公卿から庶民まで門人3,000人を超えていたといわれる家塾を京都に開いて多くの儒者を養成する一方、風雅に遊んで詩書画をよくする文人であり、山水画では師の円山応挙に劣らずという評価まで受けていた人物こそが、江戸時代中期の儒学者・皆川淇園です。
淇園は、円山応挙・池大雅・伊藤若冲などの画人や、上田秋成・六如・柴野栗山といった文人・学者とも幅広い交流があり、当代一流の文人としての姿が知られています。
一方、伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学び、『易経』について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する「開物論」を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書『繹解』や『淇園詩話』『問学挙要』『易学開物』『助字詳解』を著しています。
開物とは、字義を音声によって把握し、「名」によって「物」がみえてくるようにすることで、この方法で儒学用語を定義し直した著書として『名疇』があります。
では、そもそも「開物論」とはどういったものだったのでしょう。
淇園は『易経』の言葉である「開物成務」(「物を開きて務を成す」)という文言から取られている「開物」を次のように述べています。
「蓋し余少きより、易を学び、年三十近きに及びて、易は開物の道に有ることを悟る。
而して其の道は文字聲音に由り要とす。
乃ち入ること得べし。」
一言でいえば、「開物」とは、それぞれの有形・無形の事象が持つ正しい名の来歴について、文字と音声との相関性から明らかにしようとするものだと言えるでしょう。
淇園における「開物」という方法は、そのままでは経験することができない、虚にして目に遮られている事象を開くことでで、その事象は「仁」や「孝」という道徳的事象です。
こうした経験不可能な事象を開くために、人の意識の間に往来出没して生み出された名、つまり「仁」や「孝」という文字に刻印されている声の意味をめぐる思索を深めていくのが、「開物」という方法となります。
淇園が『易経』を単なる「卜筮書」ではなく、「聖人の道」を示した書物であると規定したのは、こうした「名」と「物」の関係性を暗示した『易経』の本質を十二分に理解できていたからでしょう。
「開物」という方法は、「声」そのものに暗示された意味を開くことを試みていますが、重要なのは「声」という存在を「神気」という精神的作用が表出したものと捉えていることです。
・こうした精神的作用を通し、その「触れ覚ゆるさま」を感知するという心理的プロセスを経て「声」は表出される。
・この「神気」が天地に一貫して存在するが故に、この世界において「声」もまた存在している。
・「神気」という概念は、心理に内在している「神」と「気」と関連させながら語られる。
淇園は言語における心理的な側面に着目し、「人心の分象」に注目しています。
「人心の分象」はまさに『易経』で示された八卦・九疇に当たるのですが、要は「開物」は「人心の分象」の意味を把握するためのものであり、「神気」を介在させた「心主ノ思擬」を表出した事物としての「声」が有している表象をめぐる問題を解明することにあるという訳です。
このように淇園のテクストを紐解いていくと、「開物論」は淇園独自のオリジナリティというより、当時の韻学の知識や明末清初期における思想的動向が介在した上、古典中国世界における易学思想に根ざしたものであったことに気付かされます。
では、淇園はどのようなプロセスに基づき、このような思想に至ったのでしょう。
どうやら淇園の行った思想的実践は、主観的主体に内在する心理の根源性を解くことにより、言語自体の根源性を解明することに繋がると考えていたようです。
それは淇園が「心」を「神思条理ノ蔵ル所」と解釈していることからも伺えるのですが、そのため「開物」は「心」の内奥に潜む「神思条理」を徹底的に開くことを試みたものであったと推測されるのです。
淇園は、「開物」の方法とは「声ヲ尋ネテ意ヲ明ラカ」にし、「音ニ随テ義ヲ詮カニス」ることだと述べていますが、その「声」をめぐる「古義」が示された物こそ、音図集の解釈を著した『韻鏡』と呼ばれる書物です。
