『論語』は、春秋時代に生きた孔子とその弟子のやり取りを中心とした言行録です。
これは儒教の経書四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)のうちのひとつで、儒家にとっては六経の前に読むべきものとして重要な経典とされました。
内容としては20篇からなる章立てで構成されておりますが、実際に中身を見てみると、大半は断片的とも言える短い言葉やエピソードの集まりです。
また、それぞれの篇の順序も特別の意味を持ってはいないものも多く、篇名も単に篇の最初の字をとっただけ、というものもあるような構成です。
しかし、読む側の読者にとっては、このような構成であるからこそ、逆に複雑な構成や行間を必要以上に気にすることもなく、好きな場所、好きな内容から読むこともできますし、短い言葉ゆえに分かり易く共感できる部分もあるのではないかと思われます。
日本でも、論語の言葉はいろいろな故事成語として使われることも多く、解説書や纏めの書物、派生した注釈・サマリー本なども多々発行されていますが、それはこのような構成であるからこその特色だからなのだと判断されます。
世界四大聖人は”釈迦””ソクラテス””キリスト””孔子”と言われていますが、論語の教えの元となった孔子もここに含まれています。
かといって孔子が聖人君子であったかというと、どちらかといえば酒好き、子孫あり、弟子のためとはいえ暗殺も行った、といった非常に人間臭い顔を持っていたことも確かなことです。
だからこそ、孔子の人物自体が深く愛され、道徳説樹立の苦心や個性のある弟子達との議論の様子などが、読む人の心に響いてくるのかもしれません。
孔子は常に、人間としての「徳」を身につけなさい、そのための努力をしなさいと説いています。
要は、人にはそれなりの器量と人格が必要だ、ということです。
・仁 思いやりの心。人を育み、人に育まれること。
愛する対象を「自分→家族→国」へと広げること。
・恕 自分のして欲しくないことを他人にしないこと。自分基準の思いやり。仁の補助ステップ。
・義 人間としての正しい筋道。皆のためにという意識。
・礼 他の人に敬意を示す作法
・勇 決断力。リスクをきちんと計算し、引くべきときには引いて結果を出すこと。
・智 洞察力、物ごとを判断する働き。「知っていること」と「知らないこと」の区別ができること(限界認識)
・謙 謙虚、つつましくひかえめ
・信 嘘をつかないことや約束を守ること。人柄や品性、真摯さで人を心服させること
・忠 真心。
・寛 寛容、心が広く人のあやまちを受け入れる
・威 信頼関係の中に緊張感を持たせること。
これらを、自分を律する倫理性(徳)の元に、つの命※)を持って当たらねばならないということが、論語を理解する上での大きなポイントでもあるのです。
※)三つの「命」
・天命:自分だけにできること。道。
・使命:自分で切り拓き、勝ち取っていく未来。
・運命:受け入れざるを得ない現実。
以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
各サイトでもいろいろな解説や説明がなされていますので、参考にしながらこの佳書のすばらしさをご堪能ください。
【巻第一】
【学而第一】
孔子曰く「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいものだ。
友達が遠いところからたずねて来る、いかにも楽しいことだ。
人が分かってくれなくても気にかけない、それこそ君子だ」
・「学びて時にこれに習う、亦た説ばしからずや」という有名な冒頭の部分
有子曰く「人柄が孝行悌順(親や年長者によく仕えること)であって、目上にさからうことを好む人はほとんどいない。
目上に逆らうことを好まないのに、乱れをおこすことを好む人はめったにいない。
君子は根本のことに努力する。根本があって始めて道もはっきりする。孝悌こそ、仁徳の根本であろう」
孔子曰く「ことば上手で顔よしの人は、仁がほとんどないものだ」
・「巧言令色、鮮なし仁」として有名
曾子曰く「私は毎日何度もわが身を反省する。人のことを考えてあげてまごころをこめていなかったのではないか、 友人と交際して誠実でなかったのではないか、学習して身につけていないことを人に教えたのではないか、と」
孔子曰く「諸侯が国を治めるには、事業を慎重にして信義を守り、費用を節約して人をいつくしみ、民を使役するにはよい時期にすることだ」
孔子曰く「若者よ。家庭では孝行、外では悌順、謹んで信義を守り、広く人を愛して仁の人に親しみ、これを実行してなお余裕があれば、書物で学ぶことだ」
子夏曰く「優れた人を優れた人として美人を好むようにし、父母に仕えてはその力を尽くし、 君に仕えてはよくその身をささげ、友人と交わるときには話した言葉に誠実であれば、まだ学問はしていないといっても、わたしは必ずこれを学問したと評価するだろう」
孔子曰く「君子は重々しくしなければ威厳がない。学問すれば頑固でなくなる。忠と信とを第一にして、自分より劣った者を友人にしてはならない。 過ちがあれば、それを改めるのにためらってはならない」
曾子曰く「親を手厚く葬り祖先を祭っておれば、民の徳もそれに感化されるであろう」
子禽、子貢に問うて「先生(孔子)はどこの国に行っても政治のことを尋ねられる。それをお求めになったのでしょうか、 それとも相手からもちかけられたものでしょうか」と言った。子貢は答えて「先生は穏やかで素直で恭しくて慎ましくてへりくだっておられるから、相談を受けられるのだ。 先生の求め方というのは、他の人のものとは違うようだ」と言った。
