紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。
そんな今回は、「関屋」の物語です。
【源氏物語】 (壱) 第一部 はじめ
第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語
[第一段 空蝉、夫と常陸国下向]
伊予介と言った人は、故院が御崩御あそばして、その翌年に、常陸介になって下行したので、あの帚木も一緒に連れられて行ったのであった。須磨でのご生活も遥か遠くに聞いて、人知れずお偲び申し上げないではなかったが、お便りを差し上げる手段さえなくて、筑波嶺を吹き越して来る風聞も、不確かな気がして、わずかの噂さえ聞かなくて、歳月が過ぎてしまったのだった。いつまでとは決まっていなかったご退去であったが、京に帰り住まわれることになって、その翌年の秋に、常陸介は上京したのであった。
[第二段 源氏、石山寺参詣]
逢坂の関に入る日、ちょうど、この殿が、石山寺にご願果たしに参詣なさったのであった。京から、あの紀伊守などといった子どもや、迎えに来た人々、「この殿がこのように参詣なさる予定だ」と告げたので、「道中、きっと混雑するだろう」と思って、まだ暁のうちから急いだが、女車が多く、道いっぱいに練り歩いて来たので、日が高くなってしまった。
打出の浜にやって来た時に、「殿は、粟田山を既にお越えになった」と言って、御前駆の人々が、道も避けきれないほど大勢入り込んで来たので、関山で皆下りてかしこまって、あちらこちらの杉の木の下に幾台もの車の轅を下ろして、木蔭に座りかしこまってお通し申し上げる。車などは行列の一部は遅らせたり、先にやったりしたが、それでもなお、一族が多く見える。 車十台ほどから、袖口、衣装の色合いなども、こぼれ出て見えるのが、田舎風にならず品があって、斎宮のご下向か何かの時の物見車が自然とお思い出しになられる。殿も、このように世に栄え出なされた珍しさに、数知れない御前駆の者たちが、皆目を留めた。
[第三段 逢坂の関での再会]
九月の晦日なので、紅葉の色とりどりに混じり、霜枯れの叢が趣深く見わたされるところに、関屋からさっと現れ出た何人もの旅姿の、色とりどりの狩襖に似つかわしい刺繍をし、絞り染めした姿も、興趣深く見える。お車は簾を下ろしなさって、あの昔の小君、今、右衛門佐である者を召し寄せて、
「今日のお関迎えは、無視なさるまいな」
などとおっしゃる、ご心中、まことにしみじみとお思い出しになることが数多いけれど、ありきたりの伝言では何の効もない。女も人知れず昔のことを忘れないので、あの頃を思い出して、しみじみと胸一杯になる。
「行く人と来る人の逢坂の関で、せきとめがたく流れるわたしの涙を
絶えず流れる関の清水と人は見るでしょう
お分かりいただけまい」と思うと、本当に効ない。