碩学・安岡正篤の思想!先人から学ぶ心を鍛える珠玉の言葉!

今日(2月13日)は安岡正篤氏の生誕117年目の日です。

安岡正篤氏は、昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から中曽根康弘首相に至るまで昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれていました。
終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)を推敲し原稿を完成させたことから、皇室からも厚い信頼を受けており、東洋学に裏打ちされた該博な知識と人物としての魅力によって、日本のトップ・リーダーたちにわが国の進むべき道を常に指し示していたことから「昭和最大の黒幕」とも評される人物です。
碩学の安岡氏には多くの著書がありますが、その基本は孔子、孟子、老子、荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理を元に、人の道と指導者のあり方を論じた実践活学にあり、また日本精神を形成する東洋思想の真髄を明らかにし、それを現実に生かすことを訴え、自らも終生取り組み続ける姿勢にありました。

そんな安岡氏の著書『新憂樂志』『百朝集』には、私達が肝に銘じ、心を鍛えるべき「六中観」という人の道を説いた名言があります。

安岡氏のテーマは、人の道と指導者のあり方に関する教えが多いので安岡人間学(人物学)といわれますが、「六中観」における人間の基本は活力、気迫、生命力であり、不変の真理を人間の品格を涵養する徳におき、人徳のない人間の行動は、必ず破滅すると説いています。
要は、最高のリーダーシップの心構え、条件とは、何か。どのような人間にならなければならないかが、この六中観に説かれているのです。

「六中観」
 忙中 閑有り。
 苦中 楽有り。
 死中 活有り。
 壺中 天有り。
 意中 人有り。
 腹中 書有り。

それぞれを整理しておきます。

一、忙中 閑有り。
 ただの閑は退屈でしかない。真の閑は忙中である。
 ただの忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。
 忙中閑あって始めて生きる。

二、苦中楽有り。
 苦をただ苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。
 病臥して熱の落ちた時、寝あいた夜半に枕頭のスタンドをひねって、心静かに書を読んだ楽は忘られない。貧
 といえども苦しいばかりではない。貧は貧なりに楽もある。
 古人に「貧楽」という語があり、「窮奢」という語もある。

三、死中活有り。
 窮すれば通ずということがある。死地に入って意外に活路が開けるものである。
 うろたえるからいけない。それのみならず、そもそも永生は死すればこそである。
 全身全霊をうちこんでこそ何ものかを永遠に残すこと、すなわち永生が実現するのである。
 のらくらとわけのわからぬ五十年七十年を送って何の生ぞや。

四、壷中天有り。
 世俗生活の中に在って、それに限定されず、 独自の世界即ち別天地をいう。
 後漢書方術伝・費長房の故事に出ず。

五、意中人有り。
 意中の人というと、恋人の意に慣用するが、ここでは常に心の中に人物を持つ意。
 或いは私淑する偉人を、 或いは共に隠棲出来る伴侶を、又、要路に推薦し得る人材をここというようにあらゆる場合の人材の用意。
六、腹中書有り。
 目に留めたとか、頭の中の滓(かす)ような知識ではなく、 腹の中に納まっている哲学のことである。

そして安岡氏はこの「六中観」をこう結んでいます。
「私は平生窃(ひそ)かに此の観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、 仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。」
 

更に安岡氏は、生きる喜びを感じながら心を鍛える「八喜偈」(はっきげ)という言葉を説いています。

「八喜偈」
 天、人を喜び、 人、天を喜ぶ
 神、吾を喜び、 吾、神を喜ぶ
 天、神を喜び、 神、天を喜ぶ
 人、吾を喜び、 吾、人を喜ぶ

いずれも「喜」という文字によって「天」「人」「神」「吾」が八方に作用し拡大し結びついていることを現している言葉です。
それぞれが互いに強く結びつき、相互に強く感謝する相関関係を示している訳です。
「喜」を以て感謝することが、人生における幸福の基本となることが明確に示されていますね。

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更に安岡氏は、私達が心に留め、心を鍛えるべき「六然」(りくぜん)という言葉を座右の銘として用いていました。
「六然」は、中国の明時代に崔後渠(さいこうきょ)という人物が書いた箴言(戒めとなる言葉)です。

「六然」

自処超然(じしょちょうぜん)
 自ら処すること、超然
 自分自身に関しては、一向にものに囚われず、恬淡としている。
 人はよく見ているもので、モノに執着している人は人が離れていく。
 他人の行状は自分を振り返ってみる格好の物差しである。