孔子曰く「父のあるうちはその志を観察し、父の死後はその行為を観察する。3年の間、父のやり方を改めないのは、孝行と言える」
有子曰く「礼のはたらきは調和をよしとする。先王の道もこれをよしとした。小事も大事も調和に依りながらうまくいかないこともある。 調和を知って調和していても、礼で節度をつけなければ、やはりうまくいかないものだ」
有子曰く「約束を守ることは、正義に近ければ、言葉どおり実行できる。うやうやしさは、礼に近ければ、辱めから遠ざかる。たよるには、 その親しむべき人をとり違えなければ、本当に頼れる」
孔子曰く「君子はたらふく食べることを求めず、安楽な家にすむことを求めることはしない。仕事に努めてことばを慎重にし、 道義を身につけた人について自らの行いを正していくのだ。学を好むと言える」
子貢曰く「貧乏であってもへつらわず、金持ちであってもいばらないというのはいかがでしょうか」
孔子曰く「よろしい。だが、貧乏でも道義を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むということには及ばない」
子貢曰く「詩にいう『切るが如く、磋(す)るが如く、琢(う)つが如く、磨(みが)くが如く』とはこのことですね」
孔子曰く「賜よ、それでこそ一緒に詩の話ができる。前のことを話しただけで後のことまで分かるのだから」
・「切磋琢磨」という言葉を有名なものにした句
孔子曰く「人が自分のことを知ってくれないことを気にかけず、自分が人を知らないことを気にかけることだ」
【為政第二】
孔子曰く「政治を行うのに道徳をもってすれば、ちょうど北極星は自分の場所にいて、多くの星がこれをとりまいているようになるものだ」
孔子曰く「詩300編を、一言でいえば、心の思いに邪(よこしま)なしである」
孔子曰く「民を導くのに政治をもってし、刑罰で統制するのなら、民は法をすりぬけてはずかしいとも思わない。道徳で導き、礼で統制するなら、 民は道徳的な羞恥心を持って、そのうえ正しくなる」
孔子曰く「わたしは15歳で学問に志し、30歳で独立した立場を持ち、40歳になって迷わず、50歳になって天命を知り、60歳になって人の言葉を素直に聞くことができ、 70歳になると思うままに振舞っても道を外すことがないようになった」
・志学、而立、不惑、知命、耳順、従心の言葉の元になった句
孟懿子が孝について尋ねた。孔子曰く「そむかないことです」
樊遅は孔子の御者であったので、孔子は樊遅に告げて曰く「孟孫が孝を尋ねられたので、私はそむかないことですとお答えした」
樊遅曰く「どういう意味ですか」
孔子曰く「親が生きている時は礼によって仕え、亡くなったら礼によって葬り、礼によって祭る。万事、礼にそむかないことということだ」
孟武伯が孝について尋ねた。孔子曰く「父母にはただ自分の病気のことだけを心配させるようにし、そのほかのことでは心配をかけないようにすることです」
子游が孝について尋ねた。孔子曰く「近頃の孝というのはよく養うことを言っているが、犬や馬も養っている。 尊敬するのでなければ、どこにこれと区別があろう」
子夏が孝について尋ねた。孔子曰く「顔の表情が難しい(愛情が大切だ)。仕事があれば若い者がこれを行い、酒や食事があればこれを年上の人に勧める。 こんなことだけで孝とは言えないね」
孔子曰く「回(顔回)はわたしと一日中話をしても、全く従順で愚か者のようだ。だが、引き下がってからそのくつろいだ様を見ると、 やはり道を行うのに十分だ。回は愚かではない」
孔子曰く「その振舞いを見て、その経歴を見て、その人の落ち着きどころを調べれば、その人柄は決して隠されない。決して隠されない」
孔子曰く「古い事柄から新しいことを学び取るならば、人の師となれる」
・「温故知新」の有名な句
孔子曰く「君子は制限される器のようなものではない」
子貢が君子について尋ねた。孔子曰く「まず言おうとすることを実行してから、後でこれについて言うことだ」
孔子曰く「君子はひろく親しんで人におもねることはしないが、小人はおもねりあってひろく親しまない」
孔子曰く「人から学んでも考えなければ物事に暗くなり、考えても学ばなければ独断になり危険である」
孔子曰く「聖人と異なる道を研究することは、害があるだけだ」
孔子曰く「由よ、お前に知るということを教えようか。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。 それが知るということだ」
子張が俸禄を得ることを学ぼうとした。孔子曰く「たくさん聞いて疑わしいことは止め、自信のもてることを慎重に発言すれば、 過ちを少なくできる。たくさん見てあやふやなことは止め、確実なことを実行すれば、後悔は少なくなる。言葉に過ちが少なく、行動に後悔が少なければ、 禄は自然に得られるものだ」
哀公が「どうしたら民は服従するだろうか」と尋ねた。孔子曰く「正しい人を登用して邪悪な人の上の位につけたなら、 民は服従します。邪悪な人を正しい人の上の位につけたなら、民は服従いたしません」
季康子が「民が敬虔忠実になって仕事に励むようにするには、どうしたらよいでしょう」と尋ねた。
孔子曰く「荘重な態度でのぞめば、民は敬虔になります。親に孝行、下々に慈愛深くしていけば、民は忠実になります。善人を引き立てて才能のない者を教えていけば、 民は仕事に励むようになります」
