吉田松陰の命日に想う

来年(2015年)はNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が放送されるということで、改めて吉田松陰という人物が注目される年となりそうです。
世情がうねりを上げ、時代の転換期に入りそうなこの時期に、歴史から学ぶことも多々あるはず。
今日(10/27)は吉田松陰の命日※ということもありますので、彼の思想の原点を中心に少し整理してみましょう。
※)とはいっても旧暦で安政6年10月27日(1859年11月21日)となりますが、そこはご愛嬌としてください)

1853年に、ペリー率いる黒船が浦賀沖に姿を現して開国を迫ると、衰退していた江戸幕府は開国か攘夷か、国内は佐幕か勤王かをめぐり、激しい政治闘争に明け暮れる混乱期に突入しました。
そんな中、吉田松陰がその膨大な知識と知性ならびに日本諸国を巡って得た見聞をもとに、若い幕末の志士たちの啓蒙者、指導者として多大な影響を与えるようになっていきます。
今日では、彼なくしては明治維新は起こらず、また現在の日本は語れないとまで言われている松陰。
YoshidaShoin

そんな松陰ですが、日本では幕末から近代にかけて陽明学が重要な思想とされていたため、彼も水戸学を経由してその思想を取り入れていきます。
その思想を取り纏めた「幽室文稿」はやがて新しい国づくりを考える若い思想家・運動家のなかでも広まり、徳川幕府260年の終焉と明治維新始まりのきっかけを作ったとも言われています。
しかしながら当時日本で語られていた陽明学は、王陽明から発した学問と比べてもかなり国粋主義、排外主義に偏った傾向にあり、結果として尊王攘夷思想などに転化されていきました。(であるからこそ、政治的ロマン主義の色が強く、当時の若者を強く惹きつけていたし、結果として明治維新のきっかけにもなったのだとは思いますが。。。)
ちなみに、陽明学の命題は「心即理」すなわち純粋な動機をそのまま行動には正しい移すという原理ですが、それがどうも日本では心情の純粋性ばかりが強調されるがあまり、政治色の強い殉教や国粋に近い感情にばかり傾倒しがちなのが危惧されるところです。
葉隠などと同等に称して美化賞賛されたり、ナショナリズム的な発想・言動・行動になりがちな側面も多々あり、です。(これは、ここ最近の日本にも言えることですね)

勿論、学問の上っぺらだけをすくい取って、都合よいようにカッコよく扱う方が簡単ですし、その方が若者も傾倒しやすいものです。
しかし、学問そのものの神髄を正確に汲み取って知識にし、それを人格や体験、直観を通じて見識に変え、肝っ玉を伴った実践的判断力=胆識を身に付けることの方が(大変ですが)肝要なのだと、私は判断しています。
来年は改めて吉田松陰が(かなりの熱を持って)注目される年となりそうですので、思想も含めて各地でいろいろなブームが起きることが予想されます。
が、ナショナリズム的な上辺のカッコ良さだけに惑わされることなく、私達ひとりひとりがきちんと物事を咀嚼し、考え、正しい実践を成してしていけるかが試される年ともなる予感がしています。
そういった意味でも、来年はより一層足元からしっかりと進んでいきたいですね。

おっと、ちょっと横道に逸れました。
では、吉田松陰に戻ります。

松下村塾は松陰の叔父が開いた私塾で、八畳+後に増築した十畳半程度の小さな平屋建てです。
やがて松陰が引き継ぎ、わずか2年程の間に、尊王攘夷、倒幕志士の多数がここから排出されています。
松陰の教えを受けたと言われている塾生は約90名余り。
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、正木退蔵など錚々たる面々です。

松陰の残した言葉は数多ありますが、その根底には人が生きるということの理由を切々と講じ、そして自らが体現することにあったはずです。
”生れ出たのは必然である。
生きることは絶対である。
何のためにとか、何が故にとかいうことは、生きることから後に生じて来るものである。
道を学ぶ、道に達する。
これが肝要である。”

