【源氏物語】 (漆拾漆) 乙女 第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。

そんな今回は、「乙女」の物語の続きです。
【源氏物語】 (壱) 第一部 はじめ

第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語
 [第一段 子息夕霧の元服と教育論]
 大殿腹の若君のご元服のこと、ご準備をなさるが、二条院でとお考えになるが、大宮がとても見たがっていっらしゃったのもごもっともに気の毒なので、やはりそのままあちらの殿で式を挙げさせ申し上げなさる。
 右大将をはじめとして、御伯父の殿方は、みな上達部で高貴なご信望厚い方々ばかりでいらっしゃるので、主人方でも、我も我もとしかるべき事柄は、競い合ってそれぞれがお仕え申し上げなさる。だいたい世間でも大騒ぎをして、大変な準備のしようである。
 四位につけようとお思いになり、世間の人々もきっとそうであろうと思っていたが、
 「まだたいそう若いのに、自分の思いのままになる世だからといって、そのように急に位につけるのは、かえって月並なことだ」
 とお止めになった。
 浅葱の服で殿上の間にお戻りになるのを、大宮は、ご不満でとんでもないこととお思いになったのは、無理もなく、お気の毒なことであった。
 ご対面なさって、このことをお話し申し上げなさると、
 「今のうちは、このように無理をしてまで、まだ若年なので大人扱いする必要はございませんが、考えていることがございまして、大学の道に暫くの間勉強させようという希望がございますゆえ、もう二、三年間を無駄に過ごしたと思って、いずれ朝廷にもお仕え申せるようになりましたら、そのうちに、一人前になりましょう。
 自分は、宮中に成長致しまして、世の中の様子を存じませんで、昼夜、御帝の前に伺候致して、ほんのちょっと学問を習いました。ただ、畏れ多くも直接に教えていただきましたのさえ、どのようなことも広い知識を知らないうちは、詩文を勉強するにも、琴や笛の調べにしても、音色が十分でなく、及ばないところが多いものでございました。
 つまらない親に、賢い子が勝るという話は、とても難しいことでございますので、まして、次々と子孫に伝わっていき、離れてゆく先は、とても不安に思えますので、決めましたことでございます。
 高貴な家の子弟として、官位爵位が心にかない、世の中の栄華におごる癖がついてしまいますと、学問などで苦労するようなことは、とても縁遠いことのように思うようです。遊び事や音楽ばかりを好んで、思いのままの官爵に昇ってしまうと、時勢に従う世の人が、内心ではばかにしながら、追従し、機嫌をとりながら従っているうちは、自然とひとかどの人物らしく立派なようですが、時勢が移り、頼む人に先立たれて、運勢が衰えた末には、人に軽んじらればかにされて、取り柄とするところがないものでございます。
 やはり、学問を基礎にしてこそ、政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、わたしが亡くなった後も、安心できようと存じてです。ただ今のところは、ぱっとしなくても、このように育てていきましたら、貧乏な大学生だといって、ばかにして笑う者もけっしてありますまいと存じます」
 などと、わけをお話し申し上げになると、ほっと吐息をおつきになって、
 「なるほど、そこまでお考えになって当然でしたことを。ここの大将なども、あまりに例に外れたご処置だと、不審がっておりましたようですが、この子供心にも、とても残念がって、大将や、左衛門督の子どもなどを、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ位が上がり上がりし、一人前になったのに、浅葱をとてもつらいと思っていられるので、気の毒なのでございます」
 と申し上げなさると、ちょっとお笑いになって、
 「たいそう一人前になって不平を申しているようですね。ほんとうにたわいないことよ。あの年頃ではね」
 と言って、とてもかわいいとお思いであった。
 「学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」
 とお申し上げになる。

 [第二段 大学寮入学の準備]
 字をつける儀式は、東の院でなさる。東の対を準備なさった。上達部、殿上人、めったにないことで見たいものだと思って、我も我もと参集なさった。博士たちもかえって気後れしてしまいそうである。
 「遠慮することなく、慣例のとおりに従って、手加減せずに、厳格に行いなさい」
 とお命じになると、無理に平静をよそおって、他人の家から調達した衣装類が、身につかず、不恰好な姿などにもかまいなく、表情、声づかいが、もっともらしくしては、席について並んでいる作法をはじめとして、見たこともない様子である。
 若い君達は、我慢しきれず笑ってしまった。一方では、笑ったりなどしないような、年もいった落ち着いた人だけをと、選び出して、お酌などもおさせになるが、いつもと違った席なので、右大将や、民部卿などが、一所懸命に杯をお持ちになっているのを、あきれるばかり文句を言い言い叱りつける。
 「おおよそ、宴席の相伴役は、はなはだ不作法でござる。これほど著名な誰それを知らなくて、朝廷にはお仕えしている。はなはだばかである」
 などと言うと、人々がみな堪えきれず笑ってしまったので、再び、
 「うるさい。お静かに。はなはだ不作法である。退席していただきましょう」
 などと、脅して言うのも、まことにおかしい。
 見慣れていらっしゃらない方々は、珍しく興味深いことと思い、この大学寮ご出身の上達部などは、得意顔に微笑みながら、このような道をご愛好されて、大学に入学させなさったのが結構なことだと、ますますこのうえなく敬服申し上げていらっしゃった。
 少し私語を言っても制止する。無礼な態度であると言っても叱る。騒がしく叱っている博士たちの顔が、夜に入ってからは、かえって一段と明るくなった燈火の中で、滑稽じみて貧相で、不体裁な様子などが、何から何まで、なるほど実に普通でなく、変わった様子であった。
 大臣は、
 「とてもだらしなく、頑固な者なので、やかましく叱られてまごつくだろう」
 とおっしゃって、御簾の内に隠れて御覧になっていたのであった。
 用意された席が足りなくて、帰ろうとする大学寮の学生たちがいるのをお聞きになって、釣殿の方にお呼び止めになって、特別に賜物をなさった。