ある人が孔子に「先生はどうして政治をなさらないのですか」と尋ねた。
孔子曰く「書(書経)に『孝行よ、孝行よ。兄弟ともむつみあい、それを政治に及ぼす』とあります。それでもやはり政治をしているのです。 何もわざわざ政治をすることもないでしょう」
孔子曰く「人として信義がなければ、うまくやっていけるはずがない。牛車に轅の横木がなく、馬車に轅のくびき止めがないのでは、どうやって動かすことができよう」
子張が「十代先のことが分かりましょうか」
孔子曰く「商は夏の制度を受け継いで、廃止したり加えたりしたことが分かる。周も商の制度を受け継いで、廃止したり加えたりしたことが分かる。 もし周のあとを継ぐものがあれば、たとえ百代さきでも分かるといえる」
孔子曰く「わが家の霊でもないのに祭るのは、へつらいである。反対に、行うべきことを前にしながら行わないのは、臆病である」
【巻第二】
【八佾第三】
孔子は季氏のことをこう言われた「八列の舞をその廟で舞わせている。その非礼を辛抱できるのなら、どんなことでも辛抱できよう」
三家(三桓)では雍の歌で供物をささげていた。
孔子曰く「助くるものは諸侯たち、天子はうるわしく、とある。どうして三家の御殿で用いることができようか」
孔子曰く「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽があってもどうしようぞ」
林放が礼の根本について尋ねた。
孔子曰く「重要だね、その質問は。礼は贅沢であるよりはむしろ質素にし、喪は万事を整えることよりも悼み悲しむことだ」
孔子曰く「夷狄で君主があり、中国で君主がなくても、やはり中国に及ばない」
季氏が泰山で旅の祭りをしようとした。
孔子は有に「お前がやめさせることができないのか」と言った。
有「できません」
孔子「ああ、泰山(の神)が林放にも及ばないと思っているのか」
孔子曰く「君子は何事にも争わない。あるとするなら射だろう。会釈し譲り合って登り降りし、競技が終わると勝者が敗者に酒を飲ませる。 その争いは君主的だ」
子夏が「『笑った可愛い口もとやえくぼ、目もと美し、白さで美しく飾り立て』というのは、どういうことでしょう」と問うた。
孔子曰く「絵で白い胡粉で後仕上げをするようなものだ」
子夏曰く「礼で後仕上げをするということでしょうか」
孔子曰く「わたしを啓発してくれるのは商(子夏)だね。それでこそ一緒に詩を語ることができる」
孔子曰く「夏の礼については話すことができるが、その子孫の杞では記録が足りない。商の礼についても話すことができるが、その子孫の宋でも記録が足りない。 文献も賢者も十分でないからである。もし十分ならわたしもそれを根拠にできるのだが」
孔子曰く「の祭りで、灌の儀式が済んでから後のことは、わたしは見たいとは思わない」
・の祭りとは、帝を中心として先祖をあわせ祭る大祭のこと
或る人がの祭りについて問うた。
孔子曰く「わかりません。その意義がわかっているほどの人なら、天下のことについても、ここで見るようなものでしょう」
自分の掌を指差して言われた。
祭では先祖がそこに居られるように行い、神を祭る時は神々がそこに居られるように行う。
孔子曰く「わたしはお祭にたずさわらなかったら、お祭自体がなかったように思う」
王孫賈が「『部屋の神の機嫌をとるより、かまどの神の機嫌をとれ』とは、どういうことですか」
孔子曰く「それはまちがっています。天に対して罪を犯したなら、どこにも祈りようはないのです」
孔子曰く「周は夏と商の二代を参考にして、いかにもはなやかで立派だ。わたしは周に従おう」
孔子は大廟に入って、儀礼をひとつひとつ尋ねた。
或る人が「鄒の役人の子(孔子)が礼を知っていると誰がいったんだろう。ひとつひとつ尋ねている」と言った。
孔子曰く「そのように慎重にすることが礼なのだ」
孔子曰く「射は的をあてることを第一とはしない。能力には各人違いがあるからで、これが古代のやり方である」
子貢が告朔の礼の生贄の羊をやめようとした。
孔子曰く「賜よ、お前はその羊を惜しがっているが、わたしはその礼がついえることが惜しい」
・告朔の礼とは、月の初め(朔)を宗廟に報告する礼のこと。当時、魯では報告は行われず、羊だけが備えられていた。
孔子曰く「主君に仕えて礼を尽くすと、人々はそれをへつらいであるという」
定公が「君が臣を使い、臣が君に仕えるには、どうすればよいか」と尋ねた。
孔子曰く「君が臣を使うには礼をもってし、臣が君に仕えるには忠をもってするのです」
孔子曰く「関雎の詩は楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても心身をいためることがない」
哀公が社のことを宰我に尋ねた。
宰我曰く「夏の君は松を使い、商の人は柏を使い、周の人は栗を使っています。これは民を戦慄させるという意味です」
孔子これを聞きて曰く「終わったことは言うまい。したことは諌めまい。過去は咎めまい」
孔子曰く「管仲の器は小さいね」
或る人曰く「管仲は倹約だったのですか」
孔子曰く「管氏には3つの邸宅があり、臣には事務を専任させた。どうして倹約と言えよう」
或る人曰く「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか」
