『海防八策』より学ぶ!幕末の志士に大きな影響を与えた天才思想家・佐久間象山!

今回は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家にして、幕末の志士に大きな影響を与えた天才学者・佐久間象山です。

1842年、主君真田幸貫が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢、江川担庵の塾に入門して西洋式砲術を学び、命を受けてアヘン戦争で険悪化した海外事情を研究た上で、幸貫に「国防には外国船の購入と操船技術の習得が必要」という極めて斬新な『海防八策』を幸貫に上書しています。
これを契機に洋学(蘭学)修業の必要を痛感した象山は、1844年34歳のときにオランダ語を学び始め、2年ほどでオランダ語を修得、オランダの自然科学書、医書、兵書などをむさぼるように読み、洋学の知識を吸収しています。
1851年(嘉永4)江戸に移住して塾「象山書屋」を開き、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、河井継之助ら500人を超える入門者に、砲術・兵学を教えています。
※)ちなみに勝海舟の「海舟」は象山が自分の書斎に手書きの「海舟書屋」という額を飾っていたことに由来する。
1853年、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた象山は、国家の危急存亡にかかわる重大事だと考え、
「堅固なる船を備え、水軍を練るべき事」
「士気精鋭、筋骨強壮の者を選び、大砲隊を編成すべき事」
「大小銃を演習し、四時間断なからしむる事」
などの十か条から成る『急務十条』を老中阿部正弘に提出しています。
1854年、ペリー提督が再び来航した際には、横浜の応接所でペリー提督と面会し、ペリー提督は象山を見るなり思わず頭を下げたと伝えられています。
後日のペリー談「あの人物の発する気に圧倒された」
しかしこの時期、愛弟子・吉田松陰に暗に外国行きを勧めたことから(1854年松陰の海外密航は失敗)、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居。
この間、洋書を読んで西洋研究に没頭し、洋学と儒学の兼修を積極的に主張するとともに、固定的な攘夷論から現実的な和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになていきます。
1862年蟄居を解かれ、1864年、一橋慶喜からの幕命を受けて上京。
幕府の海陸御備向手付御雇に就任し、関白をはじめとする朝廷の高官や、将軍・徳川家茂などに面会し「公武合体論」と「開国論」を説いています。
京にて佐久間象山に会った事がある薩摩藩の西郷隆盛は、維新後に「もし象山に会ってその意見を聞いてなかったら、失敗をしたかもしれない」と語ったとまでいわれています。
更に、防備面で不利な京都から、孝明天皇を彦根へと移す遷都計画まで立てています。
しかし、公武合体・開国進取の国是を定めるために要人に意見を具申して回った言動が尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日斬殺、享年54歳でした。

こうした象山が老中海防掛の真田幸貫に、当時としては極めて先進性に富んだ意見書『海防八策』を建白しています。
その『海防八策』は西洋式火器の大量製造と海軍の設置育成を説く挙国体制策ですが、おおよそ次のようなことが述べられています。

天保十三年十一月「感応公に上りて当今の要務を陳ず」(海防意見書)『海防八策』
一、 諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲を備え置き、緩急の事に応じ候様仕度候事。
二、 阿蘭陀交易に銅を差し遣わされ候事暫く御停止に相成、右の銅を以て、西洋製に倣い数百千門の大砲を鋳立、諸方に御分配之有度候事。
三、 西洋製に倣い、堅固の大船を造り、江戸御廻米に難破船これなき樣仕度候事。
四、 海運御取締の義、御人選を以て仰付られ、異国人と通商は勿論、海上万端の奸猾、厳敷御糾し御座あり度候事。
五、 洋製に倣い、船艦を造り、専ら水軍の駈引習わせ申度候事。
六、 辺鄙の津々浦々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕、愚夫・愚婦迄も忠孝・節義を弁え候様仕度候事。
七、 御賞罰弥(いよいよ)明らかに、御恩威益々顕われ、民心愈々固結仕候様仕度候事。
八、 貢士の法を起し申度候事。

要は
