はん。立どころに其身を危ふすること論を俟たざるなり。故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば則ち今日の異端妄説も亦必ず後年の通説常談なる可し。学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏(そしり)を恐るゝことなく、勇を振て我思ふ所の説を吐く可し。或は又他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よく其意の在る所を察して、容る可きものは之を容れ、容る可らざるものは暫く其向ふ所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つ可し。即是れ議論の本位を同ふするの日なり。必ずしも他人の説を我範囲の内に籠絡して天下の議論を画一ならしめんと欲する勿れ。
右の次第を以て事物の利害得失を論ずるには、先づ其利害得失の関る所を察して其軽重是非を明にせざる可らず。利害得失を論ずるは易しと雖ども、軽重是非を明にするは甚だ難し。一身の利害を以て天下の事を是非す可らず、一年の便不便を論じて百歳の謀を誤る可らず。多く古今の論説を聞き、博く世界の事情を知り、虚心平気以て至善の止まる所を明にし、千百の妨碍を犯して世論に束縛せらるゝことなく、高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見せざる可らず。蓋し議論の本位を定めて之に達するの方法を明にし、満天下の人をして悉皆我所見に同じからしめんとするは、固より余輩の企る所に非ずと雖ども、敢て一言を掲て天下の人に問はん。今の時に当て、前に進まん歟、後に退かん歟、進て文明を逐はん歟、退て野蛮に返らん歟、唯進退の二字あるのみ。世人若し進まんと欲するの意あらば余輩の議論も亦見る可きものあらん。其これを実際に施すの方法を説くは此書の趣旨に非ざれば之を人々の工夫に任するなり。
第二章 西洋の文明を目的とする事
前章に事物の軽重是非は相対したる語なりと云へり。されば文明開化の字も亦相対したるものなり。今世界の文明を論ずるに、欧羅巴諸国並(ならび)に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古、支那、日本等、亜細亜の諸国を以て半開の国と称し、阿非利加(あふりか)及び墺太利亜(おーすとらりや)等を目して野蛮の国と云ひ、此名称を以て世界の通論となし、西洋諸国の人民独り自から文明を誇るのみならず、彼の半開野蛮の人民も、自から此名称の誣(し)ひざるに服し、自から半開野蛮の名に安んじて、敢て自国の有様を誇り西洋諸国の右に出ると思ふ者なし。啻にこれを思はざるのみならず、稍や事物の理を知る者は、其理を知ること愈自国の有様を明にし、愈これを明にするに従ひ、愈西洋諸国の及ぶ可らざるを悟り、これを患ひ、これを悲み、或は彼に学てこれに傚はんとし、或は自から勉てこれに対立せんとし、亜細亜諸国に於て識者終身の憂は唯此一事に在るが如し。《頑陋なる支那人も近来は伝習生徒を西洋に遣りたり。其憂国の情以て見る可し。》然ば則ち彼の文明半開野蛮の名称は、世界の通論にして世界人民の許す所なり。其これを許す所以は何ぞや。明に其事実ありて欺く可らざるの確証を見ればなり。左に其趣を示さん。即是れ人類の当(まさ)に経過す可き階級なり。或は之を文明の齢と云ふも可なり。
第一 居に常処なく食に常食なし。便利を遂ふて群を成せども、便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め、衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず、文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ、人為の恩威に依頼し、偶然の禍福を待つのみにて、身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。文明を去ること遠しと云ふ可し。
第二 農業の道大に開けて衣食具はらざるに非ず。家を建て都邑を設け、其外形は現に一国なれども、其内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く、人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく、旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども、習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。未だ文明に達せざるなり。
第三 天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、其内に在て自から活動を逞ふし、人の気風快発にして旧慣に惑溺せず、身躬から其身を支配して他の恩威に依頼せず、躬から徳を脩め躬から智を研き、古を慕はず今を足れりとせず、小安に安んぜずして未来の大成を謀り、進て退かず達して止まらず、学問の道は虚ならずして発明の基を開き、工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし、人智は既に今日に用ひて其幾分を余し、以て後日の謀を為すものゝ如し。これを今の文明と云ふ。野蛮半開の有様を去ること遠しと云ふ可し。
右の如く三段に区別して其有様を記せば、文明と半開と野蛮との境界分明なれども、元と此名称は相対したるものにて、未だ文明を見ざるの間は半開を以て最上とするも妨あることなし。此文明も半開に対すればこそ文明なれども、半開と雖どもこれを野蛮に対すれば亦これを文明と云はざるを得ず。譬へば今支那の有様を以て西洋諸国に比すれば之を半開と云はざるを得ず。されども此国を以て南阿非利加の諸国に比する歟、近くは我日本上国の人民を以て蝦夷人に比するときは、これを文明と云ふ可し。又西洋諸国を文明と云ふと雖ども、正しく今の世界に在てこの名を下だす可きのみ。細にこれを論ずれ足らざるもの甚だ多し。戦争は世界無上の禍なれども、西洋諸国常に戦争を事とせり。盗族殺人は人間の一大悪事なれども、西洋諸国にて物を盗む者あり人を殺す者あり。国内に党与を結て権を争ふ者あり、権を失ふて不平を唱る者あり。況や其外国交際の法の如きは、権謀術数至らざる所なしと云ふも可なり。唯一般に之を見渡して善盛に趣くの勢あるのみにて、決して今の有様を見て直に之を至善と云ふ可らず。今後数千百年にして世界人民の智徳大に進み太平安楽の極度に至ることあらば、今の西洋諸国の有様を見て愍然たる野蛮の歎を為すこともある可し。是に由てこれを観れば文明には限なきものにて、今の西洋諸国を以て満足す可きに非ざるなり。
西洋諸国の文明は以て満足するに足らず。然ば則ちこれを捨てゝ採らざる乎。これを採らざるときは何れの地位に居て安んずる乎。半開も安んず可き地位に非ず、況んや野蛮の地位に於てをや。此二の地位を棄れば別に又帰する所を求めざる可らず。今より数千百年の後を期して彼の太平安楽の極度を待たんとするも、唯是れ人の想像のみ。且文明は死物に非ず、動て進むものなり。動て進むものは必ず順序階級を経ざる可らず。即ち野蛮は半開に進み、半開は文明に進み、其文明も今正に進歩の時なり。欧羅巴と雖ども其文明の由来を尋れば必ずこの順序階級を経て以て今日の有様に至りしものなれば、今の欧羅巴の文明は即ち今の世界の人智を以て僅に達し得たる頂上の地位と云ふ可けのみ。されば今世界中の諸国に於て、仮令ひ其有様は野蛮なるも或は半開なるも、苟も一国文明の進歩を謀るものは欧羅巴の文明を目的として議論の本位を定め、この本位に拠て事物の利害損得を談ぜざる可らず。本書全編に論ずる所の利害得失は、悉皆欧羅巴の文明を目的と定めて、この文明のために利害あり、この文明のために得失ありと云ふものなれば、学者其大趣意を誤る勿れ。
或人云く、世界中の国々相分れて各独立の体を成せば、又随て人心風俗の異なるあり、国体政治の同じからざるあり。然るに今其国の文明を謀て利害得失悉皆欧羅巴を目的と為すとは不都合ならずや、宜しく彼の文明を採り此の人心風俗を察し、其国体に従ひ其政治を守り、これに適するものを撰びて、取る可きを取り捨べきを捨て、始て調和の宜(よろしき)を得べきなりと。答て云く、外国の文明を取て半開の国に施すには固より取捨の宜なかる可らず。然りと雖ども文明には外に見はるゝ事物と内に存する精神と二様の区別あり。外の文明はこれを取るに易く、内の文明はこれを求るに難し。国の文明を謀るには其難を先にして易を後にし、難きものを得るの度に従てよく其深浅を測り、乃ちこれに易きものを施して正しく其深浅の度に適せしめざる可らず。若し或はこの順序を誤り、未だ其難きものを得ずして先づ易きものを施さんとするときは、啻に其用を為さゞるのみならず却て害を為すこと多し。抑も外に見はるゝ文明の事物とは衣服飲食器械住居より政令法律等に至るまで都て耳目以て聞見す可きものを云ふなり。今この外形の事物のみを以て文明とせば、固より国の人心風俗に従て取捨なかる可らず。西洋各国境を接するの地と雖ども、其趣必ずしも比隣(ひりん)一様ならず、況や東西隔遠なる亜細亜諸邦に於て悉皆西洋の風に傚ふ可けんや。仮令ひこれに傚ふも之を文明と云ふ可らず。譬へば近来我国に行はるゝ西洋流の衣食住を以て文明の徴候と為す可きや。断髪の男子に逢てこれを文明の人と云ふ可きや。肉を喰ふ者を見てこれを開化の人と称す可きや。決して然る可らず。或は日本の都府にて石室鉄橋を摸製し、或は支那人が俄に兵制を改革せんとして西洋の風に傚ひ、巨艦を造り大砲を買ひ、国内の始末を顧みずして漫に財用を費すが如きは、余輩の常に悦ばざる所なり。是等の事物は人力を以て作る可し、銭を投じて買ふ可し。有形中の最も著しきものにて、易中の最も易きものなれば、之を取るの際に当ては固より前後緩急の思慮なくして可ならんや。必ず自国の人心風俗に従はざる可らず、必ず自国の強弱貧困に問はざる可らず。即ち或人所云(いふところ)の人心風俗を察するとは此事なる可し。この一段に就ては余輩固より異論なしと雖ども、或人は唯文明の外形のみを論じて、文明の精神をば捨てゝ問はざるものゝ如し。蓋し其精神とは何ぞや。人民の気風即是なり。此気風は売る可きものに非ず、又人力を以て遽に作る可きものにも非ず。洽(あま)ねく一国人民の間に浸潤して広く全国の事跡に顕はるゝと雖ども、目以て其形を見る可きものに非ざれば、其存する所を知ること甚だ難し。今試に其在る所を示さん。学者若し広く世界の史類を読て、亜細亜、欧羅巴の二流を比較し、其地理産物を問はず、其政令法律に拘はらず、学術の巧拙を聞かず、宗門の異同を尋ねずして、別に此二洲の趣をして互に相懸隔せしむる所のものを求めなば、必ず一種無形の物あるを発明す可し。其物たるやこれを形容すること甚だ難し。これを養へば成長して地球万物を包羅し、これを圧抑すれば萎縮して遂に其形影をも見る可らず。進退あり栄枯ありて片時も動かざることなし。其幻妙なること斯の如しと雖ども、現に亜欧二洲の内に於て互に其事跡に見はるゝ所を見れば、明に其虚ならざるを知る可し。今仮に名を下だして、これを一国人民の気風と云ふと雖ども、時に就て云ふときはこれを時勢と名け、人に就ては人心と名け、国に就ては国俗又は国論と名く。所謂文明の精神とは即ち此物なり。かの二洲の趣をして懸隔せしむるものは即ち此文明の精神なり。故に文明の精神とは或はこれを一国の人心風俗と云ふも可なり。これに由て考れば、或人の説に西洋の文明を取らんとするも先づ自国の人心風俗を察せざる可らずと云ひしは、其字句足らずして分明ならざるに似たれども、よく其意味を砕てこれを解くときは、即ち文明の外形のみを取る可らず、必ず先づ文明の精神を備へて其外形に適す可きものなかる可らずとの意見を述べたるものなり。今余輩が欧羅巴の文明を目的とすると云ふも、此文明の精神を備へんがために、これを彼に求るの趣意なれば、正しく其意見に符号するなり。唯或人は文明を求るに当て其形を先にし、忽ち妨碍に逢て其妨碍を遁るゝの路を知らず、余輩は其精神を先にして預(あらかじ)め妨碍を除き、外形の文明をして入るに易からしめんとするの相違あるのみ。或人は文明を嫌ふ者に非ず、唯これを好むこと我輩の如く切ならずして、未だ其議論を極めざるのみ。
前論に文明の外形をして入るに易く其精神はこれを求るに難しとの次第を述べたり。今又この義を明にせん。衣服飲食器械住居より政令法律等に至るまで皆耳目の聞見す可きものなり。而して政令法律はこれを衣食住居等に比すれば稍や其趣を異にし、耳目以て聞見す可しと雖ども手を以て握り銭を以て売買す可き実物にあらざれば、これを取るの法も亦稍や難くして衣食住居等の比にあらず。故に今鉄橋石室を以て西洋に擬するは易しと雖ども、政法を改革するは甚だ難し。即是れ我日本にても、鉄橋石室は既に成りて政法の改革は未だ行はれ難く国民の議会も遽に行はる可らざる由縁なり。尚一歩を進めて全国人民の気風を一変するが如きは其事極て難く、一朝一夕の偶然に由て功を奏す可きに非ず。独り政府の命を以て強ゆ可らず、独り宗門の教を以て説く可らず、況や僅に衣食住居等の物を改革して外より之を導く可けんや。唯其一法は人生の天然に従ひ、害を除き故障を去り、自から人民一般の智徳を発生せしめ、自から其意見を高尚の域に進ましむるに在るのみ。斯の如く天下の人心を一変するの端を開くときは、政令法律の改革も亦漸く行はれて妨碍なかる可し。人心既に面目を改め政法既に改まれば、文明の基、始めてこゝに立ち、かの衣食住有形の物の如きは自然の勢に従ひ、これを招かずして来り、これを求めずして得べし。故に云く、欧羅巴の文明を求るには難を先にして易を後にし、先づ人心を改革して次で政令に及ぼし、終に有形の物に至る可し。此順序に従へば、事を行ふは難しと雖ども、実の妨碍なくして達す可きの路あり。此順序を倒(さかしま)にすれば、事は易に似たれども、其路忽ち閉塞し、恰も墻壁の前に立つが如くして寸歩を進ること能はず、或は其壁前に躊躇する歟、或は寸を進めんとして却て激して尺を退くることある可し。
右は唯文明を求るの順序を論じたるものなれども、余輩決して有形の文明を以て到底無用なりとするに非ず。有形にても無形にても、之を外国に求るも之を内国に造るも、差別ある可らず。唯其際に前後緩急の用心ある可きのみ。決して之を禁ずるに非ず。抑も人生の働には際限ある可らず。身体の働あり、精神の働あり。其及ぶ所甚だ広く、其需(もとむ)る所極て多くして、天性自から文明に適するものなれば、苟も其性を害せざれば則ち可なり。文明の要は唯この天然に稟(う)け得たる身心の働を用ひ尽して遺す所なきに在るのみ。譬へば草昧の時代には人皆腕力を貴び、人間の交際を支配するものは唯腕力の一品にして、交際の権力一方に偏せざるを得ず。人の働を用ること極て狭しと云ふ可し。文化少しく進て世人の精神漸く発生すれば、智力の方にも自から権を占めて腕力と相対し、智力と腕力と互に相制し互に相平均して、聊(いささ)か権威の偏重を防ぐに足るものあり。人の働を用るに少しく其区域を増したりと云ふ可し。然りと雖ども此腕力と智力とを用るに当て、古は其箇条甚だ少なく、腕力をば専ら戦闘に費して他は顧るに遑あらず。衣食住の物を求るが如きは僅に戦闘の余力を用るのみ。所謂尚武の風俗是なり。智力も亦漸く其権を得ると雖ども、当時野蛮の人心を維持するに忙はしければ、其働を和好平安の事に施す可らずして、専ら之を治民制人の方便に用ひ、腕力と互に依頼して未だ智力独立の地位なるものなし。今試に世界の諸国を見るに、野蛮の民は勿論、半開の国に於ても、智徳ある者は必ず様々の関係を以て政府に属し、其力に依頼して人を治るの事を為すのみ。或は稀に自から一身のためを謀る者あるも、単に古学を脩る歟、若しくは詩歌文章等の技芸に耽るに過ぎず。人の働を用ること未だ広からずと云ふ可し。人事漸く繁多にして身心の需用次第に増加するに至て、世間に発明もあり工夫も起り、工商の事も忙はしく学問の道も多端にして、又昔日の単一に安んず可らず。戦闘、政治、古学、詩歌等も僅に人事の内の一箇条と為りて、独り権力を占るを得ず。千百の事業、並に発生して共に其成長を競ひ、結局は此彼同等平均の有様に止て、互に相迫り互に相推して、次第に人の品行を高尚の域に進めざるを得ず。是に於てか始て智力に全権を執り、以て文明の進歩を見る可きなり。都て人類の働は愈単一なれば其心愈専ならざるを得ず。其心愈専なれば其権力愈偏せざるを得ず。蓋し古の時代には事業少なくして人の働を用ゆ可き場所なく、之がために其力も一方に偏したることなれども、歳月を経るに従て恰も無事の世界を変じて多事の域と為し、身心のために新に運動の地を開拓したるが如し。今の西洋諸国の如きは正に是れ多事の世界と云ふ可きものなり。故に文明を進るの要は、勉めて人事を忙はしくして需用を繁多ならしめ、事物の軽重大小を問はず、多々益これを採用して益精神の働を活潑ならしむるに在り。然り而して、苟も人の天性を妨ることなくば、其事は日に忙はしくして其需用は月に繁多ならざるを得ず。世界古今の実験に由て見る可し。是即ち人生の自から文明に適する所以にして、蓋し偶然には非ず。之を造物主の深意と云ふも可なり。
此議論を推して考れば、爰に又一の事実を発明す可し。即ち其事実とは、支那と日本との文明異同の事なり。純然たる独裁の政府又は神政府と称する者は、君主の尊き由縁を一に天与に帰して、至尊の位と至強の力とを一に合して人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯して其方向を定るものなれば、此政治の下に居る者は、思想の向ふ所、必ず一方に偏し、胸中に余地を遺さずして、其心事常に単一ならざるを得ず。《心事繁多ならず》故に世に事変ありて聊かにても此交際の仕組を破るものあれば、事柄の良否に拘はらず、其結果は必ず人心に自由の風を生ず可し。支那にて周の末世に、諸侯各割拠の勢を成して人民皆周室あるを知らざること数百年、此時に当て天下大に乱ると雖ども、独裁専一の元素は頗る権力を失ふて、人民の心に少しく余地を遺し自から自由の考を生じたることにや、支那の文明三千余年の間に、異説争論の喧しくして、黒白全く相反するものをも世に容るゝことを得たるは、特に周末を以て然りとす。《老壮楊墨其他百家の説甚だ多し》孔孟の所謂異端是なり。此異端も孔孟より見ればこそ異端なれども、異端より論ずれば孔孟も亦異端たるを免かれず。今日に至ては遺書も乏しくして之を証するに由なしと雖ども、当時人心の活潑にして自由の気風ありしは推して知る可し。且秦の始皇、天下を一統して書を焚(やき)たるも、専ら孔孟の教のみを悪みたるに非ず。孔孟にても楊墨にても都て百家の異説争論を禁ぜんがためなり。当時若し孔孟の教のみ世に行はれたることならば、秦皇も必ず書を焚くには及ばざる可し。如何となれば後世にも暴君は多くして秦皇の暴に劣らざる者ありと雖ども、嘗て孔孟の教を害とせざるを以て知る可し。孔孟の教は暴君の働を妨るに足らざるものなり。然り而して秦皇が特に当時の異説争論を悪て之を禁じたるは何ぞや。其衆口の喧しくして特に己が専制を害するを以てなり。専制を害するものとあれば他に非ず、此異説争論の間に生じたるものは必ず自由の元素たりしこと明に証す可し。故に単一の説を守れば、其説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し。秦皇一度此多事争論の源を塞ぎ、其後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の家は屢交代すと雖ども、人間交際の趣は改ることなく、至尊の位と至強の力とを一に合して世間を支配し、其仕組に最も便利なるがために独り孔孟の教のみを世に伝へたることなり。或人の説に、支那は独裁政府と雖ども尚政府の変革在り、日本は一系万代の風なれば其人民の心も自から固陋ならざる可らずと云ふ者あれども、此説は唯外形の名義に拘泥して事実を察せざるものなり。よく事実の在る所を詳にすれば果して反対を見る可し。其次第は、我日本にても古は神政府の旨を以て一世を支配し、人民の心単一にして、至尊の位は至強の力に合するものとして之を信じて疑はざる者なれば、其心事の一方に偏すること固より支那人に異なる可らず。然るに中古武家の代に至り漸く交際の仕組を破て、至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならざるの勢と為り、民心に感ずる所にて至尊の考と至強の考とは自から別にして、恰も胸中に二物を容れて其運動を許したるが如し。既に二物を容れて其運動を許すときは、其間に又一片の道理を雑(まじ)へざる可らず。故に神政尊祟の考と武力圧制の考と之に雑るに道理の考とを以てして、三者各強弱ありと雖ども一として其権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざれば其際に自から自由の気風を生ぜざる可らず。之を彼の支那人が純然たる独裁の一君を仰ぎ、至尊至強の考を一にして一向の信心に惑溺する者に比すれば同日の論に非ず。此一事に就ては支那人は思想に貧なる者にして日本人は之に富める者なり。支那人は無事にして日本人は多事なり。心事繁多にして思想に富める者は惑溺の心も自から淡泊ならざるを得ず。独裁の神政府にて、日蝕の時に天子席を移し、天文を見て吉凶を卜する等の事を行へば、人民も自から其風に靡き、益君上を神視して益愚に陥ることあり。方今支那の如きは正に此風を成せりと雖ども、我日本に於ては則ち然らず。人民固より愚にして惑溺甚しからざるに非ずと雖ども、其惑溺は即ち自家の惑溺にして、神政府の余害を蒙りたるものは稍や少なしと云ふ可し。譬へば武家の世に、日蝕あれば天子は席を移したることもあらん、或は天文を窺ひ或は天地を祭りたることもあらんと雖ども、此至尊の天子に至強の力あらざれば、人民は自から之を度外に置て顧るものなし。亦至強の将軍は其威力誠に至強にして一世を威服するに足ると雖ども、人民の目を以て之を見れば至尊の天威を仰ぐが如くならずして自から之を人視せざるを得ず。斯の如く至尊の考と至強の考と互に相平均して其間に余地を遺し、聊かにても思想の運動を許して道理の働く可き端緒を開きたるものは、之を我日本偶然の僥倖と云はざるを得ず。今の時勢に至ては武家の復古も固より願ふ可きに非ずと雖ども、仮に幕政七百年の間に王室をして将家の武力を得せしむる歟、又は将家をして王室の位を得せしめ、至尊と至強と相合一して人民の身心を同時に犯したることあらば、迚も今の日本はある可らず。或は今日に至て彼の皇学者流の説の如く、政祭一途に出るの趣意を以て世間を支配することあらば、後日の日本も亦なかる可し。今其然らざるものは之を我日本人民の幸福と云ふ可きなり。故に云く、支那は独裁の神政府を万世に伝へたる者なり、日本は神政府の元素に対するに武力を用ひたる者なり。支那の元素は一なり、日本の元素は二なり。此一事に就て文明の前後を論ずれば、支那は一度び変ぜざれば日本に至る可らず。西洋の文明を取るに日本は支那よりも易しと云ふ可し。
前段或人の言に、各其国体を守て西洋の文明を取捨す可し云々の論あり。国体を論ずるは此章の趣意に非ざれども、他の文明を取るの談に当て、先づ人の心に故障を感ぜしむる者は国体論にして、其甚しきは国体と文明とは並立す可らざる者の如くして、此一段に至ては世の議論家も口を閉して又云はざる者多し。其状恰も未だ鋒を交へずして互に退くが如し。迚も和戦の成行は見る可らず。況や其事理を詳に論ずれば、必ず戦ふに及ばずして明に一和(いつくわ)の路あるに於てをや。何ぞ之を捨てゝ論ぜざるの理あらん。是れ余輩が文の長きを厭はずして、爰に或人の言に答て弁論する所以なり。第一国体とは何物を指すや。世間の議論は姑く擱き、先づ余輩の知る所を以て之を説かん。体は合体の義なり、又体裁の義なり。物を集めて之を全ふし他の物と区別す可き形を云ふなり。故に国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互に視ること他国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自から支配し他の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立する者を云ふなり。西洋の語に「ナショナリチ」と名るもの是なり。凡そ世界中に国を立るものあれば亦各其体あり。支那には支那の国体あり、印度には印度の国体あり。西洋諸国、何れも一種の国体を具へて自から之を保護せざるはなし。此国体の情の起る由縁を尋るに、人種の同じきに由る者あり、宗旨の同じきに由る者あり、或は言語に由り、或は地理に由り、其趣一様ならざれども、最も有力なる源因と名く可きものは、一種の人民、共に世態の沿革を経て懐古の情を同ふする者、即是なり。或は此諸件に拘はらずして国体を全ふする者もなきに非ず。瑞西(すいす)に国体堅固(けんご)なれども、其国内の諸州は各人種を異にし言語を異にし宗旨を異にする者あるが如し。然りと雖ども此諸件相同じければ其人民に多少の親和なきを得ず。日耳曼(ぜるまん)の諸国の如きは、各独立の体を成すと雖ども、其言語文学を同ふし懐古の情を共にするが為に、今日に至るまでも日耳曼は自から日耳曼全州の国体を保護して他国と相別つ所あり。
国体は其国に於て必ずしも終始一様なる可らず、頗る変化あるものなり。或は合し或は分れ、或は伸る者あり或は蹙(ちぢ)む者あり、或は全く絶て跡なき者あり。而して其絶ると絶へざるとは言語宗旨等の諸件の存亡を見て徴(ちよう)す可らず。言語宗旨は存すと雖ども、其人民政治の権を失ふて他国人の制御を受るときは、則ち之を名て国体を断絶したるものと云ふ。譬へば英と蘇格蘭(すこつとらんど)と相合して一政府を共にしたるは、国体の合したる者にて双方共に失ふ所なし。荷蘭(おらんだ)と白耳義(べるぎー)と分れて二政府と為りたるは、国体の分れたる者なれども尚他国人に奪はれたるに非ず。支那にては宋の末に国体を失ふて元に奪はれたり。之を中華滅亡の始とす。後又元を殪(たふ)して旧に復し大明一統の世となりたるは、中華の面目と云ふ可し。然るに明末に及て又満清のために政権を奪はれ、遂に中華の国体を断絶して満清の国体を伸ばしたり。今日に至るまで中華の人民は、旧に依て言語風俗を共にし、或は其中に人物あれば政府の高官にも列することを得て、外形は清と明と合体の風に見ゆれども、其実は中華南方の国体を失ふて北方の満清に之を奪はれたるものなり。又印度人が英に制せられ、亜米利加の土人が白人に逐はれたるが如きは国体を失ふの甚しきものなり。結局国体の存亡は其国人の政権を失ふと失はざるとに在るものなり。
第二 国に「ポリチカル・レジチメ-ション」と云ふことあり。「ポリチカル」とは政の義なり。「レジチメ-ション」とは正統又は本筋の義なり。今仮に之を政統と訳す。即ち其国に行はれて普(あまね)く人民の許す政治の本筋と云ふことなり。世界中の国柄と時代とに従て政統は一様なる可らず。或は立君の説を以て政統とするものあり、或は封建割拠の説を以て政統と為す者あり、或は民庶会議を以て是とし、或は寺院、政を為すを以て本筋と為すものあり。抑も此政統の考の起る由縁を尋るに、此諸説の初に権を得るや必ず半(なかば)は腕力を用るを免れずと雖ども、既に権を得れば乃ち又腕力を燿(かがやか)すを要せず、啻に之を要せざるのみならず、其権を得たる由縁を腕力の所為に帰するは、其有権者の禁句にて之を忌むこと甚し。如何なる政府にても之に向て其権威の源を問はゞ、必ず之に答て云はん、我権を有するは理の為なり、我権を保つや歳月既に旧しとて、時の経過するに従て次第に腕力を棄てゝ道理に依頼せざる者なし。腕力を悪て道理を好むは人類の天性なれば、世間の人も政府の処置の理に適するを見て之を悦び、歳月を経るに従て益これを本筋のものと為し、旧を忘れて今を慕ひ、其一世の事物に付き不平を訴ることなきに至る可し。是即ち政統なるものなり。故に政統の変革は戦争に由て成るもの多し。支那にて秦の始皇が周末の封建を殪して郡県と為し、欧羅巴にて羅馬の衰微するに従ひ北方の野蛮これを蹂躙して後遂に封建の勢を成したるも此例なり。然りと雖ども人文漸く進て学者の議論に権威を増し、兼て又其国の事情に都合よきことあれば、必ずしも兵力を用ひずして無事の間に変革することあり。譬へば英国にて今日の政治を以て千七百年代の初に比較せば、其趣雲壌懸隔して殆ど他国の政の如くなる可しと雖ども、同国にて政権の事に付き内乱に及びたるは千六百年の央より末に至るまでのことにて、千六百八十八年第三世「ヰルレム」が位に即きしより後は、此事に付き絶て干戈を邦内に動かしたることなし。故に英の政統は百六、七十年の間に大に変革したれども、其間に少しも兵力を用ることなく、識らず知らず趣を改めて、前の人民は前の政を本筋のものと思ひ、後の人民は後の政を本筋のものと思ふのみ。或は又不文の世に在ても兵力を用ひずして政統を改ることあり。往古仏蘭西にて「カラウヒンジヤ」[The Carolingians]の諸君、仏王に臣とし仕へて、其実は国権を握りたるが如し。日本にて藤原氏の王室に於ける、北条氏の源氏に於けるも、此例なり。
政統の変革は国体の存亡に関係するものに非ず。政治の風は何様に変化し幾度の変化を経るも、自国の人民にて政を施すの間は国体に損することなし。往古合衆政治たりし荷蘭は今日立君の政を奉じ、近くは仏蘭西の如き百年の間に政治の趣を改ること十余度に及びたれども、其国体は依然として旧に異ならず。前条にも云ふ如く、国体を保つの極度は他国の人をして政権を奪はしめざるの一事に在るなり。亜米利加の合衆国にて大統領たる者は必ず自国に生れたる人を撰ぶの例あるも、自国の人にて自国の政を為さんとするの人情に基きしものならん。
第三 血統とは西洋の語にて「ライン」と云ふ。国君の父子相伝へて血筋の絶へざることなり。世界中国々の風にて、国君の血統は男子を限るものあり、或は男女相撰ばざるものあり。相続の法は必ず父子に限らず、子なければ兄弟を立て、兄弟なければ尚遠きに及ぼし、親戚中の最も近き者を撰ぶの風なり。西洋諸国立君の政を奉ずる処にては最も之を重んじ、血統相続の争論よりして師(いくさ)を起したるの例は歴史に珍らしからず。或は又甲の国の君死して子なく、遇(たまた)ま乙の国の君其近親に当るときは、甲乙の君位を兼ねて両国一君なることあり。此風は唯欧羅巴に行はるゝのみにて、支那にも日本にも其例を見ず。但し両国の間に一君を奉ずると雖ども、其国の国体にも政統にも差響(さしひゞき)あることなし。
右の如く国体と政統と血統とは一々別のものにて、血統を改めざれども政統を改ることあり。英政の沿革、仏蘭西の「カラウヒンジヤ」の例、是なり。又政統は改れども国体を改めざることあり。万国其例甚だ多し。又血統を改めずして国体を改ることあり。英人荷蘭人が東洋の地方を取て、旧の酋長をば其まゝ差置き、英荷の政権を以て土人を支配し、兼て其酋長をも束縛するが如き、是なり。
日本にては開闢の初より国体を改たることなし。国君の血統も亦連綿として絶たることなし。唯政統に至ては屢大に変革あり。初は国君自から政を為し、次で外戚の輔相なる者政権を専らにし、次で其権柄将家に移り、又移て陪臣の手に落ち、又移て将家に帰し、漸く封建の勢を成して慶応の末年に至りしなり。政権一度び王室を去てより天子は唯虚位を擁するのみ。山陽外史北条氏を評して、万乗の尊を視ること孤豚の如しと云へり。其言真に然り。政統の変革斯の如きに至て尚国体を失はざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行ひ、外国の人へ秋毫の政権をも仮したることなければなり。
然るに爰に余輩をして大に不審を抱かしむる所のものあり。其故は何ぞや。世間一般の通論に於て専ら血統の一方に注意し、国体と血統とを混同して、其混同の際には一を重んじて一を軽んずるの弊なきに非ざるの一事なり。固より我国の皇統は国体と共に連綿として今日に至るは、外国にも其比例なくして珍らしきことなれば、或は之を一種の国体と云ふも可なり。然りと雖どもよく事理を糺して之を論ずれば、其皇統の連綿たるは国体を失はざりし徴候と云ふ可きものなり。之を人身に譬へば、国体は猶身体の如く皇統は猶眼の如し。眼の光を見れば其身体の死せざるを徴す可しと雖ども、一身の健康を保たんとするには眼のみに注意して全体の生力を顧みざるの理なし。全体の生力に衰弱する所あれば其眼も亦自から光を失はざるを得ず。或は甚しきに至ては全体は既に死して生力の痕跡なきも、唯眼の開くあるを見て之を生体と誤認(したゝむ)るの恐なきに非ず。英人が東洋諸国を御するに、体を殺して眼を存するの例は少なからず。
歴史の所記に拠れば、血統の連綿を保つは難事に非ず。北条の時代より以降、南北朝の事情を見て知る可し。其時代に在ては血統に順逆もありて之を争ひしことなりと雖ども、事既に治りて今日に至れば又其順逆を問ふ可らず。順逆は唯一時の議論のみ。後世より論ずるときは均しく天子の血統なるゆゑ、其血統の絶へざるを見て之に満足するなり。故に血統の順逆は其時代に当て最も大切なることなれども、時代を考の外に置て今の心を以て古を推し、唯血統の連綿のみに眼を着け、其これを連綿せしむるの方法をば捨てゝ論ぜざるときは、忠も不忠も義も不義もある可らず。正成と尊氏との間に区別も立ち難し。然りと雖どもよく其時代の有様に就て考れば、楠氏は唯血統を争ふに非ず、其実は政統を争ふて天下の政権を天子に帰せんとし、難を先にして易を後にしたる者なり。此趣を見ても血統を保つと政権を保つと、其孰れか難易を知る可し。
古今の通論を聞くに、我邦を金甌無欠(きんおうむけつ)万国に絶すと称して意気揚々たるが如し。其万国に絶するとは唯皇統の連綿たるを自負するもの乎。皇統をして連綿たらしむるは難きに非ず。北条、足利の如き不忠者にても尚よく之を連綿たらしめたり。或は政統の外国に絶する所ある乎。我邦の政統は古来度々の変革を経て其有様は諸外国に異ならず、誇るに足らざるなり。然ば則ち彼の金甌無欠とは、開闢以来国体を全ふして外人に政権を奪はれたることなきの一事に在るのみ。故に国体は国の本なり。政統も血統も之に従て盛衰を共にするものと云はざるを得ず。中古王室にて政権を失ひ又は血統に順逆ありしと雖ども、金甌無欠の日本国内にて行はれたる事なればこそ今日に在て意気揚々たる可けれ、仮に在昔魯英(露英)の人をして頼朝の事を行はしめなば、仮令へ皇統は連綿たるも日本人の地位に居て決して得意の色を為す可らず。鎌倉の時代には幸にして魯英の人もなかりしと雖ども、今日は現に其人ありて日本国の周囲に輻湊(ふくそう)せり。時勢の沿革、意を用ひざる可らず。
此時に当て日本人の義務は唯この国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは自国の政権を失はざることなり。政権を失はざらんとするには人民の智力を進めざる可らず。其条目は甚だ多しと雖ども、智力発生の道に於て第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行はるゝ文明の精神を取るに在り。陰陽五行の惑溺を払はざれば窮理の道に入る可らず。人事も亦斯の如し。古風束縛の惑溺を除かざれば人間の交際は保つ可らず。既に此惑溺を脱して心智活潑の域に進み、全国の智力を以て国権を維持し国体の基初て定るときは、又何ぞ患る所かあらん。皇統の連綿を持続するが如きは易中の易のみ。試に告ぐ、天下の士人、忠義の外に心事はなきや。忠義も随分不可なるに非ざれども、忠を行はゞ大忠を行ふ可し。皇統連綿を保護せんと欲せば、其連綿に光を増して保護す可し。国体堅固ならざれば血統に光ある可らず。前の譬にも云る如く、全身に生力あらざれば眼も光を失ふものなり。此眼を貴重なりと思はゞ身体の健康に注意せざる可らず。点眼水の一品を用るも眼の光明は保つ可きものに非ず。此次第を以て考れば、西洋の文明は我国体を固くして兼て我皇統に光を増す可き無二の一物なれば、之を取るに於て何ぞ躊躇することをせんや。断じて西洋の文明を取る可きなり。
前条に古習の惑溺を一掃するとのことを云へり。惑溺の文字は其用る所甚だ広くして、世の事物に就き様々の惑溺あれども、今これを政府上に論じて、政府の実威と虚威と相分るゝ由縁を示さん。凡そ事物の便不便は其ためにする所の目的を定るに非ざれば之を決し難し。屋は雨露を庇ふがために便利なり、衣服は風寒を防ぐがために便利なり。人間百事皆ためにする所あらざるはなし。然りと雖ども、習用の久しき、或は其事物に就き実の功用をば忘れて唯其物のみを重んじ、これを装ひ、これを飾り、これを愛し、これを眷顧し、甚しきは他の不便利を問はずして只管これを保護せんとするに至ることあり。是即ち惑溺にて、世に虚飾なるものゝ起る由縁なり。譬へば戦国の時に武士皆双刀を帯したるは、法律の頼む可きものなくして人々自から一身を保護するのためなりしが、習用の久しき、太平の世に至ても尚この帯刀を廃せず、啻に之を廃せざるのみならず、益この物を重んじ、産を傾けて双刀を飾り、凡そ士族の名ある者は老幼を問はず皆これを帯せざるはなし。然るに其実の功用如何を尋れば、刀の外面には金銀を鏤(ちりば)めて、鞘の中には細身の鈍刀を納るものあり。加之剣術を知らずして帯刀する者は十に八、九なり。畢竟有害無益のものなれども、之を廃せんとして人情に戻るは何ぞや。世人皆双刀の実用を忘れて唯其物を重んずるの習慣を成したればなり。其習慣は即ち惑溺なり。今太平の士族に向て其刀を帯する所以を詰問せば、其人の遁辞には是れ祖先以来の習慣なりと云ひ、是れ士族の記章なりと称するのみにて、必ず他に明弁ある可らず。誰かよく帯刀の実用を挙て此詰問に答へ得る者あらん。既に之を習慣と云ひ、亦記章と云ふときは、其物を廃するも可なり。或は廃す可らざるの実用あらば、其趣を変じて実の功用のみを取るも可なり。何等の口実を設るも帯刀を以て士族の天稟と云ふの理なし。政府も亦斯くの如し。世界万国何れの地方にても、其初め政府を立てゝ一国の体裁を設たる由縁は、其国の政権を全ふして国体を保たんが為なり。政権を維持せんが為には固より其権威なかる可らず。之を政府の実威と云ふ。政府の用は唯この実威を主張するの一事に在るのみ。而して開闢草昧の世には、人民皆事物の理に暗くして外形のみに畏服するものなれば、之を御するの法も亦自から其趣意に従て、或は理外の威光を用ひざるを得ず。之を政府の虚威と云ふ。固より其時代の民心を維持するには止むを得ざるの権道にして、人民のためを謀れば同類相食むの禽獣世界を脱して漸く従順の初歩を学ぶものなれば、之を咎む可きには非ざれども、人類の天性に於て権力を有する者は自から其権力に溺れて私を恣(ほしいまま)にするの通弊を免れず。之を譬へば酒を嗜む者が酒を飲めば其酒の酔に乗じて又酒を求め、酒よく人をして酒を飲ましむるが如く、彼の有権者も一度び虚を以て権威を得れば、其虚威の行はるゝに乗じて又虚威を振ひ、虚威よく人をして虚威を恣にせしめて、習慣の久しき、遂に虚を以て政府の体裁を成し、其体裁に千条万態の脩飾を施し、脩飾愈繁多なれば愈世人の耳目を眩惑して、顧て実用の在る所を失ひ、唯脩飾を加へたる外形のみを見て、之を一種の金玉と思ひ、之を眷顧保護せんがためには他の利害得失を捨てゝ問はざるに至り、或は君主と人民との間を異類のものゝ如く為して、強ひて其区別を作為し、位階服飾文書言語悉皆上下の定式を設るものあり。所謂周唐の礼儀なるもの是なり。或は無稽の不思議を唱へて、其君主は直に天の命を受たりと云ひ、其祖先は霊山に登て天神と言語を交へたりと云ひ、夢を語り神託を唱へ、恬として怪まざるものあり。所謂神政府なるもの是なり。皆是れ政府の保つ可き実威の趣意を忘れて、保つ可らざるの虚威に惑溺したる妄誕と云ふ可し。虚実の相分るゝは正に此処に在るなり。
此妄誕も上古妄誕の世に在りては亦一時の術なれども、人智漸く開るに従て又この術を用ゆ可らず。今の文明の世に於ては、衣冠美麗なりと雖ども衙門巍々たりと雖ども、安ぞ人の眼を眩惑するを得ん。徒に識者の愍笑を招くに足るのみ。仮令ひ文明の識者に非ざるも、文明の事物を聞見する者は其耳目自から高尚に進むが故に、決して之に妄誕を強ゆ可らず。此人民を御するの法は、唯道理に基きたる約束を定め、政法の実威を以て之を守らしむるの一術あるのみ。今世七年の大旱に壇を築て雨を祈るも雨の得べからざるは人皆これを知れり。国君躬から五穀豊熟を祈ると雖ども化学の定則は動かす可らず。人類の祈念を以て一粒の粟を増す可らざるの理は、学校の童子もこれを明にせり。往古は剣を海に投じて潮の退きたることありしが、今の海潮には満干の時刻あり。古は紫雲のたなびくを見て英雄の所在を知りたれども、今の人物は雲の中に求む可らず。こは古今の事物其理を異にするに非ず、古今の人智其品位を同ふせざるの証なり。人民の品行次第に高尚に進み、全国の智力を増して政治に実の権威を得るは、国のために祝す可きに非ずや。然るに今実を棄てゝ虚に就き、外形を飾らんとして却て益人を痴愚に導くは惑溺の甚しきなり。虚威を主張せんと欲せば下民を愚にして開闢の初に還らしむるを上策とす。人民愚に還れば政治の力は次第に衰弱を致さん。政治の力、衰弱すれば、国其国に非ず。国其国に非ざれば国の体ある可らず。斯の如きは則ち国体を保護せんとして却て自から之を害するものなり。前後の始末不都合なりと云ふ可し。譬へば英国にても、其先王の遺志を継て尚立君専制の古風を守らんとせば、其王統早く既に絶滅したるは固より論を俟ず。今其然らざる由縁は何ぞや。王室の虚威を減少して民権を興起し、全国の政治に実の勢力を増して、其国力と共に王位をも固くしたればなり。王室を保護するの上策と云ふ可し。畢竟国体は文明に由て損するものに非ず。其実は之に依頼して価を増すものなり。
世界中何れの人民にても、古習に惑溺する者は必ず事の由来の旧くして長きを誇り、其連綿たること愈久しければ之を貴ぶことも亦愈甚しく、其状恰も好事家が古物を悦ぶが如し。印度の歴史に云ることあり。此国初代の王を「プラザマ・ラジャ」と云ひ、聖徳の君なり。此君即位の時其齢二百万歳、在位六百三十万年にして位を王子に譲り、尚十万の残年を経て世を去りたりと。又云く、同国に「メヌウ」と云ふ典籍あり。《印度の口碑に、此典籍は造化の神なる「ブラマ」の子「メヌウ」より授かりたるものにて斯く名るなりと云ふ。西洋紀元千七百九十四年英人「ジョネス」氏これを英文に訳せり。書中の趣意は神道専制の説を巧に記したるものなれども、脩徳の箇条に至ては頗る厳正にして議論も亦高く、其所説に耶蘇の教と符合するもの甚だ多し。其符合するは教の趣意のみならず、文章も亦類似せり。譬へば「メヌウ」の文に云く、人を視ること傷むが如くして不平を訴へしむる勿れ、実を以て人を害する勿れ、亦意を以て人を害する勿れ、人を罵る勿れ、人に罵らるゝも之に堪忍す可し、怒に逢はゞ怒を以て怒に報る勿れ、云々。又耶蘇教の「サルミスト」の文と「メヌウ」の文と字々相似たるものあり。「サルミスト」の文に云く、愚人は自から其心に告て「ゴッド」なしと云ふと。「メヌウ」の文に云く、悪人は自から其心に告て誰も己を見ずと云ふと雖ども、神は明に之を見分け且胸中の精神も之を知る可しと。其符合すること斯の如し。以上「ブランド」氏の韻府より抄訳。》此典籍の人間世界に授かりたるは今を去ること凡二十億年のことなりと。頗る古物と云ふ可し。印度の人はこの貴き典籍を守りこの旧き国風を存して高枕安眠の其間に、政権をば既に西洋人に奪はれて、神霊なる一大国も英吉利の庖厨(台所)と為り、「プラザマ・ラジャ」の子孫も英人の奴隷と為れり。且其六百万年と云ひ二十億年と唱へ、天地と共に長しとて自負するものも、固より無稽の慢語にて、彼の典籍の由来も其実は三千年より久しからざるものなれども、姑く其慢に任じて之を語らしめ、爰に印度の六百万年に対して阿非利加に七百万年のものありと云ひ、其二十億に対して我は三十億と云ふ者あらば、印度人も口を閉さゞるを得ず。畢竟痴児の戯のみ。又一言以て其自負を挫く可きものあり。云く、天地の仕掛は永遠洪大なるものなり、何ぞ区々の典籍系統と其長短を争はんや、造化一瞬、忽地(たちまち)に億万年を過ぐ可し、彼の十億年の日月は唯是れ瞬間の一小刻のみ、此一小刻に就て無益の議論を費し却て文明の大計を忘れたるは、軽重の別を知らざる者なりと。此一言を聞かば印度人も又口を開くを得ざる可し。故に世の事物は唯旧きを以て価を生ずるものに非ざるなり。
前に云へる如く、我国の皇統は国体と共に連綿として外国に比類なし。之を我国一種、君国並立の国体と云て可なり。然りと雖ども、仮令ひこの並立を一種の国体と云ふも、之を墨守して退くは之を活用して進むに若かず。之を活用すれば場所に由て大なる功能ある可し。故に此君国並立の貴き由縁は、古来我国に固有なるが故に貴きに非ず、之を維持して我政権を保ち我文明を進む可きが故に貴きなり。物の貴きに非ず、其働の貴きなり。猶家屋の形を貴ばずして、其雨露を庇ふの功用を貴ぶが如し。若し祖先伝来家作の風なりとて、其家の形のみを貴ぶことならば、紙を以て家を作るも可ならん。故に君国並立の国体若し文明に適せざることあらば、其適せざる由縁は必ず習慣の久しき間に生じたる虚飾惑溺の致す所なれば、唯其虚飾惑溺のみを除て実の功用を残し、次第に政治の趣を改革して進むことあらば、国体と政統と血統と三者相互に戻らずして、今の文明と共に並立す可きなり。譬へば今魯西亜(ろしや)にて今日其政治を改革して明日より英国自由の風に傚はんとすることあらば、事実に行はれざるのみならず立所に国の大害を起す可し。其害を起す由縁は何ぞや。魯英両国の文明は其進歩の度を異にし其人民に智愚の差ありて、今の魯は今の政治を以て正に其文明に適するものなればなり。然りと雖ども、魯をして永く其旧物の虚飾を墨守せしめ、文明の得失を謀らずして必ず固有の政治を奉ぜしむるは、敢て願ふ所に非ず、唯其文明の度を察し、文明に一歩を進れば政治も亦一歩を進め、文明と政治と歩々相伴なはんことを欲するのみ。此事に就ては次章の終にも論ずる所あり。これを参考す可し。《書中西洋と云ひ欧羅巴と云ふも其義一なり。地理を記すには欧羅巴と亜米利加と区別あれども、文明を論ずるときは亜米利加の文明も其源は欧羅巴より移したるものなれば、欧羅巴の文明とは欧羅巴風の文明と云ふの義のみ。西洋と云ふもこれに同じ。》
第三章 文明の本旨を論ず
前章の続きに従へば、今こゝに西洋文明の由来を論ず可き場所なれども、これを論ずる前に先づ文明の何物たるを知らざる可らず。其物を形容すること甚だ難し。啻にこれを形容すること難きのみならず、甚しきに至ては世論或は文明を是とし或はこれを非として争ふものあり。蓋しこの論争の起る由縁を尋るに、もと文明の字義はこれを広く解す可し、又これを狭く解す可し。其狭き字義に従へば、人力を以て徒に人間の需用を増し、衣食住の虚飾を多くするの意に解す可し。又其広き字義に従へば、衣食住の安楽のみならず、智を研き徳を脩めて人間高尚の地位に昇るの意に解す可し。学者若し此字義の広狭に眼を着せば、又喋々たる争論を費すに足らざる可し。
抑も文明は相対したる語にて、其至る所に限あることなし。唯野蛮の有様を脱して次第に進むものを云ふなり。元来人類は相交るを以て其性とす。独歩孤立するときは其才智発生するに由なし。家族相集るも未だ人間の交際を尽すに足らず。世間相交り人民相触れ、其交際愈広く其法愈整ふに従て、人情愈和し知識愈開く可し。文明とは英語にて「シウヰリゼイション」と云ふ。即ち羅甸(らてん)語の「シウヰタス」より来りしものにて、国と云ふ義なり。故に文明とは人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様を形容したる語にて、野蛮無法の独立に反し一国の体裁を成すと云ふ義なり。
