貞観政要より学ぶ!我が身を正す十思と九徳!

帝王学の書といわれていますが、立場に依らず、我が身を正す学問として名高い『貞観政要』です。
この書は、唐の史官である呉兢が編成したとされる太宗の言行録です。
太宗といえば、名将李衛公(李靖)が兵法を説いたのを記録した、「武経七書」の兵法書のひとつ「李衛公問対」が有名ですが、こちらについても追って整理したいと思います。

そこで、『貞観政要(じょうがんせいよう)』です。
題名の「貞観」は太宗の在位の年号(西暦627年~649年)で、「政要」は「政治の要諦」を表し、全十巻四十篇からなっています。
貞観というのは、非常に落ち着いた、安定したところで深い見識、達識で観るということを表しています。
これには、中宗の代に上呈したものと、玄宗の代にそれを改編したものと二種類があり四巻の内容が異なり、伝本には
・元の戈直が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されて広まった「戈直本」
・唐代に日本に伝わったとされる「旧本」
の二系があります。

主な要点をまとまると、以下のようになります。

1.安きに居りて危うきを思う
安泰な時や好調な時ほど、将来の危機に思いを致して、いっそう気持ちを引き締めること。
2.率先垂範、我が身を正す
トップが十分な説得力を発揮するためには、まず自らの身を正さなければならない。
3.臣下の諫言に耳を傾ける
大宗も生まれながらの名君だった訳ではない。
臣下の諫言を積極的に受入れ、彼らの批判に耐えることによって、自らを大きく、逞しい人間に鍛え上げていった。
貞観政要はまさにこのやりとりをまとめたものです。
4.自己統制に徹する
長には権力が集中する。
しかし、その権力を自分勝手に行使しては、たちまち長失格となる。
大宗はそういう点でも自戒を怠らなかったようです。
5.態度は謙虚、発言は慎重に
大宗は皇帝の位について、こう語っている。
「天子たる者、謙虚さを忘れて不遜な態度をとれば、かりに正道を踏み外した時、その非を指摘してくれる者など一人もおるまい。
私は一言述べようとするた度に、また何か行動を起こそうとする度に、必ず天の意思に適っているだろうか、そしてまた臣下の意向に適っているだろうかと自戒して、慎重を期している。
なぜなら、天はあのように高くはあるが下々のことに通じているし、臣下の者はまた絶えず君主の一挙一動に注目しているからである。
だから、つとめて謙虚に振る舞いながら、私の語ること行うことが、天の意思と人民の意向に合致しているかどうか、反省を怠らないのである」

欠点を指摘されることを喜んで聞く態度。
自分の欲望を押さえ込む厳しい自己統制。
どのように国家を考えていたか。
貞観政要にはこうしたことが対話形式で記されています。
太宗の立場をわが身として置き換え、親として、リーダーとして、何か物事を行う際の権力者として読んでみると、日頃から気をつけなければならないことが多々あることに気付かされる、そんな書物。
貞観政要の中身は、現代にも十分通じる事柄なのです。

「兼聴」―情報を吸い上げる
「十思」「九徳」―身につけるべき心構え
《十思》
貞観政要で太宗の側近、魏徴が挙げた〝十の心構え”
十思の一 欲しいとなると、前後の見境もなくやみくもに欲しがるようなことをせず、自戒することを思え。
十思の二 アイディアや企画の事業化も、部下のことを忘れてまで夢中で突っ走らず、何度か立ち止まって組織の安泰を思え。
十思の三 危険の多い賭や高望みをしそうなときは、自分の位置を思い、謙虚に自制することを思え。
十思の四 やみくもに事業の拡大や自分を高みに登らせたいという願望が起きたときは、自分を低い位置に置けば、そこにあらゆる人のチエや人望も流れ込み、おのずから充実してくることを思え。
十思の五 遊びに溺れそうになったら、限度をわきまえることを思え。
十思の六 軽率に始めてすぐ飽きてしまいそうになったり、怠け心が出そうだと思ったら、始める時は慎重に、そして終りも慎むことを思え。
十思の七 おだてにのらず、虚心に部下の言葉を聴くことを思え。
十思の八 中傷や告げ口を嫌い、自らそれらを禁じ、一掃することを思え。
十思の九 恩恵を与えるときは、喜びのあまり過大な恩恵を与えぬように思え。
十思の十 罰を加えるときは、怒りのあまり過大な罰にならないように思え。
《九徳》
貞観政要で太宗の側近、魏徴が挙げた〝九つの徳”
九徳の一 寛にして栗── こせこせしておらず、寛大だが厳しい。
九徳の二 柔にして立── トゲトゲしくなく柔和だが、事が処理できる力を持っている。
九徳の三 愿にして恭── まじめだが、尊大なところはなく、丁寧でつっけんどんでない。
九徳の四 乱にして敬── 事態を収拾させる力があるが威丈高ではなく、慎み深い。
九徳の五 擾にして毅── 粗暴でなくおとなしいが、毅然としている。
九徳の六 直にして温── 率直にものをいうが、決して冷酷なところはなく、温かい心を持っている。
九徳の七 簡にして廉── 干渉がましくなく大まかだが、全体を把握している。
九徳の八 剛にして塞── 心がたくましく、また充実している。
九徳の九 彊にして義── 強いが無理はせず、正しい。
「上書」―全能感を捨てる
「六正・六邪」―人材を見わける基本
「実需」―虚栄心を捨てる
「義」と「志」―忘れてはならぬ部下の心構え
「自制」―縁故・情実人事を排する
「仁孝」―後継者の条件
「徳行」―指導者に求められるもの








【【貞観政要ー本文抜粋】】

【君道第1/創業と守成いずれが難きや】
貞観十年(636年)唐の太宗(李世民)は、側近に尋ねた。「帝王の事業の中で、創業と守成とい ずれが困難であろうか」
宰相の房玄齢が答えた。「創業のために立ち上がる時は、天下は麻の如く乱れ、群雄が割拠し、こ れらの敵を降伏させ、勝ち抜いて天下を平定しました。その様な命がけの困難な点を思いますと創業 が困難だと思います」。
重臣の魏徴は反論する。「帝王が創業の為に立ち上がる時は、必ず前代の衰え乱れた後を受け、ならず者を打ち破り、討ち平らげますので、人民は喜んで推し戴き、万民はこぞって命令に服します。帝王の地位は天が授け万民が与えたもので、創業は困難なものとは思えません。しかし一旦天下を 手中に収めてしまえば、気持ちがゆるんで驕り気ままになります。人民は静かな生活を望んでいるの に役務は休まず、人民が食うや食わずの生活を送っていても、帝王の贅沢の為の仕事は休みません。 国家が衰えて破滅するのは、常にこういう原因に依ります。それ故、守成の方が困難であります。
太宗はいった。房玄齢はかって私に従って戦い、九死に一生を得て今日がある。創業こそ困難と考えてもっともである。魏徴は、私と共に天下を安定させ、我がままや驕りが少しでも生ずれば危急存亡の道を歩む事を心配している。魏徴こそ守成の困難を体験したのである。今や、創業の困難は過去のものとなった。今後は汝等と共に守成の困難を心して乗り越えて行かなければならない。

【君道第2/安くして而も能く懼る】
貞観十五年、太宗が側近の者に尋ねた。「国を維持することは困難であろうか、容易であろうか」
門下省長官の魏徴が答えた。「きわめて困難であります」
太宗が反問した。「すぐれた人材を登用し、よくその者どもの意見を聞き入れればよいではないか。必ずしも困難であるとは思えぬが」
魏徴が答えるには、「今までの帝王をご覧ください。国が危難に陥ったときには、すぐれた人材を登用し、その意見によく耳を傾けますが、やがて政治が安定してきますと、必ず心にゆるみが生じます。そうなると、臣下もわが身第一に心得て、君主に過ちがあっても、あえて諌めようとしません。こうして国勢は日ごとに下降線をたどり、ついには滅亡に至るのです。昔から聖人は『安きに居りて危うきを思う』のは、これがためであります。国が安定しているときにこそ、いっそう気持を引き締めて政治にあたらなければなりません。それで、わたくしは困難であると申しあげたのです」。

【君道第3/上理まりて下乱るる者はあらず】
貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。「君主たる者は、なりよりもまず人民の生活の安定を心がけなければならない。人民を搾取して贅沢な生活にふけるのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体のほうが参ってしまう。天下の安泰を願うなら、まずおのれの姿勢を正す必要がある。いまだかつて、体は真っ直ぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞いたことがない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、ほかでもない、その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望の対象は果てしなく広がり、それに要する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身が入らなくなり、人民を苦しみに陥れるだけだ。その上、君主が道理に合わないことを一言でも口にすれば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもそのことに思いを致し、極力おのれの欲望を抑えるように努めている」

諫議大夫の魏徽が答えた。「昔から聖天子よ明君よと称えられた人々は、みなそのことを実践されました。ですから、理想的な政治を行なうことができたのです。かつて楚の荘王が賢人の詹何を招いて政治の要諦を尋ねたところ、詹河は、『まず君主がおのれの姿勢を正すことです』と答えました。荘王が重ねて具体的な方策について尋ねましたが、それでも詹何は、『君主が姿勢を正しているのに、国が乱れたことは未だかつてありません』と答えただけでした。陛下のおっしゃったことは、詹何の語ったこととまったく同じであります」

【君道第4/君の明らかなる所以の者は、兼聴すればなり】
貞観二年、太宗が魏微に尋ねた。「明君と暗君はどこが違うのか」
魏微が答えるには、「明君の明君たるゆえんは、広く臣下の意見に耳を傾けるところにあります。また、暗君の暗君たるゆえんは、お気に入りの臣下の言うことしか信じないところにあります。詩にも『いにしえの賢者言えるあり、疑問のことあれば庶民に問う』とありますが、聖天子の堯や舜はまさしく四方の門を開け放って賢者を迎え入れ、広く人々の意見に耳を傾けて、それを政治に活かしました。だから堯舜の治世は、万民にあまねく恩沢が行きたわり、共工(きょうこう)や鯀(こん)のともがらに目や耳を塞がれることはありませんでしたし、巧言を弄する者どもに惑わされることもなかったのです。これに対し秦の二世皇帝は宮殿の奥深く起居して臣下を避け、宦官の趙高だけを信頼しました。そのため、完全に人心が離反するに及んでも、まだ気づきませんでした。梁の武帝も、寵臣の(朱い)だけを信頼した結果、将軍の侯景が反乱の兵を挙げて王宮を包囲しても、まだ信じかねる始末でした。また、隋の煬帝も、側近の虞世基の言うことだけを信じましたので、盗賤が村や町を荒しまわっていても、故治 の乱れに気づきませんでした。このような例でも明らかなように、君主たる者が臣下の意見に広く耳を傾ければ、一部の側近に目や耳を塞がれることがなく、よく下々の実情を知ることができるのです」
太宗は魏賤のことばに深く頷いた。

【君道第5/安くして而も能く懼る】
貞観十五年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、天下を守ること難きや易きや、と。侍中魏徴対へて曰く、甚だ難し、と。太宗曰く、賢能に任じ諌諍を受くれば則ち可ならん。何ぞ難しと為すと謂はん、と。徴曰く、古よりの帝王を観るに、憂危の間に在るときは、則ち賢に任じ諌を受く。安楽に至るに及びては、必ず寛怠を懐く。安楽を恃みて寛怠を欲すれば、事を言ふ者、惟だ競懼せしむ。日に陵し月に替し、以て危亡に至る。聖人の安きに居りて危きを思ふ所以は、正に此が為なり。安くして而も能く懼る。豈に難しと為さざらんや、と。

【政体第1】
貞観の初、太宗、蕭ウに謂ひて曰く、朕、少きより弓矢を好む。自ら謂へらく、能く其の妙を尽くせり、と。近ごろ良弓、十数を得、以て弓工に示す。工曰く、皆、良材に非ざるなり、と。朕、其の故を問ふ。工曰く、木心正しからざれば、則ち脈理皆邪なり。弓、剛勁なりと雖も、箭を遣ること直からず。良弓に非ざるなり、と。朕、始めて悟る。朕、弧矢を以て四方を定め、弓を用ふること多し。而るに猶ほ其の理を得ず。況んや、朕、天下を有つの日浅く、治を為すの意を得ること、固より未だ弓に及ばず。弓すら猶ほ之を失す。何ぞ況んや治に於てをや、と。是より京官五品以上に詔し、更中書内省に宿せしめ、毎に召見して、皆、坐を賜ひ、与に語りて外事を詢訪し、務めて百姓の利害、政教の得失を知る。

【政体第2】
貞観の初め、太宗が蕭ウに語った。「私は幼いころから弓矢を好み、自分ではその奥儀を極めたと思っていた。ところが最近、良弓、十数張を手に入れたので弓工に見せたところ、『みな良材ではありません。』と弓工が言った。その理由を聞くと、『木の芯がまっすぐでなく、木目がみな乱れています。どんなに剛勁な弓であっても矢がまっすぐに飛びませんので、良弓ではありません。』そこで私は始めて悟った。私は弓矢で四方の群雄を撃ち破り、弓を使うことが多かった。しかし、なおその理を得ていない。まして天子となってまだ日が浅いので、政治のやり方の本質については弓以上に及ばないはずである。長年得意としてきた弓でさえもその奥儀を極めていないのだから、政治については全然わかっていないはずだ。」こう言った後、太宗は在京の高級官僚を交替で宮中に宿直させ、いつも召し出だして座を与え、ともに語り合うようになった。こうして人民の生活・政治の得失など世の中の動きを知ろうと努めたのである、と。

【政体第3】
貞観二年、太宗、黄門侍次郎王珪に問ひて曰く、近代の君臣、国を理むること、多く前古に劣れるは、何ぞや、と。対へて曰く、古の帝王の政を為すは、皆、志、清静を尚び、百姓を以て心と為す。近代は則ち惟だ百姓を損じて、以て其の欲に適はしめ、其の任用する所の大臣、復た経術の士に非ず。漢家の宰相は、一経に精通せざるは無し。朝廷に若し疑事有れば、皆、経を引きて決定す。是に由りて、人、礼教を識り、理、太平を致せり。近代は武を重んじて儒を軽んじ、或は参ふるに法律を以てす。儒行既に虧け、淳風大いに壊る、と。太宗深く其の言を然りとす。此より百官中、学業優長にして、兼ねて政体を識る者は、多く其の階品を進め、累りに遷擢を加ふ。

【政体第4】
貞観三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、中書・門下は、機要の司なり。才を擢んでて居らしめ、委任実に重し。詔勅如し便ならざる有らば、皆、須く執論すべし。比来、惟だ旨に阿り情に順ふを覚ゆ。唯唯として苟過し、遂に一言の諌争する者無し。豈に是れ道理ならんや。若し惟だ詔勅に署し、文書を行ふのみならば、人誰か堪へざらん。何ぞ簡択して以て相委付するを煩はさんや。今より詔勅に穏便ならざる有るを疑はば、必ず須く執言すべし。妄りに畏懼すること有り、知りて寝黙するを得ること無かれ、と。房玄齢等叩頭して血を出だす。

【政体第5】
貞観四年、太宗、蕭ウに問ひて曰く、隋の文帝は何如なる主ぞや、と。対へて曰く、己に克ちて礼に復り、勤労して政を思ひ、一たび朝に坐する毎に、或は日の側くに至り、五品已上、坐に引きて事を論じ、宿衛の人をして、そんを伝へて食はしむるに至る。性、仁明に非ずと雖も、亦是れ励精の主なり、と。
上曰く、公は其の一を知りて、未だ其の二を知らず。此の人は性至察なれども心明かならず。夫れ心暗ければ則ち照すこと通ぜざる有り、至察なれば則ち多く物を疑ふ。又、孤兒寡婦を欺き、以て天下を得、恒に群臣の内に不服を懐かんことを恐れ、肯て百司を信任せず、事毎に皆自ら決断す。神を労し形を苦しむと雖も、未だ尽くは理に合すること能はず。朝臣其の意を知るも、亦、敢て直言せず。宰相以下、惟だ承順するのみ。
朕の意は則ち然らず。天下の広きを以てして、千端万緒、須く変通に合すべし。皆、百司に委ねて商量せしめ、宰相に籌画せしめ、事に於て穏便にして、方めて奏して行ふ可し。豈に一日万機を以て、独り一人の慮に断ずるを得んや。且つ日に十事を断ずれば、五條は中らざらん。中る者は信に善し。其れ中らざる者を如何せん。日を以て月に継ぎ、乃ち累年に至らば、乖謬既に多く、亡びずして何をか待たん。豈に広く賢良に任じ、高く居り深く視るに如かんや。法令厳粛ならば、誰か敢て非を為さん、と。因りて諸司に令し、若し詔勅頒下し、未だ穏便ならざる者有らば、必ず須く執奏すべし。旨に順ひて便即ち施行するを得ず、と。務めて臣下の意を尽くさしむ。

【政体第6/国を治むると病を養うとは異なるなし】
貞観五年、太宗が側近の者に語った。「国を治める時の心構えは、病気を治療するときの心掛けとまったく同じである。病人というのは快方に向かっているときこそ、いっそう用心して看護にあたらなければならない。つい油断して医者の指示を破るようなことがあれば、それこそ命取りになるであろう。国の政治についても同じである。天下が安定に向かっているときこそ、いっそう慎重に対処しなければならない。そのときになって、やれ安心と気持をゆるめれば、必ず国を滅ぼすことになる。  今、天下の安危はわたし一人の肩にかかっている。だから常に慎重を旨とし、たとえ称賛の声を聞 いても、まだまだ不十分だと自分を戒めている。しかしながら、わたし一人だけ努めたところで、い かんともしがたい。そこで、そちたちを耳とも目とも股肱とも頼んできた。今やわたしとそち達とは 一心同体の関係にある。どうかこれからも力を合わせ、心を一つにして政治にあたってほしい。これ は危ないと気づいたことがあれば、すべて包み隠さず申し述べよ。仮にも君臣のあいだに疑惑が生じ、お互い心のなかで思っていることを口に出せないようでは、国を治めていく上でこの上ない害を及ぼ すことになろうぞ」