・銅の海外流出をおさえ、その銅で大砲をつくり、全国に砲台を設置し、軍艦を輸入して武士を編成し、海軍をつくって国を守る。
・そのためには教育機関を設けて優秀な人物を登用しなければならない。
といった趣旨で、驚くべきはペリー来航に先立つこと十一年にして既に近代戦争を想定した戦法と兵制を考えていたことであり、この時代にあっては卓越したものでした。

象山の言葉です。
「先覚者は孤独だ、誰も気づかない事を言っても相手にされない」
「不安な未来を予見して警鐘を鳴らしても戯言と笑われてしまう」

学びを怠け、現状に安穏としている者は、先を見通す先覚者の言葉を理解せず嘲け罵るばかりですが、それが現実となったときにはただ慌てふためき、思考停止に陥りがちです。
こうしたときでも、誰よりも先を見通す先覚者を駆り立てる原動力とは、ただただ未来を創るという信念のみです。
凡人たる自らを省みながら、行動に駆り立てるヒントを象山から学びとってみてはいかがでしょうか。
時や年齢は関係ないはずです。

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以下、参考までに「藩主宛上書」を付記しておきます。
『海防八策』はこの上書に先立って提出されたといわれているのですが、提出された『海防八策』の本文も写しもその控や下書の類も発見されていない今となっては、貴重な資料です。
ご参考までに。

【海防に關する藩主宛上書(天保13年11月24日)佐久間象山 】

乍恐謹て申上候
近來公儀にて邊防之御武備に厚く被用御心御上にも海防御掛被蒙仰候御事は定て去る亥年以來イギリス夷唐山と亂を構へ頻に及戰爭候趣風聞も仕候義に付遠く被運御思慮萬一之義御座候節諸方狼狽無之樣御手配御座候義と奉存候昔天平年間唐山にて安祿山之變御座候時すら皇朝にて西海に戍備を被増候事舊史に見え申候右安祿山之變は唯唐山域内のみの事に候へども自然其與黨の者海に泛んで襲ひ來り候事も候はん歟とて斯く其備を被設候義と古代君相之御遠圖深く感服仕候義に御座候まして此節のイギリスに於てはその猖獗兇悍虐を隔海の諸國に逞く仕候事此度唐山と戰爭に及び候一事にても相分候事に候へば能々彼我の勢を審にし格別に遠大の御心備無御座候ては叶はせられ間敷御義と奉存候當二月阿蘭陀人より書付申上候始末近日傳聞仕候へば唐山頻に利を失ひ福建寧波等の地方既にイギリスの爲に陷沒仕候よし且又先年イギリス船本邦の漂流人七人を送戻し候爲め豆州海岸に近寄り候を鐵炮を以御打拂に相成候に付右之船漂流人を廣東の阿媽港へ連れ戻し罷在候處右七人之内一人病死仕二人は此節唐山を騷し候手勢に相加り其餘四人阿媽港に罷在候所其者共より本國之義を心遣ひ書簡を以イギリスの事情を長崎表迄申送り候よし其書簡に認め有之候にはイギリス人此度唐山と戰爭方付次第本邦に交易を願ひ萬一交易御免無之節は先年漂流人送戻しの爲め海岸に乘り寄せ候船へ理不盡に鐵炮を被打掛候譯合を御糾し申度よしをイギリス人申居候由又阿蘭陀下輩の者申洩し候義を承り傳へ候へば唐山之騷亂方付次第長崎薩摩江戸三ヶ所へ兵艦を差向け候樣イギリス人申居候よし如此の類尚種々可有御座候へ共自餘之義は承りも不仕暫く傳聞仕候右三事を以愚考仕候に本邦へ對しイギリス夷の野心を懷き罷在候事は實に相違無之義と奉存候
人に依り候ては右漂流人共より申送候義を全く其者共の心より本國の義を厚く心遣ひ右等の事情を探り竊に申送り候事とも心得可申候へども愚意には是皆夷人の奸計にて兵威を以て我朝廷を奉劫久しく望み罷在候交易を成就仕度爲めに内々漂流人に申付け書簡を認めさせ阿蘭陀人へ託し差送り候義と奉存候扨又蘭人下輩の者より洩し候義迚も矢張り夷人の謀計にて兵法に所謂先聲後實の手段を用ひ蘭人の阿媽港に舶を繋げ候節喧しく右等の義を申觸させ本邦に入津致し候はば取々口走り候樣相謀り候故蘭船下輩のもの迄其義を聞知長崎にて説話仕候義と奉存候左も無之候はゞ軍機を猥に人に洩し候筈も無之殊更遠からず兵をも差向け候はんと企候國え通商に來り候もの共に其國の此所彼所に軍艦を出し可申樣申方略の聞へ申べき義は決して有之間敷被存候然る所却て右等の義御座候は是皆夷人の奸計に相違無之義と奉存候且又漂流人も最初定て本國へ返り申度段頼み候ひし故先年連れ來り候に可有之候事調はずして阿媽港へつれ戻され候とても漂流人に於ては歸心の斷絶仕候義は有之間敷候得ば如何にも致し本國へ返され度と再三も再四も頼み候はぬ事はよも有之間敷候に阿蘭陀人へ託し候とも唐山人に託し候とも仕差送り可申義を七八年も其儘其國に留置き候は是又此もの共を以て奇貨とも可仕存念と被察候是等を以て推量仕候ても彼れの本邦へ對し野心御座候義は益以顯然たる義と奉存候其上イギリスにて久敷本邦をねらひ候と申義は先年より歐羅巴諸州にて致承知居候事と相見え毎度蘭人より申上候事共も有之と其蘭人より申上候イギリス國にて戰艦を數多造り立候と申義も亞墨利加州にて軍爭有之と申事も唐山にて遠からず戰爭可有之と申義も是迄申上候事共此度と相成り總じて虚説無之候へばそのイギリスにて本邦をねらひ候趣も其申候通に相違有之間敷候