孔子曰く「君主は塀を立てて門を塞ぐが、管氏もやはりこれをした。君主が友好するときには杯をもどす台を設けるが、 管氏もこれを設けていた。管氏が礼をわきまえているというなら、礼をわきまえない者など誰もいない」
孔子が音楽のことを魯の大師に言った「音楽は分かりやすいものです。起こし始めは盛んです。それを放つとよく調和し、はっきりし、 ずっと続いていって、そうして一節が終わります」
儀の国境の役人が孔子にお会いしたいと願った。
孔子曰く「君子が合いに来た時、わたしは会わなかったことはありません」
供の者が会わせてやった。役人は退出してから言った「諸君、さまよっていることを心配することはない。天下に道が行われなくなって久しいが、 天はあの先生をこの世の指導者とされようとしている」
孔子が韶の音楽を批評した「美しさは十分であり、また善さも十分だ」
武の音楽を批評した「美しさは十分だが、善さは十分ではない」
孔子曰く「人の上に立ちながら寛容でなく、礼を行いながらつつしみがなく、喪に臨みながら悲しまないというのでは、 どこを見所にしたものかわからない」
【里仁第四】
孔子曰く「仁にあるのが立派なことだ。あれこれ選びながら仁をはずれるのでは、どうして智者といえようか」
孔子曰く「仁でない人はいつまでも苦しい生活に耐えられないし、安楽な生活も長く続けられない。仁の人は仁に落ち着いているし、智の人は仁を善いこととして活用する」
孔子曰く「ただ仁の人だけが本当に人を愛すことができ、人を憎むこともできる」
孔子曰く「本当に仁を目指しているのなら、悪いことなどなくなるものだ」
孔子曰く「富と貴い身分はだれでもほしがるものだ。しかしそれを正しい方法で得たのでなければ、それに執着しない。貧窮と卑しい身分はだれでも嫌がるものだ。 しかしそれ相当の方法で得たのであれば、それを避けることはしない。君子は仁徳をのぞいて何によって名を残すだろうか。君子は食事をしている間も仁から離れず、 急変の時も仁に居り、ひっくりかえったときでもきっとそこに居る」
孔子曰く「わたしはまだ仁を好む人や不仁を憎む人を見たことがない。仁を好む人はそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行っている。 それは不仁の人を自分に影響させないためである。もしよく一日の間でもその力を仁に使おうとするなら、わたしはその人の力が足りないという人を見たことがない。 あるいはそうした人がいるかもしれないが、わたしは見たことがない」
孔子曰く「人の過ちというのは、それぞれ人の種類に応じて犯すものだ。過ちを見れば仁かどうかわかるものだ」
孔子曰く「朝に道が理解できたら、その晩に死んでもよい」
・「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」という有名な句
孔子曰く「道を目指す士で、粗衣粗食を恥じる者は、ともに語るに足りない」
孔子曰く「君子が天下においては、逆らうこともなければ、愛着することもない。ただ正義に親しむのみである」
孔子曰く「君子は道徳を考えるが、小人は土地を考える。君子は法規を考えるが、小人は恩恵を考える」
孔子曰く「利益ばかり考えて行動していると、怨まれることが多い」
孔子曰く「譲り合う心で国を治めることができれば、何の障害があろう。譲り合う心で国を治めることができないなら、礼があってもどうしようもない」
孔子曰く「地位のないことを気にかけないで、地位を得る方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、 認められようとすることを気にかけることだ」
孔子曰く「参よ、わが道はひとつのことで貫かれている」
曾子曰く「はい」
孔子が退出すると、門人が「どういう意味でしょうか」と尋ねた。
曾子曰く「先生の道は忠恕である」
孔子曰く「君子は正義に明るく、小人は利益に明るい」
孔子曰く「すぐれた人を見れば同じようになろうと思い、つまらない人を見れば自分と自分の心に反省することだ」
孔子曰く「父母に仕えて悪いところがあればおだやかに諌め、その心が従いそうにないとわかれば、さらにつつしみ深くして逆らわず、 骨を折るけれども怨みに思わないことだ」
孔子曰く「父母のおられる間は、遠くへは旅をしないように。旅をするにも必ずでらためをしないように」
孔子曰く「父が死んでから、三年の間はそのやり方を改めないのは、孝行だと言える」
孔子曰く「父母の年齢は知っていなければならない。ひとつにはそれで長生きを喜ぶことができるし、ひとつにはそれで老い先を気遣うことができる」
孔子曰く「昔の人が軽々しく言葉を口にしなかったのは、実践ができないことを恥じたからだ」
孔子曰く「つつましくしていて失敗する人は、ほとんどいない」
孔子曰く「君子は口を重くして、実践に努めるようにしたいと望んでいる」
孔子曰く「徳のある者は孤立しない。きっと親しい仲間ができる」
子游曰く「君に仕えてうるさくすると恥辱を受けることになり、友にうるさくすると疎遠にされる」
【巻第三】
【公冶長第五】
孔子は公冶長について「妻を娶わせてもよい。獄につながれたことがあったが、彼の罪ではなかった」と言い、娘を娶わせた。
孔子は南容について「国家に道のあるときには用いられ、道のないときにも刑死することもない」と言い、 兄の娘を娶わせた。
孔子は子賤について「君子だね、この人は。魯に君子がいなかったら、この人もどこからその徳を得られたろうか」と言った。
子貢曰く「賜(わたくし)はどうでしょうか」