【政体第7/君は舟なり、人は水なり】
貞観六年、太宗が側近の者に語った。「昔の帝王の治世を調べてみると、初め、日の出の勢いにあった者でも、朝のあとに日暮れがくるように、きまって衰亡の道をたどっている。それはほかでもない、臣下に耳目をふさがれて、政治の実態を知ることができなくなるからである。忠臣が口を閉ざし、へつらい者が幅をきかせ、しかも君主はみずからの過ちに気づかない。これが滅亡に至る原因である。わたしはすでに奥深い宮殿にいるので、直接この目で政治の実態を確かめることができない。それゆえ、そちたちにわたしの耳ともなり、目ともなってもらっている。今は天下が平和に治まり、四海の波が静かだからといって、ここで気持をゆるめてはならない。古人も、「君主は人艮に愛される存在でなければならない。そのためには人民の意向を尊重してわが身を慎む必要がある」と語っているではないか。天子が道に則った政治を行なえば、人民は推戴して明主と仰ぐが、道にはずれた政治を行なえば、そんな天子など捨てて顧みない。よくよく心してかかる必要がある」

魏徴が答えた。「昔から国を滅ぼした君主は、いずれも、安きに居りて危うきを忘れ、治に居て乱を忘れておりました。長く国を維持できなかった理由はこれであります。幸い陛下におかれましては、あり余る富を有し、国中が平和に治まりながら、なおも天下の政道に心を砕かれ、深淵に臨み薄氷を踏むようなお気持で、いやが上にも慎重を期しておられる。これなら、わが国の前途は洋々たるものです。古人も、『君は舟なり、人は水なり。水はよく舟を載せ、またよく舟を覆す』と語っています。陛下は、畏るべきは人民の意向だと言われましたが、まことに仰せのとおりでございます」

【政体第8/大事は皆小事より起こる】
貞観六年、太宗が側近の者に語った。  「あの孔子が、『国が危難に陥って滅びそうだというのに、だれも救おうとしない。これでは、な んのための重臣なのか』と語っている。  まことに臣下たる者は、君臣の義として、君主に過ちがあれは、これを正さなはれはならない。 わたしはかつて書を繙いたとき、夏の桀王が直言の士、関竜逢を殺し、漢の景帝が忠臣の晁錯を誅殺 したくだりまでくると、いつも読みかけの書を閉じて、しはし嘆息したものだった。 どうかそちたちは、おのれの信ずるところをはばからず直言し、政治の誤りを正してほしい。 わたしの意向に逆らったからといって、みだりに罰しないことを、あらためて申し渡しておく。  ところで近ごろ朝廷で政務を決済するとき、律令違反に気づくことがある。この程度のことは小事 だとして、あえて見逃しているのであろうが、およそ天下の大事はすべてこのような小事に起因して いるのである。小事だからといって捨ておけば、大事が起こったときには、もはや手のつけようがな い。国家が傾くのも、すべてこれが原因である。隋の煬帝ば暴虐の限りを尽くしたあげく、匹夫の手 にかかって殺されたが、それを聞いても嘆き悲しんだ者はいなかったという。  どうかそちたちは、わたしに煬帝の二の舞いをさせないでほしい。わたしもまた、そちたちに忠な るが故に誅殺された関竜逢や晁錯の二の舞いはさせないつもりである。こうして君臣ともに終りをよ くするなら、なんと素晴らしいことではないか」

【政体第9】
貞観七年、太宗、秘書監魏徴と、従容として古よりの治政の得失を論ず。因りて曰く、当今大乱の後、造次に治を致す可からず、と。徴曰く、然らず。凡そ人、安楽に居れば則ち驕逸す。驕逸すれば則ち乱を思ふ。乱を思へば則ち理め難し。危困に在れば則ち死亡を憂ふ。死亡を憂ふれば則ち治を思ふ。治を思へば則ち教へ易す。然らば則ち乱後の治め易きこと、猶ほ飢人の食し易きがごときなり、と。太宗曰く、善人、邦を為むること百年にして、然る後、残に勝ち殺を去る、と。大乱の後、将に治を致すを求めんとす。寧ぞ造次にして望む可けんや、と。
徴曰く、此れ常人に拠る。聖哲に在らず。聖哲化を施さば、上下、心を同じくし、人の応ずること響きの如し。疾くせずして速かに、朞月にして化す可し。信に難しと為さず。三年にして功を成すも、猶ほ其の晩きを謂ふ、と。太宗、以て然りと為す。封徳彝等に対へて曰く、三代の後、人漸く澆訛す。故に秦は法律に任じ、漢は覇道を雑ふ。皆、治まらんことを欲すれども能はざればなり。豈に治を能くすれども欲せざるならんや。魏徴は書生にして、時務を識らず。若し魏徴の説く所を信ぜば、恐らくは国家を敗乱せん、と。
徴曰く、五帝・三王は、人を易へずして治む。帝道を行へば則ち帝たり。王道を行へば則ち王たり。当時の之を化する所以に在るのみ。之を載籍に考ふれば、得て知る可し。昔、黄帝、蚩尤と七十余戦し、其の乱るること甚し。既に勝つの後、便ち太平を致せり。九黎、徳を乱りセンギョク、之を征す。既に克つの後、其の治を失はず。桀、暴虐を為して、湯、之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致せり。紂、無道を為し、武王、之を伐つ。成王の代、亦、太平を致せり。若し、人漸く澆訛にして純樸に反らずと言はば、今に至りては、応に悉く鬼魅と為るべし。寧ぞ復た得て教化す可けんや、と。徳彝等、以て之を難ずるなし。然れども咸以て不可なりと為す。
太宗、毎に力行して倦まず。数年の間にして、海内康寧なり。因りて群臣に謂ひて曰く、貞観の初、人皆、異論して云ふ、当今は必ず帝道王道を行ふ可からず、と。惟だ魏徴のみ、我に勧む。既に其の言に従ふに、数載を過ぎずして、遂に華夏安寧にして、遠戎賓服するを得たり。突厥は古より以来、常に中国の勍敵たり。今、酋長竝びに刀を帯びて宿衛し、部落、皆衣冠を襲ぬ。我をして干戈を動かさずして、数年の間に、遂に此に至らしめしは、皆、魏徴の力なり、と。
顧みて徴に謂ひて曰く、「玉、美質有りと雖も、石間に在りて、良工の琢磨に値はざれば、瓦礫と別たず。若し良工に遇へば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無しと雖も、公の切磋する所と為る。公が朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てするを労して、朕の功業をして此に至らしむ。公も亦良工と為すに足るのみ。唯だ恨むらくは封徳彝をして之を見しむるを得ざることを、と。徴、再拝して謝して曰く、匈奴破滅し、海内康寧なるは、自ら是れ陛下盛徳の加ふる所にして、実に群下の力に非ず。臣、但だ身、明世に逢ふを喜ぶのみ。敢て天の功を貪らず、と。太宗曰く、朕能く卿に任じ、卿委ぬる所に称ふ。其の功独り朕のみに在らんや。卿何ぞ煩はしく飾譲するや、と。

【政体第10】
貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、往者初めて京師を平げしとき、宮中の美女珍玩、院として満たざるは無し。煬帝は意猶ほ足らずとし、徴求已む無し。兼ねて東西に征討し、兵を窮め武を黷す。百姓、堪へず、遂に滅亡を致せり。此れ皆、朕の目に見る所なり。故に夙夜孜孜として、惟だ清静にして天下をして無事ならしめんと欲す。徭役興らず、年穀豊稔し、百姓安楽なるを得たり。夫れ国を治むるは、猶ほ樹を栽うるが如し。本根、揺がざれば、則ち枝葉茂盛す。君能く清静ならば、百姓なんぞ安楽ならざるを得んや、と。

【政体第11】
貞観八年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、我が居る所の殿は、即ち是れ隋の文帝の造りし所なり。已に四十余年を経るも、損壊の処少し。唯だ承乾の殿は、是れ煬帝の造りしもの。工匠多く新奇を覓め、斗キョウ至小なり。年月近しと雖も、破壊の処多し。今、改更を為さんとし、別に意見を作さんと欲するも、亦、此の屋に似ることを恐るのみ、と。
魏徴対へて曰く、昔、魏の文侯の時、租賦歳に倍す。人、賀を致すもの有り。文侯曰く、今、戸口加はらずして、租税歳に倍す。是れ課斂多きに由る。譬へば皮を治むるが如し。大ならしむれば則ち薄く、小ならしむれば則ち厚し。民を理むるも亦復た此くの如し、と。是に由りて魏国大いに理まる。臣、今之を量るに、陛下理を為し、百夷賓服す。天下已に安く、但だ須らく今日の理道を守り、亦之を厚きに帰すべし。此れ即ち是れ足らん、と。

【政体第12】
貞観八年、太宗、群臣に謂ひて曰く、理を為すの要は、努めて其の本を全うす。若し中国静かならざれば、遠夷至ると雖も、亦何の益あらん。朕、公等と共に天下を理め、中夏をして乂安に四方をして静粛ならしめしは、竝びに公等咸忠誠を尽くし、共に庶績を康んずるの致す所に由るのみ。朕、実に之を喜ぶ。然れども安くして危きを忘れず、亦兼ねて以て懼る。
朕、隋の煬帝の纂業の初を見るに、天下隆盛なり。徳を棄て兵を窮め、以て顛覆を取る。頡利近ごろ強大と為すに足る。志意既に盈ち、禍乱斯に及び、其の大業を喪ひ、朕に臣と為る。葉護可汗も亦太だ強盛なり。自ら富実を恃み、使を通じて婚を求め、道を失ひ過を怙み、以て破滅を致す。其の子既に立つや、便ち猜忌を肆にし、衆叛き親離れ、基を覆し嗣を絶つ。
朕、遠く尭舜禹湯の徳を纂ぐ能はざるも、此の輩を目賭すれば、何ぞ誡懼せざるを得んや。公等、朕を輔けて、功績已に成れり。唯だ当に慎んで以て之を守り、自ら長世を獲べし。竝びに宜しく勉力すべし。不是の事有らば、則ち須らく明言すべし。君臣心を同うせば、何ぞ理らざるを得んや、と。
侍中魏徴対へて曰く、陛下、至理を弘め、以て天下を安んじ、功已に成れり。然れども常に非常の慶を覩、弥々危きを慮るの心を切にす。古より至慎以て此に加ふる無し。臣聞く、上の好む所、下必ず之に従ふ、と。明詔の奨励、懦夫をして節を立たしむるに足る、と。

【政体第13】
太宗、拓跋の使人に問ひて曰く、拓跋の兵馬、今、幾許有りや、と。対へて曰く、見に四千余人有り。旧は四万余人有り、と。太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、西胡、珠を愛し、若し好珠を得れば、身を劈きて之を蔵す、と。侍臣咸曰く、財を貪り己を害し、実に笑ふ可しと為す、と。
太宗曰く、唯だ胡を笑ふ勿れ。今、官人、財を貪りて性命を顧みず。身死するの後、子孫辱めを被れるは、何ぞ西胡の珠を愛するに異ならんや。帝王も亦然り。情を恣にして放逸、楽を好むこと度無く、庶政を荒廃し、長夜返るを忘る。行う所此くの如くなれば、豈に滅亡せざらんや。隋の煬帝は奢侈自ら賢とし、身、匹夫に死す。笑ふ可しと為すに足る、と。
魏徴対へて曰く、臣聞く、魯の哀公、孔子に謂ひて曰く、人好く忘るる者有り、宅を移して乃ち其の妻を忘る、と。孔子曰く、又、好く忘るること此れよりも甚だしき者有り。丘、桀紂の君を見るに、乃ち其の身を忘れたり、と。太宗曰く、朕、公等と既に人を笑ふことを知る。今、共に、相匡輔し、庶くは人の笑ひを免れん、と。

【政体第14】
貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王為る者は、必ず須らく其の与する所を慎むべし。只だ鷹犬鞍馬、声色殊味の如きは、朕若し之を欲すれば、随つて須らく即ち至るべし。此れ等の事の如き、恒に人の正道を敗る。邪佞忠直、亦時君の好む所に在り。若し任ずること賢を得ざれば、何ぞ能く滅びること無からんや、と。
侍中魏徴対へて曰く、臣聞く、斉の威王、淳于コンに問ふ。寡人の好む所、古の帝王と同じきや否や、と。コン曰く、古者の聖王の好む所四有り。今、王の好む所唯だ其の三有り。古者色を好む。王も亦之を好む。古者馬を好む。王も亦之を好む。古者味を好む。王も亦之を好む。唯だ一事の同じからざる者有り。古者賢を好む。王独り好まず、と。斉王曰く、賢の好む可き無ければなり、と。コン曰く、古の美食は、西施・毛ショウ有り。奇味は即ち龍肝・豹胎。善馬は即ち飛兎・緑耳有り。此れ等は今既に之無し。王の厨膳、後宮外厩、今亦備具せり。王以て今の賢無しと為す。未だ前世の賢、王と相見るを得るや否やを知らず、と。太宗深く之を然りとす。

【政体第15】
貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、月令は早晩有りや、と。侍中魏徴対へて曰く、今、礼記の載す所の月令は、呂不韋より起る、と。太宗曰く、但だ化を為すに専ら月令に依らば、善悪復た皆記する所の如きや不や、と。魏徴又曰く、秦漢以来、聖王、月令の事に依るもの多し。若し一に月令に依る者は、亦未だ善有らず。但だ古は教を設け人に勧めて善を為さしむ。行ふ所皆時に順はんと欲せば、善悪亦未だ必ずしも皆然らざるなり、と。
太宗又曰く、月令は既に秦時より起る。三皇五帝は、竝びに是れ聖主なり。何に因りて月令を行はざるや、と。徴曰く、計るに月令は、上古より起る。是を以て尚書に云ふ、敬みて民に時を授く、と。呂不韋は止だ是れ古を修むるのみ。月令は未だ必ずしも始めて秦代より起らざるなり、と。
太宗曰く、朕、比書を読み、見る所の善事は、竝びに即ち之を行ひ、都て疑ふ所無し。人を用ふるに至りては則ち善悪別ち難し。故に人を知るは極めて易からずと為す。朕、比公等数人を使ふ。何に因りて理政猶ほ文景に及ばざるや、と。
徴又曰く、陛下、心を理に留め、臣等に委任すること、古人に逾ゆ。直だ臣等の庸短に由り、陛下の委寄に称ふ能はざるのみ。四夷の賓服、天下の無事を論ぜんと欲せば、古来、未だ今日に似たるもの有らざるなり。文景に至りては、以て聖徳に比するに足らず、と。徴曰く、古より人君初めて理を為すや、皆、隆を尭舜に比せんと欲す。天下既に安きに至つては、即ち其の善を終ふること能はず。人臣初めて任ぜらるるや、亦、心を尽くし力を竭さんと欲す。富貴に居るに及びては、即ち官爵を全うせんと欲す。若し遂に君臣常に懈怠せざれば、豈に天下安からざるの道有らんや、と。太宗曰く、論至り理誠なること公の此の語の如くせん、と。

【政体第16】
貞観十六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、或は君、上に乱れ、臣、下に理む。或は臣、下に乱れ、君、上に理む。二者苟くも違はば、何者をか甚だしと為す、と。特進魏徴対へて曰く、君、心理まれば即ち照然として下の非を見る。一を誅して百を勧めば、誰か敢て威を畏れて力を尽くさざらん。若し上に昏暴にして、忠諌、従はずんば、百里奚・伍子胥の徒、虞・呉に在りと雖も、其の禍を救はず、敗亡も亦促らん、と。
太宗曰く、必ず此の如くならば、斉の文宣は昏暴なるに、楊遵彦、正道を以て之を扶けて理を得たるは、何ぞや、と。徴曰く、遵彦、暴主を弥縫し、蒼生を救理し、纔に乱を免るるを得たるも、亦甚だ危苦せり。人主厳明にして、臣下、法を畏れ、直言正諌して、皆、信用せらるるとは、年を同じくして語る可からざるなり、と。

【政体第17】
貞観十九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、古来の帝王を観るに、驕矜にして敗を取る者、勝げて数ふ可からず。遠く古昔を述ぶる能はざるも、晋武、呉を平げ、隋文、陳を伐つの已後の如きに至りては、心逾驕奢にして、自ら諸を己に矜り、臣下復た敢て言はず。政道茲に因りて弥々紊る。朕、突厥を平定し、高麗を破りしより已後、海内を兼并し、鉄勒以て州県と為し、夷狄遠く服し、声教益々広まる。
朕、驕矜を懐かんことを恐れ、恒に自ら抑折し、日クレて食し、坐して以て晨を待つ。毎に思ふ、臣下、トウ言直諌し、以て政教に施す可き者有らば、当に目を拭ひて、師友を以て之を待つべし、と。此の如くせば、時康く道泰きに庶幾からん、と。

