今回は「この人無しには、国学は起こらなかった」といわれる人物、契沖についてです。
江戸時代中期、近世前期の幕末・朝廷の文事奨励や社会・経済の安定によって、学問が普及して古文献への関心が高まり始めた時期で、明清交代による「華夷変態」という東アジアの国際関係の変化により、清の周辺国家においては自国こそ「中華」であるという認識が生じるようになっていた時代背景がありました。
そんな中、そもそも大坂の真言宗の僧であった契沖が、徳川光圀の依頼により、古語・古訓の研究にもとづいて『万葉集』の解釈を一新したといわれる『万葉代匠記』を著しています。
『万葉代匠記』は、実証的で緻密、しかも創見が多く、「国学」は本書の成立を以て始まったと言われた程で、固有の文化の解明をめざした先駆けともなりましたが、その成果から光圀が出仕を持ち出すも、契沖はこれを固辞。
生涯を孤高に送り、「俗中の真」を求めた秋霜烈日の人、まさに「無我」「無私」の人であったのが契沖です。
以後も契沖は、仏教書や和漢の古書に精通した学識で古典を研究し、
・『伊勢物語』の注釈書である『勢語臆断』、『古今集』の注釈書である『古今余材抄』、『厚顔抄』『源註拾遺』『百人一首改観抄』など数多くの注釈書
・『和字正濫鈔』などで歴史的仮名遣いの基礎を確立
・『勝地吐懐編』など歌枕研究
・『河社』『円珠庵雑記』『契沖雑考』などの研究随筆
を著した他、
・『新撰万葉集』『古今和歌六帖』などの和歌抄出
・六国史などの歴史・物語・日記類の古典の書写、抄出、書入類
・新古今調で写実的な和歌を詠み、『契沖和歌延宝集』『漫吟集』などに6000首以上収録
といった多くの優れた業績を残し、本居宣長を始めとする後世の多くの人物に大きな影響を与えました。
歌学から出発した国学は、上代中古の歌のうちに人間の性情の偽らざる流露を見ており、それが後世の道学的精神によって、歪曲ないし隠蔽されるに至っています。
実際、儒仏の説く道徳の反人間性=偽善性の暴露は、国学の主要なる任務となっており、契沖は『勢語臆断』に業平臨終の歌、「つひに行く道とはかねてききしかど昨日今日とはおもはざりしを」を
「これ人のまことの心にて教へにも善き歌なり、後々の人は、死なんとするきはに到りてことごとしき歌を詠み、あるいは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずしていと憎し。
ただある時こそ狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらん時にだに、心の誠にかへれかし。
此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして死ぬるなり」
と注釈していますが、本居宣長は
「やまとだましひなるひとは、法師ながら、かくこそ有けれ」(玉かつま 本居宣長)
として、内面的心情の尊重のうちに大和魂を見出していた契沖の本質を見ていたのです。
本居宣長の契沖への関心は、その著書に散見されます。
「古学とは、すべて後世の説にか、はらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問也。
此学既ちかき世に始まれり。
契沖ほふし、歌書に限りてはあれど、此道すぢを開きそめたり。
此人をぞ、此まなびのはじめの祖ともいひつべき。
次にいさ、かおくれて羽倉ノ大人、荷田ノ東麻呂ノ宿祢と申せしは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こ㌧ろばへを立テ給へりき。
かくてわが師あがたみの大人、この羽倉ノ大人の教をつぎ給ひ、東国に下り江戸に在て、さかりに此学を唱へ給へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける。」『うひ山ぶみ』 本居宣長)
「わが古学は、契沖はやくそのはしをひらけり。」(『玉勝間』 本居宣長)
『うひ山ぶみ』は、宣長畢生の大著「古事記伝』四十四巻の執筆を終えた宣長が、自らの学問への明確な定義と系譜の確認を与えたものと言われていますが、宣長は後世の説に捉われることなく、古典籍に直接に拠って上代の事象を考究するのが、古学の根本的な態度であることを説いているのですが、そこに契沖の影響が表れているのは自明です。