孔子曰く「お前は器だ」
子貢曰く「どのような器でしょうか」
孔子曰く「瑚璉(宗廟のお供えを盛る貴重な器)の器だ」
或る人曰く「雍は、仁だが弁が立たない」
孔子曰く「どうして弁の立つ必要があろう。口先だけで人に対応すれば憎まれる。彼が仁かどうかはわからないが、どうして弁の立つ必要があろう」
孔子は漆彫開を仕官させようとしたところ、漆彫開は「わたしはまだ自信がありません」と言った。 孔子は厚い向上心をよろこんだ。
孔子曰く「道が行われない。いっそ筏に乗って海に浮かぼうか。わたしについてくるのは、まあ由かな」
子路はこれを聞いて喜んだので、
孔子曰く「由よ、勇ましいことが好きなのはわたし以上だが、筏の材料はどこにも得られない」
孟武伯が問うた「子路は仁ですか」
孔子曰く「わかりません」
孟武伯がさらにたずねると、孔子は言った。
「由は、諸侯でその賦を担当させることはできますが、仁であるかどうかはわかりません」
孟武伯曰く「求(有)はどうでしょうか」
孔子曰く「求は、千戸の町や大臣の家でその家宰となることはできますが、仁であるかどうかはわかりません」
孟武伯曰く「赤はどうでしょうか」
孔子曰く「赤は、礼服をつけて朝廷に立ち、賓客の対応をさせることはできますが、仁であるかどうかはわかりません」
孔子が子貢に言った。
「お前と回とは、どちらが優れいてるだろうか」
子貢曰く「賜など、どうして回を望みましょう。回は一を聞いて十を知りますが、賜などは一を聞いて二がわかるだけです」
孔子曰く「及ばないね。わたしもお前と同じで及ばないよ」
宰我が昼寝をした。
孔子曰く「腐った木には彫刻できない。ごみ山のかきねには上塗りできない。予(宰我)に対して何を叱ろうか」
孔子曰く「以前はわたしは人に対するのに、ことばを聞いてそれで行いを信じていた。今はわたしは人に対するのに、ことばを聞いてさらに行いまで観察することにする。 予のことがあったので改めるのだ」
孔子曰く「わたしは堅強な人を見たことがない」
或る人曰く「申はどうでしょう」
孔子曰く「には欲がある。どうして堅強と言えよう」
子貢曰く「わたしは、人が自分にしてほしくないことを、人に行わないようにしたい」
孔子曰く「賜よ、お前にできることではない」
子貢曰く「先生の文章は誰にでも知ることはできるが、先生が人の性と天の道理についておっしゃることは、とても聞くことができない」
子路は、何かを聞いてまだ行えないうちは、さらに何かを聞くことを恐れた。
子貢問うて曰く「孔文子はどうして文という諡なのでしょうか」
孔子曰く「利発な上に学問好きで、目下の者に問うことも恥じなかった。だから文というのだよ」
孔子が子産について言った「君子の道を4つ備えておられた。その身の振舞いはうやうやしく、 目上に仕えるにはつつしみ深く、民を養うには情け深く、民を使役するには正しいやり方で行った」
孔子曰く「晏平仲はよく人と交際し、親しくなっても相手を尊敬した」
孔子曰く「臧文仲は蔡(卜に使う亀甲)をしまっていたし、柱の上の枡形に山をほり、梁の上の短い柱に藻を描いた。 はたしてそれで智者というのはどうかな」
・ここに挙げられたことは君主以上に許されることであり、孔子はそれをそしったのです。
子張問うて曰く「令尹の子文は三度仕えて令尹となったが、嬉しそうな顔をしませんでした。三度辞めさせられても、 恨みがましい顔をしませんでした。前の令尹の政治を必ず新しい令尹に報告しました。いかがでしょうか」
孔子曰く「誠実だね」
子張曰く「仁でしょうか」
孔子曰く「まだ智者ではない。どうして仁といえよう」
子張曰く「崔子が斉君を弑したとき、陳文子は40頭の馬を持っていたが、それを棄てて立ち去りました。他の国に行くと 『やはりわが国の崔子と同じだ』と言ってそこを去り、別の国に行くと『やはりわが国の崔子と同じだ』と言ってそこを去りました。いかがでしょうか」
孔子曰く「清廉だね」
子張曰く「仁でしょうか」
孔子曰く「まだ智者ではない。どうして仁といえよう」
季文子は三度考えてからはじめて実行した。孔子はこれを聞いて「二度考えたらそれでよろしい」と言った。
孔子曰く「甯武子は、国に道があれば智者で、国に道がない時は愚かであった。その智者ぶりはまねできるが、 その愚かぶりはまねができない」
孔子は陳にいるとき「帰ろう、帰ろう。わが村の若者たちは志が大きく、美しい模様を織りなしているが、どのように裁断したらよいかわからないでいる。 帰ってわたしが指導しよう」と言った。
孔子曰く「伯夷と叔斉は、古い悪事を気に止めなかった。 だから怨まれることが少なかった」
孔子曰く「誰が微生高のことを正直だと言うのか。ある人が酢を貰いにいったら、その隣から貰ってきてそれを与えたのだ」
孔子曰く「ことば上手で顔つきがよくうやうやしいことを、左丘明は恥とした。丘(わたし)もやはり恥とする。怨みをかくしてその人を友とすることを、 左丘明は恥とした。丘もやはり恥とする」
顔淵と子路が側にいたとき、孔子は言った。
「それぞれの志を言ってみようか」
子路曰く「願わくは車や馬や着物や毛皮を友と一緒に使い、これがいたんでもくよくよしないようにしたいものです」
顔淵曰く「良いことを自慢せず、つらいことを人に及ぼさないようにしたいものです」
子路曰く「どうか先生の志をお聞かせください」
孔子曰く「老人には安心されるように、友には信じられるように、若者には慕われるようになることだ」