【政体第18】
太宗、即位の始めより、霜旱、災を為し、米穀踊貴し、突厥侵抄し、州県騒然たり。帝の志は人を憂ふるに在り。鋭精、政を為し、節倹を崇尚し、大いに恩徳を布く。是の時、京師より河東・河南・隴右に及ぶまで、飢饉尤も甚しく、一匹の絹、纔に一斗の米を得。百姓、東西に食を逐ふと雖も、未だ嘗て嗟怨せず、自ら安んぜざるは莫し。貞観三年に至りて、関中豊熟し、咸自ら郷に帰り、竟に一人の逃散するもの無し。其の人心を得ること此の如し。加ふるに諌に従ふこと流るるが如きを以てし、雅より儒学を好み、孜孜として士を求め、務は官を択ぶに在り、旧弊を改革し、制度を興復し、毎に一事に因り、類に触れて善を為す。
初め息隠・海陵の黨、同に太宗を害せんと謀りし者、数百千人。事寧き後引きて左右近侍に居く。心術豁然として、疑阻すること有らず。時論、以て能く大事を断決し、帝王の体を得たりと為す。深く官吏の貪濁を悪み、法を枉ぐるの財を受くる、者有れば、必ず赦免する無し。在京の流外、贓を犯す者有れば、皆、執奏せしめ、其の犯す所に随ひ、オくに重法を以てす。是に由りて官吏多く自ら清謹なり。
王公妃主の家、大姓豪猾の伍を制馭す。皆、威を畏れて跡を屏め、敢て細人を侵欺する無し。商旅野次し、復た盗賊無く、囹圄常に空しく、馬牛、野に布き、外戸、動もすれば則ち数月閉ぢず。又、頻りに豊稔を致し、米、斗に三四銭。行旅、京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るまで、皆、糧を賚すを用ひず、給を道路に取る。又、山東の村落、行客の経過する者、必ず厚く供待を加へ、或は時に贈遺有り。此れ皆、古昔未だ之れ有らざるなり。

【政体第19】
太宗、即位の始めより、霜旱、災を為し、米穀踊貴し、突厥侵抄し、州県騒然たり。帝の志は人を憂ふるに在り。鋭精、政を為し、節倹を崇尚し、大いに恩徳を布く。是の時、京師より河東・河南・隴右に及ぶまで、飢饉尤も甚しく、一匹の絹、纔に一斗の米を得。百姓、東西に食を逐ふと雖も、未だ嘗て嗟怨せず、自ら安んぜざるは莫し。貞観三年に至りて、関中豊熟し、咸自ら郷に帰り、竟に一人の逃散するもの無し。其の人心を得ること此の如し。加ふるに諌に従ふこと流るるが如きを以てし、雅より儒学を好み、孜孜として士を求め、務は官を択ぶに在り、旧弊を改革し、制度を興復し、毎に一事に因り、類に触れて善を為す。
初め息隠・海陵の黨、同に太宗を害せんと謀りし者、数百千人。事寧き後引きて左右近侍に居く。心術豁然として、疑阻すること有らず。時論、以て能く大事を断決し、帝王の体を得たりと為す。深く官吏の貪濁を悪み、法を枉ぐるの財を受くる、者有れば、必ず赦免する無し。在京の流外、贓を犯す者有れば、皆、執奏せしめ、其の犯す所に随ひ、オくに重法を以てす。是に由りて官吏多く自ら清謹なり。
王公妃主の家、大姓豪猾の伍を制馭す。皆、威を畏れて跡を屏め、敢て細人を侵欺する無し。商旅野次し、復た盗賊無く、囹圄常に空しく、馬牛、野に布き、外戸、動もすれば則ち数月閉ぢず。又、頻りに豊稔を致し、米、斗に三四銭。行旅、京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るまで、皆、糧を賚すを用ひず、給を道路に取る。又、山東の村落、行客の経過する者、必ず厚く供待を加へ、或は時に贈遺有り。此れ皆、古昔未だ之れ有らざるなり。

【任賢 第1-1】
房玄齢は、斉州臨シの人なり。初め隋に仕へて隰城の尉と為り、事に坐して名を除かれて上郡に徒さる。太宗、地を渭北に徇ふるや、玄齢、策を杖つきて軍門に謁す。太宗、一見して便ち旧識の如く、渭北道の行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇ふを喜び、遂に心力をケイ竭す。是の時、賊冦平ぐ毎に、衆人競ひて金宝を求む。玄齢、独り先づ人物を収め、之を幕府に致す。及び謀臣猛将有れば、皆之と潜に相申結し、各々其の死力を致さしむ。累りに秦王府の記室を授けられ、陝東道の行臺考功郎中を兼ぬ。
玄齢、秦府に在ること十余年、恒に管記を典る。隠太子、太宗の勲徳日に隆きを見、転た忌嫉を生じ、玄齢及び杜如晦、太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、高祖に譖す。是に由りて如晦と竝びに駆斥せらる。隠太子の将に変有らんとするや、太宗、玄齢・如晦を召して、道士の衣服を衣せしめ、潜かに引きて閤に入れて事を計る。太宗、春宮に入るに及び、擢でて太子右庶子に拝す。
貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を修む。既に百司に任総し、虔恭夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失ふを欲せず。人の善有るを聞けば、己之を有するが若くす。吏事に明達し、飾るに文学を以てす。法令を審定するに、意は寛平に在り。備はるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格せず、能に随ひて収叙し、卑賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。累りに梁国公に封ぜらる。十三年、太子少師を加へらる。
玄齢、自ら一たび端揆に居ること十有五年なるを以て、頻に表して位を辞す。優詔して許さず。十有六年、進みて司空を拝せらる。玄齢、復た年老いたるを致仕せんと請ふ。太宗、使を遣はして謂ひて曰く、国家久しく相任使す。一朝忽ち良相無ければ、両手を失ふが如し。公若し筋力衰へずんば、此の譲を煩はすこと無かれ、と。玄齢遂に止む。太宗又嘗て王業の艱難、左命の匡弼を追思し、乃ち威鳳の賦を作りて以て自ら喩へ、因りて玄齢に賜ふ。其の称せらるること類ね此の如し。

【任賢 第1-2】
房玄齢は、斉州臨シの人なり。初め隋に仕へて隰城の尉と為り、事に坐して名を除かれて上郡に徒さる。太宗、地を渭北に徇ふるや、玄齢、策を杖つきて軍門に謁す。太宗、一見して便ち旧識の如く、渭北道の行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇ふを喜び、遂に心力をケイ竭す。是の時、賊冦平ぐ毎に、衆人競ひて金宝を求む。玄齢、独り先づ人物を収め、之を幕府に致す。及び謀臣猛将有れば、皆之と潜に相申結し、各々其の死力を致さしむ。累りに秦王府の記室を授けられ、陝東道の行臺考功郎中を兼ぬ。
玄齢、秦府に在ること十余年、恒に管記を典る。隠太子、太宗の勲徳日に隆きを見、転た忌嫉を生じ、玄齢及び杜如晦、太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、高祖に譖す。是に由りて如晦と竝びに駆斥せらる。隠太子の将に変有らんとするや、太宗、玄齢・如晦を召して、道士の衣服を衣せしめ、潜かに引きて閤に入れて事を計る。太宗、春宮に入るに及び、擢でて太子右庶子に拝す。
貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を修む。既に百司に任総し、虔恭夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失ふを欲せず。人の善有るを聞けば、己之を有するが若くす。吏事に明達し、飾るに文学を以てす。法令を審定するに、意は寛平に在り。備はるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格せず、能に随ひて収叙し、卑賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。累りに梁国公に封ぜらる。十三年、太子少師を加へらる。
玄齢、自ら一たび端揆に居ること十有五年なるを以て、頻に表して位を辞す。優詔して許さず。十有六年、進みて司空を拝せらる。玄齢、復た年老いたるを致仕せんと請ふ。太宗、使を遣はして謂ひて曰く、国家久しく相任使す。一朝忽ち良相無ければ、両手を失ふが如し。公若し筋力衰へずんば、此の譲を煩はすこと無かれ、と。玄齢遂に止む。太宗又嘗て王業の艱難、左命の匡弼を追思し、乃ち威鳳の賦を作りて以て自ら喩へ、因りて玄齢に賜ふ。其の称せらるること類ね此の如し。

【任賢 第2】
杜如晦は、京兆万年の人なり。武徳の初、秦王府の兵曹参軍と為る。俄かに陝州総管府の長史に遷さる。時に府中、英俊多く、外遷せらるるもの衆し。太宗、之を患ふ。記室房玄齢曰く、府僚の去る者、多しと雖も、蓋し惜むに足らず。杜如晦は聡明識達、王佐の才なり。若し大王、藩を守りて端拱せば、之を用ふる所無からん。必ず四方を経営せんと欲せば、此の人に非ざれば、可なる莫からん、と。太宗、遂に奏して府属と為し、常に帷幄に参謀せしむ。時に軍国多事、剖断、流るるが如し。深く時輩の服する所と為る。累りに天策府の従事中郎に除せられ、文学館学士を兼ぬ。
隠太子の敗るるや、如晦、玄齢と功等し。擢んでられて太子左庶子に拝せらる。俄かに兵部尚書に遷さる。進んで蔡国公に封ぜられ、実封一千三百戸を賜る。貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年、尚書左僕射に拝せられ、兼ねて選事を知す。仍ほ房玄齢と共に朝政を掌り、臺閣の規模、典章・文物に至るまで、皆二人の定むる所なり。甚だ当代の誉を獲、時に房杜と称す。

【任賢 第3-1】
魏徴は鉅鹿の人なり。近く家を相州の臨黄に徒す。武徳の末、隠太子の洗馬と為る。太宗と隠太子と陰に相傾奪するを見、毎に建成を勧めて早く之が計を為さしむ。太宗、隠太子を誅するに及び、徴を召して之を責めて曰く、汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや、と。衆皆之が為めに危懼す。徴、慷慨自若、従容として対へて曰く、皇太子、若し臣が言に従はば、必ず今日の禍無かりしならん、と。太宗、之が為めに容を斂め、厚く礼異を加へ、擢でて諌議大夫に拝し、数々之を臥内に引き、訪ふに政術を以てす。
徴、雅より経国の才有り。性又抗直にして、屈撓する所無し。太宗、之と言ふ毎に、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦、知己の主に逢ふを喜び、其の力用を竭くす。又、労ひて曰く、卿が諌むる所、前後三百余事、皆、朕が意に称へり。卿が誠を竭くし国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是の若くならん、と。三年、秘書監に累遷し、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂ひて曰く、卿が罪は、鉤に中つるよりも重く、我の卿に任ずるは、管仲より逾えたり。近代の君臣相得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや、と。
六年、太宗、近臣を宴す。長孫無忌曰く、王珪・魏徴は、往に息隠に事へ、臣、之を見ること讎の若し。謂はざりき今者又此の宴を同じくせんとは、と。太宗曰く、魏徴は往者実に我が讎とする所なりき。但だ其の心を事ふる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用ふ。何ぞ古烈に慙ぢん。然れども徴毎に顔を犯して切諌し、我が非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり、と。
七年、侍中に遷り、累りに鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職を解かんことを請ふ。太宗曰く、公独り金の鉱に在るを見ずや、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛へて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾るを得んや、と。徴、乃ち止む。後復た固辞す。侍中に解くを聴し、授くるに特進を以てし、仍ほ門下省の事を知せしむ。
十二年、帝、侍臣に謂ひて曰く、貞観以前、我に従ひて天下を平定し、艱険に周旋したるは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし忠トウを献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、唯だ魏徴のみ。古の名臣、何を以てか加へん、と。是に於て、親ら佩刀を解き、以て二人に賜ふ。
十七年、太子太師に拝せられ、門下の事を知するは故の如し。尋いで疾に遇ふ。徴の宅内、先に正堂無し。太宗、時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟めて為に造らしむ。五日にして就る。中使を遣はして、賜ふに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親臨して慟哭し、司空を贈り、諡して文貞と曰ふ。太宗親ら為めに碑文を製し、復た自ら石に書す。特に其の家に賜ひ、実封九百戸を食ましむ。
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。因りて泣下ること久しうす。詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。

【任賢 第3-1】
魏徴は鉅鹿の人なり。近く家を相州の臨黄に徒す。武徳の末、隠太子の洗馬と為る。太宗と隠太子と陰に相傾奪するを見、毎に建成を勧めて早く之が計を為さしむ。太宗、隠太子を誅するに及び、徴を召して之を責めて曰く、汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや、と。衆皆之が為めに危懼す。徴、慷慨自若、従容として対へて曰く、皇太子、若し臣が言に従はば、必ず今日の禍無かりしならん、と。太宗、之が為めに容を斂め、厚く礼異を加へ、擢でて諌議大夫に拝し、数々之を臥内に引き、訪ふに政術を以てす。
徴、雅より経国の才有り。性又抗直にして、屈撓する所無し。太宗、之と言ふ毎に、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦、知己の主に逢ふを喜び、其の力用を竭くす。又、労ひて曰く、卿が諌むる所、前後三百余事、皆、朕が意に称へり。卿が誠を竭くし国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是の若くならん、と。三年、秘書監に累遷し、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂ひて曰く、卿が罪は、鉤に中つるよりも重く、我の卿に任ずるは、管仲より逾えたり。近代の君臣相得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや、と。
六年、太宗、近臣を宴す。長孫無忌曰く、王珪・魏徴は、往に息隠に事へ、臣、之を見ること讎の若し。謂はざりき今者又此の宴を同じくせんとは、と。太宗曰く、魏徴は往者実に我が讎とする所なりき。但だ其の心を事ふる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用ふ。何ぞ古烈に慙ぢん。然れども徴毎に顔を犯して切諌し、我が非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり、と。
七年、侍中に遷り、累りに鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職を解かんことを請ふ。太宗曰く、公独り金の鉱に在るを見ずや、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛へて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾るを得んや、と。徴、乃ち止む。後復た固辞す。侍中に解くを聴し、授くるに特進を以てし、仍ほ門下省の事を知せしむ。
十二年、帝、侍臣に謂ひて曰く、貞観以前、我に従ひて天下を平定し、艱険に周旋したるは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし忠トウを献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、唯だ魏徴のみ。古の名臣、何を以てか加へん、と。是に於て、親ら佩刀を解き、以て二人に賜ふ。
十七年、太子太師に拝せられ、門下の事を知するは故の如し。尋いで疾に遇ふ。徴の宅内、先に正堂無し。太宗、時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟めて為に造らしむ。五日にして就る。中使を遣はして、賜ふに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親臨して慟哭し、司空を贈り、諡して文貞と曰ふ。太宗親ら為めに碑文を製し、復た自ら石に書す。特に其の家に賜ひ、実封九百戸を食ましむ。
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。因りて泣下ること久しうす。詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。

【任賢 第4】
王珪は瑯ヤ臨沂の人なり。初め隠太子の中允と為り、甚だ建成の礼する所と為る。後、其の陰謀の事に連るを以て、スイ州に流さる。建成誅せられ、太宗、召して諌議大夫に拝す。毎に誠を推し節を尽くし、献納する所多し。珪嘗て封事を上りて切諌す。太宗謂ひて曰く、卿が朕を論ずる所、皆、朕の失に中る。古より人君、社稷の永安を欲せざるは莫し。然れども得ざる者は、祇だ己の過を聞かず、或は聞けども改むる能はざるが為めの故なり。今、朕、失ふ所有らば、卿能く直言し、朕復た過を聞きて能く改むれば、何ぞ社稷の安からざるを慮らんや、と。太宗、又嘗て珪に謂ひて曰く、卿若し常に諌官に居らば、朕必ず永く過失無からん、と。顧待益厚し。
貞観元年、黄門侍郎に遷り、政治に参預し、太子右庶子を兼ぬ。二年、進んで侍中に拝せらる。時に房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑、珪と同じく国政を知す。嘗て同に宴に侍す。太宗、珪に謂ひて曰く、卿は識鑒清通、尤も談論を善くす。玄齢等より、咸く宜しく品藻すべし。又、自ら諸子の賢に孰与なるかを量る可し、と。対へて曰く、毎に諌諍を以て心と為し、君の尭舜に及ばざるを恥づるは、臣、魏徴に如かず。孜孜として国に奉じ、知りて為さざる無きは、臣、玄齢に如かず。才、文武を兼ね、出でては将たり入つては相たるは、臣、李靖に如かず。敷奏詳明に出納惟れ允なるは、臣、彦博に如かず。繁を処し劇を理め、衆務必ず挙がるは、臣、戴冑に如かず。濁を激し清を揚げ、悪を嫉み善を好むが如きに至りては、臣、数子に於て、頗る亦、一日の長あり、と。太宗深く其の言を嘉す。群公も亦各々以て己が懐ふ所を尽くすと為し、之を確論と謂ふ。

