孟子より学ぶ!性善説と王道に基づくリーダーの心得!

孟子は戦国時代中国の儒学者・思想家で、仁や孝悌(四徳と五倫)を重んずるとともに性善説に基づいた王道政治を説いた人物であり、その言行をまとめた書も『孟子』といいます。
『孟子』は、儒教の経書四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)のうちのひとつで、儒家にとっては六経の前に読むべきものとして重要な経典とされました。

孟子は諸侯を遊説して歩きましたが、小節を曲げてまでも大義を伸ばそうとはしなかったので、当時の君主はみな孟子は世事に疎しと批評して、その意見を聞き入れる者がありませんでした。
そこで孟子は世間を退いて、優れた門人である公孫丑や石章などと議論したことを集め、また自分の説いていたことも入れて、あわせて一冊の書物として七篇に分け、 261章34,685字の『孟子』を著しました。

孟子の性善説と四徳と五倫について、ざっと整理しておきます。

性善説:
 人間の心には、
 ・善悪を理性的に判断する能力=良知
 ・悪をしりぞけて善をやろうとする能力=良能
 の2つがあるから、人は生まれながらにして良心的な心を持っているという考え方です。
 そのため、人間が悪いことや欲を持とうとするのは、周りの環境(=人間の外)が良くないのが原因と考えました。

五倫:
 人間の社会での関係を制限した考え方です。
 例えば、
 ・父と子の関係=親
 ・君と臣の関係=義
 ・夫婦の関係=別
 ・長と幼の関係=序
 ・=朋友の関係=信
 といったものがあり、何か問題がある場合には、周りの環境が悪く、人間は悪くないと考えました。
 そのため、正しい人間関係の在り方として「五倫」が重視されています。

四端と四徳:
 人には生まれながらにして四端(四つの徳の根本)を持っているため、その四端を養うことで四徳を実現できるという考えです。
 四端                     四徳
 ・他人の不幸を見て見ぬふりができない憶測の心 ・仁
 ・自らの不正、悪を羞じ悪む羞悪の心      ・義
 ・互いに譲り合う辞譲の心           ・礼
 ・善悪を見分ける是非の心           ・智
この四徳が充実すると、何事にも動じない”浩然の気”というのが生まれます。
※)大丈夫とは、浩然の気を獲得した人のことを称して呼んだ言葉だそうです。

易姓革命という政治観:
 ”民を貴しとなす”と考え、政治は上の人が仁義を持っている政治(=王道政治)が良いと考えました。
 そのため、上の人による王や権力が支配する政治(=覇道政治)を否定し、民衆は王様が民衆の意見とは違う政治をしたら、王を変えることを認めるべきと考えたのです。

『孟子』には、封建的な身分秩序を絶対視する観点が貫徹していますが、それでも道義主義的な生き方や人間観からは学ぶことが多々あります。

戦後教育は、『教育勅語』に見られる忠孝中心の儒教的修身教育を否定して成り立っているので、孟子・孔子に端を発する儒教道徳の再評価には、ある種強い拒絶反応があるのかもしれません。
しかし、論語の再評価が高まっていることからもお分かりのように、これらを全否定することなど実質的には困難なことですし、一方的なレッテルを貼って古典を顧みない(=歴史から学ばない)のは愚かなことです。

そもそも孔子や孟子が説いてきた忠孝の「忠」は、元々真心を尽くすという意味でした。
君に忠義を尽くすのも、決して絶対的な服従や盲従を行うというものではなく、自己の信念に従って、誠心誠意君と義を共にすることであったのです。
勿論、忠孝の「孝」に関しては、儒教的な家父長家族のイデオロギーの特徴として父権を絶対化し神聖化していますし、更にそれを仁の根本とし、すべての道徳的基礎にするといった、非常に偏った内容であることは確かなことです。
しかしこうしたことは、良いところは良い特質を持ったまま取り入れ、悪いところは日本流にアレンジしてきちんと使える形にする(それでもNGなら捨て去る)という日本人の習合の特質で、きちんと咀嚼していけばよいだけのことです。

一方的に○×で良し悪しだけ判断する単純化された現代の思考パターンは、古来の日本人の性質からは大きくかけ離れているものです。
古典に学び、問い、考える精神修養が、今こそ必要な時期はないのだという前提に立ち、精錬練磨してまいりましょう。

ちなみに『孟子』に関しては、吉田松陰による孟子の講義録:『講孟箚記』が有名です。
吉田松陰が『孟子』を元に如何に聖賢の教えを学び実践しようとしたのか、その内容については後日改めて整理してみたいと思います。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