処人靄然(しょじんあいぜん)
 人に接すること、藹然
 藹とは草木が盛んに繁るさまをいうので、處人藹然とは、人に接するときは相手の気持ちが和らぎ、穏やかになるように心がけるということ。
 幕末の儒者・佐藤一斎も『言志四録』でこう諭しています。
 「春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを粛む」

有事斬然(ゆうじざんぜん)
 有事の時には斬然
 いったん事が起きればグズグズしないで、束ねたものをマサカリで斬るように、一気呵成にやる。

無事澄然(ぶじちょうぜん)
 無事の時には澄然
 事がない場合には、静かな湖面のように澄み切っている。
 私利私欲がないから心が澄んでいる。澄んでいるから融通無碍に動くことができるのだ。

得意憺然(とくいたんぜん)
 得意の時には澹然
 澹というのは水がゆったりと揺れ動くさまをいう。
 従って、得意絶頂のときこそ、逆に静かであっさりしていることが緊要だ。
 そうすれば足をすくわれることがない。
 明の洪自誠の『菜根譚』にも同じ趣旨の言葉がある。
 「成功、常に辛苦の日にあり。敗事、多く得意の時に因る」

失意泰然(しついたいぜん)
 失意の時には泰然
 失意の時にはうろたえ、呆然となるのが人間の常である。
 だからこそ逆に泰然と構え、大所高所から眺めてみる。
 するとそれまでは見えていなかったことに気づき、死地を脱することができる。
 そこで意気消沈したらおしまいである。

更に安岡氏は、生き方を見直す提言として「六験」「八観」という言葉を用いていました。
「六験」「八観」は、秦の宰相であり、始皇帝の実父と噂される呂不韋(りょふい)が莫大な財産をつぎ込んで作らせた始皇帝以前の大陸の叡智をまとめた「呂氏春秋」からの出典です。

「六験」

一、之を喜ばしてめて以て其の守を験(ため)す
 人間は嬉しくなると羽目を外す。
 しかし、人間には守らねばならない分とか節がある。
 それを喜ばされたくらいで外してしまうようでは人間として落第である。

一、之を楽しましめて以て其の癖を試す
 喜びの本能に理性が伴うと、これを楽という。
 人間は楽しむと、どうしても僻する。かたよる。
 すると公正を失って物事がうまくいかない。

一、之を怒らしめて以て其の節を試す
 人間はどんなに怒っても、締まるところは締まり抑えるところは抑えなければいけない。

一、之を懼れしめて以て其の特(独)を試す
 人間、恐れると何かに頼りたくなって一本立ちができなくなる。

一、之を哀しましめて以て其の人を験す
 人間は悲しいときにその人のすべてがあらわれる。
 人物をみるのは哀しませるのが一番である。

一、之を苦しめて以て其の志を験す
 苦しいことにぶつかると、ついへこたれがちになる。
 志とは千辛万苦に耐えて自分の理想を追求してゆくことである。
 よく苦しみに耐えて理想を追求してゆく人間なら間違いはない。

「八観」

一、通ずれば、その礼するところを観る。
 少し自己がうまくいきだした時に、どういうものを尊重するか。
 金か位か、知識か、技術か、仕事で返すかどうかで人物が分かる。

二、貴ければ、その挙ぐるところを見る。
 地位が上がるにつれて、どんな人間を敬うかでその人物が分かる。

三、富めば、その養うところを見る。
 たいていは金ができると何を養いだすか。これは誰にも分かりよいこと。
 豊かになったら、どんな人間を養うかで人物が分かる。

四、聴けば、その行うところを観る。
 聴けば、いかに知行合一するか、あるいは矛盾するかを観る。
 なかなか実行となると難しいものである。

五、止まれば、その好むところを観る。
 この「止まる」は俗に言う「板についてくる」の意。
 一人前になったら、何を好むかで人物が分かる。

六、習えば、その言うところを観る。
 習熟すれば、その人の言うところを観る。
 話を聞けば、(学問がどの程度身についているか)その人の人物・心境がよく分かる。

七、貧すれば、その受けざるところを観る。
 貧乏するとなんでも欲しがるというような人間は駄目である。
 落ちぶれたときに、何をしないかで人物がわかる。

八、窮すれば、そのなさざるところを観る。
 人間は窮すれば何でもやる、恥も外聞もかまっておられぬ、というふうになりやすい。
 貧しいときに、何を受け取らないかで人物がわかる。

先人から学ぶことは、まだまだ山ほどありますね。

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