【任賢 第5】
李靖は京兆三原の人なり。大業の末、馬邑郡の丞と為る。会々高祖、太原の留守と為る。靖、高祖を観察し、四方の志有るを知る。因りて自ら候して変を上り、将に江都に詣らんとし、長安に至り、道塞がりて通ぜずして止む。高祖、京城に克ち、靖を執へ、将に之を斬らんとす。靖大いに呼びて曰く、公、義兵を起し暴乱を除く。大事を就さんと欲せずして、私怨を以て壮士を斬るや、と。太宗も亦、救靖を加ふ。高祖遂に之を捨す。
武徳中蕭銑・輔公セキを平ぐるの功を以て、揚州大都督府の長史に歴遷す。太宗、位を嗣ぎ、召して刑部尚書に拝す。貞観二年、本官を以て中書令を検校す。三年、兵部尚書に転じ、代州道の行軍総官と為り、進みて突厥の定襄城を撃ちて之を破る。突厥の諸部落、竝磧北に走る。突利可汗来り降り、頡利可汗大いに懼る。四年、退きて鉄山を保ち、使を遣はして入朝して罪に謝し、国を挙げて内附せんと請ふ。
頡利、外は降を請ふと雖も、而も内は猶豫を懐く。詔して鴻臚卿唐倹を遣はして之を慰諭せしむ。靖、副将張公謹に謂ひて曰く、詔使、彼に到る、虜は必ず自ら寛くせん。乃ち精騎を選び、二十日の糧を賚し、兵を引きて白道より之を襲はん、と。公謹曰く、既に其の降を許し、詔使、彼に在り。未だ宜しく討撃すべからず、と。靖曰く、此れ兵機なり。時、失ふ可からず、と。遂に軍を督して疾く進む。行きて陰山に到り、其の斥候千余帳に遇ひ、皆、俘にして以て軍に随ふ。頡利、使者を見て甚だ悦び、官兵の至るを虞らざるなり。靖の前鋒、霧に乗じて行く。其の牙帳を去ること七里、頡利始めて覚り、兵を列ぬるも、未だ陣を為すに及ばず、単馬軽走す。虜衆因りて潰散す。男女を俘にすること十余万、土界を斥くこと、陰山の北より大磧に至り、遂に其の国を滅ぼす。尋いで頡利可汗の別部落に獲、余衆悉く降る。
太宗大いに悦び、顧みて侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、主憂ふれば臣辱められ、主辱めらるれば臣死す、と。往者、国家草創の時、突厥強梁なり。太上皇、百姓の故を以て、臣を頡利に称せり。朕、未だ嘗て痛心疾首せずんばあらず。匈奴を滅ぼさんことを志し、坐、席に安んぜず。食、味を甘んぜず。今者、暫く偏師を動かし、往くとして捷たざるは無く、単于稽ソウ恥其れ雪がんか、と。群臣、皆万歳と称す。尋いで靖を尚書左僕射に拝し、実封五百戸を賜ふ。又、西のかた吐谷渾を征し、大いに其の国を破る。改めて衛国公に封ぜらる。靖の妻亡するに及びて、詔有りて墳塋の制度、漢の衛霍の故事に依り闕を築きて突厥の内の鉄山、吐谷渾の内の積石の二山を象るを許し、以て殊績を旌す。

【任賢 第6】
虞世南は、会稽余姚の人なり。貞観七年、秘書監に累遷す。太宗、万機の隙毎に、数々之を引きて談論し共に経史を観る。世南、容貌懦弱にして衣に勝へざるが若しと雖も、而も志性抗烈にして、論じて古先帝王の政を為すの得失に及ぶ毎に、必ず規諷を存し、補益する所多し。
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、朕、暇日に因りて虞世南と古今を商略す。朕に一言の善有れば、世南未だ嘗て悦ばずんばあらず。一言の失有れば、未だ嘗て悵恨せずんばあらず。近ごろ嘗みに戯れに一詩を作り、頗る浮艶に渉る。世南進表して諌めて曰く、陛下の此の作工なりと雖も、体、雅正に非ず。上の好む所、下必ず之に随ふ。此の文一たび行はるれば、恐らく風靡を致さん。軽薄俗を成すは、国を為むるの利に非ず。賜ひて継ぎ和せしむれば、敢て作らずんばあらず。而今よりして後、更に斯の文有らば、継ぐに死を以て請ひ、詔を奉ぜざらん、と。其の懇誠なること此の若し。朕用つて焉を嘉す。群臣、皆世南の若くならば、天下何ぞ理まらざるを憂へん、と。因りて帛一百五十段を賜ふ。
太宗嘗て称す、世南に五絶有り。一に曰く、徳行。二に曰く、忠直。三に曰く、博学。四に曰く、詞藻。五に曰く、書翰、と。卒するに及び礼部尚書を贈り、諡して文懿と曰ふ。太宗、魏王泰に手勅して曰く、虞世南の我に於けるは猶ほ一体のごときなり。遺を拾ひ闕を補ひ、日として暫くも忘るること無し。実に当代の名臣、人倫の準的なり。吾に小善有れば、必ず将順して之を成し、吾に小失有れば、必ず顔を犯して之を諌む。今、其れ云に亡す。石渠・東観の中、復た人無し。痛惜豈に言ふ可けんや、と。

【任賢 第7】
李勣は曹州離狐の人なり。本姓は徐氏。初め李密に仕へて右武候大将軍と為る。密、後、王世充の破る所と為り、衆を擁して国に帰す。勣猶ほ旧境十郡の地に拠る。武徳二年、其の長史郭孝恪に謂ひて曰く、魏公既に大唐に帰せり。今、此の人衆土地は、魏公の有する所なり。吾若し上表して之を献ぜば、即ち是れ主の敗を利して、自ら己の功と為し、以て富貴を邀むるなり。是れ吾の恥づる所なり。今宜しく具に州県及び軍人戸口を録し、総て魏公に啓し、公の自ら献ずるに聴すべし。此れ則ち魏公の功なり。亦可ならずや、と。
乃ち使を遣はして李密に啓す。使人初めて至るや、高祖、表無くして惟だ啓の李密に与ふる有るのみなるを聞き、甚だ之を怪しむ。使者、勣の意を以て聞奏す。高祖方めて大いに喜びて曰く、徐勣、徳に感じて功を推す。実に純臣なり、と。黎州の総管に拝し、姓を李氏と賜ひ、属籍を宗正に附す。其の父の蓋を封じて済陰王と為す。王爵を固辞す。乃ち舒国公に封じ、散騎常侍を授く。尋いで勣右武候大将軍を加ふ。
李密反叛して誅せらるるに及びて、勣、喪を発し服を行ひ、君臣の礼を備へ、表請して密を収葬せんとす。高祖遂に其の屍を帰す。是に於て大いに威儀を具へ、三軍縞素して、黎陽山に葬る。礼成り服を釈きて散ず。朝野、之を義とす。尋いで竇建徳の攻むる所と為り、勣、竇建徳に陥る。又、自ら抜きて京師に帰る。太宗に従ひて王世充・竇建徳を征して之を平らぐ。貞観元年、并州都督に拝せらる。令すれば行はれ禁ずれば止み、号して職に称へりと為す。突厥甚だ畏憚を加ふ。
太宗、侍臣に謂ひて曰く、隋の煬帝、賢良を精選して辺境を鎮撫するを解せず。惟だ遠く長城を築き、広く将士を屯して、以て突厥に備ふ。朕、今、李勣に并州を委任し、遂に突厥威に畏れて遠く遁れ、塞垣安静なるを得たり。豈に数千里の長城に勝らずや、と。其の後、并州、改めて大都督府を置き、又、勣を以て長史と為す。累に英国公に封ず。并州に在ること凡て十六年、召して兵部尚書に拝し、兼ねて政事を知せしむ。
勣時に暴疾に遇ふ。験方に云ふ、鬚灰を以て之を療す可し、と。太宗自ら鬚を剪り其れが為めに薬を和す。勣、頓首して血を見、泣きて以て陳謝す。太宗曰く、吾、社稷の為めに計るのみ。深謝するを煩はさず。公は往に李密を遺れず。今豈に朕に負かんや、と。

【任賢 第8】
馬周は博州荏平の人なり。貞観五年、京師に至り、中郎将常何の家に舎す。時に太宗、百官をして上書して得失を言はしむ。馬周、何の為めに便宜二十余事を陳べ、之を奏せしむ。事、皆、旨に合す。太宗、其の能を怪しみ、何に問ふ。何答へて曰く、此れ臣が発慮する所に非ず。乃ち臣が家の客馬周なり、と。太宗、即日、之を召す。未だ至らざるの間、凡そ四度、使を遣はして催促す。謁見するに及びて、与に語りて甚だ悦ぶ。門下省に直せしめ、尋いで監察御史を授け、累に中書舎人に除す。
周、機弁有り。敷奏を能くし、深く事端を識る。故に動けば中らざる無し。太宗嘗て曰く、我、馬周に於て、暫時、見ざれば、則便ち之を思ふ、と。十八年、中書令に歴遷し、太子右庶子を兼ぬ。周既に職、両宮を兼ね、事を処すること中允にして甚だ当時の誉を獲たり。又、本官を以て吏部尚書を摂す。太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、馬周、事を見ること敏速、性、甚だ貞正なり。人物を論量するに至りては、道を直くして言ひ、多く朕が意に称ふ。実に此の人に藉りて、共に時政を康くするなり、と。

【求諌 第1】
太宗、威容厳粛にして、百寮の進見する者、皆、其の挙措を失ふ。太宗、其の此の若くなるを知り、人の事を奏するを見る毎に必ず顔色を仮借し、諌諍を聞き、政教の得失を知らんことを冀ふ。貞観の初、嘗て公卿に謂ひて曰く、人、自ら照らさんと欲すれば、必ず明鏡を須ふ。主、過を知らんと欲すれば、必ず忠臣に藉る。若し主自ら賢聖を恃まば、臣は匡正せず。危敗せざらんと欲するも、豈に得可けんや。故に君は其の国を失ひ、臣も亦独り其の家を全くすること能はず。隋の煬帝の暴虐なるが如きに至りては、臣下、口を鉗し、卒に其の過を聞かざらしめ、遂に滅亡に至る。虞世基等、尋いで亦誅せられて死す。前事、遠からず。公等、事を看る毎に、人に利ならざる有らば、必ず須く極言規諌すべし、と。

【求諌 第2】
貞観元年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、正主、邪臣に任ずれば、理を致すこと能はず。正臣、、邪主に事ふれば、亦、理を致すこと能はず。惟だ君臣相遇ふこと、魚水に同じきもの有れば、則ち海内、安かる可し。朕、不明なりと雖も、幸に諸侯数々相匡救す。冀くは直言コウ議憑りて、天下を太平に致さん、と。
諌議大夫王珪対へて曰く、臣聞く、木、縄に従へば則ち正しく、君、諌に従へば則ち聖なり、と。故に古者の聖主には、必ず諍臣七人あり。言ひて用ひられざれば、則ち相継ぐに死を以てす。陛下、聖慮を開き、芻蕘を納る。愚臣、不諱の朝に処る。実に其の狂瞽をツクさんことを願ふ、と。太宗、善しと称し、詔して是より宰相内に入りて、国計を平章するときには、必ず諌官をして随ひ入りて、政事を預り聞かしめ、関説する所有らしむ。

【求諌 第3】
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、明主は短を思ひて益々善に、暗主は短を護りて永く愚なり。隋の煬帝、好みて自ら矜誇し、短を護り諌を拒ぎ、誠に亦実に犯忤し難し。虞世基、敢て直言せざるは、或は恐らくは未だ深罪と為さざらん。昔、微子、佯狂にして自ら全うす。孔子、亦、其の仁を称す。煬帝が殺さるるに及びて、世基は合に同じく死すべきや否や、と。
杜如晦対へて曰く、天子に諍臣有れば、無道なりと雖も、其の天下を失はず。仲尼称す、直なるかな史魚。邦、道有るも矢の如く、邦、道無きも矢の如し、と。世基、豈に煬帝の無道なるを以て、諌諍を納れざるを得んや。遂に口を杜ぢて言ふ無く、重位に偸安し、又、職を辞し退を請ふ能はざるは、則ち微子が佯狂にして去ると、事理、同じからず。昔、晋の恵帝・賈后、将に愍懐太子を廃せんとす。司空張華、竟に苦諍する能はず、阿隠して苟くも免る。趙王倫、兵を挙げて后を廃するに及び、使を遣はして華を収めしむ。華曰く、将に太子を廃せんとするの日、是れ言ふ無きに非ず。当時、納れ用ひられず、と。其の使曰く、公は三公たり。太子、罪無くして廃せらる。言既に従はれずんば、何ぞ身を引きて退かざる、と。華、辞の以て答ふる無し。遂に之を斬り、其の三族を夷ぐ。
古人云ふ、危くして持せず、顛して扶けずんば、則ち将た焉んぞ彼の相を用ひん、と。故に君子は大節に臨みて奪う可からざるなり。張華は既に抗直にして節を成す能はず、遜言して身を全くするに足らず、王臣の節、固に已に墜ちたり。虞世基、位、宰補に居り、言を得るの地に在り、竟に一言の諌諍無し。誠に亦合に死すべし、と。
太宗曰く、公の言是なり。人君必ず忠良の補弼を須ちて、乃ち身安く国寧きを得。煬帝は、豈に下に忠臣無く、身、過を聞かざるを以て、悪積り禍盈ち、滅亡斯に及べるならずや。若し人主、行ふ所、当らず、臣下、又匡諌すること無く、苟くも阿順に在り、事、皆、美を称すれば、則ち君は暗主たり、臣は諛臣たり。君暗く臣諛へば、危亡遠からず。朕、今、志、君臣上下、各々至公を尽くし、共に相切磋し、以て理道を為すに在り。公等各々宜しく務めて忠トウを尽くし、朕が悪を匡救すべし。遂に直言して意に忤ふを以て、輒ち相責怒せざらん、と。

【求諫第4/情を尽くして極諫せんことを欲す】
太宗はいつも厳然と構えていたので、御前に伺傾する臣下は、その威厳に気おされて度を失ってしまうのが常だった。そのことに気づいた太宗は、臣下を引見するたびに、必ず顔色をやわらげて相手の意見に耳を傾け、政治の実態を知ることにつとめた。  貞観の初め、重臣たちにこう語ったことがある。「自分の姿を映し出そうとすれば、必ず鏡を用いなければならない。それと同じように、君主がみずからの過ちに気づくためには、必ず忠臣の諫言に俟たなければならぬ。者主がみずからを賢い人間だと思い込めば、過ちを犯しても、それを正してくれる臣下はいなくたる。そうなれば、国を滅ぼしたくたいと願っても、かなわぬことだ。国が滅びれば、当流、臣下もその家を全うすることはできない。隋の煬帝の暴虐な政治の下では、臣下はみな口をつぐみ、あえて苦言を呈する者は一人もいなかった。その結果、隋は滅亡し、側近の虞世基らも、迎合を事としたあげく、あいついで誅殺された。煬帝の失敗はそれほど遠い昔のことではない。どうかそちたちは、政治の実態をよく見とどけ、かりそめにも人民を苦しめていることがあれば、遠慮なく苦言を呈してほしい」  また、貞観三年には、側近の者たちにこう語つている。「中書、門下の両省は、国政の中枢である。それゆえ、そなたたちのような人材を登用している。責任はこの上なく重い。わたしの下す詔勅に下都合な箇所があれば、遠慮なく議論を尺くすべきである。しかるに近頃、わたしの気持に逆らうまいとしてのことか、はいはいと言うばかりで、いっこうに諫言してくれる者がいない。まことに嘆かわしいことだ。ただ詔勅に署名して下に流してやるだけのことなら、どんな人間にだってできる。わざわざ人材を選んで仕事を委任する必委はないのである。今後、詔勅に不都合な箇所があれば、どしどし意見を申し述べてほしい。わたしを恐れて、知っていながら口を閉ざす、かりそめにもそんなことは許されないものと心得よ」  さらに貞観五年には、宰相の房玄齢らにこう語つている。「昔から帝王には感情のままに喜んだり怒ったりした者が多い。機嫌のよいときは、功積のない者にまで賞を与え、怒りにかられたときは、平気で罪のない人間まで殺した。天下の大乱はすべてこのようなことが原因で起こるのである。わたしは今、日夜そのことに思いを致している。どうか気づいたことがあれば、遠慮なく申し述べてほしい。また、そちたちも部下の諫言には喜んで耳を傾けるがよい。部下の意見が自分の意見と違っているからといって、咎めだてしてはならぬ。部下の諫言を受け人れない者が、どうして上の者を諫言することができようぞ」

【求諌 第5】
貞観八年、上、侍臣に謂ひて曰く、朕、閑居静坐する毎に、則ち自ら内に省み、恒に、上、天心に称はず、下、百姓の怨む所と為らんことを恐れ、但だ人の匡諌せんことを思ひ、耳目をして外通し、下の冤滞無からしめんことを欲す。又、比、人の来りて事を奏する者を見るに、多く怖慴する有りて、言語、次第を失ふを致す。尋常の事を奏するすら、情猶ほ此の如し。況んや諌諍せんと欲するは、、必ず当に逆鱗を犯すを畏るるなるべし。所以に諌者有る毎に、縦ひ朕の心に合はざるも、朕亦、以て忤ふと為さず。若し即ち嗔り責めば、深く人の戦懼を懐かんことを恐る。豈に肯て更に言はん、や。

【求諌 第6】
貞観十五年、太宗、魏徴に問ひて曰く、比来、朝臣、都て事を論ぜざるは、何ぞや、と。徴対へて曰く、陛下、心を虚しくして採納す。誠に宜しく言者有るべし。然れども古人云ふ、未だ信ぜられずして諌むれば、則ち謂ひて己を謗ると為す。信ぜられて諌めざれば、則ち謂ひて之を尸禄と為す、と。但だ人の才器は各々同じからざる有り。懦弱の人は、忠直を懐けども言ふこと能はず。疎遠の人は、信ぜられざらんことを恐れて言ふことを得ず。禄を懐ふ人は、身に便ならざらんことを慮りて敢て言はず。相与に緘黙し、俛仰して日を過す所以なり、と。
太宗曰く、誠に卿の言の如し。朕、毎に之を思ふ。人臣、諌めんと欲すれば、輒ち死亡の禍を懼る。夫の鼎カクに赴き、白刃を冒すと、亦何ぞ異ならんや。故に忠貞の臣は、誠を竭さんと欲せざる者には非ず。敢て誠を竭す者は、乃ち是れ極めて難し。禹が昌言を拝せし所以は、豈に此が為ならずや。朕、今、懐抱を開いて、諌諍を納る。卿等、怖懼を労して、遂に極言せざること無かれ、と。