文明の物たるや至大至重、人間万事皆この文明を目的とせざるものなし。制度と云ひ文学と云ひ、商売と云ひ工業と云ひ、戦争と云ひ政法と云ふも、これを概して互に相比較するには何を目的として其利害得失を論ずるや。唯其よく文明を進るものを以て利と為し得と為し、其これを却歩せしむるものを以て害と為し失と為すのみ。文明は恰も一大劇場の如く、制度文学商売以下のものは役者の如し。此役者なるもの各得意の芸を奏して一段の所作を勤め、よく劇の趣意に叶ふて真情を写出だし、見物の客をして悦ばしむる者を名けて役者の巧なる者とす。進退度を誤り、言語節を失し、其笑ふや真ならず、其泣や無情にして、芝居の仕組これがために趣を失する者を名けて役者の拙なる者とするなり。或は又其泣くと笑ふとは真に迫て妙なりと雖ども、場所と時節とを誤て、泣く可きに笑ひ、笑ふ可きに泣く者も亦、芸の拙なるものと云ふ可し。文明は恰も海の如く、制度文学以下のものは河の如し。河の海に水を灌ぐこと多きものを大河と名け、其これを灌ぐこと少きものを名けて小河と云ふ。文明は恰も倉庫の如し。人間の衣食、渡世の資本、生々の気力、皆この庫中にあらざるはなし。人間の事物或は嫌ふ可きものと雖ども、苟もこの文明を助るの功あればこれを捨てゝ問はず。譬へば内乱戦争の如き歟。尚甚しきは独裁暴政の如きも、世の文明を進歩せしむるの助となりて其功能著しく世に顕はるゝの時に至れば、半は前日の醜悪を忘れてこれを咎るものなし。其事情恰も銭を出して物を買ひ、其価過当なりと雖ども、其物を用ひて便利を得ること大なるの時に至れば、半は前日の損亡を忘るゝが如し。即是れ世間人情の常なり。
今仮に数段の問題を設て文明の在る所を詳にせん。
第一 爰に一群の人民あり。其外形安くして快く、租税は薄く力役は少なく、裁判の法正しからざるに非ず、懲悪の道行はれざるに非ず。概してこれを云へば、人間衣食住の有様に就ては其処置宜しきを得て更に訴ふ可きものなし。然りと雖ども、唯衣食住の安楽あるのみにて、其智徳発生の力をば故さらに閉塞して自由ならしめず、民を視ること牛羊の如くして、これを牧しこれを養ひ、唯其飢寒に注意するのみ。其事情、啻に上より抑圧するの類に非ずして、周囲八方より迫窄(はくさく)するものゝ如し、昔日松前より蝦夷人を取扱ひしが如き是なり。これを文明開化と云ふ可き乎。この人民の間に智徳進歩の有様を見るや否(いなや)。
第二 爰に又一群の人民あり。其外形の安楽は前段の人民に及ばずと雖ども亦堪ゆ可らざるに非ず。其安楽少なきの代りとして智徳の路は全く塞がるに非ず。人民或は高尚の説を唱る者あり、宗旨道徳の論も進歩せざるに非ず。然りと雖ども自由の大義は毫も行はるゝことなく、事々物々皆自由を妨げんとするに注意するのみ。人民或は智徳を得る者ありと雖ども、其これを得るや恰も貧民が救助の衣食を貰ふが如く、自からこれを得るに非ず、他に依頼してこれを得るのみ。人民或は道を求る者ありと雖ども、其これを求るや、自からために求ること能はずして人のためにこれを求るなり。亜細亜諸国の人民、神政府のために束縛を蒙り、活潑の気象を失ひ尽して蠢爾卑屈の極度に陥りたるもの、即是なり。これを文明開化と云ふ可き乎。この人民の間に文明進歩の痕を見るや否。
第三 爰に又一群の人民あり。其有様自由自在なれども、毫も事物の順序なく、毫も同権の趣意を見ず。大は小を制し、強は弱を圧し、一世を支配するものは唯暴力のみ。譬へば往昔欧羅巴の形勢斯の如し。これを文明開化と云ふ可き乎。固より文明の種はこゝに胚胎すと云ふと雖ども、現に此有様を名て文明と云ふ可らざるなり。
第四 爰に又一群の人民あり。人々其身を自由にして之を妨るものなく、人々其力を逞ふして大小強弱の差別あらず。行かんと欲すれば行き、止らんと欲すれば止まりて、各人其権義を異にすることなし。然りと雖ども、此人民は未だ人間交際の味を知らず、人々其力を一人のために費して全体の公利に眼を着けず、一国の何物たるを知らず交際の何事たるを弁ぜず、世々代々生て又死し、死して又生れ、其生れしときの有様は死するときの有様に異ならず。幾世を経ると雖ども其土地に人間生々の痕跡をみることなし。譬へば方今野蛮の人種と唱るもの、即是なり。自由同権の気風に乏しからずと雖ども、之を文明開化と云ふ可きや否。
右四段に挙る所の例を見るに、一もこれを文明と称す可きものなし。然ば則ち何事を指して文明と名るや。云く、文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云ふなり、衣食を饒(ゆたか)にして人品を貴くするを云ふなり。或は身の安楽のみを以て文明と云はんか。人生の目的は衣食のみに非ず。若し衣食のみを以て目的とせば、人間は唯蟻の如きのみ、又蜜蜂の如きのみ。これを天の約束と云ふ可らず。或は心を高尚にするのみを以て文明と云はんか。天下の人皆陋巷(らうかう)に居て水を飲む顔回の如くならん。これを天命と云ふ可らず。故に人の身心両ながら其所を得るに非ざれば文明の名を下だす可らざるなり。然り而して、人の安楽には限ある可らず、人心の品位にも亦極度ある可らず。其安楽と云ひ高尚と云ふものは、正に其進歩する時の有様を指して名けたるものなれば、文明とは人の安楽と品位との進歩を云ふなり。又この人の安楽と品位とを得せしむるものは人の智徳なるが故に、文明とは結局、人の智徳の進歩と云て可なり。
前既に云へり、文明は至大至重にして人間万事を包羅し、其至る所際限なくして今正に進歩の有様に在りと。世人或はこの義を知らずして甚だしき誤謬に陥ることあり。其人の説に云く、文明とは人の智徳の外に見はれたるものなり、然るに今西洋諸国の人を見るに、果して不徳の所業多し、或は偽詐を以て商売を行ふ者あり、或は人を威して利を貪る者あり、これを有徳の人民と云ふ可らず、又至文至明と称する英国の管下に在る「アイルランド」の人民は、生計の道に暗く終歳蠢爾として芋を喰ふのみ、これを智者と云ふ可らず、是に由て之を観れば、文明は必ずしも智徳と並び行はるゝものに非ずと。然りと雖ども、此人は今の世界の文明を見てこれを其極度なりと思ひ、却て其進歩の有様に在る所以を知らざるものなり。今日の文明は未だ其半途にも至らず、豈遽に清明純美の時を望む可けんや。此無智無徳の人は即是れ文明の世の疾病なり。今の世界に向て文明の極度を促すは、これを譬へば世に十全健康の人を求るが如し。世界の蒼生多しと雖ども、身に一点の所患なく、生れて死に至るまで些少の病にも罹らざる者ある可きや。決してある可らず。病理を以て論ずれば、今世の人は仮令ひ健康に似たるものあるも、これを帯患健康と云はざるを得ず。国も亦猶この人の如し。仮令ひ文明と称すと雖ども、必ず許多(あまた)の欠点なかる可らざるなり。
或人又云く、文明は至大至重なり、人間万事これに向て道を避けざるものなし、然るに文明の本旨は上下同権に在るに非ずや、西洋諸国文明の形勢を見るに、改革の第一着は必ず先づ貴族を倒すに在り、英仏其他の歴史を見て其実跡を証す可し、近くは我日本に於ても、藩を廃して県を置き、士族既に権を失ふて華族も亦顔色なし、是れ亦文明の趣意ならん、此理を拡めて論ずるときは、文明の国には君主を奉ず可らざるが如し、果して然るや。答て云く、是れ所謂片眼を以て天下の事を窺ふの論なり。文明の物たるや大にして重なるのみならず、亦洪にして且寛なり。文明は至洪至寛なり。豈国君を容るゝの地位なからんや。国君も容る可し、貴族も置く可し、何ぞ是等の名称に拘はりて区々の疑念を抱くに足らん。「ギゾ-」氏の文明史に云へることあり。立君の政は人民の階級を墨守すること印度の如き国にも行はる可し、或は之に反して人民、権を同ふし、漠然として上下の名分を知らざる国にも行はる可し、或は専制抑圧の世界にも行はる可し、或は開化自由の里にも行はる可し、君主は恰も一種珍奇の頭の如く、政治風俗は体の如し、同一の頭を以て異種の体に接す可し、君主は恰も一種珍奇の菓実の如く、政治風俗は樹の如し、同一の菓実よく異種の樹に登(みの)る可しと。此言真に然り。都て世の政府は唯便利のために設けたるものなり。国の文明に便利なるものなれば、政府の体裁は立君にても共和にても其名を問はずして其実を取る可し。開闢の時より今日に至るまで、世界にて試たる政府の体裁には、立君独裁あり、立君定律あり、貴族合議あり、民庶合議あれども、唯其体裁のみを見て何れを便と為し何れを不便と為す可らず。唯一方に偏せざるを緊要とするのみ。立君も必ず不便ならず、共和政治も必ず良ならず。千八百四十八年仏蘭西の共和政治は公平の名あれども其実は惨刻なり。墺地利(おーすとりや)にて第二世「フランシス」の時代には独裁の政府にて寛大の実あり。今の亜米利加の合衆政治は支那の政府よりも良からんと雖ども、「メキシコ」の共和政は英国立君の政に及ばざること遠し。故に墺地利、英国の政を良とするも、之がために支那の風を慕ふ可らず。亜米利加の合衆政治を悦ぶも、仏蘭西、「メキシコ」の例に傚ふ可らず。政は其実に就て見る可し、其名のみを聞て之を評す可らず。政府の体裁は必ずしも一様なる可らざるが故に、其議論に当ては学者宜しく心を寛にして一方に僻すること勿る可し。名を争ふて実を害するは古今に其例少からず。
支那日本等に於ては君臣の倫を以て人の天性と称し、人に君臣の倫あるは猶夫婦親子の倫あるが如く、君臣の分は人の生前に先づ定たるものゝやうに思込み、孔子の如きも此惑溺を脱すること能はず、生涯の心事は周の天子を助けて政を行ふ歟、又は窮迫の余りには諸侯にても地方官にても己を用ひんとする者あれば之に仕へ、兎にも角にも土地人民を支配する君主に依頼して事を成さんとするより外に策略あることなし。畢竟孔子も未だ人の天性を究(きはむ)るの道を知らず、唯其時代に行はるゝ事物の有様に眼を遮られ、其時代に生々する人民の気風に心を奪はれ、知らず識らず其中に籠絡せられて、国を立るには君臣の外に手段なきものと臆断して教を遺したるものゝみ。固より其教に君臣のことを論じたる趣意は頗る純精にして、其一局内に居て之を見れば差支なきのみならず、如何にも人事の美を尽したるが如くなりと雖ども、元と君臣は人の生れて後に出来たるものなれば、之を人の性と云ふ可らず。人の性のまゝに備はるものは本なり、生れて後に出来たるものは末なり。事物の末に就て議論の純精なるものあればとて、之に由て其本を動かす可らず。譬へば古人天文の学を知らずして只管天を動くものと思ひ、地静天動の考を本にして無理に四時循環の算を定め、其説く所に一通りは条理を備へたるやうに見ゆれども、地球の本の性を知らざるが故に、遂に大に誤りて星宿分野の妄説を作り、日食月食の理をも解くこと能はず、事実に於て不都合なること甚だ多し。元来古人が地静天動と云ひしは、唯日月星辰の動くが如くなるを目撃し、其目撃する所の有様に従て臆断したるのみのことなれども、其事に就て実を糺せば、此有様はもと地球と他の天体と相対して地球の動くがために生じたる現象なるゆゑ、地動は本の性なり、現象は末の験(しるし)なり。末の験を誤認めて本の性にあらざることを誣ゆ可らず。天動の説に条理あればとて、其条理を主張して地動の説を排す可らず。其条理は決して真の条理に非ず。畢竟物に就ては其理を究めずして唯物と物との関係のみを見て強ひて作たる説なり。若し此説を以て真の条理とせば、走る船の中より海岸の走るが如くなるを見て、岸は動き船は静なりと云はざるを得ず。大なる誤解ならずや。故に天文を談ずるには、先づ地球の何物にして其運転の如何なるを察して、然る後に此地球と他の天体との関係を明にし、四時循環の理をも説く可きなり。故に云く、物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先づ物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ。君臣の論も猶斯の如し。君と臣との間柄は人と人との関係なり。今この関係に就き条理の見る可きものありと雖ども、其条理は偶ま世に君臣なるもの有て然る後に出来たるものなれば、此条理を見て君臣を人の性と云ふ可らず。若しこれを人の性なりと云はゞ、世界万国、人あれば必ず君臣なかる可らざるの理なれども、事実に於て決して然らず。凡そ人間世界に父子夫婦あらざるはなし、長幼朋友あらざるはなし。此四者は人の天稟に備はりたる関係にて、これを其性と云ふ可しと雖ども、独り君臣に至ては地球上の某国に其関係なき処あり、方今民庶会議の政府を立たる諸国、即是なり。此諸国には君臣なしと雖ども、政府と人民との間に各其義務ありて、其治風或は甚だ美なるものあり。天に二日なし地に二王なしとは孟子の言なれども、目今現に無王の国ありて、然も其国民の有様は遥に唐虞(とうぐ)三代の右に出るものあるは如何ん。仮に孔孟をして今日に在らしめなば、将(は)た何の面目有てこの諸国の人民を見ん。聖賢の粗漏と云ふ可し。故に立君の政治を主張するものは、先づ人性の何物たるを察して後に君臣の義を説き、其義なるものは果して人の性に胚胎したるもの歟、或は人の生れて然る後に偶然の事情に由て君臣の関係を生じ、此関係に就ての約束を君臣の義と名るもの歟、事実に拠て其前後を詳にせざる可らず。虚心平気深く天理の在る所を求めなば、必ず此約束の偶然に出でたる所以を発明す可し。既に其偶然なるを知らば又随て其約束の便不便を論ぜざる可らず。事物に就て便不便の議論を許すは即ちこれに修治改革を加ふ可きの証なり。修治を加へて変革す可きものは天理に非ず。故に子は父たる可らず、婦は夫たる可らず、父子夫婦の間は変革し難しと雖ども、君は変じて臣たる可し。湯武の放伐、即是なり。或は君臣席を同ふして肩を比す可し。我国の廃藩置県、即是なり。是に由て之を観れば、立君の政治も改む可らずに非ず。唯之を改ると否とに就ての要訣は、其文明に便利なると不便利なるとを察するに在るのみ。《或る西洋学者の説に、君臣は支那日本に限らず、西洋にも「マ-ストル」と「セルウェント」の称あり、即ち君臣の義なりと云ふ者あれども、西洋の君臣と支那日本の君臣とは其義一ならず。彼の「マ-ストル」及び「セルウェント」に当る可き文字なきゆゑ、仮に之を君臣と訳したることなれども、此文字に拘泥す可らず。余輩は古来和漢の人心に認る所の君臣を君臣と云ふなり。譬へば昔我国にて主人を殺す者は磔、家来は手打にするも不苦と云ふ。此主人此家来は即ち君臣なり。封建の時に大名と藩士との間柄などは明なる君臣と云ふ可し。》
前の論に従へば、立君の政治は之を変革して可なり。然ば則ち之を変革して合衆政治を取り、この政治を以て至善の止まる所とする乎。云く、決して然らず。亜米利加の北方に一族の人民あり。今を去ること二百五十年、其種族の先人なる者《「ピルグリム・フハアザス」を云ふ。其人員百一人にて、英国を去りしは千六百二十年のことなり。》英国に於て苛政に苦み、君臣の義を厭(いとひ)尽して自から本国を辞し、去て北亜米利加の地方に来り、千辛万苦を嘗めて漸く自立の端を開きしことあり。即ち其地は「マッサチュセット」の「プリマウス」にして、其古跡今尚存せり。爾後有志の輩、跡を追ふて来り、本国より家を移す者甚だ多く、処を撰び居を定めて「ニウエンゲランド」の地方を開き、人口漸く繁殖し、国財次第に増加し、千七百七十五年に至ては既に十三州の地を占め、遂に本国の政府に背き、八年の苦戦、僅に勝利を得て、始て一大独立国の基を開きたり。即ち今の北亜米利加合衆国、是なり。抑も此国の独立せし由縁は、其人民敢て私を営むに非ず、敢て一時の野心を逞ふするに非ず。至公至平の天理に基き、人類の権義を保護し、天与の福祚(ふくそ)を全ふせんがためのみ。其趣旨は当時独立の檄文を読て知る可し。況や其初め、かの一百一名の先人が千六百二十年十二月二十二日風雪の中に上陸して海岸の石上に足を止めし其時には、豈一点の私心あらんや。所謂本来無一物なるものにて、神を敬し人を愛するの外、余念なきこと既に明なり。今此人の心事を推て計るに、其暴君汚吏を嫌ふは固より論を俟ず、或は全世界に政府なるものを廃却して其痕跡なからしめんとする程の素志なる可し。二百五十年以前既にこの精神あり。次で千七百七十年代独立の戦争も、此精神を承けてこれを実に顕はしたるものならん。戦争終て後に政体を作りたるも此精神に基きしことならん。爾後国内に行はるゝ百工商売政令法律等、都て人間交際の道も皆此精神を目的として之に向ひしことならん。然ば則ち合衆国の政治は独立の人民其気力を逞ふし、思ひのまゝに定めたるものなれば、其風俗純精無雑にして、真に人類の止る可き所に止り、安楽国土の真境を摸し出したるが如くなる可き筈なるに、今日に至て事実を見れば決して然らず。合衆政治は人民合衆して暴を行ふ可し、其暴行の寛厳は立訓独裁の暴行に異ならずと雖ども、唯一人の意に出るものと衆人の手に成るものと其趣を異にするのみ。又合衆国の風俗は簡易を貴ぶと云へり。簡易は固より人間の美事なりと雖ども、世人簡易を悦べば簡易を装ふて世に佞する者あり、簡易を仮て人を嚇する者あり。猶かの田舎児が訥朴を以て人を欺くが如し。又合衆国にて賄賂を禁ずるの法甚だ密なりと雖ども、之を禁ずること愈密なれば其行はるゝことも亦愈甚し。其事情は在昔日本にて博奕を禁ずることも最も厳にして、其流行最も盛なりしが如し。是等の細件を枚挙すれば際限なしと雖ども、今姑くこれを擱き、世論に合衆政治を公平なりとする所以は、其国民一般の心を以て政を為し、人口百万人の国には百万の心を一に合して事を議定するゆゑ公平なりと云ふことならん。然るに事実に於て大に差支あり。爰に其一箇条を示さん。合衆政治にて代議士を撰ぶに、入札を用ひて多数の方に落札するの法あり。多数とあれば一枚多きも多数なるゆゑ、万一国中の人気二組に分るゝことありて、百万の人口の内より一組を五十一万人とし一組を四十九万人として札を投ずれば、撰挙に当る人物は必ず一方に偏して、四十九万人の人は最初より国議に与るを得ざる訳けなり。又この撰挙に当たる代議士の数を百人として、議院に出席し大切なる国事を議定するときに、例の如く入札を用ひて五十一人と四十九人との差あれば、是亦五十一人の多数に決せざる可らず。故に此決議は全国民中の多数に従ふに非ず、多数中の多数を以て決し、其差、極て少なきものなれば、大数国民四分一の心を以て他の四分の三を制するの割合なり。之を公平と云ふ可らず(「ミル」氏代議政治論の内)。此他代議政治の事に就ては頗る議論の入組たるものあり。容易に其得失を断ず可らず。又立君の政治には政府の威を以て人民を窘るの弊あり。合衆の政治には人民の説を以て政府を煩はすの患あり。故に政府或は其煩はしきに堪へざれば、乃ち兵力に依頼して遂に大に禍を招くことあり。合衆政治に限りて兵乱少なしと云ふ可らず。近くは千八百六十一年売奴の議論よりして合衆国の南北に党類を分ち、百万の市民忽ち兇器を取て古来未曾有の大戦争を開き、兄弟相屠り同類相残(そこな)ひ、内乱四年の間に財を費し人を失ふこと殆ど其数を計る可らず。元と此戦争の起る原因は、国内上流の士君子、売奴の旧悪習を悪み、天理人道を唱へて事件に及びしことにて、人間界の一美談と称す可しと雖ども、其事一度び起れば、事の枝末に又枝末を生じ、理と利と相混じ、道と慾と相乱れ、遂には本趣意の在る所を知る可らずして、其事跡に現はれたるものを見れば、必竟自由国の人民、相互に権威を貪り其私を逞ふせんと欲するより外ならず。其状恰も天上の楽園に群鬼の闘ふが如くなり。若し地下の先人をして知ることあらしめなば、今この衆鬼子の戦ふを見てこれを何とか云はん。戦死の輩も黄泉に赴くと雖ども、先人を見るに顔色なかる可し。又英国の学士「ミル」氏著述の経済書に云く、或人の説に、人類の目的は唯進て取るに在り、足以て踏み手以て推し、互に踵を接して先を争ふ可し、是即ち生産進歩のために最も願ふ可き有様なりとて、唯利是争ふを以て人間最上の約束と思ふ者なきに非ざれども、余が所見にては甚だこれを悦ばず、方今世界中にてこの有様を事実に写出したる処は亜米利加の合衆国なり、「コウカス」人種《白人種》の男子相合し、不正不公の覊軛を脱して別に一世界を開き、人口繁殖せざるに非ず、財用富饒ならざるに非ず、土地も亦広くして耕すに余あり、自主自由の権は普く行はれて国民又貧の何物たるを知らず、斯る至善至美の便宜を得ると雖ども、其一般の風俗に顕はれたる成跡を見れば亦怪む可し、全国の男児は終歳馳駆(ちく)して金円を逐ひ、全国の婦人は終身孜々として此逐円の男子を生殖するのみ、これを人間交際の至善と云はん乎、余はこれを信ぜずと。以上「ミル」氏の説を見ても亦以て合衆国の風俗に就き其の一斑を窺知るに足る可し。
右所論に由て之を観れば、立君の政治必ずしも良ならず、合衆の政治必ずしも便ならず。政治の名を何と名るも必竟人間交際中の一箇条たるに過ぎざれば、僅に其一箇条の体裁を見て文明の本旨を判断す可らず。其体裁果して不便利ならば之を改るも可なり、或は事実に妨なくば之を改めざるも可なり。人間の目的は唯文明に達するの一事あるのみ。之に達せんとするには様々の方便なかる可らず。随て之を試み随て之を改め、千百の試験を経て其際に多少の進歩を為す可きものなれば、人の思想は一方に偏す可らず。綽々(しやくしやく)然として余裕あらんことを要するなり。凡そ世の事物は試みざれば進むものなし。仮令試てよく進むも未だ其極度に達したるものあるを聞かず。開闢の初より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり。諸国の政治も今正に其試験中なれば遽に其良否を定む可らざるは固より論を俟たず。唯其文明に益すること多きものを良政府と名け、之に益すること少なき歟、又は之を害するものを名けて悪政府と云ふのみ。故に政治の良否を評するには、其国民の達し得たる文明の度を測量してこれを決定す可し。世に未だ至文至明の国あらざれば、至善至美の政治も亦未だある可らず。或は文明の極度に至らば何等の政府も全く無用の長物に属す可し。若し夫れ然るときは、何ぞ其体裁を撰ぶに足らん、何ぞ其名義を争ふに足らん。今の世の文明、其進歩の途中に在れば、政治も亦進歩の途中に在ること明なり。唯各国互に数歩の前後あるのみ。英国と「メキシコ」とを比較して、英の文明右に出でなば其政治も亦右に出ることならん。合衆国の風俗便宜しからざるも、支那の文明に比してこれに優る所あらば、合衆国の政治は支那よりも良きことならん。故に立君の政治も共和の政治も、良なりと云へば共に良なり、不良なりと云へば共に不良なり。且政治は独り文明の源に非ず。文明に従て其進退を為し、文学商売等の諸件と共に、文明中の一局を働くものなりとのことは、前既に之を論じたり。故に文明は譬へば鹿の如く、政治等は射者の如し。射者固より一人に非ず、其射者も亦人々流を異にす可し。唯其目途とする所は鹿を射てこれを獲(う)るに在るのみ。鹿をさへ獲れば、立てこれを射るも、坐してこれを射るも、或は時宜に由り赤手(素手)を以て之を捕るも妨あることなし。特(ひと)り一家の射法に拘泥して、中(あ)たる可き矢を射ず、獲べき鹿を失ふは、田猟に拙なるものと云ふ可し。
巻之二
第四章 一国人民の智徳を論ず
前章に文明は人の智徳の進歩なりと云へり。然ば則ち爰に有智有徳の人あらん、これを文明の人と名く可きや。云く、然り、これを名けて文明の人と云ふ可し。然りと雖ども此人の住居する国を目して文明の国と名く可きや否は今だ知る可らざるなり。文明は一人の身に就て論ず可らず、全国の有様に就て見る可きものなり。今西洋諸国を文明と云ひ亜細亜諸国を半開と云ふと雖ども、二、三の人物を挙てこれを論ずれば、西洋にも頑陋至愚の民あり、亜細亜にも智徳俊英の士あり。然り而して西洋を文明とし亜細亜を不文とするものは、西洋に於てはこの至愚の民、其愚を逞ふすること能はず、亜細亜に於てはこの俊英の士、其智徳を逞ふすること能はざるを以てなり。其これを逞ふするを得ざるは何ぞや。一人の智愚に由るに非ず、全国に行はるゝ気風に制せらるればなり。故に文明の在る所を求めんとするには、先づ其国を制する気風の在る所を察せざる可らず。且其気風は即ち一国の人民に有する智徳の現像にして、或は進み或は退き、或は増し或は減じ、進退増減瞬間も止むことなくして恰も全国運動の源なるが故に、一度びこの気風の在る所を探得れば天下の事物一として明瞭ならざるはなく、其利害得失を察してこれを論ずること物を嚢中に探るよりも易かる可し。
右の如くこの気風なるものは一人の気風に非ずして全国の気風なれば、今一場の事に就てこれを察せんとするも、目見る可らず耳聞く可らず、或は適(たまた)まこれを見聞きしたることありと云ふも、其所見所聞に随ひ常に齟齬を生じて事の真面目を断ずるに足らず。譬へば一国の山沢を計るには、其国中に布在せる山沢の坪数を測量し、其総計を記してこれを山国と名け又は沢国と名く可し、稀に大山大沢あればとて遽に臆断してこれを山国沢国と云ふ可らざるが如し。故に全国人民の気風を知り其智徳の趣を探らんとするには、其働の相集りて世間一般の実跡に顕はるゝものを見てこれを察せざる可らず。或は此智徳は人の智徳に非ずして国の智徳と名く可きものなり。蓋し国の智徳とは国中一般に分賦せる智徳の全量を指して名を下だしたるものなればなり。既に其量の多少を知れば其進退増減を察し其運動方向を明にするも亦難きに非ず。抑も智徳の運動は恰も大風の如く又河流の如し。大風北より南に吹き、河水西より東に流れ、其緩急方向は高き処より眺(目+永)て明にこれを見る可しと雖ども、退て家の内に入れば風なきが如く、土堤の際を見れば水流れざるが如し。或は甚しくこれを妨るものあれば、全く其方向を変じて逆に流るゝこともあり。然りと雖ども其逆に流るゝはこれを妨ぐるものありて然るものなれば、局処の逆流を見て河流の方向を臆断し難し。必ず其所見を高遠にせざる可らず。譬へば経済論に、富有の基は正直と勉強と倹約との三箇条に在りと云へり。今西洋の商人と日本の商人とを比較して其商売の趣を見るに、日本の商人必ずしも不正に非ず、亦必ずしも懶惰に非ず、加之其質素倹約の風に至ては遥に西洋人の及ばざる所あり。然るに一国商売の事跡に顕るゝ貧富に就て見れば、日本は遥に西洋の諸国に及び難し。又支那は往古より礼儀の国と称し、其言或は自負に似たれども、事に実あらざれば名も亦ある可らず。古来支那には実に礼儀の士君子ありて其事業称す可きもの少なからず。今日に至ても其人物乏しきに非ざる可しと雖ども、全国の有様を見れば人を殺し物を盗む者は甚だ多く、刑法は極て厳刻なれども罪人の数は常に減ずることなし。其人情風俗の卑屈賎劣なるは真に亜細亜国の骨法を表し得たるものと云ふ可し。故に支那は礼儀の国に非ず、礼儀の人の住居する国と云ふ可きなり。
人の心の働は千緒万端、朝は夕に異なり、夜は昼に同じからず。今日の君子は明日の小人と為る可し、今年の敵は明年の朋友と為る可し。其機変愈出れば愈奇なり。幻の如く魔の如く、思議す可らず測量す可らず。他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず、夫婦親子の間と雖ども互に其心機の変を測る可らず。啻に夫婦親子のみならず、自己の心を以て自からよく其心の変化を制するに足らず。所謂今吾は古吾に非ずとは即是れなり。其情状恰も晴雨の測る可らざるが如し。昔木下藤吉主人の金六両を攘て出奔し、此六両の金を武家奉公の資と為して始て織田信長に仕へ、次第に立身するに従て丹羽柴田の名望を慕ひ、羽柴秀吉と姓名を改めて織田氏の隊長と為り、其後無窮の時変に遭ひ、或は敗し或は成り、機に投じ変に応じて、遂に日本国中を押領し、豊臣太閤の名を以て全国の政権を一手に握り、今日に至るまでも其功業の盛なるを称ぜざるものなし。然りと雖ども初め藤吉が六両の金を攘て出奔するとき、豈日本国中を押領するの素志あらんや。既に信長に仕へし後も僅に丹羽柴田の名望を羨て自から姓名をも改めたるに非ずや。其志の小なること推て知る可し。故に主人の金を攘て縛(ばく)に就かざりしは盗賊の身に於て望の外のことなり。次で信長に仕て隊長と為りしは藤吉の身に於て望の外のことなり。又数年の成敗を経て遂に日本国中を押領せしは羽柴秀吉の身に於て望の外のことなり。今此人が太閤の地位に居て顧て前年六両の金を攘みし時の有様を回想せば、生涯の事業一として偶然に成らざるものなく、正に是れ夢中又夢に入るの心地なる可し。後世の学者豊太閤を評する者、皆其豊太閤たりし時の言行を以て其一生の人物を証せんとするが故に大なる誤解を生ずるなり。藤吉と云ひ羽柴と云ひ豊太閤と云ふも、皆一人生涯の間の一段にて、藤吉たるときは藤吉の心あり、羽柴たるときは羽柴の心あり、太閤たるに至れば自から又太閤の心ありて、其心の働、始中終の三段に於て一様なる可らず。尚細にこれを論ずれば、生涯の心の働は千段にも万段にも区別して千状万態の変化を見る可し。古今の学者此理を知らずして、人物を評するに当り其口吻として、某は幼にして大志ありと云ひ、某は三歳のときに斯の奇言を発したりと云ひ、某は五歳のときに斯の奇行ありと云ひ、甚しきは生前の吉祥を記し、又は夢を説て人の言行録の一部と為すものあるに至れり。惑へるも亦甚しと云ふ可し。《世の正史と称する書中に、豊太閤の母は太陽の懐に入るを夢みて妊娠し、後醍醐帝は南木の夢に感じて楠氏を得たりと云ひ、又漢の高祖は竜の瑞を得て生れ其顔竜に似たりと云ふ。此類の虚誕妄説を計れば和漢の史中枚挙に遑あらず。世の学者は此妄説を唱て啻に他人を誑かすのみならず、己も亦これに惑溺して自から信ずる者の如し。気の毒千万なりと云ふ可し。必竟古を慕ふの痼疾よりして妄に古人を尊祟し、其人物の死後より遥に其事業を見て之を奇にし、今人の耳目を驚かして及ぶ可らざるものゝ如くせんがために、牽強附会の説を作りたるのみ。これを売卜者流の妄言と云て可なり。》抑も人たる者は其天賦と教育とに由り、自から其志操の高き者もあり或は賎しき者もありて、其高き者は高き事に志し、其賎しき者は賎しき事に志し、其志操に大体の方向あるは固より論を俟たずと雖ども、今こゝに論ずる所は大志ある者とて必ずしも大業を成すに非ず、大業を成す者とて必ずしも幼年の時より生涯の成功を期するに非ず、仮令ひ大体の志操は方向を定るも、其心匠と事業とは随て変じ随て進み、進退変化窮りなく、偶然の勢に乗じて遂に大事業をも成すものなりとの次第を記したるなり。学者此趣意を誤解する勿れ。
前の所論に由てこれを観れば、人の心の変化を察するは人力の及ぶ所に非ず、到底(ツマリ)其働は皆偶然に出て更に規則なきものと云て可ならん乎。答云く、決して然らず。文明を論ずる学者には自から此変化を察するの一法あり。この法に拠てこれを求れば、人心の働には啻に一定の規則あるのみならず、其定則の正しきこと実物の方円を見るが如く、版に押したる文字を読むが如く、これを誤解せんと欲するも得て誤解す可らず。蓋し其法とは何ぞや。天下の人心を一体に視做して、久しき時限の間に広く比較して、其事跡に顕はるゝものを証するの法、即是れなり。譬へば晴雨の如きも朝の晴は以て夕の雨を卜す可らず、況や数十日の間に幾日の晴あり幾日の雨ありと一定の規則を立てんとするも人智の及ぶ所に非ず。されども一年の間に晴雨の日を平均して計れば、晴は雨よりも多きこと知る可し。又これを一処の地方にて計るよりも広く一州一国に及ぼすときは、其晴雨の日数愈精密なる可し。又この実験を拡て遠く世界中に及ぼし、前数十年と後数十年との晴雨を計て其日数を比較しなば、前後必ず一様にして数日の差もなかる可し。或はこれを百年に及ぼし千年に及ぼすことあらば、正しく一分時の差なきに至る可し。人心の働も亦斯の如し。今一身一家に就て其人の働を察すれば更に規則の存するを見ずと雖ども、広く一国に就てこれを求れば其規則の正しきこと彼の晴雨の日数を平均して其割合の精密なるに異ならず。某の国某の時代には、其国の智徳この方向に赴き、或は此の原因に由て此の度に進み、或は彼の故障に妨げられて彼の度に退きたりと、恰も有形の物に就て其進退方向を見るが如し。英人「ボックル」氏の英国文明史に云く、一国の人心を一体と為して之を見れば其働に定則あること実に驚くに堪たり、犯罪は人の心の働なり、一人の身に就てこれを見れば固より其働に規則ある可らずと雖ども、其国の事情に異変あるに非ざれば罪人の数は毎年異なることなし、譬へば人を殺害する者の如きは多くは一時の怒に乗ずるものなれば、一人の身に於て誰か預(あらかじ)めこれを期し、来年の何月何日に何人を殺さんと自から思慮する者あらんや、然るに仏蘭西全国にて人を殺したる罪人を計るに、其数毎年同様なるのみならず、其殺害に用ひたる器の種類までも毎年異なることなし、尚これよりも不思議なるは自殺する者なり、抑も自殺の事柄たるや、他より命ず可きに非ず、勧む可きに非ず、欺てこれに導く可らず、劫(おびやか)してこれを強ゆ可らず、正に一心の決する所に出るものなれば、其数に規則あらんとは思ふ可らず、然るに千八百四十六年より五十年に至るまで、毎年竜動(ろんどん)に於て自殺する者の数、多きは二百六十六人、少なきは二百十三人にして、平均二百四十人を定りの数とせりと。以上「ボックル」氏の論なり。又こゝに近く一例を挙て云はん。商売上に於て物を売る者は、これを客に強ひて買はしむ可らず。これを買ふと買はざるとは全く買主の権に在り。然るに売物の仕入を為す者は、大抵世間の景気を察して常に余計の品を貯ることなし。米麦反物等は腐敗の恐もなく或は仕入に過分あるも即時に損亡を見ずと雖ども、暑中に魚肉又は蒸菓子等を仕入るゝ者は、朝に仕入れて夕に売れざれば立どころに全損を蒙る可し。然るに暑中試に東京の菓子屋に行き蒸菓子を求れば、終日これを売り、日暮に至れば品のありたけを売払て、夜に入り残品の腐敗せしものあるを聞かず。其都合よきこと正しく売主と買主と預め約束せしが如く、彼の日暮に品のありたけを買ふ人は、恰も自分の便不便は擱き、唯菓子屋の仕入に余あらんことを恐れてこれを買ふものゝ如し。豈奇ならずや。今菓子屋の有様は斯の如しと雖ども、退て市中の毎戸に至り、一年の間に幾度び蒸菓子を喰ひ、何れの店にて幾許の品を買ふやと尋ねなば、人皆これに答ること能はざる可し。故に蒸菓子を喰ふ人の心の働は一人に就て見る可らずと雖ども、市中の人心を一体にしてこれを察すれば、其これを喰ふ心の働には必ず定則ありて、明に其進退方向を見る可きなり。
故に天下の形勢は一事一物に就て臆断す可きものに非ず。必ずしも広く事物の働を見て一般の実跡に顕はるゝ所を察し、此と彼とを比較するに非ざれば真の情実を明にするに足らず。斯の如く広く実際に就て詮索するの法を、西洋の語にて「スタチスチク」と名く。此法は人間の事業を察して其利害得失を明にするため欠く可らざるものにて、近来西洋の学者は専ら此法を用ひて事物の探索に所得多しと云ふ。凡そ土地人民の多少、物価賃銭の高低、婚する者、病に罹る者、死する者等、一々其数を記して表を作り、此彼相比較するときは、世間の事情、これを探るに由なきものも、一目して瞭然たることあり。譬へば英国にて毎年婚姻する者の数は穀物の価に従ひ、穀物の価貴ければ婚姻少なく、其価下落すれば婚姻多く、嘗て其割合を誤ることなしと云へり。日本には未だ「スタチスチク」の表を作る者あらざれば之を知る可らずと雖ども、婚姻の数は必ず米麦の価に従ふことなる可し。男女室に居るは人の大倫なり(結婚は人生の重大事である『孟子』万章上二)とて、世人皆其礼を重んじ軽率に行ふ可きものに非ず。当人相互ひの好悪もあり、身分貧富の都合もあり、父母の命にも従はざる可らず、媒妁の言をも待たざる可らず、其他百般の事情に由り、此も彼も都合よくして其縁談の整ふはこれを偶然と云はざるを得ず。実に其然るを図らずして然るものゝ如し。世に婚姻を奇縁と云ひ、又は出雲の大社結縁の神説あるも、皆婚姻の偶然に出るを証したるものなり。然るに今其実に就てこれを見れば決して偶然に非ず、当人の意に由て成る可らず、父母の命に従て整ふ可らず、媒妁の能弁と雖ども結縁の神霊と雖ども、世間一般の婚姻を如何ともすること能はず。当人の心をも、父母の命をも、媒妁の言をも、大社の神力をも、概してこれを制圧し、自由自在にこれを御して、或は世の縁談を整はしめ、或はこれを破れしむるものは、世間唯有力なる米の相場あるのみ。
此趣意に従て事物を詮索すれば、其働の原因を求るに付き大なる便利あり。抑も事物の働には必ず其原因なかる可らず。而してこの原因を近因と遠因との二様に区別し、近因は見易くして遠因は弁じ難し。近因の数は多くして遠因の数は少なし。近因は動もすれば混雑して人の耳目を惑はすことあれども、遠因は一度び之を探得れば確実にして動くことなし。故に原因を探るの要は近因より次第に遡て遠因に及ぼすに在り。其遡ること愈遠ければ原因の数は愈減少し、一因を以て数様の働を説く可し。今水に沸騰の働を起すものは薪の火なり、人に呼吸の働を生ずるものは空気なり。故に空気は呼吸の原因にして薪は沸騰の原因なれども、唯この原因のみを探得るも未だ詮索を尽したりとするに足らず。元来この薪の燃る所以は薪の質中にある炭素と空気中の酸素と抱合して熱を発するに由り、人の呼吸する所以は空気の中より酸素を引き肺臓に於て血中過剰の炭素と親和して又これを吐出すに由るものなれば、薪と空気とは唯近因にして其遠因は則ち酸素なるものあり。故に水の沸騰と人の呼吸とは其働の趣も異なり其近因も亦異なりと雖ども、尚一歩を進め其遠因なる酸素を得て、始て沸騰の働と呼吸の働とを同一の原因に帰して確実なる議論を定む可きなり。前に云へる世の婚姻の如きも、其近因を云へば当人の心、父母の命、媒妁の言、其他諸般の都合に由て成るものゝ如しと雖ども、この近因にては未だ事情を詳にするに足らざるのみならず、却て混雑を生じて人の耳目を惑はすことあり。乃ちこの近因を捨て、進て遠因のある所を探り、食物の価なるものを得て、始て婚姻の多寡を制する真の原因に逢ひ、確実不抜の規則を見るなり。
又一例を挙て云はん。こゝに酒客あり、馬より落て腰を打ち、遂に半身不随の症に陥りたり。之を療するの法如何す可きや。此病の原因は落馬なりとて、其腰に膏薬を帖し、専ら打撲治療の法を施して可ならん乎。若し然る者はこれを庸医(ようい 薮医者)と云はざる可らず。畢竟落馬は唯この病の近因のみ。其実は多年飲酒の不養生に由り、既に脊髄の衰弱を起して正にこの病症を発せんとするときに当り、会(たまた)ま落馬を以て全身を激動しこれがため頓(とみ)に半身の不随を発したるのみ。故にこの病を療するの術は、先づ飲酒を禁じて病の遠因なる脊髄の衰弱を回復せしむるの在るのみ。少しく医学に志す者は是等の病原を弁じて其療法を施すこと容易なれども、世の文明を論ずる学者に至ては則ち然らず、比々皆庸医の類のみ。近く耳目の聞見する所に惑溺して事物の遠因を索(もとむ)るを知らず、此に欺かれ彼に蔽はれ、妄に小言を発して恣に大事を行はんとし、寸前暗黒、暗夜に棒を振るが如し。其本人を思へば憐む可し、世の為を思へば恐る可し。慎まざる可らず。
前段に論ずる如く、世の文明は周ねく其国民一般に分賦せる智徳の現像なれば、其国の治乱興廃も亦一般の智徳に関係するものにて、二、三の人の能する所に非ず。全国の勢は進めんとするも進む可らず、留めんとするも留む可らず。左に歴史の二、三箇条を掲げて其次第を示さん。元来理論中に史文を用れば、其文章長くして或は読者をして厭はしむるの恐なきに非ざれども、史に拠て事を説くは、小児に苦薬を与ふるに砂糖を和して其口を悦ばしむるが如し。蓋し初学の人の精神には無形の理論を解すること甚だ易からず、故に史論に交へて其理を示すときは、自から了解を速にするの便利あればなり。窃に和漢の歴史を按ずるに、古より英雄豪傑の士君子、時に遇ふ者極て稀なり。自から之を歎息して不平を鳴らし、後世の学者も之を追悼して涙を垂れざるものなし。孔子も時に遇はずと云ひ、孟子も亦然り。道真は筑紫に謫せられ、正成は湊川に死し、是等の例は枚挙に遑あらず。古今遇ま世に功業を成す者あれば之を千歳一遇と称す。蓋し時に遇ふの難きを評したるものなり。然り而して彼の所謂時なるものは何物を指して云ふ乎。周の諸侯よく孔孟を用ひて国政を任じたらば必ず天下を太平に治む可き筈なるに、之を用ひざるは当時の諸侯の罪なりと云ふ乎。道真の遠謫、正成の討死は、藤原氏と後醍醐天皇の罪なりと云ふ乎。然ば則ち時に遇はずとは二、三の人の心に遇はずと云ふことにて、其時なるものは唯二、三の人の心を以て作る可きものならん乎。若し周の諸侯の心をして偶然に孔孟を悦ばしめ、後醍醐天皇をして楠氏の策に従はしめなば、果して各其事を成して、今の学者が想像する如き千歳一遇の大功を奏したることならん乎。所謂時とは二、三の人心と云ふに異ならざる乎。時に遇はずとは英雄豪傑の心と人君の心と齟齬すると云ふ義ならん乎。余輩の所見は全く之に異なり。孔孟の用ひられざるは周の諸侯の罪に非ず、諸侯をして之を用ひしめざるものあり。楠氏の討死は後醍醐天皇の不明に非ず、楠氏をして死地に陥らしめたるものは別にこれあり。蓋し其これを、せしめたる、ものとは何ぞや。即ち時勢なり。即ち当時の人の気風なり。即ち其時代の人民に分賦せる智徳の有様なり。請ふ試に之を論ぜん。天下の形勢は猶蒸気船の走るが如く、天下の事に当る者は猶航海者の如し。千「トン」の船に五百馬力の蒸気機関を仕掛け、一時に五里を走て十日に千二百里の海を渡る可し。之を此蒸気船の速力とす。如何なる航海者にて如何なる工夫を運らすも、此五百馬力を増して五百五十馬力と為す可らず。千二百里の航海を早くして九日に終るの術ある可らず。航海者の職掌は唯其機関の力を妨げずして運転の作用を逞ふせしむるに在るのみ。或は二度の航海に初は十五日を費し後には十日にて達したることあらば、こは後の航海者の巧なるに非ず、初度の航海者の拙にして蒸気の力を妨げたる証なり。人の拙には限ある可らず。此蒸気を以て十五日も費す可し二十日も費す可し、或は其極に至らば全く働なきものと為すこともある可しと雖ども、人の巧を以て機関の本然になき力を造るの理は万々ある可らず。世の治乱興廃も亦斯の如し。其大勢の動くに当て、二、三の人物国政を執り天下の人心を動かさんとするも決して行はる可きことに非ず。況や其人心に背て独り己の意に従はしめんとするものに於てをや。其難きこと船に乗て陸を走らんとするに異ならず。古より英雄豪傑の世に事を成したりと云ふは、其人の技術を以て人民の智徳を進めたるに非ず、唯其智徳の進歩に当てこれを妨げざりしのみ。試に見よ、天下の商人、夏は氷を売り冬はたどんを売るに非ずや。唯世間の人心に従ふのみ。今冬に当て氷の店を開き、夏の夜にたどんを売る者あらば、人誰かこれを愚者と云はざらん。然り而して彼の英雄豪傑の士に至ては独り然らず、風雪の厳寒に氷を売らんとして之を買ふ者あらざれば、則ち其買はざる者に罪を帰して独り自から不平を訴るは何ぞや。思はざるの甚しきものなり。英雄豪傑、氷の売れざるを患ひなば、之を貯て夏の至るを待ち、其これを待つの間に勉て氷の功能を説き、世人をして氷なるものあるを知らしむるに若かず。果して其物に実の功能あれば、時節至てこれを買ふ者もある可し。或は又実の功能もなくして到底売る可き目途なくば、断じて其商売を止む可きなり。
周の末世に及て天下の人皆王室礼儀の束縛を悦ばず、其束縛漸く解くるに従ひ、諸侯は天子に背き、大夫は諸侯を制し、或は陪臣国命を執る者ありて、天下の政権は四分五裂、正に是れ封建の貴族権を争ふの時節にて、又唐虞辞譲(禅譲)の風を慕ふ者なく、天下唯貴族あるを知て人民あるを知らざるなり。故に貴族の弱小なる者を助けて其強大なる者を制すれば、則ち天下の人心に適して一世の権柄を執る可し。斉桓(斉の桓公)晋文(晋の文公)の霸業、即是なり。此時に当て孔子は独り堯舜の治風を主張し、無形の徳義を以て天下を化するの説を唱ふれども、固より事実に行はる可らず。当時を以て孔子の事業を見るに、彼の管仲(桓公の宰相)の輩が時勢に順ふの巧なるに及ばざること遠し。孟子に至ては其事益難し。当時封建の衆貴族漸く合一の勢に赴き、弱を助け強を制するの霸業は又行はれずして、強は弱を滅ぼし大は小を併するの時節と為り、蘇秦張儀の輩正に四方に奔走して、或は其事を助け或は之を破り、合縦連衡の戦争に忙はしき世なれば、貴族と雖ども自から其身を安んずるを得ず。奈何ぞ人民を思ふに遑あらんや、奈何ぞ五畝の宅(国民の暮し『孟子』梁恵上三)を顧るに遑あらんや。唯全国の力を攻防の事に用ひて君長一己の安全を謀るのみ。仮令ひ或は明主仁君あるも、孟子の言を聞て仁政を施せば政と共に身を危ふするの恐あり、即ち滕(春秋戦国時代の小国)の斉楚に介(はさ)まりて孟子に銘策なかりしも其一証なり(梁恵下一三)。余輩敢て管仲蘇張に左袒して孔孟を擯斥するに非ずと雖ども、唯此二大家が時勢を知らず、其学問を当時の政治に施さんとして、却て世間の嘲を取り、後世に益することなきを悲むのみ。孔孟は一世の大学者なり、古来稀有の思想者なり。若し此人をして卓見を抱かしめ、当時に行はるゝ政治の範囲を脱して恰も別に一世界を開き、人類の本分を説て万代に差支なき教を定ることあらしめなば、其功徳必ず洪大なる可き筈なるに、終身この範囲の内に籠絡せられて一歩を脱すること能はず、其説く所もこれがため自から体裁を失ひ、純精の理論に非ずして過半は政談を交へ、所謂「ヒロソヒイ」の品価を落すものなり。其道に従事する輩は、仮令ひ万巻の書を読むも、政府の上に立て事を為すに非ざれば他に用なきが如く、退て窃に不平を鳴すのみ。豈これを鄙劣(ひれつ)と云はざる可けんや。此学流若し周ねく世に行はれなば、天下の人は悉皆政府の上に立て政を行ふの人にして、政府の下に居て政を被る者はなかる可し。人に智愚上下の区別を作り、己れ自から智人の位に居て愚民を治めんとするに急なるが故に、世の政治に関らんとするの心も亦急なり。遂に熱中煩悶して喪家の狗(世に受け入れられずに落ちぶれた人)の譏を招くに至れり。余輩は聖人のために之を恥るなり。又其学流の道を政治に施すの一事に就ても大なる差支あり。元来孔孟の本説は修心倫常の道なり。畢竟無形の仁義道徳を論ずるものにて、之を心の学と云ふも可なり。道徳も純精無雑なれば之を軽んず可らず。一身の私に於ては其功能極て大なりと雖ども、徳は一人の内に存して、有形の外物に接するの働あるものに非ず。故に無為渾沌にして人事少なき世に在ては人民を維持するに便利なれども、人文の開るに従て次第に其力を失はざるを得ず。然るに今内に存する無形のものを以て外に顕はるゝ有形の政に施し、古の道を以て今世の人事を処し、情実を以て下民を御せんとするは、惑溺の甚しきものと云ふ可し。其時と処とを知らざるは、恰も船を以て陸を走らんとし、盛夏の時節に裘(かはごろも)を求るが如し。到底事実に行はる可らざるの策なり。其明証は数千年の久しき今日に至るまで、孔孟の道を政に施してよく天下を治めたる者なきを以て徴す可し。故に云く、孔孟の用ひられざるは諸侯の罪に非ず、其時代の勢に妨げられたるものなり。後世の政に其道の行はれざるは道の失に非ず、之を施すに時と場所とを誤りたるものなり。周の時代は孔孟に適する時代に非ず、孔孟は此時代に在て現に事を為す可き人物に非ず。其道も後世に於ては政治に施す可き道に非ず、理論家の説《ヒロソヒイ》と政治家の事《ポリチカルマタル》とは大に区別あるものなり。後の学者、孔孟の道に由て政治の法を求る勿れ。此事に就ては書中別に又論ずる所ある可し。