左候へば唐山との事方付次第必ず渡海仕最初に交易を相願ひ其段御許容無之節は屹と先年船へ鐵炮を被打掛候謂れを承り度と申難題を申出し可申候抑彼國は唯利にのみ走り候習俗に有之候へば假令本邦に深き讐怨有之候とも本邦を亂妨仕候爲めのみに態々兵艦をしつらひ數多の入費を掛候て差向ひ候等の事は決して仕るまじく候然る所此度は既に唐山迄多くの軍艦差出し有之兵卒にも乏しからず器械も備り候て本邦とは僅かの海路を隔て候のみの事に候へば先年豆州浦の一件御座候を幸に事の序にその兵聲を鳴し手を濡らさず交易を叶へ若又其願筋御取上無之節は本より事の序にて失費も薄き事に候へば其儘兵を構へ本邦を惱し遂に要して交易を始め本邦の利を網し候べき料見に可有之候元來道德仁義を辨へぬ夷狄の事にて唯利にのみかしこく候へば一旦兵亂を構へ候方始終己れの利潤に相成可申と見込候はゞ聊か我に怨みなくとも如何樣の暴虐をも可仕候へば此方にては其怨のなき所を恃みには出來かね候義と奉存候又彼れにては本邦と兵を結び候迚も事の序にて失費の少きのみならず海上にて又許多の利を獲候義も可有御座被存候其利と申は本邦の近海に戰艦を繋げ候て我海運の妨げを仕其暇隙を以近來彼國にて專ら利を獲候鯨獵にても仕其最寄の島々へ交易等仕候はゞ月を重ね年を積み候とも格別彼れより本國の軍資を費し候事は有御座間敷只本邦の害のみに相成可申義と奉存候左候へば彼れにては必ず兵端を開き本邦を憊らし遂には北狄より宋家の歳幣を要し候如く要して莫大の交易を求め終に本邦の膏腴を吸取り國力を弱め果ては屬國の如きものにも可仕内存に可有之候乍然右等の成行を御心遣ひ最初に其願筋御許容御座候はゞ穩に事靜まりも可仕候へども堂々たる神武之本邦の以て是迄久敷御拒絶御座候ひしイギリスに此度の兵聲を御懼れ容易に交易を御免御座候と申候ては春秋傳に所謂城下之盟同樣にて公儀之御恥辱此上あるべからず依之天下之剛毅強勇の氣も折け神國尚武之御威稜も衰弱仕始終外夷の輕侮を來し候て其弊擧ていふべからざるに至り可申と奉存候
且又前文推度申上候情實に相違も無之候はゞ其最初願立候交易迚も必ず本邦にて堪え難き程の義を申出し可申假令阿蘭陀同樣の義に候とも此節之場御國用に事欠候義も無之候へば年々阿蘭陀へ被差遣候銅の義をだに識者は昔より憂を抱き候事に御座候此上に又イギリスと交易相開け候はゞ天下有用の品を以てますます外國無用の品と取換候次第にて天下之御大計に有御座間敷奉存候且一旦イギリスの交易を御免御座候はゞ魯西亞に於ても必ず默し候ては居り申間敷候文化の度其國の使節レザノフへ被仰渡候御書付も有之候事に候へば手の裏を反し候如き表裏の御國政の趣彼れより難題を申出し候義も御座候はゞ其節何と御答可有御座や左候節は又魯西亞とも交易を御開き被遊候はん歟右之次第に候へば旁以イギリスへ交易御免之義は相成る間敷義と奉存候去れば迚一概に御拒絶御座候はゞ必定爭亂に及ぶべく候爭亂に及び候迚も我に勝算だに多く候へば深く懼れ候には足らず候へども當今形勢を以思量仕候に此儘にては我の勝算至て乏しく候樣奉存候間此節如何樣にも被盡御國力候て御武備を嚴重に被建自然と虎狼闚の心を消阻し永く生民糜爛の禍を免がれ候樣御計策有御座度義と奉存候
微賤の私底公儀御廟堂之御大計を彼是と申上候は實以恐入候義に御座候へども外寇之義は國内の爭亂とも相違仕事勢に依り候ては世界萬國比類無之百代聯綿とおはしまし候皇統の御安危にも預り候事にて獨り德川家の御榮辱にのみ係り候義に無御座候へば神州闔國の休戚を共に仕候事にて生を此國に受け候ものは貴賤尊卑を限らず如何樣とも憂念仕べき義と奉存候其上去年以來御上にも御加判之列被蒙仰千歳の御一遇とも可申上此御盛代に被遊御遭逢殊に又近頃海岸防禦之御掛被蒙仰候御事に候へば此節御家來之身と仕候ては如何底にも心力を盡し候て衆庶之所望にも被遊御愜天下を泰山の安きに被爲置候不朽之御大功をも被爲立候樣御輔翼申上度義に御座候但し此度唐山爭亂に付候ての事迚も御廟堂之御上にて御評議御座候義は固より私底の存じ知るべき樣無御座候へども顯を以て隱を推し小を以て大を察し候に彼の虎を怖れ候譬の如く遠からずして外夷の事の有之べき義を眞に御怖れ候御方無之樣被存候果して眞に御怖れも御座候はゞ必ず是を防ぐに足るべき程の御備無之候ては難叶義と奉存候然る所江戸近邊第一の御固めと承り候相房之御備近頃御振合相替り成る程是迄より諸事御行屆も候べく候へども萬一之義御座候節右之御固めにて果して江府の御藩屛に相成候べきや其段は乍恐無覺束次第と奉存候臣子之身と仕り假りにも不祥の義を申上候は甚以恐多き事に候へ共言上不仕候ては事なりかね候故姑らく恐を不顧可申上候