【求諌 第7】
貞観十六年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、自ら知る者は明なり。信に難しと為す。属文の士、伎巧の徒の如きに至つては、皆自ら己が長は、他人は及ばずと謂へり。若し名工・文匠、商略詆訶すれば、蕪詞拙跡、是に於て乃ち見はる。是に由りて之を言へば、人君は須く匡諌の臣を得て、其の愆過を挙ぐべし。一日万機、独り聴断す。復た憂労すと雖も、安んぞ能く善を尽くさん。常に念ふ、魏徴、事に随ひて諌諍し、多く朕の失に中り、明鏡の形を鑒みて、美悪畢く見はるるが如し、と。因りて觴を挙げて玄齢等数人に賜ひ、以て之を勗めしむ。

【求諌 第8】
貞観十七年、太宗、嘗て諌議大夫チョ遂良に問ひて曰く、昔、舜、漆器を造り、禹、其の俎に雕る。当時、舜・禹を諌むるもの十有余人なり、と。食器の間、何ぞ苦諌を須ひん、と。遂良曰く、雕琢は農事を害し、纂組は女工を傷る。奢淫を首創するは、危亡の漸なり。漆器已まざれば、必ず金もて之を為らん。金器已まざれば、必ず玉もて之を為らん。所以に諍臣は、必ず其の漸を諌む。其の満盈に及びては、復た諌むる所無し、と。
太宗曰く、卿の言、是なり。朕が為す所の事、若し当らざる有り、或は其の漸に在り、或は已に将に終らんとするも、皆宜しく進諌すべし。比、前史を見るに、或は人臣の事を諌むる有れば、遂に答へて云ふ、業已に之を為せり、と。或は道ふ、業已に之を許せり、と。竟に為に停改せず。此れ則ち危亡の禍、手を反して待つ可きなり、と。

【納諌 第1】
貞観の初め、太宗が王珪と酒盛りをして楽しく語っているとき、太宗の側に美しい女性が侍っていた。その女性はもと廬江王・李?の妾であり、李?が敗れて死んだ後、没収されて宮中に入った。太宗はその美人を指して王珪に言った。「廬江は道理にそむいた。その夫を殺して、その妻を奪ったのだ。滅びて当然だ。」王珪は立って席をよけて言った。「陛下は廬江が他人の妻を奪ったのを邪であるとお考えですか、邪でないとお考えなのですか?」太宗は言った。「人を殺してその妻を奪ったというのに、その是非を問うとはどうしたことか?」それに対して王珪は言った。「『管子』という書に、斉の桓公が、滅亡した郭国の廃墟に行き、そこで老人に問いました。『郭はなぜ滅んだのか?』老人は言いました。『善を善とし、悪を悪としたからです。』そして桓公が、『それは賢君ではないか。なぜそれで滅んだのだ。』と聞くと、老人は答えました。『郭の君は善を善としましたが、それを用いることができず、悪を悪としましたが、それを除くことができませんでした。よって滅んだのです。』とあります。今、このご婦人が陛下のお側に侍っています。失礼ながら陛下はその行為を是認されているのではないでしょうか。陛下がもし非となされるならば、これこそ悪を知ってそれを除かないことであります。」太宗は大いに喜び、至極もっともであると称賛し、すぐにその女性を親族のもとへ帰した。

【納諌 第2】
貞観三年、太宗、司空裴寂に謂ひて曰く、比、上書して事を奏する有り。條数甚だ多し。朕総て之を屋壁に黏し、出入に観省す。孜孜として倦まざる所以は、臣下の情を尽くさんことを欲すればなり。一たび理を致さんことを思ふ毎に、或は三更に至りて方めて寝ぬ。亦、公が輩、心を用ふること倦まず、以て朕が懐に副はんことを望む、と。

【納諌 第3】
貞観四年、詔して卒を発して洛陽宮の乾元殿を修め、以て巡狩に備ふ。給事中張玄素、上書して諌めて曰く、微臣竊に思ふに、秦の始皇の君たるや、周室の余に藉り、六国の盛に因り、将に之を万代に貽さんとするも、其の子に及びて亡べり。良に嗜を逞しくし慾に奔り、天に逆ひ人を害ふに由る者なり。是に知る。天下は力を以て勝つ可からず、神祇は親を以て恃む可からず、惟だ当に倹約を弘にし、賦斂を薄くすべし。終を慎しむこと始の如くにせば以て永固なる可し。
方今、百王の末を承け、凋弊の余に属す。必ず之を節するに礼制を以てせんと欲せば、陛下宜しく身を以て先と為すべし。東都は未だ幸期有らざるに、即ち補葺せしむ。諸王、今竝びに藩に出で、又須く営構すべし。興発既に多きは、豈に疲人の望む所ならんや。其の不可なるの一なり。陛下、初め東都を平らげしの始め、層楼広殿、皆、撤毀せしめ、天下翕然として、心を同じくして欣仰せり。豈に初めは則ち其の侈靡を悪み、今は乃ち其の雕麗を襲ふ有らんや。其の不可なるの二なり。音旨を承くる毎に、未だ即ち巡幸せず。此れ即ち不急の務を事とし、虚費の労を成す。国に兼年の積無し、何ぞ両都の好を用ひん。労役、度に過ぎ、怨トク将に起らんとす。其の不可なるの三なり。百姓、乱離の後を承け、財力凋尽す。天恩含育し、粗ぼ存立を見る。飢寒猶ほ切に、生計未だ安からず。五六年の間には、未だ旧に復する能はざらん。奈何ぞ更に疲人の力を奪はん。其の不可なるの四なり。昔、漢の高祖、将に洛陽に都せんとす。婁敬一言して、即日西に賀す。豈に地は惟れ土の中、貢賦の均しき所なるを知らざらんや。但だ形勝の関内に如かざるを以てなり。伏して惟みるに、凋弊の人を化し、澆漓の俗を革め、日たること尚ほ浅く、未だ甚だしくは淳和ならず。事宜を斟酌するに、ナンぞ東幸す可けんや。其の不可なるの五なり。
臣又嘗て隋室の初め此の殿を造るを見るに、楹棟宏壮なり。大木は隋近の有る所に非ず、多く豫章より採り来る。二千人、一柱を曳き、其の下に轂を施す。皆、生鉄を以て之を為る。若し木輪を用ふれば、便即ち火出づ。略ぼ一柱を計るに、已に数十万の功を用ふれば、則ち余費又此れに過倍す。臣聞く、阿房成りて、秦人散じ、章華就りて、楚衆離る、と。然して乾陽、功を畢へて、隋人、解体す。且つ陛下の今時の功力を以て、隋日に何如とす。凋残の後を承け、瘡痍の人を役し、億万の功を費し、百王の弊を襲ふ。此を以て之を言へば、恐らくは煬帝よりも甚だしき者あらん。深く願はくは陛下、之を思はんことを。由余の笑ふ所と為る無くんば、則ち天下の幸甚なり、と。
太宗、玄素に謂ひて曰く、卿、我を以て煬帝に如かずとす。桀紂に何如、と。対へて曰く、若し此の殿卒に興らば、所謂同じく乱に帰するなり、と。太宗歎じて曰く、我、思量せず、遂に此に至る、と。顧みて房玄齢に謂ひて曰く、今、玄素の上表を得たり。洛陽は実に亦未だ宜しく修造すべからず。後必ず事理須く行くべくば、露坐すとも亦復た何ぞ苦しまん。有らゆる作役は、宜しく即ち之を停むべし。然れども卑を以て尊を干すは、古来、易からず。其の至忠至直に非ずんば、安んぞ能く此の如くならん。且つ衆人の唯唯は、一士の諤諤に如かず。絹五百匹を賜ふ可し、と。魏徴歎じて曰く、張公、遂に回天の力有り。仁人の言、其の利博きかな、と謂ふ可し、と。

【納諌 第4】
貞観六年、太宗、御史大夫韋挺・中書侍郎杜正倫・秘書少監虞世南・著作郎姚思廉等、封事を上りて旨に称へるを以て、召して謂ひて曰く、朕、古よりの人臣、忠を立つるの事を歴観するに、若し明主に値へば、便ち誠を尽くして規諌するを得。龍逢・比干の如きに至つては、竟に孥戮を免れず。君たること易からず、臣たること極めて難し。朕又聞く、龍は擾して馴れしむ可し。然れども喉下に逆鱗有り、之に触るれば則ち人を殺す。人主も亦逆鱗有り、と。卿等、遂に犯触を避けずして、各々封事を進むること、常に能く此の如くならば、朕豈に宗社の傾敗を慮らんや。毎に卿等の此の意を思ひ、暫くも忘るる能はず。故に宴を設けて楽を為すなり、と。仍りて帛を賜ふこと差有り。

【納諌 第5】
太常卿韋挺、嘗て上疏して得失を陳す。太宗、書を賜ひて曰く、上る所の意見を得るに、極めて是れトウ言にして、辞理、観る可し。甚だ以て慰と為す。昔、斉境の難に、夷吾、鉤を射るの罪有り。蒲城の役に勃テイ、袂を斬るの仇たり。而るに小白、以て疑と為さず、重耳、之を待つこと旧の若し。豈に各々主に非ざるに吠え、志、二無きに在るに非ずや。卿の深誠、斯に見はる。若し能く克く此の節を全くせば、則ち永く令名を保たん。如し其れ之を怠らば、惜しまざる可けんや。勉励して此を終へ、範を将来に垂れ、当に後の今を観ること、今の古を視るがごとくならしむべし。亦美ならずや。朕、比、其の過を聞かず、未だ其の闕を覩ず。頼に忠懇を竭くし、数々嘉言を進め、用て朕が懐に沃げ。一に何ぞ道ふ可けんや、と。

【納諌 第6】
李大亮、貞観中、涼州都督と為る。嘗て臺使有り、州境に至る。名鷹有るを見、大亮に諷して之を献ぜしむ。大亮密に表して曰く、陛下久しく畋猟を絶つ。而るに使者、鷹を求む。若し是れ陛下の意ならば、深く昔旨に乖かん。如し其れ自ら擅にせば、便ち是れ使、其の人に非ざらん、と。
太宗、其れに書を下して曰く、卿が文武を兼ね資し、志、貞確を懐くを以て、故に藩牧を委ね、茲の重寄に当つ。比、州鎮に在りて、声績遠く彰る。此の忠勤を念ひ、寤寐に忘るること無し。使、鷹を献ぜしむるに、遂に曲順せず。今を論じ古を引き、遠く直言を献じ、腹心を披露し、非常に懇至なり。覧を用つて嘉歎し、已む能はざるのみ。臣有ること此の若し、朕復た何ぞ憂へん。宜しく此の誠を守り、終始、一の如くすべし。詩に曰く、爾の位を靖恭し、是の正直を好む。神之れ之を聴き、爾の景福を介にせん、と。古人称す、一言の重き、千金にヒトし、と。卿の此の言、深く貴ぶに足る。今、卿に金壷瓶・金椀各々一枚を賜ふ。千溢の重き無しと雖も、是れ朕が自用の物なり。
卿、志を立つること方直、節を竭くすこと至公、職に処り官に当り、毎に委ぬる所に副ふ。方に大いに任使し、以て重寄を申ねんとす。公事の間、宜しく典籍を観るべし。兼ねて卿に荀悦の漢紀一部を賜ふ。此の書、叙致簡要、論議深博、政を為すの体を極め、君臣の義を尽くす。宜しく尋閲を加ふべし、と。

【納諌 第7】
貞観八年、陝県の丞皇甫徳参、上書して旨に忤ふ。太宗以てサン謗と為す。侍中魏徴、奏言す、昔、賈誼、漢の文帝の時に当りて、上書して云ふ、痛哭を為す可き者三、長歎を為す可き者五、と。古より上書は、率ね激切多し。若し激切ならざれば、則ち人主の心を起す能はず。激切は即ちサン謗に似たり。惟だ陛下、其の可否を詳かにせよ、と。太宗曰く、公に非ざれば、能く此を道ふ者無し、と。徳参に物一百三十段を賜はしむ。

【納諌 第8】
貞観中、使を遣はして西域に詣り、葉護河干立てしむ。未だ還らざるに、又人をして多く金帛を賚し、諸国を歴て馬を市はしむ。魏徴諌めて曰く、今、使を発するは、河干を立つるを以て名と為す。河干未だ立つを定めざるに、即ち諸国に詣りて馬を市はしむ。彼必ず以て意は馬を市ふに在り、専ら河干を立つるが為めならずと為さん。河干、立つを得とも、則ち甚だしくは恩を懐はざらん。立つを得ざれば、則ち深怨を生ぜん。諸蕃、之を聞かば、且に中国を重んぜざらんとす。但だ彼の土をして安寧ならしめば、則ち諸国の馬、求めずして自ら至らん。
昔、漢文、千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、吾、吉行は日に三十、凶行は日に五十、鸞輿、前に在り、属車、後に在り、吾独り千里の馬に乗りて、将に以て安くに之かんとするや、と。乃ち其の道里の費を償ひて之を返せり。又、光武、千里の馬及び宝剣を献ずる者有り。馬は以て鼓車に駕し、剣は以て騎士に賜ふ。
今、陛下の凡そ施為する所、皆ハルカに三王の上に過ぎたり。奈何ぞ此に至りて、孝文・光武の下と為らんと欲するや。又、魏の文帝、西域の大珠を市はんことを求む。蘇則曰く、若し陛下、恵、四海に及ばば、則ち求めずして自ら至らん。求めて之を得るは、貴ぶに足らざるなり、と。陛下縦ひ漢文の高行を慕ふ能はずとも、蘇則の正言を畏れざる可けんや、と。太宗、遽に之を止めしむ。

【納諌 第9】
貞観十七年、太子右庶子高李輔、上疏して得失を陳す。特に鍾乳一剤を賜ひ、謂ひて曰く、卿、薬石の言を進む。故に薬石を以て相報ゆ、と。

【納諌 第10】
太宗、嘗て苑西面監穆裕を怒り、朝堂に命じて之を斬らしむ。時に太帝、皇太子たり。遽に顔を犯して進諌す。太宗、意乃ち解く。司徒長孫無忌曰く、古より太子の諌むる、或は閑に乗じて従容として言ふ。今、陛下、天威の怒を発し、太子、顔を犯すの諌を申ぶ。斯れ古今未だ有らず、と。
太宗曰く、夫れ人久しく相与に処れば、自然に染習す。朕が天下を御めしより、虚心正直なり。即ち魏徴有りて、朝夕進諌す。徴云に亡せしより、劉キ・岑文本・馬周・チョ遂良等、之に継ぐ。皇太子幼にして朕の膝前に有り、毎に朕が心に諌者を悦ぶを見、因りて染まりて以て性を成す。故に今日の諌有り、と。

【君臣鑒戒 第1】
貞観六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、周秦、初め天下を得たるは、其の事、異ならず。然れども、周は即ち惟だ善を是れ務め、功を積み徳を累ぬ。能く七百の基を保ちし所以なり。秦は乃ち其の奢淫を恣にし、好んで刑罰を行ひ、二世に過ぎずして滅ぶ。豈に善を為す者は、福祚延長にして、悪を為す者は、降年永からざるに非ずや。朕又聞く、桀紂は帝王なり。匹夫を以て之に比すれば、則ち以て辱と為す。顔閔は匹夫なり。帝王を以て之に比すれば、則ち以て栄と為す、と。此れ亦帝王の深恥なり。朕毎に此の事を将て、以て鑒戒と為す。常に逮ばずして人の笑ふ所と為らんことを恐る、と。
魏徴曰く、臣聞く、魯の哀公、孔子に謂ひて曰く、人、好く忘るる者有り。宅を移して、乃ち其の妻を忘る、と。孔子曰く、又、好く忘るること此よりも甚だしき者有り。丘、桀紂の君を見るに、乃ち其の身を忘る、と。願はくは、陛下、毎に此の如きを慮と為すを作さば、後人の笑を免るるに庶からんのみ、と。

【君臣鑒戒 第2】
貞観十四年、高昌平ぎたるを以て、侍臣を召して宴を賜ふ。太宗、房玄齢に謂ひて曰く、高昌若し臣の礼を失はずんば、豈に滅亡に至らんや。朕、此の一国を平げ、益々危懼を懐く。今、克く久大の業を存せんと欲せば、惟だ当に驕逸を戒めて以て自ら防ぎ、忠謇を納れて以て自ら正し、邪佞を黜け、賢良を用ひ、小人の言を以てして君子を議せざるべし。此を以て之を守らば、安きを獲るに庶幾からんか、と。
魏徴進んで曰く、臣、古来の帝王を観るに、乱を撥め業を創むるときは、必ず自ら戒懼し、芻蕘の議を採り、忠トウの言に従ふ。天下既に安ければ、則ち情を恣にし、欲を肆にし、諂諛を甘楽し、正諌を聞くを悪む。張良は、漢王の計画の臣なり。高祖が天子と為り、当に嫡を廃して庶を立てんとするに及び張良曰く、今日の事は、口舌の能く争ふ所に非ざるなり、と。終に敢て復た関説するところ有らず。況んや陛下功徳の盛んなる、漢祖を以て之を方ぶるに、彼は準ずるに足らず。位に即きて十有五年、聖徳光被す。今、又、高昌を平殄したるも、猶ほ安危を以て意に繋け、方に忠良を納用し、直言の道を開かんと欲す。天下の幸甚なり。
昔、斉の桓公・管仲・鮑叔牙・ネイ戚の四人飲す。桓公、叔牙に謂ひて曰く、盍ぞ寡人の為に寿せざるや、と。叔牙、觴を捧げて起ちて曰く、願はくは、公、出でてキョに在りしときを忘るる無く、管仲をして、魯に束縛せられしときを忘るる無からしめ、ネイ戚をして、車下に飯牛せしときを忘るる無からしめんことを、と。桓公、席を避けて再拝して曰く、寡人と二大夫と、能く夫子の言を忘るること無くんば、則ち社稷、危からざらん、と。太宗、徴に謂ひて曰く、朕、必ず敢て布衣の時を忘れざらん。公等も叔牙の人と為りを忘るるを得ざれ、と。

