五経のひとつである『礼記』は、周から漢にかけての礼に関する記が編纂されたものですが、そこから漢代の儒者戴徳が古代の『礼』の『記』、『孔子三朝記』、『曽子』といった礼文献を取捨して整理しその理論と解説を記して、全13巻85編(うち39編が現存)から成る儒教関連の論文集を作成しました。
なお、そこから戴聖がさらに46篇を選び取り、別に『礼記』を作ったのですが、後世に戴徳版と戴聖版を区別するため、戴徳を大戴、戴聖を小戴と呼ぶことから、戴徳のものを『大戴礼記』(『大戴礼』)、戴聖のものを『小戴礼記』と呼んでいます。
四書五経の五経『礼経』より学ぶ!大学、中庸を出典とする礼の経書!
大學(大学)より学ぶ!人を治める道の書!
中庸より学ぶ!過ぎたるは猶及ばざるが如し!
『隋書』にもこのように書かれています。
「漢初、河間獻王又得仲尼弟子及後學者所記一百三十一篇獻之、時亦無傳之者。
至劉向考校經籍、檢得一百三十篇、向因第而敘之。
而又得明堂陰陽記三十三篇、孔子三朝記七篇、王史氏記二十一篇、樂記二十三篇、凡五種、合二百十四篇。
戴德刪其煩重、合而記之、為八十五篇、謂之大戴記。
而戴聖又刪大戴之書、為四十六篇、謂之小戴記。」
『小戴礼記』については、後に後漢末の馬融が『小戴礼記』に3篇を付け加え、現在の全49篇になり、これが現在伝えられている『礼記』でして、『大学』はその第四十二篇に治められています。
なお、現在通行している『礼記』の注には『十三經注疏』に収められた後漢の鄭玄注、唐の孔穎達疏の『礼記正義』や陳澔の注釈した『礼記集説』などがあり、また『大戴礼記』には、北周の盧辯の注や、清朝考証学者の注釈、孔広森の『大戴礼記補注』、王聘珍の『大戴礼記解詁』などが参考になります。
古代より中国では、礼は社会、特に国体にとって最も重視された規範でした。
孔子の教えも礼を重視しており、根本則が三百、細則が三千あるとされていましたが、漢帝国創建のときにはその内容は殆ど伝えられていませんでした。
そのため、前述の漢の宣帝が学者を石渠閣に集めた折に『礼記』の編集も行われ、『大戴礼記』や『小戴礼記』が編纂されています。
そんな中、『大戴礼記』の要約文である『小戴礼記』が何故後世に『礼記』として伝えられているのかは解せない点ではありますが、(残念ながら85編中、現存が39編という状況ではあるものの)『大戴礼記』で失われた大半
が『小戴礼記』にあたるものであり、礼の考え方を伝えるのに『小戴礼記』で十分であったと判断されるだけの内容であったのではないかと想像されるのです。
ま、この想像はあくまでも仮説でしかないですが、現存する『大戴礼記』には、本来礼とは余り関係ない孝経曾子関連10数篇や論語・尚書もどき、儒教からはやや遠い道教五帝武王関連が加わってきていることからも、儒学主流派にとっては『小戴礼記』は『礼記』として認めるだけのものがったのかもしれません。
こうした時代背景も想像しながら、改めて『礼記』や『大戴礼記』を調べてみてはいかがでしょうか。