かのイギリス等兵機に暗く候て一時に上陸を謀り御備の場所に押寄せ手詰の勝負を決し候事も御座候はゞ短兵は元より我國之長技にて候へば右之御備にて勝利を獲候事疑も有御座間敷候然る所イギリス夷は西洋諸國の内に於ても氣性剽悍にて飽まで武略に長じ候よし夫と申もの畢竟その國の軍政他國と事替り兵事に預り候ものは兵事にのみ寢食仕其餘事に携はり候事一切無之專ら便宜を以他國を掠略仕候事等を掌り候よし右故何方にても戰爭有之候節は第一其身の利潤と相成諸方無事にては其身不利に御座候故何ぞ事の起り候を常に望み罷在候よし人の常情を以て考へ候ては如何樣彼れが戰爭に長じ候迚も其間には必ず死亡も可有之候に斯迄戰爭を好み候情合信じ難しとも可申候へ共當時江戸表にても町火消のもの共は世の中穩かにて失火少く候へば却て喜び不申世上騷々しく火事繁く候を竊に冀ひ申候彼等迚も火事にて往々怪我人死亡等仕候もの御座候へども其義を恐れず只管失火を望み候も全く其身當座の利害に係り候故の事に御座候イギリスの戰爭を好み候も多く此類と被察候右之通軍兵の戰爭を望み候樣の手組に候故兵事の鍛錬は自然に行屆き候事實に侮り易からぬ樣子に承り及び候右の通兵事に賢き者共に候へば必ず無左と上陸仕候樣の義は仕る間敷扨又本邦の近海をも彼國人に委敷測量し書に著し印刻仕候ものも御座候よし且常々阿媽港よりシコタン<蝦夷の千島の内イギリス人居候地>幷に葛摸沙都加へ往來仕候舶上にても大抵熟知も仕居可申先年豆州觀音崎邊へ前文申上候夷船漂流人を連れ來候節陸より鐵炮を打掛候へども恐れ候氣色もなく岸近き岩間を徐々と乘廻し暗礁へも乘掛ず引返し候始末にても本邦の近海不知案内の義とは存じられ不申其上本邦の漂流人もその國に數年留り居り候へばその者共より承り候ても江戸表の天下輻輳の都にて人戸稠密仕其日用之米穀は必ず諸州より海運仕候事は委敷承知仕可罷在候へば萬一事に及び候節江戸海運の要路を斷截り候謀略にて最初に大島にても攻取右を姑く巢穴と仕伊豆沖幷に相房近邊に數艘の大舶を繋げ候事も御座候はゞ諸國よりの廻米一時に差支如何樣相房之御固め御座候とも致し方有之間敷只手を束ね候計りにて日ならずして江戸表の御差支はいふべからずと奉存候其節軍船を乘出し打拂ひ候策略御座候とも是迄水軍の御習はせも無之固より船軍は本邦の不得手なる事にて彼れの尤も長じ候所に候へば兵法に所謂以勝予敵と申ものにて必敗の道に可有之候よしや其節敢死之士多分有之候て血戰仕候とも只あたら御人を損じ候迄にて勝利之義は萬々無覺束奉存候去れば迚此節大島等に御備場を被建多くの御人數を被差置候とも是迄の御趣法にては只多分の御入料の費へ候のみにて何の御役にも相立申間敷奉存候萬一彼所に御備場を被建御武器等も夫々御具へ兵糧も不足無之樣御經營御座候共夷人の方にて數艘の軍艦を用意仕右を二手に引分け候て一手を以て是よりの海路を塞ぎ一手を以彼島を襲ひ候はゞ是より援兵を出し候とも前條申上候如く果敢々々敷勝利有之間敷又彼地に於ては外よりの應援の兵無之候へば日を待て潰候より外有之間敷左候節は空しく兵糧軍器を以強寇に與へ候次第にて其策尤も危き義と奉存候
右に付熟考仕候に兎にも角にも先達て條陳仕候八策<其一諸国海岸要害之所嚴重に炮臺を築き平常大炮を備へ置き緩急の事に應じ候樣仕度候事其二阿蘭陀交易に銅を被差遣候事暫御停止に相成右之銅を以西洋製に倣ひ數百千門之大炮を鑄立諸方に御分配有之度候事其三西洋之製に倣ひ堅固の大船を作り江戸御廻米に難破船無之樣仕度候事其四海運御取締りの義御人選を以て被仰付異國人と通商は勿論海上萬端之奸猾嚴敷御糾有御座候事其五洋製に倣ひ戰艦を造り專ら水軍の驅引を習はせ申度事其六邊鄙の浦々里々に至り候迄學校を興し敎化を盛に仕愚夫愚婦迄も忠孝節義を辨へ候樣仕度候事其七御賞罰彌明に御威恩益々顯れ民心愈固結仕候樣仕度候事其八貢士之法起し申度候事>之外有御座間敷奉存候就中近日蘭人より申上候趣承知仕候ては右八策之内尤も御急務と申は洋製に倣ひ數多之火器を御造立て候と同じく戰艦を御仕立水軍を習はせられ候との二事と奉存候先此二事を御興し被遊候節は餘事は隨て擧り候義も可有之奉存候