この『韻鏡』という書物は、唐末期から五代十国時代にかけて成立した、四十三枚からなる音図集で、日本では中世の頃に輸入されたものの真言宗の教学の内部でのみ行われ、『韻鏡』をめぐる解釈は秘伝とされていました。
室町時代になると、公家階層の人々が年号や人名の吉凶を占うために用いられるようになり、この時期を画期として、『韻鏡』は世俗化していき、江戸時代には主に人名判断などの占いをするための書物として『韻鏡』をめぐる注釈が隆盛を極めたといわれています。
しかし本来、『韻鏡』とは「華音」を学習するための基本的な書物であり、皆川淇園の思想的方法は、『韻鏡』に依拠しながら、その書物に示された「音韻」についての解釈をひとつずつ積み重ねながら成立していったものだと言えるのです。
更に淇園は「後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる浅はかなる見」とし、『易経』という書物を「卜筮の用」とは峻別し、「聖人の道」が記されたものとして理解していました。
こうした淇園の易学思想は、易における八卦の象徴性を「数」の法則性から読み解く立場であり、これは「象数」論と呼ばれるものです。
「象数」論は、術数学が天文暦算の問題と深く関わっているのと同じように、易学もまた『易経』で提示されたその宇宙原理を、易占で示される八卦の象徴性から読み解いていく学問です。
つまり、天文暦算の世界や、易学の八卦の中に「数」の法則性を見出していく思想的視座のことなんですね。
この意味において術数学と易学は、相互に二つの思考が緊密に連関しながら、一つの思考として存在していたと考えるべきでしょう。
こうした淇園の「象数」論を示したものが、九疇説と呼ばれるものです。
淇園は、「九疇ハ、人ノ天地万物ニ意測スル定範ナリ」と述べ、「九疇」というものを天地を貫く原理として見出していました。
この「九疇」は、『書経』の「洪範」篇において言及されているもので、天下を統治するための基本原理を九つの範疇(五行・五時・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極)のことです。
淇園が、天地の原理は「数」の原理でもあると考えていたのは明らかです。
淇園はまた「天地自然の数」の運動性が、同時に「声」の運動性でもあるとしています。
淇園は『問学挙要』の中で「見るべし、字書の訓詁は率ね真詮にあらざるなり。これをその声の象数に求むるは上なり」と述べていますが、この意味で「象数」論とは「声」と「数」の相関性に根ざした思考であったことが伺えます。
以上のことから、淇園の「象数」論とは「数」の普遍性こそが、同時に「声」の普遍性でもあると説く立場であると考えられます。
更に淇園における「象数」論のあり方は、「この七部の説、また通雅に見ゆ」と言及していることからわかるのですが、淇園も読んでいた方以智の『通雅』に見られるものです。
その意味で淇園の思想は、明末清初期における「声」をめぐる新たな思想的動向とも深く関わっていたようです。
方以智における「象数」論とは、「声」と「数」の相関性から、さらに「声」をめぐる循環的と通時的な性格を捉えることにあります。
「象数」論のあり方は、「声」の循環的な性格を捉えることにより、新たに「言語」をめぐる問題を構成していくものでした。
そのため、淇園の「象数」論も、方以智の「象数」論と同等のものであることが伺えます。
「吾が性佞媚を喜ばず。
人、我佻にして薄と謗る。
人と施報、従来に的的然として必ず効し、拘拘然として必ず従うこと、軍幕の将士、官府の吏隷の号令・約束・発微、期会においてする者を喜ばず。
故に人は往々にして、我を簡傲とす。
言語応酬の間、吾が心、時に動悸し、自ら斂束、省繹し、状、屡々楽しまざる者に類せり。
故にその知らざる者は、見て不遜と為す。
詩書を読んで文義を理む。すなわち常に好んで深く捜り、極め討ねて毫末に入り、奥賾を極む。
幻眇微忽にして、口言うこと能わざる者に至りて、然る後に止む。」
淇園は自らの学問的態度を、様々なテクストに沈潜しながら、それを精錬した思想的体系として織り成す思想家でした。
一見難解に見える淇園の思想ですが、それは明末清初の思想や江戸儒学の延長にある体系を為しており、それに気付くだけでも十分理解の取り掛かりができるものです。
あまり馴染みの薄い皆川淇園ですが、こうした機会をきっかけに触れてみてはいかがでしょうか。