梁恵王章句上
【一章】
孟子は魏恵王にお目にかかった。恵王は「先生は千里の道をはるばるお越しくださった。わが国に利益を与えてくださるのか」と言うと、 孟子は「王にはどうしてそう利益、利益と口にされるのですか。大事なのはただ仁義だけです。利益を追求ばかりするから、下の者が上の者から奪い取ろうとするのです」と答えた。
【二章】
恵王は庭の大雁や大鹿を眺めながら「賢者もわしのようにこうしたものを見て楽しむのだろうか」と言った。
孟子は「賢者であってこそ、はじめてこれらのものが楽しめるのです。周の文王は台や池をつくりましたが、人民はそれを褒め称えました。 文王がひとりで楽しまないで、人民といっしょに楽しんだからこそ、人民はこれを喜び、ほんとうに楽しんだのです」と言った。
【三章】
恵王は「わしは国の政治にはあらんかぎりの苦心をしている。それなのに隣国の人民がいっこうに減りもせず、わしの人民がさっぱり増えもしないのはなぜだろうか」と問うた。 孟子は「王は戦がお好きですから、ひとつ戦でたとえましょう。戦のときに武器を投げ捨て逃げ出した者がいました。100歩逃げた者もあれば、 50歩で留まった者もありました。 50歩逃げた者が100歩逃げた者を『この臆病者め』と笑ったら、いかがなものでしょう」と言った。
恵王は「それはいかん。逃げたことには変わりがない」と言うと、
孟子は「今、王の政治はご自分の犬や豚には食べ物をたらふく食わせながら、これを米倉に収め貯えようとなさらない。人民が餓死しても『わしの政治が悪いのではない。 凶作のせいだ』と言っておられる。これは先の50歩逃げた者と何の違いがありましょう」と言った。
【四章】
恵王は「ひとつ先王のお話をお聞きしたいものだ」と言うと、孟子は「刃物で人を斬り殺すのと政治が悪くて死に追いやるのとでは、何か違いがありましょうか」と言った。 恵王は「違いはない」と答えた。
孟子は「いま王の調理場にはうまそうな肉があり、馬屋には元気な馬が飼われていますのに、人民といえば飢えて餓死者がころがっております。 これでは獣どもをひきつれて人間を食わせているようなものです」と言った。
【五章】
恵王は「わが晋(魏)は、以前は天下に並ぶもののないほど強い国であった。ところがわしの代になってから、東は斉に破れて太子申は捕まり死んでしまうし、 西は秦に700里の地を奪われ、南は楚に敗戦の辱めを受ける始末。わしは残念でならぬ。わしの眼の黒いうちに恥をすすぎたい。どうしたらよいものだろう」と言った。
孟子は「王がもし仁政を行って刑罰を軽くし、税金の取立てを少なくし、田地を深く耕して草取りも早めにさせ、孝悌忠信の徳を教えるようにさせたなら、 どんな強兵にも打ち勝つことができます。諺にある『仁者に敵なし』とは、つまりこのことをいったものです。王よ、どうか私の申すことをお疑いなさいますな」と答えた。
【六章】
孟子は魏襄王に謁見し、退いてからある人に「新しい王は、遠くから見ても、どうも王らしさがなく、近づいてお会いしても、 いっこうに威厳がない。いきなり『この乱れた天下は、いったいどこに落ち着くのだろう』とお尋ねになる。そこで『必ず統一されましょう』とお答えすると、 『だれが統一できるのだろう』と問われる。そこで『人を殺すことが嫌いな仁君が、よく統一できましょう』とお答えすると、 『いったい、だれがそれに味方するのだろう』とまた聞かれる。そこで『天下に味方しないものは一人もありますまい。今、そういう仁君が現れたなら、 天下の人民はみな首をながくして慕い仰ぐことでしょう』とお答えしたのである」と言った。
【七章】
斉宣王が孟子に斉桓公と晋文公について尋ねた。 孟子は「孔子の流れを汲む者は、誰ひとりとして桓公や文公のことを口にする者はありません。 天下の王者となる道についてならお話します」と答えた。 宣王は「どんな徳があれば、王者になれるのか」と尋ねると、孟子は「ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王者となれます」と答えた。
宣王は「わしでも人民の生活を安定できようか」と尋ねると、孟子は「もちろんできます。私は胡齕からこう聞きました。 王は牛が引かれているのを見て『その牛はどこへ行くのか』と尋ねられると、その男が『新しく鐘をつくったので、この牛を使ってお祭をするのです』と答えました。 王は『かわいそうだ。助けてやれ。代わりに羊にしたらよかろう』とおっしゃられたとか。このお心こそ、天下の王者となるに充分なのです。 人民たちは王はけちであるとか噂していますが、私には王のお心はよく分かります」と言った。
王は苦笑して「そうか。なるほど、そんなことを言っている者もいるのか。まあ、なぜ取り替えよと言ったのか、自分でも分からぬ」と言うと、 孟子は「人民たちが何を言っても、決してお気にかけなさいますな。牛はご覧になりましたが、羊はまだご覧にならなかったからです。 その生きているものを見ては殺される時はとても見てはおれないし、その鳴き声を聞いては、とてもその肉を食べる気にはなれないものです。だから、 君子は厨房には近づかないのです」と言った。
宣王は「自分でしたことだが、やっと分かった。しかし、この心があれば充分王者になれるというのはなぜか」と尋ねると孟子は「王のおなさけは鳥や獣まで及んでいるのに、 人民にはそのご実績が及んでいないのはどういうことでしょう。これは力を出そうとしないからです。人民の生活が安定しないのは、おなさけをかけようとなさらぬからです。 王が王者となられないのは、なろうとなさらぬからであり、できないのではありません」と答えた。
宣王は「しないのと、できないのではどうちがうのか」と尋ねると孟子は「泰山を小脇にかかえて北海(渤海)を飛び越えることは本当にできませんが、 目上の人に腰を曲げてお辞儀をすることは、できないのではなくて、しないのです。まず自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、 自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。そうすれば広い天下も思うがままに治めていけるのです」と答えた。
また孟子は「いったい王は戦争をよくされますが、それでお心は愉快でしょうか」と言うと、宣王は「どうして愉快なものか。ただわしには大望があるからだ」と答えた。 孟子は「王の大望は領地を広め、秦や楚を来朝させ、身は中国に君臨することをお考えでしょう。しかし今、天下には千里四方の大国が九つあり、斉はそのひとつでしかありません。 たったひとつで八つの国を征服するなど鄒が楚を相手に戦するのと何の違いがありましょう。
なぜ政治の根本に立ち返って王道を行わないのですか。仁政を施かれたなら、役人は斉に使えたいと望み、農夫は斉で田畑を耕したいとのぞみ、 商人は斉の市場で売買したいとのぞんで移ってくるでしょう」と言った。
宣王は「どうか先生、ハッキリと教えていただきたい。わしは不肖ながら、なんとか一つやってみたい」と言うと、孟子は 「まず井田の法により一世帯ごとに百畝の田地と五畝の宅地を与えてやり、そのまわりに桑を植えさせると、50過ぎの老人も絹が着られます。また鶏・仔豚・犬・ 牝豚などを飼わせると、70過ぎの老人も肉食ができます。農繁期に力役や軍事などに駆り出さなければ、8人ぐらいの家族なら、まずひもじい目にはあいますまい。
つぎに学校での境域を重視して、親への孝、目上への悌を教えれば、老人が路上で重い荷を背負うことはなくなります。このような政治を行って、 天下の王者とならなかった人はいません」と言った。