然る處西洋製之戰艦御造立と申義是迄公儀之重き御規定も御座候へば尤も容易ならざる義とは奉存候へども右之外に外寇防禦之策無之に極まり候はゞ假令是迄如何程重き御規定御座候とも天下之安危には難替義と奉存候畢竟御先代樣にて右等重き御規定を被爲立候も天下後之義を厚く被思召候ての御事に候へば御當代樣の御物數奇等にて右を破らせられ候はんには如何にも濟せられまじき御義理に可有御座候へども天下之爲に立てさせられ候御法を天下の爲めに改めさせられ候に何の御憚か御座候べき平常の事は平常の法に從ひ非常の際は非常之制を用ひ候事和漢古今之通義と奉存候其上船の御制度を御定め被遊候御代の西洋夷と此節の西洋夷とは其用意之大小國力之強弱等總じて懸絶仕候事地球内諸州沿革之樣子にても顯然たる事に候へば御先代樣と此御時節と御代を替へさせられ候はゞ必ず是迄の御法に限らせられ候義は有御座まじく被存候去ればこそ中庸の孝者善繼人之志善述人之事者と申候も事勢を辨へず時宜に達せずひたすら舊制に拘泥仕候義には無之時に應じ變に隨ひ所を替へば皆しかあるべき樣に仕候を誠の孝道にかなひ候とも中庸の道にあたり候とも申候義と奉存候此義理事勢を御廟堂にて能御了得御座候はゞ何卒早く戰艦之義に御取掛被爲在候樣仕度奉存候右だに御制度を改められ候はゞ爰に一策有之候此策をだに御取用ひ御座候はゞイギリス唐山に志を得る得ざるを論ぜず本邦を闚仕候念は自然と摧縮可仕と奉存候
其策と申は別義にも無之右の戰艦此方の船大工へ被仰付候ても西洋の船を造り候書類種々渡來も仕居候よしに候へば大抵には出來可仕候へども先年魯西亞の主ペートルの始めて其國にて海舶を造り候節も相應の材木に差支へ工匠も事慣れず一艘にも多分の費掛り候ひし樣子に候へば數艦を火急に御造立候には餘程の御物入も可有御座且又其樣早急之義に參りかね可申候へば先づ蘭人に被仰付戰艦を貳拾艘程も御買上げに被遊可然と奉存候阿蘭陀領ジヤガタラ邊に多く海舶を仕立候場所御座候由に承り候へば日ならずして御用に相成可申候戰艦之代料とても尤も大小にも依可申候へども通用之分は大抵五千兩位のものにも候やの樣子に飜譯西洋書に見え申候左候へば貳拾艘御用被仰付候ても大略拾萬兩に可有御座候扨又阿蘭陀より水軍之法に鍛錬仕候もの測量に長じ大舶を扱ひ候もの等二十人船大工十人大小之鐵炮を造り候職人幷に陸戰の陳法に習ひ候者各五人宛も被召呼候て御旗本衆御家人の内を以て水軍數十隊を御擇み右之水軍に鍛錬仕候者に敎授被仰付又船持の御大名方にも軍役の内にて人數を定め家來のもの差出し其法を學ばせ候樣被仰渡船の制作は御大工の者に稽古被仰付大舶幷にバツテーラ等の快船を數十百艘御造立有之火器の造法は諸國より其人を選み其法を習はせ許多の銃炮を作り出し陸戰守禦之法をば御籏本衆御家人は勿論諸御大名之家來にも人を擇で稽古仕候樣に被仰付樣仕度奉存候是等の人數阿蘭陀より被召呼候事も格別の御入料には有御座まじく候先年阿蘭陀甲比丹より申出候には一ヶ年二百金被下候はゞ何に限らず善き職人を連れ來可申段申候由に候へば四十人被召呼候ても一ヶ年僅か八千兩に有之候箇樣せさせられ候はゞ其入用は僅かにても西洋諸州への聞えは頗る盛なる義に有御座べく候阿蘭陀は小國には候へどもその國人諸藝術に長じ軍事にもよく鍛錬仕居候故小國ながら諸國にて侮り不申候由畢竟イギリスの本邦を闚仕候も本邦の水軍に習はず近來西洋にて盛に用ひ候神妙の火器を不心得に候を見込候ての事に御座候所右之如く戰艦等御買上に相成又新規にも御造立水軍をも御調錬有之火器をも御作り西洋方の火術を專ら演習御座候趣承り傳へ候はゞ武略に名譽御座候本邦の元來短兵に長じ候上に又己れを舎て人に從ふの量を以て水軍火器は專ら西洋方を被用候知略識量に感服仕御武備の御嚴重なるに駭き候て自然と闚の念を消し要して交易を願ひ候はん等の奸謀十に八九は空しく相成可申候若又夷人冥頑無知にして畏るべきを畏れず兵を引て交易を要し候等の義御座候とも右之策御取用ひに相成御武備御整ひ候上は兵法に所謂立不敗之地と申ものに御座候得ば最早少しも臆すべき義無之如何樣とも正辭を以て願筋御拒絶有御座度且兵船を我近海に近づけ其願ひを爲す狀無禮之段嚴敷御叱り御座候はゞ如何程無恥之夷狄に候とも必ず心に凛然と恐れ忸然と愧入候場可有御座候萬一左樣御座候上も尚豆州浦にて御打拂に相成候事等申出し候事有之間敷にも無之候へども彼れを追退け候程の武備既に我に御座候上は本邦の國法長崎表之外總じて異國之船近寄候事を不許近寄候をば手痛く打拂ひ候が國初よりの御作法也と御答御座候はんに何の御遠慮も有御座間敷候右にて承服不仕聊たりとも彼より不法之振舞を仕候はゞ其節は兼ての御用意も御座候事片甲をも殘さざる樣鏖戰を遂られ度奉存候我に戰艦御座候て水軍の鍛錬だに行屆き候へば江戸表の海運を妨げ候爲めに豆州沖等に大舶を繋げ候類の惡計を成し候とも此方に於て如何樣とも方略可有之候
