『三国志演義』第三十八回 三分を定めて隆中に策を決し、長江に戦って孫氏讎を報ず

関羽は
「兄者が二度も出向かれたという事だけでも度が過ぎます。本当は名ばかりで何の学もないのでわざと逃げかくれしているのでございましょう。」
張飛も
「兄貴が出ていくこともない。俺がしょぴいてやる。」
と諌めたが、劉備は三度訪れようとした。しかたなく二人も同行した。
諸葛亮の住居に着くと今度は在宅であったが昼寝中とのこと。劉備はそのまま起きるのを待った。張飛はいきり立っていたが関羽に止められ、劉備は二人を門前で待つように命じた。やがて目を覚ました諸葛亮は慌てて衣冠を正して迎え入れた。そして劉備の志に天下三分の計を提案した。また、荊州と蜀もいずれ手に入ると予言した。そして、劉備は諸葛亮とともに新野に戻った。

そのころ、呉の孫策の弟孫権は遺業を継いで人材を集め、江東は人材の多いことで有名になる。そんなおりに曹操から子息を宮廷に出仕させるように言われるが、人質にするのが目的なので周瑜の言を入れて出仕させなかった。
建安八年(203年)父、孫権の仇を討つべく荊州の劉表配下の黄祖討伐に乗り出した。しかし、黄祖配下の甘寧に凌操を討ち取られてしまい兵を引き上げた。その後、周瑜を大都督として水陸軍を統帥した。翌春、甘寧は黄祖の海賊風情という気持ちから重く用いてもらえずソンケンに身を寄せた。そして荊州と蜀を取り曹操に備えるという諸葛亮と同じ構想を進言した。
かくして周瑜を大都督として先鋒呂蒙、副将トウシュウ、甘寧として孫権自ら黄祖討伐に向かった。

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