 [第三段 響宴と詩作の会]
 式が終わって退出する博士、文人たちをお召しになって、また再び詩文をお作らせになる。上達部や、殿上人も、その方面に堪能な人ばかりは、みなお残らせになる。博士たちは、律詩、普通の人は、大臣をはじめとして、絶句をお作りになる。興趣ある題の文字を選んで、文章博士が奉る。夏の短いころの夜なので、すっかり明けて披講される。左中弁が、講師をお勤めした。容貌もたいそうきれいで、声の調子も堂々として、荘厳な感じに読み上げたところは、たいそう趣がある。世の信望が格別高い学者なのであった。
 このような高貴な家柄にお生まれになって、この世の栄華をひたすら楽しまれてよいお身の上でありながら、窓の螢を友とし、枝の雪にお親しみになる学問への熱心さを、思いつく限りの故事をたとえに引いて、それぞれが作り集めた句がそれぞれに素晴らしく、「唐土にも持って行って伝えたいほどの世の名詩である」と、当時世間では褒めたたえるのであった。
 大臣のお作は言うまでもない。親らしい情愛のこもった点までも素晴らしかったので、涙を流して朗誦しもてはやしたが、女の身では知らないことを口にするのは生意気だと言われそうなので、嫌なので書き止めなかった。

 [第四段 夕霧の勉学生活]
 引き続いて、入学の礼ということをおさせになって、そのまま、この院の中にお部屋を設けて、本当に造詣の深い先生にお預け申されて、学問をおさせ申し上げなさった。
 大宮のところにも、めったにお出かけにならない。昼夜かわいがりなさって、いつまでも子供のようにばかりお扱い申していらっしゃるので、あちらでは、勉強もおできになれまいと考えて、静かな場所にお閉じこめ申し上げなさったのであった。
 「一月に三日ぐらいは参りなさい」
 と、お許し申し上げなさのであった。
 じっとお籠もりになって、気持ちの晴れないまま、殿を、
 「ひどい方でいらっしゃるなあ。こんなに苦しまなくても、高い地位に上り、世間に重んじられる人もいるではないか」
 とお恨み申し上げなさるが、いったい性格が、真面目で、浮ついたところがなくていらっしゃるので、よく我慢して、
 「何とかして必要な漢籍類を早く読み終えて、官途にもついて、出世しよう」
 と思って、わずか四、五か月のうちに、『史記』などという書物、読み了えておしまいになった。

 [第五段 大学寮試験の予備試験]
 今では寮試を受けさせようとなさって、まずご自分の前で試験をさせなさる。
 いつものとおり、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかり招いて、先生の大内記を呼んで、『史記』の難しい巻々を、寮試を受けるのに、博士が反問しそうなところどころを取り出して、ひととおりお読ませ申し上げなさると、不明な箇所もなく、諸説にわたって読み解かれるさまは、爪印もつかず、あきれるほどよくできるので、
 「お生まれが違っていらっしゃるのだ」
 と、皆が皆、涙を流しなさる。大将は、誰にもまして、
 「亡くなった大臣が生きていらっしゃったら」
 と、口に出されて、お泣きになる。殿も、我慢がおできになれず、
 「他人のことで、愚かで見苦しいと見聞きしておりましたが、子が大きくなっていく一方で、親が代わって愚かになっていくことは、たいした年齢ではありませんが、世の中とはこうしたものなのだなあ」
 などとおっしゃって、涙をお拭いになるのを見る先生の気持ち、嬉しく面目をほどこしたと思った。
 大将が、杯をおさしになると、たいそう酔っぱらっている顔つきは、とても痩せ細っている。
 大変な変わり者で、学問のわりには登用されず、顧みられなくて貧乏でいたのであったが、お目に止まるところがあって、このように特別に召し出したのであった。
 身に余るほどのご愛顧を頂戴して、この若君のおかげで、急に生まれ変わったようになったと思うと、今にまして将来は、並ぶ者もない声望を得るであろうよ。

 [第六段 試験の当日]
 大学寮に参上なさる日は、寮の門前に、上達部のお車が数知れないくらい集まっていた。おおよそ世間にこれを見ないで残っている人はあるまいと思われたが、この上なく大切に扱われて、労られながら入ってこられる冠者の君のご様子、なるほど、このような生活には耐えられないくらい上品でかわいらしい感じである。
 例によって、賤しい者たちが集まって来ている席の末に座るのをつらいとお思いになるのは、もっともなことである。
 ここでも同様に、大声で叱る者がいて、目障りであるが、少しも気後れせずに最後までお読みになった。
 昔が思い出される大学の盛んな時代なので、上中下の人は、我も我もと、この道を志望し集まってくるので、ますます、世の中に、学問があり有能な人が多くなったのであった。擬文章生などとかいう試験をはじめとして、すらすらと合格なさったので、ひたすら学問に心を入れて、先生も弟子も、いっそうお励みになる。
 殿でも、作文の会を頻繁に催し、博士、文人たちも得意である。すべてどのようなことにつけても、それぞれの道に努める人の才能が発揮される時代なのだった。

 

4043574053B008B5CGAS439661358XB009KYC4VA4569675344B00BHHKABOB00CM6FO4C4122018250