三経義疏 法華義疏より学ぶ!聖徳太子が記した日本最古の書物!

『法華義疏』は、聖徳太子が晩年になって著したとされる『三経義疏』のひとつで、『法華経』の注釈書(義疏・注疏)として、615年に作られた紙本墨書、4巻からなる日本最古の書物といわれています。
日本最古の書物であり、かつ聖徳太子真筆の草稿といわれている割には、あまり知られていないこともあり、今回整理してみたいと思います。

『法華義疏』は梁の法雲による注釈書『法華義記』と7割同文で、これをもとにしたものであることが分かりますが、冒頭の表題と撰号(著者の署名)を欠いている状態です。
しかし、第一巻の巻頭には別紙を継いでここに「法華義疏第一」の内題があり、その下に本文とは別筆で「これは日本の上宮王(聖徳太子)が創ったもので、海外から渡来したものではない」(意訳)と書かれています。
料紙については、本文は中国製の紙を使用し、貼紙は日本製の紙であるとの見方もありますが、本文の行間には書込み、訂正などが見られることから草稿本であることが明らかであり、書風は六朝風で聖徳太子自筆の草稿本と考えられていますが、異説もあるようです。
しかし、これが日本最古の書物であることには変わりがありませんし、『法華義疏』などのの講読に対し推古天皇は、太子に播磨の土地をご褒美として与えたことが『日本書紀』に書かれていることから、当時の時代背景を考慮しても非常に貴重な資料であることはいうまでもありません。

ちなみに『法華義疏』は、他の『三経義疏』のように、明らかに特定の人物(推古帝や太子)を例えにしたものではないのです。
『法華義疏』の冒頭部分で「釈迦如来が出現した目的はこの経(法華経※)を説いて衆生を成仏させることである」という最重要の経典としての解説をしています。
※)『法華経』は仏の教えに帰依する一切の衆生が救われるという経典です。
  法華経の日本語訳
また『法華義疏』には、天皇の元での「中央集権化」の基礎を創ろうとした聖徳太子の国家統一への思想が読みとれます。
聖徳太子は『法華義疏』のなかで「五時教」について注釈し、
・阿含の教は四諦・十二因縁を、
・般若の教は法性空を、
・維摩の教は破執を、
・涅槃の教は常住仏果を明かすもの
であるのに対して、『法華経』は四一(※)を照らす実智を明かすものであると述べています。
※)四一とは、如来が一教をもって一機に応じ、一理を明して一人を化すことです。

すなわち『法華経』は”一体にして永遠である一乗の因(行)果(徳)の法(=妙法(永法))”によって、すべて生きとし生きるものが成仏することを明かすものであると説き、その吸引力によって当時統制の取れていなかった国家の統一を始めて仏教によって図ろうと考えていたことが伺えるのです。

おそらく聖徳太子は、日常生活の個々の実践的行為というわかりやすい所作の中に、絶対的な意義を見出そうとしていたのでしょう。
人間生活における活動を重視し、日常生活の実践を通じて行うあらゆる善が、やがては人々をして仏の位にいたらしめる原因となり、この汚濁苦悩の世界がそのまま楽しみの境地となる、という考え方。
大乗仏教では利他行を強調しますが、聖徳太子は特にこの点を強調し、仏や菩薩たるものは一切衆生を供養すべきであると説いた訳です。
そのために、ときには経典の内容に対して分かりやすい解釈を施しており、
・『法華経』では「つねに坐禅を行なえ」と勧めているのに対して、
・聖徳太子は『法華義疏』で「つねに坐禅を行なうような人には近づいてはならぬ」という意味に、
つまり常に坐禅ばかり行なっていたのでは、利他行が実践できないという形に手直しをしています。
これはほんの一例ですが、要は『法華経』を当時の人達に少しでも受け入れやすくするため『法華義疏』に様々な仕掛けを施していたのですね。

では、何故聖徳太子は晩年になって『法華義疏』を始めとする『三経義疏』を著したのでしょうか?

そもそも『憲法十七条』の第二条には
「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧なり。」
と記されているように、仏教が聖徳太子の根本思想でした。
しかし『日本書紀』には、『三経義疏』を聖徳太子が著した記述は見られず、「勝鬘経」と「法華経」の講読について述べられているだけであり、これは当時の天皇や官僚達にすら太子の政策や仏教があまり理解されていなかったことを意味しています。
こうしたことから、聖徳太子は『憲法十七条』を後世にももっと広く世の中に浸透させる手立てとして、仏教に対する注釈書の必要性を感じ、太子なりに推古天皇にもわかりやすい注釈書の著作に晩年を費やしたと考えられています。
そのため、膨大な仏典の中でも最もわかりやすい「法華経」、推古天皇の為に仏典の中でも唯一女性が主人公の「勝鬘経」、そして維摩居士と弟子の仏教の問答である「維摩経」の「三経」を選び、これら三経の注釈書を著した訳です。

『法華義疏』と聞くと、なんだか宗教めいたものだと型通りに決め付けて、一顧だにしない傾向にあるかもしれませんが、これは聖徳太子によって著された日本最古の書物であるということだけでも、もっとメジャーな扱いとなっても当然の書物です。
しかも、聖徳太子がこの教義を使って、混乱した時代をうまく治めるための手段として活用しようとしていたという切り口で見てみると、更に多くの新鮮な学びが発見されるはずです。

この機会に、聖徳太子の想いに一度触れてみてはいかがでしょうか。

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