【源氏物語】 (佰漆拾弐) 匂宮 第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後

紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。

そんな今回は、「匂宮」の物語です。
a href=”http://shutou.jp/blog/post-1462/” target=”_blank”>【源氏物語】 (佰漆拾壱)第三部 はじめ 源氏没後の子孫たちの恋と人生!

第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後
 [第一段 匂宮と薫の評判]
 光源氏がお隠れになって後、あのお輝きをお継ぎになるような方、大勢のご子孫方の中にもいらっしゃらないのであった。御譲位された帝をどうこう申し上げるのは恐れ多いことである。今上帝の三の宮、その同じお邸でお生まれになった宮の若君と、このお二方がそれぞれに美しいとのご評判をお取りになって、なるほど、実に並大抵でないお二方のご器量であるが、ほんとうに輝くほどではいらっしゃらないであろう。
 ただ世間普通の人らしく、立派で高貴で優美でいらっしゃるのを基本として、そのようなご関係から、人が思い込みでご評判申し上げている扱い、様子も、昔のご評判やご威光よりも、少し勝っていらっしゃる高い評判ゆえに、一つには、この上なく威勢があったのであった。
 紫の上が、格別におかわいがりになってお育て申し上げたゆえに、三の宮は、二条院にいらっしゃる。春宮は、そのような重い方として特別扱い申し上げなさって、帝、后が、大変におかわいがり申し上げになり、大切にお世話申し上げになっている宮なので、宮中生活をおさせ申し上げなさるが、やはり気楽な里邸を、住みよくお思いでいらっしゃるのであった。ご元服なさってからは、兵部卿と申し上げる。

 [第二段 今上の女一宮と夕霧の姫君たち]
 女一の宮は、六条院南の町の東の対を、ご生前当時のお部屋飾りを変えずにいらして、朝晩に恋い偲び申し上げなさっている。二の宮も、同じ邸の寝殿を、時々のご休息所になさって、梅壷をお部屋になさって、右大臣の中の姫君をお迎え申し上げていらっしゃった。次の春宮候補として、まことに信望が重々しく、人柄もしっかりしていらっしゃるのであった。
 大殿の御姫君は、とても大勢いらっしゃる。大姫君は、春宮に入内なさって、また競争する相手もない様子で伺候していらっしゃる。その次々と、やはりみなその順番通りに結婚なさるだろうと、世間の人もお思い申し上げ、后の宮も仰せになっていらっしゃるが、この兵部卿宮は、それほどはお思いにならず、ご自分のお気持ちから生じたのではない結婚などは、おもしろくなくお思いのご様子のようである。
 大臣も、「何の、同じようにと、そのようにばかりきちんきちんとすることはない」と落ち着いていらっしゃるが、また一方で、そのようなご意向があるなら、お断りはしないという顔つきで、とても大切にお世話申し上げていらっしゃる。六の君は、その当時の、少し自分こそはと自尊心高くいらっしゃる親王方、上達部の、お心を夢中にさせる種でいらっしゃるのであった。

 [第三段 光る源氏の夫人たちのその後]
 いろいろとお集まりであった御方々は、泣く泣く最後の生活をなさるべき邸々に、みなそれぞれお移りになったが、花散里と申し上げた方は、二条東の院を、ご遺産としてお移りになった。
 入道の宮は、三条宮にいらっしゃる。今后は、宮中にばかり伺候していらっしゃるので、六条院の中は寂しく、人少なになったが、右大臣が、
 「他人事として、昔の例を見たり聞いたりするにつけても、生きている限りの間に、丹精をこめて造り上げた人の邸が、すっかり忘れられて、人の世の常のことながら無常に思われるのは、まことに感慨無量で、情けない思いがしないではいられないが、せめて自分が生きている間だけでも、この院を荒廃させず、近くの大路など、人の姿が見えなくならないように」
 と、お思いになりおっしゃって、丑寅の町に、あの一条宮をお移し申し上げなさって、三条殿と、一晩置きに十五日ずつ、きちんとお通いになっていらっしゃるのであった。
 二条院と言って、磨き造り上げ、六条院の春の御殿と言って、世間に評判であった玉の御殿も、ただお一方の将来のためであったと思えて、明石の御方は、大勢の宮たちのご後見をしながら、お世話申し上げていらっしゃった。大殿は、どの方の御事も、故人のおとりきめ通りに、改変することなく、別け隔てなく親切にお仕えなさっているにつけても、「対の上が、このように生きていらっしゃったならば、どんなに誠意を尽くしてお仕え申し御覧に入れたことであろうか。とうとう、多少なりとも特別に、自分が好意を寄せているとお分かりになっていただける機会もなくて、お亡くなりになってしまったこと」を、残念に物足りなく悲しく思い出し申し上げなさる。
 天下の人は、院を恋い慕い申し上げない者はなく、あれこれにつけても、世はまるで火を消したように、何事につけてもはりあいのない嘆きを漏らさない折はなかった。まして、殿の内の女房たち、ご夫人方、宮様方などは、改めて申し上げるまでもなく、限りないお嘆きの事はもちろんのこととして、またあの紫の上のご様子を心に忘れず、いろいろのことにつけて、お思い出し申し上げなさらない時の間もない。春の花の盛りは、なるほど、長くないことによって、かえって大事にされるというものである。

 

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