信長公記より学ぶ!現代に伝わる鮮烈にして激しく突っ走った信長の生き様!

今年の6月に「平成29年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産への登録を目指す候補として、『信長公記』の応募もあった」という記事がありましたので、今回は『信長公記』についてです。
※)ちなみに、この記憶遺産への登録応募は16件あり、『信長公記』や『伊能忠敬測量記録・地図』、『杉原千畝が大量発給した日本通過ビザ発給の記録 杉原リスト』、『水戸徳川家旧蔵 大日本史 編纂史料』などがあるようです。

そんな『信長公記』は、織田信長の幼少時代から足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻とし、上洛から本能寺の変まで15年の記録を1年1巻として全16巻(16冊)に纏めた信長一代記記録資料です。

著者は信長旧臣の太田牛一。
誤りも幾つかあるものの、信長の政治、軍事活動などが纏められており、織田信長第一級の資料として一代の天才児・織田信長の出生からその劇的な最期に至るまでの事跡を克明に記した伝記ともなっています。
信長自身については、果断にして正義を重んじる性格で、精力的で多忙、情誼が厚く道理を重んじる古今無双の英雄として描かれており、神道・仏教・儒教が融合した中世的道徳が伺えると共に、信長に離反した荒木村重の妻子の最期を憐れんで村重と妻との短歌のやり取りを詳細に記すなど、客観的ながらも信長の価値観や人物観を現す内容となっています。

著者の太田牛一ですが、織田家に奉公し、弓の名手として名声を得ながら同時に信長側近としてその行いを間近で見続けてきた人物で、本能寺の変の前には近江国鯰江の代官の地位にあり、変後は秀吉側室の老職を勤めながら過去に記した覚書類をもとに信長の伝記を執筆したようです。

信長公記
信長公記(原文)

かつての尾張の国(愛知県名古屋市)の小さな大名だった織田信長は、尾張の中心地である清州城を手に入れる為、出陣、乱世に名乗りを上げようとしていました。
この戦いの記録の中に記された信長軍の足軽衆・太田又助。
これが太田牛一が歴史に登場する最初の記録と言われています。
この戦いで信長軍はみごと勝利、清州を支配下に置き、戦国の覇者への一歩を踏み出した信長の姿を牛一は間近で目撃していたのでした。

そもそも牛一は名古屋市北区の成願寺の僧侶でした。
戦には縁のない生活の中で、ある日このような噂話を聞き付けます。
「織田家の新しい当主の信長は、周りからウツケ、常識のない愚か者だと言われているが、さにあらず。
 あの者こそ必ずや大出世するだろう。」
信長への好奇心から寺を出て家臣となった牛一は、戦いの中で弓の腕前を持って次第に頭角を現して行きます。
そんな牛一の腕と度胸を買った信長は、織田家で三本の指に入る弓の達人として牛一を抜擢し、以後信長のそば近くに仕えるようになります。
ここから牛一の、信長の日常を記録する生活が始まっていくのです。

「信長さまはいつも着物の袖を外し、短い袴を穿いた恰好をしている。
 腰には火打石などを入れた袋をぶら下げ、髪は派手な赤や萌黄色の糸で巻き立て茶筅のような形にしている。
 盆踊りの時、信長さまはなんと女踊りをなされた。」
こうした信長の生き生きとした姿が、後の『信長公記』として記録されていくのです。

今川義元との合戦の際には、信長軍は全滅の危機に瀕するものの、苦闘の末なんとか勝利を収めます。
「本陣にいらっしゃった信長さまは、あいつが討ち死にしたのか、あいつもか…と死んだ家臣の事を仰せられては感極まって涙を流された。」
人目をはばかることなく、共に戦った仲間のために涙を流す信長の姿を牛一は情感を交えて記録したのです。

1568年10月、信長は京へ上洛し、都の人々の熱狂的な歓迎を受けます。
「信長様にお会いしたいと都の人々が大勢集まり、信長さまが滞在する屋敷の前は市場ができたようであった。」
1575年5月には、信長は武田軍と長篠の合戦に挑みますが、牛一は『信長公記』で実際の布陣や両軍の部隊、更に騎馬武者の突撃を防ぐ柵や千丁を超える鉄砲隊の存在などを克明にその記録として残しています。

「この度、武田の者どもと戦するは、まさに天の与えたもうた好機である。一人残らず討ち取るのだ」
「敵の一番手は山県昌景、陣太鼓を打ち鳴らしながら攻めかかって来た。
 しかし鉄砲をさんざんに打ち込まれると引き退いた。
 すると二番手の敵勢がやってきてしつこく攻めてくる。
 柵の中の見方はそれを十分引くつけると鉄砲を放つ。
 武田方は馬に乗った戦にたけていた。
 この時も騎馬で押し寄せてきたが、味方は多数の兵を揃え、身を隠して敵を待ち受け鉄砲を打つのみであった」
「戦いは八時間続いた。
 武田方は次第に人がいなくなり、落ち延びていった。」

そして運命の1582年6月21日を迎えます。
家臣の明智光秀が謀反、京の本能寺に僅かな側近と泊っていた織田信長に襲いかかり、天下統一を目前にして信長は突如この世を去る、本能寺の変が起きてしまいました。

信長の突然の死から数年後、牛一は信長の後継者となった秀吉の下に仕えながら、本能寺の真実を調べ始めます。
やがて、当時の生き残り、信長の侍女たちに辿り着き、その真相を知るのです。

「家臣・明智光秀の襲撃を受けた上様は一言 
 ”是非に及ばず”
 とのことであった。」
「そして私たち女どもに、わしに構わず逃げよ、とお声をかけ下さり、燃えさかる炎の中、奥の部屋に入っていかれました。」
その後、明智光秀が農民の落ち武者狩りによって討ちとられたことを突きとめたのも牛一でした。
そして牛一は、主君織田信長の生涯をこれまで付けてきた日記を基に書き始めたのです。
『信長公記』の始まりです。

「私の書くものに作り話は一切ない。
 もし一つでも偽りを書けば、天の怒りを買うであろう」
(『信長公記 序文』)

1年ごとに一冊ずつ15巻、それぞれを”めでたし めでたし”と結ぶ信長の天下取りの記録でした。

「信長様は奇想天外な発想で人々を驚かせた…”めでたし めでたし”」
「信長様はいつも好奇心に溢れ、茶の湯、南蛮渡来の新しい文化をいち早く世に広めた…”めでたし めでたし”」
」苦しい合戦の時、信長様はいつも先頭に立ち家臣を大事にして下さった…”めでたし めでたし”」

そして最後の巻となります。

「信長様ご切腹と聞くや、皆、家を捨て妻子だけを連れてめいめい勝手に安土から逃れていった」

次のページは白紙のまま。
牛一はこうして『信長公記』の筆を置いたのです。