【梁恵王章句下】
【一章】
荘暴が孟子に「王が先日、『楽しみごとが大好きだ』と仰せになったが、私はご返事できかねました。いったいこれはいかがなものでしょう」と言った。 孟子は「それは結構なことです。斉が王者となるのも、そう遠いことではないでしょう」と言った。
後日、孟子は宣王に謁見して、このことを話した。宣王は「わしの好きなのは、先生のやる品の良い楽しみではなく、ただ世間ではやっている楽しみごとなのだ」と言うと、 孟子は「それでも結構なのです。王が人民たちといっしょに楽しむようになされたら、人民は自然になついて、国も治まり、やがては天下の王者となられるでしょう」と言った。
【二章】
斉宣王が「周の文王の狩場は70里四方もあったというが、ほんとうだろうか」と尋ねた。孟子は「そうです。しかし人民はまだ狭すぎる、もっと大きくされてはと思っていたようです」 と答えた。宣王は「私の狩場はたかだか40里四方しかないのに、人民は広すぎると言っておるのはなぜか」と言われた。孟子は「文王の狩場は70里あっても、草刈り、 木伐りも狩人も自由に入れましたし、自由に穫ってもよかったのです。文王はそれを独占しないで、これを人民と共有にしておられたのです。王の狩場に入った者は死罪になるとか。 これでは人民が広すぎると思うのも、もっともではありますまいか」と言われた。
【三章】
斉宣王が「隣国と外交するのに、なにかよい方法があるだろうか」と尋ねた。孟子は「あります。たとえ、こちらが大国であっても、 隣の小国を侮らずに礼を厚くして外交をすることが肝心ですが、これはただ仁者だけができることです。また反対にこちらが小国であれば、 たとえいかに圧迫されてもよくこらえて大国につかえて安全をはかることが肝心ですが、これはただ智者だけができることです」と答えた。
宣王は「まことに立派な言葉であるが、自分には少々悪い癖があり、とかく血気の勇に逸ってしまうので、それはできそうにない」と言うと、孟子は 「王には小勇ではなく、大勇をお持ちになっていただきたいものです。もし王がひとたびお怒りになって、天下の人民を安んじなさるなら、 人民は等しく王が勇気をお嫌いになりはせぬかとひたすら心配するようになるでしょう」と言った。
【四章】
斉宣王は孟子と雪宮で会見した。宣王は「先生、賢者にもまたこうした楽しみがありますか」と尋ねた。孟子は「それはありますとも。人民は自分もそういう楽しみが得られないと、 とかく上の人をそしり怨むものです。といっても、人の君主たるものが自分ひとりだけ楽しんで、人民と一緒に楽しまないのは、それ以上に宜しくはありません。
君主が人民と一緒に楽しみ、人民と一緒に心配する心があれば、必ず人民の方でもまた君主の楽しむのを見てはともに楽しみ、心配するのを見てはともに心配するものです。 このようにして天下の王者とならなかったひとは、昔から今までにまだ一度もございません」
【五章】
斉宣王が「皆が、明堂を壊してしまえとすすめるが、どうしたらよいだろうか」と尋ねた。孟子は「そもそも明堂は、天子が諸侯を集めて政令を出された堂です。 ですから、王がもし王者の政治を行い、天下に号令したいとお思いなら、取り壊さないで残しておくべきです」と答えた。宣王は「王者の政治とはどんなものなのか」と尋ねると、 孟子は「むかし文王がまだ諸侯の頃、農民には九分の一しか税をかけず、役人には俸禄を世襲させ、関所では税をかけず、川で魚をとることを自由にさせ、 刑罰で連坐させることはしませんでした。また年を取って妻をなくした者、夫をなくした者、頼る子供がない者、幼いうちに親を無くした者を救うことを真っ先にしました」と答えた。
宣王は「まことによい話だ」と言うと、孟子は「ではどうして実行なさらないのです」と言った。宣王は「どうもわしには悪い癖があって財貨が好きなのだ。 王者の政治は難しかろうよ」と言った。孟子は「王は財貨がお好きなら、周の公劉のように貯えて人民と一緒に使って下さい」と言った。
宣王は「わしは色を好むから、王者の政治は難しかろうよ」と言った。孟子は「王は女色を好まれても、男女の正しいありかたを示され、人民と一緒になさるお心がけなら、 天下の王者となるのになんの違いがありましょう」と言った。
【六章】
孟子は斉宣王に「遠く楚に行くとして、自分の妻子の世話を親しい友人に頼んだとします。ところが、帰ってみれば、妻子をさっぱり世話をしていなかったら、 この友人をどうなさいますか」と言った。宣王は「もちろん、そんな者は見棄てて用いない」と答えた。孟子は「では士師が無能で役人を取り締まれず、刑罰が乱れたとしたら、 どうなさいますか」と言うと、宣王は「もちろん、そんな者はやめさせてしまう」と答えた。孟子は「では、一国の君主として国内がよく治まらない時には、 どうなさいますか」と言った。王は返事に困り、他の家臣と別な話をしてごまかした。
【七章】
孟子は斉宣王に謁見して「古い国と世間から尊ばれるのは、その国に大きな樹木があるからではありません。忠義な譜代の家臣がいるからです。ところが王は、 昨日登用したばかりの者を、今日やめさせておられます」と言った。宣王は「これまでやめさせたものは、不才のものばかりだ。人物の才、不才を知るには、どうしたらよいのだろう」 と尋ねた。孟子は「新たに賢人を登用する時には、彼以外には人物がいないからやむを得ず登用するのだというような態度でせねばなりません。身分の賤しいものを抜擢したり、 血縁でない者を登用するのですから。そのときには、慎重におこない国中の人がみな非常な自分だとほめてから登用なさることです。またその反対に罷免させる時も、 刑罰のときも国中の人がみなそうすべきだと確信されてから行うことです。このように慎重な態度をとってこそ、ほんとうに人民の父母たる君主の資格があるのです」と答えた。
【八章】