楠氏の死も亦時勢の然らしむるものなり。日本にて政権の王室を去ること日既に久し。保元平治の以前より兵馬の権は全く源平二氏に帰して、天下の武士皆其隷属にあらざるはなし。頼朝、父祖の遺業を継で関東に起り、日本国中一人として之に抗する者なきは、天下の人皆関東の兵力に畏服し、源氏あるを知て王室あるを知らざればなり。北条氏次で政権を執ると雖ども、鎌倉の旧物を改めず。是亦源氏の余光に頼るものなり。北条氏亡て足利氏起るも亦源氏の門閥を以て事を成したる者なり。北条足利の際に当て諸方の武士兵を挙げて、名は勤王と云ふと雖ども、其実は試に関東に抗して功名を謀るものなり。或は此勤王の輩をして果して其意を得せしめなば、必ず又第二の北条たる可し、第二の足利たる可し。天子のために謀れば前門の虎を逐て後門の狼に逢ふが如きのみ。織田豊臣徳川の事跡を見て之を証す可し。鎌倉以後天下に事を挙る者は一人として勤王の説を唱へざるものなくして、事成る後は一人として勤王の実を行ふたるものなし。勤王は唯其事を企る間の口実にして、事成る後の事実に非ず。史に云く、後醍醐天皇北条氏を滅し、首として足利尊氏の功を賞して諸将の上に置き、新田義貞をして之に亜(つ)がしめ、楠正成以下勤王の功臣は之を捨てゝ顧みず、遂に尊氏をして野心を逞ふせしめ、再び王室の衰微を致せりとて、今日に至るまでも世の学者、歴史を読て此一段に至れば切歯扼腕、尊氏の兇悪を憤て天皇の不明を歎ぜざる者なし。蓋し時勢を知らざる者の論なり。此時に当り天下の権柄は武家の手に在て、武家の根本は関東に在り。北条を滅したる者も関東の武士なり、天皇をして位に復せしめたる者も関東の武士なり。足利氏は関東の名家、声望素より高し。当時関西の諸族、勤王の義を唱ると雖ども、足利が向背を改るに非ずんば安ぞよく復位の業を成すを得んや。事成るの日に之を首功と為したるも、天皇の意を以て尊氏が汗馬の労を賞したるに非ず、時勢に従て足利家の名望に報じたるものなり。此一事を見ても当時の形勢を推察す可し。尊氏は初より勤王の心あるに非ず、其権威は勤王のために得たるものに非ず、足利の家に属したる固有の権威なり。其王に勤めたるは一時北条を倒さんがため私に便利なるを以て勤めたれども、既に之を倒せば勤王の術を用ひざるも自家の権威に損する所なし。是れ其反覆窮りなく又鎌倉に拠て自立したる由縁なり。正成の如きは則ち然らず。河内の一小寒族より起り、勤王の名を以て僅に数百人の士卒を募り、千辛万苦奇功を奏したりと雖ども、唯如何せん名望に乏しくして関東の名家と肩を並るに足らず、足利輩の目を以て之を見れば隷属に等しきのみ。天皇固より正成の功を知らざるに非ずと雖ども、人心に戻て之を首功の列に置くを得ず。故に足利は王室を御する者にして、楠氏は王室に御せらるゝ者なり。是亦一世の形勢にて如何ともす可らず。且正成は、もと勤王の二字に由て権を得たる者なれば、天下に勤王の気風盛なれば正成も亦盛なり、然らざれば正成も亦窮するの理なり。然るに今此勤王の首唱たる正成が尊氏の輩に隷属視せられて之を甘んじ、天皇も亦これを如何ともすること能はざるは、当時天下に勤王の気風乏しきこと推て知る可し。而して其気風の乏しき所以は何ぞや。独り後醍醐天皇の不明に由るに非ず。保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑あらず。後世の史家諂諛(てんゆ)の筆を運らすも尚よく其罪を庇ふこと能はず。父子相戦ひ兄弟相伐ち、其武臣に依頼するものは唯自家の骨肉を屠らんがためのみ。北条の時代に至ては陪臣を以て天子の廃立を司どるのみならず、王室の諸族互に其骨肉を陪臣に讒して位を争ふに至れり。自家の相続を争ふに忙はしければ、又天下の事を顧るに遑あらず、之を度外に置きしこと知る可し。天子は天下の事に関る主人に非ずして、武家の威力に束縛せらるゝ奴隷のみ。《伏見帝密に北条貞時に敕(勅)して亀山帝の後(子)を立るの不利を説き、帝の皇子を立てゝ後伏見帝と為したりに、伏見の従弟なる後宇多上皇貞時に訴へ、後伏見を廃して後宇多帝の皇子を立たることあり。》後醍醐天皇名君に非ずと云ふも、前代の諸帝に比すれば其言行頗る見る可きものあり。何ぞ独り王室衰廃の罪を蒙るの理あらんや。政権の王室を去るは他より之を奪ふたるに非ず、積年の勢にて由て王室自から其権柄を捨て他をして之を拾はしめたるなり。是即ち天下の人心、武家あるを知て王室あるを知らず、関東あるを知て京師あるを知らざる所以なり。仮令ひ天皇をして聖明ならしむるも、十名の正成を得て大将軍に任ずるも、此積弱の余を承て何事を成す可きや、人力の及ぶ所に非ず。是に由て之を観れば、足利の成業も偶然に非ず、楠氏の討死も亦偶然に非ず、皆其然る所以の源因ありて然るものなり。故に云く、正成の死は後醍醐天皇の不明に因るに非ず、時の勢に因るものなり。正成は尊氏と戦て死したるに非ず、時勢に敵して敗したるものなり。
右所論の如く、英雄豪傑の時に遇はずと云ふは、唯其時代に行はるゝ一般の気風に遇はずして心事の齟齬したることを云ふなり。故に其千歳一遇の時を得て事を成したりと云ふものも、亦唯時勢に適して人民の気力を逞ふせしめたることを云ふのみ。千七百年代に亜米利加合衆国の独立したるも其謀首四十八士の創業に非ず、「ワシントン」一人の戦功に非ず。四十八士の輩は唯十三州の人民に分賦せる独立の気力を事実の有様に顕はし、「ワシントン」は其気力を戦場に用ひたるのみ。故に合衆国の独立は千歳一遇の奇功に非ず、仮令ひ当時の戦に敗して一時は事を誤ることあるも、別に又四百八十士もあり、別に又十名の「ワシントン」もありて、到底合衆国の人民は独立せざる可らざる者なり。近くは四年前仏蘭西と孛魯士(ぷろしや)との戦に、仏の敗走は国帝第三世「ナポレオン」の失策にして、孛の勝利は其宰相「ビスマルク」の功なりと云ふ者あれども、決して然らず。「ナポレオン」と「ビスマルク」と智愚の差あるに非ず。其勝敗の異なりし所以は当時の勢にて、孛の人民は一和して強く、仏の人民は党を分て弱かりしがためのみ。「ビスマルク」は此勢に順て孛人の勇気を逞ふせしめ、「ナポレオン」は仏人の赴く所に逆ふて其人心に戻りたるがためのみ。尚明に其証を示さん。今「ワシントン」を以て支那の皇帝と為し、「ヱルリントン」を以て其将軍と為し、支那の軍勢を率ひて英国の兵隊と戦ふことあらば、其勝敗如何なる可きや。仮令ひ支那に鉄艦大砲の盛あるも、英の火縄筒と帆前船のために打破らる可し。是に由て観れば、戦の勝敗は将帥にも因らず、亦器械にも因らず、唯人民一般の気力に在るのみ。或は数万の勇士を戦に用ひて敗走することあらば、こは士卒の知る所に非ず、将帥の拙劣を以て兵卒の進退を妨げ、其本然の勇気を逞ふせしめざるの罪なり。
又一例を挙て云はん。方今日本の政府にて事務の挙らざるを以て長官の不才に帰し、専ら人才を得んとして此を登用し彼を抜擢して之を試れども、事務の実に変ることなし。尚此人物を不足なりとして乃ち外国人を雇ひ、或はこれを教師と為し或はこれを顧問に備へて事を謀れども、政府の事務は依然として挙ることなし。其事務の挙らざる所に就てこれを見れば、政府の官員は実に不才なるが如く、教師顧問のために雇たる外国人も悉皆愚人なるが如し。然りと雖ども方今政府の上に在る官員は国内の人才なり、又其外国人と雖ども愚人を撰てこれを雇たるものに非ず。然ば則ち事務の挙らざるは別に源因なかる可らず。其源因とは何ぞや。政を事実に施すに当て必ず如何ともす可らざるの事情あり、是れ其源因なり。此事情なるものはこれを名状すること甚だ難しと雖ども、俗に所謂多勢に無勢にて叶はぬと云ふことなり。政府の失策を行ふ由縁は、常にこの多勢に無勢なるものに窘めらるればなり。政府の長官其失策たるを知らざるに非ず。知てこれを行ふは何ぞや。長官は無勢なり、衆論は多勢なり、これを如何ともす可らず。此衆論の由て来る所を尋るに、真に其初発の出所を詳にす可らず。恰も天より降り来るものゝ如しと雖ども、其力よく政府の事務を制御するに足れり。故に政府の事務の挙らざるは二、三の官員の罪に非ず、この衆論の罪なり。世上の人誤て官員の処置を咎る勿れ。古人は先づ君心の非を正だすを以て緊要事と為したれども、余輩の説はこれに異なり。天下の急務は先づ衆論の非を正だすに在り。抑も官員たる者は固より近く国事に接するものなれば、其憂国の心も亦自から深切にして、衆論の非を患ひ百方苦慮して此非を正だすの術を求む可き筈なれども、或は然らずして其官員も亦衆論者中の一人なる歟、又は其論に惑溺してこれを悦ぶ者もあらん。此輩は所謂人を患るの地位に居て、人に患らるゝの事を為す者と云ふ可し。政府の処置に往々自から建てゝ自から毀つが如き失策あるも此輩の致す所なり。是亦国のために如何ともす可らざるの事情なれば、憂国の学者は唯須らく文明の説を主張し、官私の別なく等しく之を惑溺の中に救て、以て衆論の方向を改めしめんことを勉む可きのみ。衆論の向ふ所は天下に敵なし、奈何ぞ政府の区々たるを患ふるに足らん、奈何ぞ官員の瑣々(ささ)たるを咎るに足らん。政府は固より衆論に従て方向を改るものなり。故に云く、今の学者は政府を咎めずして衆論の非を憂ふ可きなり。
或人云く、此一章の趣意に従へば、天下の事物は悉皆天下の人心に任して傍より之を如何ともす可らず、世の形勢は猶寒暑の来往の如く草木の栄枯の如くして毫も人力を加ふ可らざるもの乎、政府の人間に用なく、学者も無用の長物、商人も職人も唯天然に任して、各自から勉む可き職分なきが如し、これを文明進歩の有様と云ふ乎。答て云く、決して然らず。前既に論ずる如く、文明は人間の約束なれば、之を達すること固より人間の目的なり。其これを達するの際に当て各其職分なかる可らず。政府は事物の順序を司どりて現在の処置を施し、学者は前後に注意して未来を謀り、工商は私の業を営て自から国の富を致す等、各職を分て文明の一局を勤るものなり。固より政府と雖ども前後の注意なかる可らず、学者にも現在の仕事なかる可らず、且政府の官員とても学者の内より出るものなれば、此彼の職分同様なる可きに似たりと雖ども、既に官私の界を分ち、其本職を定めて分界を明にすれば、現在と未来との区別なかる可らず。今国に事あれば其事の鋒先きに当て即時に可否を決するは政府の任なれども、平生よく世上の形勢を察して将来の用意を為し、或は其事を来たし或は之を未然に防ぐは学者の職分なり。世の学者或は此理を知らずして漫に事を好み、自己の本分を忘れて世間に奔走し、甚しきは官員に駆使されて目前の利害を処置せんとし、其事を成す能はずして却て学者の品位を落す者あり。惑へるの甚しきなり。蓋し政府の働は猶外科の術の如く、学者の論は猶養生の法の如し。其功用に遅速緩急の別ありと雖ども、共に人身のためには欠く可らざるは同様なり。唯一大緊要は互に其働を妨げずして却て相助け、互に相刺衝して互に相励し、文明の進歩に一毫の碍障を置かざるに在るのみ。
第五章 前論の続
一国文明の有様は其国民一般の智徳を見て知る可し。前章に云ふ所の衆論とは即ち国内衆人の議論にて、其時代に在て普く人民の間に分賦せる智徳の有様を顕はしたるものなれば、此衆論を以て人心の在る所を窺ふ可しと雖ども、今又この衆論のことに就て二箇条の弁論あり。即ち其第一条の趣意は、衆論は必ずしも人の数に由らず、智力の分量に由て強弱ありとのことなり。第二条の趣意は、人々に智力ありと雖ども習慣に由て之を結合せざれば衆論の体裁を成さずとのことなり。其次第左の如し。
第一 一人の論は二人の論に勝たず。三人の同説は二人を制す可し。其人数愈多ければ其議論の力も亦愈強し。所謂寡は衆に敵せざるものなり。然りと雖ども此議論の衆寡強弱は、唯才智同等なる人物の間に行はるゝのみ。天下の人を一体に為して之を見れば、其議論の力は人の数の多寡に由らずして智徳の量の多寡に由て強弱あるものなり。人の智徳は猶其筋骨の力の如く、一人にて三人を兼る者あり、或は十人を兼る者あり。故に今衆人を集めて一体と為し、其一体の強弱を計るには唯人数の多少を見てこれを知る可らず。一体の間に分賦せる力の量を測らざる可らず。譬へば百人の人数にて千貫目の物を挙れば、一人の力、各十貫目なれども、人々の力量は必ず同等なる可らず。試に此百人を等分して五十人づゝの二組と為し、この二組の五十人をして各物を挙げしめなば、一組の五十人は七十貫目を挙げ、一組の五十人は三十貫目を挙ることあらん。尚これを四分し又これを八分して之を試みなば、必ず次第に不平均を生じ、其最強の者と最弱の者とを比して、一人よく十人の力を兼る者あるを見ん。依て又其百人の内より屈強なる者二十人を撰て一組と為し、他の八十人を一組と為して之を試みなば、二十人の組は六十貫目を挙げ、八十人の組は僅に四十貫目を挙ぐ可し。今この有様に就て計算するに、人の数を以て見れば二と八との割合なれども、力の量を以て見れば六と四との割合なり。故に力量は人の数に由て定む可らず、其挙る所の物の軽重と其人数との割合を見て之を知る可きなり。
智徳の力は権衡度量を以て計る可らずと雖ども、其趣正しく筋骨の力に異なるの理なし。其強弱の相違に至ては筋力の差よりも尚甚しく、或は一人にて百人を兼ね千人を兼るものもあらん。若し人の智徳をして酒精の如きものならしめなば、必ず目を驚かす奇観ある可し。此種類の人物は十人を蒸溜して、智徳の量、一斗を得たるに、彼の種類の人物は百人を蒸溜して僅に三合を得ることもあらん。一国の議論は人の体質より出るに非ずして其精気より発するものなれば、彼の衆論と唱るものも必ずしも論者の多きのみに由て力あるに非ず、其論者の仲間に分賦せる智徳の分量多きがため、其量を以て人数の不足を補ひ、遂に衆論の名を得たるものなり。欧羅巴の諸国にても人民の智徳を平均すれば、国中文字を知らざる愚民は半に過ぐ可し。其国論と唱へ衆説と称するものは、皆中人以上智者の論説にて、他の愚民は唯其説に雷同し其範囲中に籠絡せられて敢て一己の愚を逞ふすること能はざるのみ。又其中人以上の内にも智愚の差は段々限あることなく、此は彼に勝ち彼は此を排し、始て相接して立所に敗するものあり、久しく互に屹立して勝敗決せざるものあり。千磨百錬、僅に一時の異説を圧し得たるものを、国論衆説と名るのみ。是即ち新聞紙演説会の盛にして衆口の喧しき所以なり。畢竟人民は国の智徳の為に鞭撻せられて、智徳方向を改れば人民も亦方向を改め、智徳党を分てば人民も亦党を分ち、進退集散皆智徳に従はざるはなし。《世間に書画等を悦ぶ者は中人以上字を知て風韻ある人物なり。其これを悦ぶ所以は、古器の歴代を想像し書画運筆の巧拙を比較して之を楽むものなれども、今日に至ては古器書画を貴ぶの風俗洽く世間に行はれて、一丁字を知らざる愚民にても少しく銭ある者は必ず書画を求めて床の間に掛物を掛け、珍器古物を貯へて得意の色を為せる者多し。笑ふ可く亦怪む可しと雖ども、畢竟この愚民も中人以上の風韻に雷同して、識らず知らず此事を為すなり。其外流行の衣裳染物の模様等も皆他人の創意に雷同して之を悦ぶものなり。》近く我日本の事を以て其一証を示さん。前年政府を一新して次で廃藩置県の挙あり。華士族はこれがために権力も利禄も共に失たれども、敢て不平を唱ること能はざるは何ぞや。人或は云く、王政一新は王室の威光に由り、廃藩置県は執政の英断に由て成りしものなりと。是れ時勢を知らざる者の臆断なり。王室若し実の威光あらば其復古何ぞ必ずしも慶応の末年を待たん。早く徳川氏を倒して可なり。或は足利の末に政権を取返すも可なり。復古の機会は必ずしも慶応の末年に限らず。然るに此時に至て始て其業を成し、遂に廃藩の大事をも行ふたるは何ぞや。王室の威光に由るに非ず、執政の英断に由るに非ず、別に其源因なかる可らず。
我国の人民積年専制の暴政に窘められ、門閥を以て権力の源と為し、才智ある者と雖ども門閥に藉(よつ)て其才を用るに非ざれば事を為す可らず。一時は其勢に圧倒せられて全国に智力の働く所を見ず、事々物々皆停滞不流の有様に在るが如くなりしと雖ども、人智発生の力は留めんとして留む可らず、この停滞不流の間にも尚よく歩を進めて、徳川氏の末に至ては世人漸く門閥を厭ふの心を生ぜり。其人物は、或は儒医に隠れ或は著述家に隠れ、或は藩士の内にもあり或は僧侶神官の内にもあり、何れも皆字を知て志を得ざる者なり。其徴候は、天明文化の頃より世に出る著書詩集又は稗史(はいし)小説の中に、往々事に寄せて不平を訴るものあるを見て知る可し。固より其文の上に門閥専制の政を不正なりとて明に議論を立るには非ず、譬へば国学者流は王室の衰微を悲み、漢学者流は貴族執政の奢侈を諷し、又一種の戯作者は慢語放言以て世間を愚弄する等、其文章にも事柄にも取留たる条理なしと雖ども、其の時代に行はるゝ有様を悦ばざるの意は自から言外に顕はるゝものにて、実は本人も訴る所を知らずして不平を訴るなり。其状恰も旧痾(きうあ)身を悩まして自から明に容体を述ること能はずと雖ども、唯其苦痛を訴る者の如し。《都て徳川氏の初、其政権の盛なる時には、世の著述家も其威に圧倒せられて毫も時勢を咎めず、却て幕政に佞するものあり。新井白石の著書、中井竹山の逸史等を見て知る可し。其後文政の頃に至て著したる頼山陽の日本外史には、専ら王政の衰廃を憤り、書中の語気恰も徳川氏に向て其罪を責るが如し。今其然る所以を尋るに、白石竹山は必ずしも幕府の奴隷なるに非ず、山陽は必ずしも天子の忠臣なるに非ず、皆時勢の然らしむる所なり。白石竹山は一時の勢に制せられて筆を逞ふするを得ず、山陽は稍や其束縛を脱して当時に行はるゝ専制の政を怒り、日本外史に藉て其怒気を洩したるのみ。其他和学小説狂詩狂文等の盛なるは特に天明文化の後を最とす。本居、平田、馬琴、蜀山人、平賀源内等の輩、皆有志の士君子なれども、其才力を伸るに地位なくして徒に文事に身を委ね、其事に託して或は尊王の説を唱へ、或は忠臣義士の有様を記し、或は狂言を放て一世を嘲り、強ひて自から不平を慰めたるものなり。》然り而して此国学者流も必ずしも王室の忠僕に非ず、漢学者流も亦必ずしも真実憂世の士君子に非ず。其証拠には、世の隠君子なる者、平居不平を鳴すと雖ども、一旦官途に抜擢せらるれば忽ち其説を変じて不平の沙汰を聞かず、今日の尊王家も五斗米の饒なるに遇へば明日の佐幕家と為り、昨日の町儒者も登用の命を拝すれば今日は得色を顕はす者多し。古今の実験に由て之を見る可し。然ば則ち此和漢の学者流が、徳川の末世に至て尊王憂世の意を筆端に顕はして暗に議論の端を開たるも、多くは其人の本音に非ず、一時尊王と憂世とを名にして以て自己の不平を洩したることならん。されども今其心術の誠なると否と、又其議論の私なると公なるとは姑く擱き、素と此不平の生ずる由縁を尋れば、世の専制門閥に妨げられて己が才力を伸ばすこと能はざるよりして心に憤を醸したるものなれば、人情、専制の下に居るを好まざるの確証は、筆端に顕はるゝ所の語気を見て明々白々たり。唯暴政の盛なる時代には此人情を発露するを得ざるのみ。其これを発露すると否とは、暴政の力と人民の智力と、其強弱如何に在るなり。政府の暴力と人民の智力とは正しく相反対するものにて、此に勢を得れば彼に権を失し、彼に時を得れば此に不平を生じ、其釣合恰も天秤の平均するが如し。徳川氏の政権は終始一の如く盛にして天秤は常に偏重なりしが、末年に及て人智僅に歩を進め、始て其一端に些少の分銅を置くを得たり。かの天明文化の頃より世に行はれたる著書の類は即ちこの分銅と云ふ可きものなり。然りと雖ども此分銅なるもの極て軽量にして固より平均を為すに足らず、況や其平均を破るに於てをや。若し其後に開港の事なからしめなば、何れの時に此平均を倒にして智力の方に権勢を得べきや、識者のよく知る所に非ず。幸にして嘉永年中「ペルリ」渡来の事あり。之を改革の好機会とす。
「ペルリ」渡来の後、徳川の政府にて諸外国と条約を結ぶに及び、世人始て政府の処置を見て其愚にして弱きを知り、又一方には外国人に接して其言を聞き、或は洋書を読み或は訳書を見て益規模を大にし、鬼神の如き政府と雖ども人力を以てこれを倒す可きを悟るに至れり。其事情を形容して云へば、頓に聾盲の耳目を開て始て声色の聞見す可きを知たるが如し。而して始て事の端を開たる者は攘夷論なり。抑も此議論の発する源を尋るに、決して人の私情に非ず、自他の別を明にして自から此国を守らんとするの赤心に出ざるはなし。開闢以来始て外国人に接し、暗黒沈静の深夜より喧嘩囂躁(がうさう)の白昼に出たる者なれば、其見る所の事物悉く皆奇怪にして意に適するものなし。其意は即ち私の意に非ず、日本国と外国との分界をば僅に脳中に想像して、一身以て本国を担当するの意なれば、之を公と云はざるを得ず。固より暗明頓に変じたる際に当り、精神眩惑して其議論に条理の密なる者ある可らず、其挙動も亦暴にして愚ならざるを得ず。概して云へば報国心の粗且未熟なる者なれども、其目的は国の為なるが故に公なり、其議論は外夷を攘ふの一箇条なるが故に単なり。公の心を以て単一の論を唱れば、其勢必ず強盛ならざるを得ず。是即ち攘夷論の初に権を得たる由縁なり。世間の人も一時に之に籠絡せられ、未だ外国交際の利を見ずして先づ之を悪むの心を成し、天下の悪尽(ことごと)く外国の交際に帰して、苟も国内に禍災の生ずるあれば、此も外人の所為と云ひ彼も外人の計略と称し、全国を挙て外国の交際を悦ぶ者なきに至れり。仮令ひ私に之を悦ぶ者あるも世上一般の風に雷同せざるを得ず。然るに幕府は独り此交際の衝に当て外人に接するに稍や条理に拠らざるを得ず。幕府の有司必ずしも外交を好むに非ず、唯外国人の威力と理窟とに答ること能はずして道理を唱る者多しと雖ども、攘夷家の眼を以て視れば此道理は因循姑息のみ。幕府は恰も攘夷論と外国人との中間に介まりて進退惟谷(これきはまる)の有様に陥り、遂に其平均を得ずして益(ますます)弱を示し、攘夷家は益勢を得て憚る所なく、攘夷復古尊王討幕と唱へ、専ら幕府を殪して外夷を払ふの一事に力を尽せり。其際には人を暗殺し家を焼く等、士君子の悦ばざる挙動も少なからずと雖ども、結局幕府を殪すの目的に至ては衆論一に帰し、全国の智力悉く此目的に向て慶応の末年に革命の業を成したるなり。此成行に従へば、革命復古の後には直に攘夷の挙に及ぶ可き筈なれども却て其事なく、又仇とする所の幕府を殪さば則ち止む可き筈なるに、併せて大名士族をも擯斥(ひんせき)したるは何ぞや。蓋し偶然に非ざるなり。攘夷論は唯革命の嚆矢にて、所謂事の近因なる者のみ。一般の智力は初より赴く所を異にし、其目的は復古にも非ず、又攘夷にも非ず、復古攘夷の説を先鋒に用ひて旧来の門閥専制を征伐したるなり。故に此事を起したる者は王室に非ず、其仇とする所の者は幕府に非ず、智力と専制との戦争にして、此戦を企たる源因は国内一般の智力なり。之を事の遠因とす。此遠因なる者は開港以来西洋文明の説を引て援兵と為し、其勢次第に強盛に赴くと雖ども、智戦の兵端を開くには先鋒なかる可らず、是に於てか近因と合して其戦場に向ひ、革命の一挙を終て凱旋したるなり。先鋒の説も一時は勇気を発したれども、凱旋の後に至ては漸く其結構の粗にして久を持すること能はざるを知り、次第に腕力を棄てゝ智力の党に入り、以て今日の勢を成せり。向後この智力に益権を得て、彼の報国心の粗なる者をして密ならしめ、未熟なる者をして熟せしめ、以て我国体を保護することあらば無量の幸福と云ふ可し。故に云く、王政復古は王室の威力に拠るに非ず、王室は恰も国内の智力に名を貸したる者なり。廃藩置県は執政の英断に非ず、執政は恰も国内の智力に役せられて其働を実に施したる者なり。
右の如く全国の智力に由て衆論を成し、其衆論の帰する所にて政府を改め、遂に封建の制度をも廃したることなれども、此衆論に関る人を計れば其数甚だ少し。日本国中の人口を三千万とし、農工商の数は二千五百万よりも多く、士族は僅に二百万に足らず、其他儒医神官僧侶浪人の類を集めて仮に之を士族と視做し、大数五百万人を華士族の党と定め、二千五百万人を平民の党と為し、古より平民は国事に関ることなき風なれば、此度の事に就ても固より之を知らず、故にこの衆論の出る所は必ず士族の党五百万人の内なり。又この五百万人の内にも改革を好む者は甚だ少し。第一これを好まざるの甚しきものは華族なり、次で大臣家老なり、次で大禄の侍なり。此輩は皆改革に由て所損ある者なれば決してこれを好むの理なし。身に才徳なくして家に巨万の財を貯へ、官に在ては高官を占め、民間に在ては富有の名望を得たる人物が、国のために義を唱て財を失ひ身を殺したる者は古来の例に甚だ稀なれば、此度の改革に就ても斯る人物は士族の内にも平民の内にも極て少き筈なり。唯此改革を好む者は、藩中にて門閥なき者か、又は門閥あるも常に志を得ずして不平を抱く者歟、又は無位無禄にして民間に雑居する貧書生歟、何れも皆事にさへ遇へば所得有て所損なき身分の者より外ならず。概して之を云へば改革の乱を好む者は智力ありて銭なき人なり。古今の歴史を見てこれを知る可し。されば此度の改革を企たる者は士族の党五百万の内僅に十分の一にも足らず、婦人小児を除き何程の人数もなかる可し。何処より発したるとも知れず、不図新奇なる説を唱へ出して、何時となく世間に流布し、其説に応ずる者は必ず智力逞しき人物にて、周囲の人は之がために説かれ之がために却(おびやか)され、何心なく雷同する者もあり、止むを得ずして従ふ者もありて、次第に人数も増し、遂に此説を認めて国の衆論と為し、天下の勢を圧倒して鬼神の如き政府をも覆したることなり。其後廃藩置県の一挙も華士族一般のためには極て不便利にして、之を好まざる者は十に七、八、この説を主張する者は僅に二、三なれども、其七、八の人数は所謂古風家にて、此党の間に分賦せる智力は甚だ乏しく、二、三の改革者流に有する智力の分量に及ばざること遠し。古風家と改革家と其人数を比較すれば七、八と二、三との割合なれども、智力の量は此割合を倒にしたるが如し。改革家は唯此智力の量を以て人数の不足を補ひ、七、八の衆人をして其欲する所を逞ふせしめざりしのみ。目今の有様にては真に古風家と称す可き者も甚だ少なく、旧士族の内に其禄位の保つ可き議論を立る者もあらず、和漢の古学者流も半は既に其説を変じ、或は牽強附会なる論を作て私に自家の本説を装ひ、体面を全ふして改革家の党に混同せんと欲する者もあり。之を譬へば和睦を名にして降参を謀る者の如し。固より其名は和睦にても降参にても、混同の久しきに至れば遂には実の方向を同ふして、共に文明の路に進む可きが故に、改革家の党は次第に増す可しと雖ども、其初め事を企てゝこれを成したるは人数の多きがために非ず、唯智力に由て衆人を圧したるなり。今日にても古風家の党に智力ある人物を生じて、次第に党与を得て盛に古風を唱ることあらば、必ず其党に勢を増して改革家も路を避くることなる可しと雖ども、幸にして古風家には智力ある者少なく、或は遇ま人物を生ずれば忽ち党に叛て自家の用をば為さゞるなり。
事の成敗は人の数に由らずして智力の量に由るとのことは前段の確証を以て明に知る可し。故に人間交際の事物は悉皆この智力の在る所を目的として処置せざる可らず。十愚者の意に適せんとして一智者の譏を招く可らず、百愚人の誉言を買はんがために十智者をして不平を抱かしむ可らず。愚者に譏らるゝも恥るに足らず、愚者に誉めらるゝも悦ぶに足らず、愚者の譏誉は以て事を処するの縄墨(じようぼく 基準)と為す可らず。譬へば周礼(しゆらい)に記したる郷飲の意に基き、後世の政府時として酒肴を人民に与ふるの例あれども、其人民の喜悦する有様を見て地方の人心を卜す可らず。苟も文明に赴きたる人間世界に居り、人の恵与の物を飲食して之を悦ぶ者は、飢者に非ざれば愚民なり。此愚民の悦ぶを見て之を悦ぶ者は、其愚民に等しき愚者のみ。又古史に、国君微行して民間を廻り、童謡を聞て之に感ずるの談あり。何ぞ夫れ迀遠なるや。こは往古の事にて証するに足らざれども、今日に在て正しく之に類する者あり。即ち其者とは独裁の政府に用るところの間諜、是なり。政府暴政を行ふて民間に不服の者あらんことを恐れ、小人を遣て世間の事情を探索せしめ、其言を聞て政を処置せんと欲するものあり。此小人を名けて間諜と云ふ。抑もこの間諜なる者は誰に接して何事を聞く可きや。堂々たる士君子は人にものを隠すことなし。或は陰に乱を企る者あらば、其人物は必ず間諜よりも智力逞き者なれば、誰か此小人をして密事を探り得せしめん。故に間諜なる者は唯銭のために役せられて世間に徘徊し、愚民に接して愚説を聞き、自己の臆断を交へて之を主人に報ずるのみ。事実に於て毫も益することなく、主人のためには銭を失ふて徒に智者の嘲を買ふ者と云ふ可し。仏蘭西の第三世「ナポレオン」多年間諜を用ひたれども、孛魯士と戦争のときには国民の情実を探り得ざりしにや、一敗の下に生捕られたるに非ずや。之を鑑みざる可らず。政府若し世間の実情を知らんと欲せば、出版を自由にして智者の議論を聞くに若かず。著書新聞紙に制限を立てゝ智者の言路を塞ぎ、間諜を用ひて世情の動静を探索するは、其状恰も活物を密封して空気の流通を絶ち、傍より其死生を候(うかゞ)ふが如し。何ぞ夫れ鄙劣なるや。其死を欲せば、打て殺す可し、焼て殺す可し。人民の智力を以て国に害ありとせば、天下に読書を禁ずるも可なり、天下の書生を坑(あなうめ)にするも可なり。秦皇の先例則とる可きなり。「ナポレオン」の英明も尚この鄙劣を免かれず、政治家の心術賎むに堪たり。
第二 人の議論は集て趣を変ずることあり。性質臆病なる者にても三人相集れば暗夜に山路を通行して恐るゝことなし。蓋し其勇気は人々に就て求む可らず、三人の間に生ずる勇気なり。又或は十万の勇士風声鶴唳を聞て走ることあり。蓋し其臆病は人々に就て求む可らず、十万人の間に生ずる臆病なり。人の智力議論は猶化学の定則に従ふ物品の如し。曹達(ソーダ)と塩酸とを各別に離せば何れも激烈なる物にて、或は金類をも鎔解するの力あれども、之を合すれば尋常の食塩と為て厨下の日用に供す可し。石灰と硇砂(だうしや)とは何れも激烈品に非ざれども、之を合して硇砂精と為せば其気以て人を卒倒せしむ可し。近来我日本に行はるゝ諸方の会社なるものを見るに、其会社愈大なれば其不始末愈甚しきが如し。百人の会社は十人の会社に若かず、十人の会社は三人の組合に若かず、三人の組合よりも一人にて元手を出し一人の独断にて商売すれば利を得ること最も多し。抑も方今にて結社の商売を企る者は大抵皆世間の才子にて、かの古風なる頑物が祖先の遺法を守て爪に火を灯す者に比すれば、其智力の相違固より同日の論に非ず。然るに此才子相会して事を謀るに至れば、忽ち其性を変じて捧腹に堪へざる失策を行ひ世間に笑はるゝのみならず、其会社中の才子も自から其然る所以を知らずして憮然たるものあり。又今の政府に会して事を為すに当ては、其処置必ずしも智ならず、所謂衆智者結合の変性なるものにて、彼の有力なる曹達と塩酸と合して食塩を生ずるの理に異ならず。概して云へば日本の人は仲間を結て事を行ふに当り、其人々持前の智力に比して不似合なる拙を尽す者なり。
西洋諸国の人民必ずしも智者のみに非ず、然るに其仲間を結て事を行ひ世間の実跡に顕はるゝ所を見れば、智者の所為(しよい)に似たるもの多し。国内の事務悉皆仲間の申合せに非ざるはなし。政府も仲間の申合せにて議事院なるものあり。商売も仲間の組合にて「コンペニ」なるものあり。学者にも仲間あり、寺にも仲間あり。僻遠の村落に至るまでも小民各仲間を結て公私の事務を相談するの風なり。既に仲間を分てば其仲間毎に各固有の議論なきを得ず。譬へば数名の朋友歟、又は二、三軒の近隣にて仲間を結べば、乃ち其仲間に固有の説あり。合して一村と為れば一村の説あり、一州と為り一郡と為れば亦一州一郡の説あり。此の説と彼の説と相合して少しく趣を変じ、又合し又併せて遂に一国の衆論を定むることにて、其趣は恰も若干の兵士を集めて小隊と為し、合して中隊と為し、又併せて大隊と為すが如し。大隊の力はよく敵に向て戦ふ可しと雖ども、其兵士の一己に就て見れば必ずしも勇士のみに非ず。故に大隊の力は兵士各個の力に非ず、其隊を結たるがために別に生じたるものと云ふ可し。今一国の衆論も其定りたる上にて之を見れば頗る高尚にして有力なれども、其然る由縁は、高尚にして有力なる人物の唱へたるが故のみを以て議論の盛なるに非ず、此議論に雷同する仲間の組合宜しきを得て、仲間一般の内に於て自から議論の勇気を生じたるものなり。概して云へば、西洋諸国に行はるゝ衆論は其国人各個の才智よりも更に高尚にして、其人は人物に不似合なる説を唱へ不似合なる事を行ふ者と云ふ可し。
右の如く西洋の人は智恵に不似合なる銘説を唱て不似合なる巧を行ふ者なり。東洋の人は智恵に不似合なる愚説を吐て不似合なる拙を尽す者なり。今其然る所以の源因を尋るに、唯習慣の二字に在るのみ。習慣久しきに至れば第二の天然と為り、識らず知らずして事を成す可し。西洋諸国衆議の法も数十百年の古より世々の習慣にて其俗を成したるものなれば、今日に至ては知らずして自から体裁を得ることならん。亜細亜諸国に於ては則ち然らず、印度の「カステイ」の如く、人の格式を定めて偏重の勢を成し、其利害を別にし其得失を殊にし、自から互に薄情なるのみならず、暴政府の風にて故さらに徒党を禁ずるの法を設て人の集議を妨げ、人民も又只管無事を欲するの心よりして徒党と集議との区別を弁論する気力もなく、唯政府に依頼して国事に関らず、百万の人は百万の心を抱て各一家の内に閉居し、戸外は恰も外国の如くして嘗て心に関することなく、井戸浚(さらひ)の相談も出来難し、況や道普請に於てをや。行斃(ゆきだふれ)を見れば走て過ぎ、犬の糞に逢へば避けて通り、俗に所謂掛り合を遁るゝに忙はしければ、何ぞ集議を企るに遑あらん。習慣の久しき其風俗を成し、遂に今の有様に陥りたるなり。之を譬へば世に銀行なる者なくして、人民皆其余財を家に貯へ、一般の融通を止めて国に大業の企つ可らざるが如し。国内の毎戸を尋れば財本の高なきに非ず、唯毎戸に溜滞して全国の用を為さゞるのみ。人民の議論も又斯の如し。毎戸に問ひ毎人に叩けば各所見なきに非ざれども、其所見百千万の数に分れ、之を結合するの手段を得ずして全国の用を為さゞるものなり。
世の学者の説に、人民の集議は好む可きことなれども無智の人民は気の毒ながら専制の下に立たざるを得ず、故に議事を始るには時を待つ可しと云ふものあり。蓋し其時とは人民に智を生ずるの時なる可しと雖ども、人の智恵は夏の草木の如く一夜の間に成長するものに非ず、仮令ひ或は成長することあるも習慣に由て用るに非ざれば功を成し難し。習慣の力は頗る強盛なるものにて、之を養へば其働に際限ある可らず。遂には私有保護の人心をも圧制するに足れり。其一例を示さん。今我国にて政府の歳入凡そ五分の一は華士族の家禄に費し、其銭穀の出る処は農商より外ならず。今この禄を廃すれば農商の所出は五分の一を減じて、五俵の年貢は四俵と為る可し。小民愚なりと雖ども四と五を区別するの智力なしと云ふ可らず。百姓の身と為りて一方より考れば入組たる事に非ず、唯己が作り出したる米を分て無縁の人を養ふことなれば、与ふると与へざるとの二議あるのみ。又士族の身と為りて考れば家禄は祖先伝来の家産なり、先祖に手柄ありて貰ひしものなれば自から日傭賃に異なり、今我輩に兵役あらざればとて何ぞ先祖の賞典を止めて家産を失ふの理あらんや、士族を無用なりとして其家に属したる禄を奪ふことならば、富商豪農の無為にして食ふ者も其産を奪はざる可らず、何ぞ独り我輩の産を削て無縁の百姓町人を肥さんやと。斯く説を述れば亦一理なきに非ざれども、士族の内にも此議論あるを聞かず。百姓も士族も現に己が私有を得ると失ふとの界に居て、恬として他国の話を聞くが如く、天然の禍福を待つが如く、唯黙坐して事の成行を観るのみ。実に怪しむ可きに非ずや。仮に西洋諸国に於て此類の事件あらしめなば、其世論如何なる可きや。衆口沸くが如く一時の舌戦を開て大騒動なる可し。余輩固より家禄与奪の得失を爰に論ずるには非ざれども、唯日本人が無議の習慣に制せられて、安んず可らざるの穏便に安んじ、開く可きの口を開かず、発す可きの議論を発せざるを驚くのみ。利を争ふは古人の禁句なれども、利を争ふは即ち理を争ふことなり。今我日本は外国人と利を争ふて理を闘(たたかは)するの時なり。内に居て澹泊(淡泊)なる者は外に対しても亦澹泊ならざるを得ず、内に愚鈍なる者は外に活潑なるを得ず。士民の愚鈍澹泊は政府の専制には便利なれども、此士民を頼て外国の交際は甚だ覚束なし。一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事を談ずるも無益なるのみ。蓋し其気象なく又其勇力なきは、天然の欠点に非ず、習慣に由て失ふたるものなれば、之を恢復するの法も亦習慣に由らざれば叶ふ可らず。習慣を変ずること大切なりと云ふ可し。
巻之三
第六章 智徳の弁
前章までの議論には、智徳の二字を熟語に用ひ、文明の進歩は世人一般の智徳の発生に関するものなりとの次第を述たれども、今此一章に於ては智と徳とを区別して其趣の異なる所を示す可し。
徳とは徳義と云ふことにて、西洋の語にて「モラル」と云ふ。「モラル」とは心の行儀と云ふことなり。一人の心の中に慊(こころよ)くして屋漏(をくろう)に愧ざるものなり。智とは智徳と云ふことにて、西洋の語にて「インテレクト」と云ふ。事物を考へ事物を解し事物を合点する働なり。又此徳義にも智恵にも各二様の別ありて、第一貞実、潔白、謙遜、律儀等の如き一心の内に属するものを私徳と云ひ、第二廉恥、公平、正中、勇強等の如き外物に接して人間の交際上に見はるゝ所の働を公徳と名く。又第三に物の理を究めて之に応ずるの働を私智と名け、第四に人事の軽重大小を分別し軽小を後にして重大を先にし其時節と場所とを察するの働を公智と云ふ。故に私智或は之を工夫の小智と云ふも可なり。公智或は之を聡明の大智と云ふも可なり。而して此四者の内にて最も重要なるものは第四条の大智なり。蓋し聡明叡知の働あらざれば私徳私智を拡て公徳公智と為す可らず、或は公私相戻て相害することもある可し。古より明に此四箇条の目を掲げて論じたるものなしと雖ども、学者の議論にても俗間の常談にても、よく其意の在る所を吟味すれば果して此区別あるを見る可し。孟子に惻隠、羞悪、辞譲、是非は人心の四端なり、之を拡るときは火の始て燃へ泉の始て達するが如く、よく之を充れば四海を保つ可く、之を充たざれば父母に事(つか)ふるに足らずとあり。蓋し私徳を拡て公徳に至るの意ならん。又智慧ありと雖ども勢に乗ずるに如かず、鎡基(じき 鋤鍬)ありと雖ども時を待つに如かずとあり(『孟子』公孫上一)。蓋し時勢の緩急を察し私智を拡て公智と為すの義ならん。又俗間の談に某は世間に推出して申分なき人物、公用向には最上なれども一身の行状に至ては言語道断なりと云ふことあり。仏蘭西の宰相「リセリウ」の如き是なり。蓋し公智公徳に欠点なくして私徳に乏しきの謂なり。又某は囲碁、象棋、十露盤は勿論、何事にても工夫は上手なれども、所謂碁智恵、算勘にて、兎角無分別なる人物なりと云ふことあり。蓋し私智ありて公智なきを評するなり。右の如く智徳四様の区別は、学者も俗間も共に許す所のものなれば之を普通の区別と云はざるを得ず。先づ此区別を定めて次に其働を論ずること左の如し。
前に云へる如く聡明叡知の働あらざれば私智を拡て公智と為すを得ず。譬へば囲碁、闘牌(カルタ)、弄椀珠(シナダマ)等の技芸も人の工夫なり、窮理器械等の術も亦人の工夫にして、等しく精神を労するの事なれども、其事柄の軽重大小を察して重大の方に従事し以て世間に益すれば、其智恵の働く所、稍や大なりと云ふ可し。或は又自から其事に手を下ださゞるも、事物の利害得失を察すること「アダム・スミス」が経済の法を論ずるが如くして、自から天下の人心を導き一般に富有の源を深くすることあるは、智恵の働の最も至れるものと云ふ可し。何れにも小智より進て大智に至るには聡明叡知の見なかる可らざるなり。又士君子の口吻に、天下を洒掃(さいさう)すれども庭前は顧みるに足らずなどゝて、治国平天下の術を求めて大に所得あれども、一身一家の内を脩ること能はざる者あり。或は一心一向に律儀を守て戸外の事を知らず、甚しきは身を殺して世に益するなき者あり。何れも皆聡明の働に乏しくして事物の関係を誤り、大小軽重を弁ずる能はずして脩徳の釣合を失したるものなり。是に由て考れば聡明叡知の働は恰も智徳を支配するものなるが故に、徳義に就て論ずるときは之を大徳と云ふも可なりと雖ども、爰に天下一般の人心に従て字義の用ひ来りに拠れば之を徳と名く可らずの由縁あり。蓋し古来我国の人心に於て徳義と称するものは、専ら一人の私徳のみに名を下したる文字にて、其考の在る所を察するに、古書に温良恭謙譲と云ひ、無為にして治ると云ひ、聖人に夢なしと云ひ、君子盛徳の士は愚なるが如しと云ひ、仁者は山野如しと云ふなど、都て是等の趣を以て本旨と為し、結局、外に見はるゝ働よりも内に存するものを徳義と名るのみにて、西洋の語にて云へば、「パッシ-ウ」とて、我より働くには非ずして物に対して受身の姿と為り、唯私心を放解するの一事を以て要領と為すが如し。経書を按ずるに其所説悉皆受身の徳のみを論ずるに非ず、或は活潑々地の妙処もあるが如くなれども、如何せん書中全体の気風にて其人心に感ずる所を見れば唯堪忍卑屈の旨を勧るに過ぎず。其他神仏の教とても脩徳の一段に至ては大同小異のみ。此教に育せられたる我国の人民なれば、一般の人心に拠るときは徳の字の義は甚だ狭くして、所謂聡明叡知等の働は此字義の中に含有することなし。都て文字の趣意を解くには、学者の定めたる字義に拘はらずして天下衆人の心を察し、其衆心に思ふ所の意味を取るを最も確実なりとす。譬へば舟遊山と云ふ文字の如し。一々字義を糺せば甚だ不都合なれども、世間一般に思ふ所にては、此文字の内に山に遊ぶと云ふ義を含有することなし。徳の字も亦斯の如し。学者流に従て義を糺せば其意味甚だ広しと雖ども、世人の解す所は則ち然らず、世俗にて無欲なる山寺の老僧を見れば之を高徳なる上人と尊崇すと雖ども、世に窮理、経済、理論等の学問に長ずる人物あれば、之を徳行の君子と云はずして才子又は智者と称すること必定なり。或は又古今の人物が大事業を成す者あれば之を英雄豪傑として称誉すると雖ども、其人の徳義に就て称する所は唯私徳の一事に在るのみにて、公徳の更に貴ぶ可きものは却て之を徳義の条目に加へずして往々忘るゝことあるが如し。世人の解す所にて徳の字の義の狭きこと以て見る可し。蓋し其心に自から智徳四様の区別を知らざるに非ざれども、時としては之を知るが如く又時としては知らざるが如く、結局天下一般の気風に制せられて其重んずる所、私徳の一方に偏したるものならん。故に余輩も此天下一般の人心に従て字義を定れば、聡明叡知の働は之を智恵の条目中に掲げて、彼の徳義と称するものは其字義の領分を狭くして唯受身の私徳に限らざるを得ざるなり。第六、七章に記す所の徳の字は悉皆この趣意に従て用ひたるものなれば、其議論の際、智恵と徳義とを比較して、智の働は重くして広く、徳の働は軽くして狭く、或は偏執なるが如くなれども、学者若し爰に記す所の趣意を了解せば之に惑ふことなかる可し。
抑も未開の有様に於て私徳の教を主張して人民も亦其風に靡くは独り我国のみに非ず、万国皆然らざるはなし。蓋し国民の精神未だ発生せずして禽獣を去ること遠からざるの時代に於ては、先づ其粗野残刻の挙動を制馭して一身の内を緩和し人類の放心を求めしむるに忙はしければ、人間交際の入組たる関係に就ては之を顧るに遑あらず。猶衣食住の物に於ても、開闢の初には所謂手以て直に口に達するものにて、未だ家屋衣装の事を顧るに遑あらざるが如し。然るに文明次第に進めば人事も亦繁多に赴き、私徳の一器械を以て人間世界を支配す可きの理は万々ある可らずと雖ども、古来の習慣と人生懶惰の天賦とに由て古を慕ふて今に安んじ、一方に偏して平均を失ふたることなり。固より其私徳の条目は、万世に伝へて変ず可らず、世界中に通用して異同ある可らず、最も単一にして最も美なるものなれば、後世より之を改正す可らざるは無論なりと雖ども、世の沿革に従て之を用るに場所を撰び、又これを用るの法を工夫せざる可らず。譬へば食を求るは万古同様なれども、古は手以て直に口に達するの一法ありしもの、後世に至れば飲食の事にも千種万様の方術あるが如し。又これを譬へば私徳の人心に於けるは耳目鼻口の人身に於けるが如し。固より其有用無用を論ず可きに非ず。苟も人の名あれば必ず是れなかる可らず。耳目鼻口有無の議論は片輪者の住居する世界に行はる可きことなれども、苟も片輪以上の地位に上れば亦喋々の弁を費すに足らず。蓋し神儒仏なり、又耶蘇教なり、何れも上古不文の世に在て恰も片輪の時代に唱へたる説なれば、其時代に於て必用なるは固より論を俟たず。後世の今日に至るまでも世界中の人口、十に八、九は片輪なる可ければ、徳義の教も亦決して等閑にし難し。或は之がため喋々たらざる可らざるの勢もあらん。《儒者の道に誠を貴び、神仏の教に一向一心を勧る等、下流の民間に在ては最も緊要なる事なり。譬へば智力未だ発生せざる小児を育し、或は無智無術なる愚民に接して、一概に徳義などは人間のさまで貴ぶ可きものに非ずと云はゞ、果して誤解を生じて、徳は賎しむ可し、智恵は貴ぶ可しと心得、其智恵を又誤解して、美徳を棄てゝ奸智を求むるの弊に陥り、忽ち人間の交際を覆滅するの恐なきに非ざれば、此輩に向ては徳義の事に付き喋々の弁、なかる可らずと雖ども、誠心一向の私徳を以て人類の本分と為し、以て世間万事を支配せんとするが如きは、其弊も亦極て恐る可きものなり。場所と時節とを勘弁して、其向ふ所は高尚の域を期せざる可らず。》然りと雖ども文明の本旨は多事の際に動て進むに在るものなれば、上世の無事単一に安んず可らず。今の人として食を求るに手以て直に口に達するの法を快とせず、我身に耳目鼻口を具するも誇るに足らざるを知らば、私徳の一方を脩るも今だ人事を尽したるに非ざるの理は明白なる可し。文明の人事は極て繁多なるを要す。人事繁多なれば之に応ずる心の働も亦繁多ならざる可らず。若し私徳の一品を以て万事に応ず可きものとせば、今の婦人の徳行を見て之に満足するも理なしと云ふ可らず。支那日本にて風俗正しき家の婦人に、温良恭謙の徳を備へて、言忠信、行篤敬、よく家事を理するの才ある者は珍らしからずと雖ども、此婦人を世間の公務に用ゆ可らざるは何ぞや。人間の事務を処するには私徳のみを以て足らざるの証なり。結局余輩の所見は私徳を人生の細行として顧ざるには非ざれども、古来我国人の心に感ずる如く、唯この一方に偏して議論の本位を定るを好まざるなり。私徳を無用なりとして棄るには非ざれども、之を勤るの外に又大切なる智徳の働あるとの事を示さんと欲するのみ。
智恵と徳義とは恰も人の心を両断して各其一方を支配するものなれば、孰れを重しと為し孰れを軽しと為すの理なし。二者を兼備するに非ざれば之を十全の人類と云ふ可らず。然るに古来学者の論ずる所を見れば、十に八、九は徳義の一方を主張して事実を誤り、其誤の大なるに至ては全く智恵の事を無用なりとする者なきに非ず。世の為に最も患ふ可き弊害なれども、此弊害を弁論するに当て一の困難あり。何となれば今の世に在て智恵と徳義との区別を論じて旧弊を矯めんとするには、先づ此二者の分界を明にし、以て其功用の所在を示すことなれば、思想浅き人の目を以て見るときは、或は其議論は徳を軽んじて智を重んじ漫に徳義の領分を犯すものなりとて不平を抱く者もあらん。或は其議論を軽々看過して、徳義は人間に無用なりとて誤解する者もある可ければなり。抑も世の文明のために智徳の共に入用なるは、猶人身を養ふに菜穀と魚肉と両ながら欠く可らざるが如し。故に今智徳の功用を示して智恵の等閑にす可らざるを論ずるは、不養生なる菜食家に向て肉食を勧るに異ならず。肉食を勧るには必ず肉の功能を説て菜穀の弊害を述べ、菜肉共に用ひて両ながら相戻らざるの理を明にせざる可らず。然るに此菜食家なる者、其片言を信じて、断じて菜穀を禁じて魚肉のみを喰はんとすることあらば、惑の甚しきなり。之を誤解と云はざるを得ず。窃に按ずるに古今の識者も智徳の弁を知らざるに非ざれども、唯この誤解の弊害を恐れて云はざることならん歟。然りと雖ども知て之を云はざれば際限ある可らず。何事にても道理にさへ叶ふことなれば、十人は十人悉皆誤解するものに非ず。或は遇ま十に二、三の誤解あるも尚云はざるに優れり。二、三の誤解を憚りて七、八の智見を塞ぐの理なし。畢竟世人の誤解を恐れて云ふ可き議論をも隠さんとし、或は其議論を装ふて曖昧の際に人を導んとし、所謂坐を見て法を説く(その場の雰囲気に合せること)の策を運らすは、同類の生々を蔑視するの挙動と云ふ可し。世人愚なりと雖ども黒白は弁ずるものなり。同類の人間に甚しき智愚はある可らず。然るに我心を以て人の愚を察し、其誤解を臆度して事の真面目を告げざるは、敬愛の道を失するに非ずや。君子の為す可らざることなり。苟も我に是とする所のものあらば丸出しに之を述て隠すことなく、其可否の判断は他に任して可なり。是即ち余輩が敢て弁を好て智徳の差別を論ずる由縁なり。