又西洋の火術を用ひ候上にて水陸の利害を論じ候へば舶にて來り候ものは必敗の理有之陸に居候方必勝之算御座候趣に承り及び候既にイギリスの所領亞弗利加州の南端に唐山人の喜望峰と譯し候場所有之候所西洋諸州の海舶必ず此所の海濱を經候はずしては亞細亞州に往來仕候事不能候然る所何國の舶にても右の近海を斷なしに通候節は其舶を引留め其子細を相糺し事誼に依り候ては其舶を奪ひ取候由夫と申もの畢竟彼れに人を制服仕候程の武力御座候故と被存候本邦に於ても水軍火術だに彼國に不劣候樣相成候はゞ海岸に近寄候異船は盡く御打拂に相成候御作法にて世界萬國皆膽を破て御武威に恐怖仕決して岸近く舶を寄せ候等の義は有御座間敷況や猥に上陸致し竹木を伐り取候<奥州南部領松前領等にては往々此義御座候趣に承り及び候>等の不法之義は勿論に可有御座候然る處此節之通洋製之戰艦も無之水軍にも習はず太平無事の時に至り漸々に開け候花法の火術のみにて近來西洋にて戰爭の間に機巧を極めて製し出し候ボンベン ペキザンス等の實用の利器を不案内にてイギリス等の強寇を攘はんと仕候は千萬無心許義と奉存候右ボンベン ペキザンス等の奇巧猛烈なる火術は和漢共未曾有之事に御座候故世に傳え候諸家の兵法も只今と相成候ては其將帥たる者の機智上之心得に相成候事は勿論御座候へども其城制陣法に至り候ては總じて用に充らざる樣奉存候然るを偏固に故轍を守り一隅に自足仕候兵家者流のみ世に多く候は是又嘆息に不堪義に御座候右底の御國勢にて先年夷船御打拂に相成候義御國法之旨強く御申張られ候とも彼れにて畏れ候事無之候へば必ず更に不遜之義を申出し容易に兵端を開き可申其節に及び如何なる御計略御座候て彼れを御取拉ぎ被遊候はんと被思召候哉御廟堂之御上にも御念慮此に及ばれ候はゞ如何樣にも御寒心御座候て聊も御猶豫なく萬全之御良圖御座候べき御義と奉存候<萬全の御良圖と申候も乍恐前條申上候策之外有御座間敷奉存候>
兵法にも有之候百戰百勝非善之善者不戰而屈人之兵善之善者也と此言に拠り候節は外寇の既に至り候後に及び是と戰を決し思ふ圖に打勝候て敵軍を鏖にし其器械資糧を奪ひ取候共尚其上計とは不仕況や勝敗互に有之候をや又況や我の勝算極て乏しく候をや去れば唯夷虜の心をして自然と憚畏を生じ我神州を闚仕候念を絶たしめ候樣仕候が眞の太上之策に可有御座候兵法にも日費千金然後十萬之師擧とも有之候昔の善く兵を用ひ候ものは取用於國因糧於敵と申候だに十萬之兵を興し候には一日の費千金に及ぶと申候唐山にては古より金銀に乏しく候故本邦に比較仕候ては金銀之位殊の外貴く御座候左候へば千金の費と申は本邦にては大略萬金以上に當り可申歟まして只今の時に當り外寇を防ぎ候には糧の因るべきなきのみならず場所に因り候ては道路不便にて兵糧の轉輸に手數の掛り候所も有之べく第一戰國時分とは相違仕久敷泰平に狎れ候人氣に候へばすは變事と申候はゞ只上下とも騷々とのみ仕天下の人民多く其家業をも失ひ可申是が爲めに日用の諸品も遽に高價に相成可申左候はゞ公儀の御費は兵法に申候所より幾倍に相成可申哉莫大之義に可有御座候依之始終天下之御疲弊にも相成可申義は智者を待ずして明白なる義と奉存候左候へば彌以此節僅かの御費を不被惜初め申上候一策を御用ひ彼れの奸謀を未だ成らざるに破り我の大師をまさに興さんとするに停められ候樣有御座度左候はゞ實に天下幸甚と奉存候
扨又西洋製の大舶だに御しつらひに相成候はゞ前きの八策にも申上候通り江戸御廻米に難破船無之且又天下之大利を興し候て蘭人被召呼戰艦火器等御造立御座候御失費をも暫時に取返し候趣法有之候兼て承候に近頃年々に天下之難破船と申もの莫大に相成候て年により候ては下の關より仙臺迄の間千八百餘艘に及び候事も御座候よし當年抔も聢と仕候義は審かならず候へども冬の初め迄に天下の難破船四五百艘も御座候ひし由に承り候右等莫大之難破船其積込候諸品はその時々盡く海底の水屑と相成候義や又或は當年加州にて仕置に行はれ候奸商抔の如く其船頭の奸猾にて私に異國人と交易を仕表向をば難破船の趣に取成し候もの歟疑を着け候へば船方之義に於ては不審之事共多く有之候夫と申もの畢竟公儀に海運の御締りと申もの是迄無御座候故と奉存候如此弊風にて萬一外寇にても御座候はゞ其害擧ていふべからずと奉存候扨右之通年々難破船多く候て船元を仕候者利方不宜候に付船を造り候にも成丈その入料を省き候故彌船も損じ易く船多分損じ候故益々利方も薄く候に付追々天下之船數減少仕此儘にて御改正之御趣法無之候ては遠からずして公儀の御差支にも可相成と船方のものは申居候よし愚意奉存候にはこの天下之船持に利潤薄く候時こそ誠に難得の幸公儀にて大利を御興し被遊候御時節唯此時に限り候義と奉存候天下船の利潤多く候時に當り公儀にて其利を專らにせさせられ候へば下に利を失ひ候族も不少人情も穩かなる間敷候へども夫迚も天下之御大計に預り候義に御座候はゞ御餘儀もなき事に候所此節幸に諸湊船持のもの利潤薄く候故に作るべき船も造らず罷在追々御差支にも可相成と申次第に候へば此御時節天下七ヶ所の大湊に〈石ノ巻江戸鳥羽大坂下の關長崎新潟〉御船役所を被建嚴正廉直にして才幹御座候人を御選み其奉行に被仰付船方之諸務を掌らしめ海運の御取締りを嚴重に被付候て右御しつらひに相成候西洋製の大舶を以てかねて蘭人に稽古被仰付候水軍之内是又