斉宣王が「殷の湯王は夏の桀王を追放し、 周の武王は殷の紂王を討伐したという。家臣の身でありながら、自分の主君をあやめてもよいものだろうか」と尋ねた。 孟子は「もちろん、よいことはありません。いったい、仁をそこなうものは賊といい、義をそこなうものは残といいます。残賊の人はもはや主君ではなく、ただの人でしかありません。 だから紂という一人の男が武王に殺されたことは聞いていますが、家臣がその主君をあやめたということは聞いたことがありません」と答えた。
【九章】
孟子は斉宣王に「もし王が大きな御殿を建てられるなら、一級の大工に棟梁に手頃な大木を探させましょう。ところが下手な大工がその大木を削って小さくしたら、 王はお怒りになるでしょう。それと同じで、幼少から道を学び、壮年になって実行にうつそうとしている人に、王が『まあ、お前の学んだことはさしおいて、わしの考え通りにやれ』 とおっしゃったら、いかがなものでしょう。下手な大工が大木を小さくしてしまうのと、なんのちがいがありましょう。
また値一万鎰(20万両)の粗玉があれば、王は必ず玉磨きの専門家に磨かせましょう。ところが国家を治めることになると、専門家に向かって『まあ、お前の学んだことはさしおいて、 わしの考え通りにやれ』とおっしゃるのであれば、ちょうど素人が玉磨きの専門家に磨き方を教えるのと少しも違わぬではありませんか」と言った。
【十章】
斉は燕の内乱に乗じて、燕を討ち、大いに破った。宣王は「万乗の国を攻めて、わずか50日で攻め取るとは、天のたまものではないだろうか。もしこれを取らねば天意に逆らうというもの、 いっそ取ってはどうだろうか」と尋ねた。孟子は「もし燕の人民が悦ぶようでしたら、お取なさいませ。古人にもその例があります。しかしもし前よりも虐政が一層ひどくなれば、 民心は他国へ移るでしょう」と答えた。
【十一章】
斉宣王は孟子の言葉を用いず、燕を討ってこれを占領した。諸侯はこれを不義として斉を討とうとした。宣王は非常に恐れて「どうしたらやめさせることができよう」と尋ねた。 孟子は「燕は内乱で苦しんでおり、王が征伐されたので、燕の人民はきっと虐政から救ってくださるお方と思って王の軍を迎えました。ところが長老たちを殺し、 若者を捕虜にし、廟をとりこわし、財宝を持ち帰るなどしては、どうしてよろしいわけがありましょう。
王よ、さっそく捕虜にした者を帰し、宝物を元通りにし、燕の人民と相談して適当な君主を立て、軍を引き揚げることです」と答えた。
【十二章】
鄒が魯と戦って大敗した。鄒穆公が「今回の戦で有司が33人も戦死したのに、兵卒で有司のために命を投げ出したものはいなかった。ぜひとも見せしめに殺してやりたいと思うが、 人が多すぎて処刑しきれない。どうしたらよかろう」と尋ねた。孟子は「それには深いわけがあるのです。民衆は飢饉に苦しんでおるのに、有司たちは公に申し上げて助けようともしません。 ですから人民は常日頃の恨みを今日返したのです。公よ、決しておとがめなさいますな。それよりもまず仁政を行いませ。そうすれば、 人民は有司に親しんで進んで命をも投げ出すことでしょう」と答えた。
【十三章】
滕文公が「滕は小さな国で斉につくべきか楚につくべきか、自分は迷っている。どうすればよいだろう」と尋ねた。孟子は「私にも分かりかねます。ただ一つだけ方法があります。 それは城壁を高くし、堀を深くして、籠城して、たとえ命を落とすとも、人民が公を見捨てて逃げ出すことがなければ、よろしいでしょう」と答えた。
【十四章】
滕文公が「斉は薛を滅ぼし、今度はわが国に迫ろうとしている。どうしたらよいだろう」と尋ねた。孟子は「君子たる者は事業のもといをはじめて、その手がかりを残して、 子孫に継がせれやれば、それで宜しいのです。しかし、それが成功するかは天命であり、人の力ではいかんともしがたいものです。斉が薛に城を築くからといって、 いまさら公のお力でどうなるものでしょう。それを恐れるよりは、ひたすら善政を施かれることです」と答えた。
【十五章】
滕文公が「滕は小国である。斉、楚の侵略から逃れられない。どうしたらよいだろう」と尋ねた。孟子は「むかし周の文王は狄人に攻められたとき、『狄が欲しがっているのはこの土地である。 わしはここを立ち退こうと思う』と言い、豳を去って岐山の麓に移りました。すると豳の人々は大王を慕ってついて行ったのです。これが一つの方法です。
しかしまた『国土は祖先から代々受け継ぎ守り抜いたもの。自分の一存で勝手にはできぬ。命を掛けても立ち退くな』と主張する者もいます。これもまた一つの方法です。 王よ、とくとお考えの上、どちらかを選んでください」と答えた。
【十六章】
魯平公が出かけようとした。近臣の臧倉が「今日はどちらに行かれるのですか」と尋ねた。 平公が「孟子に会いに行くつもりだ」と言うと、 臧倉は「公が軽々しく一平民をこちらから訪問なさるとは。あの孟子は礼儀もわきまえず、母の葬式はその前の父の葬式よりも立派にしました。 かように礼儀を知らない男にはお会いなされますな」と言った。平公は「そうか。そうしよう」と言い、訪問を取りやめた。
楽正克は平公に謁見して「公はなぜ孟軻とお会いにならないのですか」と尋ねると、平公は「『孟子は礼儀もわきまえず、 母の葬式はその前の父の葬式よりも立派にした』と告げた者がいたので急にやめたのじゃ」と答えた。楽正克は「立派とはどういうことでしょう」と尋ねると、 平公は「葬式に用いた棺桶や着物やふすまなどが前よりも立派過ぎたことだ」 と答えた。楽正克は「それは前には貧しく、後には富んでいたからです」と言い、御殿をさがって孟子に会い、言い訳をして「公はここに来て先生にお会いになるはずでしたが、 近臣の臧倉という者が邪魔をしたので、取りやめになったのです」と言った。
孟子は「いやいや克よ。人が出かけるのも取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。わしが魯公に会えないのは、天命なのじゃ。 臧氏の小伜などの力で、どうして天命を自由にできよう」と言った。