孔子曰く「もうおしまいだ。わたしは未だ自分の過ちを認めて自分を責める人を見たことがない」
孔子曰く「十軒ばかりの村にも、丘(わたし)ぐらいの忠信の人はきっといるだろう。ただ丘の学問好きには及ばない」
【雍也第六】
孔子曰く「雍は南面させてもよい」
・南面するとは君主となることです。
雍が子桑伯子のことを尋ねた。
孔子曰く「結構だね、おおようだ」
雍曰く「慎み深くておおように行い、それで民に臨むのであれば、いかにも結構ですね。しかしおおように構えておおように行うのであれば、 あまりにおおように過ぎるのではないでしょうか」
孔子曰く「雍のことばは正しい」
哀公問うて曰く「弟子の中で誰が学問好きと言えますか」
孔子曰く「顔回という者が学問好きでした。怒りにまかせて八つ当たりせず、過ちを繰り返しませんでした。 不孝にも短い寿命で死んでしまい、もうおりません。学問好きという者は、ほかに聞いたことがありません」
子華が斉に使いした。
有は自分の母親のために穀物を欲しいと願った。
孔子曰く「釜の分量だけあげなさい」
有は五秉の穀物をとどけた。
孔子曰く「赤(子華)が斉に出かけた時は、立派な馬に乗って軽やかな毛皮を着ていた。わたしの聞くところでは、 君子は困っているものを助けるが金持ちに手助けはしないものだ」
原思は孔子の家宰となって九百斗の穀を与えられたが、辞退した。
孔子曰く「いやいや、それを隣近所にあげなさい」
孔子が仲弓について言った「まだら牛の子でも、赤い毛並みで角が良ければ、用いないでおこうと思っても、山川の神々がそれを見棄てておこうとはしないものだ」
孔子曰く「回(顔回)は三月も心を仁から離さない。他の人はたまに仁に近づくだけだ」
季康子問うて曰く「仲由に政治をとらせることができますか」
孔子曰く「由は果断です。政治をとるくらいは何でもありません」
季康子曰く「賜に政治をとらせることができますか」
孔子曰く「賜は何事にも通じています。政治をとるくらいは何でもありません」
季康子曰く「求に政治をとらせることができますか」
孔子曰く「求は才能ゆたかです。政治をとることくらいは何でもありません」
季氏が閔子騫を費の地の宰にしようとした。
閔子騫曰く「わたくしのためにお断りください。またわたくしに勧める者があれば、わたくしは水に身を投げましょう」
伯牛が病気になった。
孔子は見舞って、窓越しにその手を取って「おしまいだ。運命かね。こんな人が病気にかかるとは。こんな人が病気にかかるとは」
孔子曰く「えらいものだ、回は。竹のわりご一杯のご飯とひさごのお椀一杯の飲物で、せまい路地暮らしだ。他人ならそのつらさに耐えられないだろうが、 回はその中でも自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだ、回は」
求曰く「先生の道を嬉しく思わないわけではありませんが、力が足りないのです」
孔子曰く「力の足りない者は途中までやってやめてしまうが、今のお前は自分から見切りをつけている」
孔子は子夏に謂いて曰く「お前は君子としての学者になりなさい。小人の学者にはならないように」
子游が武城の宰となった。
孔子曰く「お前、人物を得ることができたかな」
子游曰く「澹台滅明という者がおります。歩くには近道を通らず、 公務でない限りは決して偃(わたし)の部屋にはやってきません」
孔子曰く「孟之反は功を誇らない。敗走して殿をつとめたが、城門に入ろうとしたとき、その馬をむちでたたいて 『殿をつとめたのではない、馬が走らなかったのだ』と言った」
孔子曰く「祝佗のような弁説がなくて宋朝のような美貌だけなら、難しいよ、今の世を生きるのは」
孔子曰く「誰でも出ていくには戸口を通らなければならない。人はどうして道によらないことがあろうか」
孔子曰く「質朴さが装飾よりも強ければ野人であり、装飾が質朴よりも強ければ文書役人である。装飾と質朴がまとまってこそ、はじめて君子となる」
孔子曰く「人が生きることは真っすぐであることだ。それをゆがめて生きるのは、たまたま助かっているだけだ」
孔子曰く「知っているということは好むということには及ばない。好むということは楽しむということには及ばない」
孔子曰く「中ぐらいの人には上のことを話してもよいが、それ以下の人には上のことを話してはならない」
樊遅が智について尋ねた。
孔子曰く「人の道をつとめ、鬼神を大切にしながら遠ざけることが智といえる」
樊遅が仁について尋ねた。
孔子曰く「仁者は難しいことを先に行い、利益を得ることは後のことにする、それが仁ということだ」
孔子曰く「智者は水を好み、仁者は山を好む。智者は動き、仁者は静かである。智者は楽しみ、仁者は長生きをする」
孔子曰く「斉は少し変わることができれば魯のようになれよう。魯は少し変わることができれば理想的な政治(道)になることができよう」
孔子曰く「觚が觚でなくなった。これでも觚であろうか、觚であろうか」
・觚とは、飲酒の礼で使う杯のこと。当時は觚のような少量の飲酒でなくなったことを憂えた。
宰我問うて曰く「仁者は、井戸の中に仁があると言われると、それについてゆきますか」
孔子曰く「どうしてそんなことをしようか。君子を井戸の側まで行かせることはできるが、その中に落としいれることはできない。 少しだますことはできても、どこまでもくらますことはできない」
孔子曰く「君子はひろく書物を読んで学び、それを実践するのに礼をもってすれば、道にそむくことはないだろう」
孔子が南子に会った。子路はこれをよろこばなかった。