【君臣鑒戒 第3】
貞観十五年、太宗、特進魏徴に問ひて云く、朕、己に克ちて政を為し、前烈を仰止し、積徳・累仁・豊功・厚利の四者に至りては、朕皆之を行ふ。何等の優劣あるや、と。徴曰く、徳・仁・功・利は、陛下兼ねて之を行ふ。然れば則ち乱を撥めて正に反し、戎狄を除くは、是れ陛下の功なり。黎元を安堵し、各々生業有るは、是れ陛下の利なり。此に由りて之を言へば、功利は多きに居る。惟だ徳と仁とは、願はくは陛下自ら彊めて息まざれば、必ず致す可きなり、と。

【君臣鑒戒 第4】
貞観十七年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、古より草創の主、子孫に至りて乱多きは、何ぞや、と。司空房玄齢曰く、此れ、幼主は深宮に生長し、少くして富貴に居るが為めに、未だ嘗て人間の情偽、理国の安危を識らず。政を為すこと乱多き所以なり、と。
太宗曰く、公の意は、過を主に推す。朕は則ち罪を臣に帰す。夫れ功臣の子弟は、多く才行無く、祖父の資蔭に藉りて、遂に大官に処り、徳義、修まらず、奢縦を是れ好む。主、既に幼弱にして、臣、又不才、顛るるも扶けず。豈に能く乱無からんや。隋の煬帝、宇文述が藩に在りしときの功を録して、化及を高位に擢づ。報効を思はず、翻つて殺逆を行へり。此れ豈に臣下の過に非ずや。朕が此の言を発するは、公等が子弟を戒勗し、愆犯無からしめんことを欲す。即ち国家の慶なるのみ、と。
太宗、又曰く、化及と楊玄感とは、即ち隋の大臣にして、恩を受くること深き者なり。子孫皆反す。其の故は何ぞや、と。岑文本対へて曰く、君子は乃ち能く徳を懐ひ、小人は恩を荷ふこと能はず。玄感・化及の徒は。竝びに小人なり。古人、君子を貴びて小人を賎しむ所以なり、と。太宗曰く、然り、と。

【論択官 第1】
貞観元年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、理を致すの本は、惟だ審かに才を量り職を授け、務めて官員を省くに在り。故に書に称す、官に任ずるは惟だ賢才をせよ、と。又云ふ、官は必ずしも備へず、惟だ其の人をせよ、と。孔子曰く、官事、必ずしも摂せず、焉んぞ倹と称するを得ん、と。若し其の善なる者を得ば、少しと雖も亦足らん。其の不善なる者は、縦ひ多きも亦何をか為さん。古人も亦、官に其の才を得ざるを以て、地に画きて餅を為すも食ふ可からざるに比するなり。卿宜しく詳かに此の理を思ひ、庶官の員位を量定すべし、と。
玄齢等是に由りて置く所の文武官、総べて六百四十三員とす。太宗、之に従ふ。因りて玄齢に謂ひて曰く、此より儻し楽工雑類、仮使、術、儕輩に逾ゆる者有るも、只だ特に銭帛を賜ひて以て其の能を称す可し。必ず官爵を超授して、夫の朝賢君子と肩を比べて立ち、坐を同じくして食ひ、諸の衣冠をして以て恥累と為さしむ可からざるなり、と。

【論択官 第2】
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、毎夜、恒に百姓間の事を思ひ、或は夜半に至るまで寐ねず。惟だ都督・刺史の、百姓を養ふに堪ふるや否やを恐る。故に屏風の上に於て、其の姓名を録し、坐臥恒に看る。官に在りて、如し善事有らば、亦、具に名下に列ぬ。朕、深宮の中に居りて、視聴、遠きに及ぶこと能はず。委むる所の者は、惟だ都督・刺史のみ。此の輩は実に理乱の繋る所なり。尤も須く人を得べし、と。

【論択官 第3】
貞観二年、上、尚書右僕射封徳彝に謂ひて曰く、安きを致すの本は、惟だ人を得るに在り。比来、卿をして賢を挙げしむるに、未だ嘗て推薦する所有らず。天下の事は重し、卿、宜しく朕が憂労を分つべし。卿既に言はずんば、朕将た安くにか寄せん、と。対へて曰く、臣愚豈に敢て情を尽くさざらんや。但だ今の見る所、未だ奇才異能有らず、と。上曰く、前代の明王、人を使ふこと器の如くす。才を異代に借らずして、皆、士を当時に取る。豈に伝説を夢み、呂尚に逢ふを待ちて、然る後に、政を為さんや。何の代か賢無からん。但々遺して知らざるを患ふるのみ、と。徳彝慙赧して退く。

【論択官 第4】
貞観二年、太宗、房玄齢・杜如晦に謂ひて曰く、卿は僕射たり。当に朕の憂を助け、耳目を広開し、賢哲を求訪すべし。比聞く、卿等、詞訟を聴受すること、日に数百有りと。此れ即ち符牒を読むに暇あらず、安んぞ能く朕を助けて賢を求めんや、と。因りて尚書省に勅し、細務は皆左右丞に付し、惟だ冤滞の大事の、合に聞奏すべき者のみ、僕射に関せしむ。

【論択官 第5】
貞観三年、太宗、吏部尚書杜如晦に謂ひて曰く、比、吏部の人を択ぶを見るに、惟だ其の言詞刀筆のみを取り、其の景行を悉さず。数年の後、悪跡始めて彰はれ、刑戮を加ふと雖も、而も百姓已に其の弊を受く。如何して善人を獲可き、と。
如晦対へて曰く、両漢の人を取る、皆、行、郷閭に著れ、然る後に入れ用ふ。故に当時、号して多士と為す。今、毎年選集し、数千人に向なんとす。厚貎飾詞、知悉す可からず。選司但だ其の階品を配するのみ。才を得る能はざる所以なり、と。上乃ち将に漢家の法に依りて、本州をして辟召せしめんとす。会々功臣等、将に世封を行はんとし、其の事遂に止む。

【論択官 第6】
貞観六年、上、魏徴に謂ひて曰く、古人云ふ、王者は須く官の為めに人を択ぶべし。造次に即ち用ふ可からざ、と。朕、今、一事を行へば、則ち天下の観る所と為り、一言を出せば、則ち天下の聴く所と為る。徳好の人を用ふれば、善を為す者皆勧む。誤りて悪人を用ふれば、不善の者競い進む。賞、其の労に当れば、功無き者自ら退く。罰、其の罪に当れば、悪を為す者誡懼す。故に知る、賞罰は軽々しく行ふ可からず、人を用ふることは弥々須く慎んで択ぶべし、と。
徴対へて曰く、人を知るの事は、古より難しと為す。故に績を考へて黜陟し、其の善悪を察す。今、人を求めんと欲せば、必ず須く審かに其の行を訪ふべし。若し其の善を知りて然る後に之を用ひば、縦ひ此の人をして事を済す能はざらしむとも、只だ是れ才力の及ばざるにて、大害を為さざらん。誤りて悪人を用ひば、縦し強幹ならしめば、患を為すこと極めて多からん。但だ乱代は惟だ其の才を求めて、其の行を顧みず。太平の時は必ず才行倶に兼ぬるを須ちて、始めて之を任用す可し、と。

【論択官 第7】
貞観十一年、侍御史馬周、上疏して曰く、天下を理むる者は、人を以て本と為す。百姓をして安楽ならしめんと欲せば、惟だ刺史と県令とのみに在り。今、県令既に衆く、皆賢なる可からず。若し毎州、良刺史を得ば、則ち合境蘇息せん。天下の刺史、悉く聖意に称はば、則ち陛下、巌廊の上に端拱す可く、百姓、安からざるを慮らざらん。古より、郡守・県令、皆、賢徳を妙選す。遷擢して宰相と為す有らんと欲すれば、必ず先づ試みるに人に臨むを以てす。或は二千石より、入りて丞相及び司徒・大尉と為る者多し。朝廷は必ず独り内官のみを重んじ、刺史・県令は、遂に其の選を軽くす可からず。百姓の未だ安からざる所以は、殆ど此に由る、と。太宗因りて侍臣に謂ひて曰く、刺史は朕当に自ら簡択すべし。県令は京官の五品以上に詔して、各々一人を挙げしめよ、と。

【論択官 第8】
貞観十一年、治書侍御史劉キ上疏して曰く、臣聞く、尚書の万機は、寔に政の本と為す、と。伏して尋ぬるに、此の選は、授受誠に難し。是を以て、八座は文昌に比べ、二丞は管轄に方ぶ。爰に曹郎に至るまで、上、列宿に膺る。苟くも職に称ふに非ざれば位を竊み譏りを興す。伏して見るに、比来、尚書省、詔勅稽停し、文案擁滞す。臣誠に庸劣なれども、請ふ其の源を述べん。
貞観の初、未だ令僕有らず。時に省務繁雑なること、今に倍多す。而して左丞載冑・右丞魏徴、竝びに吏方に暁達し、質性平直にして、事の当に弾挙すべきは、廻避する所無し。陛下又仮すに恩慈を以てし、自然に物を粛せり。百司、懈らざりしは、抑も此に之れ由れり。杜正倫が続ぎて右丞に任ずるに及びて、頗る亦下を励ませり。
比者、綱維、挙がらざるは、竝びに勲親、位に在り、器、其の任に非ず、功勢相傾くるが為なり。凡そ官僚に在るもの、未だ公道に循はず、自ら強めんと欲すと雖も、先づ囂謗を懼る。所以に郎中の与奪、惟だ諮稟を事とす。尚書依違して、断決する能はず。或は聞奏を憚り、故らに稽延を事とす。案、理窮まると雖も、仍ほ更に盤下す。去ること程限無く、来ること遅きを責めず。一たび手を出すを経れば、便り年載を渉る。或は旨を希ひて情を失ひ、或は嫌を避けて理を抑ふ。勾司、案成るを以て事畢ると為し、是非を究めず。尚書、便僻を用て奉公と為し、当不を論ずる莫し。互に相姑息し、惟だ弥縫を事とす。且つ衆を選び能に授くること、才に非ざれば挙ぐる莫し。天工、人代る。焉んぞ妄りに加ふ可けんや。懿戚・元勲に至りては、但だ宜しく其の礼秩を優にすべし。或は年高くして耄及び、或は病積み智昏きは、既に時に益無し、宜しく当に之を致すに閑逸を以てすべし。。久しく賢路を妨ぐるは、殊に不可なりと為す。
将に茲の災弊を救はんと欲せば、且つ宜しく尚書左右丞及び左右司郎中を精簡すべし。如し竝びに人を得ば、自然に綱維備に挙がらん。亦当に趨競を矯正すべし。豈に惟だ其の稽滞を息むるのみならんや、と。疏奏す。尋いでキを以て尚書右丞と為す。

【論択官 第9】
貞観十三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、太平の後には、必ず大乱有り、大乱の後には、必ず太平有り、と。大乱の後を承くるは、則ち是れ太平の運なり。能く天下を安んずる者は、惟だ賢才に在り。公等、既に賢を知る能はず、朕、又、遍く知る可からず。日復た一日、人を得るの理無し。今、人をして自ら挙げしめんと欲す。事に於て如何、と。魏徴曰く、人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人を知ること既に以て難しと為す。自ら知ること誠に亦易からず。且つ愚暗の人、皆、能に矜り善に伐る。恐らくは澆競の風を長ぜん。自ら挙げしむ可からず、と。

【論択官 第10-1】
貞観十四年、特進魏徴、上疏して曰く、臣聞く、臣を知るは君に若くは莫く、子を知るは父に若くは莫し、と。父、其の子を知る能はざれば、則ち以て一家を睦まじくする無し。君、其の臣を知る能はざれば、則ち以て万国を斉しくする無し。万国咸寧く、一人、慶有るは、必ず、惟れ良、弼と作るに藉る。俊乂、官に在れば、則ち庶績其れ煕まり、無為にして化す。故に尭舜文武、前載に称せらるるは、咸、人を知るは則ち哲なるを以てなり。多士、朝に盈ち、元凱、巍巍の功を翼け、周邵、煥乎の美を光にす。然れば則ち四岳・九官・五臣・十乱は、豈に惟だ之を嚢代に生じて、独り当今に無き者ならんや。求むると求めざると、好むと好まざるとに在るのみ。
何を以て之を言ふ。夫れ美玉明珠、孔翠犀象、大宛の馬、西旅のゴウは、或は足無きなり、或は情無きなり、八荒の表に生れ、途、万里の外に遥なるに、重訳入貢し、道路、絶えざる者は、何ぞや。蓋し中国の好む所なるに由るなり。況んや従仕する者、君の栄を懐ひ、君の禄を食む。之を率ゐて与に義を為せば、将た何くに往くとして至らざらんや。
臣以為へらく、之と与に忠を為せば、則ち龍逢・比干に同じからしむ可し。之と共に孝を為せば、曾参・子騫に同じからしむ可し。之と与に信を為せば尾生・展禽に同じからしむ可し。之と共に廉を為せば、伯夷・叔斉に同じからしむ可し、と。然れども今の群臣、能く貞白卓異なる者罕なるは、蓋し之を求むること切ならず、之を励ますこと未だ精ならざるが故なり。若し之を勗むるに忠公を以てし、之を期するに遠大を以てし、各々分職有りて、其の道を行ふを得、貴ければ則ち其の挙ぐる所を観、富みては則ち其の与ふる所を観、居りては則ち其の好む所を観、学べば則ち其の言ふ所を観、窮すれば則ち其の受けざる所を観、賎しければ則ち其の為さざる所を観、其の材に因りて之を取り、其の能を審かにして以て之に任じ、其の長ずる所を用ひ、其の短なる所を掩ひ、之を進むるに六正を以てし、之を戒むるに六邪を以てせば、則ち厳ならずして而も自ら励み、勧めずして而も自ら勉めん。
故に説苑に曰く、人臣の行に、六正有り、六邪有り。六正を修むれば則ち栄え、六邪を犯せば則ち辱めらる。何をか六正と謂ふ。一に曰く、萌芽未だ動かず、形兆未だ見はれざるに、照然として独り存亡の機を見て、豫め未然の前に禁じ、主をして超然として顕栄の処に立たしむ。此の如き者は聖臣なり。二に曰く、虚心白意にして、善に進み道に通じ、主を勉めしむるに礼義を以てし、主を喩すに長策を以てし、其の美を将順し、其の悪を匡救す。此の如き者は良臣なり。三に曰く、夙に興き夜に寐ね、賢を進めて懈らず、数々往古の行事を称して、以て主の意を励ます。此の如き者は忠臣なり。四に曰く、明かに成敗を察し、早く防ぎて之を救ひ其の間を塞ぎ、其の源を絶ちて、禍を転じて以て福と為し、君をして終に已に憂無からしむ。此の如き者は智臣なり。五に曰く、文を守り法を奉じ、官に任じ事を職り、禄を辞し賜を譲り、衣食節倹す。此の如き者は貞臣なり。六に曰く、国家昏乱するとき、為す所、諛はず、敢て主の厳顔を犯し、面のあたり主の過失を言ふ。此の如き者は直臣なり。是を六正と謂ふ。
何をか六邪と謂ふ。一に曰く、官に安んじ禄を貪り、公事を務めず、代と沈浮し、左右観望す。此の如き者は具臣なり。二に曰く、主の言ふ所は、皆、善しと曰ひ、主の為す所は、皆、可なりと曰ひ、隠して主の好む所を求めて之を進め、以て主の耳目を快くし、偸合苟容し、主と楽を為し、其の後害を顧みず。此の如き者は諛臣なり。三に曰く、中実は*険ぴ(けんぴ)にして外貎は小謹、言を巧にし色を令くし、善を妬み賢を嫉み、心に進めんと欲する所は、則ち其の美を明かにして其の悪を隠し、退けんと欲する所は、則ち其の過を揚げて其の美を匿し、主をして賞罰、当らず、号令、行はれざらしむ。此の如き者は奸臣なり。四に曰く、智は以て非を飾るに足り、弁は以て説を行ふに足り、内、骨肉の親を離し、外、乱を朝廷に構ふ。此の如き者は讒臣なり。五に曰く、権を専らにして勢を擅にし、以て軽重を為し、私門、黨を成し、以て其の家を富まし、擅に主命を矯め、以て自ら貴顕にす。此の如き者は賊臣なり。六に曰く、主に諂ふに佞邪を以てし、主を不義に陥れ、朋黨比周して、以て主の明を蔽ひ、白黒、別無く、是非、間無く、主の悪をして境内に布き、四隣に聞えしむ。此の如き者は亡国の臣なり。是を六邪と謂ふ。賢臣は六正の道に処り、六邪の術を行はず。故に上安くして下治まる。生けるときは則ち楽しまれ、死するときは則ち思はる。此れ人臣の術なり、と。
礼記に曰く、権衡誠に懸かれば、欺くに軽重を以てす可からず。縄墨誠に陳すれば、欺くに曲直を以てす可からず。規矩誠に設くれば、欺くに方円を以てす可からず。君子、礼を審かにすれば、誣ふるに姦詐を以てす可からず、と。然れば則ち臣の情偽は、之を知ること難からず。又、礼を設けて以て之を待し、法を執りて以て之を禦し、善を為す者は賞を蒙り、悪を為す者は罰を受けば、安んぞ敢て企及せざらんや、安んぞ敢て力を尽くさざらんや。国家、忠良を進め不肖を退けんと欲するを思ふこと、十有余載なり。
若し賞、疎遠を遺れず、罰、親貴に阿らず、公平を以て規矩と為し、仁義を以て準縄と為し、事を考へて以て其の名を正し、名に循ひて以て其の実を求めば、則ち邪正、隠るる莫く、善悪自ら分れん。然る後、其の実を取りて、其の華を尚ばず、其の厚きに処りて、其の薄きに居らずんば、則ち言はずして化せんこと、朞月にして知る可きなり。若し徒らに美錦を愛して製せず、人の為めに官を択び、至公の言有りて、至公の実無く、愛すれば則ち其の悪を知らず、憎みて遂に其の善を忘れ、私情に徇ひて以て邪佞を近づけ、公道に乖きて忠良を遠ざくれば、則ち夙夜怠らず、神を労し思を苦しめ、将に至治を求めんとすと雖も、得可からざるなり、と。太宗、甚だ之を嘉納す。

