朱子学者頼春水の子として大阪江戸堀で生まれ、江戸で尾藤二洲・服部栗斎に師事し、朱子学・国学を学んだ江戸時代後期の日本を代表する漢学者・頼山陽。
彼は、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しましたが、そんな中、中国の南宋時代の謝枋得が編纂した「文章軌範」から頼山陽が選定して編纂した書籍『謝選拾遺』が今回の整理の対象です。
『日本外史』『日本政記』『通議』より学ぶ!幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた日本史上のベストセラー作家・頼山陽!
そもそも「文章軌範」は、科挙受験のための作文参考書として編まれた書で,模範とすべき唐宋の「古文」の散文15家・69編を収める全7巻から成る中国の散文選集です。
ちなみに古文とは、六朝時代に流行した1句の字数を4字と6字に限定し、ほぼ全てが対句で構成された極端に装飾的な駢文に対して、唐の柳宗元・韓愈たちが提唱した文体で、簡潔で雄健な調子で、考えをそのまま表現した古代の文章を理想(故に規範)としていたため、日本には室町時代末期に紹介され、特に江戸時代後期以降に和本が多く刷られ愛読されました。
※)続篇として明の儒者鄒守益(王陽明の門人)が秦漢から同時代の明代までの名篇を編んだ『続文章軌範』があります。
そんな「文章軌範」から選定された『謝選拾遺』という題名は、まさに[謝]枋得が編纂した散文[選]集から洩れ落ちたものを[拾]い集め補うということを表しています。
内容としては、八大家の筆頭に掲げられた韓文公こと韓愈の文章が約半分の32篇、蘇東坡こと蘇軾の文章が12篇と続き、柳宗元と欧陽脩の文章が各5篇などとなり、諸葛亮の「前出師表」と陶潜の「帰去来辞」の2編のほかは唐宋時代の文章を収録。
ちなみに、正岡子規は旧制松山中学時代に『謝選拾遺』を学校から贈呈されたものの、あまりにも難解であったので、旧松山藩の河東静渓から「唐宋八大家文」「文章軌範」 「謝選拾遺」などの講義を受けたと言われています。
河東静渓は、松山藩の藩校「明教館」の教授を務め、私塾の「千船学舎」を経営して門弟の教育に力を注いだ人物で、この明教館(旧制松山中学校)の卒業生として正岡子規(俳人)・高浜虚子(俳人)・河東碧梧桐(俳人)・松根東洋城(俳人) ・秋山好古、真之(軍人)・伊丹万作(映画監督)・山本薩夫(映画監督)・大石慎三郎(歴史学者)・大友柳太朗(俳優) ・勝田銀次郎(第八代神戸市長)など、多才な人材を輩出しています。
旧制松山中学校といえば、夏目漱石が松山に赴任して英語教師を勤め、この体験から「坊ちゃん」を書き上げたことは有名ですね。
機会があれば、触れてみてください。
【『謝選拾遺』から 目次 一部】
陶淵明「帰去来辞」
杜牧「阿房宮賦」
蘇軾「赤壁賦」
蘇軾「後赤壁賦」
韓愈「師説」
韓愈「雑説」
韓愈「送孟東野序」
韓愈「送李愿帰盤谷序」
范仲淹「厳先生祠堂記」
范仲淹「岳陽楼記」
李覯「袁州学記」
王安石「読孟嘗君伝」
蘇軾「潮州韓文公廟碑」
柳宗元「桐葉封弟弁」
韓愈「諱弁」
諸葛亮「出師表」
韓愈「原道」
【『謝選拾遺』から 諸葛亮の「前出師表」】
臣下である亮は申し上げます。
先帝(劉備玄徳、昭烈帝様)は創業また途中で亡くなりました。
今や天下は三分割して益州は疲れています。
これは誠に危機存亡の時です。
しかしお傍の臣は内に懈らず忠義志の士は身を顧みず戦っているのはおそらく先帝の特別の待遇を忘れずこれを陛下に報ようと思ってのことでありましょう。
誠によく天子の耳に入る事がらはよく耳をかたむけ正しく判断なされて先帝の遺徳を大いにして忠臣の気持ちを盛んにして下さいけしてみだりに自身で微力だと思わず(誤った)喩えを引き道理を失て以て忠臣の諫の路を塞ではなりません。
宮中の役所・府中役所はともに一体です報償と処罰は(両役所で)違った賞罰を行ってはなりません。
もし偽りをなし掟を犯しおよび真心善行くする者がいたならばよろしく役人に命じてその刑罰と賞を相談し陛下の公明な解りやすい政治を明らかにして下さいよろしくエコひいいきをして宮中と府中の賞罰を違ったものとしてはなりません。
待中の役職、郭攸之・費褘・待郎の役職董允らは、これ皆な良實で志や考えが忠実です。
こういう訳で先帝は選び陛下に残したのです。
私考えますに宮中の事は事は大小と無く皆これらに相談してその後に実行すれば必ずよく漏れを事柄を補って広く益する所で有りましょう。