孔子は誓って言った「私によくないところがあれば、天がわたしを見捨てるだろう。天が見棄てるだろう」
孔子曰く「中庸の徳というのは、最高のものだ。しかし民にそれが乏しくなって久しい」
子貢が尋ねて言った「もし民にひろく施しができて、多くの人が救えるなら、仁といえましょうか」
孔子曰く「仁どころではない、それは聖だろう。堯や舜でさえ、これに悩んだ。 そもそも仁者は自分が立とうとすれば人を立て、達成したいと思えば人に達成させる。他人のことでも身近のように思える。 それが仁の方法といえる」
【巻第四】
【述而第七】
孔子曰く「語っては創作はせず、昔のことを信じて好む。わたしはひそかに老彭と比べている」
孔子曰く「黙ってこれを憶え、学んであきることなく、人を教えて怠らない。それぐらいはわたしにとって何でもない」
孔子曰く「道徳を修めないこと、学問を教えないこと、正義を聞きながら実行しないこと、善くないのに改められないこと、これが私の心配することだ」
孔子のくつろぐ有様は、のびやかであり、やわらいでいる。
孔子曰く「ひどいものだね、わたしの衰えは。久しいことだ、わたしがまた夢に周公を見なくなってから」
孔子曰く「道を志し、徳を根拠とし、仁によりそって、芸に遊ぶ」
孔子曰く「乾肉一束を持ってきたからには、私は今まで教えなかったということはない」
孔子曰く「学問に発憤していなければ教えず、何とか発言しようとしていなければ教えず、ひとつの隅を取り上げて示すと3つの隅を答えるというぐらいでなければ、 繰り返し教えない」
孔子は喪にある人の側で食事をする時は、十分に食べなかった。孔子は弔いのため哭泣した日には、歌を歌わなかった。
孔子は顔淵に言った「用いられたら行動し、捨てられたら隠れるということは、わたしとお前だけができることだね」
子路曰く「先生が大軍を進めるとしたら、だれと一緒になさいますか」
孔子曰く「虎に素手で立ち向かったり、河を歩いて渡ったりして死んでもかまわないというような男とは、一緒になりたくないね。 必ず事にあたっては慎重で、よく作戦を練って成し遂げようとする人がいいね」
孔子曰く「富を求めなければならないというなら鞭を取って市場の監督でもするが、もし求めるべきではないなら、わたしの好む生活をしよう」
孔子が慎んだところは、祭祀の清めと戦と病気であった。
孔子は斉にいて韶の音楽を聞き、3ヶ月も肉食をしないほどであった。
孔子曰く「思いもよらなかった。音楽がこれほどすばらしいものとは」
有曰く「先生は衛の君を助けられるだろうか」
子貢曰く「よし、わたしがお尋ねしてみよう」
子貢は孔子の家に入って言った「伯夷と叔斉とはどういう人物ですか」
孔子曰く「古の賢人である」
子貢曰く「君主にならなかったことを後悔したでしょうか」
孔子曰く「仁を求めて仁を得たのだ。どうして後悔しようか」
子貢は退出して言った「先生は助けないだろう」
孔子曰く「粗末なご飯を食べ水を飲み、ひじを曲げてまくらとする。楽しみはそこにあるものだ。不義なことをして富んで貴くなるのは、 わたしにとっては浮雲のように無縁なことだ」
孔子曰く「わたしがこれから数年たって、50歳になって易を学んだら、大きな過ちはおこさないだろう」
孔子が正しい言葉を守るのは、詩経、書経を読む時と礼を行う時で、すべて正しい言葉であった。
葉公が孔子のことを子路に尋ねた。子路は答えなかった。
孔子曰く「お前はどうして言わなかったのだ。その人となりは学問に没頭して食事を忘れ、道を楽しんでは心配事を忘れ、 老いがやってくることも気づかずにいるのです、と」
孔子曰く「わたしは生まれつき知っている者ではない。古を好み、一生懸命に研究している者だ」
孔子は怪異と乱れと神霊について、語らなかった。
孔子曰く「わたしは3人で行動するときには、必ず我が師となる人がいる。よい人を選んでそれに従い、悪い人を見ては自ら直そうとする」
孔子曰く「天はわたしに徳を授けられた。桓ごときがわたしをどうすることができよう」
孔子曰く「きみたちは、わたしが隠し事をしていると思うか。わたしは隠し立てなどはしない。わたしは行う時にきみたちと一緒にしないことはない。 それが丘(わたし)なのだ」
孔子は4つのことを教えた。読書と実践と誠実と信義である。
孔子曰く「聖人に会うことはできないが、君子に会うことはできる。善人に会うことはできないが、常に自分を守っている人に会うことはできる。 無いのにあるように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せる。難しいね、常に自分を守ることは」
孔子は魚釣りはするが網は使わず、鳥を矢で射ることはするがねぐらの鳥は射られない。
孔子曰く「物知りでもないのに創作する者がいるだろうが、わたしはそうではない。多く聞いてその善いものを選んでこれに従い、 多く見て憶えているのは、物知りに次ぐ者である」
互郷の人はまともに話しにくいのだが、その子供が孔子に会ったので、弟子たちはいぶかった。
孔子曰く「来たことを買っているのだ。去ってゆくのは賛成しない。いぶかることはよろしくない。人が己を潔くしてやって来れば、その潔さを買うのだ。 帰ってからのことはわからない」
孔子曰く「仁は遠いものであろうか。自分から仁を欲すれば、仁はここにやって来るものだ」
陳の司敗が問うた「昭公は礼を知っていましたか」
孔子曰く「礼を知っていました」