【公孫丑章句上】
【一章】
公孫丑が「先生がもし斉の政治を執られたら、 あの管仲や晏子のような立派な功績が期待できましょうか」 と尋ねた。孟子は「君は斉に生まれたので、人物といえば管仲と晏子になるのだね。ある人が曾西を、子路と比較した時、 曾西は非常に恐縮したが、管仲と比べられると非常に怒ったという。曾西でさえもこのようであるのに、私に第二の管仲になれと願うのかね」と言った。
公孫丑は意外に思って「管仲は桓公を覇者にさせましたし、晏子は景公の名を天下にとどろかせました。 それでもなお言うに足りない人物なのでしょうか」と言った。孟子は「斉のような大国で、天下の王者とさせることは、極めてたやすいことだ」と言った。 公孫丑は「文王は聖人の徳があり長生きをされたが、その徳化はまだ天下に充分には行き渡らず、王者になれませんでした。それなのに先生は王者になることはたやすいと言われる。 それでは文王も模範とするに足らないのでしょうか」と尋ねた。孟子は「文王は古の聖人、我々などにどうして比べられよう。そもそも殷は湯王から6、7人も聖人が出て、 天下の人心は長い間殷に帰服していた。だからそうたやすくは滅びず、すっかり天下を失うまでには歳月がかかったのだ。
であるから、今の時勢こそ、王者になりやすい最もよい時期なのである。ただこのまま仁政を行えば王者となれるのであり、誰一人これを防げることはできない」と言った。
【二章】
公孫丑が「もし先生が斉の宰相となり、斉王を王者にさせたなら、たとえ先生でも多少心に動揺が起こりませんか」と尋ねた。孟子は「いや、40歳を越してからは、 どんなことにも心は動揺しなくなった」と答えた。公孫丑は「そうであれば、先生の勇気はかつての孟賁以上ですね」と言うと、孟子は「そう難しいことではない。告子でさえ、 わたしより先にそうなっている」と言った。
公孫丑は「そうなるには、なにかよい方法がございましょうか」と尋ねた。孟子は「あるとも。むかし孟施舎という勇士は、とても勝てないと分かっていても敵を畏れずに進むと言ったが、 これは曾子に似ており、気力を守っているといえる。しかし、ただ単に気力を守っているだけで、顧みて正しい時は、 あくまでつらぬき守るという曾子の要約を得た方法とは、とても比べものにはならない」と答えた。
公孫丑は「先生と告子の違いをお聞かせいただけないでしょうか」と尋ねた。孟子は「告子は、他人の言葉を理解できないことがあっても、 心の中で無理に理解しようと焦ってはいけないと言っているが、これは宜しくない。いったい心のはたらきである志というものは、気力を左右するものであり、 気力は人間の肉体を支配するものである。だからあくまでも志をかたく守って、気力を無駄にそこなってはならぬと自分は言うのだ」と答えた。
公孫丑は「先生は前に、志がまずしっかりと確立すれば、気力はそれに付き従うと申されましたが、これと食い違いがあるように思われますが、どういうことでしょう」と尋ねた。
孟子は「志がひとつのことに集中すると気力を動かすが、反対に気力がひとつのことに集中すると逆に志を動かすこともあるのだ。たとえば、 急いで走ってかえってつまずくのは、気力が走ることに集中しすぎたためであり、気力がありすぎて心を動揺させ、かえって心のはたらきを鈍らせてつまずかせたのだ」と答えた。
公孫丑は「では、先生は告子よりも、どこがまさっているのでしょうか」と尋ねると、孟子は「わしは他人の言葉をよく判断する。また、浩然の気をよく養っておることだ」 と答えた。公孫丑は「その浩然の気とは、どういうものなのでしょう」と尋ねると、孟子は「この上なく大きく、この上なくつよく、しかも正しいもの。 立派に育てれば、天地を充満する、それが浩然の気である。しかし、いつも正義と人道に連れ添って存在するものだから、この2つがなければ、気はしぼんでしまう。 気だけを目的として養っていてもいけないし、気を養うことを忘れてもいけないし、苗を助長させようとして、苗を引っ張った宋人のようにあせってもいけないのだ」と答えた。
公孫丑は「他人の言葉をよく判断するというのは、どういうことでございましょうか」と尋ねると、孟子は「正しくない言葉が、その心に起きると、 必ず行為にも弊害が現れてくる。人の行為に弊害があらわれてくると、必ずその人の行う政治にも弊害があらわれてくるものである。だから他人の言葉をよく判断するというのは、 天下国家のために必要なのだ」と答えた。
公孫丑は「孔子はご自分では『どうも話すことは不得意だ』とおっしゃっていますが、先生はもはや聖人の域に達しておられるのですね」と言うと、孟子は 「君はいったい何ということを言うのか。聖人というものは、孔子でさえも自ら任じておられなかったのだ。それなのにこの私を聖人であるなどと言うとは」と言った。