【論択官 第10-2】
貞観十四年、特進魏徴、上疏して曰く、臣聞く、臣を知るは君に若くは莫く、子を知るは父に若くは莫し、と。父、其の子を知る能はざれば、則ち以て一家を睦まじくする無し。君、其の臣を知る能はざれば、則ち以て万国を斉しくする無し。万国咸寧く、一人、慶有るは、必ず、惟れ良、弼と作るに藉る。俊乂、官に在れば、則ち庶績其れ煕まり、無為にして化す。故に尭舜文武、前載に称せらるるは、咸、人を知るは則ち哲なるを以てなり。多士、朝に盈ち、元凱、巍巍の功を翼け、周邵、煥乎の美を光にす。然れば則ち四岳・九官・五臣・十乱は、豈に惟だ之を嚢代に生じて、独り当今に無き者ならんや。求むると求めざると、好むと好まざるとに在るのみ。
何を以て之を言ふ。夫れ美玉明珠、孔翠犀象、大宛の馬、西旅のゴウは、或は足無きなり、或は情無きなり、八荒の表に生れ、途、万里の外に遥なるに、重訳入貢し、道路、絶えざる者は、何ぞや。蓋し中国の好む所なるに由るなり。況んや従仕する者、君の栄を懐ひ、君の禄を食む。之を率ゐて与に義を為せば、将た何くに往くとして至らざらんや。
臣以為へらく、之と与に忠を為せば、則ち龍逢・比干に同じからしむ可し。之と共に孝を為せば、曾参・子騫に同じからしむ可し。之と与に信を為せば尾生・展禽に同じからしむ可し。之と共に廉を為せば、伯夷・叔斉に同じからしむ可し、と。然れども今の群臣、能く貞白卓異なる者罕なるは、蓋し之を求むること切ならず、之を励ますこと未だ精ならざるが故なり。若し之を勗むるに忠公を以てし、之を期するに遠大を以てし、各々分職有りて、其の道を行ふを得、貴ければ則ち其の挙ぐる所を観、富みては則ち其の与ふる所を観、居りては則ち其の好む所を観、学べば則ち其の言ふ所を観、窮すれば則ち其の受けざる所を観、賎しければ則ち其の為さざる所を観、其の材に因りて之を取り、其の能を審かにして以て之に任じ、其の長ずる所を用ひ、其の短なる所を掩ひ、之を進むるに六正を以てし、之を戒むるに六邪を以てせば、則ち厳ならずして而も自ら励み、勧めずして而も自ら勉めん。
故に説苑に曰く、人臣の行に、六正有り、六邪有り。六正を修むれば則ち栄え、六邪を犯せば則ち辱めらる。何をか六正と謂ふ。一に曰く、萌芽未だ動かず、形兆未だ見はれざるに、照然として独り存亡の機を見て、豫め未然の前に禁じ、主をして超然として顕栄の処に立たしむ。此の如き者は聖臣なり。二に曰く、虚心白意にして、善に進み道に通じ、主を勉めしむるに礼義を以てし、主を喩すに長策を以てし、其の美を将順し、其の悪を匡救す。此の如き者は良臣なり。三に曰く、夙に興き夜に寐ね、賢を進めて懈らず、数々往古の行事を称して、以て主の意を励ます。此の如き者は忠臣なり。四に曰く、明かに成敗を察し、早く防ぎて之を救ひ其の間を塞ぎ、其の源を絶ちて、禍を転じて以て福と為し、君をして終に已に憂無からしむ。此の如き者は智臣なり。五に曰く、文を守り法を奉じ、官に任じ事を職り、禄を辞し賜を譲り、衣食節倹す。此の如き者は貞臣なり。六に曰く、国家昏乱するとき、為す所、諛はず、敢て主の厳顔を犯し、面のあたり主の過失を言ふ。此の如き者は直臣なり。是を六正と謂ふ。
何をか六邪と謂ふ。一に曰く、官に安んじ禄を貪り、公事を務めず、代と沈浮し、左右観望す。此の如き者は具臣なり。二に曰く、主の言ふ所は、皆、善しと曰ひ、主の為す所は、皆、可なりと曰ひ、隠して主の好む所を求めて之を進め、以て主の耳目を快くし、偸合苟容し、主と楽を為し、其の後害を顧みず。此の如き者は諛臣なり。三に曰く、中実は*険ぴ(けんぴ)にして外貎は小謹、言を巧にし色を令くし、善を妬み賢を嫉み、心に進めんと欲する所は、則ち其の美を明かにして其の悪を隠し、退けんと欲する所は、則ち其の過を揚げて其の美を匿し、主をして賞罰、当らず、号令、行はれざらしむ。此の如き者は奸臣なり。四に曰く、智は以て非を飾るに足り、弁は以て説を行ふに足り、内、骨肉の親を離し、外、乱を朝廷に構ふ。此の如き者は讒臣なり。五に曰く、権を専らにして勢を擅にし、以て軽重を為し、私門、黨を成し、以て其の家を富まし、擅に主命を矯め、以て自ら貴顕にす。此の如き者は賊臣なり。六に曰く、主に諂ふに佞邪を以てし、主を不義に陥れ、朋黨比周して、以て主の明を蔽ひ、白黒、別無く、是非、間無く、主の悪をして境内に布き、四隣に聞えしむ。此の如き者は亡国の臣なり。是を六邪と謂ふ。賢臣は六正の道に処り、六邪の術を行はず。故に上安くして下治まる。生けるときは則ち楽しまれ、死するときは則ち思はる。此れ人臣の術なり、と。
礼記に曰く、権衡誠に懸かれば、欺くに軽重を以てす可からず。縄墨誠に陳すれば、欺くに曲直を以てす可からず。規矩誠に設くれば、欺くに方円を以てす可からず。君子、礼を審かにすれば、誣ふるに姦詐を以てす可からず、と。然れば則ち臣の情偽は、之を知ること難からず。又、礼を設けて以て之を待し、法を執りて以て之を禦し、善を為す者は賞を蒙り、悪を為す者は罰を受けば、安んぞ敢て企及せざらんや、安んぞ敢て力を尽くさざらんや。国家、忠良を進め不肖を退けんと欲するを思ふこと、十有余載なり。
若し賞、疎遠を遺れず、罰、親貴に阿らず、公平を以て規矩と為し、仁義を以て準縄と為し、事を考へて以て其の名を正し、名に循ひて以て其の実を求めば、則ち邪正、隠るる莫く、善悪自ら分れん。然る後、其の実を取りて、其の華を尚ばず、其の厚きに処りて、其の薄きに居らずんば、則ち言はずして化せんこと、朞月にして知る可きなり。若し徒らに美錦を愛して製せず、人の為めに官を択び、至公の言有りて、至公の実無く、愛すれば則ち其の悪を知らず、憎みて遂に其の善を忘れ、私情に徇ひて以て邪佞を近づけ、公道に乖きて忠良を遠ざくれば、則ち夙夜怠らず、神を労し思を苦しめ、将に至治を求めんとすと雖も、得可からざるなり、と。太宗、甚だ之を嘉納す。

【論択官 第11】
貞観二十一年、太宗、翠微宮に在り、司農卿李緯に戸部尚書を授く。房玄齢、是の時、京城に留守たり。会々京師より来る者有り。太宗問ひて云く、玄齢、李緯が尚書に拝せらるるを聞きて、如何、と。対へて曰く、玄齢但だ李緯は大好髭鬚と云ひ、更に他の語為し、と。是に由りて遽かに改めて緯に洛州の刺史を授く。

【論封建 第1】
貞観元年、中書令房玄齢を封じて刑国公と為し、兵部尚書杜如晦を蔡国公と為し、吏部尚書長孫無忌を斉国公と為し、竝びに第一等と為し、実封千三百戸なり。皇従父淮安王神通、上言すらく、義旗初めて起るや、臣、兵を率ゐて先づ至れり。今、房玄齢・杜如晦等は、刀筆の人、功、第一に居る。臣、竊に服せず、と。
太宗曰く、国家の大事は、惟だ賞と罰とのみ。若し、賞、其の労に当れば、功無き者自ら退く。罰、其の罪に当れば、悪を為す者戒懼す。則ち賞罰は軽々しく行ふ可からざるを知る。今、勲を計りて賞を行ふ。玄齢等は、帷幄に籌謀し、社稷を画定するの功有り。漢の蕭何は、馬に汗すること無しと雖も、蹤を指し轂を推す、故に功第一に居るを得る所以なり。叔父は国に於て至親なり。誠に愛惜する所無し。但だ私に縁りて濫りに勲臣と賞を同じくす可からざるを以てなり、と。是に由りて諸功臣自ら相謂ひて曰く、陛下、至公を以て賞を行ひ、其の親に私せず。吾が属何ぞ妄りに訴ふ可けんや、と。
初め高祖、宗正の籍を挙げ、弟姪・再従・三従の孩童已上、王に封ぜらるる者数十人なり。是の日に至りて、太宗、群臣に謂ひて曰く、両漢より已降、惟だ子及び兄弟のみを封ず。其の疏遠なる者は、大功有ること漢の賈・択の如きに非ざれば、竝びに封を受くるを得ず。若し一切、王に封じ、多く力役を給せば、乃ち是れ万姓を労苦せしめて、以て己の親族を養ふなり、と。是に於て、宗室の先に郡王に封ぜられ、其の間に功無き者は、皆降して郡公と為す。

【論封建 第2】
貞観十一年、太宗以へらく、周は子弟を封じて、八百余年、秦は諸侯を罷めて、二世にして滅ぶ。呂后、劉氏を危くせんと欲するも、終に宗室に頼りて安きを獲たり。親賢を封建するは、当に是れ子孫長久の道なるべし、と。乃ち制を定め、子弟、荊州の都督荊王元景・安州の都督呉王恪等二十一人を以て、又、功臣、司空趙州の刺史長孫無忌・尚書左僕射宋州の刺史房玄齢等一十四人を以て、竝びに世襲刺史と為す。
礼部侍郎李百薬、奏論して以て世封の事を駁して曰く、臣聞く、国を経し民を庇ふは、王者の常制、主を尊び上を安んずるは、人情の大方なり。治定の規を闡きて、以て長世の業を弘めんとする者は、万古、易はらず、百慮、帰を同じくす。然れども命暦に促の殊なる有り、邦家に治乱の異なる有り。遐く載籍を観るに、之を論ずること詳かなり。
咸云ふ、周は其の数に過ぎ、秦は期に及ばず。存亡の理は、郡国にあり。周氏は以て夏殷の長久に鑒み、唐虞の竝び建つるに遵ひ、維城盤石、根を深くし本を固くし、王綱弛廃すと雖も、而も枝幹相持す。故に逆節をして生ぜず。宗祀をして絶えざらしむ。秦氏は古を師とするの訓に背き、先王の道を棄て、華を剪り険を恃み侯を罷め守を置き、子弟、尺土の邑無く、兆庶、治を共にするの憂罕なり。故に一夫号呼して、七廟*き(きひ)す、と。
臣以為へらく、古より皇王、宇内に君臨するは、命を上玄に受け、名を*帝ろく(ていろく)に飛ばし、締構、興王の運に遇ひ、殷憂、啓聖の期に属せざるは莫し。魏武の攜養の資、漢高の徒役の賎と雖も、止だ意に覬覦あるのみに非ず、之を推すも亦去る能はざるなり。若し其れ獄訟、帰せず、菁華已に竭くれば、帝尭の四表に光被し、大舜の上七政を斉ふと雖も、止だ情に揖譲を存するのみに非ず、之を守るも亦固くす可からざるなり。放勲・重華の徳を以てすら、尚ほ克く厥の後を昌にする能はず。是に知る、祚の長短は、必ず天時に在り、政或は盛衰するは、人事に関る有るを。
隆周、世を卜すること三十、年を卜すること七百。淪胥の道斯に極まると雖も、文武の器猶ほ存す。斯れ則ち亀鼎の祚、已に懸に杳冥に定まるなり。南征して反らず、東遷して逼を避け、*いん祀(いんし)、綫の如く、郊畿守らざらしむるに至りては、此れ乃ち陵夷の漸、封建に累はさるる有り。暴秦、運、閏余に距り、数、百六に鍾る。受命の主、徳、禹湯に異なり、継世の君、才、啓誦に非ず。借ひ李斯・王綰の輩をして、咸く四履を開き、将閭・子嬰の徒をして、倶に千乗を啓かしむとも、豈に能く帝子の勃興に逆ひ、龍顔の基命に抗する者ならんや。
然れば則ち得失成敗、各々由る有り。而るに著述の家、多く常轍を守り、情、今古を忘れ、理、澆淳に蔽はれざるは莫く、百王の李を以て、三代の法を行ひ、天下五服の内、尽く諸侯を封じ、王畿千里の間、倶に菜地と為さんと欲す。是れ則ち結縄の化を以て、虞夏の朝に行ひ、象刑の典を用つて劉曹の末を治むるなり。紀綱の弛紊すること、断じて知る可し。船に*きざ(きざ)みて剣を求む、未だ其の可なるを見ず。柱に膠して文を成す。弥々惑ふ所多し。徒らに、鼎を問ひ隧を請ひ、勤王の師を懼るる有り、白馬素車、復た藩籬の援無きを知り、望夷の釁、未だ*げいさく(げいさく)の災よりも甚だしからざるを悟らず。高貴の殃、寧ぞ申繪の酷に異ならんや。此れ乃ち欽明昏乱、自ら安危を革むるなり。固に守宰公侯の、以て興廃を成すに非ず。且つ数世の後、王室*ようや(ようや)く微なること、藩屏より始まり、化して仇敵と為り、家、俗を殊にし、国、政を異にし、強、弱を陵ぎ、衆、寡を暴し、*疆えき(きょうえき)彼此、干戈侵伐し、狐駘の役、女子尽く*ざ(ざ)し、*こう陵(こうりょう)の師、隻輪、反らず。斯れ蓋し略ぼ一隅を挙ぐ。其の余は勝げて数ふべからず。
陸士衡、方に規規然として云ふ、嗣王、其の九鼎を委て、凶族、其の天邑に拠る。天下晏然として、治を以て乱を待つ、と。何ぞ斯の言の謬まれるや。而して官を設け職を分ち、賢に任じ能を使ひ、循良の才を以て、共治の寄に膺る。刺挙、竹を分つ、何の世にか人無からん。地をして或は祥を呈し、天をして宝を愛まず、民をして父母を称し、政をして神明に比せしむるに至る。
曹元首、方に区区然として称す、人と其の楽を共にする者は、人必ず其の憂を分ち、人と其の安きを同じくする者は、人必ず其の危きを拯ふ、と。豈に以て侯伯とせば、則ち其の安危を同じくし、之を牧宰に任ずれば、則ち其の憂楽を殊にす容けんや。何ぞ斯の言の妄なるや。封君列国、慶を門資に藉りて、其の先業の艱難を忘れ、其の自然の崇貴を軽んじ、世々淫虐を増し、代々驕侈を益さざるは莫く、離宮別館、漢に切し雲を凌ぎ、或は、人力を刑して将に尽きんとし、或は諸侯を召して共に楽す。陳霊は則ち君臣、霊に悖り、共に徴舒を侮り、衛宣は則ち父子、*ゆう(ゆう)を聚にし、終に寿・朔を誅す。乃ち云ふ、己が為めに治を思ふ、と。豈に是の若くならんや。
内下の群官、選ぶこと朝廷よりし、士庶を擢でて以て之に任じ、水鏡を澄まして以て之を鑒し、年労、其の階品を優にし、考績、其の黜陟を明かにす。進取、事切に、砥砺、情深く、或は俸禄、私門に入らず、妻子、官舎に之かず、班條の貴き、食、火を挙げず、割符の重き、衣、惟だ補葛、南陽の太守、弊布、身を裹み、莱蕪の県長、凝塵、甑に生ず。専ら云ふ、利の為めに物を図る、と。何ぞ其れ爽へるや。
総べて之を云ふに、爵は世及に非ざれば、賢を用ふるの路斯れ広し。民に定主無ければ、下を附くるの情、固からず。此れ乃ち愚智の弁ずる所なり。安んぞ惑ふ可けんや。国を滅ぼし君を殺し、常を乱り紀を干すが如きに至りては、春秋二百年の間、略ぼ寧才無し。次*すい(すい)咸秩し、遂に玉帛の君を用ふ。魯道、蕩たる有り、毎に衣裳の会に等し。縦使西官の哀平の際、東洛の桓霊の時、下吏の淫暴なるも、必ず此に至らず。政を為すの理、一言を以て焉を蔽ふ可し。
伏して惟みるに、陛下、紀を握り天を御し、期に膺り聖を啓き、億兆の焚溺を救ひ、*氛しん(ふんしん)寰区より掃ひ、業を創め統を垂れ、二儀に配して以て徳を立て、号を発し令を施し、万物に妙にして言を為す。独り神衷に照らし、永く前古を懐ひ、将に五等を復して旧制を修め、万国を建てて以て諸侯を親しまんとす。
竊かに以ふに、漢魏より以還、余風の弊未だ尽きず、勲華既に往き、至公の道斯に革まる。況んや晋氏、馭を失ひ、宇県崩離す。後魏、時に乖き、華夷雑処す。重ぬるに関河分阻し、呉楚県隔するを以てす。文を習ふ者は長短縦横の術を学び、武を習ふ者は干戈戦争の心を尽くす。畢く狙詐の階と為し、弥々澆浮の俗を長ず。開皇の運に在るや、外家に因藉し、群英を臨御し、雄猜の数に任じ、坐ながら時運を移し、克定の功に非ず。年、二紀を踰ゆるも、人、徳を見ず。大業の文に嗣ぐに及びて、世道交々喪ひ、一人一物、地を掃ひて将に尽きんとす。天縦の神武、冦虐を削平すと雖も、兵威、息まず、労止未だ康からず。陛下、慎んで聖慈に順ひ、嗣ぎて宝暦に膺りてより、情深く治を致さんとし、前王を綜覈す。至道は名づくる無く、言象の絶ゆる所なりと雖も、略ぼ梗概を陳ぶるは、実に庶幾ふ所なり。
愛敬蒸蒸として、労して倦まざるは、大舜の孝なり。安を内豎に訪ひ、親ら御膳を嘗むるは文王の徳なり。憲司が罪を*げつ(げつ)し、尚書が獄を奏する毎に、大小必ず察し、枉直咸く挙げ、断趾の法を以て、大辟の刑に易へ、仁心陰惻、幽顕に貫徹するは、大禹の辜に泣けるなり。色を正し言を直くし、心を虚しくして受納し、鄙訥を簡せにせず、芻蕘を棄つる無きは、帝尭の諌を求むるなり。弘く名教を奨め、学徒を観励し、既に明経を青紫に擢で、正に碩儒を卿相に升せんとするは、聖人の善く誘ふなり。
群臣、宮中暑湿にして、寝膳或は乖くを以て、徙りて高明に御し、一小閣を営まんことを請ふ。遂に家人の産を惜み、竟に子来の願を抑へ、陰陽の感ずる所を吝まず、以て卑陋の居に安んず。頃歳霜倹、普天饑饉、喪乱甫めて爾り、倉廩空虚なり。聖情矜愍し、勤めて賑恤を加へ、竟に一人の道路に流離するもの無し。猶ほ且つ食は惟れ*藜かく(れいかく)楽は*しゅんきょ(しゅんきょ)を徹し、言は必ず悽動し、貎は*く痩(くそう)を成す。
公旦は重訳を喜び、文命は其の即叙を矜る。陛下、四夷款附し、万里仁に帰するを見る毎に、必ず退きて思ひ、進みて省み、神を凝らし慮を動かし、妄りに中国を労して、以て遠方を求めんことを恐れ、万古の英声を藉らずして、以て一時の茂実を存し、心、憂労に切に、跡、遊幸を絶つ。毎旦、朝を視、聴受、倦むこと無く、智は万物に周く、道は天下を済ふ。朝を罷むるの後、名臣を引き進めて、是非を討論し、備に肝膈を尽くし、惟だ政事に及びて更に異辞無し。纔に日昃くに及べば、必ず才学の師に命じて、賜ふに静閑を以てし、高く典籍を談じ、雑ふるに文詠を以てし、間ふるに玄言を以てす。乙夜、疲るるを忘れ、中宵まで寐ねず。此の四道は、独り往初に邁ぐ。斯れ実に生民より以来、一人のみ。
茲の風化を弘め、昭かに四方に示す。信に朞月の間を以て、天壌を弥綸す可し。而るに淳粋尚ほ阻たり、浮詭未だ移らず。此れ習の永久に由り、以て卒に変じ難きなり。請ふ、琢雕を朴と成し、質を以て文に代へ、刑措くの教一たび行はれ、登封の礼云に畢るを待ちて、然る後、疆理の制を定め、山河の賞を議せんこと、未だ晩しと為さず。易に称す、天地の盈虚は、時と消息す、況んや人に於てをや、と。美なるかな斯の言や、と。
中書人馬周、又上疏して曰く、伏して詔書を見るに宗室勲賢をして、藩部に鎮と作り、厥の子孫に貽し、嗣ぎて其の政を守らしめ、大故有るに非ずんば、黜免すること或る無からん、と。臣竊かに惟みるに、陛下、之を封植するは、誠に之を愛し之を重んじ、其の胤裔承守し、国と与に疆無からんことを欲するなり。臣以為へらく、詔旨の如くならば、陛下宜しく之を安存し、之を富貴にする所以を思ふべし。然らば則ち何ぞ世官を用ひんや。
何となれば則ち尭舜の父を以て、猶ほ朱均の子有り。況んや此より下る以還にして、而も父を以て兒を取らんと欲せば、恐らくは之を失ふこと遠からん。儻し孩童の職を嗣ぐ有りて、万一驕恣なれば、則ち兆庶、其の殃を被りて、国家、其の敗を受けん。政に之を絶たんと欲するや、則ち子文の治猶ほ在り。政に之を留めんと欲するや、而ち欒黶の悪已に彰はる。其の見存の百姓を毒害せんよりは、則ち寧ろ恩を已亡の一臣に割かしめんこと明かなり。
然らば則ち向の所謂之を愛するは、乃ち適に之を傷ふ所以なり。臣謂ふに宜しく賦するに茅土を以てし、其の戸邑を疇しくし、必ず材行有りて、器に随ひて方に授くべし。則ち其の*翰かく(かんかく)強きに有らずと雖も、亦、以て尤累を免るるを獲可し。昔、漢の光武、功臣に任ずるに吏事を以てせず。其の世を終全する所以は、良に其の術を得たるに由るなり。願はくは陛下、深く其の宜を思ひ、夫をして大恩を奉ずるを得て、子孫をして其の福禄を終へしめんことを、と。太宗竝びに其の言を嘉納す。是に於て、竟に子弟及び功臣の刺史を世襲するを罷む。