孔子が退いた後、司敗は巫馬期にあいさつをして近寄らせて言った 「わたしは君子はひいきをしないと聞いていたが、君子でもひいきをするのですか。君は呉から夫人を娶られたが、同じ姓であったためこれを呉孟子とよんだ。 この君が礼を知っているとすると、礼を知っていない人などいるでしょうか」
巫馬期が孔子にこのことを伝えると、孔子は言った「丘は幸せだ。もし過ちがあれば、人がそれを知らせてくれる」
孔子は人と一緒に歌って相手がうまければ、必ずくりかえして、その後に合唱した。
孔子曰く「わたしは学問については人並みに行うことができる。君子の行いを実践することは、わたしはまだ充分ではない」
孔子曰く「聖とか仁というのは、わたしにはまだ行うことができない。ただこの道を行ってあきることがなく、人を教えて怠らないというのは、 言ってもよいだろう」
公西華曰く「当にそれこそ私たちのまねできないところです」
孔子の病気が重くなった。子路はお祈りしたいと請うた。
孔子曰く「そういうことがあったか」
子路曰く「あります。誄に『なんじのことを天地の神々に祈る』とあります」
孔子曰く「丘(わたし)の祈りは久しいことだ。祈ることはない」
孔子曰く「贅沢になれば尊大になり、倹約していればかたくなになる。しかし尊大であるよりはむしろかたくなの方がよい」
孔子曰く「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつまでもくよくよしている」
孔子は穏やかであるが厳しく、威厳はあるが激しくなく、恭しくして平安である」
【泰伯第八】
孔子曰く「泰伯は最高の徳をもっているといえるだろう。三度天下を譲った。しかも人にわからないやり方だったので、 民もこれを讃えることができなかった」
孔子曰く「うやうやしくても礼がなければ苦労する。慎重であっても礼がなければいじけてしまう。勇ましくても礼がなければ乱暴になる。 真っすぐな性格であっても礼がなければ窮屈になる。
為政者が親類に手厚ければ、民にも仁が興る。為政者が昔馴染みを忘れなければ、民も情薄でなくなる」
曾子が病となった。曾子は門人たちを呼び寄せて言った。
「わが足を見よ、わが手を見よ。詩に『戦戦兢兢として深淵に臨むように、薄い氷を踏むように』とある。これから先はわたしはこの心配をしなくてもよいな、 きみたち」
曾子が病となった。孟敬子が見舞いにきた。
曾子曰く「鳥が死のうとする時には、鳴き声は悲しいし、人が死のうとする時には、その言葉は立派なものだといいます。
君子が礼について貴ぶことは3つあります。姿かたちを整えれば人から暴虐を受けません。顔つきを整えれば誠実に近づきます。 ことばを口にすれば俗悪から離れます。
お供えの器物などのことは、かかりの役人に任せておけばよろしいのです」
曾子曰く「才能がある人がない人に尋ね、知識が豊かな人が乏しい人に尋ね、有ってもないようにふるまい、充実していてもからっぽのようにふるまい、 害を受けても仕返しをしない。昔、わが友(顔回)は、そういうことにつとめていた」
曾子曰く「六尺のみなしごをあずけることもできれば、諸侯の政治をまかせることもでき、大事にあたってもその志を失わない。 これこそ君子であろうか、君子であろう」
曾子曰く「士はおおらかで強くなければならない。任務は重く道は遠い。仁を自分の任務とする、なんと重いことか。死ぬまでそれをやめない、 なんと遠いことか」
孔子曰く「詩によってふるいたち、礼によって確立し、音楽によって完成する」
孔子曰く「民を従わせることはできるが、その理由を知らせることは難しい」
孔子曰く「武勇を好んで貧しさを憎むと乱暴になる。人として不仁であり、仁を憎むことがひどいと、乱暴になる」
孔子曰く「もし周公ほどの素晴らしい才能があっても、傲慢で物おしするようなら、目をとめる値打ちもない」
孔子曰く「三年学んで仕官を望まない人は、得難いといえる」
孔子曰く「深く信じて学問を好み、命がけで道を行う。危うい国には入らず、乱れた国には留まらない。転化に道があれば政治を行い、 道がないときには隠居する。国に道があるのに貧しくて低い地位にいるのは恥である。国に道がないのに金持ちで高い地位にいるのは恥である」
孔子曰く「その地位にいなければ、その政務に口出ししない」
孔子曰く「楽官の摯の歌い始めと関雎の終わりは、のびのびとして耳に広がるね」
孔子曰く「気が大きいがまっすぐでなく、無知なくせに真面目でなく、馬鹿正直なくせに誠実ではない。こんな人はどうしようもない」
孔子曰く「学問には、及ばないという気持ちで行うも、なおこの気持ちを忘れていないかを恐れる」
孔子曰く「堂々としたものだね。舜と禹の天下の治め方は。それでいてすべて自分で決しなかった」
孔子曰く「偉大だね、堯の君としてのあり方は。堂々としてただ天だけを偉大として、これに従った。のびのびとして民には言い表しようがない。 堂々として立派な業績をたて、輝かしく礼楽を定めた」
舜に5人の臣がいて、天下が治まった。
武王曰く「わたしには治めてくれる者が10人いる」
孔子曰く「人材は得難いものだというが、はたしてそのとおりだ。堯舜時代以後で、周時代に人材は沢山居たが、その10人に婦人がいるので、9人だけだ。 文王は天下の三分の二を有しながら、商に従って仕えた。周の徳は最高の徳であるといってよいだろう」
孔子曰く「禹は非のうちどころがない。飲食をおさえて神々にお供えし、衣服を質素にして祭りを盛んにし、 住まいを粗末にして灌漑のために力を尽くした。禹は非のうちどころがない」