教養と昭和と文学全集と。

私が子供の頃、たいていの家庭には数十冊にも渡る百科事典や文学全集がありました。
今から40~50年前の話しです。
当時は壁を埋め尽くしリビングを占拠するものでしたが、今では百科事典はウィキペディアやGoogle検索に変わり、文学全集は自分が読みたいものだけ読んでリサイクルに回される単行本や文庫本のリズムへと変遷し、私達の生活の中から完全に姿を消しています。
当時、文学全集はさんざん読み漁っていましたが、百科事典ともなると夏休みの自由研究のときの題材探しに使う程度で、日焼けした箱から引っ張り出すと、手の切れそうな紙の状態で分厚く折り目も手垢も付いていない状態。
往々にして、どこの家庭も似たり寄ったりであったように思えます。

特に各国の大家の著者からなる文学を取り入れて翻訳し、それを全集として数十冊以上もの規模でセットで販売するといった手法は、今考えてみても非常に稀な日本独特のやり方であったのです。
どうしてこんなことが成立していたのでしょう。

ここからは想像するしかないのですが、明治維新によって鎖国が解かれた瞬間から、日本は西洋の文化・知識・経済・産業の手法を積極的に取り入れ、徹底的に消化・吸収・習合してきました。
そうした姿勢は戦後も変わらず、ゼロリセットされた状態からとてつもないスピードで経済成長を遂げていった訳です。
物質に恵まれ、生活が少しずつ豊かになる中、あくせく働くだけでなく知性や教養というものへの渇望が出てきます。
開国後から100年近くの中で西洋の文化を取り入れてきたおかげで、多くの翻訳された書物という下地が存在する。(日本は海外諸国と比べても、圧倒的に自国の言葉で翻訳された書物が多い国です)
じゃあ、手っ取り早く教養を身につけるにはどうしたらいいかというと、そうした書物の中で誰もが取り掛かりやすそうな文学をピックアップして何十冊というセットで括ってるものがあれば、いちいち自分であれこれ選別する手間も省けて一石二鳥。
売るほうも、ちまちま一冊ずつ売るよりは、一度で一気に何十冊もの本を売る事ができる。
しかも、全集モノとして家に飾れば知性のひけらかしにもなるし、自分は読まなくても家族の誰から読んで教養を身に付けるたろうという安心も得られる。
そんな需要と供給がぴったりはまった時代だったのだろうと思われるのです。

教育という観点で見ると、私はある一定の時期においては、強制的に知性や教養の下地となる膨大な情報の詰め込みが必要だと思っています。
これは、現代における画一化されて答えがひとつしかない○×式の学校教育とは別で、自らの頭で思慮・考慮・熟慮しいわゆる学びて問い、問いて学ぶ学問のための下地作りです。
他人の思考や行動、徳性といったものを吸収し、自分の中で知性や教養の厚みを重ねることで、自我の成長と精神練磨が行われるもので、これは勉強というひとつの答えしか求めない仕組みの中では決して得る事が出来ません。
今、本を読むというと、自分が好きなものだけを自由にえり好みし、好き勝手なところから欲しい部分だけを切り取って、しかも簡単にして安易に取り入れ、そして読み捨てるという形に変遷しています。
しかし、食べ物も好きなものだけ食べ続けると栄養が偏って体調に変調を来たすように、知識や情報も好きなものだけえり好みして簡単で楽な部分だけを安易に享受し続けると、精神に変調や異常を来たすものなのです。

明治から大正、昭和の時代の中で培われていた知的向上心の土壌や教養主義というものがすっかり過去の遺物のような様相を呈しています。
しかし、食べ物も見た目だけで食わず嫌いになるのではなく、本当に自分にあったものかどうかは何度か食べてみなければわかりません。
場合によっては、食べて食感が悪かったとしても、時間を経る中で実は体に良い効果をもたらす事だってあるはずです。
食わず嫌いで自ら労苦を取りに行くことを敬遠するのではなく、自分の知性や教養を作る下地だと考え、普段は読まない分厚い書物、これまで一度も触れた事がない書籍を手に取ってみることが肝要な時代だと考えます。

夏休みで普段よりは多少時間に余裕が出てくる時期だと思いますので、思考を切り替える一歩を行ってみることをお勧めします。
ご一考ください。