禅とは?

禅とは?

そもそも禅って、何でしょう?
わかったようで、よくわからないもの、それが禅ではないでしょうか?
今回は、そんな禅を整理してみたいと思います。

禅は曹洞宗と臨済宗の一派に端を発し、坐禅(姿勢を正して坐し)で心を一つに集中してその真の姿を知ろうとすることですが、次第に日本独特のものに姿を変え、一事を極めて高い境地に達する修養・修行色が強いものとなっています。
しかも、茶道、書道、剣道、弓道などといった日本文化全体に大きな影響を与えており、単なる宗教に留まらないところが、海外からも高い人気を誇っている要因といえます。

そもそも、禅は不立文字を原則とするため中心的経典を立てていません。
教外別伝を原則とするため師資相承を重視し、そのための臨機応変な以心伝心の方便などを行うことも特徴です。
坐禅を基本的な修行形態としますが、始祖を達磨大師としていることもあって、部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅となります。

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禅では、頭で何かを考えたりするのは雑念であって断ち切るべきものとされます。
”何のために坐るのか”というのは目的を考えているので、雑念ということになります。
”坐禅を組んで悟りをひらこう”と考えることも、雑念となります。
”自分を高める”のではなく”自分が、自分が”という執着を断つこと、物事を頭でわかったつもりになるのをやめることが、禅の目的ということになる訳です。
しかし、禅のお坊さんは”これが目的だ”などとは言いませんし、何か言ったあとですぐに反対のことを言ったりするのです、いわゆる禅問答ですね。
追うべき目的も、目的を追う自分自身も消えてしまったところに、禅の目指すものはあるのです。

何かわかったようなわからないような気分になりますよね、でもそれが禅の神髄である訳です。

禅は、多くの宗教のような神秘的教義や信仰を立てませんし、霊魂や死後の世界といった考え方はありませんし、特定の教義とか、坐禅に関する教えを説くための経典とか、信仰の対象として崇めるような神もありません。
やるべき事はただひたすら坐禅を行じ研鑽を積むことにより、人が生まれながらにして以っている”本来の面目”に立ち還ること。
でも、本来の面目ってのがピンときませんよね。
例えば、
・主観と客観、自己と世界、善と悪などの相対的な対立するものが現われる以前の存在
・主観と客観が分かれる以前の存在
・自己と他者とに対立する以前の存在
といったところでしょうか。

少し具体的に噛み砕いてみましょう。

常日頃私達が”自己”として大切にしているものは、それ自体が迷いの根元であり、実は実体のない幻影であるということに気付きません。
坐禅はそれを行ずることによってその根底にあるものを明確に認識し、いろいろな経験や知識で成り立つ自己を捨てていくことで、”人間の心”というものの本体、”本心本性”の徳を自覚させていく道なのです。

まさに禅の道は、己れの”真実の本心に立ち還る道”なのですね。

今や世界の多くの人々は、
・”真実の己れ”に気付くこともなく
・自分の価値観や利害の中で正しい道を見失い
・無益な争いや先の見えない袋小路に入り込んで迷い
・それらを紛らわすために自堕落な享楽に耽って
・理想も希望もない日々の中で悩み苦しんでいる
というのが実体です。
そんな中禅は、真実の本心をよび覚ます道を直接、しかも非常にわかりやすいロジックで示してくれます。
だからこそ、迷いや苦しみを持つ人達にとって、果ては国境を越えて海外の多くの人達を惹きつける修養として成立しているのだと思うのです。

これ以上の余計な説明も講釈も、禅の道からすれば不要でしょう。
このぐらいにしておきます。

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