正名論より学ぶ!吉田松陰らの明治維新の志士や国体の源流ともいえる藤田幽谷!

藤田幽谷の「正名論」について
後期水戸学は、この人に始まる、ともいわれる藤田幽谷。
幼少の頃より非常に優れた才能を発揮し、水戸藩内のみならず江戸にまで知られるほどでした。
幽谷の真価を発揮したのは、寛政三年十月、十八歳の時に書いた「正名論」という字数にして僅か1,300余字の小論文であります。
これは幽谷の名声を聞いた老中松平定信が所望したもので、幽谷は自宅に帰らず友人の書斎を借りて一気に書き上げ、提出したと言われています。
幽谷の師の立原翠軒はこれを見て幕府批判と疑われる恐れがあるとし、「正名論」を松平定信には提出しなかったと言われています。

次のような一節があります。
「甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。
 それなほ天地の易ふべからざるがごときか。
 天地ありて、然る後に君臣あり。
 君臣ありて、然る後に上下あり。
 上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。
 苟しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、亡ぶること日なけん」

当時、18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張をもつようになっており、それが水戸学と呼ばれるものでした。
その主張をまとまった形で表現したのが、幽谷の「正名論」であったともいえます。

幽谷は、歴史から見て天下国家において最も大切なことは、君臣の名分を厳正にすべきであるとして、朝廷と幕府、天皇と将軍の関係を明確に区分することが大切であり、将軍は朝廷から征夷大将軍に任命されているのだから、幕府は朝廷を尊び、朝廷の権限を奪うようなことがあってはならないと言うことを建言するために「正名論」を書き上げました。
つまり、社会秩序の保持には、君臣上下の名分を正す必要性があることを主張し、天皇、将軍などの社会的な位置づけ、つまり「尊王」にいたる理論的根拠を明確に示した訳です。。
このような文章を一気に書き上げた十八歳の幽谷は、如何に秀才であったかが十分伺い知れます、

「我が國が世界の國に卓越する所以は君臣の大義が萬古不易なる一點にある。」

正名とは名分を正すこと、つまり君・臣とか父・子という人倫上の地位に固有の本分が履行されるようにすることをいい、儒教とくに宋学で強調された観念です。
「正名論」は宋の司馬光の《資治通鑑》冒頭の正名論を下敷きにしつつ、君臣上下の名分を正すことの重要性を強調しながら、幕府が天皇を尊べば大名は幕府を尊び、大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い、結局上下秩序が保たれるようになるとして、尊王の重要性を示したのです。

当時、水戸藩は徳川御三家のひとつ。
それが、武家政権を痛烈に批判しているのですから、立原翠軒が提出をしなかったことも十分頷けます。

内容を大別すると、
1:中国における名分論とその実際
2:わが国の国体と武家政治の史的批判
3:徳川幕府に対する批判と意見
といった構成になっています。

1:中国における名分論とその実際
聖教である儒学の立場から孔子の正名の意義を論じ、湯王武王の易姓革命を否定するばかりか、徳治政治すら名分に反する場合には肯定しなかった孔子の厳正な態度を強調すると共に、
「君臣のな正しからず、上下の分厳ならざれば、則ち尊卑を易え、貴賎所を失い、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴き、亡びんこと日無けん」
と、国家秩序における普遍的原理を明らかにすることで序論としています。

幽谷は、孔子の「春秋」を論拠にして天皇を「天を称し、以って無二の尊を示す」存在とし、「天下の共主(天下が共に宗主とする君主)」に位置付けました。
しかし、その天皇の機能は「上天に敬事し、宗廟の礼、以って皇尸(皇祖)に君事する」もの、つまり天と皇祖に対する祭祀を中心にしたものとしているのです。
また将軍の立場は、「皇室を翼載す」る「征夷大将軍」であり、両者の関係は、
「幕府が皇室を尊べば、すなはち諸侯は幕府を崇び、諸侯が幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。
 夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す」
と、この社会的な関係を確立すれば社会は平和に治まる、と考えていたのです。

2:わが国の国体と武家政治の史的批判
「赫々日本、皇祖より国を開く。
 天を父とし、地を母とする。聖子神孫。
 世は明徳を継ぎ、以って四海を照らす。四海内。
 之を尊び、天皇という。八州の広さ。兆民之衆。
 絶倫の力、高世之知恵有りと雖も、古より今に至る。天位庶姓奸するもの嘗て一日も非ず。君子の名。上下の分。
 正に且つ厳なり。猶天地之易えるべからず也。
 是以って皇統統べる悠遠。国祚之長久。
 舟車至る所。人力通す。殊に庭絶域。
 わが国の如き在らざる也。豈偉ならざらん哉。」
と、国体の尊厳を述べています。
これこそが、幽谷の幕藩体制下に吐露された胸中なのでした。

3:徳川幕府に対する批判と意見
摂関政治は「敢えて僭号なすにあらざれど、而して天使垂拱(てをこまねく)の勢い」
武家政治は「鎌倉氏の覇、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らなり」
室町幕府は「輩、轂(こしき:車の一種)に據り、驩虞の政、以って海内に号令し、生殺与奪の柄、咸其の手に出ず。威稜(いつ:天皇の光)の在る所、加えるに爵命の隆を以って傲岸尊大、公卿を奴視し、摂政関白、名ありて実無く、公方の貴き、敢えて其の右に出もの無し」
「則ち武人大君たるに幾し」
と、痛烈な批判を加えています。

しかし、豊臣・徳川の政治になると、
「幕府、皇室を尊び。則ち諸侯、幕府を崇める。諸侯、幕府を崇める、則ち卿・大夫、諸侯を敬う。萬邦協和。」
と、豊臣氏は藤原関白の号を奪いながら臣礼をとって皇室に仕え、家康も皇室に翊戴し征夷大将軍として四方を制覇したからとして、幕府が皇室を尊べば、という条件付きで容認しています。

「今幕府、天下国家を治める者なり。
 上に天子を戴く。下に諸侯を撫でる。覇主の業也。
 其の天下国家治める者。天子の政を摂し也。
 天子垂拱、政を聴かず久しくなり。
 久しく則ち変え難し也。幕府天子の政摂し。亦其の勢い爾。
 異邦の人言在り。天皇国事を興さず。唯国王供奉を受けるのみ。蓋し其の実指す也。」
幕府が王と称さずに摂政と称するならば、名正しく言順であり、武家政権として徳川が生き延びる事ができるとした訳です。

このように、幽谷の「正名論」に代表される水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようと唱えていました。
いわば後期水戸学は、幽谷により
「敬神愛國・尊皇攘夷・神儒調和・學問事業の不岐・忠孝一本・文武一致」
の水戸学の礎石を確立したとも言えるでしょう。

しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩を強めていきます。
それはやがて吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などの上にも大きな影響を及ぼしていったのです。

いかがですか。
これらの源流は、全て幽谷の「正名論」であったということなのです。

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