公孫丑は「孔子の門人子夏、子游、子張はいずれも聖人の一面を供えた人で、 冉牛、閔子、顔淵は聖人の徳はあるが、その器量は小さいとのことです。 先生はいったいどなたぐらいにあたりましょう」と尋ねると、孟子は「しばらくその話はやめておこう」と答えた。公孫丑はまた 「では伯夷や伊尹はいかがでしょう」と尋ねると、孟子は「2人はそれぞれ生き方が違う。 2人とは違って、仕えたほうがよいときは仕え、やめた方がよいときはやめる、長くいてよいときは長くいるし、早く立ち去る方がよいときには、 すぐに立ち去るのが孔子のやり方である。
わしは理想としては、孔子を学びたいものである」と答えた。
公孫丑が「伯夷も伊尹も、孔子とはそんなに優劣がないのでしょうか」と尋ねると、孟子は「いやいや、孔子ほど偉大な人物はいない」と答えた。 公孫丑が「しかし3人にはどこか共通した所はあるのでしょうか」と尋ねると、孟子は「それはある。小国でも、君主となれば、たちまち諸侯を来朝させて、 天下を統一するだろう」と答えた。
【三章】
孟子は「うわべは仁政にかこつけて、ほんとうは武力で威圧するのが覇者である。だから賢者は必ず大国の持ち主でなければならない。 身につけた徳により仁政を行うのが王者である。王者となるには大国である必要はない。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んで服従するのであり、 70人の門人が孔子に心服したのが、それである」と言った。
【四章】
孟子は「仁徳を修めてさえおれば必ず栄えるし、悪いことばかりしておれば必ず他から屈辱を受けるものだ。人君たる者があらかじめよく注意して国を治めていったならば、 誰がその国を侮るようなことがあろうか」と言った。
【五章】
孟子は「君主が賢人や有能な人を登用し、政治を執らせれば、天下の人材はみな仕官したいと願うだろう。市場では店舗税はとっても商品税はとらないようにすれば、 天下の商人はみな悦んで商売したいと願うだろう。関所では取調べはしても、関所税や通行税をとらなければ、天下の旅人はみなその国の道路を通りたいと願うだろう。 公田に税をかけ、私田に課税しなければ、天下の農民はみなその田野を耕したいと願うだろう。
この5つの政策をよく実行すれば、その国はもちろんのこと隣国の人民も慕うようになる」と言った。
【六章】
孟子は「人間なら誰でもあわれみの心があるものだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行うならば、 天下を治めることはいともたやすいことだ。
では、誰にでもあわれみの心があることがどうしてわかるのかというと、たとえば、幼な子が井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わずハッとしてかけつけて助けようとする。 助けてその子の親と近づきになろうとか、村人からほめてほらおうとかのためではなく、また見殺しにしたら非難されるからと恐れているためではない。
あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をにくむ心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。 人間にこの4つ(仁義礼智)の心は生まれながらに具わっているものなのだ。だから人間たるもの、この心の4つの芽生えを育て上げ、 立派にものにしなければならない」と言った。
【七章】
孟子は「矢を作る職人は鎧を作る職人よりも不仁だというわけではないが、矢の職人は矢のできが悪くて人を傷つけぬようではこまると心配し、 鎧の職人は鎧のできが悪くて人を傷つけてはこまると心配する。人の病気を治す巫女と人が死ねば儲かる棺桶屋などもこれと同じだ。 それゆえ身に付ける技術によっては仁と不仁とが別れてしまうのだから、その選択はよほど慎重にしなければならない。
仁という場所に住もうと思えば住めるのに、わざわざ不仁に居着くのは智者のすることではない」と言った。
【八章】
孟子は「子路は自分の気づかぬ過ちを忠告されるとたいへん悦んだ。また禹は他人から善いことばをきくと、ありがとうと頭を下げられた。舜は善いことなら、 人々といっしょに行うので、もしも他人に善いことがあれば、どんどん取り入れてすぐさま実行にうつした。
このように他人の善を学び取ってはすぐ実行にうつすのは、つまり人々といっしょに善を行うというもの。だから君子の徳としてこれより偉大なことはないのである」と言った。
【九章】
孟子は「伯夷は非常に潔癖で、立派な君主でないと仕えないし、正しい友達でないと交際しなかった。こんな調子だから諸侯からどんなに鄭重に招かれても受け付けない。
柳下恵は不徳の君でも平気で仕えるし、どんなつまらぬ官職でもいっこうに恥じたりはしない。 彼はどんな者といっしょにいてもたのしそうで、しかも自分の正しい本領を失わない男であった」と言った。最後に孟子は「伯夷は心が狭すぎるし、柳下恵は慎みが足りない。 心が狭すぎるのも慎みが足りないのも、どちらも君子は従わない」と許した。