また、上田秋成も、契沖が万葉研究の道しるべとなる先駆的な業績を挙げたことを高く評価し、特にその学問が神代の事やそれ以後の人皇歴代の事跡などに広汎な探求の眼を向けて、万葉歌の解明に多大な貢献をなしたばかりでなく、自らの万葉研究の道標と支えであったと大きな評価をしているのです。
「よき師すぐれたる人しきしきに出くるは、今のおほん時ばかり有りがたき御代はあらじ。」
こうした契沖の学問は、和歌への好尚に発して古典研究に没頭し、やがて神代史・古代史から『万葉集』『古今集』以下の歌集類、『蜻蛉日記』『源氏物語』などの王朝日記や物語類、その他多くの古文献を博捜して膨大な古典学を構築しているのですが、秋成が契沖を総合的な古典学として評価し、道の先達として深い敬意を払っていることは、その万葉学をはじめ『源注拾遺』や『勢語臆断』の影響が秋成の著述に濃厚に現われていることにも認められます。
「近世釈契沖・荷田東麻呂・加茂真淵等、専ら託字を正し訓点をつとむ。
其切古人に越えたり。
されど猶読うべからぬ所々有は、世瀧として其便宜なければ也」(『万葉集会説』 上田秋成)
「近世契沖・東満・真淵等、専ら誰字を査点して古に復すといへども、亦臆断に過て見ゆる事有。
次々に古道をとなへ、我こえたりとて、頻に鞭をうちて先駆をあらそふ、風雅中の偽情、霧に痛むべし。
四千五百余の歌、儒仏の教への一語をたがへば、人迷路に堕るにこそ。
歌は淡薄を除き、鶏肋を置き、詞は鳥語と転訛を棄て、五味各好むま\に賞嘆して遊ばば、何の争ひもなく、心静に古人をしのぶ人なるべし。
是は此誤字、このよみたがへりと云つ\、改作の如くさかしらする。
さて見れば、尚よくもあらぬ歌とて、鶏肋の部に入べきを、何のほまれとかする。
いといと猿がうの力業けり。」(『金砂剰言』 上田秋成)
また、荷田春満も、自らの家集「春葉集』の序にこのように著しています。
「うし(注、春満)よりさいっ人難波のたかつの阿闍梨(注、契沖)世にいでまし、あめのみはしらのみこと挙をはじめに、しぐれふる奈良の林のしげけきをさへ解きあかされしを見聞き侍るには、た穿にそのかみの人にがもとあやしみっつ、人皆さしあふぎてぞ侍るを、そののちいく程もなくてうし出でまし、猶かたうがへ足らはし、事だて給ひしかば、今はうらやす国のうら安きまなびとしも成んだりける。」『春葉集 荷田春満』
「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也。」(国歌八論評・古学論』 荷田在満)
※)契沖には「本朝は神国なり」とか「上古は神の治め給ふ国」という皇道的思想の萌芽があらわれていました。
それを「神道」として歌学の中央に浮上させたのが、荷田春満です。
春満の学は、甥で養子ともなった荷田在満に受け継がれ、やがて賀茂真淵の国学運動史に及んでいくのですが、それはまた別の機会で整理することにします。
『厚顔抄』の序には、和歌を神儒仏の三道に比肩しうる精神修養の具とする、契沖の宗教的な文芸観が説かれています。
「三道ハ警バ猶シ経ノ之縷縷別有ルガゴトシ。
経ハ必ズ緯ヲ待テ蜀錦成リ呉綾出ヅ。
三道ヲ連接シテ恰カモ緯二似タル者ノハ唯リ倭歌而已。
斯二知ヌ。
倭歌ノ之用皇ナル実哉ナ、遠イ実哉。」(『厚顔抄』 契沖)
また契沖は『万葉集』を『詩経』に準ずるものと見なし、詩が「天下国家をおさむる」と同様の政教的効用を和歌に認めようとする一方、和歌は心身の俗塵を払う精神修養の具として聖賢の道、もしくは仏道に至る方便であると説いています。
「しぬる事のがれぬ習とはかねて聞おきたれど、きのふけふならんとは思はざりしをとは、たれたれも時にあたりて思ふべき事なり。
これまことありて人のをしへにもよき歌なり。
後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。
ただなる時こそ狂言綺語もまじらめ、今はとあらん時だに心のまことにかへれかし。
業平は一生のまこと此歌あらはれ、後の人は一生のいっはりをあらはすなり。」(『勢語臆断』 契沖)
神儒仏の道と和歌との間に密接不可分の関係性を説いた契沖。
改めて、国学の祖たる契沖に触れてみてはいかがでしょうか。