徳義は一人の心の内に在るものにて他に示すための働に非ず。脩身と云ひ慎独と云ひ、皆外物に関係なきものなり。譬へば無欲正直は徳義なれども、人の誹謗を恐れ世間の悪評を憚りて無欲正直なる行を勉るものは、これを真の無欲正直と云ふ可らず。悪評と誹謗とは外の物なり。外物のために動くものは徳義と称す可らず。若しこれを徳義といはゞ、一時の事情にて世間の咎めを遁るゝを得るときは、貪欲不正の事を行ふも徳義に於て妨げなかる可し。斯の如きは則ち偽君子と真君子との区別はある可らず。故に徳義とは一切外物の変化に拘はらず、世間の譏誉を顧ることなく、威武も屈すること能はず、貧賎も奪ふこと能はず、確乎不抜、内に存するものを云ふなり。智恵は則ち之に異なり。外物に接して其利害得失を考へ、此の事を行ふて不便利なれば彼の術を施し、我に便利なりと思ふも衆人これを不便利なりと云へば輙(すなは)ち又これを改め、一度び便利と為りたるものも更に又便利なるものあれば之を取らざる可らず。譬へば馬車は駕籠よりも便利なれども、蒸気力の用ゆ可きを知れば又蒸気車を作らざる可らず。此馬車を工夫し蒸気車を発明し、其利害を察して之を用るものは智恵の働なり。斯の如く外物に接して臨機応変以て処置を施すものなれば、其趣全く徳義と相反して之を外の働と云はざるを得ず。有徳の君子は独り家に居て黙坐するも、これを悪人と云ふ可らずと雖ども、智者若し無為にして外物に接することなくば、これを愚者と名るも可なり。
徳義は一人の行ひにて、其功能の及ぶ所は先づ一家の内に在り。主人の行状正直なれば家内の者自から正直に向ひ、父母の言行温順なれば子供の心も自から温順に至る可し。或は親類朋友の間、互に善を責て徳の門に入る可しと雖ども(『孟子』離婁下三一)、結局忠告に由て人を善に導くの領分は甚だ狭し。所謂毎戸に諭す可らず毎人に説く可らずとは即ち此事なり。智恵は則ち然らず。一度び物理を発明してこれを人に告れば、忽ち一国の人心を動かし、或は其発明の大なるに至ては、一人の力、よく全世界の面を一変することあり。「ゼイムス・ワット」蒸気機関を工夫して世界中の工業これがために其趣を一変し、「アダム・スミス」経済の定則を発明して世界中の商売これがために面目を改めり。其これを人に伝るや、或は言を以てし或は書を以てす可し。一度び其言を聞き其書を見て之を実に施す人あれば、其人は正しく「ワット」と「スミス」に異ならず。故に昨日の愚者は今日の智者と為りて、世界中に幾千万の「ワット」と「スミス」を生ず可し。其伝習の速にして其行はるゝ所の領分の広きは、彼の一人の徳義を以て家族朋友に忠告するの類に非ず。或人云く、「トウマス・クラルクソン」が一心を以て世に売奴の悪法を除き、「ジョン・ホワルド〈John Howard〉」が勉強に由て獄屋の弊風を一掃したるは、徳義の働なれば、其功徳の及ぶ所亦洪大無量と云はざるを得ずと。答て云く、誠に然り、此二士は私徳を拡て公徳と為し、其功徳を洪大無量ならしめたるものなり。蓋し二士が事を施すに当て、千辛万苦を憚らずして工夫を運らし、或は書を著し或は財を散じ、難を凌ぎ危を冒して、世間の人心を動かし、遂によく其大業を成したるは、直に私徳の功に非ず、所謂聡明叡知の働と称す可きものなり。二士の功業大なりと雖ども、世の人心に従て徳の字を解し、徳義の一方に就て之を見れば、身を殺して人を救ふより外ならず。今爰に仁人ありて、孺子(じゆし)の井に入るを見て之を救はんがために共に身を失ふも、「ジョン・ホワルド」が数万の人を救ふて遂に身を殺したるも、其惻隠の心を比較すれば孰か深浅の別ある可らず。唯彼は一孺子のためにし、此は数万人のためにし、彼は一時の功徳を施し、此は万代に功徳を遺すの相違あるのみ。身を致すの一段に至ては此と彼との間に徳義の軽重あることなし。其数万の人を救ひ万代の後に功業を遺したるは、「ホワルド」が聡明叡知の働に由て其私徳を大に用ひ、以て功徳の及ぶ所を広く為したるものなり。故に此仁人は私徳を有して公徳公智に乏しき者なり、「ホワルド」は公私両ながら之を有する者なり。之を譬へば私徳は地金の如く聡明の智恵は細工の如し。地金に細工を施さゞれば鉄も唯重くして堅きのみの物なれども、之に少しく細工を施して鎚と為し釜と為せば、乃ち鎚と釜との功能あり。又少しく工夫を運らして小刀と為し鋸と為せば、乃ち小刀と鋸の功能あり。尚其細工を巧にすれば巨大なるは蒸気機関と為る可し、精細なるは時計の弾機(ばね)となる可し。今世間にて大釜と蒸気機関とを比較せば、誰か機関の功能を大なりとして之を貴ばざる者あらん。其これを貴ぶは何ぞや。大釜と機関と地金の異なるに非ず、唯其細工を貴ぶなり。故に鉄の器械を見て其地金を論ずるときは、釜も機関も鎚も小刀も正しく一様なれども、此諸品の内に貴き物と賎しき物との区別を生ずるは、之に細工を施すの多少あればなり。智徳の釣合ひも亦斯の如し。彼の孺子を救はんとしたる仁人も「ジョン・ホワルド」も、其徳行の地金に就て見るときは軽重大小の別なしと雖ども、「ホワルド」は此徳行に細工を施して其功能を盛大に為したるものなり。而して其細工を施したるものは即ち智恵の働なれば、「ホワルド」の為人(ひとゝなり)は之を評して唯徳行の君子とのみ云ふ可らず。智徳兼備して然も其聡明の智力は古今に絶したる人物と云ふ可し。若し、この人をして智力なからしめなば、一生の間、蠢爾(しゆんじ)として家に居り、一冊の聖経を読て命を終り、其徳義を以てよく妻子を化することを得る歟、或はこれを得ざることもある可し。奈何ぞ此大事業を企て欧羅巴全州の悪風俗を除くを得んや。故に云く、私徳の功能は狭く智恵の働は広し。徳義は智恵の働に従て其領分を弘め其光を発するものなり。
徳義の事は古より定て動かず。耶蘇の教の十誡なるものを挙れば、第一「ゴッド」の外に神ありと思ふ勿れ、第二偶像の前に膝を屈する勿れ、第三「ゴッド」の名を空ふする勿れ、第四礼拝の日を穢す勿れ、第五汝の父母を敬せよ、第六人を殺す勿れ、第七穢れたる言行思想を避けよ、第八貧賎なりと雖ども盗む勿れ、第九故さらに詐(いつは)る勿れ亦詐を好む勿れ、第十他人の物を貪る勿れ、以上十箇条なり。孔子の道の五倫とは、第一父子親ありとて親子相親しむことなり、第二君臣義ありとて旦那と家来との間には義理合を守て不実なる挙動ある可らずとのことなり、第三夫婦別ありとて亭主と妻君と余りなれなれしくして見苦しき様に陥る可らずとのことなり、第四長幼序ありとて年若き者は何事も差控て長老を敬す可しとのことなり、第五朋友信ありとは友達の間には偽詐を行ふ可らずとのことなり。此十誡五倫は聖人の定めたる教の大綱領にして数千年の古より之を変ず可らず。数千年の古より今日に至るまで盛徳の士君子は輩出したれども、唯この大綱領に就き註解を施すのみにて別に一箇条をも増加することなし。宋儒盛なりと雖ども五倫を変じて六倫と為すを得ず。徳義の箇条の少なくして変革す可らざるの明証なり。古の聖人は此箇条を悉く身に行ふたるのみならず人にも教へたることなれば、後世の人物如何に勉励苦心するも決して其右に出づ可きの理なし。之を譬へば聖人は雪を白しと云ひ炭を黒しと云たるが如し。後人これを如何す可きや。徳義の道に就ては恰も古人に専売の権を占められ、後世の人は唯仲買の事を為すより他に手段あることなし。是即ち耶蘇孔子の後に聖人なき所以なり。故に徳義の事は後世に至て進歩す可らず。開闢の初の徳も今日の徳も其性質に異同あることなし。智恵は則ち然らず。古人一を知れば今人は百を知り、古人の恐るゝ所のものは今人は之を侮り、古人の怪む所のものは今人は之を笑ひ、智恵の箇条の日に増加して其発明の多きは古来枚挙に遑あらず、今後の進歩も亦測る可らず。仮に古の聖人をして今日に在らしめ、今の経済商売の説を聞かしめ、或は今の蒸気船に乗せて大洋の波濤を渡り、電信を以て万里の新聞を瞬間に聞かしむる等のことあらば、之に落胆するは固より論を俟たず。或はこれを驚かすに必ずしも蒸気電信を要せず、紙を製して字を書くの法を教へ、或は版木彫刻の術を示すも尚これを敬服せしむるに足る可し。如何となれば此蒸気、電信、製紙、印書の術は悉皆後人の智恵を以て達し得たるものにて、此発明工夫を為すの間に聖人の言を聞て徳義の道を実に施したることなく、古の聖人は夢にも之を知らざりしことなればなり。故に智恵を以て論ずれば古代の聖賢は今の三歳の童子に等しきものなり。
徳義の事は形を以て教ゆ可らず。之を学て得ると得ざるとは学ぶ人の心の工夫に在て存せり。譬へば経書に記したる克己復礼の四字を示して其字義を知らしむるも、固より未だ道を伝へたりと云ふ可らず。故に此四字の意味を尚詳にして、克己とは一身の私欲を制することなり、復礼とは自分の本心に立返て身の分限を知ることなりと、丁寧反覆これを説得す可し。教師の働は唯これまでにて、他に道を伝るの術なし。此上は唯人々の工夫にて、或は古人の書を読み或は今人の言行を聞見して其徳行に倣ふ可きのみ。所謂以心伝心なるものにて、或はこれを徳義の風化と云ふ。風化は固より無形の事なれば、其これに化すると化せざるとに就ては試験の法ある可らず。或は実に私欲を恣にしながら自分には私欲を制したりと思ひ、或は分外の事を為しながら自分には分限を知ると思ふ者もある可しと雖ども、其思ふと思はざるとは教る人の得て関す可きに非ず。唯これを学ぶ人の心の工夫に存するのみ。故に克己復礼の教を聞て、心に大に発明する者もあり、或は大に誤解する者もあり、或は之を蔑視する者もあり、或は之を了解するも却て外見を装ふて人を欺く者もあり。其趣千状万態にして、真偽を区別すること甚だ難し。仮令ひこの教を蔑視する者にても、外見を飾て人を欺く歟、又は之を誤解して之を信じ、真の克己復礼に非ざるものを是として疑はざる者あるときは、傍より之を如何ともす可らず。此時に至ては縄墨の以て証す可きものなきゆゑ、或はこれに告るに天を恐れよと云ひ、或は自から心に問へと云ふの外、手段ある可らず。天を恐れ心に問ふは一身の内の事にて、真に天を恐るゝも偽て天を恐るゝも外人の目を以て遽に看破す可き所に非ず。是即ち世に偽君子なる者の生ずる由縁なり。偽君子の甚しきに至ては、啻に徳義の事を聞て其意味を解するのみならず、自分にて徳義の説を主張し、或は経書の註解を著し、或は天道宗教の事を論じ、其議論如何にも純精無雑にして、其著書のみを取て之を読めば後世又一の聖人を出現したるが如きものあれども、退て其人の私に就て之を見れば言行の齟齬すること実に驚く可し、心匠の愚なること実に笑ふ可し。韓退之が仏骨の表を奉て天子を諌めたるは如何にも忠臣らしく、潮州に貶(へん)せられたる時には詩など作て忠憤の気を洩しながら、其後、遠方より都の権門へ手紙を遣て、きたなくも再び出仕を歎願したるは、此れこそ偽君子の張本なれ。此類を計へ上れば古今支那にも日本にも西洋にも韓退之の手下なきに非ず。巧言令色、銭を貪る者は論語を講ずる人の内に在り。無智を欺き小弱を嚇し名利を併せて両ながら之を取らんとする者は、耶蘇の正教を奉ずる西洋人の内に在り。此輩の小人は、無形の徳義に試験の縄墨なきを利し、徳義の門に出入して暫時にても密売を行ふ者と云ふ可し。畢竟徳義の働は以て人を制す可らざるの明証なり。《書経に今文と古文との区別あり。秦皇天下の書を焚て書経も共に亡び、漢興て文帝の時に済南の老学生伏勝よく二十九篇を暗記して之を伝へたるものを今文と名け、其後孔子の故宅を毀て壁中より古書を得たりとて之を古文と名く。故に今の書経五十八篇の内に今文二十九篇古文二十九篇あり。然るに今この今古の文を比較するに全く其体裁を異にし、今文は難渋、古文は平易、其文意語勢、明に両様の別ありて、何人の目を以て見るも秦火以前に行はれたる同一書中のものとは思はれず。必ず其一は偽作たるを免かれざるなり。殊に壁中古文の世に行はれたるは晋の時代にて、其以前、漢代に書中の一篇秦誓とて諸儒の引用したるものを、晋の時に偽秦誓と名けて之を廃したることあり。何れにも書経の由来は不分明なるものと云はざるを得ず。されども後世に至ては人の信仰益固くして、一に之を聖人の書と為し、蔡沈が書経集伝の序にも、聖人の心の書に見はれたるものなりと云へり。怪しむ可きに非ずや。蓋し蔡沈の意は今文古文等の区別を論ぜずとも、書中に記す所、聖人の旨に叶ふが故にとて之を聖書と見做したることならんと雖ども、今古の内、其一文は後世より聖人の意を迎へて作為したる文章なれば、之を偽聖書と云はざるを得ず。されば世の中に偽君子の多きは勿論、或は偽聖人を生じて偽聖書をも作る可きものと知る可し。》智恵は則ち然らず。世上に智恵の分量饒多なれば、教へずして互にこれを習ひ、自から人を化して智恵の領域に入らしむること、猶かの徳義の風化に異ならずと雖ども、智恵の力は必ずしも風化のみに藉て其働を伸るものに非ず。智恵は之を学ぶに形を以てして明に其痕跡を見る可し。加減乗除の術を学べば直に加減乗除の事を行ふ可し。水を沸騰せしめて蒸気と為す可きの理を聞き、機関を製して此蒸気力を用るの法を伝習すれば、乃ち蒸気機関を作る可し。既に之を作れば其功用は「ワット」が作りし機関に異ならず。之を有形の智教と云ふ。其教に形あれば亦これを試験するにも有形の規則縄墨あり。故に智恵の法術を人に授けたりと雖ども、之を実地に施すことに就き尚不安心の箇条あらば、之を其実地に試験す可し。之を試験して未だ実地の施行を能せざる者あらば、更に実地施行の手順を教ふ可し。何れも皆形を以て教ゆ可らざるものなし。譬へば爰に数学の教師あらん。十二を等分して六を得るの術を生徒に教へて、其これを実地に施し得るや否を試るには、十二個の玉を与へてこれを二に分たしめ、明に其術を得ると得ざるとを証す可し。生徒若し誤てこの玉を二に分ち八と四とに為さば、未だ術を得ざるものなり。若し然るときは再び説弁して之を試み、此度びは十二の玉を等分して六と六とにするを得れば、此一段の伝習は終りて、其学び得たる術の巧なるは教師に異なることなく、恰も天地の間に二人の教師を生じたるが如し。其伝習の速にして試験の明白なるは現に耳目を以て聞見す可し。航海の術を試るには船に乗て海を渡らしむ可し、商売の術を試るには物を売買せしめて其損益を見る可し、医術の巧拙は病人の治不治を見て知る可し、経済学の巧拙は家の貧富に由て証す可し。斯の如く一々証拠を見て其術を得たると否とを糺す、之を智術有形の試験法と云ふ。故に智恵の事に就ては外見を飾て世間を欺くの術なし。不徳者は装ふて有徳者の外見を示す可しと雖ども、愚者は装ふて智者の真似を為す可らず。是即ち世に偽君子多くして偽智者少なき由縁なり。或はかの経済家が天下の経済を論じて一家の世帯を保つの法を知らず、航海者が議論は巧なれども船に乗ること能はざるの類は、世間に其例少なからず。是等は所謂偽智者なるものに似たれども、畢竟世の事物に於て議論と実際と相異なる可きの理なし。唯徳義の事に就ては此議論と実際との相違を明にす可き縄墨に乏しきのみ。智恵の領分に於ては、仮令ひ此偽智者を生ずるも尚其真偽を糺す可き手段あり。故に航海者が船に乗ること能はずして、経済家が世帯に拙なることあらば、其人は必ず未だ真の術を知らざる者歟、又は別に其学び得たる術を妨るの源因ありて然るものなり。《譬へば経済家が奢侈を好み、航海者が身体虚弱にして其術は巧なれども之を実地に施すこと能はざるの類を云ふ。》然り而して、其術と云ひ又これを妨る所の源因と云ひ、皆是れ有形の事なれば、其有様を糺して、真に其術を得たる者歟、然らざる者歟を証するは難きに非ず。既に其真偽を証するときは、又傍より議論して之に教るの法もある可し、或は自から工夫して人に学ぶの路もある可し。結局智恵の世界には偽智者を容る可き地位を遺さゞるなり。故に云く、徳義は形を以て人に教ゆ可らず、形を以て真偽を糺す可らず、唯無形の際に人を化す可きのみ。智恵は形を以て人に教ゆ可し、形を以て真偽を証す可し、又無形の際に人を化す可し。
徳義は一心の工夫に由て進退するものなり。譬へば爰に二少年あり、田舎の地方に生れて天稟謹直なること、二人毫も差別なき者、商売歟、又は学問のため都会の地に出て、其初は自から朋友を撰て之に交り、師を撰て之に学び、都会の人情の軽薄なるを見て私に歎息せし程のことなりしが、半年を過ぎ一年を経る間に、其一人は旧来の田舎魂を変じて都下の浮華を学び遂に放蕩無頼に陥て生涯の身を誤り、一人は然らずして益身を脩め其行状終始一なるが如くして嘗て田舎の本心を失はず、二人の徳行頓に雲壌懸隔することあり。其事実は今日東京に在る学問の生徒を見ても知る可し。若し此二少年をして故郷に在らしめなば、二人共に謹直なる人物にて、歳月を経るに従ひ有徳の老成人たる可き筈なるに、中年にして一人は徳より不徳に入り、一人はよく其身を全ふせし者なり。今其然る由縁を尋るに、二人互に天稟の異なるに非ず、又其交る所の人も同様にして学ぶ所のことも同様なれば、教育の良否に由るものと云ふ可らず。然るに其徳行の互に懸隔すること斯の如きは何ぞや。其一人の徳義は頓に趣を変じて却歩し、一人は其旧を守て之を失はざりしものにて、外物の働に強弱あるに非ず、一心の工夫に動と不動との別ありて、一は退き一は進たるの証なり。又少年の時より遊冶(ゆうや)放蕩を事とし、物を盗み人を害し悪業至らざる所なくして、親類朋友の交をも失ひ、殆ど世間に身を容る可き地位なきに至りし者にても、一旦豁然として心術を改め、前日の非を悔悟して後来の禍福を慮り、謹慎勉強して半生を終る者あり。其生涯の心事を見れば明に前後二段に分れ、一生にして正しく二生の事を為し、恰も桃の木の台に梅の芽を接ぎ、成木の後唯梅花のみを見て其根の桃の木たるは之を弁ず可らざるものゝ如し。試に世間に就て其実証を求めなば、昔の博徒が今の念仏者と為り、有名の悪漢が手堅き町人と為りたるの類は珍しからず。此輩は皆他人の差図に従て心事を改めたるに非ず、一心の工夫に由て改心したるものなり。在昔熊谷直実が敦盛を討て仏に帰し、或る猟師が子を孕たる猿を撃て生涯、猟を止めたりと云ふも此類なる可し。熊谷も仏に帰すれば則ち念仏行者にて旧の荒武者に非ず、猟師も鉄砲を抛て鋤を採れば則ち、やさしき百姓にて昔の殺生人に非ず。荒武者より念仏行者に変じ、殺生人より百姓に移るの事は、他人の伝習を要せず一心の工夫を以て瞬間に行ふ可し。徳と不徳との間に髪を容れざる者なり。智恵の事に至ては大に其趣を異にせり。人の生は無智なり、学ばざれば進む可らず。初生の児を無人の山に放たば、幸にして死せざるも其智恵は殆ど禽獣に異なる可らず。或は鶯の巣を架するが如き巧なる術は、教なき人間一代の工夫にては出来ざる可し。人の智恵は唯教に在るのみ。之を教れば其進むことも亦際限ある可らず。既に進めば又退くこともある可らず。二人の少年天稟相同じければ、之を教て亦共に進む可し。或は双方の進歩に遅速あるものは、其天稟相異なる歟、其教授の方同じからざる歟、或は二人の勤怠一様ならずして然るものなり。何等の事情あるも一心の工夫を以て頓に智を開くの術ある可らず。昨日の博徒は今日の念仏者と為る可しと雖ども、人の智愚は外物に触れずして一日の間に変化す可らず。又去年の謹直生は今年の遊冶郎に変じて其謹直の跡をも見ずと雖ども、人の既に得たる智見は健忘の病症に罹るに非ざれば之を失ふことなし。孟子は浩然の気と云ひ、宋儒の説には一旦豁然として通ずると云ひ、禅家には悟道と云ふことあれども、皆是無形の心に無形の事を工夫するのみにて其実跡を見る可らず。智恵の領分に於ては、一旦豁然として之を悟り、其功用の盛なること、かの浩然の気の如きものある可らず。「ワット」が蒸気機関を発明し、「アダム・スミス」が経済論を首唱したるも、黙居独坐、一旦豁然として悟道したるに非ず、積年有形の理学を研究して其功績漸く事実に顕はれたるものなり。達磨大師をして面壁九十年ならしむるも蒸気電信の発明はある可らず。今の古学者流をして和漢の経書万巻を読ましめ、無形の恩威を以て下民を御するの妙法を工夫せしむるも、方今の世界に行はるゝ治国経済の門には遽に達す可らず。故に云く、智恵は学て進む可し、学ばざれば進む可らず、既に学て之を得れば又退くことある可らず。徳義は教へ難く又学び難し、或は一心の工夫にて頓に進退することあるものなり。
世の徳行家の言に云く、「徳義は百事の大本、人間の事業、徳に由らざれば成る可きものなし、一身の徳を脩れば成る可らざるものなし、故に徳義は教へざる可らず、学ばざる可らず、人間万事これを放却するも妨なし、先づ徳義を脩めて然る後に謀る可きなり、世に徳教なきは猶暗夜に灯を失ふが如くして、事物の方向を見るに由なし、西洋の文明も徳教の致す所なり、亜細亜の半開なるも亜非利加の野蛮なるも、其源因は唯徳義を脩るの深浅に従て然るものなり、徳教は猶寒暖の如く文明は猶寒暖計の如く、此に増減あれば忽ち彼に応じ、一度の徳を増すときは一度の文明を進るものなり」とて、人の不徳を悲み人の不善を憂ひ、或は耶蘇の教を入る可しと云ひ、或は神道の衰へたるを復す可して云ひ、或は仏法を持張す可しと云ひ、儒者にも説あり、国学者にも論ありて、異説争論囂々(がうがう)喋々、其悲憂歎息の有様は、恰も水火の将(まさ)に家を犯さんとするに当るものゝ如し。何ぞ夫れ狼狽の甚しきや。余輩の眼には自から又別に見る所あり。都て事物の極度を持出すとも之に由て議論の止まる所を定む可らず。今不善不徳とて極度の有様を本位に定めて、唯其一方を救はんとせば固より焦眉の急に似たれども、此一方の欠のみを補へばとて未だ人事を全ふしたりと云ふ可らず。猶彼の手以て直に口に達するの食を得るも人間の活計を成すと云ふ可らざるが如し。若し事物の極度を見て議論を定む可きものとせば、徳行の教も亦無力なりと云はざるを得ず。仮に今徳教のみを以て文明の大本と為し、世界中の人民をして悉皆耶蘇の聖教を読ましめ、之を読むの外に事業なからしめなば如何ん。禅家不立文字の教を盛にして、天下の人民文字を忘るゝに至らば如何ん。古事記五経を諳誦して忠義脩身の道を学び糊口の方法をも知らざる者あらば、之を文明の人と云ふ可きや。五官の情欲を去て艱苦に堪へ人間世界の何者たるを知らざる者あらば、之を開化の人と云ふ可きや。路傍に石像あり、三匹の猿を彫刻して、一は目を覆ひ、一は耳を覆ひ、一は口を覆へり。蓋し見ざる、聞ざる、云はざる、の寓意にて、堪忍の徳義を表したるものならん。此趣意に従へば、人の耳目口は不徳の媒妁にて、天の人を生ずるは之に附与するに不徳の具を以てするが如し。耳目口を害なりとせば手足も亦悪事の方便たらん。ゆえに盲聾唖子は未だ十全の善人に非ず、兼て四肢の働をも奪ふこそ上策なれ。或は斯る不具の生物を造るよりも、寧ろ世界に人類なからしめなば上策の上なる可し。之を造化の約束と云ふか。余輩少しく疑なきを得ず。されども耶蘇の聖経を念じ、不立文字の教に帰し、忠義脩身の道を尊び、五官肉体の情欲を去る者は、徳義の教を信じて疑はざるものなり。教を信じて疑はざる者は仮令ひ無智なりと雖ども之を悪人として咎るの理なし。無智を咎るは智恵の事なり、徳義の関る所に非ず。故に極度を以て論ずれば、徳義に於ては私徳を欠く者を見て概して之を悪人と為し、教の目的は唯世に此悪人を少なくするの一事に在るが如し。然りと雖どもよく広く人心の働を察して其事跡に見はるゝ所を詳にすれば、此悪人を少なくするの一事を以て文明と云ふ可らざるの理あり。今田舎の土民と都会の市民とを比して私徳の量を計れば、何れの方に多きや明に之を決し難しと雖ども、世間一般の論に従へば先づ田舎の風俗を質朴なりとして悦ぶことならん。仮令ひ之を悦ばざるも、田舎の徳風を薄しとして都会の風を厚しとする者はなかる可し。上古と近世とを比し、子供と大人とを比するも亦斯の如し。然るに其文明如何を論ずるときは、都会は文明なりと云ひ近世は文明進歩したりと云はざる者なし。然ば則ち文明は唯悪人の多少を以て其進退を卜す可らず。文明の大本は私徳の一方に在らざること明白に証す可しと雖ども、彼の徳行の識者は初より議論の極度に止まり、思想に余地を遺さずして一方に切迫し、文明の洪大なるを知らず、文明の雑駁なるを知らず、其働くを知らず、其進むを知らず、人心の働の多端なるを知らず、其知徳に公私の別あるを知らず、其公私互に相制するを知らず、互に相平均するを知らず、都て事物を一体に纏めて其全局の得失を判断するの法を知らずして、唯一心一向に此世の悪人を少なくせんことを欲し、其弊や遂に今の世界の人民をして犠昊(伏犠と少昊)以上の民の如くならしめ、都会をして田舎の如くならしめ、大人をして小児の如くならしめ、衆生をして石の猿の如くならしめんとするの陋見に陥りたるものなり。必竟神儒仏及び耶蘇の教とても其本旨は斯の如く切迫なるものに非ざること無論なりと雖ども、唯如何せん、世間一般の気風にて其教を伝へ又これを受るの際に人心に感ずる所の結果を見れば、終に此陋弊を免かるゝを得ず。其趣を形容して云へば、酸敗家の甚しき者へは、何等の飲食を与ふるも尽く酸敗して滋養の功を奏せざるが如し。飲食の罪に非ず、痼疾の致す所なり。学者これに注意せざる可らず。
又彼の識者が甚しく世の不徳を憂る由縁を尋るに、畢竟世の人をば悉皆悪しき者と思ふて之を救はんとするの趣意なる可し。其婆心は真に貴ぶ可しと雖も、世の人を罪業深き凡夫と名るは、所謂坐を見て説くの方便のみ、其実は必ずしも然らず。人類は生涯の間、孜々として悪事のみを為す者に非ず。古今世界中に於て如何なる善人にても必ず悪行なきを保す可らず、如何なる悪人にても亦必ず善行なきを期す可らず。人の生涯の行状を平均すれば、善悪相混じて善の方多きものならん。善行多ければこそ世の文明も次第に進たることなれ。而して其善行は悉皆教の力のみに由て生じたるものに非ず。人を誘て悪に陥れんとして、其謀の必ず百発百中ならざることあらば、乃ち此謀を倒にして善に用ゆるも亦、必ず人を導て善に移す可らざるを証す可し。到底(ツマリ)人の心の善悪は人々の工夫に在るものにて、傍より自由自在に与奪す可きものに非ず。教の行届かざる古代の民に善人あり、智力発生せざる子供に正直なる者多きを見れば、人の性は平均して善なりと云はざるを得ず。徳教の大趣意は其善の発生を妨げざるに在るのみ。家族朋友の間に善を責るとは、其人の天性になきものを傍より附与するに非ず、其善心を妨げるものを除くの術を教へ、本人の工夫を以て自己の善に帰らしむるのみ。故に徳義は人力の教のみを以て造る可きものに非ず、之を学ぶ人の工夫に由て発生するものなり。且其所謂徳行とは此章の初にも記したるが如く唯受身の私徳にて、其結局は一身の私慾を去り、財を愛まず名を貪らず、盗むことなく詐ることなく、精心を潔白にして誠のためには一命をも抛つものを指して云ふことなれば、即ち忍難の心なり。忍難のこころ、固より非なるに非ず。之をかの貪吝詐盗大悪無道の不徳に比すれば同日に論ず可らずと雖も、人の品行に於て此忍難の善心と此不徳の悪心との間には尚千種万様の働ある可き筈なり。前段に智徳の箇条を四様に分たれども、其細目を枚挙せば殆ど際限ある可らず。恰も善悪を甚暑甚寒の両極と為して、其間には春もあり秋もあり薄暑もあり向寒もありて、冷温の度に限なきが如し。もし人類をして其天性を全ふするを得せしめなば、甚寒の悪心は素より既に之を脱して遥に上流に在る可き筈に非ずや。人に盗詐の心あらざればとて何ぞ之を美徳とするに足らん。不盗不詐等の箇条は人類の品行に計へ込む可きものに非ず。若し夫れ貪吝詐盗大悪無道なるあらば、人にして人に非ざる者なり。其心を内に包蔵すれば世間の軽蔑を受け、其所業を外形に顕すときは人間交際の法を以て之を罰す可し。何れにも因果応報の次第は明にして、懲悪の具、外に備はり、勧善の機、内に存するものと云ふ可し。然るに今孜々として私徳の一方を教へ、万物の霊たる人類をして僅に此人非人の不徳を免かれしめんことを勉め、之を免かるゝを以て人生最上の約束と為し、此教のみを施して一世を籠絡せんとして却て人生天稟の智力を退縮せしむるは、畢竟人を蔑視し人を圧制して其天然を妨るの挙動と云はざるを得ず。一度び心に圧制を受れば之を伸すこと甚だ易からず。かの一向宗の輩は自から認めて凡夫と称し、他力に依頼して極楽往生を求め、一心一向に弥陀を念じて六字の名号を唱るの外、更に工夫あることなし。漢儒者が孔孟の道に心酔して経書を復読するの外に工夫なく、和学者が神道を信じて古書を詮索するの外に工夫なく、洋学者が耶蘇の教を悦て日新の学問を忘れ、一冊の「バイブル」を読むの外に工夫なきが如きも、皆一向宗の類なり。固より此流の人にても、其信ずる所を信じて一身の内を脩め自から人間交際の風を美にするの功能は世の裨益の一箇条なれば、決して之を無用として咎るの理なし。譬へば文明の事業を智徳の一荷と為して、人々此荷物を担ふ可きものとすれば、教を信じて一身の徳を脩るは即ち其片荷を負ふ者にて、一方の責は免れたりと雖ども、唯其信ず可きを信ずるのみにて働く可きを働かざるの罪は遁れ難し。其事情恰も脳を有して神経なきが如く、頭を全ふして腕を失ふが如し。畢竟人類の本分を達して其天性を全ふしたる者に非ざるなり。
右の如く私徳は他人の力を以て容易に造る可きものに非ず。仮令ひよく之を造るも智恵に依頼せざれば用を為す可らず。徳は智に依り、智は徳に依り、無智の徳義は無徳に均しきなり。左に其証を示さん。今の学者、耶蘇の宗教を便利なりとして神儒仏を迀遠なりとするは何ぞや。其教に正邪の別ある乎。其正其邪は余輩の敢て知らざる所、これを弁ずるは本書の趣意に非ざれば姑く擱き、其民心に感ずる所の功能に就て論ずるときは、耶蘇の教も亦必ずしも常に有力なるに非ず。欧羅巴の教化師が東洋諸島及び其他野蛮の地方に来て、其土人を改宗せしめたるの例は古来少しとせず。然るに今日に至るまで土人は依然たる旧の土人にて、其文明の有様固より欧羅巴に比較す可らず。夫婦の区別も知らざる赤裸の土人が寺に群集して、一母衆父の間に生れたる其子供に、耶蘇正教の洗礼を行ふも唯是れ改宗の儀式のみ。或は其地方に文明の端を開て進歩に赴きしものも稀にこれありと雖ども、其文明は必ず教師の伝習したる文学技芸と共に進たるものにて、唯宗教の一事のみに由て生じたる結果に非ず。宗教は表向の儀式と云ふ可きのみ。又一方に就て見れば、神儒仏の教に育せられたる日本の人民にても、唯文明の名を下だす可らざるのみ、其心術に至ては悉皆これを悪人と云ふ可らず、正直なる者も亦甚だ多し。此趣を見れば神儒仏の道、必ずしも無力にして、耶蘇の教のみ独り有力なるに非ず。然ば則ち何を以て耶蘇の教を文明に便利なりとして神儒仏の道を迀遠なりとする乎。学者の考は前後不都合なるに似たり。今其議論の由て生ずる本を尋ね、其意見の在る所を砕て之を探るに、耶蘇の教は文明の国に行はれて文明と共に並立す可く、神儒仏の教は不文の国に行はれて文明と共に並立す可らざるが故に、此を迀遠なりとして彼を便利なりと云ひしことならん。然りと雖ども其行はるゝと行はれざる由縁は、教の本体に於て力の強弱あるに非ず、其本体を装ふて光明を増す可き智恵の働に巧拙の差あればなり。西洋諸国にて耶蘇教を奉ずる人は大概皆文明の風に浴したる者にて、殊に其教師の如きは唯聖経のみを読むに非ず、必ず学校の教を受て文学技芸の心得ある人物なれば、前年は教化師と為て遠国に旅行したる者も、今年は自国に在て法律の業を勤む可し、今日は寺に居て説法するも明日は学校に行て教師と為る可し、法俗兼備して法教と共に学芸を教へ人を智域に導くがゆゑに、文明と並立して相戻らざるのみ。故に人の此教を軽蔑せざるは唯其教の十戎のみを信ずるに非ず、教師の言行自から迀遠ならずして今日の文明に適するがために之に帰依するなり。今若し耶蘇の教師をして無学無術なること我山寺の坊主の如くならしめなば、仮令ひ其行状は正しくして聖人の如くなるも、新旧約書は諳誦して朝夕にこれを唱るも、文明の士君子にして誰かこの教を信ずる者あらんや。遇ま之を信ずる者あれば即ち其者は田夫野嫗(やおう)、数珠を捫(なで)て阿弥陀仏を念ずる輩のみ。此輩の目を以て見れば耶蘇も孔子も釈迦も大神宮も区別ある可らず。合掌して拝むものは狐も狸も皆神仏なり。意味も分らぬ読経を聞て涙を流す其愚民へ、何を教へて何の功を成す可きや。決して文明の功を成す可らず。此不文暗黒の愚民中に入込みて強ひて耶蘇の聖教を教へんとし、之に諭し之に説き、甚しきは銭を与へて之を導き、漸くこれに帰依する者あるに至るも、其実は唯仏法の内に耶蘇と名る一派を設けたるが如きのみ。斯の如きは則ち決して識者の素志に非ず。識者は必ず博学多才なる耶蘇の教師を入れて、宗教と共に其文学技芸を学び、以て我文明を達せんとするの意見なる可し。されども文学技芸は智恵の事なり。智恵の事を教るは必ずしも耶蘇の教師に限らず。智恵ある者に就て学ぶ可きのみ。然ば則ち、かの耶蘇教を便利なりとして神儒仏を迀遠なりとしたるは識者の了簡違に非ずや。余輩は固より耶蘇の教師を悪むに非ず、智恵さへある者なれば耶蘇の教師にても尋常の教師にても好悪の差別あることなし。唯博学多才にして身の正しき人を悦ぶのみ。若し天下に耶蘇の教師を除くの外は正しき人物なきものとすれば、固より此教師のみに従て何事も伝習す可しと雖ども、耶蘇の宗門は必ずしも正者専売の場所に非ず、広き世界には自から博学正直の士君子もある可し。之を撰ぶは人々の鑑定に任ず可きのみ。何ぞ独り耶蘇教の名目に拘泥するの理あらんや。何れにも教の本体に便不便はある可らず。唯これを奉ずる人民の智恵に由て価を変ずるものなり。耶蘇の教も釈迦の教も愚人の手に渡せば愚人の用を為すのみ。今の神儒仏の教も今の神職僧侶儒者輩の手に在て今の人民に教ればこそ迀遠なれ、若し此輩の人をして(期し難きことなりと雖ども)大に学ぶことあらしめ、文学技芸を以て其教を装ひ、文明の人の耳を借て之を説くことあらば、必ず其教に百倍の価を増して、或は他をして之を羨ましむるに至る可し。之を譬へば教は猶刀の如く、教の行はるゝ国の人民は猶工匠の如し。利刀ありと雖ども拙工の手に在れば其用を為さず。徳行も不文の人民に逢へば文明の用を為さゞるなり。かの徳行の識者は工匠の巧拙を誤て刀の利鈍と認めたるものと云ふ可し。故に云く、私徳は智恵に由て其光明を生ずるものなり。智恵は私徳を導て其功用を確実ならしむものなり。智徳両ながら備はらざれば世の文明は期す可らざるなり。
新に宗教を入るゝの得失を論ずるは此章の趣意に非ざれども、議論の次第こゝに及びたるが故に、序ながら少しく云はざるを得ず。都て物を求るとは我に無きもの歟又は不足するものを得んとすることなり。爰に二箇条の求ありて、其孰か前後緩急を定るには、先づ我所有の有様を考へ、其全く我に無きもの歟、又は二の内、最も不足するものを察して之を求めざる可らず。蓋し一を求めて一を不用なりとするに非ず、両ながら入用なれども、之を求るに前後緩急の別あるのみ。文明は一国人民の智徳を外に顕はしたる現象なりとのことは前既に之を論じたり。而して日本の文明は西洋諸国のものに及ばずとのことも普く人の許す所なり。然ば則ち日本の未だ文明に達せざるは、其人民の智徳に不足する所ありて然るものなれば、此文明を達せんとするには智恵と徳義とを求めざる可らず。即是れ方今我邦に於ける二箇条の求なり。故に文明の学者は広く日本国中を見渡して此二者の分量を計り、孰か多くして孰か少なきを察するに非ざれば、其求の前後緩急を明に弁ず可らず。如何なる不明者と雖ども、日本全体の人民を評して徳義は不足すれども智恵は余ありと云ふ者はなかる可し。其証拠と為す可き箇条は甚だ多く且明にして計ふるに遑あらず、亦計ふるにも及ばざる程のことなれども、念のために一、二例を示さん。抑も日本に行はるゝ徳教は神儒仏なり、西洋に行はるゝものは耶蘇教なり。耶蘇と神儒仏と其説く所は同じからずと雖ども、其善を善とし悪を悪とするの大趣意に至ては互に大に異なることなし。譬へば日本にて白き雪は西洋にても白く、西洋にて黒き炭は日本にても黒きが如し。且徳教の事に就ては東西の学者頻りに自家の教を主張し、或は其書を著し或は他の説を駁して争論止むことなし。此争論の趣を見ても亦以て東西の教に甚しき優劣なきを徴す可し。凡物の力量略(ほぼ)相敵せざれば争論は起る可らず。牛と猫と闘ふたるを見ず、力士と小児と争ふたるを聞かず。争闘の起るは必ず其力、伯仲の間に在るものなり。かの耶蘇教は西洋人の智恵を以て脩飾維持したる宗教なれば、其精巧細密なること迚も神儒仏の及ぶ所に非ざる可しと雖ども、西洋の教化師は日本に来て頻りに其教を主張し神儒仏を排して己れの地位を得んとし、神儒仏の学者は及ばずながらも説を立てゝ之に敵対せんとして、兎に角に喧嘩争論の体裁を成すは何ぞや。西洋の教必ずしも牛と力士との如くならず、日本の教必ずしも猫と小児との如くならずして、東西の教、正しく伯仲の間に在るの明証と云ふ可し。其孰か伯た孰か仲たるは余輩の関する所に非ずと雖ども、我日本人も相応の教を奉じて其徳教に浴したる者なれば、私徳の厚薄を論ずるときは、西洋人に比して伯たらざるも必ず仲たり。或は教の議論に関せずして事実に就て見れば、伯たる者は却て不文なる日本人の内に多きこともあらん。故に徳の分量は仮令ひ我国に不足することあるも焦眉の急須に非ざること明なり。智恵の事は全く之に異なり。日本人の智恵と西洋人の智恵とを比較すれば、文学技術商売工業、最大の事より最小の事に至るまで、一より計へて百に至るも又千に至るも、一として彼の右に出るものあらず。彼に敵対する者なく、彼に敵対せんと企る者もなし。天下の至愚に非ざるの外は、我学術商工の事を以て西洋諸国に並立せりと思ふ者はなかる可し。誰か大八車を以て蒸気車に比し、日本刀を以て小銃に比する者あらん。我に陰陽五行の説を唱れば、彼には六十元素の発明あり。我は天文を以て吉凶を卜したるに、彼は既に彗星の暦を作り太陽太陰の実質をも吟味せり。我は動かざる平地に住居したる積りなりしに、彼は其円くして動くものなるを知れり。我は我邦を以て至尊の神洲と思ひしに、彼は既に世界中を奔走して土地を開き国を立て、其政令商法の斉整なるは却て我より美なるもの多し。是等の諸件に至ては、今の日本の有様にて決して西洋に向て誇る可きものなし。日本人の誇る所のものは唯天然の物産に非ざれば山水の風景のみ、人造の物には嘗てこれあるを聞かず。我に争ふの意なければ彼も亦争はず。外国人はよく自国の事に付て自負するものなれども、未だ蒸気車の便利を述て大八車の不便理を駁したるを聞かず。畢竟彼我の智恵の相違は牛と猫との如くにして互に争端を開かざるものなり。是に由て之を観れば、方今我邦至急の求は智恵に非ずして何ぞや。学者思はざる可らず。
又一例を挙て之を示さん。田舎に人物あり、旧藩士族と云ふ。廃藩の前に家禄二、三百石を取り、君に仕へて忠、父母に事へて孝、夫婦別あり、長幼序あり、借金必ず払ひ、附合必ず勤め、一毫の不義理を犯したることなし。況や詐盗に於てをや。或は威を以て百姓町人を圧制したることあれども、固より身分の当然なれば心に恥る所なし。家は極て節倹、身は極て勉強、弓馬の芸、剣鎗の術、達せざるものなし。唯文字を知らざるのみ。今此人のために謀るに之を如何す可きや。徳を与へんか、将(は)た智を与へんか。試に之を徳に導き、突然として耶蘇の十誡を示すことあらば、第四誡までの箇条は生来知らざることなれば或は之を聞く可しと雖ども、第五誡以下に至ては此人必ず云はん、我は父母を敬せり、我は人を殺すの意なし、何ぞ婬(いん)することをせん、何ぞ盗むことをせんとて、一々抗論して容易に敬服することなかる可し。固より耶蘇の教は此十誡の白文を以て尽す可きに非ず、必ず意味深長なるものにて、父母を敬するにも自からの敬の法あり、人を殺さゞるにも自から殺さゞるの趣意あり、不婬にも義あり、不盗にも義あることならん。故に之に説くには丁寧反覆よく其旨を尽して、遂には此人の心を感動せしむることもある可しと雖ども、兎に角に徳行の事に就ては、此士族平生の行状に於て、少なくも初段の心得はある者と云はざるを得ず。然るに一方より其智恵に就て所得を試るに、渾身恰も空虚なるが如し。五色の区別は僅に弁ずれども天然七色の理は固より之を知らず、寒暑の挨拶は述れども寒暖計昇降の理は之をしらず、食事の時は誤らざれども時計の用法をば解すこと能はず、生国の外に日本あるを知らず、日本の外に外国あるを知らず、何ぞ内の形勢を知らん、何ぞ外の交際を知らん、古風を慕ひ古法を守り、一家は恰も一小乾坤にして、其眼力の及ぶ所は唯家族の内を限り、戸外に出ること僅に一歩にして世界万物悉皆暗黒なる者の如し。廃藩の一挙以て此小乾坤を覆へし、今日に至ては唯途方に暮るゝのみ。概して此人物を評すれば愚にして直なりと云ふの外は名状す可きなし。斯る愚直の人民は唯旧藩士族のみに限らず世間に其類甚だ多し。人の普く知る所にして、学者も政府も共に患る所のものなり。然るに、かの徳行の識者は尚この愚民に説て耶蘇の正教を伝へ其徳義を進めんとするに忙はしくして、其智恵の有無は捨てゝ問はざる乎。識者の目には唯愚にして不直なる者のみを見ることなる可しと雖ども、世間には愚にして直なる者も亦甚だ多し。識者これに向て何等の処置を施さんとするや。其直をして益直ならしめ、其愚をして益愚ならしめんと欲する乎。物を求るに前後緩急の弁別なきものと云ふ可し。西洋家流の人は常に和漢の古学を迀遠なりとして詈(ののし)るに非ずや。其これを詈るは何ぞや。事実に智恵の働なきを咎るものならん。他を咎て自から其覆轍に傚ひ、自から築て自から毀つ、惑へるの甚しきなり。
宗教は文明進歩の度に従て其趣を変ずるものなり。西洋にても耶蘇の宗旨の起りし其初は羅馬の時代なり。羅馬の文物盛なりと雖ども、今日の文明を以て見れば概してこれを無智野蛮の世と云はざるを得ず。故に耶蘇の宗教も其時代には専ら虚誕妄説を唱へて、正しく当時の人智に適し、世に咎めらるゝこともなく世を驚かすこともなく、数百年の間、世と相移りて次第に人の信仰を取り、其際に自から一種の権力を得て却て人民の心思を圧制し、其情状、恰も暴政府の専制を以て衆庶を窘るが如くなりしが、人智発生の力は大河の流るゝが如く、之を塞がんとして却て之に激し、宗旨の権力一時に其声価を落すに至れり。即ち紀元千五百年代に始りたる宗門の改革、是なり。此改革は羅馬の天主教を排して「プロテスタント」の新宗派を起したることにて、是より両派、党を異にして相互に屹立すと雖ども、今日の勢にては新教の方、次第に権を得るが如し。抑も此両派は元と同一の耶蘇教より出たるものにて、其信ずる所の目的も双方共に異なることなしと雖ども、新教の盛なる由縁は、宗教の儀式を簡易に改め、古習の虚誕妄説を省て正しく近世の人情に応じ、其智識進歩の有様に適すればなり。概して云へば旧教は濃厚にして愚痴に近く、新教は淡薄にして活潑なるの差あるなり。世情人古今の相違を表し出したるものと云ふ可し。
右所記に従へば、欧羅巴の各国にて文明の先なるものは必ず新教に従ひ、後なるものは必ず旧教を奉ず可き筈なるに、亦決して然らず。譬へば今蘇格蘭(すこつとらんど)と瑞典(すえーでん)との人民は妄誕に惑溺する者多くして、仏蘭西人の穎敏活潑なるに及ばざること遠し。故に蘇瑞は不文にして仏蘭西は文明と云はざるを得ず。然るに仏は旧き天主教を奉じ、蘇瑞は新教の「プロテスタント」に帰依せり。この趣を見て考れば、天主教も仏蘭西に在ては其教風を改めて自から仏人の気象に適するもの歟、然らざれば仏人は宗教を度外に置て顧みざることなる可し。新教も蘇瑞両国に於ては其性を変じて自から人民の痴愚に適するものならん。到底(ツマリ)宗教は文明の度に従て形を改るの明証と云ふ可し。日本にても旧き山伏の宗旨又は天台真言宗の如きは専ら不思議を唱へ、或は水火の縁を結ぶと云ひ、或は加持祈禱の妙法を修すると云ひ、以て人を蠱惑して、古の人民はこの妄誕を信仰せしことなりしが、中古一向宗の起るに及ては不思議を云ふこと少なく、其教風都て簡易淡薄を主として亦中古の人文に適し、遂に諸宗を圧倒して独り権力を専らにせり。世の文明次第に進歩すれば宗教も必ず簡易に従ひ、稍や道理に基かざるを得ざるの証なり。仮に今日に在て弘法大師を再生せしめ、其古人を蠱惑せし所の不可思議を唱へしむることあるも、明治年間の人には之を信ずる者甚だ稀なる可し。故に今日の人民はまさに今日の宗旨に適し、宗旨も人民に満足し、人民も宗旨に満足して、互に不平ある可らず。若し日本の文明今より次第に進て、今の一向宗をも虚誕なりとして之を厭ふに至らば、必ず又別の一向宗を生ずることもある可し。或は西洋に行はるゝ宗旨を其まゝに採用することもある可し。結局宗旨のことは之を度外に置く可きのみ。学者の力を尽すも政府の権を用るも如何ともす可きものに非ず。唯自然の成行に任ず可きのみ。故に書を著して宗旨の是非正邪を論じ、法を設けて宗旨の教を支配せんとする者は、天下の至愚と云ふ可し。
有徳の善人必ずしも善を為さず、無徳の悪人必ずしも悪を為さず。往時西洋諸国にて宗旨のために師を起し人を殺したるの例は歴史を見て知る可し。其最も甚しきものは「ペルセキウション」とて、己が信ずる所の宗旨に異なる者を逐て之を殺戮することなり。古来仏蘭西及び西班牙(いすぱにあ)に於て其例最も多し。有名なる「バルゾロミウ」の屠戮(とりく)には、八日の間に無罪の人民五千人を殺したりと云ふ。《事は西洋事情二編仏蘭西の史記にあり。》其惨酷なるは沙汰の限りなれども、屠戮を行ふたる本人に就て見れば、元と一心一向に宗旨を信じ、信の一事に於ては俯仰憚る所なく、所謂屋漏に恥ざる善人なり。此善人にして此大悪事を行ふは何ぞや。私徳の足らざるに非ず、聡明の智恵に乏しきなり。愚人に権力を附して、之をして信ずる所あらしめなば、何等の大悪事をも為さゞることなし。世のために最も恐る可き妖怪と云ふ可し。爾来諸国の文物漸く盛なるに至り、今日は既に「ペルセキウション」の事あるを聞かず。こは古今の宗旨に異同あるに非ず、文明の前後に由て然るものなり。均しく是れ耶蘇の宗旨なるに、古はこの宗旨のために人を殺し、今はこの宗旨を以て人を救ふとは何故ぞ。人の智愚に就て其源因を求むるの外は手段なかる可し。故に智恵は徳義の光明を増すのみならず、徳義を保護して悪を免かれしむるものなり。近くは我日本にても、水戸の藩中に正党姦党の事あり。其由来は今爰に論ずるに及ばずと雖ども、結局、忠義の二字を議論して徒党を分たるものにて、其事柄は宗旨論に異ならず。正と云ひ姦と云ふも其字に意味ある可らず。自から称して正と云ひ他を評して姦と名るのみ。両党共に忠義の事を行ひ、其一人の言行に就て之を見れば腹中甕(かめ)の如き赤心を納る者多し。其偽君子に非ざるの証は、此輩が事を誤るときに当て常に従容死に就き狼狽する者なきを見て知る可し。然るに近世議論のために無辜の人民を殺したるの多きは水戸の藩中を最とす。是亦善人の悪を為したる一例なり。
徳川家康は乱世の後を承け櫛風(しつぷう)浴雨、艱難を憚らずして遂に三百年の太平を開き、天下を泰山の安(やすき)に置たりとて、今日に至るまでも其功業の美なるを称せざる者なし。実に足利の末世、海内紛擾の時に当て、織田豊臣の功業も未だ其基を固くすること能はず。此時に家康なかりせば何れの時か太平を期す可きや。実に家康は三百年間太平の父母と云ふ可し。然るに此人の一心に就き其徳義を察すれば、人に恥づ可きもの少なからず。就中其太閤の遺託に背て大阪を保護するの意なく、特に託せられたる秀頼を輔けずして却て其遊冶暗弱を養成し、石田三成の除く可きを除かずして後日大阪を倒すの媒妁に遺したるが如きは、奸計の甚しきものを云ふ可し。此一条に就ては家康の身には一点の徳義なきが如し。然るに此不徳を以て三百年の太平を開き衆庶を塗炭に救たるは奇談に非ずや。其他頼朝にても信長にても、一身の行状を論ずれば残忍刻薄偽詐反覆悪む可きもの多しと雖ども、皆一時の干戈を止め人民の殺戮を少なくしたるは何ぞや。悪人も必ずしも善を為さゞるに非ざるなり。必竟此輩の英雄は、或は私徳に欠点ありと雖ども、聡明叡知の働を以て善の大なるものを成したる人物と云ふ可し。一点の瑾(きず)を見て全璧の価を評す可らざるなり。
