茶の本より学ぶ!天心が掲げた理想の日本人とAsia is one.!

岡倉天心(本名岡倉覚三)は、外国人に向けて日本文化を紹介するために、明治39年『茶の本(The Book of Tea)』を英語で執筆、ニューヨークで出版しました。
ちなみに「天心」という雅号ですが、その出典は「道教」の瞑想法の経典『太乙金華宗旨』(唐代)にあります。
※)「天心」の意味とは、上丹田(両眼の間)に潜在する天上の光(天光)のことで、仏教では釈尊が悟りをひらかれたときに光を放ったという「白毫」のことです。
この『茶の本』は、タオイスト天心が行き着いた究極の思想・道教(道家思想)を根底にした暮らしの哲学をあますことなく語った書物であり、「茶の湯」を軸にしての東洋文化論として、現代に至るまで世界各国で読み継がれてきています。
とはいっても近年、日本国内ではほとんど話題になることもなくなってきていますので、この折に整理しておきたいと思います。

日本では「茶道」の思想的背景と「禅」の深いつながりを指摘されますが、そのルーツは「道教」が潜んでいます。
インドから伝わった中国仏教の中で最も中国らしい仏教が「禅」ですが、その教理のなかには道教(道家思想)が継承され、その思想に根深く培われているからです。
そして南宋の茶は、南方禅を学ぶために彼の地に渡った栄西禅師が日本にもたらしました。

「道教」は個人主義を擁護する思想で、私たち自身(=現在)を問題とします。
現在とは絶えず変化する相対的な場とみて、自身がどうやったらそれに対応できるのか、身の回りの状況を絶えず調整していく術を問題にします。
道教はこの世をありのままに受け入れ、儒教や仏教と違って、嘆かわしいこの世の暮らしの内にも美を見出そうとする思想です。
宋代には、その「道教」の影響が強まって、現実を宇宙真理の反映・象徴としてみる発想から、「現実そのものが宇宙真理なのだ」という発想の転換が起こります。
さらにそれが「禅」の発展に繋がり、日々のありふれた暮らしの細々とした事柄のうちに、宗教儀礼と同様の偉大さを見出します。
つまり「茶の湯」の理念はそうした「禅」の考え方に由来し、日本においては「茶道」を「禅」の精神にまで結実したのです。
そのため、天心は「茶道」は姿をかえた「道教」とまで断じました。
『茶の本』では、「茶の湯」の系譜を貫く「道教(道家思想)」、「禅」という根本思想を遡上にあげ、儒教や仏教以上に本質的な東洋人の人生哲学であると説いているのです。

天心は『茶の本』の中で、茶の文化を「茶碗にあふれる人間性(The Cup of Humanity)」と表現しながら、東洋文化の特質を述べています。
その内容ですが、
・前半は茶の文化が発祥した中国での歴史、
 特に宋代で生まれ元の襲来とともに途絶えてしまった抹茶による「茶の湯」とその哲学的背景にあった「道教」と「禅」
からなり、
・後半は日本に伝わったものが「茶道」として完成していった経緯、
 そしてその周辺の禅の生活と芸術
を紹介するという構成です。

とはいってもその内容は肩苦しいものではなく、西洋文化を取り入れようと必死になっていた明治期の日本において、西洋と東洋を対等に扱い、場合によっては西洋に向けて東洋の優越性を語る天心の挑戦状とも読み取れる書物なのです。
前段の天心の物言いはまさに尊厳に満ちています。

東洋の理想は、「Asia is one.(アジアは一つ)」の書き出しに始まり、
「西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。
 ところが日本が満洲の戦場に大虐殺を行い始めてからは文明国と呼んでいる。
 もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、我々はあくまでも野蛮人に甘んじよう。」
といった文面が、そこかしこに満ちているのです。
あの時代に「Asia is one」を言える東洋人が、他にどこにいたでしょうか!!

どうですか、とても穏やかなる茶道の道を説くだけの内容ではありませんよね。
『茶の本』からは、貪欲に西洋文化を吸収しつつも、芯の部分には日本文化とさらには漢籍・古典から学び取った教養に裏付けられた日本人としての美徳と自信が沸々と漲っているのです。

これはいわば天心が描いた「理想の日本人」なのです。
しかもこれを世界に向けて、どうだと言わんばかりに出版した天心の心意気に、感嘆せざるを得ません。
現代でもこれを読んで、尊厳に満ちた日本人という姿を思い描く外国人も多々いることでしょう。
いやあ、世界に向けて恥ずかしい姿は見せられない、という気持ちにさせてくれる良著です。

是非ご堪能あれ。

4043093039406159138X40033115154800910374

 【茶の本】 岡倉天心(岡倉覚三)

目次

第一章 人情の碗
 茶は日常生活の俗事の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達す
 茶道は社会の上下を通じて広まる
 新旧両世界の誤解
 西洋における茶の崇拝
 欧州の古い文献に現われた茶の記録
 物と心の争いについての道教徒の話
 現今における富貴権勢を得ようとする争い
第二章 茶の諸流
 茶の進化の三時期
 唐とう、宋そう、明みんの時代を表わす煎茶、抹茶、淹茶
 茶道の鼻祖陸羽
 三代の茶に関する理想
 後世のシナ人には、茶は美味な飲料ではあるが理想ではない
 日本においては茶は生の術に関する宗教である
第三章 道教と禅道
 道教と禅道との関係
 道教とその後継者禅道は南方シナ精神の個人的傾向を表わす
 道教は浮世をかかるものとあきらめて、この憂うき世の中にも美を見いだそうと努める
 禅道は道教の教えを強調している
 精進静慮することによって自性了解の極致に達せられる
 禅道は道教と同じく相対を崇拝する
 人生の些事さじの中にも偉大を考える禅の考え方が茶道の理想となる
 道教は審美的理想の基礎を与え禅道はこれを実際的なものとした
第四章 茶室
 茶室は茅屋に過ぎない
 茶室の簡素純潔
 茶室の構造における象徴主義
 茶室の装飾法
 外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂
第五章 芸術鑑賞
 美術鑑賞に必要な同情ある心の交通
 名人とわれわれの間の内密の黙契
 暗示の価値
 美術の価値はただそれがわれわれに語る程度による
 現今の美術に対する表面的の熱狂は真の感じに根拠をおいていない
 美術と考古学の混同
 われわれは人生の美しいものを破壊することによって美術を破壊している
第六章 花
 花はわれらの不断の友
 「花の宗匠」
 西洋の社会における花の浪費
 東洋の花卉栽培
 茶の宗匠と生花の法則
 生花の方法
 花のために花を崇拝すること
 生花の宗匠
 生花の流派、形式派と写実派
第七章 茶の宗匠
 芸術を真に鑑賞することはただ芸術から生きた力を生み出す人にのみ可能である
 茶の宗匠の芸術に対する貢献
 処世上に及ぼした影響
 利休の最後の茶の湯

茶の本 本文抜粋

第一章 人情の碗

詳細は以下をご覧ください。
【参考】茶の本 – 岡倉天心