【公孫丑章句下】
【一章】
孟子は「およそ戦争をするには、天の時、地の利、人の和と3つの大切な条件があるが、天の時はどんなによくても地の利には及ばないし、 地の利はどんなによくても人の和には及ばない。
正しい道にかなった人には自然と味方が多く、天下の人々が皆なつき従う。だから、有徳の君子は戦わないことを尊ぶが、やむなく戦うときには必ず勝つのである」と言った。
【二章】
孟子がちょうど斉宣王に参内しようとした時、たまたま王の使者と出会い「実は、王があいにく風をひいてしまい、外へ出ることができません。 もし先生のほうから朝廷へ来てくだされば、お目にかかれるのだが」と言った。孟子はそこで「あいにく私も病気ですから、参内いたしかねます」と言って断った。
翌日、孟子は斉の大夫東郭氏の邸へ弔いに出かけようとした。公孫丑が心配して「先生、昨日は病気と言ってお断りしたばかりなのに、今日外出されては、 まずいことになりませんか」と尋ねたが、孟子は「いや、今日は直った。どうして弔わずにおられよう」と言って出かけていってしまった。
ところが宣王はお見舞いの使者と医者を差し向けた。孟仲子は困って「今日は病気が少しよくなったので、参内するといって出かけましたが、果たして無事に参れたかどうか」 と言い訳をして、人に孟子を待ち受けさせて、事情を話させた。孟子はやむなく大夫の景丑氏の家に泊まった。
景子は孟子の態度を責めて「父子のあいだは恩愛が第一ですし、君臣のあいだは尊敬が第一です。私が見るところ、王は先生に敬意を払っておられるのに、 先生は王を尊敬されていないようです」と言った。孟子は「なんということを言われる。斉の人々で王に仁義の道を説く者はひとりもいないが、 心の中で『この王は仁義の道を語るに足りない方だ』と思っているからでしょう。ところが私は堯舜の道だけを説いています。だから、 自分ほど王をうやまっているものは斉には一人もいないはずです」と答えた。
景子は「いや、そういう意味ではありません。王からお召しがあれば、わざと行くのを取りやめられた。それでは礼に合致しないのではありませんか」と言うと、 孟子は「その礼にいっているのは君臣の礼であって、今は臣下ではありませんぞ。
この世に尊ばれるものが3つあり、一は爵位、二は年齢で、三は道徳です。朝廷では爵位が第一で、世間では年齢が最も尊ばれます。世を救い人民を指導するには、 道徳が最も尊いのです。かつて湯王は伊尹に対して、最初は師として仕え、それから宰相に迎えました。斉桓公と管仲の関係もまた同じこと。 管仲でさえも呼びつけにはできなかったのに、ましてや管仲などでないものはなおさらのことではなかろうか」と答えた。
【三章】
陳臻が「先生は斉王から兼金100鎰を贈られたのに、それを受け取られませんでした。それなのに宋の国では70鎰を贈られて受け取られ、 薛の国でも50鎰を受け取られました。 これはなぜなのでしょう」と尋ねた。孟子は「宋のときは、私は旅立つところであり、旅立つものには餞別を贈るのが礼儀だ。薛のときは、私に危害を加えようとする者がいたので、 警備の費用にと下さったのだ。ところが斉のときはなんらそのお金を必要とすることがなかった。必要ともしないのに金を贈るのは、賄賂というもの。かりにも君子たるものが、 賄賂で買収されてどうしてよかろうか」と答えた。
【四章】
孟子は平陸に行ったとき、大夫の孔距心に「警護の兵が一日に三度も隊伍を離れて勝手なことをしたら、 あなたは軍法にかけて処分しますか」と尋ねた。 孔距心は「いや、三度といわず一度でもすぐ処分します」と答えた。孟子は「あなたにもこの兵と同じ怠慢がありますよ。悪疫や飢饉の年には、あなたの領内には飢え凍えて死ぬ人や、 四方に散り散りになって逃げ出す者が多いのです」と言うと、孔距心は「しかし先生、このわたしの力では、何ともできないことです」と言った。
孟子は「牧畜をする人は、牛や羊の為に必ず牧場と牧草を探すでしょう。もし見つからぬときは、もとの持ち主に返しますか。それともぼんやり立って、 その死ぬのを見ていますか」と言った。孔距心は大いに恐縮して「よくわかりました。これは私の責任です」と言った。
その後、孟子は斉王の謁見した時に「王の地方長官を5人知っていますが、その仲で責任をよく自覚しているのは、ただ孔距心ひとりだけです」と言って、 さきの話を申し上げた。斉王は「それは孔距心の罪ではない。わしの罪じゃ」と言った。
【五章】
孟子は斉の大夫蚳鼃に「あなたが霊丘の長官を辞めて士師を希望されたのは、まことにごもっともです。 王のおそばでお諌めできるからでしょう。ところがもう数ヶ月にもなるのに、 まだ一言もご意見しないのはどういうわけでしょう」と言った。そこで蚳鼃は王を諌めたが用いられず、ついに官を辞して立ち去ってしまった。
斉の人々は「蚳鼃のためを思って言ったことはまことに宜しい。だが、夫子自身のことはどうであろう」と孟子の悪口を言った。弟子の公都子がこれを告げると、 孟子は「臣下として職務が果たせなければ辞めて去り、諌めが容れられなければ去るものだという。だが、自分は斉の臣下ではない。自分の進退は自由なのだ」と言った。
【六章】
孟子が斉の卿のとき、王命により正使となって、滕文公の喪を弔いに行った。旅行中、 副使の王驩は使命のことについては一度も相談しなかった。公孫丑が不思議に思って 「先生は大事な使命を帯びながら、一度も王驩と相談されなかったのはどういうわけでしょう」と尋ねると、孟子は「使命のことはすでに彼が一切やってくれているので、 何も相談する必要がなかったのだ」と答えた。
【七章】
孟子の母が亡くなったので、孟子は魯に帰った。その葬式をすませて斉に帰る途中、嬴という町にとまって喪を終えようとした。 門人の充虞が「先生、 棺に使った用材がたいへん立派すぎたように思われますが、いかがなものでしょう」とたずねると、孟子は「棺を立派にするのは、ただ外観の美を飾るためばかりでなく、 人の子たるものが亡き親を思う子を満足させることができるからである。君子はたとえ天子のためであるからといって、自分の親にけちをしないものだ」と答えた。