右に論ずる所を約して云へば、徳義は一人の行状にて其功能の及ぶ所狭く、智恵は人に伝ること速にして其及ぶ所広し、徳義の事は開闢の初より既に定て進歩す可らず、智恵の働は日に進て際限あることなし、徳義は有形の術を以て人に教ゆ可らず、之を得ると否とは人々の工夫に在り、智恵は之に反して人の智恵を糺すに試験の法あり、徳義は頓に進退することあり、智恵は一度び之を得て失ふことなし、智恵は互に依頼して其功能を顕はすものなり、善人も悪を為すことあり悪人も善を行ふことありとのことを説き示したるものなり。抑も徳義を人に授るに就ては有形の方術なく、忠告の及ぶ所は僅に親族朋友の間のみなりと雖ども、其風化の達する領分は甚だ広し。万里の外に出版したる著書を見て大に発明することあり、古人の言行を聞て自から工夫を運らし遂に一身の心術を改る者あり。伯夷の風を聞て立つとは此事なり。苟も人として世を害するの意なくば一身の徳義を脩めざる可けんや。名のために非ず、利のために非ず、正に是れ人類たる者の自から任ず可き徳義の責なり。自己の悪念を防ぐには、勇士が敵に向て戦ふが如く、暴君が民を御して之を窘るが如くし、善を見て之を採るは守銭奴が銭を貪て飽くことを知らざる者の如くし、既に一身を脩め又よく一家を教化し、尚余力あらば乃ち広く他人に及ぼして之に説き之に諭し、衆生をして徳の門に入らしめ、一歩にても徳義の領分を弘めんことを勉む可し。是亦人間の一科業にて、文明を助るの功能固より洪大なるが故に、世に教化師の類ありて徳義の事を勧るは誠に願ふ可きことなれども、唯徳義の一方を以て世界中を籠絡せんとし、或は其甚しきに至ては徳教中の一派を主張して他の教派を排し、一派を以て世の徳教を押領して兼て又智恵の領分をも犯し、恰も人間の務は徳教の一事に止りて徳教の事は又其内の一派に限るものゝ如くし、人の思想を束縛して自由を得さしめず、却て人を無為無智に陥れて実の文明を害するが如きは、余輩の最も悦ばざる所なり。受身の私徳を以て世の文明を助け、世人をして其徳沢を被らしむることあるは、偶然に成たる美事と云ふ可きのみ。譬へば我地面内に家を建てゝ遇ま隣家の屏墻と為りたるが如し。隣人のためには極て便利なりと雖ども、元と我家を建たるは自己のためにして隣人のためにしたるに非ず、偶然の便利と云ふ可きのみ。私徳を脩るも元と一身のためにするものにて他人のためにするに非ず、若し他人のために徳を脩る者あらば、即是れ偽君子にて、徳行家の悪む所なり。故に徳義の本分は一身を脩るに在り。其これを脩て文明に益することあるは偶然の美事のみ。偶然の事に拠て一世を支配せんとするは大なる誤と云ふ可し。元来人として此世に生れ、僅に一身の始末をすればとて、未だ人たるの職分を終れりとするに足らず。試に問ふ、徳行の君子、日に衣食する所の物は何処より来たるや。上帝の恩沢洪大なりと雖ども、衣服は山に生ぜず、食は天より降らず。況や世の文明次第に進めば其便利、唯衣服飲食のみならず、蒸気電信の利あり、政令商売の便あるに於てをや。皆是れ智恵の賜にあらざるはなし。人間同権の趣意に従へば、坐して他人の賜を受るの理ある可らず。若し徳行の君子をして瓢瓠(へうこ)の如くならしめ、よく懸て食ふことなくば則ち止まん(有徳の君子がぶら下がるだけで食べられない瓢箪のやうなものになるなら無意味なことだ)。苟も食を喰ひ衣を服し、蒸気電信の利を利として、政令商売の便を便とすることあらば、亦其責に任ぜざる可らず。加之肉体の便利既に饒にして一身の私徳既に恥ることなしと云ふも、尚この有様に止て安ずるの理なし。其饒と云ひ、恥るなしと云ふは、僅に今日の文明に於て足れるのみ、未だ其極に至らざること明なり。人の精神の発達するは限あることなし、造化の仕掛には定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆人の精神の内に包羅して洩すものなきに至る可し。此一段に至ては何ぞ又区々の智徳を弁じて其界を争ふに足らん。恰も人天並立の有様なり。天下後世必ず其日ある可し。
巻之四
第七章 智徳の行はる可き時代と場所を論ず
事物の得失不便を論ずるには時代と場所とを考へざる可らず。陸に便利なる車も海に在ては不便利なり。昔年便利とせし所のものも今日に至ては既に不便なり。又これを倒にして今日の世には至便至利のものたりと雖ども、之を上世に施す可らざるもの多し。時代と場所とを考の外に置けば、何物にても便利ならざるものなし、何事にても不便利ならざるものなし。故に事物の得失便不便を論ずるとは、其事物の行はる可き時節と場所とを察すると云ふに異ならず。時代と場所とにさへ叶へば事物に於て真に得失はなきものなり。中古発明長柄の鎗は中古の戦に便利なれども、之を明治年間に用ゆ可らず。東京の人力車は東京の市中に便利なれども、之を「ロンドン」「パリス」に用ゆ可らず。戦争は悪事なれども敵に対すれば戦はざるを得ず。人を殺すは無道なれども戦のときには殺さゞるを得ず。立君専制の暴政は賎しむ可しと雖ども、「ペイトル」帝の所業を見て深く咎む可らず。忠臣義士の行状は好みす可しと雖ども、無君の合衆国を評して野蛮と称す可らず。彼も一時一処なり、此も一時一処なり。到底世の中の事に、一以て之を貫く可き道はある可らず。唯時と処とに随て進む可きのみ。
時を察し処を視るの事は極て難し。古来の歴史に於て人の失策と称するは、悉皆此時と処とを誤たるものなり。其美事盛業と称するはよく此二者に適したるものなり。蓋し其これを視察するの難きは何ぞや。処には類似したるもの多く、時には前後緩急の機あればなり。譬へば実子と養子と相類するが故に、養子を御するに実子を遇するの法を以てして大に誤ることあり。或は馬と鹿と相似たるが故に、馬を飼ふの術を用ひて鹿を失ふことあり。或は宮と寺とを誤り、或は提灯と釣鐘とを誤り、或は騎兵を沼地に用ひて重砲を山路に牽かしむることあり。或は東京と「ロンドン」とを誤認(あやまりしたゝ)めて「ロンドン」に人力車を用ひんとする等、此類の失策は計るに遑あらず。又時に就て論ずれば、中古の戦争と今の戦争と相似たればとて、中古に便利なりし長柄の鎗を今世の戦に用ゆ可らず。所謂時来れりと称するものは多くは真の時機に後れたる時なり。食事の時は飯を喰う時なり、飯を炊くの時は其以前になかる可らず。飯を炊かずして空腹を覚へ、乃ち時来れりと云ふと雖ども、其時は炊きたる飯を喰ふ可き時にて、飯を炊く可き時には非ず。又眠を貪て午前に起き、其起たる時を朝と思ふと雖ども、真の朝は日出の時に在て、其時は睡眠の中に既に過ぎたるが如し。故に場所は撰ばざる可らず。時節は機に後る可らざるなり。
前章には智恵と徳義との区別を示して其功用の異なる所を論じたり。今また其行はる可き時節と場所とのことを弁論して、以て此一章を終る可し。開闢の後、野蛮を去ること遠からざる時代には、人民の智力未だ発生せずして其趣恰も小児に異ならず、内に存するものは唯恐怖と喜悦との心のみ。地震雷霆風雨水火、皆恐れざるものなし。山を恐れ海を恐れ、旱魃を恐れ飢饉を恐れ、都て其時代の人智を以て制御すること能はざるものは、之を天災と称して唯恐怖するのみ。或は此天災なるものを待て来らざる歟、又は来て速に去ることあれば、乃ち之を天幸と称して唯喜悦するのみ。譬へば旱(ひでり)の後に雨降り、飢饉の後に豊年あるが如し。而して此天災天幸の来去するや、人民に於ては悉皆其然るを図らずして然るものなれば、一に之を偶然に帰して、嘗て人為の工夫を運(めぐら)さんとする者なし。工夫を用ひずして禍福に遇ふことあれば、人情として其源因を人類以上のものに帰せざるを得ず。即ち鬼神の感を生ずる由縁にて、其禍の源因を名けて悪の神と云ひ、福の源因を名けて善の神と云ふ。凡そ天地間に在る一事一物、皆これを司る所の鬼神あらざるはなし。日本にて云へば八百万神の如き是なり。其善の神に向ては幸福を降さんことを願ひ、悪の神に向ては禍災を避けんことを願ひ、其願の叶ふと否とは我工夫に在らずして鬼神の力に在り。其力を名けて神力と云ひ、神力の扶助を願ふことを名けて祈と云ふ。即ち其時代に行はるゝ祈祷なるもの是なり。
此人民等の恐怖し又喜悦する所のものは、啻に天災と不幸とのみならず、人事に於ても亦斯の如し。道理に暗き世の中なれば、強大なる者の腕力を以て小弱なる者を虐するも、理を以て之を拒むの術なくして唯これを恐怖するのみ。其有様は殆ど天災に異ならず。故に小弱なる者は一方の強大に依頼して他の強暴を防ぐの外に手段ある可らず。此依頼を受る者を名けて酋長と云ふ。酋長は其腕力に兼て聊(いささ)かの智徳を有し、他の強暴を制して小弱を保護し、之を保護すること愈厚ければ人望を得ることも亦愈固くして、遂に一種の特権を握り、或は之を子孫に伝ることあり。世界中何れの国にても、草昧の初に於ては皆然らざるものなし。我邦王代に於ては、天子、国権を執り、中古、関東にて源氏の威を専らにしたるも其一例なり。此酋長なる者、既に権威を得ると雖ども、無智の人民、反覆常なくして之を維持すること甚だ難し。之に諭すに高尚の道理を以てす可らず、之に説くに永遠の利益を以てす可らず。其方向を一にして共に一種族の体裁を保たんとするには、唯其天然に備はりたる恐怖と喜悦との心に依頼して、目前の禍福災幸を示すの一法あるのみ。これを君長の恩威と云ふ。是に於てか始て礼楽なるものを作り、礼は以て長上を敬するを主として自から君威の貴きを知らしめ、楽は以て無言の際に愚民を和して自から君徳を慕ふの情を生ぜしめ、礼楽以て民の心を奪ひ、征伐以て民の腕力を制し、衆庶を率ひて識らず知らず其処を得せしめ、善き者を褒て其喜悦の心を満足せしめ、悪き者を罰して其恐怖の心を退縮せしめ、恩威並(ならび)行はれて人民も自から苦痛なきに似たり。然りと雖ども其これを褒めこれを罰するは皆君長の心を以て決することなれば、人民は唯この褒罰に遇ふて恐怖し又喜悦するのみ。褒罰の由て来る由縁の道理は之を知ることなし。其事情恰も天の禍災幸福を蒙るが如く、悉皆其然るを図らずして然るものにて、一事一物も偶然に出でざるはなし。故に一国の君主は偶然の禍福の由て来る所の源なれば、人民より之を仰て自から亦人類以上の観を為さゞるを得ず。支那にて君主のことを尊崇して天の子と称するも蓋し此事情に由て起りし名称ならん。譬へば古の歴史に往々百姓の田租を免すと云ふことあり。政府にて何程の倹約を行ふも、国君以下衣食住の入用と多少の公費は欠く可らず。然るに幾年の間、年貢を取らずして尚この諸入費に差支なきは、前年の租税苛酷にして其時に余財ありし証なり。此苛税を出しても人民は其出す所以を知らず。今頓に幾年の間、無税と為るも、人民は其無税と為りし所以を知らず。苛き時は之を天災と思ふて恐怖し、寛なるときは之を天幸と思ふて喜悦するのみ。其災も其幸も天子より降り来ることにて、天子は恰も雷と避雷針と両様の力あるものゝ如し。雷霆の震するも天子の命なり、此雷霆を避けしむるも天子の命なり。人民はこれに向て唯祈願するの一術あるのみ。其天子を尊崇すること鬼神の如くするも亦理なきに非ざるなり。
今人の心を以て右の事情を考れば極て不都合なるに似たれども、時勢の然らしむる所、決して之を咎むるの理なし。此時代の人民に向ては、共に智恵の事を語る可らず、共に規則を定め難し、共に約束を守り難し。譬へば堯舜の世に今の西洋諸国の法律を用ひんとするも、其法律の趣意を解してよく之に従ふ者なかる可し。其これに従はざるは人民の不正に非ず、其法律の趣意を解す可き智恵あらざればなり。此人民を放て各其赴く所に向はしめなば、何等の悪事を犯して世のために何等の災害を醸す可きやも測る可らず。唯酋長なる者、独りよく其時勢を知り、恩を以て之を悦ばしめ、威を以て之を嚇し、一種族の人民を視ること一家の子供の如くし、之を保護維持して、大は生殺与奪の刑罰より、小は日常家計の細事に至るまでも、君上の関り知らざるものなし。其趣を見れば天下は正しく一家の如く又一教場の如くにして、君上は其家の父母の如く又教師の如く、其威徳の測る可らざるは鬼神の如く、一人の働を以て父母と教師と鬼神との三職を兼帯する者なり。此有様にて国君よく私慾を制し己を虚ふして徳義を脩むれば、仮令ひ智恵は少なくとも仁君明天子の誉あり。之を野蛮の太平と名く。其時代に在ては固より止むを得ざることにて、亦これを美事と云ふ可し。唐虞三代の治世即是なり。或は然らずして国君、私の慾を逞ふし、徳を施さずして唯威力のみを用るときは、則ち暴君の名あり。所謂野蛮の暴政なるものにて、人民は其生命をも安んずること能はず。結局野蛮の世には人間の交際に唯恩威の二箇条あるのみ。即ち恩徳に非ざれば暴威なり、仁恵に非ざれば掠奪なり。此二者の間に智恵の働あるを見ず。古書に、道二あり、仁と不仁となりとは、是を謂ふなり。此風は唯政治の上に行はるゝのみならず、人の私の行状に就ても皆双方の極度に止て、明に其界を分てり。和漢著述の古書を見るに、経書にても史類にても、道を説て人の品行を評するには悉皆徳義を以て目的と為し、仁不仁、孝不孝、忠不忠、義不義、正しく切迫に相対して、伯夷に非ざる者は盗跖(たうせき)なり、忠臣に非ざる者は賊なりとて、其間に智恵の働を容れず。偶ま智恵の事を為すものあれば之を細行末事と称して顧みる者なし。畢竟野蛮不文の時代に在ては、人間の交際を支配するものは唯一片の徳義のみにて、此外に用ゆ可きものあらざるの明証なり。
人文漸く開化し智力次第に進歩するに従て、人の心に疑を生じ、天地間の事物に遇ふて軽々之を看過することなく、物の働を見れば其働の源因を求めんとし、仮令ひ或は真の源因を探り得ざることあるも、既に疑の心を生ずれば其働の利害を撰て、利に就き害を避るの工夫を運らす可し。風雨の害を避るには家屋を堅くし、河海の溢るゝを防ぐには土堤を築き、水を渡るに船を造り、火を防ぐに水を用ひ、医薬を製して病を療し、水理を治めて旱魃に備へ、稍や人力に依頼して安心の地位を作るに至る可し。既に人力を以て自から地位を得るの術を知れば、天災を恐怖するの痴心は次第に消散して、昨日まで依頼せし鬼神に対しても半は其信仰を失はざるを得ず。故に智恵に一歩を進れば一段の勇気を生じ、其智恵愈進めば勇力の発生も亦限あることなし。試に今日西洋の文明を以て其趣を見るに、凡そ身外の万物、人の五官に感ずるものあれば先づ其物の性質を求め其働を糺し、随て又其働の源因を探索して、一利と雖ども取る可きは之を取り、一害と雖ども除く可きは之を除き、今世の人力の及ぶ所は尽さゞることなし。水火を制御して蒸気を作れば太平洋の波濤を渡る可し、「アルペン」山の高きも之を砕けば車を走らしむ可し。避雷の法を発明したるの後は雷霆も其力を逞ふするを得ず、化学の研究漸く実効を奏して飢饉も亦人を殺すを得ず。電気の力、恐る可しと雖ども、之を使へば飛脚の代用を為さしむ可し。光線の性質、微妙なりと雖ども、影を捕へて物の真像を写す可し。風波の害を及さんとするものあれば、港を作て船を護り、流行病の来て襲はんとするものあれば、之を駆て人間に近づくを得せしめず。概して之を云へば、人智を以て天然の力を犯し、次第に其境に侵入して造化の秘訣を発し、其働を束縛して自由ならしめず、智勇の向ふ所は天地に敵なく、人を以て天を使役する者の如し。既に之を束縛して之を使役するときは、又何ぞ之を恐怖して拝崇することをせんや。誰か山を祭る者あらん。誰か河を拝する者あらん。山沢河海風雨日月の類は文明の人の奴隷と云ふ可きのみ。
既に天然の力を束縛して之を我範囲の内に籠絡せり。然ば則ち何ぞ人為の力を恐怖して之に籠絡せらるゝの理あらん。人民の智力次第に発生すれば、人事に就ても亦其働と働の源因とを探索して軽々看過することなし。聖賢の言も悉く信ずるに足らず、経典の教も疑ふ可きものあり。堯舜の治も羨むに足らず、忠臣義士の行も則とる可らず。古人は古に在て古の事を為したる者なり、我は今に在て今の事を為す者なり。何ぞ古に学て今に施すことあらんとて、満身恰も豁如とてして天地の間に一物以て我心の自由を妨るものなきに至る可し。既に精神の自由を得たり、又何ぞ身体の束縛を受けん。腕力漸く権を失して智力次第に地位を占め、二者互いに歯(よはひ)するを得ずして人間の交際に偶然の禍福を受る者少し。世間に強暴を恣にする者あれば道理を以て之に応じ、理に伏せざれば衆庶の力を合して之を制す可し。理を以て暴を制するの勢に至れば、暴威に基きたる名分も亦これを倒す可し。故に政府と云ひ人民と云ふと雖ども、唯其名目を異にし職業を分つのみにて、其地位に上下の別あるを許さず。政府よく人民を保護し小弱を扶助して強暴を制するは即ち其当務の職掌にて、之を過分の功労と称するに足らず、唯分業の趣意に戻らざるのみ。或は国君なる者自から徳義を脩め、礼楽征伐を以て恩威を施さんとするも、人民は先づ其国君の何物たるを察し、其恩威の何事たるを詳にし、受く可らざるの私恩は之を受けず、恐る可らざるの暴威は之を恐れず、一毫をも貸さず一毫をも借らず、唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む可し。智力発生する者は能く自から其身を支配し、恰も一身の内に恩威を行ふが故に他の恩威に依頼するを要せず。譬へば善を為せば心に慊(こころ)きの褒(はう)ありて、善を為す可きの理を知るが故に、自から善を為すなり。他人に媚るに非ず、古人を慕ふに非ず。悪を為せば心に恥るの罰ありて、悪を為す可らざるの理を知るが故に悪を為さゞるなり。他人を憚るに非ず、古人を恐るゝに非ず、何ぞ偶然に出たる人の恩威を仰て之を恐怖喜悦することをせんや。政府と人民との関係に付き、文明の人の心に問はゞ左の如く答ふ可し。「国君と雖ども同類の人のみ、偶然の生誕に由て君長の位に居る者歟、又は一時の戦争に勝て政府の上に立つ者より外ならず、或は代議士と雖ども素と我撰挙を以て用ひたる一国の臣僕のみ、何ぞ此輩の命令に従て一身の徳義品行を改る者あらんや、政府は政府たり、我は我たり、一身の私に就ては一毫の事と雖ども豈政府をして喙(くちばし)を入れしめんや、或は兵備刑典懲悪の法も我輩の身に取ては無用の事なり、之がために税を出すは我輩の責に非ずと雖ども、悪人多き世の中にて之と雑居するが為に止むを得ずして姑(しばら)く之を出し、其実は唯此悪人に投与するのみ、然るを況や政府にて、宗教学校の事を支配し、農工商の法を示し、甚しきは日常家計の事を差図して、直に我輩に向て善を勧め生を営むの道を教るがためにとて銭を出さしめんとするに於てをや、謂れなきの甚しきものなり、誰か膝を屈して人に依頼し我に善を勧めよとて請求する者あらん、誰か銭を出して無智の人に依頼し我に営生の道を教へよとて歎願する者あらん」と。文明の人の心事を写して其趣を記せば大凡そ斯の如し。此輩に向て無形の徳化を及ぼし私の恩威を以て之を導かんとするも亦無益ならずや。固より今の世界の有様にて何れの地方にても全国の人民悉皆有智なるには非ずと雖ども、開闢を去ること次第に遠くして其国の文明却歩することなくば、人民の智恵は必ず進て一般の間に平均す可きが故に、仮令ひ或は旧習に浸潤し上の恩威を仰て下民の気力甚だ乏しきに似たるものあるも、事に触れ物に接して往々疑心を発せざるを得ず。譬へば一国の君主を聖明と称して其実は聖明ならざることあり、民を視ること赤子の如しと云て其実は父母と赤子と租税の多寡を争ひ、父母は赤子を却(おびやか)し赤子は父母を欺き、其醜態見る可らざることあり。此際に当ては中人以下の愚民にても他の言行の齟齬するを疑ひ、仮令ひ之に向て抵抗せざるも、其処置を怪しまざる者なし。既に之を疑ひ又これを怪むの心を生ずるときは、信心帰依の念は忽ち断絶して又これを御するに徳化の妙法を用ゆ可らず。其明証は歴史を読て知る可し。和漢にても西洋にても、仁君の世に出でゝよく国を治めたるは往古の時代なり。和漢に於ては近世に至るまでも此君を造らんとして常に之を誤り、西洋諸国に於ては千六、七百年の頃より仁君漸く少なくして、千八百年代に至ては仁君なきのみならず智君もなきに至れり。こは国君の種族に限りて徳の衰へたるに非ず、人民一般に智徳を増したるがために君長の仁徳を燿すに処なきなり。之を譬へば今の西洋諸国に仁君を出すも月夜に提灯を灯すが如きのみ。故に云く、仁政は野蛮不文の世に非ざれば用を為さず、仁君は野蛮不文之民に接せざれば貴からず、私徳は文明の進むに従て次第に権力を失ふものなり。
徳義は文明の進むに従て次第に権力を失ふと云ふと雖ども、世に徳義の分量を減ずるに非ず、文明の進むに従て智徳も共に量を増し、私を拡て公と為し、世間一般に公智公徳の及ぶ所を広くして次第に太平に赴き、太平の技術は日に進み争闘の事は月に衰へ、其極度に至ては土地を争ふ者もなく財を貪る者もなかる可し。況や君長の位を争ふが如き鄙劣なる事に於てをや。君臣の名義などは既に已に地を払て小児の戯にも之を言ふ者なかる可し。戦争も止む可し、刑法も廃す可し。政府は世の悪を止るの具に非ず、事物の順序を保て時を省き無益の労を少くするがために設るのみ。世に約束を違る者あらざれば貸借の証文も唯備忘のために記すのみ、他日訴訟の証拠に用るに非ず。世に盗賊あらざれば窓戸は唯風雨を庇ひ犬猫の入るを防ぐのみにて錠前を用るに及ばず。道に遺を拾ふ者あらざれば邏卒は唯遺物を拾ふて主人を求るに忙はしきのみ。大砲の代に望遠鏡を作り、獄屋の代に学校を建て、兵士罪人の有様は僅に古画に存する歟、或は芝居を見るに非ざれば想像す可らず。家内の礼義厚ければ又教化師の説法を聞くに及ばず、全国一家の如く、毎戸寺院の如し。父母は教主の如く、子供は宗徒の如し。世界の人民は恰も礼譲の大気に擁せられて徳義の海に浴するものと云ふ可し。之を文明の太平と名く。今より幾千万年を経てこの有様に至る可きや、余輩の知る所に非ず、唯是れ夢中の想像なりと雖ども、若し人力を以てよくこの太平の極度に達し得ることあらば、徳義の功能も亦洪大無辺なりと云はざるを得ず。故に私徳は野蛮草昧の時代に於て其功能最も著しく、文明の次第に進むに従て漸く権力を失ひ其趣を改めて公徳の姿と為り、遂に数千万年の後を推して文明の極度を夢想すれば又一般に其徳沢を見る可きなり。
右は徳義の行はるゝ時代を論じたるものなり。今又爰に其場所の事を説かん。野蛮の太平は余輩の欲する所に非ず。数千万年の後を待て文明の太平を期するも迀遠の談のみ。故に今の文明の有様にて徳義の行はる可き場所と行はる可らざる場所とを区別するは、文明の学問に於て最も大切なる要訣なり。一国人民の野蛮を去ること愈遠ければ此区別も亦愈明白なる可き筈なるに、不文の人は動もすればこれを知らずして大に目的を誤り、野蛮の太平を維持して直に文明の太平に到らんと欲する者多し。即ち古学者流の人が今の世に在て古を慕ふも其源因蓋しこの区別順序を誤るに在るなり。其事の難きは木に縁(より)て魚を求るが如く、梯子を用ひずして屋根に登らんとするが如し。其心に思ふ所と事実に行はるゝ所と常に齟齬するが故に、明に其心事を人に語ること能はざるのみならず、自から問ふて自から答ふ可らず、心緒錯乱思慮紛紜(ふんうん)、一生の間、曖昧の内に惑溺して向ふ所を知らず、随て建て随て毀ち、自から論じて自から駁し、生涯の事業を加減乗除すれば零に均しきのみ。豈愍む可きに非ずや。此輩は所謂徳義を行ふ者に非ずして徳義に窘めらるゝ奴隷と云ふ可きのみ。今其次第を左に示さん。
夫婦親子一家に居るものを家族と云ふ。家族の間は情を以て交を結び、物に常主なく与奪に規則なし、失ふも惜むに足らず、得るも悦ぶに足らず、無礼を咎めず拙劣を恥ぢず、婦子の満足は夫親の悦と為り、夫親の苦は婦子の患と為り、或は自から薄くして他を厚くし、他の満足を見て却て心に慊(こゝろよ)きを覚るものなり。譬へば愛子の病に苦しむときに、若しこの病苦を親の身に分て子の苦痛を軽くするの術ありと云ふ者あらば、天下の父母たるものは必ず身の健康を棄てゝ子を救ふことなる可し。概して云へば家族の間には私有を保護するの心なく、面目を全ふするの心なく、生命を重んずるの心も亦あらざるなり。故に家族の交には、規則を要せず、約束を要せず、況や智術策略をや、これを用ひんとするも用ゆ可き場所なく、智恵の事は僅に世帯整理の一部に用を為すのみにて、一家の交際は専ら徳義に依て風化の美を尽せり。
骨肉の縁少しく遠ざかれば少しく此趣を異にし、兄弟姉妹は夫婦親子よりも遠く、叔父と姪とは兄弟よりも遠く、従兄弟は他人の始なり。肉縁の遠きに従て其交に情合を用ることも亦次第に減少せざる可らず。故に兄弟も成長して家を異にすれば私有の別あり。叔父、姪、従兄弟に至ては最も然り。或は朋友の交にも情合の行はるゝことあり。刎頚の交と云ひ莫逆の友と云ふが如きは、其交際の親しきこと殆ど親子兄弟に異ならずと雖ども、今の文明の有様にては其区域甚だ狭し。数十の友を会して長く莫逆の交を全ふしたるの例は古今の歴史にも未だ之を見ず。又或は世に君臣なる者ありて、其交際は殆ど家族骨肉の如くにして、共に艱苦を嘗め、共に生死を与にし、忠臣の純精なるに至ては親子兄弟を殺して君のためにする者あり。古今世間の通論に於て、この働の由て来る所をば全く其君と其臣との交情に帰するのみにて他に源因を求ることなし。然りと雖ども此世論は唯一方の光に照されて君臣の名義に掩はれ、其所見未だ事の実際に達せざるものなり。若し他の光を以て事実を明にせば、必ず別に大なる源因の在る所を見る可し。蓋し其源因とは何ぞや。人の天賦に備はりたる党与の心と、其時代に行はるゝ人の気風と、此二者、即是なり。君臣の初め人数少なくして、譬へば北条早雲が六人の家来と共に剣を杖ついて東に来りしときの如きは、其交情必ず厚くして親子兄弟よりも親しきことならんと雖ども、既に一州一国を領して臣下の数も随て増加し、其君家の位をも次第に子孫に伝るに及ては、君臣の交際決して初の如くなるを得べからず。此時に至ては君臣共に其祖先の有様を口碑に伝へ、君は臣下の力に依て其家を守らんとし、臣は君家の系統を尊崇して其家に属し、自から一種の党与を結て、事変あれば臣下の力を尽して君の家を守り、兼て亦一身の私を保護し、或は機に投じて利を得ることあり、或は其時代の気風にて一世に功名を燿す可きことあるが故に、粉骨砕身の働をも為すことなり。必ずしも其時の君臣に刎頚の交あるに非ず。故に忠義家の言に、社稷(しやしよく)重しとし君を軽しとするとて、役に立たぬ人物とさへ思へば一家に唯一人の主人にても之を処するに非常の道を以てすることあり。之を情合の厚きものと云ふ可らず。又かの戦場に討死し落城のときに割腹する者とても、多くは其時代の気風にて、一命を棄てざれば武士の面目立たずとて一身の名誉のためにする者歟、又は遁逃(とんたう)しても命の助かる可き見込なきが故に命を致すものなり。太平記に鎌倉の北条滅亡のとき、元弘三年五月二十二日東勝寺に於て高時と一所に自殺したる将士八百七十余人、此外門葉恩顧の輩これを聞き伝へて従死する者鎌倉中に六千余人なりとあり。北条高時、何ほどの仁君なれば此六千八百人の臣下に交て其交情親子兄弟の如くするを得たるや。決してある可らざることなり。此様子を見れば討死割腹等の多少に由て其君徳の厚薄を卜す可らず。暴君のために死し仁君のために死すると云ふも、事実君臣の情に迫て命を致す者は思の外に少なきものなり。其源因は別に之を求めざる可らず。故に徳義の功能は君臣の間に於ても其行はるゝ所甚だ狭し。
貧院病院等を立てゝ窮民を救ふは徳義情合の事なれども、元と此事を起すは窮民と施主との間に交誼あるに非ず、一方は富にして一方は貧なるが故に出来たる事なり。施主は富て且仁なれども、施を受る者は唯貧なるのみにて、其徳不徳はこれを知る可らず。他の人物をも詳にせずして之に交る可き理なし。故に救窮の仕組を盛大にするは、普く人間交際に行はる可き事柄に非ず。唯仁者が余財を散じて徳義の心を私に慰るのみのことなり。施主の本意は人のためにするに非ず、自からためにすることなれば、固より称す可き美事なれども、救窮の仕組愈盛大にして其施行愈久しければ、窮民は必ずこれに慣れて其施を徳とせざるのみならず、之を定式の所得と思ひ、得る所の物、以前よりも減ずれば、却て施主を怨むことあり。斯の如きは則ち銭を費して怨を買ふに異ならず。西洋諸国にても救窮の事に就ては識者の議論甚だ多くして未だ其得失を決せずと雖ども、結局恵与の法は之を受く可き人の有様と人物とを糺して、身躬から其人に接し、私に物を与ふるより外に手段ある可らず。此亦徳義の以て広く世間に及ぼす可らざるの一証なり。
右の次第を以て之を考れば、徳義の力の十分に行はれて毫も妨なき場所は唯家族のみ。戸外に出れば忽ち其力を逞ふすること能はざるが如し。然りと雖ども人の説に家族の交は天下太平の雛形なりと云ふことあれば、数千万年の後には世界中一家の如くなるの時節もあらん歟。且世の事物は活動して常に進退するものなれば、今日の文明に就て其進退如何を問へば之を進歩の中に在りと云はざるを得ず。然ば則ち仮令ひ前途は遠くして、千里の路、僅に一歩を進ると雖ども、進は則ち進なり。前途の永遠なるに恐縮し自から画して進まざるの理なし。今西洋諸国の文明と日本の文明とを比較するに、唯此一歩の前後あるのみにて、学者の議論も唯此一歩の進退を争ふのみ。
抑も徳義は情愛の在る処に行はれて規則の内に行はる可らず。規則の功能を見ればよく情愛の事を成すと雖ども、其行はるゝ所の形は則ち然らずして、規則と徳義とは正しく相反して両ながら相容れざるものゝ如し。又規則の内に区別ありて、事物の順序を整理するための規則と、人の悪を防ぐための規則と、二様に分つ可し。甲の規則を犯すは人の過なり、乙の規則を犯すは人の悪心なり。今爰に論ずる所の規則は人の悪を防ぐための規則を指して云ふものなれば、学者之を誤る可らず。譬へば家族の事を整理するために、家内の者朝は六時に起て夜は十時に房に入る可しと規則を立ることあらんと雖ども、家内の悪念を防ぐために非ず。この規則を犯せばとて罪人と云ふ可らず。唯一家内の便利のために申合せて定めたる規則にて、書面を認るにも及ばず、家内の心を以て自から行はるゝものなり。此外真実睦しき親族朋友の間に金を貸借するも此類なり。されども今広く世間に行はるゝ証文、約条書又は政府の法律、各国の条約書等を見るに、或は民法刑法等の別ありて事物の順序を整理するための規則も少なからずと雖ども、一般に其所用如何を尋れば悉皆悪を防ぐの器械と云はざるを得ず。都て規則書の趣意は利害を裏表に並べて人に示し、其人の私心を以てこれを撰ばしむるの策なり。譬へば千両の金を盗めば懲役十年と云ひ、其の約条を十日延期すれば償金百両と云ふが如し。千両の金と十年の懲役と、百両の償金と十日の違約と両方に掲げて、人の私心をして其便利と思ふ方へ就かしむるの趣向なれば、徳義の精神は毫も存することなく、其状恰も飢たる犬猫に食物を示して傍に棒を振揚げ、喰はヾ打たんとて威を示すものゝ如し。其形のみを見れば決して之を情愛の事と云ふ可らず。
又徳義の行はるゝ所と規則の行はるゝ所と其分界を明にせんため左に其一例を示さん。爰に甲乙二人、金を貸借することあらん。二人相互に親愛して、これを貸すも徳とせず、借て返さゞるも怨とせず、殆ど私有の別なきは情愛の深きものにて、其交情は全く徳義に基くものなり。或は返済の期限と利足の割合とを定め、備忘のために之を紙に記して此書附を貸主に渡し置くも、其交情未だ徳義の領分を出でず。されども此書附に印を押して証券の印紙を貼(てふ)し、或は請人を立て或は質物を取るに至ては、既に徳義の領分を脱し、双方共に唯規則に依頼して相接するのみ。此貸借に就ては借主の正不正信じ難きが故に之を不正者と認め、金を返さゞれば請人へ掛り、尚も返さゞれば政府に訴て裁判を受る歟、又は其質物を取押へんとする趣向にて、所謂利害を裏表に掲げ、棒を振揚げて犬を威するものなり。故に規則に依頼して事物を整理する処には徳義の形は毫も存することある可らず。政府と人民との間にても、会主と会員との間にても、売主と買主との間も、貸主と借主との間も、或は銭を取て学芸を教る教師と生徒との間にても、規則のみを以て相会するものは之を徳義の交際と云ふ可らず。譬へば政府の官に同僚二人ありて、甲は深く公務に心配して誠実を尽し、役所より帰宅して夜も眠られぬ程に苦労すれども、乙は然らずして酒を飲み遊蕩を事として嘗て公務を心頭に掛けず。されども朝八時より出頭して午後四時退出までの間は、乙も勉強して其働は少しも甲に異ならず、言ふ可き事を言ひ書く可き事を書き、公務に差支あらざれば之を咎む可らず。甲の誠意も光を顕すこと能はざるなり。又人民の租税を納るにも、政府より促さゞれば之を納めざるも可なり、之を納るに贋金を以てするも之を請取れば請取たるものゝ落度なり、誤て多く納るも既に手渡すれば納めたるものゝ損なり、売物に掛直(かけね)を云ふも之を買へば買たる者の損なり、つり銭を多く与るも既に之を渡せば渡したる者の不調法なり、金を貸渡すも其証文を紛失すれば貸方の損なり、金札引替も其日限を過れば札を所持する者の損なり、物を拾ふて之を隠すも人の知る者あらざれば拾ふたる者の徳なり、加之(しかのみならず)人の物を盗むも露顕に及ばざれば之を盗賊の利と云はざるを得ず。此有様を見て之を考れば、今の世界は全く悪人の集る処にして徳義の痕跡をも見ず、唯無情の規則に依頼して僅に事物の順序を保ち、悪念内に充満すれども規則に制せられて之を事跡に顕はさず、規則の許す所の極界に至て乃ち止り、恰も鋭き刃の上を歩するものゝ如し。豈驚駭す可きに非ずや。
人心の賎む可き斯の如く、規則の無情なる斯の如し。遽(にはか)に其外形を一見すれば実に驚駭に堪へずと雖ども、今一歩を進めて此規則の起る所以の源因と、之に由て得る所の功徳とを察すれば、決して無情なるに非ず、之を今の世界の至善と云はざるを得ず。規則は悪を止むるためのものなりと雖ども、天下の人悉皆悪人なるが故に之を作るに非ず、善悪相混じて弁ず可らざるが故に、之を作て善人を保護せんがためなり。悪人の数は仮令ひ万人に一人たりとも、必ず其なきを保す可らざれば、万人中に行はるゝ規則は悪人を御するの趣意に従はざる可らず。譬へば贋金を見分るが如し。一万円の内に仮令ひ一円にても贋金あらんことを恐るゝときは、悉皆一万円の金を改めざる可らず。故に人間の交際に於て、其規則は日に繁多なるも規則の外形は無情なるが如くなるも、万々之を賎しむの理なし。益これを固くして益これを遵奉せざる可らず。今日の有様にて世の文明を進るの具は規則を除て他に方便あることなし。物の外形を嫌ふて其実の功能を棄るは智者の為さゞる所なり。悪人の悪を防ぐが為に規則を設ると雖ども、善人の善を為すの妨と為るに非ず。規則繁雑の世の中にても善人は思のまゝに善を行ふ可し。唯天下後世の為に謀るに、益この規則を繁多に為して次第に之を無用ならしめんことを祈るのみ。其時節は数千年の後にある可し。数千年の久きを期して今より規則を作らざるの理なし。時代の沿革を察せざる可らず。在昔野蛮不文の世に、君民一体天下一家にして、法を三章に約し、仁君賢相は誠を以て下民を撫し、忠臣義士は命を抛て君のためにし、万民上の風に化して上下共に其所を得るが如きは、規則に依頼せずして情実を主とし、徳を以て太平を致したるものにて、遽に之を想像すれば或は羨む可きに似たれども、其実はこの時代に規則を蔑視して用ひざるに非ず、之を用ひんとするも其処あらざるなり。之に反して人智次第に発生すれば世の事務も亦次第に繁多ならざるを得ず。事務繁多なれば其規則も随て増加す可し。且人智の進むに従て、規則を破るの術も自から亦巧なる可きが故に、之を防ぐの法も亦密ならざるを得ず。其一例を挙れば、昔は政府、法を設けて人民を保護せしもの、今日は人民、法を設けて政府の専制を防ぎ、以て自から保護するに至れり。古の眼を以て此有様を見れば、冠履転倒、上下の名分、地を払ふたるが如くなれども、少しく其眼力を明かにして所見を広くすれば、此際に自から条理の紊れざるものありて、政府も人民も互に面目を失するの患あることなし。今の世界に居て一国の文明を進め其独立を保たんとするには唯この一法あるのみ。時代の移るに従て人智の発生するは猶小児の成長して大人と為るが如し。小児の時には自から小児の事を事として、其喜怒哀楽の情、自から大人に異なり、年月を経て識らず知らず大人と為るに至れば、嘗て悦びし竹馬も今は以て楽とするに足らず、嘗て恐れし百物語も今は以て恐とするに足らざるは自然の理なり。且其小児の心事、痴愚なりと雖ども、敢て之を咎るに足らず。小児は小児の時に在て小児の事を為したる者にて、固より其分なれば、之に多を求む可らず。唯小児の群集する家は家力弱くして、他家に向て並立の附合を能せざるのみ。今此小児の成長するは家のために祝す可きことに非ずや。然るに其前年嘗て小児たりし由来を以て強ひて之を小児の如くならしめ、竹馬を以て之を悦ばしめ百物語を以て之を威せんとし、甚しきは昔の小児の言行を録して今の大人の手本と為し、此手本に従はざる者を名けて不順粗暴と唱るが如きは、智徳の行はる可き時代と場所とを誤りて適(たまた)ま家を弱くするの禍を招くのみ。
仮に又規則の趣意を無情なるものと為し、之を守る人の心をも賎しむ可きものと視做すと雖ども、尚人事に益すること大なり。譬へば物を拾ふてこれを主人に返せば、其物を半折して拾ふたる者へ与ふるの規則あり。今こゝに物を拾ふて唯其半折の利を得んがために之を其主人に返す者あらば、其心事は誠に賎しむ可し。然りと雖ども此規則を鄙劣なりとして廃することあらば、世の中に落したる物は必ず主人の手に返るを期す可らず。されば半折の法も徳義を以て論ずれば好む可きに非ざれども、之を文明の良法と云はざるを得ず。又商売上に目前の小利を貪て廉恥を破ることあり、之を商人の不正と云ふ。譬へば日本人が生糸蚕卵紙を製するに不正を行ふて一時の利を貪り、遂に国産の品価を落して永く全国の大利を失ひ、遂には不正者も共に其損亡を蒙るが如きは、面目も利益も并せて之を棄る者なり。之に反して西洋諸国の商人は取引を慥(たしか)にして人を欺くことなく、方寸の見本を示して数万反の織物を売るに、嘗て見本の品に異ならず、之を買ふ者も箱の内を改ることなく安心して荷物を引取る可し。此趣を見れば日本人は不正にして西洋人は正しきが如し。されどもよく其事情を詳にすれば、西洋人の心の誠実にして日本人の心の不誠実なるに非ず。西洋人は商売を広くして永遠の大利を得んと欲する者にて、取引を誠実にせざれば後日の差支と為りて己が利潤の路を塞ぐの恐あるが故に、止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実に非ず、勘定づくの誠なり。言葉を替へて云へば、日本人は欲の小なる者にて、西洋人は欲の大なる者なり。されども今西洋人の誠は欲のための誠なれば賎む可しとて、日本人の丸出しの不正を学ぶの理なし。欲のためにも利のためにも誠実を尽して商売の規則を守らざる可らず。此規則を守ればこそ商売も行はれて文明の進歩を助く可きなり。今の人間世界にて家族と親友とを除くの外は、政府も会社も商売も貸借も、事々物々、悉皆規則に依らざるものなし。規則の形、或は賎しむ可きものありと雖ども、之を無規則の禍に比すれば其得失、同年の論に非ざるなり。
方今西洋諸国の有様を見るに、人智日に進て敢為の勇力を増し、恰も天地の間には天然の物にても人為の事にても人の思想を妨るものなきが如くして、自由に事物の理を究め自由に之に応ずるの法を工夫し、天然の物に就ては既に其性質を知り又其働を知り、其性に従て之を御するの定則を発明したるもの甚だ多し。人事に就ても亦斯の如し。人類の性質と働とを推究して漸く其定則を窺ひ、其性と働とに従て之を御するの法を得んとするの勢に進めり。其進歩の一、二を挙れば、法律密にして国に冤罪少なく、商法明にして人に便利を増し、会社の法正しくして大業を企る者多く、租税の法巧にして私有を失ふ者少し。兵法の精しきは人を殺すの術なれども、却て之がために人命を残ふの禍を減じ、万国公法も粗にして遁る可しと雖ども、聊か殺戮を寛にするの方便と為り、民庶会議は以て政府の過強を平均す可し、著書新聞は以て強大の暴挙を防ぐ可し。近日は又万国公会なるものを白耳義(べるぎー)の首府に設けて全世界の太平を謀らんとするの説あり。是等は皆規則の益精にして益大なるものにて、規則を以て大徳の事を行ふものと云ふ可し。
第八章 西洋文明の由来
今の西洋の文明を記して其由来を詮索するは此小冊子の能くする所に非ず。依て爰には仏蘭西の学士「ギゾ-」氏所著の文明史及び他の諸書を引て、其百分一の大意を記すこと左の如し。
西洋の文明の他に異なる所は、人間の交際に於て其説一様ならず、諸説互に並立して互に和することなきの一事に在り。譬へば政治の権を主張するの説あり、宗教の権を専にするの論あり。或は立君と云ひ或は神政府と云ひ、或は貴族執権或は衆庶為政とて、各其赴く所に赴き各其主張する所を主張し、互に争ふと雖ども互によく之を制するを得ず。一も勝つ者なく一も敗する者なし。勝敗久しく決せずして互に相対すれば、仮令ひ不平なりと雖ども共に同時に存在せざるを得ず。既に同時に存在するを得れば、仮令ひ敵対する者と雖ども、互に其情実を知て互に其為す所を許さゞるを得ず。我に全勝の勢を得ずして他の所為を許すの場合に至れば、各自家の説を張て文明の一局を働き、遂には合して一と為る可し。是即ち自主自由の生ずる由縁なり。
今の西洋の文明は羅馬滅亡の時を初とす。紀元三百年代の頃より羅馬帝国の権勢漸く衰微に赴き、四百年代に至て最も甚しく、野蛮の種族八方より侵入して又帝国の全権を保つ可らず。此種族の内にて最も有力なる者を日耳曼(ぜるまん)の党と為す。「フランク」の種族も即ち此党なり。此野蛮の諸族、帝国を蹂躙して羅馬数百年の旧物を一掃し、人間の交際に行はるゝ者は唯腕力のみ。無数の生蕃、群を為して侵掠強奪至らざる所なし。随て国を建る者あれば随て併合せらるゝ者あり。七百年代の末に「フランク」の酋長「チャ-レマン」なる者、今の仏蘭西、日耳曼、伊多里の地方を押領して一大帝国の基を立て、稍や欧羅巴の全州を一統せんとするの勢を成したれども、帝の死後は国又分裂して帰する所なし。此時に当ては、仏蘭西と云ひ日耳曼と云ひ、其国の名あれども、未だ国の体を成さず。人々各一個の腕力を逞ふして一個の情欲を恣にするのみ。後世此時代を目して野蛮の世又は暗黒の世と称す。即ち羅馬の末より紀元九百年代に至るまで凡そ七百年の間なり。
此野蛮暗黒の時代に在て耶蘇の寺院は自から其体を全ふして存するを得たり。羅馬廃滅の後は寺院も共に滅す可きに似たれども決して然らず。寺院は野蛮の内に雑居して啻に存在するのみならず、却て此野蛮の民を化して己が宗教の内に籠絡せんことを勉強せり。其胆略も亦大なりと云ふ可し。蓋し無智の野蛮を導くには高尚の理を以てす可らず。乃ち盛に儀式を設け外形の虚飾を以て人の耳目を眩惑し、曖昧の際に漸く其信心を発起せしむるに至れり。後世より之を論ずれば妄誕を以て人民を蠱惑するの謗を免かれ難しと雖ども、此無政無法の世に苟も天理人道の貴きを知る者は唯耶蘇の宗教あるのみ。若し此時代に此教なからしめなば、欧羅巴の全州は一場の禽獣世界なる可し。されば耶蘇教の功徳も此時代に於て小なりと云ふ可らず。其権力を得るも亦偶然に非ず。概して云へば肉体を制するの事は世俗の腕力に属し、精神を制するの事は寺院の権に帰し、俗権と教権と相対立する者の如し。加之寺院の僧侶が俗事に関係して市在民間の公務を司るは羅馬の時代より行はるゝ習慣なれば、此時に至るまでも其権を失はず。後世の議院に僧侶の出席するも、其因縁は遠く上世に在て存するものなり。(寺院権あり)
初め羅馬の国を建るや幾多の市邑合衆したる者なり。羅馬の管轄、処として市邑ならざるはなし。此衆市邑の内には各自個の成法ありて、自から一市一邑の処置を施して羅馬帝の命に服し、集めて以て一帝国を成したりしが、帝国廃滅の後も市民会議の風は依然として之を存し、以て後世文明の元素と為れり。(民庶為政の元素)
羅馬の帝国滅亡したりと雖ども、在昔数百年の間この国を呼て帝国と称し、其君主を尊て帝と名け、其名称は人民の肺肝に銘して忘る可らず。既に皇帝陛下の名を忘れざれば専制独裁の考も此名と共に存せざるを得ず。後世立君の説も其源は蓋し爰に在るなり。(立君の元素)
此時代に在て天下に横行する野蛮の種族なる者は、古書に載する所を見て明に其気風性質を詳にし難しと雖ども、当時の事情を推察して之を按ずるに、豪気慓悍にして人情を知らず、其無識暗愚なること殆ど禽獣に近き者の如し。然りと雖ども今一歩を進めて、其内情に就き細に砕て之を吟味すれば、此暗愚慓悍の内に自から豪邁慷慨の気を存して不覊独立の風あり。蓋し此気風は人類の本心より来りしものにて、即ち自から認めて独一個の男子と思ひ、自から愉快を覚るの心なり、大丈夫の志なり、心志の発生留めんとして留む可らざるの勇気なり。在昔羅馬の時代にも自由の説なきに非ず、耶蘇教の党にも此説を主張する者なきに非ざれども、其自由自主と唱るものは一種一族の自由にて、一身の自由を唱る者あるを聞かず。一個の不覊独立を主張して一個の志を逞ふせんとするの気風は、日耳曼の生蕃に於て始て其元素あるを見たり。後世欧羅巴の文明に於て、一種無二の金玉として今日に至るまでも貴重する所の自由独立の気風は、之を日耳曼の賜と云はざるを得ず。(自由独立の気風は日耳曼の野蛮に胚胎せり)
野蛮暗黒の時代漸く終て周流横行の人民も其居を定め、是に於てか封建割拠の勢に移りたり。此勢は九百年代に始り千五、六百年の時に至て廃滅したるものなり。此時代を「フヒユ-ダル・システム」の世と称す。封建の時代には、仏蘭西と云ひ西班牙(すべいん)と云ひ、各其国の名を存して各国の君主なきに非ざれども、君主は唯虚位を擁するのみ。国内の武人諸方に割拠して一の部落を成し、山に拠て城を築き、城の下に部下を集め、下民を奴視して自から貴族と称し、現に独立の体裁を備へて憚る所なく、武力を以て互に攻伐するのみ。暗黒の時代に在ては、世の自由なるもの一身一己の上に行はれたりと雖ども、封建の世に至ては大に其趣を異にし、自由の権は土地人民の主たる貴族一人の身に属し、之を制するに一般の国法なく、之を間然するに人民の議論もなく、一城の内に在ては至尊の君と云はざるを得ず、唯其専制を妨るものは敵国外患に非ざれば自力の不足のみ。欧羅巴の各国大概この風を成して、国中の人皆貴族あるを知て国王あるを知らず。彼の仏蘭西、西班牙の如きも、未だ仏国、西国と称す可き国体を成さゞるなり。(封建割拠)
右の如く封建の貴族独り権を専らにするに似たれども、決して此独権を以て欧羅巴全洲の形勢を支配するに非ず。宗教は既に野蛮の人心を籠絡して其信仰を取り、紀元千百年より二百年代に至ては最も強盛を極めり。蓋し其権を得たる由縁を尋れば亦決して偶然に非ず。抑も人類生々の有様を見るに、世体の沿革に従て或は一時の栄光を燿かす可し、力あれば以て百万の敵を殲(ほろぼ)す可し、才あれば以て天下の富を保つ可し、人間万事才力に由て意の如くなる可きに似たりと雖ども、独り死生幽冥の理に至ては一の解す可らざるものあり。此幽冥の理に逢ふときは、「チャ-レマン」の英武と雖ども、秦皇の猛威と雖ども、秋毫の力を用るに由なく、悽然として胆を落し、富貴浮雲、人生朝露の歎を為さゞるを得ず。人心の最も弱き部分は正に此処に在るものにて、防戦を以て云へば備を設けざる要害の如く、人身にて云へば穎敏なる、きうしよの如くにして、一度び之を犯さるれば忽ち避易し、我微弱を示さゞる者なし。宗教の本分は此幽冥の理を説き造化の微妙を明にするものと称して、敢て人の疑惑に答ふるものなれば、苟も生を有する人類に於て誰か之に心を奪はれざる者あらんや。加之当時の人文未だ開けず、粗忽軽信の世の中なれば、虚誕妄説と雖ども嘗て之を怪む者なく、天下靡然(びぜん)として宗旨信仰の風を成し、一心一向に教の旨を信ぜしむるのみにて更に私の議論を許さず、其専制抑圧の趣は王侯の暴政を以て下民を窘るに異ならず。当時の事情を概して評すれば、人民は恰も其身を両断して精神と肉体との二部に分ち、肉体の運動は王侯俗権の制御を受け、精神の働は羅馬宗教の命令に従ふ者の如し。俗権は身体有形の世界を支配するものなり。宗教は精神無形の世界を支配するものなり。
宗教は既に精神の世界を支配して人心を奪ひ、王侯の俗権に対立すと雖ども、尚これに満足せずして云く、精神と肉体と孰か貴重なるや、肉体は末なり又外なり、精神は本なり又内なり、我は既に其本を制して内を支配せり、奈何ぞ其外と末とを捨るの理あらん、必ずしも之を我範囲の内に籠絡せざる可らずとて、漸く王侯の地位を犯し、或は其国を奪ひ或は其位を剥ぎ、羅馬の法皇は恰も天上地下の独尊なるが如し。日耳曼の皇帝第四「ヘヌリ」が法皇「グレゴリ」の逆鱗に逢ひ、厳冬風雪の中に徒跣(とせん)して羅馬の城門に立つこと三日三夜、泣て法皇に哀を乞ひしと云ふも此時代の事なり。(宗教の権力大に盛なり)
野蛮の横行漸く鎮定して割拠の勢を成し、既に城を築き家を建てゝ其居に安んずるに至れば、唯飢寒を免かるゝを以て之に満足す可らず、漸く人に風韻を生じて、衣は軽暖を欲し食は美味を好み、百般の需要一時に起て又旧時の粗野を甘ずる者なし。既に其需あれば随て又これを供するものなかる可らず。是に於てか始て少しく商工の路を開き、諸処に市邑の体を成して、或は其市民の内に富を致す者もあり。即ち羅馬の後、市邑の再興したるものなり。蓋し此市民の相集て群を成すや、其初に於ては決して有力なるものに非ず。野蛮の武人昔年の有様を回顧して乱暴掠奪の愉快を忘るゝこと能はずと雖ども、時勢既に定れば遠く出るに由なく、其近傍に在て掠奪を恣にす可き相手は唯一種の市民あるのみ。市民の目を以て封建の貴族武人を見れば、物を売るときは客の如く、物を奪はるゝときは強盗の如くなるが故に、商売を以て之に交ると雖ども、兼て又其乱暴を防ぐの備を為さゞる可らず。乃ち市邑の周囲に城郭を築き、城中の住民は互に相助て外敵を防ぎ、以て利害を共にするの趣向にて、大会のときには鐘を鳴らして住民を集め、互に異心なきを誓ふて信を表し、此会同のときに於て衆庶の内より人物数名を撰び、城中の頭取と為して攻防の政を司らしむるの風なり。此頭取なる者、既に撰挙に当て権を執るときは、其専制、意の如くならざるはなし。殆ど立君特裁の体なれども、唯市民の権を以て更に他人を撰挙して之に代らしむるの定限あり。