御人選を以て人數を定められ賊船に出逢候節隨分防禦の差支無之程に武備を設け海運之利を御開き御座候はゞ年々夥敷難破船の費も無之米穀泉貨の空しく海底に沈み又は異國に散失仕候事永く無之樣相成可申候左はゞ右之財貨は殘らず公儀の御府庫に聚り候には無之候へどもかの靑砥何某が論じ候如く融通之利は天下に普ねかるべく候へば當今天下之大利と申ものこの策にしくべからずと奉存候且又難破船だに無之候へば海運程利の大なるものは無之候左候へば右堅固之船を以海上にて奸猾無之樣御締を被付候はゞ最初申上候通海防御入料程の義は遠からずして御取返しに相成可申義と奉存候扨年々之難破船親しく目に見ぬ事に候へば左迄の樣被存不申候へども積算仕候へば取戻し難き天下莫大の損材に御座候當年之所にて姑くその大略を申上候はんに四百艘の破船と仕其船には三四百石積又は五六百石積或は七八百石千石積も可有之候右を内端に積りならし五百石積と仕是を打立候に壹艘に付五百兩と積り候へば〈船を作り候に大抵百石百兩の積と承り候〉四百艘にては貳拾萬兩に相成申候積入候荷物假りに百金の代物と見倒し候ても四萬兩に有之候この貳拾四萬兩御座候へば五千兩の西洋舶四十八艘出來仕候洋製之大舶四五十艘天下に御座候はゞ洪大の御利益に相成可申候先一旦に如此相成らず候とも前條申上候貳拾艘の御買上げにて水軍の御勢鍛錬行屆き候節武備演習の心得を以上乘被仰付廻米之御用船と相成可然候箇樣御座候節は萬一夷船にて江戸之海運を妨げ候節の御手ならしにも相成且又御廻米に難破船と申義絶て有御座間敷候へば右にても餘程の御便利に可有御座候本邦の人は萬國に勝れ候て器用の性質に御座候へば御世話の屆かれ次第大舶のあつかひ方も暫時に功者づき可申前條の船政迚も年を經ずして行はれ候樣相成可申義と奉存候
或は大舶の製法幷に水軍の鍛錬も是迄本邦に無之新規の事にて候へば用立候程には容易に至り兼可申且何藝に限らず學び候ものゝ方敎へ候ものより劣り易きものに候へば旁以實用に無覺束段御氣遣ひも可有御座候へども古來より出藍の諺も御座候義且近くは魯西亞の主ペートル其國の大船に乏しく水軍に不習航海に疏く候を嘆き阿蘭陀より諸藝に長じ候ものを倩ひ國人に是を習はせ候所尤も督責勸奬の行屆き候故か右之諸藝暫時に開け遂に歐羅巴州中にて名譽の國と相成申候一體魯西亞國は右ペートル以前は西洋諸州の内にも頑愚之貧國とて共に齒ひをも不仕位の國に候だに上に豪傑の主有之是を導き候へば他國の下にたゝぬ樣相成申候まして本邦の義は地球中比類無之靈慧之國にて疆域の大なる所こそ唐山魯西亞に讓りも仕候へども土壤の豐腴人民の智能に至り候ては實に諸州に勝れ申候既に此節の船にても其扱ひは遙に唐山人に優り候由左候へば此上御世話だに御座候はゞ船軍の驅引とても程不遠して屹と御用立候程に罷成可申候事何の疑も有御座間敷奉存候
さて大銃御鑄立の義前八策には阿蘭陀交易に銅を被遣候を暫く御停止に相成度段申上候所近日蘭人より申上候義等を承り候場にては事機に後れ候ては臍を噬み候とも及び難き義も可有御座候に付手短く蘭人を以本邦の御武備御卓量を外夷に鳴し候はんとには蘭人の氣向きを損じ候ては事調ひ兼候間蘭人への銅は暫く是迄の通にて本邦に相殘候銅之分を以て天下に他の器材を作り候を被禁盡くに火器を御造り立御座候はゞ右にても一兩年の間に多分の利器出來可仕候本邦諸國にて掘り出し候銅年々の定數大抵三百萬斤にて半は阿蘭陀唐山之互市に相渡り殘り百五十萬斤本邦にて用ひに相成候由に承候右百五十萬斤の内百萬斤を以て錫十分の一を加へ候へば十七萬六千貫目御座候に付ホーヰツスル<筒の目方百二十貫目餘>千門モルチウル<筒の目方百五十貫目餘>千門を被鑄立申候其餘五十萬斤を以ても又大小の石火矢數千門を被造立申候尚天下の寺院辻堂等より扣きかねさうばん等の無用の銅器を取集め候はゞ又多少の大銃出來可仕候是等御勇斷を以て急々御經營御座候はゞ朞年にして必ず盛大之御武備に相立可申候扨又右之御鑄立に相成候大銃も總じて西洋製に御倣ひ輕便に御造立有之公儀御用之餘は御大名方御籏本衆にも代價上納之上御引受けに相成候樣相成候はゞ筒の目方法に外れ持運びに不便なる大筒等は自然と鑄立候ものも無之天下多少の浮費を省き候て世に實用の利器のみ多分に相成可申候