将軍の向寵は性質は行動も善良公平で軍事に精通し昔に試に(先帝が)用ました。
先帝はこれを称して有能と言っておりましたこれで皆が一致して彼を監督としてました。
私思いますに軍事の事は事の大小と無くことごとくこれに相談すれば必ずよく軍隊を和やかにまとめ優秀、劣ったものに適任を与えましょう 賢こい臣下に親しみ下らぬ者を遠ざけたのはこれは前漢の興隆した理由です。
愚かで下らぬものをと親しみ賢こい臣下を遠ざけたのはこれは後漢の傾むき崩れ去った理由です。
先帝が御在世の時、毎に私とこの事を論じて桓帝や霊帝がつまらぬ臣下を近づけ国を傾けたのを必ず嘆いていたのです。
待中尚書・長史・参軍はこれはことごとく正しく、死をなげうつ臣下です。
願わくは陛下これに親しみこれを信ぜよすなわち漢室の隆る日を計へて待つばかりです。
臣下である私は本は無位無官、自身で南陽に農耕をしまにあわせで生命を乱世に全うして名声を諸侯に求めませんでした。
先帝は私が身分の低いにもかかわらずむやみに御自身で謙り三度も粗末な住まいに顧みて私に問うに今の世の事を相談しました。
これによって感激してついに先帝にたいして奔走努力をいたしました。
その後に危険な場面にあい任務を敗軍のさいに受け命を危難の間に奉じました。
いらい二十有一年がたちました。
先帝は私がが慎重な(性格)知ていましたので亡くなる時に臨み私に以来して大事をたくしました。
その命を受けて以来、日夜憂慮し託された(復興は)效はありませんでした。
先帝の明さを傷つけることを恐れます。
ですから五月に濾水を渡り深く不毛の地ちに入りました。
今は南方はすでに平定され兵甲はすでに足りていて全軍を率いて北の方向中原を平定することです。
なんとしても微力をつくし悪人を排除しそして漢皇室を復興し旧都洛陽へ帰ることを、これが私の先帝の(恩に)報じ陛下に忠義なるゆえのの職分です。
進んで忠言を尽くす到ては損得を計りすなわち攸之・褘・允の任務です。
願わくは陛下私に託するに討賊興復の効果を任せて下さい。
効果がなければすなわち私の罪をさばきそして先帝の霊に告げてくださいもし徳を興すの言葉が無ければすなわち攸之・褘・允等の咎を責めもってその怠慢を罪を明らかにして下さい。
陛下もまたよろしく御自身でよくお考えになって善の道を正しい政治をたずねよい意見を取り入れ深く先帝の遺詔を実行追善して下さい私は恩を受けたことに感激し耐えきれません今は遠く離れる当たり上奏文臨んで涙を流し何と申してよいか解りません。
【『謝選拾遺』から 陶潜の「帰去来辞」】
さあ故郷へ帰ろう。
故郷の田園は今や荒れ果てようとしている。
どうして帰らずにいられよう。
今までは生活のために心を押し殺してきたが、
もうくよくよしていられない。
今までが間違いだったのだ。
これから正しい道に戻ればいい。
まだ取り返しのつかないほど大きく道をはずれたわけではない。
やり直せる。
今の自分こそ正しく、
昨日までの自分は間違いだったのだ。
舟はゆらゆら揺れて軽く上下し、
風はひゅうひゅうと衣に吹き付ける。
船頭に故郷までの道のりを訪ねる。
(行き合わせた旅人に行き先を訪ねる)
朝の光はまだぼんやりして、よく先が見えないのが ツライところだ。
やがてみすぼらしい我が家が見えてくると、
喜びで胸がいっぱいになり、駆け出した。
召使は喜んで私を迎えてくれる。
幼子は門の所で待ってくれている。
庭の小道は荒れ果てているが、
松や菊はまだ残っている。
幼子を抱えて部屋に入ると、
樽には酒がなみなみと用意されている。
徳利と杯を引き寄せて手酌し、
庭の木の枝を眺めていると、
顔が自然にニヤケてくる。
南の窓に寄りかかってくつろいでいると、
狭いながらも我が家はやはり居心地がいい、
そんな気持ちにさせられる。
庭園は日に日に趣が増してくる。
門はあるが常に閉ざしていて
訪ねてくる者もいない。
杖をついて散歩し、
時に立ち止まって遠くを眺める。
雲は峰の間から自然に湧き出してくる。
鳥は飛び飽きて巣に戻って行く。
あたりがほの暗くなって、もう日が暮れようとしている。
庭に一本立った松を撫でたりしながら、私はうろついている。
さあ故郷へ帰ろう
俗世間と交わるのは、もうよそう。
世間と私とは最初から相容れないものだったのだ。
いまさらまた任官して、どうしようというのか。
親戚の人々との心のこもった話を楽しみ、
琴を奏でて書物を読んで…
そうしていれば憂いは消え去る。
農夫がやってきて私に告げる。
そろそろ春ですね、
西の畑では仕事が始まりますと。
ある時は幌車を出すように命じ、