斯の如く市民の群を成して独立するものを「フリイ・シチ」と名け、或は帝王の命を拒み或は貴族の兵と戦ひ、争乱殆ど虚日あることなし。《「フリイ・シチ」は自由なる市邑の義にて其人民は即ち独立の市民なり》紀元一千年の頃より欧羅巴の諸国に自由の市都を立るもの多く、其有名なるものは伊太里の「ミラン」「ロンバルヂ」、日耳曼にては「ハンセチック・リ-ギュ(ハンザ同盟)」とて、千二百年代の初より「リュベッキ」及び「ハンボルフ」等の市民相集て公会を結び、其勢力漸く盛にして一時は八十五邑の連合を為して王侯貴族も之を制すること能はず、更に条約を結て其自立を認め、各市邑に城郭を築き兵備を置き法律を設け政令を行ふことを許して、恰も独立国の体裁を成すに至れり。(民政の元素)
以上所記の如く、紀元三、四百年の頃より、寺院なり、立君なり、貴族なり、民庶なり、何れも皆其体を成して各多少の権力を有し、恰も人間の交際に必用なる諸件は具はりたれども、未だ之を合して一と為し、一国を造り一政府を建るの時節に至らずして、人民の争ふ所、各局処に止まり、未だ全体なるものを知らざるなり。紀元千零九十六年十字軍の事あり。此軍は欧羅巴の人民、宗教のために力を合して小亜細亜の地を征伐し、全欧羅巴洲を味方と為して亜細亜に敵したることにて、人民の心に始て欧亜内外の区別を想像して其方向を一にし、且欧洲各国に於ても亦一国全体の大事件なれば、全国人民の向ふ所を同ふし、全国の利害を以て心に関するに至れり。故に十字軍の一挙は欧羅巴の人民をして欧羅巴あるを知らしめ、各国の人民をして各国あるを知らしめたるものと云ふ可し。此軍は千九十六年より始り、随て止み随て起り、前後の征伐八度にして、其全く終たるは千二百七十年のことなり。
十字軍の事は元と宗教の熱心より起たることなれども、二百年の久きを経て其功を奏せず。人の心に於て之を厭はざるを得ず。各国君主の身に於ても、宗教の権を争ふは政治の権を争ふの重大なるに若かず。亜細亜に行て土地を押領するは、欧羅巴に居て国境を開くの便利に若かざるを知り、又軍事に従はんとする者なし。人民も亦漸く其所見を大にし、自国に勧工の企つ可きものあるを悟りて遠征を好まず、征伐の熱心も曖昧の間に消散して事終に罷み、其成行は笑ふ可きに似たれども、当時欧洲の野人が東方文明の有様を目撃して之を自国に移し、以て自から事物の進歩を助け、又一方には東西相対して内外の別を知り、以て自から国体を定めたるは、此十字軍の結果と称す可し。(十字軍功を奏すること大なり)
封建の時代に在ては各国の君主は唯虚位を擁するのみと雖ども、固より平心なるを得べからず。又一方には国内の人民も次第に知見を開て、永く貴族の覊絆(きはん)に罹るを慊とせず。是に於てか又世上に一種の変動を生じて貴族を圧制するの端を開きたり。其一例を挙て云へば、千四百年代の末に仏蘭西王第十一世「ロイス」が貴族を倒して王室の権を復したるが如き是なり。後世より此君の事業を論ずれば、其欺詐狡猾、賎しむ可きに似たれども、亦大に然らざるものあり。蓋し時勢の変革、これを察せざる可らず。昔日は世間を制するに唯武力のみありしもの、今日に至ては之に代るに智力を以てし、腕力に代るに狡猾を以てし、暴威に代るに欺計を以てし、或は諭し或は誘ひ、巧に策略を運らしたる趣を見れば、仮令ひ此人物の心事は鄙劣なるも、其期する所は稍や遠大にして、武を軽んじ文を重んずるの風ありと云はざるを得ず。此時代に在て王室に権を集るの事は、仏蘭西のみならず英国、日耳曼、西班牙の諸国に於ても亦皆然り。其国君の之を勉るは固より論を俟たず。人民も亦王室の権に藉て其讐敵なる貴族を滅さんとし、上下相投じて其中を倒すの風と為り、全国の政令漸く一途に帰して稍や政府の体裁を成すに至れり。又此時代には火器の用法漸く世に弘まり、弓馬の道次第に廃棄して、天下に匹夫の勇を恐るゝ者なし。又同時に文字を版にするの術を発明して、恰も人間世界に新に達意の街道を開たるが如く、人智頓に発生して事物の軽重を異にし、智力、地位を占て、腕力、道を避け、封建の武人は日に権威を落して其依る処を失ひ、上下の中間に在て孤立するものゝ如し。概して此時の形勢を評すれば、国の権力漸く中心の一政府に集まらんとするの勢に赴きたるものと云ふ可し。(国勢合一)
寺院は既に久しく特権を恣にして憚る所なく、其形状恰も旧悪政府の尚存して倒れざるものゝ如く、内部の有様は敗壊し了したれども、只管旧物を墨守して変通を知らず、顧て世上を見れば人智日に進て又昔日の粗忽軽信のみに非ず、字を知るのことは独り僧侶の壟断に属せず、俗人と雖ども亦書を読む者あり。既に書を読み理を求るの法を知れば、事物に就て疑なきを得ず。然るに此疑の一字は正に寺院の禁句にて、其勢両ながら相容る可らず。是に於てか世に宗教変革の大事件を生じたり。千五百二十年、有名なる改宗の首唱「ル-ザ」氏、始て羅馬の法皇に叛して新説を唱へ、天下の人心を動かして其勢殆ど当る可らず。然りと雖ども羅馬も亦病める獅子の如く、生力は衰弱すと雖ども獅子は則ち獅子なり。旧教は獅子の如く、新教は虎の如く、其勝敗容易に決す可らず。欧洲各国これがために人を殺したること殆んど其数を知らず。遂に「プロテスタント」の一宗派を開き、新旧共に其地位を失はずして「ル-ザ」の尽力も其功空しからずと雖ども、殺人の禍を計れば此新教の価は廉なりと云ふ可らず。されども其廉不廉は姑く擱き、結局この宗旨論の眼目を尋れば、双方共に教の正邪を主張するには非ずして、唯人心の自由を許すと許さゞるとを争ふものなり。耶蘇の宗教を是非するには非ずして、羅馬の政権を争ふの趣意なり。故に此争論は人民自由の気風を外に表したるものにて、文明進歩の徴候と云ふ可し。(宗教の改革文明の徴候)
千四百年代の末より、欧洲各国に於て其国力漸く一政府に集り、其初に在ては人民皆王室を慕ふのみにて、自から政治に関するの権あるを知らず。国王も亦貴族を倒さんとするには衆庶の力に依頼せざるを得ず。一時の便宜のために恰も国王と人民と党与を結て互に其利する所を利し、自から人民の地位を高上に引揚げ、或は政府より許して故さらに人民へ権力を附与したることもあり。此成行に沿ひ、千五、六百年の際に至ては、封建の貴族も次第に跡を絶ち、宗旨の争論も未だ平治せずと雖ども稍や其方向を定め、国の形勢は唯人民と政府との二に帰したるが如し。然りと雖ども権を専にせんとするは有権者の通癖にして、各国の君主も此癖を脱すること能はず。是に於てか人民と王室との間に争端を開き、此事の魁を為したるものは即ち英吉利なり。此時代に在ては王室の威権盛大ならざるに非ずと雖ども、人民も亦商売工業を勉めて家産を積み、或は貴族の土地を買て地主たるものも少なからず。既に家財地面を有して業を勉め、内外の商売を専にして国用の主人たれば、又坐して王室の専制を傍観すること能はず。昔年は羅馬に敵して宗旨の改革あり。今日は王室に敵して政治の改革あらんとするの勢に至り、其事柄は教と俗との別あれども、自主自由の気風を外に洩して文明の徴候たるは同一なり。蓋し往古に行はれたる「フリ-・シチ」の元素も爰に至て漸く発生したるものならん。千六百二十五年第一世「チャ-レス」の位に即きし後は、民権の説に兼て又宗教の争も喧しく、或は議院を開き或は之を閉じ、物論蜂起、遂に千六百四十九年に至て国王の位を廃し、一時共和政の体をなしたれども永続すること能はず、爾後様々の国乱を経て、千六百八十八年第三世「ヰルレム」が王位に登りしより、始て大に政府の方向を改め、自由寛大の趣意に従て君民同治の政体を定め、以て今日に伝へり。
仏蘭西に於ては千六百年の初、第十三世「ロイス」の時に、宰相「リセリウ」の力を以て益王室の権威を燿かし、千六百四十三年第十四世「ロイス」が王位を継たるときは、年甫(はじめ)て五歳にして未だ国事を知らず、加之内外多事の時なれども国力を落すに至らず、王の年長ずるに及て天資英邁、よく祖先の遺業を承て国内を威服したるのみならず、屢外国と兵を交へて戦て勝たざるはなし。在位七十二年の間、王威赫奕の極に達し、仏蘭西にて王室の盛なるは特に此時代を以て最と称す。然れども其末年に及ては、兵威稍や振はず、政綱漸く弛み、隠然として王室零落の萌(きざし)を見るが如し。蓋し第十四世「ロイス」の老したるは、唯其人の老したるのみに非ず、欧洲一般に恰も王権の老衰したるものと云ふ可し。第十五世「ロイス」の世は、益政府の醜悪を極めて殆ど無政無法の極に陥り、之を昔年の有様に比すれば、仏蘭西は恰も前後二箇の国あるが如し。然りと雖ども、又一方より国の文明如何を尋れば、政治廃壊の此際に当て、文物の盛なること前代無比と称す可し。千六百年の間にも学者の議論に自由の思想なきに非ざれども、其所見或は狭隘なるを免かれざりしもの、七百年代に至ては更に其面目を改め、宗旨の教なり、政治の学なり、理論なり、窮理なり、其研究する所に際限あることなく、之を究め之を疑ひ、之を糺し之を試み、心思豁然として其向ふ所を妨るものなきが如し。概して此時の事情を論ずれば、王室の政治は不流停滞の際に腐敗を致し、人民の智力は進歩快活のために生気を増し、王室と人民との間に必ず激動なかる可らざるの勢と云ふ可し。即ち千七百年代の末に仏蘭西の大騒乱は、此激動の事実に見はれたるものなり。但し其事の破裂するや、英吉利にては千六百年代の央に於てし、仏蘭西にては千七百年の末に於てし、前後百余年の差あれども、事の源因と其結果と相互に照応するの趣は、正しく同一の轍を践むものと云ふ可し。
右は西洋文明の大略なり。其詳なるは世上に文明史の訳書あり、就て見る可し。学者よく其書の全体に眼を着し、反覆熟読して前後を参考することあらば、必ず大に所得ある可し。
巻之五
第九章 日本文明の由来
前章に云へる如く、西洋の文明は、其人間の交際に諸説の並立して漸く相近づき、遂に合して一と為り、以て其間に自由を存したるものなり。之を譬へば金銀銅鉄等の如き諸元素を鎔解して一塊と為し、金に非ず、銀に非ず、又銅鉄に非ず、一種の混和物を生じて自から其平均を成し、互に相維持して全体を保つものゝ如し。顧て我日本の有様を察すれば大に之に異なり。日本の文明も其人間の交際に於て固より元素なかる可らず。立君なり貴族なり、宗教なり人民なり、皆古より我国に存して各一種族を為し、各自家の説なきに非ざれども、其諸説並立するを得ず、相近づくを得ず、合して一と為るを得ず。之を譬へば金銀銅鉄の諸品はあれども、之を鎔解して一塊と為すこと能はざるが如し。若し或は合して一と為りたるが如きものありと雖ども、其実は諸品の割合を平均して混じたるに非ず。必ず片重片軽、一を以て他を滅し、他をして其(その)本色を顕はすを得せしめざるものなり。猶かの金銀の貨幣を造るに十分一の銅を混合するも、銅は其本色を顕はすを得ずして、其造り得たるものは純然たる金銀貨幣なるが如し。之を事物の偏重と名く。抑も文明の自由は他の自由を費して買ふ可きものに非ず。諸の権義を許し諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ諸の力を逞ふせしめ、彼我平均の間に存するのみ。或は自由は不自由の際に生ずと云ふも可なり。故に人間の交際に於て、或は政府、或は人民、或は学者、或は官吏、其地位の如何を問はず、唯権力を有する者あらば、仮令ひ智力にても腕力にても、其力と名るものに就ては必ず制限なかる可らず。都て人類の有する権力は決して純精なるを得べからず。必ず其中に天然の悪弊を胚胎して、或は卑怯なるがために事を誤り、或は過激なるがために物を害すること、天下古今の実験に由て見る可し。之を偏重の禍と名く。有権者常に自から戒めざる可らず。我国の文明を西洋の文明に比較して、其趣の異なる所は特に此権力の偏重に就て見る可し。
日本にて権力の偏重なるは、洽ねく其人間交際の中に浸潤して至らざる所なし。本書第二章に、一国人民の気風と云へることあり。即ち此権力の偏重も、かの気風の中の一箇条なり。今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とのみを相対して、或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈を咎る者多しと雖ども、よく事実を詳にして細に吟味すれば、此偏重は交際の至大なるものより至小なるものに及び、大小を問はず公私に拘はらず、苟も爰に交際あれば其権力偏重ならざるはなし。其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を掛け、其天秤大となく小となく、悉く皆一方に偏して平均を失ふが如く、或は又三角四面の結晶物を砕て、千分と為し万分と為し遂に細粉と為すも、其一分子は尚三角四面の本色を失はず、又この砕粉を合して一小片と為し又合して一塊と為すも、其物は依然として三角四面の形を保つが如し。権力偏重の一般に洽ねくして事々物々微細緻密の極にまで通達する有様は斯の如しと雖ども、学者の特に之に注意せざるは何ぞや。唯政府と人民との間は交際の大にして公なるものにて著しく人の耳目に触るゝが故に、其議論も之を目的とするもの多きのみ。今実際に就て偏重の在る所を説かん。爰に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でゝ世間を見るも亦然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賎、新参故参、本家末家、何れも皆其間に権力の偏重を存せり。尚一歩を進めて人間の稍や種族を成したる所のものに就て之を見れば、封建の時に大藩と小藩あり、寺に本山と末寺あり、宮に本社と末社あり、苟も人間の交際あれば必ず其権力に偏重あらざるはなし。或は又政府の中にても官吏の地位階級に従て此偏重あること最も甚し。政府の吏人が平民に対して威を振ふ趣を見ればこそ権あるに似たれども、此吏人が政府中に在て上級の者に対するときは、其抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚甚しきものあり。譬へば地方の下役等が村の名主共を呼出して事を談ずるときは其傲慢厭ふ可きが如くなれども、此下役が長官に接する有様を見れば亦愍笑に堪へたり。名主が下役に逢ふて無理に叱らるゝ模様は気の毒なれども村に帰て小前の者を無理に叱る有様を見れば亦悪む可し。甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極あることなし。亦奇観と云ふ可し。固より人間の貴賎貧富、智愚強弱の類は、其有様(コンヂ-ション)にて幾段も際限ある可らず。此段階を存するも交際に妨ある可らずと雖ども、此有様の異なるに従て兼て又其権義(ライト)をも異にするもの多し。之を権力の偏重と名るなり。
今世間の事物を皮相すれば有権者は唯政府のみの如くなれども、よく政府の何物たるを吟味して其然る由縁を求めなば、稍や議論の密なるものに達す可し。元来政府は国人の集りて事を為す処なり。此場所に在る者を君主と名け官吏と名るのみ。而して此君主官吏は生れながら当路の君主官吏に非ず。仮令ひ封建の時代に世位(せいゐ)世官(せいかん)の風あるも、実際に事を執る者は多くは偶然に撰ばれたる人物なり。此人物、一旦政府の地位に登ればとて、忽ち平生の心事を改るの理なし。其或は政府に在て権を恣にすることあるは、即ち平生の本色を顕はしたるものゝみ。其証拠には封建の時代にても賎民を挙て政府の要路に用ひたることなきに非ずと雖ども、其人物の所業を見れば決して奇なるものなし。唯従前の風に従て少しく事を巧にするより外ならず。其巧は即ち擅権(せんけん)の巧にて、民を愛して愚にするに非ざれば、之を威して退縮せしむるものなり。若し此人物をして民間に在らしめなば、必ず民間に在て此事を行ふ可し。村に在らば村にて行ひ、市に在らば市にて行ひ、到底我国民一般に免かる可らざるの流行病なれば、独り此人に限て之を脱却することある可らず。唯政府に在れば其事業盛大にしてよく世間の耳目に触るゝを以て、人の口吻にも掛ることなり。故に政府は独り擅権の源に非ず、擅権者を集会せしむるの府なり。擅権者に席を貸して平生の本色を顕はし盛に事を行はしむるに恰も適当したる場所なり。若し然らずして擅権の源は特に政府に在りとせば、全国の人民は唯在官の間のみ此流行病に感じて前後は果して無病なる乎、不都合なりと云ふ可し。抑も権を恣にするは有権者の通弊なれば、既に政府に在て権を有すれば其権のために自から眩惑して益これを弄ぶの弊もあらん、或は又政府一家の成行にて擅権に非ざれば事を行ふ可らざるの勢もあらんと雖ども、此一般の人民にして平生の教育習慣に絶てなき所のものを、唯政府の地位に当ればとて頓に之を心に得て事に施すの理は万々ある可らざるなり。
右の議論に従へば、権を恣にして其力の偏重なるは決して政府のみに非ず、之を全国人民の気風と云はざるを得ず。此気風は即ち西洋諸国と我日本とを区別するに著しき分界なれば、今爰に其源因を求めざる可らずと雖ども、其事甚だ難し。西人の著書に亜細亜洲に擅権の行はるゝ源因は、其気候温暖にして土地肥沃なるに由て人口多きに過ぎ、地理山海の険阻洪大なるに由て妄想恐怖の念甚しき等に在りとの説もあれども、此説を取て直に我日本の有様に施し、以て事の不審を断ず可きや、未だ知る可らず。仮令ひ之に由て不審を断ずるも、其源因は悉皆天然の事なれば人力を以て之を如何ともす可らず。故に余輩は唯事の成行を説て、擅権の行はるゝ次第を明にせんと欲するのみ。其次第既に明ならば亦これに応ずるの処置もある可し。抑も我日本国も開闢の初に於ては、世界中の他の諸国の如く、若干の人民一群を成し、其一群の内より腕力最も強く智力最も逞しき者ありて之を支配する歟、或は他の地方より来り之を征服して其酋長たりしことならん。歴史に拠れば神武天皇西より師を起したりとあり。一群の人民を支配するは固より一人の力にて能(よく)す可きことに非ざれば、其酋長に附属して事を助る者なかる可らず。其人物は、或は酋長の親戚、或は朋友の内より取て、共に力を合せ、自から政府の体裁を成したることならん。既に政府の体裁を成せば、此政府に在る者は人民を治る者なり、人民は其治を被る者なり。是に於てか始て治者と被治者との区別を生じ、治者は上なり主なり又内なり、被治者は下なり客なり又外なり。上下主客内外の別、判然として見る可し。蓋し此二者は日本の人間交際に於て最も著しき分界を為し、恰も我文明の二元素と云ふ可きものなり。往古より今日に至るまで交際の種族は少なからずと雖ども、結局其至る所は此二元素に帰し、一も独立して自家の本分を保つものなし。(治者と被治者と相分る)
人を治るは其事固より易からず。故に此治者の党に入る者は必ず腕力と智力と兼て又多少の富なかる可らず。既に身心の力あり、又これに富有を兼るときは、必ず人を制するの権を得べし。故に治者は必ず有権者ならざるを得ず。王室は此有権者の上に立ち、其力を集めて以て国内を制し、戦て克たざるはなし、征して降さゞるはなし。且被治者なる人民も、王室の由来久しきの故を以て益これに服従し、神后の時代より屢外征の事もあり、国内に威福の行はれて内顧の患なかりしこと推して知る可し。爾後人文漸く開け、養蚕造船の術、織縫耕作の器械、医儒仏法の書、其他文明の諸件は、或は朝鮮より伝へ、或は自国にて発明し、人間生々の有様は次第に盛大に及ぶと雖ども、此文明の諸件を施行するの権は悉皆政府の一手に属し、人民は唯其指揮に従ふのみ。加之全国の土地、人民の身体までも、王室の私有に非ざるはなし。此有様を見れば被治物は治者の奴隷に異ならず。後世に至るまでも御国、御田地、御百姓等の称あり。此御の字は政府を尊敬したる語にて、日本国中の田地も人民の身体も皆政府の私有品と云ふ義なり。仁徳天皇民家に炊煙の起るを見て朕既に富めりと云ひしも、必竟愛人の本心より出て、民の富むは猶我富むが如しとの趣意にて、如何にも虚心平気なる仁君と称す可しと雖ども、天下を一家の如く視做して之を私有するの気象は窺ひ見る可し。此勢にて天下の権は悉く王室に帰し、其力、常に一方に偏して、以て王代の末に至れり。蓋し権力の偏重は前に云へる如く至大より至細に至り、人間の交際を千万に分てば千万段の偏重あり、集めて百と為せば百段の偏重あり、今王室と人民との二段に分てば、偏重も亦此間に生じて、王室の一方に偏したるものなり。(国力王室に偏す)
源平の起るに及んで天下の権は武家に帰し、之に由て或は王室と権力の平均を為し、人間交際の勢一変す可きに似たれども、決して然らず。源平なり、王室なり、皆是れ治者中の部分にて、国権の武家に帰したるは治者中の此部分より彼部分に力を移したるのみ。治者と被治者との関係は依然として上下主客の勢を備へ、毫も旧時に異なることなし。啻に異なることなきのみならず、曩(さき)に光仁天皇宝亀年中天下に令を下だして兵と農とを分ち、百姓の富て武力ある者を撰て兵役に用ひ、其羸弱(るいじやく)なる者をして農に就かしめたりとあり。此令の趣意に従へば、人民の富て強き者は武力を以て小弱を保護し、其貧にして弱き者は農を勉めて武人に給することなれば、貧弱は益貧弱に陥り、富強は益富強に進み、治者と被治者との分界益判然として、権力の偏重は益甚しからざるを得ず。諸書を案ずるに、頼朝が六十余州の総追捕使と為りて、毎国に守護を置き、荘園に地頭を補し、以て従前の国司荘司の権を殺ぎしより以来、諸国の健児の内にて筋目もあり人をも持つ者は守護地頭の職に任じ、以下の者は御家人と称して守護地頭の支配を受け、悉皆幕府の手の者と為りて、或は百日交代にて鎌倉に宿衛するの例もありと云ふ。北条の時代にも大抵同じ有様にて、国中処として武人あらざるはなし。承久の乱に泰時十八騎にて鎌倉を打立たるは五月二十二日のことなるが、同二十五日まで三日の間に東国の兵尽く集りて、都合十九万騎とあり。是れに由て考れば、諸国の武人なる者は平生より出陣の用意に忙はしく、固より農業を勉るの暇ある可らず、必ず他の小民の力に依て食ひしこと明に知る可し。兵農の分界愈明に定りて、人口の増加するに従ひ武人の数も次第に増したることならん。頼朝の時には概ね関東伺候の武家を以て諸国の守護に配し、三、五年の交代なりしが、其後いつとなく譜代世禄の職と為り、北条亡びて足利の代に至ては、此守護なる者、互に相併呑し、或は興り或は廃し、或は土豪に逐はれ或は家来に奪はれ、漸く封建の勢を成したるなり。王代以来の有様を概して云へば、日本の武人、始は国内の処在に布散して一人一人の権を振ひ、以て王室の命に服したるもの、鎌倉の時代に至るまでに漸く合して幾個の小体を成し、始て大小名の称あり。足利の代に至りては又合して体の大なるものを成したれども、其体と体と合するを得ず。即ち応仁以後の乱世にて、武人の最も盛なる時なり。斯の如く、武人の世界には合離集散あり進退栄枯あれども、人民の世界には何等の運動あるを聞かず。唯農業を勉めて武人の世界に輸するのみ。故に人民の目を以て見れば、王室も武家も区別ある可らず。武人の世界に治乱興敗あるは、人民のためには恰も天気時候の変化あるに異ならず。唯黙して其成行を見るのみ。《武家興て神政府の惑溺を一掃したるの利益は第二章三十五葉(岩波文庫旧版三三頁)に論じたり》
新井白石の説に、天下の大勢九変して武家の代と為り、武家の世又五変して徳川の代に及ぶと云ひ、其外諸家の説も大同小異なれども、此説は唯日本にて政権を執る人の新陳交代せし模様を見て幾変と云ひしのみのことなり。都てこれまで日本に行はるゝ歴史は唯王室の系図を詮索するもの歟、或は君相有司の得失を論ずるもの歟、或は戦争勝敗の話を記して講釈師の軍談に類するもの歟、大抵是等の箇条より外ならず。稀に政府に関係せざるものあれば仏者の虚誕妄説のみ、亦見るに足らず。概して云へば日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ。学者の不注意にして国の一大欠典と云ふ可し。新井先生の読史余論なども即ち此類の歴史にて、其書中に天下の勢変とあれども、実は天下の大勢の変じたるに非ず、天下の勢は早く既に王代の時に定まりて、治者と被治者との二元素に区別し、兵農の分るゝに及て益この分界を明にして、今日に至るまで一度びも変じたることなし。故に王代の末に藤原氏、権を専にし、或は上皇、政を聴くことあるも、唯王室内の事にて固より世の形勢に関係ある可らず。平家亡びて源氏起り、新に鎌倉に政府を開くも、北条が陪臣にて国命を執るも、足利が南朝に敵して賊と称せらるゝも、織田も豊臣も徳川も各日本国中を押領して之を制したれども、其これを制するに唯巧拙あるのみ。天下の形勢は依然として旧に異ならず。故に北条足利にて悦びしことは徳川も之を喜び、甲の憂ひしことは乙も之を憂ひ、其喜憂に処するの法も甲乙に於て毫も異なることなし。譬へば北条足利の政府にて五穀豊熟人民柔順を喜ぶの情は、徳川の政府も之に同じ。北条足利の政府にて恐るゝ所の謀反人の種類は、徳川の時代にても其種類を異にせず。顧て彼の欧洲諸国の有様を見れば大に趣の異なる所あり。其国民の間に宗旨の新説漸く行はるれば政府も亦これに従て処置を施さゞる可らず。昔日は封建の貴族をのみ恐れたりしが、世間の商工次第に繁昌して中等の人民に権力を有する者あるに至れば、亦これを喜び或は之を恐れざる可らず。故に欧羅巴の各国にては其国勢の変ずるに従て政府も亦其趣を変ぜざる可らずと雖ども、独り我日本は然らず、宗旨も学問も商売も工業も悉皆政府の中に籠絡したるものなれば、其変動を憂るに足らず、又これを恐るゝに足らず、若し政府の意に適せざるものあれば輙ち之を禁じて可なり。唯一の心配は同類の中より起る者ありて、政府の新陳交代せんことを恐るゝのみ。《同類の中より起る者とは治者の中より起る者を云ふ》故に建国二千五百有余年の間、国の政府たるものは同一様の仕事を繰返し、其状恰も一版の本を再々復読するが如く、同じ外題の芝居を幾度も催ふすが如し。新井氏が天下の大勢九変又五変と云ひしは、即ち此芝居を九度び催ふし又五度び催ふしたることのみ。或る西人の著書に、亜細亜洲の諸国にも変革騒乱あるは欧羅巴に異ならずと雖ども、其変乱のために国の文明を進めたることなしとの説あり。蓋し謂れなきに非ざるなり。(政府は新旧交代すれども国勢は変ずることなし)
右の如く政府は時として変革交代することあれども、国勢は則ち然らず、其権力常に一方に偏して、恰も治者と被治者との間に高大なる隔壁を作て其通路を絶つが如し。有形の腕力も無形の智徳も、学問も宗教も、皆治者の党に与みし、其党与互に相依頼して各権力を伸ばし、富も爰に集り才も爰に集り、栄辱も爰に在り廉恥も爰に在り、遥に上流の地位を占めて下民を制御し、治乱興廃、文明の進退、悉皆治者の知る所にして、被治者は嘗て心に之を関せず、恬として路傍の事を見聞するが如し。譬へば古来日本に戦争あり。或は甲越の合戦と云ひ、或は上国と関東との取合と云ひ、其名を聞けば両国互に敵対して戦ふが如くなれども、其実は決して然らず。此戦は唯両国の武士と武士との争にして、人民は嘗て之に関することなし。元来敵国とは全国の人民一般の心を以て相敵することにて、仮令ひ躬から武器を携て戦場に赴かざるも、我国の勝利を願ひ敵国の不幸を祈り、事々物々些末のことに至るまでも敵味方の趣意を忘れざるこそ、真の敵対の両国と云ふ可けれ。人民の報国心は此辺に在るものなり。然るに我国の戦争に於ては古来未だ其例を見ず。戦争は武士と武士との戦にして、人民と人民との戦に非ず。家と家との争にして、国と国との争に非ず。両家の武士、兵端を開くときは、人民之を傍観して、敵にても味方にても唯強きものを恐るゝのみ。故に戦争の際、双方の旗色次第にて、昨日味方の輜重(しちよう)を運送せし者も今日は敵の兵糧を担ふ可し。勝敗決して戦罷むときは、人民は唯騒動の鎮まりて地頭の交代するを見るのみ、其勝利を栄とするに非ず、又其敗北を辱とするに非ず。或は新地頭の政令寛にして年貢米の高を減ずることもあらば之を拝して悦ばんのみ。其一例を挙て云はん。後北条の国は関八州なり。一旦豊臣と徳川に敵対して敗滅を取り、滅後直に八州を領したる者は讐敵なる徳川なり。徳川家康如何なる人傑なればとて一時に八州の衆敵を服するを得んや。蓋し八州の人民は敵にも非ず味方にも非ず、北条と豊臣との戦争を見物したるものなり。徳川の関東に移りし後に敵の残党を鎮撫征討したりとは、唯北条家の遺臣を伐ちしのみのことにて、百姓町人等の始末に至ては恰も手を以て其頭を撫で即時に安堵したることなり。是等の例を計れば古来枚挙に遑あらず。今日に至ても未だ其趣の変じたるを見ず。故に日本は古来未だ国を成さずと云ふも可なり。今若し此全国を以て外国に敵対する等の事あらば、日本国中の人民にて仮令ひ兵器を携へて出陣せざるも戦のことを心に関する者を戦者と名け、此戦者の数と彼の所謂見物人の数とを比較して何れか多かる可きや、預め之を計て其多少を知る可し。嘗て余が説に、日本には政府ありて国民(ネ-ション)なしと云ひしも是の謂なり。固より欧羅巴諸国にても戦争に由て他国の土地を兼併すること屢これありと雖ども、其これを併すること甚だ易からず、非常の兵力を以て抑圧する歟、若しくば其土地の人民と約束して幾分の権利を附与するに非ざれば、之を我版図に入るゝこと能はずと云ふ。東西の人民其気風を殊にすること以て見る可し。(日本の人民は国事に関せず)
故に遇ま民間に才徳を有する者あれば、己が地位に居て此才徳を用るに方便なきがため、自から其地位を脱して上流の仲間に入らざるを得ず。故に昨日の平民、今日は将相と為りしこと、古今に其例少なからず。之を一見すれば彼の上下の隔壁もなきが如くなれども、此人物は唯其身を脱して他に遁れたるのみ。之を譬へば土地の卑湿を避けて高燥の地に移りたるが如し。一身のためには都合宜しかる可しと雖ども、元と其湿地に自から土を盛て高燥の地位を作りたるに非ず。故に湿地は旧の湿地にて、目今己が居を占めたる高燥の地に対すれば、其隔壁尚存して上下の別は少しも趣を変ずることなし。猶在昔尾張の木下藤吉が太閤と為りたれども、尾張の人民は旧の百姓にして其有様を改めざるが如きもの是なり。藤吉は唯百姓の仲間を脱走して武家の党に与みしたるなり。其立身は藤吉一人の立身なり、百姓一般の地位を高くしたるに非ず。固より其時の勢なれば今より之を論ず可らず、之を論ずるも万々無益なれども、若し藤吉をして其昔欧羅巴の独立市邑に在らしめなば、市民は必ず此英雄の挙動を悦ばざることなる可し。或は又今の世に藤吉を生じて藤吉の事を為さしめ、彼の独立の市民を今の世に蘇生せしめて其事業を評せしめなば、此市民は必ず藤吉を目して薄情なる人物と云ふならん。墳墓の地を顧みず、仲間の百姓を見捨て、独り武家に依頼して一身の名利を貪る者は、我党の人に非ずとて、之を詈ることならん。到底藤吉と此市民とは其説の元素を異にするものなれば、其挙動の粗密寛猛は互に相似たるも、時勢に由らず世態に拘はらず、古より今に至るまで遂に相容るゝことを得ざるものなり。蓋し欧羅巴にて千二、三百年代の頃、盛に行はれたる独立市民の如きは、其所業固より乱暴過激、或は固陋蠢愚なるものありと雖ども、決して他に依頼するに非ず、其本業には商売を勉め、其商売を保護するために兵備を設けて、自から其地位を固くしたる者なり。近世に至り英仏其他の国々に於て、中等の人民次第に富を致して随て又其品行を高くし、議院等に在て論説の喧しきものあるも、唯政府の権を争ふて小民を圧制するの力を貪らんとするに非ず、自から自分の地位の利を全ふして他人の圧制を圧制せんがために勉強するの趣意のみ。其地位の利とは、地方に就ては「ロカルインテレスト」あり、職業に就ては「カラッスインテレスト」あり、各其人の住居する地方、又は其営業を共にする等の交情に由て、各自家の説を主張し自家の利益を保護し、之がためには或は一命をも棄る者なきに非ず。此趣を見れば、古来日本人が自分の地位を顧みずして便利の方に附き、他に依頼して権力を求る歟、或は他人に依頼せざれば、自から他に代て他の事を為し、暴を以て暴に易へんとするが如きは、鄙劣の甚しきものなり。之を西洋独立の人民に比すれば雲壌の相違と云はざる可らず。昔支那にて楚の項羽が秦の始皇の行列を見て、彼れ取て代る可しと云ひ、漢の高祖は之を見て大丈夫当に斯の如くなる可しと云ひたることあり。今此二人の心中を察するに、自分の地位を守らんがために秦の暴政を忿るに非ず、実は其暴政を好機会と為して己が野心を逞ふし、秦皇の位に代て秦の事を行はんと欲するに過ぎず。或は其暴虐秦の如くならざるも、少しく事を巧にして人望を買ふのみ。其擅権を以て下民を御するの一事に至ては、秦皇も漢祖も区別あることなし。我国にても古来英雄豪傑と称する者少なからずと雖ども、其事跡を見れば項羽に非ざれば漢祖なり。開闢の初より今日に至るまで、全日本国中に於て独立市民等の事は夢中の幻に妄想したることもある可らず。(国民其地位を重んぜず)
宗教は人心の内部に働くものにて、最も自由最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存す可き筈なるに、我日本に於ては則ち然らず。元来我国の宗旨は神仏両道なりと云ふ者あれども、神道は未だ宗旨の体を成さず。仮令ひ往古に其説あるも、既に仏法の中に籠絡せられて、数百年の間本色を顕はすを得ず。或は近日に至て少しく神道の名を聞くが如くなれども、政府の変革に際し僅に王室の余光に藉て微々たる運動を為さんとするのみにて、唯一時偶然の事なれば、余輩の所見にては之を定りたる宗旨と認む可らず。兎に角に古来日本に行はれて文明の一局を働きたる宗旨は、唯一の仏法あるのみ。然るに此仏法も初生の時より治者の党に入て其力に依頼せざる者なし。古来名僧智識と称する者、或は入唐して法を求め、或は自国に在て新教を開き、人を教化し寺を建るもの多しと雖ども、大概皆天子将軍等の眷顧を徼倖(げうかう)し、其余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚しきは政府より爵位を受けて栄とするに至れり。僧侶が僧正僧都等の位に補せらるゝの例は最も古く、延喜式に僧都以上は三位に准ずと云ひ、後醍醐天皇建武二年の宣旨には、大僧正を以て二位大納言、僧正を以て二位中納言、権僧正を以て三位参議に准ずとあり(釈家官班記)。此趣を見れば、当時の名僧智識も天朝の官位を身に附け、其位を以て朝廷の群臣と上下の班を争ひ、一席の内外を以て栄辱と為したることならん。之がため日本の宗旨には、古今其宗教はあれども自立の宗政なるものあるを聞かず。尚其実証を得んと欲せば、今日にても国中有名の寺院に行て其由来記を見る可し。聖武天皇の天平年中日本の毎国に国分寺を立て、桓武天皇延暦七年には伝教大師比叡山を開き根本中堂を建てゝ王城の鬼門を鎮し、嵯峨天皇弘仁七年には弘法大師高野山を開き帝より印符を賜はりて其大伽籃を建立したり。其他南都の諸山、京都の諸寺、中古には鎌倉の五山、近世には上野の東叡山、芝の増上寺等、何れも皆政府の力に依らざるものなし。其他歴代の天子自から仏に帰し、或は親王の僧たる者も甚だ多し。白河天皇に八男ありて、六人は僧たりしと云ふ。是亦宗教に権を得たる一の源因なり。独り一向宗は自立に近きものなれども尚この弊を免かれず。足利の末、大永元年実如上人の時に天子即位の資を献じ、其賞として永世准門跡とて法親王に准ずるの位を賜はりたることあり。王室の衰微貧困を気の毒に思ふて有余の金を給するは僧侶の身分として尤のことなれども、其実は然らず、西三条入道の媒酌に由り銭を以て官位を買たるものなり。之を鄙劣と云ふ可し。故に古来日本国中の大寺院と称するものは、天子皇后の勅願所に非ざれば将軍執権の建立なり。概して之を御用の寺と云はざるを得ず。其寺の由来を聞けば、御朱印は何百石、住職の格式は何々とて、其状恰も歴々の士族が自分の家柄を語るに異ならず。一聞以て厭悪(えんを)の心を生ず可し。寺の門前には下馬札を建て、門を出れば儻勢を召連れ、人を払ひ道を避けしめ、其威力は封建の大名よりも盛なるものあり。然り而して其威力の源を尋れば、宗教の威力に非ず、唯政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛なりと雖ども、其教は悉皆政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明に非ずして、政権の威光なるが如し。寺院に自立の宗政なきも亦怪むに足らず、其教に帰依する輩に信教の本心なきも亦驚くに足らず。其一証を挙れば、古来日本にて宗旨のみの為に戦争に及びしことの極て稀なるをみても、亦以て信教者の懦弱を窺ひ知る可し。其教に於て信心帰依の表に現はれたる所は、無智無学の田夫野嫗が涙を垂れて泣くものあるに過ぎず。此有様を見れば、仏法は唯是れ文盲世界の一器械にして、最愚最陋の人心を緩和するの方便たるのみ。其他には何等の功用もなく、又何等の勢力もあることなし。其勢力なきの甚しきは、徳川の時代に、破戒の僧とて、世俗の罪を犯すに非ず、唯宗門上の戒を破る者あれば、政府より直に之を捕へ、市中に晒して流刑に処するの例あり。斯の如きは則ち僧侶は政府の奴隷と云ふも可なり。近日に至ては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。此令に拠れば、従来僧侶が肉を食はず婦人を近づけざりしは、其宗教の旨を守るがためには非ずして、政府の免許なきがために勉めて自から禁じたることならん。是等の趣を見れば、僧侶は啻に政府の奴隷のみならず、日本国中既に宗教なしと云ふも可なり。(宗教権なし)
宗教尚且然り。況や儒道学問に於てをや。我国に儒書を伝へたるは日既に久し。王代に博士を置て、天子自から漢書を読み、嵯峨天皇の時に大納言冬嗣、勧学院を建てゝ宗族子弟を教へ、宇多天皇の時には中納言行平、奨学院を設る等、漢学も次第に開け、殊に和歌の教は古より盛なりしことなれども、都て此時代の学問は唯在位の子弟に及ぶのみにて、著述の書と雖ども悉皆官の手に成りしものなり。固より印書の術も未だ発明あらざれば、民間に教育の達す可き方便ある可らず。鎌倉の時に大江広元、三善康信等、儒を以て登用せられたれども、此亦政府に属したるものにて、人民の間に学者あるを聞かず。承久三年北条泰時、宇治勢多に攻入たるとき、後鳥羽上皇より宣旨来り、従兵五千余人の内より此宣旨読む可き者をと尋ねしに、武蔵国の住人藤田三郎なる者一人を得たりと云ふ。世間の不文なること以て知る可し。これより足利の末に至るまで、文学は全く僧侶の事と為り、字を学ばんとする者は必ず寺に依らざれば其方便を得ず。後世習字の生徒を呼て寺子と云ふも其因縁なり。或人の説に、日本に版本の出来たるは鎌倉の五山を始とすと云へり。果して信ならん。徳川の初に其始祖家康、首として藤原惺窩を召し、次で林道春を用ひ、太平の持続するに従て碩儒輩出、以て近世に及びしことなり。斯の如く学問の盛衰は世の治乱と歩を共にして、独立の地位を占ることなく、数十百年干戈騒乱の間、全く之を僧侶の手に任したるは、学問の不面目と云はざるを得ず。此一事を見ても儒は仏に及ばざること以て知る可し。然りと雖ども、兵乱の際に学問の衰微するは独り我日本のみに非ず、世界万国皆然らざるはなし。欧羅巴に於ても中古暗黒の時より封建の代に至るまでは、文字の権、全く僧侶に帰して、世間に漸く学問の開けたるは実に千六百年代以降のことなり。又東西の学風其趣を異にして、西洋諸国は実験の説を主とし、我日本は孔孟の理論を悦び、虚実の相違、固より日を同ふして語る可きに非ざれども、亦一概に之を咎む可らず。兎に角に我人民を野蛮の域に救て今日の文明に至らしめたるものは、之を仏法と儒学との賜と云はざるを得ず。殊に近世儒学の盛なるに及て、俗間に行はるゝ神仏者流の虚誕妄説を排して人心の蠱惑を払たるが如きは、其功最も少なからず。此一方より見れば儒学も亦有力のものと云ふ可し。故に今東西学風の得失は姑く擱き、唯其学問の行はれたる次第に就き、著しき両様の異別を掲げて爰に之を示すのみ。蓋し其異別とは何ぞや。乱世の後、学問の起るに当て、此学問なるもの、西洋諸国に於ては人民一般の間に起り、我日本にては政府の内に起たるの一事なり。西洋諸国の学問は学者の事業にて、其行はるゝや官私の別なく、唯学者の世界に在り。我国の学問は所謂治者の世界の学問にして、恰も政府の一部分たるに過ぎず。試に見よ、徳川の治世二百五十年の間、国内に学校と称するものは、本政府の設立に非ざれば諸藩のものなり。或は有名の学者なきに非ず、或は大部の著述なきに非ざれども、其学者は必ず人の家来なり、其著書は必ず官の発兌なり。或は浪人に学者もあらん、私の蔵版もあらんと雖ども、其浪人は人の家来たらんことを願て得ざりし者なり、其私の蔵版も官版たらんことを希ふて叶はざりし者なり。国内に学者の社中あるを聞かず、議論新聞等の出版あるを聞かず、技芸の教場を見ず、衆議の会席を見ず、都て学問の事に就ては毫も私の企あることなし。遇ま碩学大儒、家塾を開て人を教る者あれば、其生徒は必ず士族に限り、世禄を食て君に仕るの余業に字を学ぶ者のみ。其学流も亦治者の名義に背かずして、専ら人を治るの道を求め、数千百巻の書を読み了するも、官途に就かざれば用を為さゞるが如し。或は稀に隠君子と称する先生あるも、其実は心に甘んじて隠するに非ず、窃に不遇の歎を為して他を怨望する者歟、然らざれば世を忘れて放心したる者なり。其趣を形容して云へば、日本の学者は政府と名る篭の中に閉込められ、此篭を以て己が乾坤と為し、此小乾坤の中に煩悶するものと云ふ可し。幸にして世の中に漢儒の教育洽ねからずして学者の多からざりしこそ目出たけれ、若し先生の思通りに無数の学者を生ずることあらば、狭き篭の中に混雑し、身を容る可き席もなくして、怨望益多く、煩悶益甚しからざるを得ず。気の毒千万なる有様に非ずや。斯の如く限ある篭の中に限なき学者を生じ、篭の外に人間世界のあるを知らざる者なれば、自分の地位を作るの方便を得ず。只管其時代の有権者に依頼して、何等の軽蔑を受るも嘗て之を恥るを知らず。徳川の時代に学者の志を得たる者は政府諸藩の儒官なり。名は儒官と云ふと雖ども、其実は長袖の身分とて、之を貴ぶに非ず、唯一種の器械の如くに御して、兼て当人の好物なる政治上の事務にも参らしめず、僅に五斗米を与へて少年に読書の教を授けしむるのみ。字を知る者の稀なる世の中なれば、唯其不自由を補ふがために用ひたるまでのことにて、之を譬へば革細工に限りて穢多に命ずるが如し。卑屈賎劣の極と云ふ可し。此輩に向て又何をか求めん、又何をか責めん。其党与の内に独立の社中なきも怪むに足らず、一定の議論なきも亦驚くに足らざるなり。加之、政府専制よく人を束縛すと云ひ、少しく気力ある儒者は動もすれば之に向て不平を抱く者なきに非ず。然りと雖どもよく其本を尋れば、夫子自から種を蒔て之を培養し、其苗の蔓延するがために却て自から窘めらるゝものなり。政府の専制、これを教る者は誰ぞや。仮令ひ政府本来の性質に専制の元素あるも、其元素の発生を助けて之を潤色するものは漢儒者流の学問に非ずや。古来日本の儒者にて最も才力を有して最もよく事を為したる人物と称する者は、最も専制に巧にして最もよく政府に用ひられたる者なり。此一段に至ては漢儒は師にして政府は門人と云ふも可なり。憐む可し、今の日本の人民、誰か人の子孫に非ざらん。今の世に在て専制を行ひ、又其専制に窘めらるゝものは、独り之を今人の罪に帰す可らず、遠く其祖先に受けたる遺伝毒の然らしむるものと云はざるを得ず。而して此病毒の勢を助けたる者は誰ぞや、漢儒先生も亦預て大に力あるものなり。(学問に権なくして却て世の専制を助く)
前段に云へる如く、儒学は仏法とともに各其一局を働き、我国に於て今日に至るまで此文明を致したることなれども、何れも皆古を慕ふの病を免かれず。宗旨の本分は人の心の教を司り、其教に変化ある可らざるものなれば、仏法又は神道の輩が数千百年の古を語て今世の人を諭さんとするも尤のことなれども、儒学に至ては宗教に異なり、専ら人間交際の理を論じ、礼楽六芸の事をも説き、半は之を政治上に関する学問と云ふ可し。今この学問にして変通改進の旨を知らざるは遺憾のことならずや。人間の学問は日に新に月に進て、昨日の得は今日の失と為り、前年の是は今年の非と為り、毎物に疑を容れ毎事に不審を起し、之を糺し之を吟味し、之を発明し之を改革して、子弟は父兄に優り後進は先進の右に出て、年々歳々生又生を重ね、次第に盛大に進て、顧て百年の古を見れば、其粗鹵不文にして愍笑す可きもの多きこそ、文明の進歩、学問の上達と云ふ可きなり。然るに論語に曰く、後世畏る可し、焉ぞ来者の今に如かざるを知らんと。孟子に曰く、舜何人ぞ、予何人ぞ、為ることある者は亦是の如し。又曰く、文王は我師なり、周公豈我を欺かんやと。此数言以て漢学の精神を窺ひ見る可し。後世畏る可し云々とは、後進の者が勉強せば或は今人の如く為ることもあらん、油断はならぬと云ふ意味なり。されば後人の勉強して達す可き頂上は辛ふじて今人の地位に在るのみ。加之其今人も既に古人に及ばざる季世の人なれば、仮令ひ之に及ぶことあるも余り頼母しき事柄に非ず。又後進の学者が大に奮発して、大声一喝、其慷慨の志を述べたる処は、数千年以前の舜の如くならんと欲する歟、又は周公を証人に立てゝ恐れながら文王を学ばんとするまでのことにて、其趣は不器用なる子供が先生に習字の手本を貰ひ、御手本の通りに字を書かんとして苦心するが如し。初めより先生には及ばぬものと覚悟を定めたれば、極々よく出来たる処にて先生の筆法を真似するのみ、迚も其以上に出ることは叶ふ可らず。漢儒の道の系図は、堯舜より禹湯文武周公孔子に伝へ、孔子以後は既に聖人の種も尽きて、支那にも日本にも再び其人あるを聞かず。孟子以後宋の世の儒者又は日本の碩学大儒にても、後世に向ては矜る可しと雖ども、孔子以上の古聖に対しては一言もある可らず。唯これを学て及ばざるの歎を為すのみ。故に其道は後の世に伝ふれば伝ふるほど悪しく為りて、次第に人の智徳を減じ、漸く悪人の数を増し、漸く愚者の数を増して、一伝又一伝、以て末世の今日に至りては、疾(はや)く既に禽獣の世界と為る可きは十露盤の上に明なる勘定なれども、幸にして人智進歩の定則は自から世に行はれて儒者の考の如くならず、往々古人に優る人物を生じたることにや、今日までの文明を進めて、彼の勘定の割合に反したるこそ、我人民の慶福と云ふ可けれ。斯の如く古を信じ古を慕ふて毫も自己の工夫を交へず、所謂精神の奴隷(メンタルスレ-ヴ)とて、己が精神をば挙て之を古の道に捧げ、今の世に居て古人の支配を受け、其支配を又伝へて今の世の中を支配し、洽ねく人間の交際に停滞不流の元素を吸入せしめたるものは、之を儒学の罪と云ふ可きなり。然りと雖ども又一方より云へば、在昔若し我国に儒学と云ふもの無かりせば、今の世の有様には達す可らず。西洋の語に「リフハインメント」とて、人心を鍛錬して清雅ならしむるの一事に就ては、儒学の功徳亦少なしとせず。唯昔に在ては功を奏し今に在ては無用なるのみ。物の不自由なる時節に於ては、敗筵(やれむしろ)も夜着に用ゆ可し、糠も食料と為す可し。況や儒学に於てをや、必ず其旧悪を咎む可らず。余思ふに儒学を以て古の日本人を教へたるは、田舎の娘を御殿の奉公に出したるが如し。御殿にて起居動作は自から清雅に倣ひ、其才智も或は穎敏を増したれども、活潑なる気力は失ひ尽して、家産営業の為には無用なる一婦人を生じたることなり。蓋し其時節には娘を教ゆ可き教場もなかりしゆゑ、奉公も謂れなきに非ざれども、今日に至ては其利害得失を察して別に方向を定めざる可らず。