偖かゝる外寇に御安堵出來かね候御時に候へば專ら天下諸侯の力を弛められ財用を御節し御國力を強盛にせさせられ候事乍恐當今御急務の最第一と奉存候近來は諸侯方次第に御疲弊候て天下之武備自然と是に隨ひ漸く衰弱に罷成候時節に候へば深く此所に被運御思慮候樣仕度奉存候就而申上候は誠に恐多き御事に候へども先達て公儀より被仰出候明年日光山御參詣之御義も外寇之虞等無之御時節に御座候はゞ本より重き御盛典の御事に付天下之御力を盡させられ候ても如何樣にも御經營有御座度御義に御座候へども此外寇の來りも可仕事いつを計られざる御不安心之御時節に當り天下之御大計を被思召諸侯方之力を弛められ公儀にも盛に御武備を被爲張候はんとには誠に以て恐多き御事に御座候へども明年の御參詣暫く御延引被仰出前條申上候策御取用ひイギリス夷にも本邦の御武備に畏れ事ゆゑなく唐山地方を退き候其以後に至り目出度御盛典を被爲行候はゞ神祖御神靈も如何計歟御滿悦可被思召御義と奉存候然るを折角の御大禮にても是が爲めに天下之疲弊を彌増候て御武備も十分に不被爲屆其時に乘じ外寇の至りも仕候はゞ何を以其妖氣を御掃淨御座候べきや所謂雖有智者不能善其後と申ものにも御座候はん歟一念此に及び候節は實に痛心に不堪義に御座候此の如きの時勢にては假令御參詣被爲在候とも乍恐神慮之程如何可有御座哉と奉存上候是等御大政之御義を微賤の私底より申上候は誠に以死罪之至に御座候へども當今天下の御大計に於ては實に如此なるべき御義と奉存候に付假令是等の義を申上候に依り重き罪科を蒙り候迄も何も御國恩を奉報候義と奉存敢言仕候義に御座候誠に容易ならざる御事に御座候間何分にも御廟堂之御評議と相成速かに右御延引之義被仰出候樣仕度奉存候
さて右御財用を節せられ諸侯の力を被弛候御大計も相建蘭人御倩ひ御座候て軍艦火器の御備有之候上にも猶申上置度候義は勞逸の説に有之候本邦は四邊皆海水にて尤も場所に因り險夷は有之候へどもイギリス等にはストンボート<石炭の火力を以て走らせ候快船の由>抔申逆風狂浪にも無差支矢の飛び候如く迅速に走り候船御座候て既に此度唐山へは右之船帶來仕り諸方に害を成し候よしにも承り候へば本邦之海岸に險絶の所の外は何方にても警固之心得無之候ては叶ふまじく奉存候依之本邦六十餘州之内無海の國上野下野甲斐信濃飛彈美濃近江大和山城河内丹波美作を除くの外五十六國を以て大略諸葛亮が八陳の法に本づき大八陳と仕無海之國十二と大湊七ヶ所に御備へ御座候水軍の御勢を以て游兵に象り<有海之國といへども海に遠き所は無海の國の例に從ひ無海の國も海岸に近は又有海の國の例に準ずべし>總じて八陳の大意を主とし觸る處首と爲り候樣仕邊海總じて勞攘の患なく游兵之外は南方を以北方に勞せず西方を以て東方に役せざる樣有御座度奉存候左候はゞ縱令イギリスロシヤ等力を合せ八面より兵を向け候義御座候とも兼てより此所に御定策御座候はゞ我の彼れに應じ候もの綽々然と餘裕有之候て決して城内奔命に疲れ候患有御座間敷奉存候
乍然此義は前條申上候諸策御取用にも相成候上の事にて中々此節の儘にては如何樣瀕海の國をして觸る所首と爲り候樣御手配御座候共聊其詮有御座間敷候義は既に前條反覆申上候通海運の要路に賊船を被繋候節如何とも難仕義と奉存候右に付只兎に角始め申上候義より御手始め無之候ては眞の御武備には相成申間敷奉存候且又何事に寄らず機會と申もの大切に御座候所殊更兵事に於ては成敗利鈍の係る所に候故古來より明君智將は唯この機會を失はざる樣仕候義に御座候總ての事其機會に後れ候節は良策奇籌も其甲斐無御座候已上數件之諸策此節即ちその機會と奉存候蘭人の申上候如く唐山にて頻に戰に打負け其士民をも損じ土地をも失なひ候後に及び近來漸く我を折り候て始めて西洋人を抱へ火術を學び候等は尤も事の機會を失ひ候の大なるものにてよき鑑戒と奉存候何卒御廟堂之御勇決を以て圓石を轉じ積水を決し候如く此機會に御投じ被遊候樣仕度奉存候御上にも天下之御大政に被遊御預其上此節海防の御掛りに被爲入候へば何分にも天下後世の爲に被盡御心力永く神州に戎狄之難無之樣御處置之程奉願候此節にてこそ御勝手御掛にも不被爲入海防御掛迚も大炊頭樣御一同被蒙仰殊に大炊頭樣御筆上の御事に候へば萬端被思召候通參りかね候義は御尤至極に御座候へども萬一事の起り候義も御座候はゞ同じく此御時に被爲當候御事に候へば天下後世に其責めを被遊御辭候義は乍恐御出來兼被遊候御事と奉存候右に付私底御家來の身に罷在候ては誠に深く憂懼仕候義に付不顧恐右之次第謹て申上候愚衷之程何分も御明察被成下唯空文と不被成下御覧置候樣奉願上候以上
十一月廿四日佐久間脩理

追 記

大砲鑄造の料に銅十分一の錫を加ふるは古法也當時荷蘭にて良法とする所は銅百分に錫十一分半を加ふるなり海寇を十分に防ぐには百五十ポンドのボンカノン以下廿四ポンドのカノン迄にあらざれば其用薄し陸戰には二十四ポンドのカノンより以下三ポンドまでを用ふる也モルチール・ホウウヰツツル大小數種ありて海陸共に其用ありこゝにホウウヰツツル・モルチールを主にしてカノンを後にし且つ筒の目方など二種に限りたるはいといと拙なかりき此頃は予未だ西洋の學を窺はず一二譯書を讀みしまでにて砲術にかゝりては其譯したる書も一部を得ず僅かに江川下曾根兩氏に就てその説を聞きたるまでなればかゝる固陋の事ありし也九年後庚戌の夏にいたりて此稿を開らき深く愧るの餘りにかくはしるすもの也