【論太子諸王定分 第1】
貞観七年、蜀王恪に斉州の都督を授く。太宗、侍臣に謂ひて曰く、父子の情、豈に常に相見るを欲せざらんや。但だ家国、事殊なる。須く出して藩屏と作し、且つ其をして早く定分有らしめ、覬覦の心を絶ち、我が百年の後、其の兄に事へて危亡の慮無からしむべきなり、と。

【論太子諸王定分 第2】
侍御史馬周、貞観十一年、上疏して曰く、漢晋より已来、諸王、皆、樹置宜しきを失ひ、豫め定分を立てざるが為めに、以て滅亡に至る。人主、其の然るを熟知す。但だ私愛に溺る。故に前車既に覆れども、後車をして輒を改めざらしむるなり。今、諸王、寵遇の恩を承くること、厚きに過ぐる者有り。臣の愚慮、惟だ其の恩を恃みて驕矜するを慮るのみならざるなり。
昔、魏の武帝、陳思を寵樹す。文帝、位に即くに及びて、防守禁閉、獄囚に同じき有り。先帝が恩を加ふること太だ多きを以て、故に嗣主、疑ひて之を畏るるなり。此れ則ち武帝の陳思を寵するは、適に之を苦しむる所以なり。且つ帝子は何ぞ富貴ならざるを患へん。身、大国を食み、封戸、少からず。好衣美食の外、又何の須むる所あらん。而して毎年、別に優賜を加ふること、曾て紀極無し。俚語に曰く、貧は倹を学ばず、富は奢を学ばず、と。自然なるを言ふなり。今、陛下、大聖を以て業を創む。豈に惟だ見在の子弟処置するのみならんや。当に須く長久の法を制し、万代をして遵行せしむべし、と。疏奏す。太宗甚だ之を嘉し、物三百段を賜ふ

【論太子諸王定分 第3】
貞観十三年、諌議大夫チョ遂良、毎月特に魏王泰の府に料物を給すること皇太子に逾ゆる有るを以て、上疏して諌めて曰く、昔、聖人、礼を制するや、嫡を尊び庶を卑しみ、之を儲君と謂ふ。道、霄極に亜ぎ、甚だ崇重と為す。物を用ふること計らず、泉貨財帛、王者と之を共にす。庶子は体卑し。例と為すを得ず。嫌疑の漸を塞ぎ、禍乱の源を除く所以なり。而して先王必ず人情に本づきて、然る後法を制す。国家を有つに必ず嫡庶有るを知る。然して庶子は愛すと雖も、嫡子の正体に超越し、特に尊崇を須ふるを得ず。如し明かに定分を立つる能はず、遂に当に親しかるべき者をして疎く、当に尊かるべき者をして卑しからしめば、則ち邪佞の徒、機を承けて動かん。私恩、公を害し、或は国を乱るに至らん。
臣愚、伏して見るに、儲后の料物、翻つて魏王より少く、朝見野聞、以て是と為さず。伝に曰く、子を愛すれば、之に教ふるに義方を以てす、と。忠孝恭倹は、義方の謂ひなり。昔、漢の竇太后及び景帝、遂に梁の孝王を驕恣ならしめ、四十余城に封じ、苑は方三百里、大いに宮室を営み、複道弥望し、財を積むこと鉅万計入るに警し出づるに蹕す。小しく意を得ず、病を発して死せり。
且つ魏王既に新に閤を出づ。伏して願はくは、恒に礼訓を存し、師伝を妙択し、其の成敗を示し、既に之を敦くするに節倹を以てし、又之に勧むるに文学を以てし、惟れ忠惟れ孝、因りて之を奨め、道徳斉礼せんことを。乃ち良器と為らん。此れ謂はゆる聖人の教、粛ならずして成る者なり、と。太宗深く其の言を納れ、即日、魏王の料物を減ず。

【論太子諸王定分 第4】
貞観十六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、当今、国家、何事か最も急なる。各々我が為めに之を言へ、と。尚書右僕射高士廉曰く、百姓を養ふこと最も急なり、と黄門侍郎*劉き(りゅうき)曰く、四夷を撫すること最も急なり、と。中書侍郎岑文本曰く、伝に称す、之を道くに徳を以てし、之を斉ふるに礼を以てす、と。斯れに由りて言へば、礼義を急と為す、と。
諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)曰く、即日、四方、徳を仰ぐ、誰か敢て非を為さん。但だ太子・諸王は、須く定分有るべし。陛下、宜しく万代の法を為りて、以て子孫に遺すべし。此れ最も当今の急と為す、と。
太宗曰く、此の言、是なり。朕、年将に五十ならんとし、已に衰怠を覚ゆ。既に長子を以て器を東宮に守らしむ。諸弟及び庶子は、数将に四十ならんとす。心常に憂慮するは、正に此に在るのみ。但だ古より嫡庶、良無くんば、何ぞ嘗て家国を傾敗せざらんや。公等、朕の為めに賢徳を捜訪して、以て儲宮を輔け、爰に諸王に及ぶまで、咸く正士を求めよ。且つ官人の王に事ふるは、宜しく歳久しくすべからず。歳久しければ則ち分義、情深し。非意のきゆ、多く此に由りて作る。其れ王府の官僚は、四考に過ぎしむる勿れ、と。

【論太子諸王定分 第5】
貞観中、皇子の年少き者、多く授くるに、都督・刺史を以てす。諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)、上疏して諌めて曰く、昔、両漢、郡国を以て人を理む。郡を除く以外には、諸子を分立し、土を割き疆を分ち、周制を雑へ用ふ。皇唐の郡県は、粗ぼ秦の法に依る。幼年にして或は刺史を授けらる。陛下豈に骨肉を以て四方を鎮扞せざらんや。聖人、制を造る、道、前烈に高し。
臣の愚見の如きは、小しく未だ尽くさざる有り。何となれば、刺史は師帥にして、万人瞻仰して以て安し。一の善人を得れば、部内蘇息す。一の不善に遇へば、闔州労弊す。是を以て、人君、百姓を愛恤し、常に為めに賢を択ぶ。或は称す、河は九里を潤ほし、京師、福を蒙る、と。或は人、歌詠を興し、生ながら為めに祠を立つ。漢の宣帝云く、我と理を共にする者は、但だ良二千石か、と。
臣の愚見の如き、陛下の兒子の内、年歯尚ほ幼にして、未だ人に臨むに堪へざる者は、且く請ふ京師に留め、教ふるに経学を以てせん。一には則ち天の威を畏れ、敢て禁を犯さざらん。二には則ち常に朝儀を観ば、自然に成立せん。此に因りて積習し、自ら人と為るを知り、州に臨むに堪ふるを審かにして、然る後遣りて出でしめよ。
謹みて按ずるに、漢の明・章・和三帝、能く子弟を友愛す。茲より已降、以て準的と為し、封じて諸王を立つ。各々土を有つと雖も、年尚ほ幼少なる者は、召して京師に留め、訓ふるに礼法を以てし、垂るるに恩恵を以てす。三帝の世を訖りて、諸王数十人、惟だ二王のみ稍や悪し。自余は*そん和(そんわ)染教して、皆善人と為る。此れ則ち前事已に験あり。惟だ陛下詳かに察せよ、と。太宗、之に従ふ。

【論尊師伝 第1】
太子少師李綱、貞観三年、脚疾有り、践履に堪へず。太宗、特に歩輿を賜ひ、三衛をして挙して東宮に入れしめ、皇太子に詔して引きて殿に上り、親ら之を拝せしむ。太だ崇重せらる。綱、太子の為めに、君臣父子の道、問寝視膳の方を陳ぶ。理順ひ辞直く、聴く者、倦むを忘る。
太子嘗て古来の君臣の名教、忠を竭くし節を尽くす事を商略す。綱、懍然として曰く、六尺の孤を託し、百里の命を寄すること、古人以て難しと為す。綱は以て易しと為す、と。論を吐き言を発する毎に、皆、辞色慷慨し、奪ふ可からざるの志有り。太子未だ嘗て聳然として礼敬せずんばあらず。

【論尊師伝 第2】
貞観六年、詔して曰く、朕、比、経史を尋討するに、明王・聖帝、曷ぞ嘗て師伝無からんや。前に進むる所の令、遂に三師の位を覩ず。意ふに将に未だ可ならざらんとす。何を以て然る。黄帝は太顛に学び、*せんぎょく(せんぎょく)は録図篆に学び、尭は尹寿に学び、舜は務成昭に学び、禹は西王国に学び、湯は成子伯に学び、文王は子期に学び、武王はクワク叔に学ぶ。前代の聖人、未だ此の師に遭はざりせば、則ち功業、天下に著れず、名誉、千載に伝はらざりしならん。
況んや朕、百王の末に接し、智、聖人に周からざるをや。其れ師伝無くんば、安んぞ以て億兆に臨む可き者ならんや。詩に云はずや、愆らず忘れず、旧章に率由す、と。夫れ学ばざれば、則ち古の道に明かならず。而も能く政、太平を致す者は、未だ之れ有らざるなり。即ち令に著して三師の位を置く可し、と。

【論尊師伝 第3】
貞観八年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、上智の人は、自ら染まる所無し。中人は恒無く、教に従ひて変ず。況んや太子の師保は、古より其の選を難んず。成王幼少なりしとき、周召、保伝と為り、左右皆賢に、日に雅訓を聞き、以て仁を長じ徳を益し、便ち聖君と為るに足る。
秦の胡亥は、趙高を用ひて伝と作し、教ふるに刑法を以てす。其の位を嗣ぐに及びて、功臣を誅し、親族を殺し、酷暴、已まず。未だ踵を旋らさずして亡ぶ。故に知る、人の善悪は、誠に近習に由るを。朕、今、太子・諸王の為めに、師伝を精選し、其れをして礼度を式瞻し、裨益する所有らしめんとす。公等、正直忠臣なる者を訪ひ、各々三両人を挙ぐ可し、と。

【論尊師伝 第4】
貞観十一年、礼部尚書王珪を以て、魏王の師を兼ねしむ。太宗、尚書左僕射房玄齢に謂ひて曰く、古来、帝子、深宮に生れ、其の人と成るに及びて、驕逸ならざるは無し。是を以て傾覆相踵ぎ、能く自ら済ふこと少し。我、今、厳に子弟を教へ、皆安全なるを得しめんと欲す。王珪は、我久しく駆使し、甚だ剛直にして志忠孝に存するを知り、選びて子の師と為す。卿宜しく泰に語るべし。王珪に対する毎に、我が面を見るが如く、宜しく尊敬を加ふべく、懈怠するを得ざれ、と。珪も亦師道を以て自ら処り、時議、之を善しとす。

【論尊師伝 第5】
貞観十七年、太宗、司徒長孫無忌・司空房玄齢に謂ひて曰く、三師は、徳を以て人を導く者なり。若し師体卑しからば、太子、則を取る所無からん、と。是に於て、詔して、太子の三師に接する儀注を撰せしむ。太子・殿門を出でて迎へ、先づ拝す。三師答拝す。門毎に譲る。三師坐す。太子乃ち坐す。三師に与ふる書は前に名惶恐とし、後に名惶恐再拝とす。

【教戒太子諸王】

【規諌太子】