古来我日本は義勇の国と称し、其武人の慓悍にして果断、誠忠にして率直なるは、亜細亜諸国に於ても愧るものなかる可し。就中足利の末年に至て天下大乱、豪傑所在に割拠して攻伐止む時なく、凡そ日本に武の行はれたる、前後この時より盛なるはなし。一敗、国を亡す者あり、一勝、家を興す者あり、門閥もなく由緒もなく、功名自在、富貴瞬間に取る可し。文明の度に前後の差はあれども、之を彼の羅馬の末世に北狄の侵入せし時代に比して彷彿たる有様と云ふも可なり。此事勢の中に在ては日本の武人にも自から独立自主の気象を生じ、或は彼の日耳曼の野民が自主自由の元素を遺したるが如く、我国民の気風も一変す可きに思はるれども、事実に於ては決して然らず。此章の首に云へる権力の偏重は、開闢の初より人間交際の微細なる処までも入込み、何等の震動あるも之を破る可らず。此時代の武人快活不覊なるが如くなれども、此快活不覊の気象は一身の慷慨より発したるものに非ず、自から認めて一個の男児と思ひ、身外無物、一己の自由を楽むの心に非ず、必ず外物に誘はれて発生したるもの歟、否(しから)ざれば外物に藉て発生を助けたるものなり。何を外物と云ふ。先祖のためなり、家名のためなり、君のためなり、父のためなり、己が身分のためなり。凡そ此時の師に名とする所は必ず是等の諸件に依らざるものなし。或は先祖家名なく、君父身分なき者は、故さらに其名義を作て口実に用るの風なり。如何なる英雄豪傑にして有力有智の者と雖ども、其智力のみを恃(たのみ)て事を為さんと企たる者あるを聞かず。爰に其事跡に見はれたるものを撮て一、二の例を示さん。足利の末年に諸方の豪傑、或は其主人を逐ひ、或は其君父の讐を報じ、或は祖先の家を興さんとし、或は武士たるの面目を全ふせんがためにとて、党与を集め土地を押領し、割拠の勢を為すと雖ども、其期する所は唯上洛の一事に在るのみ。抑も此上洛の何物たるを尋れば、天子若くは将軍に謁し、其名義を借用して天下を制せんとすることなり。或は未だ上洛の方便を得ざる者は、遥に王室の官位を受け、此官位に藉て自家の栄光を増し、以て下を制するの術に用る者あり。此術は古来日本の武人の間に行はるゝ一定の流儀にて、源平の酋長、皆然らざるはなし。北条に至ては直に最上の官位をも求めずして、名目のために将軍を置き、身は五位を以て天下の権柄を握りたるは、啻に王室を器械に用るのみならず、兼て将軍をも利用したるものなり。其外形を皮相すれば美にして巧なるに似たれども、よく事の内部に就て之を詳にすれば、必竟人心の鄙怯より生じたることにて、真に賎しむ可く悪む可きの元素を含有するものと云はざるを得ず。足利尊氏が赤松円心の策を用ひて後伏見帝の宣旨を受け、其子光明天皇を立たるが如きは、万人の目を以て見るも之を尊王の本心より出たるものと認む可らず。信長が初は将軍義昭を手に入れたれども、将軍の名は天子の名に若かざるを悟り、乃ち義昭を逐ふて直に天子を挟(はさ)みたるも、其情厚しと云ふ可らず。何れも皆詐謀偽計の明著なるものにて、凡そ天下に耳目を具したる者ならば、其内情を洞察す可き筈なれども、尚其表面には忠信節義を唱へ、児戯に等しき名分を口実に用ひて自から之を策の得たるものと為し、人も亦これに疑を容れざるは何ぞや。蓋し其党与の内に於て上下共に大に利する所あればなり。日本の武人は開闢の初より此国に行はるゝ人間交際の定則に従て、権力偏重の中に養はれ、常に人に屈するを以て恥とせず。彼の西洋の人民が自己の地位を重んじ、自己の身分を貴て、各其権義を持張する者に比すれば、其間に著しき異別を見る可し。故に兵馬騒乱の世と雖ども、此交際の定則は破る可らず。一族の首に大将あり、大将の下に家老あり、次で騎士あり、又徒士あり、以て足軽中間に及び、上下の名分判然として、其名分と共に権義をも異にし、一人として無理を蒙らざる者なく、一人として無理を行はざる者なし。無理に抑圧せられ、又無理に抑圧し、此に向て屈すれば、彼に向て矜る可し。譬へば爰に甲乙丙丁の十名ありて、其乙なる者、甲に対して卑屈の様を為し、忍ぶ可らざるの恥辱あるに似たれども、丙に対すれば意気揚々として大に矜る可きの愉快あり。故に前の恥辱は後の愉快に由て償ひ、以て其不満足を平均し、丙は丁に償を取り、丁は戊に代を求め、段々限あることなく、恰も西隣へ貸したる金を東隣へ催促するが如し。又これを物質に譬へて云へば、西洋人民の権力は鉄の如くにして、之を膨脹すること甚だ難く、之を収縮することも亦甚だ易からず。日本の武人の権力はゴムの如く、其相接する所の物に従て縮張の趣を異にし、下に接すれば大に膨脹し、上に接すれば頓に収縮するの性あり。此偏縮偏重の権力を一体に集めて之を武家の威光と名け、其一体の抑圧を蒙る者は無告の小民なり。小民を思へば気の毒なれども、武人の党与に於ては上大将より下足軽中間に至るまで、上下一般の利益と云はざるを得ず。啻に利益を謀るのみに非ず、其上下の関係、よく整斉して頗る条理の美なるものあるが如し。即ち其条理とは党与の内にて、上下の間に人々卑屈の醜態ありと雖ども、党与一体の栄光を以て強ひて自から之を己が栄光と為し、却て独一個の地位をば棄てゝ其醜体を忘れ、別に一種の条理を作て之に慣れたるものなり。此習慣の中に養はれて終に以て第二の性を成し、何等の物に触るゝも之を動かす可らず。威武も屈すること能はず、貧賎も奪ふこと能はず、儼然たる武家の気風を窺ひ見る可し。其一局の事に就き一場の働に就て之を察すれば、真に羨む可く又慕ふ可きもの多し。在昔三河の武士が徳川家に附属したる有様なども此一例なり。斯る仕組を以て成立たる武人の交際なれば、此交際を維持せんがためには、止むを得ず一種無形最上の権威なかる可らず。即ち其権威の在る所は王室に止まると雖ども、人間世界の権威は、事実、人の智徳に帰するものなるが故に、王室と雖ども実の智徳あらざれば実の権威は之に帰す可らず。是に於てか其名目のみを残して王室に虚位を擁せしめ、実権をば武家の統領に握らんとするの策を運らしたることにて、即ち当時諸方の豪傑が上洛の一事に熱中し、児戯に等しき名分をも故さらに存して之を利用したる由縁なり。必竟其本を尋れば、日本の武人に独一個人の気象(インヂヴヰヂュアリチ)なくして、斯る卑劣なる所業を恥とせざりしことなり。(乱世の武人に独一個の気象なし)
古来世の人の等閑に看過して意に留めざりし所なれども、今特に之を記せば、日本の武人に独一個人の気象なき趣を窺ひ見る可き一個条あり。即ち其個条とは人の姓名の事なり。元来人の名は父母の命ずるものにて、成長の後或は改名することあるも、他人の差図を受く可きに非ず。衣食住の物品は人々の好尚に任し、自由自在たるに似たれども、多くは外物に由て動かされ、自から時の流行に従ふものなれども、人の姓名は衣食住の物に異なり、之を命ずるに他人の差図を受けざるは勿論、仮令ひ親戚朋友と雖ども、我より求て相談を受るに非ざれば喙(くちばし)を入る可き事柄に非ず。人事の形に見はれたるものゝ中にて最も自由自在なる部分と云ふ可し。法に由て改名を禁ずる国に於ては、固より其法に従ふも自由を妨るに非ざれども、改名自由の国に於て、源助と云ふ名を平吉と改る歟、又は之を改めざるの自由は、全く一己の意に任して、夜寝るに右を枕にし又左を枕にするの自由なるが如し。毫も他人に関係ある可らず。然るに古来我日本の武家に、偏諱を賜はり姓を許すの例あり。卑屈賎劣の風と云ふ可し。上杉謙信の英武も尚これを免れず、将軍義輝の偏諱を拝領して輝虎と改名したることあり。尚甚しきは、関原の戦争後に天下の大権徳川氏に帰して、諸侯の豊臣氏を冒す者は悉く本姓に復し、又松平を冒す者あり。是等の変姓は或は自から願ひ或は上命にて賜はることもあらんと雖ども、何れにも事柄に於ては賎しむ可き挙動と云はざるを得ず。或人謂へらく、改名冒姓の事は、当時の風習にて人の意に留めざることなれば、今より咎む可らずと云ふものあれども、決して然らず。他人の姓名を冒して心に慊しと思はざるの人情は、古今皆同じ。其証拠には足利の時、永享六年、鎌倉の公方持氏の子、元服して名を義久と命じたりしに、管領上杉憲実は例の如く室町の諱を願はる可しと諌めたれども聴かずとあり。此時持氏は既に自立の志あり。其志は善にも悪にも、他の名を冒すは賎しき挙動と思ひしことならん。又徳川の時代に、細川家へ松平の姓を与へんとせしに辞したりとて、民間には之を美談として云伝へり。虚実詳ならざれども、之を美とするの人情は今も古も同様なること明に証す可し。以上記す所の姓名のことは左まで大事件にも非ざれども、古来義勇と称する武人の、其実は思の外卑怯なるを知る可く、又一には権威を握る政府の力は恐ろしきものにて、人心の内部までも犯して之を制するに足るとの次第を示さんがために、数言を爰に贅したるなり。
右条々に論ずる如く、日本の人間交際は、上古の時より治者流と被治者流との二元素に分れて、権力の偏重を成し、今日に至るまでも其勢を変じたることなし。人民の間に自家の権義を主張する者なきは固より論を竢たず。宗教も学問も皆治者流の内に籠絡せられて嘗て自立することを得ず。乱世の武人義勇あるに似たれども、亦独一個人の味を知らず。乱世にも治世にも、人間交際の至大より至細に至るまで、偏重の行はれざる所なく、又此偏重に由らざれば事として行はる可きものなし。恰も万病に一薬を用るが如く、此一薬の功能を以て治者流の力を補益し、其力を集めて之を執権者の一手に帰するの趣向なり。前既に云へる如く、王代の政治も将家の政治も、北条足利の策も徳川の策も、決して元素を異にするものに非ず。只彼を此より善しとし、此を彼より悪しと云ふものは、此偏重を用るの巧なると拙なるとを見て其得失を判断するのみ。巧に偏重の術を施して最上の権力を執権者の家に帰するを得れば、百事既に成りて他に又望む可きものなし。古来の因襲に国家と云ふ文字あり。此家の字は人民の家を指すに非ず、執権者の家族又は家名と云ふ義ならん。故に国は即ち家なり、家は即ち国なり。甚しきは政府を富ますを以て御国益などゝ唱るに至れり。斯の如きは則ち国は家の為に滅せられたる姿なり。是等の考を以て政治の本を定るが故に、其策の出る所は常に偏重の権力を一家に帰せしめんとするより外ならず。山陽外史、足利の政を評して尾大不掉とて其大失策とせり。此人も唯偏重の行はれずして足利の家に権力の帰せざりしを論じたるまでのことにて、当時の儒者の考には尤のことなれども、到底家あるを知て国あるを知らざるの論なり。若し足利の尾大不掉を失策とせば、徳川の首大偏重を見て之に満足せざる可らず。凡そ偏重の政治は古来徳川家より巧にして美なるものはなし。一統の後、頻に自家の土木を起して諸侯の財を費さしめ、一方には諸方の塁堡を毀ち藩々の城普請を止め、大船を造るを禁じ、火器を首府に入るゝを許さず、侯伯の妻子を江戸に拘留して盛に邸宅を築かしめ、自から之を奢侈に導て人間有用の事業を怠らしめ、尚其余力あるを見れば、或は御手伝と云ひ、或は御固めと云ひ、百般の口実を設けて奔命に疲れしめ、令するとして行はれざるなく、命ずるとして従はざるなかりしは、其状恰も人の手足を挫て之と力を較するが如し。偏重の政治に於ては実に最上最美の手本と為す可きものにて、徳川一家の為を謀れば巧を尽し妙を得たるものと云ふ可し。固より政府を立るには中心に権柄を握て全体を制するの釣合なかる可らず。此釣合の必用なるは独り我日本のみならず世界万国皆然らざるはなし。野蛮不文なる古の日本人にても尚且この理を解したればこそ、数千百年の前代より専制の趣意ばかりは忘れざりしことならずや。況や文物次第に開けたる後の世に於て、誰か政府の権を奪ひ去て然る後に文明を期すると云ふものあらん。政権の必用なるは学校の童子も知る所なり。然りと雖ども、西洋文明の各国にては此権の発源唯一所に非ず、政令は一途に出ると雖ども、其政令は国内の人心を集めたるもの歟、仮令ひ或は全く之を集ること能はざるも、其人心に由て多少の趣を変じ、様々の意見を調合して唯其出る処を一にしたるものなり。然るに古来日本に於ては、政府と国民とは啻に主客たるのみに非ず、或は之を敵対と称するも可なり。即ち徳川政府にて諸侯の財を費さしめたるは、敵に勝て償金を取るに異ならず。国民に造船を禁じ、大名に城普請を止めたるは、戦勝て敵国の台場を毀つに異ならず。之を同国人の所業と云ふ可らざるなり。
都て世の事物には初歩と次歩との区別あるものにて、初段の第一歩を処するには、之をして次の第二歩に適せしむるの工夫なかる可らず。故に次歩は初歩を支配するものと云ふも可なり。譬へば諺に、苦は楽の種と云ひ、良薬口に苦しと云ふことあり。苦痛を苦痛として之を避け、苦薬を苦薬として之を嫌ふは、人情の常にして、事物の初歩にのみ精神を注ぐときは、之を避け嫌ふも尤なるに似たれども、次の第二歩なる安楽と病の平癒とに眼を着すれば、之を忍て之に堪へざる可らず。彼の権力の偏重も、一時国内の人心を維持して事物の順序を得せしむるには止むを得ざるの勢にて、決して人の悪心より出たるものには非ず。所謂初歩の処置なり。加之其偏重の巧なるに至ては、一時、人の耳目を驚かすほどの美を致すものありと雖ども、唯如何せん、第二歩に進まんとするの時に及び、乃ち前年の弊害を顕はして初歩の宜しきを得ざりし徴候を見る可し。是を以て考れば、専制の政治は愈巧なれば其弊愈甚しく、其治世愈久しければ其余害愈深く、永世の遺伝毒と為りて容易に除く可らざるものゝ如し。徳川の太平の如きは即ち其一例なり。今日に至て世の有様を変革し、交際の第二歩に進まんとして、其事極て難きに非ずや。其難き由縁は何ぞや。徳川の専制は巧にして其太平の久しかりしを以てなり。余嘗て鄙言を以て此事情を評したることあり。云く、専制の政治を脩飾するは、閑散なる隠居が瓢箪を愛して之を磨くが如し。朝に夕に心身を労して磨き得たるものは、依然たる円き瓢箪にして、唯光沢を増したるのみ。時勢の将に変化して第二歩に入らんとするに当り、尚旧物を慕ふて変通を知らず、到底求めて得べからざる所の物を求めて脳中に想像を画き、之を実に探り得んとして煩悶するものは、瓢箪の既に釁(す)きたるを知らずして尚これを磨くが如し。愚も亦一層甚しと云ふ可しと。此鄙言或は当ることあらん。何れも皆事物の初歩に心配して次歩あるを知らず、初歩に止て次歩に進まざるものなり、初歩を以て次歩を妨るものなり。斯の如きは則ち、彼の初歩の偏重を以て事物の順序を得せしめたりと云ふも、其実は順序を得たるに非ず、人間の交際を枯死せしめたるものと云ふ可し。交際を枯死せしむるものなれば、山陽外史の所謂尾大不掉も、徳川の首大偏重も、孰れか得失を定む可らず。必竟外史なども唯事の初歩に眼を着して瓢箪を磨くの考あるのみ。
試に徳川の治世を見るに、人民は此専制偏重の政府を上に戴き、顧て世間の有様を察して人の品行如何を問へば、日本国中幾千万の人類は各幾千万個の箱の中に閉され、又幾千万個の墻壁に隔てらるゝが如くにして、寸分も動くを得ず。士農工商、其身分を別にするは勿論、士族の中には禄を世(代々のもの)にし官を世にし、甚しきは儒官医師の如きも其家に定ありて代々職を改るを得ず。農にも家柄あり、商工にも株式ありて、其隔壁の堅固なること鉄の如く、何等の力を用るも之を破る可らず、人々才力を有するも進て事を為す可き目的あらざれば、唯退て身を守るの策を求るのみ。数百年の久しき、其習慣遂に人の性と為りて、所謂敢為の精神を失ひ尽すに至れり。譬へば貧士貧民が無智文盲にして人の軽蔑を受け、年々歳々貧又貧に陥り、其苦は凡そ人間世界に比す可きものなきが如くなれども、自から難を犯して敢て事を為すの勇なし。期せずして来るの難には、よく堪ゆれども、自から難を期して未来の愉快を求る者なし。啻に貧士貧民のみならず、学者も亦然り、商人も亦然り。概して之を評すれば、日本国の人は、尋常の人類に備はる可き一種の運動力を欠て停滞不流の極に沈みたるものと云ふ可し。是即ち徳川の治世二百五十年の間、此国に大業を企る者、稀なりし由縁なり。輓近廃藩の一挙ありしかども、全国の人、俄に其性を変ずること能はず、治者と被治者との分界は今尚判然として毫も其趣を改めざる由縁なり。其本を尋れば悉皆権力の偏重より来りしものにて、事物の第二歩に注意せざるの弊害と云ふ可し。故に此弊害を察して偏重の病を除くに非ざれば、天下は乱世にても治世にても、文明は決して進むことある可らず。但し此病の療法は、目今現に政治家の仕事なれば、之を論ずるは本書の旨に非ず、余輩は唯其病の容体を示したるのみ。抑も亦西洋諸国の人民に於ても、貧富強弱一様なるに非ず。其富強なる者は貧弱を御するに、刻薄残忍なることもあらん、傲慢無礼なることもあらん。貧弱も亦名利のために、人に諂諛することもあらん、人を欺くこともあらん。其交際の醜悪なるは決して我日本人に異なることなし、或は日本人より甚しきこともある可しと雖ども、其醜悪の際、自から人々の内に独一個人の気象を存して精神の流暢を妨げず。其刻薄傲慢は唯富強なるが故なり、別に恃む所あるに非ず。其諂諛欺詐は唯貧弱なるが故なり、他に恐るゝ所あるに非ず。然り而して、富強と貧弱とは天然に非ず、人の智力を以て致す可し。智力を以て之を致す可きの目的あれば、仮令ひ事実に致すこと能はざるも、人々自から其身に依頼して独立進取の路に赴く可し。試に彼の貧民に向て問はゞ、口に云ふ能はずと雖ども、心には左の如く答ることならん。我は貧乏なるが故に富人に従順するなり、貧乏なる時節のみ彼に制せらるゝなり、我の従順は貧乏と共に消す可し、彼の制御は富貴と共に去る可しと。蓋し精神の流暢とは此辺の気象を指して云ふことなり。之を我日本人が、開闢以来世に行はるゝ偏重の定則に制せられて、人に接すれば其貧富強弱に拘らず、智愚賢不肖を問はずして、唯其地位の為に或は之を軽蔑し或は之を恐怖し、秋毫の活気をも存せずして、自家の隔壁の内に固着する者に比すれば、雲壌の相違あるを見る可きなり。(権力偏重なれば治乱共に文明は進む可らず)
此権力の偏重よりして全国の経済に差響きたる有様も等閑に看過す可らざるものなり。抑も経済の議論は頗る入組たるものにて、之を了解すること甚だ易からず。各国の事態時状に由て一様なるものに非ざれば、西洋諸国の経済論を以て直に我国に施す可らざるは固より論を俟たずと雖ども、爰に何れの国に於ても何れの時に在ても、普ねく通用す可き二則の要訣あり。即ち其第一則は財を積て又散ずることなり。而して此積むと散ずるとの両様の関係は、最も近密にして決して相離る可きものに非ず。積は即ち散の術なり、散は即ち積の方便なり。譬へば春の時節に種を散ずるは秋の穀物を積むの術にして、衣食住の為に財を散ずるは、身体を健康に保て其力を養ひ、又衣食住の物を積むの方便なるが如し。此積散の際に、或は散じて積むこと能はざるものあり。火災水難の如き是なり。或は人心の嗜慾にて奢侈を好み、徒に財物を費散して跡なきものあり。是亦水火の災難に異ならず。経済の要は決して費散を禁ずるに非ず、唯これを費し之を散じたる後に、得る所の物の多少を見て其費散の得失を断ずるのみ。其所得の物、所費より多ければ、之を利益と名け、所得所費相同じければ之を無益と名け、所得却て所費よりも少なき歟、或は全く所得あらざれば、之を損と名け又全損と名く。経済家の目的は、常に此所得をして所損より多からしめ、次第に蓄積し又費散して全国の富有を致さんとするに在るなり。故に此蓄積費散の二箇条は、何れを術と為し何れを目的と為す可らず、何れを前と為し何れを後と為す可らず。前後緩急の別なく、難易軽重の差なし。正しく同一様の事にして、正しく同一様の心を以て処置す可きものなり。蓋し蓄積してよく之を散ずるの法を知らざる者は、遂に大に蓄積するを得ず。費散して又よく積むの働なき者は、遂に大に散ずるを得ざればなり。富国の基は唯此蓄積と費散とを盛大にするに在るのみ。其盛大なる国を名けて之を富国と称す。是に由て考れば、国財の蓄積費散は全国の人心を以て処置せざる可らず。既に国財の名あれば国心の名あるも謂れなきに非ず。国財は国心を以て扱はざる可らざるなり。政府の歳入歳出も国財の一部分なれば、西洋諸国にて政府の会計を民と議するも、其趣意は蓋し爰に基きしものなり。第二則、財を蓄積し又これを費散するには、其財に相応す可き智力と其事を処するの習慣なかる可らず。所謂理財の智、理財の習慣なるもの、是なり。譬へば、千金の子、其家を亡し、博奕に贏(か)つ者、永く其富を保つこと能はざるが如し。何れも皆其財と其智力習慣と相当せざるものなり。智力なく習慣なき者へ過分の財を附するは、徒に其財を失ふのみならず、小児の手に利刀を任するが如く、却て之を以て身を害し人を傷ふの禍を致す可し。古今に其例甚だ多し。
右所記の二則果して是ならば、之を照らして古来我日本国に行はれたる経済の得失を見る可し。王代の事は姑く擱き、葛山伯有先生の田制沿革考に云く、
源平の乱に至り、徴発国衙に由らず。民奉ずる所を知らず。一郷一荘の地、官に奉じ、平族に奉じ、源氏に奉ず。間亦奸窃の徒の為に粮食を取られ、無告の民、塗炭惟谷。終に源公の権行はれ、国に守護を置き、荘に地頭を設く。国司荘司は依然として存すれば、民両君を戴くと云ふ可し。中略足利氏の国郡を制する、他の政令なく、国郡郷荘尽く割て士に与へ、租税は其主の指揮に任せ、別に五十分一の課を充て、自から奉とす。譬へば租米五十石を出す可き地は、別に一石を出さしめて京に運送し、将軍の厨料に充られしなり。或は増して二十分一に至りし年もあり。守護地頭は自から其出る用を量りて入ることを制する故に、両税なり。中略又段銭(たんせん)、棟別、倉役は時を撰ばずして之を取る。段銭とは田地にかけて銭を出さしむ、今の高掛りと云ふが如し。棟別とは軒別に割附て銀を出さしむるなり、今云ふ鍵役などに同じ。倉役とは富民富商人へばかり割附るなり、今云ふ分限割と云ふに同じ。倉役、義満公の代には四季にあてられ、義教公の代には一箇年十二度に及び、義政公には十一月九度、十二月八度に至りしゆゑ、百姓は田宅を棄てゝ逃散し、商旅、戸を閉て財を交へざりしこと応仁記に出、云々。又云く、豊臣家一統の後、文禄三年に至り、定則ありし所は、天下の租税三分の二は地頭取て、三分の一は百姓の得分たる可しとあり、云々。又云く、玆(ここ)に国初《徳川》に及び、勝国の苛刻を厭ひ、租税三分の一を弛め《四公六民の法を云ふ》民の倒懸の急を解き、云々。
右沿革考の説に拠れば、古来我国の租税は甚だ苛刻なりしこと疑なし。徳川の初に至て少しく弛めたるも、年月を経るに従ひいつとなく旧の苛税に復したることなり。又古より世の識者と称する人の説に、農民は国の本なれども、工商の二民は僅に賦を出すか出さずして坐食逸飽、理に於てあるまじきことなりとて、頻に工商を咎れども、よく事実を詳にすれば、工商は決して逸民に非ず。稀に富商大賈(たいこ)は逸して食ふ者もあらんと雖ども、こは唯其財本に依て活計を立るものなれば、豪農が多分の田地を所持して坐食する者に異ならず。以下の貧商に至ては仮令ひ直に公の税を払はざるも、其生産の難きは農民に異ならず。日本には古来工商の税なし。其税なきが故に、之を業とする者も自から増加せざるを得ず。されども其増加するや亦必ず際限あるものなり。此際限は農の利と工商の利と互に平均するに至て止む可し。譬へば四公六民の税地を耕すは、其利、固より饒なるに非ずと雖ども、平年なれば尚妻子を養ふて饑を免かる可し。工商が都邑に住居して無税の業を営むは、農民に比すれば便利なるに似たれども、尚饑寒を免かれざる者多し。其然る由縁は何ぞや。仲間の競に由るものなり。蓋し全国工商の仕事には限ありて、若干の人員あれば之を為す可きに定りたる処へ、仕事を増さずして人員のみを増せば、十人にて為す可き商業をば二、三十人の手に分ち、百人にて取る可き日傭賃をば二、三百人に配分し、三割の口銭を得べき商売も一割に減し、二貫文を取る可き賃銭も五百文に下り、自から仲間の競業を以て自から其利潤を薄くし、却て他の便利を為して農民も亦此便利を受く可ければなり。故に工商の名は無税なりと云ふと雖ども、其実は有税の農に異ならず。或は工商に利益の多きことあらば、其多き由縁は、政府にて識者の言を用ひ、様々の故障を設けて、農民の商に帰するを妨げ、其人数の割合尚少なきがために、聊か専売の利を得せしめたるものなり。此事情に由て考れば、農と工商とは正しく其利害を共にして、共に国内有用の事業を為すものなれば、其名目に有税と無税との別ありと雖ども、何れも逸民に非ず。双方共に国財を蓄積する種類の人民と云ふ可し。
故に人間の交際に於て、治者流と被治者流とに区別したるものを、今爰には経済の上にて生財者と不生財者との二種に分つ可し。即ち農工商以下被治者の種族は国財を生ずる者にして、士族以上治者の種族は之を生ぜざる者なり。或は前段の文字を用ひて、一を蓄積の種族と云ひ、一を費散の種族と云ふも可なり。此二種族の関係を見るに、其労逸損徳の有様、固より公平ならずと雖ども、人口多くして財本の割合に過ぎ、互に争ふて職業を求るの勢に迫れば、富者は逸して貧者は労せざるを得ず。是亦独り我邦のみに非ず、世界普通の弊害にして、如何ともす可らざるものなれば深く咎るに足らず。且又士族以上、治者流の人を不生財又費散の種族と名くと雖ども、政府にて文武の事を施行して世の事物の順序を整斉ならしむるは、経済を助るの大本なれば、政府の歳出を以て一概に之を無益の費と云ふ可らず。唯我国の経済に於て、特に不都合にして特に他の文明国に異なる所は、此同一様の事なる国財の蓄積と費散とを処置するに、同一様の心を以てせざるの一事に在り。古来我国の通法に於て、人民は常に財を蓄積し、譬へば四公六民の税法とすれば、其六分を以て僅に父母妻子を養ひ、残余の四分は之を政府に納め、一度び己が手を離れば其行く処を知らず、其何の用に供するを知らず、余るを知らず、足らざるを知らず。概して云へば之を蓄積するを知て其費散の道を知らざるものなり。政府も亦既に之を己が手に請取るときは、其来る処を忘れ、其何の術に由て生じたるを知らず、恰も之を天与の物の如くに思ふて、之を費し之を散じて一も意の如くならざるはなし。概して云へば之を費散するを知て蓄積の道を知らざるものなり。経済の第一則に、蓄積と費散とは正しく同一様の事にして、正しく同一様の心を以て処置す可きものなりと云へり。然るに今此有様を見れば、同一様の事を為すに二様の心を以てし、之を譬へば一字の文字を書くに、偏と作とを分て二人の手を用るが如し。如何なる能筆にても字を成す可らざるや明なり。斯の如く上下の心を二様に分て、各其所見の利益を別にし、互に相知らざるのみならず、互に其挙動を見て相怪むに至れり。安ぞ経済の不都合を生ぜざるを得んや。費す可きに費さず、費す可らざるに費し、到底其割合の宜しきを得べからざるなり。足利義政が大乱の最中に銀閣寺を興し、花御所の甍(いらか)珠玉に金銀を飾りて六十万緡(びん)、高倉御所の腰障子一間に二万銭を費す程の奢侈にて、諸国の人民へ段銭、棟別を譴責して、政府に一銭の余財もなきは、上下共に貧なる時節なり。太閤が内乱の後に大阪城を築き、次で又朝鮮を征伐し、外は兵馬の冗費、内は宴楽の奢侈を尽して、尚金馬の貯あるは、下は貧にして上は殷富なる時節と云ふ可し。又歴代の内にて賢明の名ある北条泰時以下時頼貞時等の諸君は、其自から奉ずること必ず質素倹約なりしことならん。下て徳川の時に至り、其初代には明君賢相輩出して、政府の体裁は一も間然す可きものなし。之を義政の時代などに比すれば同日の論に非ずと雖ども、民間に富を致して事を企たる者あるを聞かず。北条及び徳川の遺物として今日に伝へたるものゝ内にて最も著しきは、鎌倉の五山なり、江戸及び名古屋の城なり、日光山なり、東叡山なり、増上寺なり、何れも盛大なるものなれども、独り怪しむ可きは其時代の日本にして斯る盛大なる工業を興し得たるの一事なり。果して全国経済の割合に適したるもの乎、余輩は決して之を信ぜず。今国内にある城郭は勿論、神社仏閣の古跡とて、或は大仏大鐘、或は大伽藍等の壮大なるものあるは、大概皆神道仏教の盛なりし徴には非ずして、独裁君主の盛なるを証するに足るのみ。稀には水道堀割等の大工を起したることもあれども、決して人民の意に出たるに非ず。唯其時の君相有司の好尚に従ひ、所謂民の疾苦を問ふて其便利を推量したるものゝみ。固より古代無智の世の中なれば、政府にて独り事を為すは必然の勢にて、誰か之を怪しむ者あらん。今より其挙動を是非するの理は万々ある可らずと雖ども、国財の蓄積と費散と其路を別にして、経済上に限なき不都合を生じ、明君賢相の世にても暴君汚吏の時にても、共に此弊を免かれざりしは明に証す可きことなれば、後世苟も爰に眼力の達したる者あらば、再び其覆轍を踏む可らず。明君賢相は必ず有用の事に財を費す可しと雖ども、其有用とは君相の意を以て決する所の有用なれば、人々の好尚に由て武を有用とする者もあらん、文を有用とする者もあらん、或は真に有用の事を有用とすることもあらんと雖ども、又は無用の事を有用とすることもあらん。足利義政の時代に、政府より令して一切借金の約束を破りて之を徳政と名けたることあり。徳川の時代にも之に似たる例なきに非ず。是等も政府より徳と云へば徳なるが如し。何れにも国内の蓄積者は費散者の処置に付き少しも喙を入れざる風なれば、費散者は出を量りて入を制するに非ず、出入共に限なく、唯下民の生計を察して従前の有様に止まれば、之を最上の仁政として他に顧る所あらず。年々歳々同一様の事を繰返して、此処に積ては彼処に散じ、一字の文字を二人にて書き、以て数百年の今日に至り、顧て古今を比較して全国経済の由来を見れば、其進歩の遅きこと実に驚くに堪へたり。其一例を挙て云はんに、徳川の治世二百五十年、国内に寸兵を用ひたることもなきは、万古世界中に比類なき太平と云ふ可し。此世界に比類なき太平の世に居れば、日本の人民愚なりと雖ども、工芸の道開けずと雖ども、仮令ひ其蓄積は徐々たりと雖ども、二百五十年の間には経済の上に長足の進歩を為す可き筈なるに、事実に於て然らざるは何ぞや。独り之を将軍及び諸藩主の不徳のみに帰す可らず。若し或は之を君相有司の不徳不才に由て来りし禍とせば、其不徳不才は其人の罪に非ず、其地位に居れば止むを得ず不徳不才ならざるを得ざるの勢と為りて、其勢に迫られたるものなり。故に経済の一方より論ずれば、明君賢相も思の外に頼母しからず、天下太平も思の外に功能薄きものなり。或人の説に、戦争は実に恐る可く悪む可き禍なれども、其国の経済に差響く処は、之を人身に譬るに金創の如し、一時は人の耳目を驚かすと雖ども、生命貴要の部分に係らざれば、其癒着は案外に速なるものなり、唯経済に就て格別に恐る可きは、金創にあらずして彼労症の如く、月に日に次第に衰弱する病に在りと。此説に拠て考れば、我日本の経済に於ても、元と権力の偏重よりして蓄積者と費散者との二流に分ち、双方の間に気脈を通ぜずして、月に日に衰弱せざれば、歳に月に同一の有様に止まり、或は数百年の間に少しく進みたるも到底盛大活潑の域に入るを得ずして、徳川氏二百五十年の治世にも著しき進歩を見ざりしは、所謂経済の労症なる可し。《昔より日本の学者の論に、政府の勘定奉行と郡奉行とは課を分たざる可らずと云へり。蓋し其趣意は、勘定奉行に収税の権を任すれば自から聚斂に陥るが故に、民に近き郡奉行の権を以て之を平均するの積りならん。固より一政府同穴の内に在る役人に課を分つも、事実に益はなかる可しと雖ども、其論の意を推して考れば、費散者の一手に財用の権を附するの害は、古人も暗に知らざるに非ざるなり。》
経済の第二則に、財を蓄積し又これを費散するには、其財に相応す可き智力と其事を処するの習慣なかる可らずとあり。抑も理財の要は、活潑敢為の働と節倹勉強の力とに在るものにて、此二者其宜しきを得て、互に相制し互に相平均して、始て蓄積費散の盛大を致す可きなり。若し然らずして一方に偏し、敢為の働なくして節倹を専とすれば、其弊や貪慾吝嗇(りんしよく)に陥り、節倹の旨を忘れて敢為の働を逞ふすれば、其弊や浪費乱用と為り、何れも理財の大本に背くものと云ふ可し。然るに前段に云へる如く、全国の人を蓄積者と費散者との二種族に区分して、其分界判然たるときは、其種族全体の品行に於て必ず一方に偏し、甲の種族には節倹勉強の元素を有するも、敢為の働を失して吝嗇の弊に陥らざるを得ず、乙の種族には活潑敢為の元素を有するも、節倹の旨を失して浪費の弊に陥らざるを得ず。日本の国人、其教育洽ねからずと雖ども、天稟の愚なるに非ざれば理財の一事に於て特に拙なりと云ふの理なし。唯其人間交際の勢に由て分つ可らざるの業を分て各種族の習慣を成し、遂に其品行を殊にして拙を見はすに至りしものなり。其品行の素質は決して悪性なるに非ず、適宜に之を調和すれば敢為活潑、節倹勉強と名る物を生じて、理財に無二の用を為す可き筈なれども、其用を為さずして却て浪費乱用、貪慾吝嗇の形に変じたるは、必竟素質の悪性に非ず、調和の宜を失したるものなり。之を譬へば酸素と窒素とを調和すれば空気と名る物を生じて、動植物の生々に欠く可らざる功徳を為す可き筈なれども、此二元素を分析して各別にするときは、功徳を為さゞるのみならず、却て物の生を害するが如し。古来我国理財の有様を見るに、銭を費して事を為す者は常に士族以上治者の流なり。政府にて土木の工を興し、文武の事を企るは勿論、都て世間にて書を読み、武を講じ、或は技芸を研き、或は風流を楽む等、其事柄は有用にても無用にても、一身の衣食を謀るの外に余地を設けて、人生の稍や高尚なる部分に心を用ゆる者は、必ず士族以上に限り、其品行も自から穎敏活潑にして、敢て事を為すの気力に乏しからず。実に我文明の根本と称す可きものなれども、唯如何せん、理財の一事に至ては数千百年の勢に従ひ、出るを知て入るを知らず、散ずるを知て積むを知らず、有る物を費すを知て、無き物を作るを知らざる者なれば、其際に自から浪費乱用の弊を免かる可らず。加之因襲の久しき、遂に一種の風俗を成し、理財を談ずるは士君子の事に非ずとして、之を知らざるを恥とせざるのみならず、却て之を知るを恥と為し、士君子の最も上流なる者と、理財の最も拙なる者とは、二字同義なるに至れり。迀遠も亦極ると云ふ可し。又一方より農商以下被治者の種族を見れば、上流の種族に対して明に分界を限り、恰も別に一場の下界を開て、人情風俗を殊にし、他の制御を蒙り、他の軽侮を受け、言ふに称呼を異にし、坐するに席を別にし、衣服にも制限あり、法律にも異同あり、甚しきは生命の権義をも他に任するに至れり。徳川の律書に、
足軽体に候(さうらふ)共軽き町人百姓の分として法外の雑言等不届の仕方にて不得止(やむをえず)切殺し候者は吟味の上紛無之(まぎれこれなく)候はゞ無構事
とあり。此律に拠れば、百姓町人は常に幾千万人の敵に接するが如く、其無事なるは幸にして免かるゝのみ。既に生命をも安んずること能はず、何ぞ他を顧るに遑あらん。廉恥功名の心は身を払て尽き果て、又文学技芸等に志す可き余地を遺さず、唯上命に従て政府の費用を供するのみにて、身心共に束縛を蒙るものと云ふ可し。然りと雖ども人類の天性に於て、心の働は何様の術を用るも全く之を圧窄禁錮す可きものに非ず、何れにか間隙を求めて僅に漏洩の路あらざるはなし。今この百姓町人等の身分も進退固より不自由なりと雖ども、私財を蓄積して産を営むの一事に於ては、其心の働を伸ばす可き路を開て之を妨るもの少なし。是に於てか稍や気力ある者は蓄財に心を尽して、千辛万苦を憚らず節倹勉強して往々巨万の富を致す者なきに非ず。されども元と此輩は、唯富を欲して富を致したる者にて、他に志す所あるに非ず、富を求るは他の目的を達するための方便に非ずして、正に是れ生涯無二の目的なるが如し。故に人間世界、富の外に貴ぶ可きものなし、富を抛て易ふ可きものなし、学術以上人心の高尚なる部分に属する所の事件は、之を顧みざるのみならず、却て奢侈の一箇条として之を禁じ、上流の人の挙動を見て窃に其迀遠を愍笑するに至れり。事勢に於ては亦謂れなきに非ざれども、其品行の鄙劣にして敢為の気象なきは、真に賎むに堪へたるものなり。試に日本国中富豪と称する家の由来と其興敗の趣とを探索せば、明に事の実証を見る可し。古来大賈豪農の家を興したる者は、決して学者士君子の流に非ず、百に九十九は無学無術の野人にして、恥づ可きを恥ぢず、忍ぶ可らざるを忍び、唯吝嗇の一方に由て蓄積したる者のみ。又其家を亡す者を見れば、気力乏しくして蓄積の術を怠る歟、或は酒色游宴肉体の欲を恣にして銭を失ふものに過ぎず。彼の士族の流が飄然として産を治めず、其好む所に耽て敢て其志を屈せず、敢て其志す所の事を為して貧を患へざる者に比すれば、同日の論に非ず。固より肉体の欲を以て家を破るも、飄然として家を破るも、其家を破るの実は同様なれども、心思の向ふ所を論ずれば、上流の人には尚智徳の働に余地を存し、下流の人には唯銭を好み肉体の欲に奉ずるの一元素あるが如し。其品行の異別亦大なりと云ふ可し。右の次第を以て被治者流の節倹勉強は其形を改めて貪欲吝嗇と為り、治者流の活潑敢為は其性を変じて浪費乱用と為り、共に理財の用に適せず、以て今日の有様に至りしものなり。抑も我日本を貧なりと云ふと雖ども、天然の産物乏しきに非ず、況や農耕の一事に於ては、世界万国に対して誇る可きもの多きをや。決して之を天然の貧国と云ふ可らず。或は税法苛刻ならんか、税法苛刻なりと雖ども、其税は集めて之を海に投げるに非ざれば、国内に留て財本の一部分たらざるを得ず。然るに今日の有様にて全国の貧なるは何ぞや。必竟財の乏しきに非ず、其財を理するの智力に乏しきなり。其智力の乏しきに非ず、其智力を両断して上下各其一部分を保つが故なり。之を概言すれば、日本国の財は開闢の初より今日に至るまで、未だ之に相応す可き智力に逢はざるものと云ふ可し。蓋し此智力の両断したるものを調和して一と為し、実際の用に適せしむるは経済の急務なれども、数千百年の習慣を成したるものなれば、一朝一夕の運動を以て変革す可き事に非ず。近日に至て少しく其運動の端を見るが如くなれども、上下の種族、互に其所長を採らずして却て其所短を学ぶ者多し。是亦如何ともす可らざるの勢にて、必ずしも其人の罪に非ず。蕩々たる天下の大勢は上古より流れて今世に及び、億兆の人類を推倒して其向ふ所に傾きしものなれば、今に於て俄に之に抗抵すること能はざるも亦宜(むべ)なりと云ふ可し。
巻之六
第十章 自国の独立を論ず
前の第八章第九章に於て、西洋諸国と日本との文明の由来を論じ、其全体の有様を察して之を比較すれば、日本の文明は西洋の文明よりも後れたるものと云はざるを得ず。文明に前後あれば前なる者は後なる者を制し、後なる者は前なる者に制せらるゝの理なり。昔鎖国の時に在ては、我人民は固より西洋諸国なるものをも知らざりしことなれども、今に至ては既に其国あるを知り、又其文明の有様を知り、其有様を我に比較して前後の別あるを知り、我文明の以て彼に及ばざるを知り、文明の後るゝ者は先だつ者に制せらるゝの理をも知るときは、其人民の心に先づ感ずる所のものは、自国の独立如何の一事に在らざるを得ず。抑も文明の物たるや極て広大にして、凡そ人類の精神の達する所は悉皆其区域にあらざるはなし。外国に対して自国の独立を謀るが如きは、固より文明論の中に於て瑣々たる一箇条に過ぎざれども、本書第二章に云へる如く、文明の進歩には段々の度あるものなれば、其進歩の度に従て相当の処置なかる可らず。今我人民の心に自国の独立如何を感じて之を憂ふるは、即ち我国の文明の度は今正に自国の独立に就て心配するの地位に居り、其精神の達する所、恰も此一局に限りて、未だ他を顧るに遑あらざるの証拠なり。故に余輩が此文明論の末章に於て自国独立の一箇条を掲るも、蓋し人民一般の方向に従ひ、其精神の正に達する所に就て議論を立たるものなり。尽く文明の蘊奥(うんあう)を発して其詳なるを究るが如きは、之を他日後進の学者に任ずるのみ。
昔し封建の時代には、人間の交際に君臣主従の間柄と云ふもの有て世の中を支配し、幕府並に諸藩の士族が各其時の主人に力を尽すは勿論、遠く先祖の由来を忘れずして一向一心に御家の御ためを思ひ、其食を食む者は其事に死すとて、己が一命をも全く主家に属したるものとして、敢て自から之を自由にせず、主人は国の父母と称して、臣下を子の如く愛し、恩義の二字を以て上下の間を円く固く治めて、其間柄の美なること或は羨む可きものなきに非ず。或は真に忠臣義士に非ざるも、一般に義を貴ぶの風俗なれば、其風俗に従て自から身の品行を高尚に保つ可きことあり。譬へば士族の間にて其子弟を誡(いましむ)るには、必ず身分又は家柄等の言葉を用ひ、侍の身分として鄙劣は出来ずと云ひ、或は先祖以来の家柄に対してと云ひ、或は御主人様に申訳けなしと云ひ、身分家柄御主人様は正しく士族の由る可き大道にして、終身の品行を維持する綱の如し。西洋の語に所謂「モラル・タイ」なるものなり。
此風俗は唯士族と国君との間に行はるゝのみに非ず、普ねく日本全国の民間に染込みて、町人の仲間にも行はれ、百姓の仲間にも行はれ、穢多の仲間に於ても、非人の仲間に於ても、凡そ人間の交際あれば至大より至小に至るまで行渡らざる所なし。譬へば町人百姓に本家別家の義あり、穢多非人にも親分子分の別ありて、其義理の固きこと猶かの君臣の如く然り。
此風俗を名けて或は君臣の義と云ひ、或は先祖の由緒と云ひ、或は上下の名分と云ひ、或は本末の差別と云ひ、其名称は何れにても、兎に角に日本開闢以来今日に至るまで人間の交際を支配して、今日までの文明を達したるものは、此風俗習慣の力にあらざるはなし。
輓近外国人と交を結ぶに至て、我国の文明と彼の国の文明とを比較するに、其外形に見はれたる技術工芸の彼に及ばざるは固より論を俟たず、人心の内部に至るまでも其趣を異にせり。西洋諸国の人民は智力活潑にして、身躬からよく其身を制し、其人間の交際は整斉にして事物に順序を備へ、大は一国の経済より小は一家一身の処分に至るまで、迚も今の有様にては我日本人の企て及ぶ所に非ざるなり。概して云へば、西洋諸国は文明にして我日本は未だ文明に至らざること、今日に至て始て明にして、人の心に於て之を許さゞるものなし。
是に於てか、世の識者、我日本の不文なる所以の源因を求めて、先づ第一番に之を我古風習慣の宜しからざるに帰し、乃ち此古習を一掃せんとして専ら其改革に手を着け、廃藩置県を始として都て旧物を廃し、大名も華族と為り、侍も貫属と為り、言路を開き人物を登用するの時節なれば、昔時五千石の大臣も兵卒と為り、一人扶持の足軽も県令と為り、数代両替渡世の豪商は身代限と為り、一文なしの博徒は御用達と為り、寺は宮と為り、僧侶は神官と為り、富貴福禄は唯人々の働次第にて、所謂功名自在、手に唾して取る可きの時節と為り、開闢以来我人民の心の底に染込たる恩義由緒名分差別等の考は漸く消散して、働の一方に重心を偏し、無理によく之を名状すれば人心の活潑にして、今の世俗に云ふ所の文明駸々乎(しんしんこ)として進むの有様と為りたり。
扨この功名自在文明駸々乎たるの有様にて、識者は注文通りの目的を達し、此文明の駸々乎を以て真の駸々乎と為して他に求る所なきやと尋るに、決して然らず。識者は今の文明を以て決して自から満足する者には非ざる可し。如何となれば、今の事物の有様にて我人民の品行に差響く所の趣を見るに、人民は恰も先祖伝来の重荷を卸し、未だ代りの荷物をば荷(にな)はずして休息する者の如くなればなり。其次第甚だ明なり。廃藩の後は大名と藩士との間に既に君臣の義なし。強ひて窃に此義を務めんとすれば、或は迀遠と云はるゝも申分けある可らず。足軽が隊長と為りて前年の支配頭を指揮すれば、其号令には背く可らず。上下、処を異にして、制法厳なるが如くなれども、支配頭も唯銭をさへ出せば兵卒たるの役は免かる可し。故に足軽も得意にして隊長たる可し、支配頭も亦得意にして閑散たる可し。博徒が御用達と為て威張れば、身代限に為りたる町人は時勢を咎めて其身を責めず、亦気楽に世を渡る可し。神官が時を得たりとて得意の色を為せば、僧侶も公然と妻帯して亦得意の色を為せり。概して云へば今の時節は上下貴賎皆得意の色を為す可くして、貧乏の一事を除くの外は更に身心を窘るものなし。討死も損なり、敵討も空なり、師に出れば危し、腹を切れば痛たし。学問も仕官も唯銭のためのみ、銭さへあれば何事を勉めざるも可なり、銭の向ふ所は天下に敵なしとて、人の品行は銭を以て相場を立たるものゝ如し。此有様を以て昔の窮屈なる時代に比すれば、豈これを気楽なりと云はざる可けんや。故に云く、今の人民は重荷を卸して正に休息する者なり。
然りと雖ども、休息とは何も為す可き仕事なき時の話なり。仕事を終る歟、又は為す可き仕事なくして、休息するは尤のことなれども、今我邦の有様を見れば決して無事の日に非ず。然も其事は昔年に比して更に困難なる時節なり。世の識者も爰に心付かざるに非ず、必ず休息す可らざるの勢を知て、勉て人心を有為に導かんとし、学者は学校を設て人に教へ、訳者は原書を訳して世に公布し、政府も人民も専ら文学技芸に力を尽して之を試れども、人民の品行に於て未だ著しき功能を見ず。学芸に身を委(ゆだぬ)る者の趣を見るに、其科業は忙はしからざるに非ざれども、一片の本心に於て私有をも生命をも抛つ可き場所と定めたる大切なる覚悟に至ては、或は忘れたるが如くして兎角心に関するものなく、安楽世界と云はざるを得ず。
或る人々は爰に注意し、今人の所業を認めて之を浮薄と為し、其罪を忘古の二字に帰して、更に大義名分を興張し、以て古に復せんとして、乃ち其教を脩め、神世の古に証拠を求めて国体論なるものを唱へ、此論を以て人心を維持せんことを企てたり。所謂皇学なるもの、是なり。此教も亦謂れなきに非ず。立君の国に於て君主を奉尊し、行政の権を此君に附するは、固より事理の当然にして、政治上に於ても最も緊要なることなれば、尊王の説決して駁す可らずと雖ども、彼の皇学者流は尚一歩を進めて、君主を奉尊するに、其奉尊する由縁を政治上の得失に求めずして、之を人民懐古の至情に帰し、其誤るの甚しきに至ては、君主をして虚位を擁せしむるも之を厭はず、実を忘れて虚を悦ぶの弊なきを得ず。抑も人情の赴く所は一時の挙動を以て容易に変ず可きものに非ざれば、今人の至情に依頼して君主奉尊の教を達せんとするには、先づ其人情を変じ、旧を忘れて新に就かしめざる可らず。然るに我国の人民は数百年の間、天子あるを知らず、唯これを口碑に伝ふるのみ。維新の一挙以て政治の体裁は数百年の古に復したりと称すと雖ども、王室と人民との間に至密の交情あるに非ず、其交際は政治上の関係のみにて、交情の疏密を論ずるときは、今の人民は鎌倉以来封建の君に牧せられたるものなれば、王室に対するよりも封建の旧君に対して親密ならざるを得ず。普天の下、唯一君の大義とて、其説は立つ可しと雖ども、事の実際に就て之を視れば必ず行はれざる所あるを知る可し。今の勢にては人民も旧を忘れて封建の君を思ふの情は次第に消散するに似たりと雖ども、新に王室を慕ふの至情を造り、之をして真に赤子の如くならしめんとするは、今世の人心と文明の有様とに於て頗る難きことにて、殆ど能す可らざるに帰す可し。或は人の説に、王制一新は人民懐古の情に基きしものにて、人情霸府を厭ふて王室を慕ひしことなりと云ふ者あれども、必竟事実を察せざるの説のみ。若し果して此説の如く、人情真に旧を慕ふものなれば、数百年来民心に染込たる霸政をこそ慕ふ筈なれ。凡そ今の世の士族其外の者にて先祖の由緒など唱るは、多くは鎌倉以後の世態に関係するものなり。霸政の由来も亦旧くして広きものと云ふ可し。或は又人情は旧を忘れて新を慕ふものとすれば、王政の行はれたるは霸政以前のことにて最も旧きものなれば、王霸両様に就て孰れを忘れんか、必ず其最も旧きものを忘るゝの理なり。或は又人心の王室に向ふは時の新旧に由るに非ず、大義名分の然らしむるものなりとの説あれども、大義名分とは真実無妄の正理ならん。真実無妄の理は人間の須臾も離る可らざるものなり。然るに鎌倉以来人民の王室を知らざること殆ど七百年に近し。此七百年の星霜は如何なる時間なるや。此説に従へば七百年の間は人民皆方向を誤り、大義名分も地を払て尽きたる野蛮暗黒の世と云はざるを得ず。固より人事の泰否は一年又は数年の成行を見て決定す可きに非ずと雖ども、苟も人心を具して自から方向を誤つと知りながら、安ぞよく七百年の久しきに堪ゆ可けんや。加之実際に就ても亦証す可きものあり。実に此七百年の間は決して暴乱のみの世に非ず。今の文明の源を尋れば、十に七、八は此年間に成長して今に伝へたる賜と云ふ可し。