”志を立ててもって万事の源となす”

”死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。”

有名な語録は多々ありますし、ひとつひとつの解説は数多溢れていますので省略しますが、現代の私達にも耳が痛いながらも心を励ますものがありますので、一部現代語訳で紹介しておきましょう。
来年になれば、幾度となく目に触れるものだと思います。
これを機に、言葉だけの薄っぺらい維新ではなく、その背景にある学問・知識を学び取った上で如何にあるべきかを熟考し、それを未来の日本に繋げる行動へと繋げていきたいものですね。

【士規七則】
これは松陰が残した武士の心得七か条ともいわれるもので、
・人たる所以
・忠臣の立場
・士道の在り方
・武士の心掛け
が書かれてあり、現代の私達が心得として手本とすべき教えが詰まっています。

”書物に溢れる偉大な言葉の数々は人の感奮を興起させる。
しかし、今の人々は書を読まず、読んだとしても実行をしない。
もしも書を読んで実行したならば、千年万年と受け継ぐに足るものなのである。
ああ、殊更何を言うべきことがあろうか。
そうは言っても、良き教えを知ればどうしても伝えたくなるのは、人の至情である。
だから古人はこれをいにしえに述べ、私は今これを述べる、
何を慮ることもない。
ここに士規七則を作る。

一.人として生まれたのであれば、人が禽獣と異なる所以を知るべきである。
人には五倫があり、その中でも特に父子の親と君臣の義を最も重要である。
従って、人の人たる所以は忠と孝を基本とする。
二.日本に生まれたのであれば、日本の偉大なる所を知るべきである。
日本は万世一統の大君を頂き、地位ある者たちはその身分を世襲している。
人君は民を養い、先祖の功業を継ぎ、人は君に忠義を尽くして祖先の志を継ぐ。
君臣一体、忠孝一致となることは、吾が国特有の特色といえる。
三.武士の道は義より大切なものはない。
義は勇気によって行われ、勇気は義によって成長する。
四.武士の道は質朴実直にして、人を欺かないことが肝要である。
人を欺き、自分を飾ることは恥である。
公明正大であることは、これらの理由からである。
五.古今の出来事に通じておらず聖賢を師としない者は、下らぬ人物となってしまう。
従って、読書をし古人を友とすることは君子たるべき行為なのである。
六.徳を磨き優れた人となるには、師の教導と友との切磋琢磨をどれだけ経験するかである。
従って、君子は交遊を慎重に行うのである。
七.死して後やむ(死而後已)の四字は簡単な言葉だがその意味は大きい。
意思が堅く忍耐強く決断力があり、何事にも動じない志を持つ者は、これが最適の言葉である。

この士規七則は、要約すれば三点である。
即ち、
志を立てることを万事の源とし、
友や師との交わりを持って仁義の行為を学び、
書を読むことで君子先人の遺訓を学ぶ。
ことである。
武士はこのような言葉から得るものがあれば、人として成長するに足るであろう。”

【講孟剳記】
江戸時代末期,吉田松陰が,『孟子』に関する注釈と見解をまとめた書物です。
未完成の間は『講孟剳記 (こうもうさつき) 』といわれたが,完成と同時に”講孟余話”と改題されているものです。
※)講孟剳記(講孟余話)については、改めて整理しておこうと思っています。

【留魂録】
処刑の前日、夕刻に書き上げられた全十六章からなるもので、これを読んだ門下生の国事行為への奮起が新政府誕生の原動力となったとも言われているものです。
内容は、有名な辞世の句を巻頭にして始まり、特に第八節は松陰の死生観を烈々として語られており、読む我々のの心にも強く訴えかけてくる行です。
心に呼びかける件がいくつも出てきますので、その中の一部を現代語訳で引用しておきましょう。
これも来年になれば、幾度となく目に触れるものだと思います。

【留魂録 冒頭の句】
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士」

【留魂録 第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。

私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。

しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。

【留魂録 最後の句】
「かきつけ終わりて後
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄昏書す              二十一回猛士」

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