【八章】
斉の大夫沈同が孟子に「燕を討ってもよろしいでしょうか」と尋ねた。孟子は「よろしい。 燕王噲は勝手に他人に国を与え、 宰相子之も勝手に国を貰い受けた」と答えた。
ほどなく斉は燕を討った。そこである人が孟子に「先生が燕を討つように勧めたというのは、ほんとうですか」と尋ねた。孟子は「いや、そんなことはない。ただ先日、 沈同がそのことを聞いてきたが、さらに『誰が討ったらよいか』と聞いてくれたら、『仁君であれば討ってよろしい』と答えるつもりでいたのだ。いま斉が燕を討つのは、 燕が燕を討つようなものだ。どうしてわしがそんなことを勧めようか」と答えた。
【九章】
燕が斉に背いた。宣王は後悔して「自分は孟子に対してなんとも面目がない」と述懐した。陳賈が「王よ、失敗は誰にでもあるもの。 王はご自身と周公とどちらが仁者であるとお思いですか」と言うと、宣王は「当然、周公ではないか」と答えた。そこで陳賈は 「周公は兄の管叔に殷の遺民を監督させたところ、管叔は謀叛しました。周公が叛くと知りつつ任せたのなら不仁でありますし、 知らずに任せたのなら不智であります。仁と智とは、周公でさえも完全とはいわれぬもの。私がひとつ孟子に会ってよく弁解いたしましょう」と言った。
陳賈は孟子に会って「周公は兄の管叔に殷の遺民を監督させたところ、管叔は謀叛しました。周公のような聖人でさえも、やはり過ちはあるのですね」と言った。 孟子は「周公は弟であって、兄を信じて疑わなかったのはむしろ無理からぬことではあるまいか。それに昔の君主は過ちをすぐに改めたものだが、このごろの君主は改めるどころか、 あべこべにそのまま押し通そうとする。まことに困ったものだ」と答えた。
【十章】
孟子は久しく卿として斉に仕えていたが、意見が用いられないので辞職して去ろうとした。斉王は時子に「わしは孟子を斉に引き留めておきたい。邸宅を与え、一万鐘の禄を与え、 弟子を養成させ、孟子を師表として敬わせたいのじゃ」と言った。時子は孟子の弟子の陳臻に頼んで孟子に話を取り次いでもらった。孟子は「あの時子ごときには分からんだろう。 もしかりにわしが富を欲するなら、客卿の十万鐘の禄をことわろうか。子叔疑は卿相を辞めるとき、自分の子弟を卿にすえたという。 これこそ富を壟断すようとするものだ。昔の市場は、役人がただ取り締まるだけであったが、卑劣な男が小高い丘に登って、 左右を見渡して利益を独占した。そこで役人も商人に税をかけるようになったのだ」と言った。
【十一章】
孟子は斉を去って昼というところに泊まった。すると孟子を引き留めようとする人があって、孟子に丁寧に話をしたが、孟子は一言も答えず、うつ伏したままであった。 その人は立腹して「私がいろいろ申し上げているのに、先生は一言も答えて下さらぬとは。もはや二度とお目にかかりますまい」と言った。孟子は「まあ、お座りください。 理由を話そう。むかし、魯の穆公は子思を尊敬して、お傍にいつも人をつけて誠意を示したといいます。 また泄柳や申詳も、穆公の側に立派な人物がいないと安心できなかったと言います。 貴方がこの長者にいろいろ心配してくださるのはありがたいが、 斉王は穆公の心がけを持たれない。そうなれば、いったい貴方の方からこの長者と縁を絶たれるのか、それともこの長者の方から縁を絶つのか、もうお分かりだと思う」と答えた。
【十二章】
孟子は斉を去った。尹士というものが「孟子は、斉王が湯王や武王のようには到底なれないのを知らずに来たのならば、よほど不智であるし、 また駄目と知りつつも来たのならば、俸禄にありつかんがためだ。王と意見が合わないから去るというのに、昼に3日も泊まってからやっと出発するとは、 なんと未練がましいのだろう」と非難した。
孟子の弟子の高子がこれを知らせると、孟子は「尹士にどうして私の心が分かろうぞ。斉王にお目にかかったのは、どうかして道を行いたいと願えばこそであった。 去るのは決して自分の希望ではない。だから昼に3日も滞在したが、それでもなお早すぎるぐらいだ。王よ、お願いです。考えを改めてください。王が改めれば、 必ず私を連れ戻すだろう。しかし、昼を出ても王は追って来られない。そこで私は諦めて去ったのだ。というものの、今でも王を見限りはしない。王はやはり、 ともどもに仁政を行うことのできるお方だ。
王がもしも私を用いてくだされば、斉一国だけでなく、天下の人民が安らかになるのだ。私はそれを朝な夕なに願い望んでいるのだ。どうして諌めを受け入れてもらえないからと言って、 腹立ちまぎれにすぐに去ろうとすることができようか」と言った。尹士はこれを伝え聞いて「ああ、私は誠に小人である」と自ら恥じたという。
【十三章】
孟子は斉を去り、鄒へ帰るとき、充虞が途中で心配して「先生は浮かぬ顔をしておられますが、以前『君子はたとえいかなることがあっても決して天を怨んだり、 人をとがめたりはしないものだ』と聞きました。どうしてなのでしょうか」と尋ねた。孟子は「あのときはあのとき、今は今。 今までだいたい500年目ぐらいに必ず天下の王者がでたもので、その時には必ず名高い賢者が出たものだ。ところが、周初から今に至るまで700余年もたっておる。 時勢からいえば天下を平定する王者の出現には、この上もない良い時期なのである。しかし、王者が出ないのは、天がまだ天下泰平を望んでいないからであろう。 今、もし天下泰平を望まれるのであれば、王者の補佐役は、自分をさしおいて外に誰がいよう。そう思えば、どうして浮かぬことがあろうか」と言った。
【十四章】
孟子は斉を去り、休にいたとき、公孫丑が「先生は斉の禄を受けられませんでしたが、これは昔からの正しい道なのでしょうか」と尋ねた。孟子は「いや、そうではない。 斉で長居をするつもりがなかったので、禄を受けなかったまでだ。ところが、戦がつぎつぎと起こり、そのまま居着いてしまったが、決して本意ではなかったのだ」と答えた。