右の次第を以て考れば、王制一新の源因は人民の霸府を厭ふて王室を慕ふに由るに非ず、新を忘れて旧を思ふに由るに非ず、百千年の間、忘却したる大義名分を俄に思出したるが為に非ず、唯当時幕府の政を改めんとするの人心に由て成たるものなり。一新の業既に成て、天下の政権、王室に帰すれば、日本国民として之を奉尊するは固より当務の職分なれども、人民と王室との間にあるものは唯政治上の関係のみ。其交情に至ては決して遽に造る可きものに非ず。強ひて之を造らんとすれば其目的をば達せずして、却て世間に偽君子の類を生じて益人情を軽薄に導くことある可し。故に云く、皇学者流の国体論は、今の人心を維持して其品行を高尚の域に導くの具と為すに足らざるなり。
又一種の学者は、今の人心の軽薄なるを患ひ、之を救ふに国体論を以てするも功を奏す可らざるを知り、乃ち人の霊魂に依頼し、耶蘇の宗教を施して人心の非を糺し、安身立命の地位を与へて衆庶の方向を一にし、人類の当に由る可き大目的を定めんとするの説あり。此説も決して軽率なる心より生じたるものに非ず。其説の本を尋るに、学者以為(おもへ)らく、今の人民を見れば百人は百人、皆其向ふ所を異にし、政治上の事に就て衆庶一定の説なきは勿論、宗教に至ても神か仏か定む可らず、甚しきは無宗旨と名く可き者もあり、人類に於て最も大切なる霊魂の止まる所をも知らず、安ぞ他の人事を顧るに遑あらん、天道を知らず、人倫を知らず、父子なく、夫婦なし、恰も是れ現在の地獄なれば、苟も世を憂る者は此有様を救はざる可らず、又一方より考れば、宗教を以て一度び人心を維持するを得ば、衆庶の止まる所、始て爰に定り、拡て之を政治上に施さば、亦以て一国独立の基とも為る可しとの趣意なり。決して之を軽率なる妄説と云ふ可らず。実に此道を以て今の士民を教化し、其心の非を糺して徳の門に入らしめ、仮令ひ天道の極度に達せざるも、父子夫婦の人倫を明にして孝行貞節の心を励まし、子弟教育の義務たるを知らしめ、蓄妾淫荒の悪事たるを弁へしむる等の如きは、世の文明に関して其功能の最も大なるものなれば、固より間然す可きものなしと雖ども、目今現に我国の有様に就て得失を論ずるときは、余は全く此説に同意するを得ず。如何となれば彼の学者の臆測に、耶蘇の教を拡て之を政治上に及ぼし、以て一国独立の基を立てんとするの説に至て、少しく所見を異にする所あればなり。
元来耶蘇の宗教は永遠無窮を目的と為し、幸福安全も永遠を期し、禍患疾苦も永遠を約し、現在の罪よりも未来の罪を恐れ、今生の裁判よりも後生の裁判を重んじ、結局今の此世と未来の彼の世とを区別して論を立て、其説く所、常に洪大にして、他の学問とは全く趣を異にするものなり。一視同仁四海兄弟と云へば、此地球は恰も一家の如く、地球上の人民は等しく兄弟の如くにして、其相交るの情に厚薄の差別ある可らず。四海既に一家の如くなれば、又何ぞ家内に境界を作るに及ばん。然るに今この地球を幾個に分ち、区々たる国界を設け、人民各其堺内に党与を結て一国人民と称し、其党与の便利のみを謀らんがためにとて政府を設け、甚しきは兇器を携へて界外の兄弟を殺し、界外の地面を奪ひ、商売の利を争ふが如きは、決して之を宗教の旨と云ふ可らず。是等の悪業を見れば永遠後生の裁判は姑く擱き、現在今生の裁判も未だ不行届と云ふ可し。耶蘇の罪人なり。
然りと雖ども、今世界中の有様を見れば処として建国ならざるはなし、建国として政府あらざるはなし。政府よく人民を保護し、人民よく商売を勤め、政府よく戦ひ、人民よく利を得れば、之を富国強兵と称し、其国民の自から誇るは勿論、他国の人も之を羨み、其富国強兵に傚はんとして勉強するは何ぞや。宗教の旨には背くと雖ども、世界の勢に於て止むを得ざるものなり。故に今日の文明にて世界各国互ひの関係を問へば、其人民、私の交には、或は万里外の人を友として一見旧相識の如きものある可しと雖ども、国と国との交際に至ては唯二箇条あるのみ。云く、平時は物を売買して互に利を争ひ、事あれば武器を以て相殺すなり。言葉を替へて云へば、今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり。固より戦争にも種類多くして、或は世に戦争を止るがために戦争する戦争もあらん。貿易も素と天地間の有無を互に通ずることにて最も公明なる仕事なれば、両様とも其素質に於て一概に之を悪事とのみ云ふ可らずと雖ども、今の世界に行はるゝ各国の戦争と貿易との情実を尋れば、宗教愛敵の極意より由て来りしものとは万々思ふ可らざるなり。
右の如く宗教の一方より光を照らして事を断じ、唯貿易と戦争と云へば其事甚だ粗野にして賎しむ可きに似たれども、今の事物の有様に従て之を見れば又大に然らざるものあり。如何となれば貿易は利を争ふの事なりと雖ども、腕力のみを以て能す可きものに非ず、必ず智恵の仕事なれば、今の人民に向ては之を許さゞる可らず。且外に貿易せんとするには内に勉めざる可らざるが故に、貿易の盛なるは内国の人民に智見を開き、文学技芸の盛に行はれて其余光を外に放たるものにて、国の繁栄の徴候と云ふ可ければなり。戦争も亦然り。単に之を殺人の術と云へば悪む可きが如くなれども、今直に無名の師を起さんとする者あれば、仮令ひ今の不十分なる文明の有様にても、不十分は不十分のまゝに、或は条約の明文あり、或は談判の掛引あり、万国の公法もあり、学者の議論もありて、容易に其妄挙を許さず。又或は唯利のために非ずして、国の栄辱のため、道理のためにとて起す師もなきに非ず。故に殺人争利の名は宗教の旨に対して穢らはしく、教敵たるの名は免かれ難しと雖ども、今の文明の有様に於ては止むを得ざるの勢にて、戦争は独立国の権義を伸ばすの術にして、貿易は国の光を放つの徴候と云はざるを得ず。
自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を脩め、自国の名誉を燿かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、其心を名けて報国心と云ふ。其眼目は他国に対して自他の差別を作り、仮令ひ他を害するの意なきも、自から厚くして他を薄くし、自国は自国にて自から独立せんとすることなり。故に報国心は一人の身に私するには非ざれども、一国に私するの心なり。即ち此地球を幾個に区分して其区内に党与を結び、其党与の便利を謀て自から私する偏頗(へんぱ)の心なり。故に報国心と偏頗心とは名を異にして実を同ふするものと云はざるを得ず。此一段に至て、一視同仁四海兄弟の大義と報国尽忠建国独立の大義とは、互に相戻て相容れざるを覚るなり。故に宗教を拡て政治上に及ぼし、以て一国独立の基を立てんとするの説は、考の条理を誤るものと云ふ可し。宗教は一身の私徳に関係するのみにて、建国独立の精神とは其赴く所を異にするものなれば、仮令ひ此教を以て人民の心を維持するを得るも、其人民と共に国を守るの一事に至ては果して大なる功能ある可らず。概して今の世界各国の有様と宗教の趣意とを比較すれば、宗教は洪大なるに過ぎ、善美なるに過ぎ、高遠なるに過ぎ、公平なるに過ぎ、各国対立の有様は狭隘なるに過ぎ、鄙劣なるに過ぎ、浅見なるに過ぎ、偏頗なるに過ぎて、両ながら相接すること能はざるなり。
又一種の漢学者は其所見稍や広くして、皇学者流の如く唯壊古の情に依頼するのみには非ざれども、結局其眼目は礼楽征伐を以て下民を御するの流儀にて、情実と法律と相半して民心を維持せんとするものなれば、迚も今の世の有様に適す可らず。若し其説をして行はれしめなば、人民は唯政府あるを知て民あるを知らず、官あるを知て私あるを知らず、却て益卑屈に陥て、遂に一般の品行を高尚にするの場合には至る可らず。此事に就ては本書第七章及び第九章に所論あれば今爰に贅せず。
以上所論の如く、方今我邦の事情困難なりと雖ども、人民は更に此困難を覚へず、恰も旧来の覊絆を脱して却て安楽なるが如き有様なれば、有志の士君子、深く之を憂ひ、或る皇学者は国体論を唱へ、或る洋学者は耶蘇教を入れんとし、又或る漢学者は堯舜の道を主張し、如何にもして民心を維持して其向ふ所を一にし、以て我邦の独立を保たんとて、各勉る所ありと雖ども、今日に至るまで一も功を奏したるものなし、又後日に至ても一も功を奏す可きものなし。豈長大息す可きに非ずや。是に於てか余輩も亦聊か平生の所見を述べざるを得ず。都て事物を論ずるには、先づ其事物の名と性質とを詳にして、然る後に之を処分するの術を得べし。譬へば火事を防ぐには、先づ火の性質を知り、水を以て之を消す可きを詳にして、然る後に消防の術を得べきが如し。今我国の事態困難なりと云ふと雖ども、其困難とは抑も亦何等の箇条を指して云ふや。政令行はれざるに非ず、租税納めざるに非ず、人民頓に無智に陥りたるに非ず、官員皆愚にして不正なるに非ず。是等の件々を枚挙すれば日本は依然たる旧の日本にして更に変動あることなく、更に憂ふ可きものあるを見ず、或は前日の有様に比較すれば新に面目を改めて善に進たりと云ふも可なり。然るに我国の事態を前年に比すれば更に困難にして一層の憂患を増すとは、果して何等の箇条を指して何等の困難事を憂ることなるや、之を質さゞる可らず。按ずるに此困難事は我祖先より伝来のものに非ず、必ず近来俄に生じたる病にて、既に我国命貴要の部を犯し、之を除かんとして除く可らず、之を療せんとして医薬に乏しく、到底我国従来の生力を以て抗抵す可らざるものならん。如何となれば、依然たる日本国にして旧に異なることなくば之に安心す可き筈なれども、特に之を憂るは必ず別に新に憂ふ可き病を生じたるの証なり。世の識者の憂患する所も必ず此病に在ること断じて知る可しと雖ども、識者は此病を指して何と名るや。余輩は之を外国交際と名るなり。
世の識者は明に此病に名を下だして外国交際と云はざるにもせよ、其憂る所は正しく余輩と同様にして、今の外国交際の困難を憂るものなれば、先づ爰に物の名は定りたり。次で又其物の性質を詳にせざる可らず。抑も外国人の我日本に来るは唯貿易のためのみ。而して今日本と外国との間に行はるゝ貿易の有様を視るに、西洋諸国は物を製するの国にして、日本は物を産するの国なり。物を製するとは天然の物に人工を加ることにて、譬へば綿を変じて織物と為し、鉄を製して刃物と為すが如し。物を産するとは天然の力に依頼して素質の物を産するを云ふ。日本にて生糸を産し、鉱品を掘出すが如し。故に今仮に名を下だして、西洋諸国を製物の国と名け、日本を産物の国と名く。固より製物と産物とは其分界明に限り難しと雖ども、甲は人力を用ること多く、乙は天力に依頼すること多きを以て、名を異にするものなり。扨経済の道に於て、一国の貧富は天然に生ずる物産の多寡に関係すること思の外に少なくして、其実は専ら人力を用るの多少と巧拙とに由るものなり。土地肥饒なる印度の貧にして、物産なき荷蘭の富むが如し。故に製物国と産物国との貿易に於ては、甲は無形無限の人力を用ひ、乙は有形有限の産物を用ひて、力と物とを互に交易するものなり。細に之を云へば、産物国の人民は労す可き手足と智恵とを労せずして、製物国の人を海外に雇ひ置き、其手足と智恵とを借用して之を労せしめ、其労の代として自国に産する天然の物を与ふることなり。又これを譬へば宛行(あてがひ)三百石、家族十人の侍が、安楽逸居して何事をも為さず、朝夕の飲食は仕出し屋より取り、夏冬の衣服は呉服屋より買ひ、世帯に入用なるものは一より十に至るまで悉く市中に出来上りたる物を買立てゝ、其代として毎年三百石の米を遣払ふが如し。三百石の米は恰も天然の物産なれども、年々の遣払ひにて迚も蓄財の目途はある可らず。方今我日本と外国との貿易の有様を論ずれば、其大略斯の如し。結局我国の損亡と云はざるを得ず。
又西洋諸国は製物を以て既に其富を致し、日新文明の功徳に由て人口年に繁殖し、英国の如きは今正に其極度に達したるものと云ふ可し。亜米利加合衆国の人民も英人の子孫なり、「アウスタラリヤ」に在る白人も英より移りたるものなり、東印度にも英人あり、西印度にも英人あり、其数殆ど計る可らず。仮に今世界中に散在せる英人と、数百年来英国より出たる者の子孫とを集めて、其本国たる今の大不列顛及び「アイルランド」の地に帰らしめ、現在の英人三千余万の人民と同処に住居せしむることあらば、全国に生ずる物を以て衣食に足らざるは固より論を俟たず、過半の平地は家を建るがために占めらるゝことならん。文明次第に進て人事の都合宜しければ人口の繁殖すること以て知る可し。子を生むの一事は人も鼠も異なることなし。鼠は其身を保護すること能はずして、或は飢寒に死し或は猫に捕るゝに由て、其繁殖も甚しからずと雖ども、人事の都合宜しくして飢寒戦争流行病の患少なければ、人の繁殖は所謂鼠算の割合に増すの理にて、欧羅巴中の古国にては既に其始末に困却せり。彼の国経済家の説にて、此患を防ぐの策は、第一、自国の製造物を輸出して、土地の豊饒なる国より衣食の品を輸入することなり。第二、自国の人民を海外の地に移して殖民することなり。此第一策は限ある仕事にて未だ十分に患を救ふに足らず、第二策は大に財本を費す仕事にて或は功を奏せざることあり。故に第三策は、外国に資本を貸して其利益を取り、以て自国の用に供することなり。蓋し人を海外の地に移すには既に開けたる地方を最も良とすと雖ども、開けたる地には自から建国政府ありて、其人民にも一種の習慣風俗を備へ、他国より来て其中心に入り之と雑居して便利を得んとするも、容易に成す可きことに非ず。唯一の手掛りは其海外の国なるもの、未だ勧工の術を知らずして富を得ず、資本に乏しくして力役の人多く、之がために金の利足貴ければ、本国に余ある元金を齎らして此貧国に貸付け、労せずして利益を取るの術なり。言を替へて云へば、人を雑居せしめずして金を雑居せしむるの法なり。人は習慣風俗に由て其雑居容易ならずと雖ども、金なれば自国の金にても他国の金にても其目撃する所に差別なきが故に、之を用る者は唯利足の高下を問ひ、甘んじて他国の金を融通し、識らず知らずして他国の人に金利を払ふことなり。金主の名案と云ふ可し。方今日本にても既に若干の外債あり、其利害得失を察せざる可らず。抑も文明の国と未開の国とを比較すれば、生計の有様、全く其趣を異にし、文明次第に進むに随て其費用も亦随て洪大なれば、仮令ひ人口繁殖の患は之を外にするも、平常の生計に於て其費用の一部は必ず他に求めざる可らず。其これを求る所は即ち下流の未開国なれば、世界の貧は悉く下流に帰すと云ふ可し。文明国の資本を借用して其利足を払ふは、貧の正に下流に帰して其形に見はれたるものなり。故に資本の貸借は必ずしも人口繁殖の一事のみに関係するものに非ざれども、今特に此事を挙げたるは、唯学者の了解に便ならしめんがために、西洋人の利を争はざる可らざる一の明なる源因を示したるのみ。
右は外国交際の性質に就き其理財上の損徳を論じたるものなり。今又此交際に由て我人民の品行に差響く所のものを示さん。近来我国人も大に面目を改め、人民同権の説は殆ど天下に洽ねくして之に異論を入るゝ者はなきが如し。蓋し人民同権とは唯一国内の人々互に権を同ふすると云ふ義のみに非ず。此国の人と彼国の人と相対しても之を同ふし、此国と彼国と対しても之を同ふし、其有様の貧富強弱に拘はらず、権義は正しく同一なる可しとの趣意なり。然るに外国人の我国に来て通商を始めしより以来、其条約書の面には彼我同等の明文あるも、交際の実地に就て之を見れば決して然らず。社友小幡君の著述、民間雑誌第八編に云へることあり。前略、米国の我国に通信を開くや、水師提督「ペルリ」をして一隊の軍艦を率ひて我内海に驀入(ばくにふ)せしめ、我に強るに通信交易の事を以てし、而して其口実とする所は、同じく天を戴き同じく地を踏て共に是れ四海の兄弟なり、然るに独り人を拒絶して相容れざるものは天の罪人なれば、仮令ひ之と戦ふも通信貿易を開かざる可らずとの趣意なり。何ぞ其言の美にして其事の醜なるや。言行齟齬するの甚しきものと云ふ可し。此際の形容を除て其事実のみを直言すれば、我と商売せざる者は之を殺すと云ふに過ぎず。中略 今試に都下の景況を見よ。馬に騎し車に乗て意気揚々、人を避けしむる者は、多くは是れ洋外の人なり。偶ま邏卒なり行人なり、或は御者車夫の徒なり、之と口論を生ずることあれば、洋人は傍に人なきが如く、手以て打ち足以て蹴るも、怯弱卑屈の人民これに応ずるの気力なく、外人如何ともす可らずとて、怒を呑て訴訟の庭に往かざる者も亦少なからず。或は商売取引等の事に付き之を訴ることあるも、五港の地に行て結局彼国人の裁判に決するの勢なれば、果して其冤を伸る能はず、是を以て人々相語て云く、寧ろ訴て冤を重ねんより、若かず怒を呑むの易きにとて、其状恰も弱少の新婦が老悍の姑側に在るが如し。外人は既に斯の如き勢力を蓄へ、又財貨饒なる国より財貨乏しき国に来て其費用する所多きがため、利に走るの徒は皆争て之に媚を献じ、以て其嚢中を満たさんとす。故に外人の到る所は温泉場も宿駅も茶亭も酒店も一種軽薄の人情を醸成し、事理の曲直を顧みずして銭の多寡を問ひ、既に傍若無人なる外人をして益其妄慢を逞ふせしむるが如きは、一見以て厭悪するに堪へたりと。以上小幡君の議論にて真に余が心を得たるものなり。此他外国人との交際に付ては、居留地の関係あり、内地旅行の関係あり、外人雇入の関係あり、出入港税の関係あり。此諸件に付き、仮令ひ表向は各国対立彼我同権の体裁あるも、其実は同等同権の旨を尽したりと云ふ可らず。外国に対して既に同権の旨を失ひ、之に注意する者あらざれば、我国民の品行は日に卑屈に赴かざるを得ざるなり。
前に云へる如く、近来は世上に人民同権の説を唱る者多く、或は華士族の名称をも廃して全国に同権の趣旨を明にし、以て人民の品行を興起して其卑屈の旧習を一掃せざる可らずと云ふ者あり。其議論雄爽(ゆうさう)、人をして快然たらしむと雖ども、独り外国の交際に就ては此同権の説を唱る者少なきは何ぞや。華士族と云ひ平民と云ふも、等しく日本国内の人民なり。然るも其間に権力の不平均あれば、尚且これを害なりとして平等の地位に置かんことを勉めり。然るに今利害を別にし、人情を異にし、言語風俗、面色骨格に至るまでも相同じからざる、此万里外の外国人に対して、権力の不平均を患へざるは抑も亦何の由縁なるや。咄々怪事(とつとつくわいじ)と云ふ可し。其由縁は必ず種々様々なる可しと雖ども、余輩の所見にて其最も著しきもの二箇条を得たり。即ち第一条は世に同権の説を唱る者、其論説に就き未だ深切なる場合に至らざることなり。第二条は外国の交際日浅くして、未だ其害の大なるものを見ざることなり。左に之を論ぜん。
第一条 今の世に人民同権の説を唱る者少なからずと雖ども、其これを唱る者は大概皆学者流の人にして、即ち士族なり、国内中人以上の人なり、嘗て特権を有したる人なり、嘗て権力なくして人に窘められたる人に非ず、権力を握て人を窘めたる人なり。故に其同権の説を唱るの際に当て、或は隔靴の歎なきを得ず。譬へば自から喰はざれば物の真味は得て知る可らず、自から入牢したる者に非ざれば牢内の真の艱苦は語る可らざるが如し。今仮に国内の百姓町人をして智力あらしめ、其嘗て有権者のために窘められて骨髄に徹したる憤怒の趣を語らしめ、其時の細密なる事情を聞くことあらば、始て真の同権論の切なるものを得べしと雖ども、無智無勇の人民、或は嘗て怒る可き事に遭ふも其怒る可き所以を知らず、或は心に之を怒るも口に之を語ることを知らずして、傍より其事情を詳にす可き手掛り甚だ稀なり。加之今日に於ても、世の中には権力不平均のために憤怒怨懣の情を抱く者必ず多からんと雖ども、明に之を知る可らず。唯我輩の心を以て其内情を察するのみ。故に今の同権論は到底これを人の推量臆測より出たるものと云はざるを得ず。学者若し同権の本旨を探て其議論の確実なるものを得んと欲せば、之を他に求む可らず、必ず自から其身に復して、少年の時より今日に至るまで自身当局の経験を反顧して発明することある可し。如何なる身分の人にても、如何なる華族士族にても、細に其身の経験を吟味せば、生涯の中には必ず権力偏重の局に当て嘗て不平を抱きしことある可ければ、其不平憤懣の実情は之を他人に求めずして自から其身に問はざる可らず。近く余が身に覚へあることを以て一例を示さん。余は元と生れながら幕府の時代に無力なる譜代の小藩中の小臣なり。其藩中に在るとき、歴々の大臣士族に接すれば、常に蔑視せられて、子供心にも不平なきを得ざりしと雖ども、此不平の真の情実は小臣たる余輩の仲間に非ざれば之を知らず。彼の大臣士族は今日に至ても或は之を想像すること能はざる可し。或は又藩地を出でゝ旅行するとき、公卿幕吏御三家の家来等に出逢へば、宿駅に駕籠を奪はれ、川場に先を越され、或は旅籠屋に相宿を許されずして、夜中俄に放逐せられたることもあり。此時の事情、目今に至ては唯一笑に属すと雖ども、現に其事に当たる時の憤懣は今尚これを想像す可し。而して此憤懣は唯譜代大名の家来たる我輩の身に覚へあるのみにて、此憤懣を生ぜしめたる公卿幕吏御三家の家来は漠然として之を知らず。仮令ひ漠然たらざるも僅に他の憤懣を推量臆測するに過ぎざるのみ。然りと雖ども結局余も亦日本国中に在ては中人以上士族の列に居たる者なれば、自分の身分より以上の者に対してこそ不平を抱くことを知れども、以下の百姓町人に向ては必ず不平を抱かしめたることもある可し。唯自から之を知らざるのみ。世上に此類の事は甚だ多し。何れにも其局に当らざれば其事の真の情実は知る可らざるものなり。
是に由て考れば、今の同権論は其所論或は正確なるが如くなるも、主人自から論ずるの論に非ずして、人のために推量臆測したる客論なれば、曲情の緻密を尽したるものに非ず。故に権力不平均の害を述るに当て、自から粗鹵迀遠の弊なきを得ず。国内に之を論ずるに於ても尚且粗鹵にして洩らす所多し。況や之を拡て外国の交際に及ぼし、外人と権力を争はんとするの事に於てをや。未だ之を謀るに遑あらざるなり。他日若し此輩をして現に其局に当らしめ、博く西洋諸国の人に接して親しく権力を争ふの時節と為り、其軽侮を蒙ること我百姓町人が士族に窘めらるゝが如く、譜代小藩の家中が公卿幕吏御三家の家来に辱しめらるゝが如き場合に至らば、始て今の同権論の迀遠なるを知り、権力不平均の厭ふ可く悪む可く怒る可く悲む可きを悟ることならん。加之昔の公卿幕吏士族の輩は仮令ひ無礼妄慢なるも、等しく国内の人にして且智力乏しき者なれば、平民は之に遇するに敬して遠くるの術を用ひ、陽に之を尊崇して陰に其銭を奪ふ等の策なきに非ず。固より悪策なりと雖ども、聊か不平を慰るの方便たりしことあれども、今の外人の狡猾慓悍なるは公卿幕吏の比に非ず。其智以て人を欺く可し、其弁以て人を誣ゆ可し、争ふに勇あり、闘ふに力あり、智弁勇力を兼備したる一種法外の華士族と云ふも可なり。万々一も、これが制御の下に居て束縛を蒙ることあらば、其残刻の密なること恰も空気の流通をも許さゞるが如くして、我日本の人民は、これに窒塞するに至る可し。今より此有様を想像すれば、渾身忽ち悚然(しようぜん)として毛髪の聳(そばだ)つを覚るに非ずや。
爰に我日本の殷鑑として印度の一例を示さん。英人が東印度の地方を支配するに其処置の無情残刻なる実に云ふに忍びざるものあり。其一、二を挙れば、印度の政府に人物を採用するには英人も土人も同様の権利を有し、才学を吟味して用るの法なり。然るに此土人を吟味するには十八歳以下の者を限り、其吟味の箇条は固より英書を読て英の事情に通ずるに非ざれば叶はざることなるゆゑ、土人は十八歳の年齢に及ぶまでに、先づ自国の学問を終り兼て英学を勉強して、其英学の力を以て英人と相対し、英人の右に出るに非ざれば及第するを得ず。或は一年を過ぎて十九歳の時に成業する者あるも、年齢に限あれば才学を問はず人物を論ぜずして之を用に適せざる者と為し、一切官途に就て地方の事に参与するを許さず。英人は此無情なる苛法を以て尚足れりとせず、吟味を行ふの場所を必ず英の本国「ロンドン」に定め、故さらに土人をして万里の波濤を越へて「ロンドン」まで出張せしむるの法を設けたり。故に土人は十八歳の時既に吟味を受けて及第す可き学力を有するも、多分の金を費して遠路を往来せざれば官に就く可らざるの仕掛に制せられて、学力の深浅に拘はらず、家産に富まざれば官途に由なし。或は稀に奮発する者ありて旅費を抛ち「ロンドン」に行て吟味を受るも、不幸にして落第すれば徒に家産を破るのみ。其不便利なること譬へんに物なし。英の暴政、妙を得たりと云ふ可し。○又印度の政府にて裁判するに、参坐の者は土人を用ひず、必ず英人に限るを法とす。《「ジュ-リ」のことなり。西洋事情第三巻英国の条第九葉に出。》或る時、一の英人、印度の地方に於て鉄砲を以て土人を打殺したるに付き訴訟と為りしかば、被告人の申分に、何か一個の動物を見掛け、之を猿と認めて発砲したるが、猿には非ずして人なりしことならんとの答にて、参坐一列の面々も更に異議なく、被告人は無罪に決したりと云ふ。
近来「ロンドン」にて数名の学者、私に社を結て印度の有様を改革せんとて尽力する者あり。前条の愁訴は千八百七十四年の春、或る印度人より此社へ呈したる書中に記せしものなりとて、余が旧友、当時在「ロンドン」馬場辰猪君の報告なり。馬場氏は現に此会社にも出席して親しく其事情を聞見し、此類の事は枚挙に遑あらずと云ふ。
第二条 外国人の我国に通信するや玆に僅に二十年、五港を開くと雖ども輸出入の品も少なくして、外人の輻輳する所は横浜を第一とし、神戸之に亜ぎ、自余の三港は計るに足らず。条約面の約束に従ひ、各港に居留地を設けて、内外人民の住居に界を限り、外人旅行の地は港より各方に十里と定めて、此定限の外は特別の許可あらざれば往来を得せしめず、此他不動産の売買、金銀の貸借等に就ても、法を設けて内外の別を限ること多きが故に、今日に至るまで双方の交際は漸く繁盛に赴くと雖ども、内外人民の相触るゝこと甚だ少く、仮令ひ或は其交際に付き我人民に曲を蒙て不平を抱く者あるも、其者は大概皆開港場近傍の人民に止まりて、世間一般の風聞に伝るものは甚だ稀なり。且開港の初より政治上に係る交際の事務は政府一手の関する所にて、人民は嘗て其如何の状を知ることなし。生麦の一件に付き十万「ポンド」、下の関の償金三百万「ドルラル」、旧幕府の時代に亜国へ軍艦を注文し、仏国人に条約を結て横須賀の製造局を開き、維新以後も砲艦を買入れ、灯明台を建て、鉄道を造り、電信線を掛け、外債を募り、外人を雇ふ等、其交際甚だ煩はしくして、其間には或は全く我に曲を蒙らざるも無拠(よんどころなく)談判の機にて銭を損したることもあらん。結局彼の方に万々損害の患なきは明にして、我方に十分の利益と面目とを得たるや否は極て疑はしきことなれども、政府の独り関する所なれば人民は未だ之を知らず、啻に下賎の群民これを知らざるのみならず、学者士君子、又は政府の官員と雖ども、其事に与らざる者は之を知る可きの手掛りある可らず。故に我国の人民は外国交際に付き、内外の権力果して平均するや否を知らず、我に曲を蒙りたるや否を知らず、利害を知らず、得失を知らず、恬として他国の事を見るが如し。是即ち我国人の外国に対して権力を争はざる一の源因なり。蓋し之を知らざる者は之を憂るに由なければなり。
抑も外人の我国に来るは日尚浅し。且今日に至るまで我に著しき大害を加へて我面目を奪ふたることもあらざれば、人民の心に感ずるもの少なしと雖ども、苟も国を憂るの赤心あらん者は、聞見を博くして世界古今の事跡を察せざる可らず。今の亜米利加は元と誰の国なるや。其国の主人たる「インヂヤン」は、白人のために逐はれて、主客処を異にしたるに非ずや。故に今の亜米利加の文明は白人の文明なり、亜米利加の文明と云ふ可らず。此他東洋の国々及び大洋洲諸島の有様は如何ん、欧人の触るゝ処にてよく其本国の権義と利益とを全ふして真の独立を保つものありや。「ペルシャ」は如何ん、印度は如何ん、邏暹(しやむ)は如何ん、呂宋(るそん)呱哇(じやわ)は如何ん。「サンドウヰチ」島は千七百七十八年英の「カピタン・コック」の発見せし所にて、其開化は近傍の諸島に比して最も速なるものと称せり。然るに発見のとき人口三、四十万なりしもの、千八百二十三年に至て僅に十四万口を残したりと云ふ。五十年の間に人口の減少すること大凡そ毎年百分の八なり。人口の増減には種々の源因もある可ければ姑く之を擱き、其開化と称するものは何事なるや。唯此島の野民が人肉を喰ふの悪事を止め、よく白人の奴隷に適したるを指して云ふのみ。支那の如きは国土も洪大なれば、未だ其内地に入込むを得ずして、欧人の跡は唯海岸にのみありと雖ども、今後の成行を推察すれば、支那帝国も正に欧人の田園たるに過ぎず。欧人の触るゝ所は恰も土地の生力を絶ち、草も木も其成長を遂ること能はず。甚しきは其人種を殲(ほろぼ)すに至るものあり。是等の事跡を明にして、我日本も東洋の一国たるを知らば、仮令ひ今日に至るまで外国交際に付き甚しき害を蒙たることなきも、後日の禍は恐れざる可らず。
以上記す所のもの果して是ならば、我日本に於ける外国交際の性質は、理財上に論ずるも権義上に論ずるも至困至難の大事件にして、国命貴要の部分を犯したる痼疾と云ふ可し。而して此痼疾は我全国の人民一般の所患なれば、人民一般にて自から其療法を求めざる可らず。病の進むも自家の事なり、病の退くも自家の事なり。利害得失悉皆我に在ることにて、毫も他を頼む可らざるものなり。思想浅き人は輓近世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名け、我文明は外国交際の賜なれば、其交際愈盛なれば世の文明も共に進歩す可しとて、之を喜ぶ者なきに非ざれども、其文明と名るものは唯外形の体裁のみ。固より余輩の願ふ所に非ず。仮令ひ或は其文明をして頗る高尚のものならしむるも、全国人民の間に一片の独立心あらざれば文明も我国の用を為さず、之を日本の文明と名く可らざるなり。地理学に於ては土地山川を以て国と名れども、余輩の論ずる所にては土地と人民とを併せて之を国と名け、其国の独立と云ひ其国の文明と云ふは、其人民相集て自から其国を保護し自から其権義と面目とを全ふするものを指して名を下だすことなり。若し然らずして国の独立文明は唯土地に附して人に関せざるものとせば、今の亜米利加の文明を見て「インヂヤン」のために祝す可きの理なり。或は又我日本にても、政治学術等の諸件を挙て之を文明なる欧人に附与し、我日本人は奴隷と為て使役せらるゝも、日本の土地に差響あることなくして、然も今の日本の有様よりも数百等を擢(ぬきん)でたる独立の文明国と為らん。不都合至極なるものと云ふ可し。
又或る学者の説に云く、各国交際は天地の公道に基きたるものなり、必ずしも相害するの趣意に非ざれば、自由に貿易し、自由に往来し、唯天然に任す可きのみ。若し或は我権義を損し我利益を失ふことあらば、其然る所以の源因は我に求めざる可らず、自から脩めずして人に多を求るは理の宜きものに非ず、今日既に諸外国と和交する上は飽まで誠意を尽して其交誼を全ふす可きなり、毫も疑念を抱く可らずと。此説真に然り。一人と一人との私交に於ては真に斯の如くなる可しと雖ども、各国の交際と人々の私交とは全く趣を異にするものなり。昔し封建の時代に行はれたる諸藩の交際なるものを知らずや、各藩の人民必ずしも不正者に非ざれども、藩と藩との附合に於ては各自から私するを免かれず。其私や藩外に対しては私なれども、藩内に在ては公と云はざるを得ず。所謂各藩の情実なるものなり。此私の情実は天地の公道を唱て除く可きに非ず、藩のあらん限りは藩と共に存して無窮に伝ふ可きものなり。数年前廃藩の一挙を以て始めて之を払ひ、今日に至ては諸藩の人民も漸く旧の藩情を脱するものゝ如しと雖ども、藩の存する間は決して咎む可らざりしことなり。僅に日本国内の諸藩に於ても尚且斯の如し。然るに東西懸隔、殊域の外国人に対して、其交際に天地の公道を頼にするとは果して何の心ぞや。迀闊も亦甚し。俗に所謂結構人の議論と云ふ可きのみ。天地の公道は固より慕ふ可きものなり、西洋各国よく此公道に従て我に接せん乎、我亦甘んじて之に応ず可し、決して之を辞するに非ず。若し夫れ果して然らば、先づ世界中の政府を廃すること我旧藩を廃したるが如くせざる可らず。学者こゝに見込あるや。若し其見込なくば、世界中に国を立てゝ政府のあらん限りは、其国民の私情を除くの術ある可らず。其私情を除く可きの術あらざれば、我も亦これに接するに私情を以てせざる可らず。即是れ偏頗心と報国心と異名同実なる所以なり。
右の如く外国交際は我国の一大難病にして、之を療するに当て、自国の人民に非ざれば頼む可きものなし。其任大にして其責重しと云ふ可し。即ち此章の初に云へる、我国は無事の日に非ず、然も其事は昔年に比して更に困難なりとは、正に外国交際の此困難病のことなり。一片の本心に於て私有をも生命をも抛つ可き場所とは、正に外国交際の此場所なり。然ば即ち今の日本人にして安ぞ気楽に日を消す可けんや、安ぞ無為に休息す可けんや。開闢以来君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別と云ひしもの、今日に至ては本国の義と為り、本国の由緒と為り、内外の名分と為り、内外の差別と為りて、幾倍の重大を増したるに非ずや。在昔封建の時代に、薩摩の島津氏と日向の伊東氏と宿怨ありて、伊東氏の臣民は深く薩摩を仇とし、毎年の元旦に群臣登城すれば先づ相互に戒めて、薩の仇怨を忘るゝ勿れと云て、然る後に正を賀するを以て例と為すとの話あり。又欧羅巴にて仏国帝第一世「ナポレオン」の時、孛魯士は仏のために破られて未曾有の恥辱を蒙り、爾後孛人は深く遺恨を抱て復讐の念常に絶ることなく、之がために国民の勉励するは勿論、就中国内の寺院其他衆庶の群集する場所には、前年孛人が大敗を取て辱を蒙り、其忿る可く悲む可き有様を図画に写して額に掲る等、様々の術を尽して人心を激せしめ、其向ふ所を一にして以て復讐を図り、遂に千八百七十年に至て旧怨を報じたりと云ふ。是等の事は何れも皆怨恨不良の心より生ずるものにて、直に其事柄を美として称誉す可きには非ざれども、国を守るの難くして人民の苦心する有様は以て知る可し。我日本も外国の交際に於ては未だ伊東氏及び孛国の苦を嘗たることなしと雖ども、印度其他の先例を見て之を戒ること伊東氏の如く又孛国の如くせざる可らず。或は元旦一度に非ずして、国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可らずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。是に由て考れば、日本人は祖先伝来の重荷を卸して、代りの荷物を得ざるに非ず、其荷物は現に頭上に懸て、然も旧の物より幾百倍の重さを増して、正に之を担ふ可きの責に当り、昔日に比すれば亦幾百倍の力を尽さゞる可らず。昔の担当は唯窮屈に堪るのみのことなりしが、今の担当は窮屈に兼て又活潑なるを要す。人民の品行を高くするとは、即ち此窮屈なる脩身の徳義と活潑々地の働とに在るものなり。然るに今この荷物を引受け尚且身に安楽を覚るものは、唯其物の性質と軽重とを知らずして之に心を留めざりしのみ。或は之に心を留るも、之を担ふに法を誤りたるものなり。譬へば世に外国人を悪む者なきに非ず、されども其これを悪むや趣意を誤り、悪む可きを悪まずして悪む可らざるを悪み、猜疑嫉妬の念を抱て眼前の細事を忿り、小は暗殺大は攘夷、以て自国の大害を醸す者あり。此輩は一種の癲狂にて、恰も大病国中の病人と名く可きのみ。
又一種の憂国者は攘夷家に比すれば少しく所見を高くして、妄に外人を払はんとするには非ざれども、外国交際の困難を見て其源因を唯兵力の不足に帰し、我に兵備をさへ盛にすれば対立の勢を得べしとて、或は海陸軍の資本を増さんと云ひ、或は巨艦大砲を買はんと云ひ、或は台場を築かんと云ひ、或は武庫を建てんと云ふ者あり。其意の在る所を察するに、英に千艘の軍艦あり、我にも千艘の軍艦あれば、必ず之に対敵す可きものと思ふが如し。必竟事物の割合を知らざる者の考なり。英に千艘の軍艦あるは、唯軍艦のみ千艘を所持するに非ず、千の軍艦あれば万の商売船もあらん、万の商売船あれば十万人の航海者もあらん、航海者を作るには学問もなかる可らず、学者も多く商人も多く、法律も整ひ商売も繁昌し、人間交際の事物具足して、恰も千艘の軍艦に相応す可き有様に至て、始て千艘の軍艦ある可きなり。武庫も台場も皆斯の如く、他の諸件に比して割合なかる可らず。割合に適せざれば利器も用を為さず、譬へば裏表に戸締りもなくして家内狼藉なる其家の門前に、二十「インチ」の大砲一坐を備るも盗賊の防禦に適す可らざるが如し。武力偏重なる国に於ては、動もすれば前後の勘弁もなくして、妄に兵備に銭を費し、借金のために自から国を倒すものなきに非ず。蓋し巨艦大砲は以て巨艦大砲の敵に敵す可くして、借金の敵には敵す可らざるなり。今日本にても武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。或は我製造の術、未だ開けざるがためなりと云ふと雖ども、其製造の術の未だ開けざるは、即ち国の文明の未だ具足せざる証拠なれば、其具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざる可し。故に今の外国交際は兵力を足して以て維持す可きものに非ざるなり。
右の如く、暗殺攘夷の論は固より歯牙に留るに足らず、尚一歩を進めて兵備の工夫も実用に適せず、又上に所記の国体論、耶蘇論、漢儒論も亦人心を維持するに足らず。然ば則ち之を如何んして可ならん。云く、目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。其目的とは何ぞや。内外の区別を明にして我本国の独立を保つことなり。而して此独立を保つの法は文明の外に求む可らず。今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり。都て人間の事物に就て、其目的と、之に達するの術とを計れば、段々限あることなし。譬へば綿を紡ぐは糸を作るの術なり、糸を作るは木綿を織るの術なり、木綿は衣服を製するの術と為り、衣服は風寒を防ぐの術と為り、此幾段の諸術、相互に術と為り又相互に目的と為りて、其結局は人体の温度を保護して身を健康ならしむるの目的に達するが如し。我輩も此一章の議論に於ては、結局自国の独立を目的に立てたるものなり。本書開巻の初に、事物の利害得失は其ためにする所を定めざれば談ず可らずと云ひしも、蓋し是等の議論に施して参考す可し。人或は云はん、人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず、尚別に永遠高尚の極に眼を着す可しと。此言真に然り。人間智徳の極度に至ては、其期する所、固より高遠にして、一国独立等の細事に介々たる可らず。僅に他国の軽侮を免かるゝを見て、直に之を文明と名く可らざるは論を俟たずと雖ども、今の世界の有様に於て、国と国との交際には未だ此高遠の事を談ず可らず、若し之を談ずる者あれば之を迀闊空遠と云はざるを得ず。殊に目下日本の景況を察すれば、益事の急なるを覚へ又他を顧るに遑あらず。先づ日本の国と日本の人民とを存してこそ、然る後に爰に文明の事をも語る可けれ。国なく人なければ之を我日本の文明と云ふ可らず。是即ち余輩が理論の域を狭くして、単に自国の独立を以て文明の目的と為すの議論を唱る由縁なり。故に此議論は今の世界の有様を察して、今の日本のためを謀り、今の日本の急に応じて説き出したるものなれば、固より永遠微妙の奥蘊に非ず。学者遽に之を見て文明の本旨を誤解し、之を軽蔑視して其字義の面目を辱しむる勿れ。且又余輩に於て独立を以て目的に定むと雖ども、世人をして悉皆政談家と為し、朝夕之に従事せしめんことを願ふに非ず。人各勤る所を異にせり、亦これを異にせざる可らず。或は高尚なる学に志して談天彫竜に耽り、随て窮め随て進み、之を楽て食を忘るゝ者もあらん。或は活潑なる営業に従事して日夜寸暇を得ず、東走西馳、家事を忘るゝ者もあらん。之を咎む可らざるのみならず、文明中の一大事業として之を称誉せざる可らず。唯願ふ所は其食を忘れ家事を忘るゝの際にも、国の独立如何に係る所の事に逢へば、忽ち之に感動して恰も蜂尾の刺蠆(したい 小さなトゲ)に触るゝが如く、心身共に穎敏ならんことを欲するのみ。
或人云く、前説の如く唯自国の独立をのみ欲することならば、外国の交際を止るの便利に若くものなし。我国に外人の未だ来らざりし時代に在ては、国の有様は不文なりと雖ども、之を純然たる独立国と云はざるを得ず。されば今独立を以て目的と為さば古の鎖国に返るを上策とす。今日に至ればこそ独立の憂もある可けれ、嘉永以前には人の知らざりしことなり。国を開て国の独立を憂るは、自から病を求めて自から之を憂るに異ならず。若し病の憂ふ可きを知らば、無病の時に返るに若かずと。余答て云く然らず、独立とは独立す可き勢力を指して云ふことなり。偶然に独立したる形を見て云ふに非ず、我日本に外人の未だ来らずして国の独立したるは、真に其勢力を有して独立したるに非ず。唯外人に触れざるが故に偶然に独立の体を為したるのみ。之を譬へば、未だ風雨に逢はざる家屋の如し、其果して風雨に堪ゆ可きや否は、嘗て風雨に逢はざれば証す可らず。風雨の来ると否とは外の事なり、家屋の堅牢なると否とは内の事なり。風雨の来らざるを見て、家屋の堅牢なるを証す可らず。風なく雨なくして家屋の存するは勿論、如何なる大風大雨に逢ふも屹立動かざるものこそ、真に堅牢なる家屋と云ふ可けれ。余輩の所謂自国の独立とは、我国民をして外国の交際に当らしめ、千磨百錬、遂に其勢力を落さずして、恰も此大風雨に堪ゆ可き家屋の如くならしめんとするの趣意なり。何ぞ自から退縮して古に復し、偶然の独立を僥倖して得意の色を為さんや。加之今の外国交際は、適宜にこれを処すれば我民心を振起するがために恰も的当したる刺衝と為る可きが故に、却て之に藉て大に我文明を利す可し。結局我輩の旨とする所は、進て独立の実を取るに在り。退て其虚名を守るが如きは敢て好まざる所なり。
故に又前説に返て云はん。国の独立は目的なり、今の我文明は此目的に達するの術なり。此今の字は特に意ありて用ひたるものなれば、学者等閑に看過する勿れ。本書第三章には、文明は至大至洪にして人間万事皆これを目的とせざるなしとて、人類の当に達す可き文明の本旨を目的と為して論を立たることなれども、爰には余輩の地位を現今の日本に限りて、其議論も亦自から区域を狭くし、唯自国の独立を得せしむるものを目して、仮に文明の名を下だしたるのみ。故に今の我文明と云ひしは文明の本旨には非ず、先づ事の初歩として自国の独立を謀り、其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらんとするの趣意なり。蓋し斯の如く議論を限るときは、国の独立は即ち文明なり。文明に非ざれば独立は保つ可らず。独立と云ふも文明と云ふも、共に区別なきが如くなれども、独立の文字を用れば、事の想像に一層の限界を明にして、了解を易くするの便あり。唯文明とのみ云ふときは、或は自国の独立と文明とに関係せずして、文明なるものあり。甚しきは自国の独立と文明とを害して、尚文明に似たるものあり。其一例を挙て云はんに、今我日本の諸港に西洋各国の船艦を泊し、陸上には洪大なる商館を建て、其有様は殆ど西洋諸国の港に異ならず、盛なりと云ふ可し。然るに事理に暗き愚人は、此盛なる有様を目撃して、今や五洲の人民、我国法の寛大なるを慕ひ、争て皇国に輻湊せざるはなし、我貿易の日に盛にして我文明の月に進むは、諸港の有様を一見して知る可しなどゝて、得色を為す者なきに非ず。大なる誤解ならずや。外国人は皇国に輻湊したるに非ず、其皇国の茶と絹糸とに輻湊したるなり。諸港の盛なるは文明の物に相違なしと雖ども、港の船は外国の船なり、陸の商館は外国人の住居なり、我独立文明には少しも関係するものに非ず。或は又無産の山師が外国人の元金を用ひて国中に取引を広くし、其所得をば悉皆金主の利益に帰して商売繁昌の景気を示すものあり。或は外国に金を借用して其金を以て外国より物を買入れ、其物を国内に排列して文明の観を為すものあり。石室鉄橋船艦銃砲の類、是れなり。我日本は文明の生国に非ずして、其寄留地と云ふ可きのみ。結局この商売の景気、この文明の観は、国の貧を招て永き年月の後には必ず自国の独立を害す可きものなり。蓋し余輩が爰に文明と云はずして独立の文字を用ひたるも、是等の誤解を防がんとするの趣意のみ。
斯の如く、結局の目的を自国の独立に定め、恰も今の人間万事を鎔解して一に帰せしめ、悉皆これを彼の目的に達するの術とするときは、其術の煩多なること際限ある可らず。制度なり学問なり、商売なり工業なり、一として此術に非ざるはなし。啻に制度学問等の類のみならず、或は鄙俗虚浮の事、盤楽遊嬉の物と雖ども、よく其内情を探て其帰する所の功能を察すれば、亦以て文明中の箇条に入る可きもの多し。故に人間生々の事物に就き、其利害得失を談ずるには、一々事の局処を見て容易に之を決す可らず。譬へば古より学者の議論甚だ多し。或は節倹質朴を主とする者あり、或は秀美精雅を好む者あり、専制独断を便利なりとする者あれば、磊落自由を主張する者あり、意見百出、西と云へば東と唱へ、左より論ずれば右より駁し、殆ど其極る所を知らず。甚しきは嘗て定りたる所見もなく、唯一身の地位に従て議論を作り、一身と議論と其出処栄枯を共にする者あり。尚これよりも甚しきは政府に依頼して身を掩ふの地位と為し、区々の政権に藉て唯己が宿説を伸さんとし、其説の利害得失に至ては忘れたるが如き者あり。鄙劣も亦甚しと云ふ可し。是等の有様を形容すれば、的なきに射るが如く、裁判所なきに訴るが如し。孰れを是とし孰れを非とす可きや。唯是れ小児の戯のみ。試に見よ、天下の事物、其局処に就て論ずれば、一として是ならざるものなし、一として非ならざるものなし。節倹質朴は野蛮粗暴に似たれども、一人の身に就ては之を勧めざる可らず。秀美精雅は奢侈荒唐の如くなれども、全国人民の生計を謀れば日に秀美に進まんことを願はざる可らず。国体論の頑固なるは民権のために大に不便なるが如しと雖ども、今の政治の中心を定めて行政の順序を維持するがためには亦大に便利なり。民権興起の粗暴論は立君治国のために大に害あるが如くなれども、人民卑屈の旧悪習を一掃するの術に用れば亦甚だ便利なり。忠臣義士の論も耶蘇聖教の論も、儒者の論も仏者の論も、愚なりと云へば愚なり、智なりと云へば智なり、唯其これを施す所に従て、愚とも為る可く智とも為る可きのみ。加之彼の暗殺攘夷の輩と雖ども、唯其事業をこそ咎む可けれ、よく其人の心事を解剖して之を検査せば、必ず一片の報国心あること明に見る可し。されば本章の初に云へる、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別等の如きも、人間品行の中に於て貴ぶ可き箇条にて、即ち文明の方便なれば、概して之を擯斥するの理なし。唯此方便を用ひて世上に益を為すと否とは、其用法如何に在るのみ。凡そ人として国を売るの悪心を抱かざるより以上の者なれば、必ず国益を為すことを好まざる者なし。若し然らずして国害を為すことあらば、其罪は唯向ふ所の目的を知らずして偶然に犯したる罪なり。都て世の事物は諸の術を集めて功を成すものなれば、其術は勉めて多きを要し、又多からざるを得ず。唯千百の術を用るの際に其用法を誤ることなく、此術は果して此目的に関係あるもの歟、若し関係あらば何れの路よりして之に達す可きもの歟、或は直に達す可き歟、或は間に又別の術を置き此術を経て後に達するもの歟、或は二の術あらば孰か重くして先なる可き歟、孰か軽くして後なる可き歟と、様々に工夫を運らして、結局其最後最上の大目的を忘れざること緊要なるのみ。猶彼の象棋を差す者が、千種万様の手はあれども、結局其目的は我王将を守て敵の王を詰るの一事に在るが如し。若し然らずして王より飛車を重んずる者あれば、之を下手象棋と云はざるを得ず。故に今この一章の眼目たる自国独立の四字を掲げて、内外の別を明にし、以て衆庶の由る可き道を示すことあらば、物の軽重も始て爰に量る可く、事の緩急も始て爰に定む可く、軽重緩急爰に明なれば、昨日怒りし事も今日は喜ぶ可きものと為り、去年楽みし事も今年は憂ふ可きものと為り、得意は転じて心配と為り、楽国は変じて苦界と為り、怨敵も朋友と為り、他人も兄弟と為り、喜怒を共にし、憂楽を同ふし、以て同一の目的に向ふ可き乎。余輩の所見にて今の日本の人心を維持するには唯この一法あるのみ。