ある時は小舟に乗って田んぼに出かける。
奥深い谷に降りたり、
けわしい丘に登ったりする。
木は活き活きと生い茂り、
泉はほとばしって流れていく。
万物が時を得て栄える中、
私は自分の生命が少しずつ、
終わりに近づいているのを感じるのだ。
まあ仕方の無いことだ。
人間は永久には生きられない。命には限りがある。
どうして心を成り行きに任せないのか。
そんなに齷齪して、どこへ行こうというのか。
富や名誉は私の願いではない。
かといって仙人の世界、などというのも
アテにならない。
天気のいい日は一人ぶらぶらし、
傍らに杖を立てておいて、畑いじりをする。
東の丘に登ってノンビリ笛を吹き、
清流を前にして詩を作る。
自然の変化に身をゆだね、
死をも、こころよく受け容れる。
こんなふうに天命を受け容れてしまえば、
もはや何のためらいも無いだろう。
【『謝選拾遺』から 蘇軾の「放鶴亭記」】
※)中国の江蘇省徐州市の観光名勝にもなっている雲龍湖と雲龍山の風光明媚な美しい街に現存する「放鶴亭」。
蘇軾がこの地の郡守であった折に、友人の雲龍山人張君が「放鶴亭」を建て、そこで酒を酌み交わし友情を深めたときの詩文といわれている。
熙寧十年、秋、彭城、大水あり、雲龍山人張君の草堂は、水其の半扉に及ぶ。
明年春、水落ち、故居の東、東山の麓に遷り、 高きに升りて望み、異境を得て、亭を其の上に作る。
彭城の山は、岡嶺四合し隱然として大環の如く、獨り其の西十二を缺く、 山人の亭は適に其の缺に当たる。
春夏の交、草木天に際し、秋冬の雪月、千里一色、風雨晦明の間、俯仰百變す。
山人二鶴有り、甚だ馴て善く飛ぶ。
旦には則ち西山の缺を望みて放ち、其の如く所を縦にする。
或は陂田に立ち、或は雲表に翔る。
暮には則ち東山に傃(むか)って歸る。
故に之を名づけて「放鶴亭」と日う。
郡守蘇軾、時に賓客僚吏を從へ往いて山人を見、酒を斯の亭に飲み之を樂しむ。
山人を揖して之に告げて曰く、 「子 隱居の樂しみを知るや 南面の君と雖も 未だ與に易うべかざる也」
易に曰く、「鳴鶴 陰に在り 其の子 之に和す」と。
詩に曰く、「鶴 九皐に鳴き 聲 天に聞こえる」と。
蓋し其の物たる清遠閑放にして塵埃の外に超然たり。
故に易詩人、以って賢人君子隱德の士に比す。
狎れて之を玩(もてあそぶ)は、宜しく益有りて損無き者の若くなるべし。
然し、衞懿公は鶴を好み、則て其の國を亡ぼす。
周公は酒誥を作り、衞武公は抑戒を作り、以為(おもえらく)荒惑敗亂すること、酒に若く者無しと。
そして、劉伶阮籍の徒は、此を以って其真を全くして後世に名あり。
嗟夫(ああ)、南面の君は、清遠閑放なること鶴の如き者と雖も、猶も好むを得ず。
之を好めば則ち其の國を亡ぼす。
そして、山林遯世の士は、荒惑敗亂すること酒の如き者と雖も、猶も害を為す能はず。
況や鶴に於いてをや。
此に由りて之を觀れば、其の樂しみ、未だ以って日を同じくして語る可からざる也。
山人欣然として笑って曰く、是有る哉と。
乃ち放鶴招鶴の歌を作って曰く、鶴飛び去る、西山の缺、高翔して下覽し、適(ゆ)く所を擇ぶ。
翻然として翼を斂(おさ)め、婉として將に集(とど)まらんとす。
忽ち何の見る所ぞ、矯然として復た撃つ。
獨り日を澗谷の間に終へ、蒼苔を啄みて白石を履む。
鶴歸り來る、東山の陰。
其の下に人有り、黄冠草屨、葛衣にして琴を鼓し、躬(みずか)ら耕して食う。
其の餘は以て汝を飽かせる。
歸り來れ歸り來れ、西山は以って久しく留まる可からず。
【『謝選拾遺』から 韓愈の「雑説」】
世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖も、祇(た)だ奴隷人の手に辱しめられて、槽櫪(さうれき)の間に駢死(へんし)し、千里を以てつ称せられざるなり。
馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす。
馬を食(やしな)ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり。
是の馬や、千里の能有りと雖も、食飽かざれば、力足らず、才の美外に見(あら)はれず、且つ常馬と等しからんと欲するも、得べからず。
安(いづ)くんぞ其の能の千里なるを求めんや。
之を策うつに其の道を以つてせず、之を食ふに其の材を尽くさしむる能はず、之に鳴けども其の意に通ずる能はず。
策を執りて之に臨みて曰はく、
「天下に良馬無し。」と。
鳴呼、其れ真に馬無きか。
其れ真に馬を識らざるか。