紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれています。
通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは以下とされており、長篇恋愛小説としてすきのない首尾を整えているといわれています。
第一部:光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部:愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部:源氏没後の子孫たちの恋と人生
では、以下ざっと第二部のあらすじを追っておきましょう。
次回からは若菜を初めとして、『源氏物語』第二部の壮大な長編絵巻の物語を進めてみたいと思います。
【第二部】
女三宮降嫁
若菜 上
(源氏39歳冬-41歳3月)
源氏の四十歳を祝い、正月に玉鬘が若菜を献じる。
一方で朱雀院は出家に際して末娘女三宮の行末を案じ、これを源氏に嫁がせる。
紫の上の憂慮はひとかたならず、源氏自身もほんの少女にすぎない彼女に対して愛情を感じられないが、兄帝の願いを無下には断れない。
秋、源氏四十の賀が盛大に行われる。
さらに翌年の春には明石女御が東宮の子を出産し、源氏の権勢はいよいよ高まりつつあるが、その陰で、六条院の蹴鞠の催しに女三の宮を垣間見た柏木(内大臣の子)は彼女への密かな思慕をつのらせるのであった。
空白部分
(源氏41-47歳)
「若菜」の上下のあいだには七年分の空白がある。
そのあいだに冷泉帝が退位し、今上帝(朱雀帝の子)が即位。
明石女御の子は東宮となっている。
(なお「若菜」を上下に分けるのは後代の帖立てで、本来は一巻とされる。
)
若菜 下
(源氏41歳3月から47歳12月) 朱雀院五十の賀に際して女楽が催され、源氏は女三の宮に琴を教える。
女楽の直後、紫の上が病に臥し、源氏はその看護に余念がない。
その間に柏木はかねての思いを遂げ、女三宮を懐妊させてしまう。
柏木が女三宮に送った手紙を手にした源氏は事情を知って懊悩する。
一方で源氏の遠まわしな諷諌に、柏木は恐怖のあまり病を発し、そのまま重態に陥る。
柏木
(源氏48歳正月から秋)
年明けて女三の宮は男の子(薫)を生み、柏木は病篤くして間も亡くなる。
女三の宮も罪の意識深く、また産後の肥立ちの悪さから出家してしまう。
源氏は薫出生の秘密を守りとおすことを決意する。
一方で柏木に後事を託された親友の夕霧は、残された柏木の妻女二宮(落葉の宮)を見舞ううちに彼女に惹かれるようになってゆく。
横笛
(源氏49歳春から秋)
秋、柏木の一周忌が営まれる。
落葉の宮の後見をする夕霧はその礼として宮の母から柏木遺愛の横笛を贈られるが、その夜、夢に柏木があらわれて、自分が笛を贈りたいのは別人である(薫を示唆)と言う。
夕霧は源氏にこのことを相談するが、源氏は言を左右にしてはっきりと答えない。
鈴虫
(源氏50歳夏から秋)
夏、出家した女三宮の持仏開眼供養が行われる。
秋、その御殿の庭に鈴虫を放って、源氏らが宴を行う。
その夜、秋好中宮が死霊となって苦しむ母六条御息所の慰霊のため出家したいと源氏にうちあけるが、源氏はこれを諌める。
夕霧
(源氏50歳秋から冬)
秋、想いをおさえきれない夕霧は人目を忍んで落葉の宮に意中を明かすが、彼女はこれを受入れない。
しかし世上両人の噂は高く、落葉の宮の母御息所はこれを苦にして病死してしまう。
落葉の宮はいっそう夕霧を厭うが、夕霧は強引に彼女との契りを結び、妻とする。
雲居雁は嫉妬のあまり父致仕太政大臣のもとへ帰って、夕霧の弁明をも聞きつけない。
末尾に夕霧の行末とその一門の繁栄が語られる。
源氏の死
御法
(源氏51歳春から秋)
「若菜」の大病ののち紫の上の健康は優れず、たびたび出家を願うが、源氏はこれを許さず、紫の上はせめて仏事によって後世を願う。
春から秋にかけて六条院最後の栄華と紫の上の病状が描かれる。
秋、紫の上は病死し、源氏は深い悲嘆にくれる。
幻
(源氏52歳正月から年末)
紫の上亡き後の源氏の一年を四季の風物を主として叙情的に描く。
年末に源氏は出家の意志をかため、女君たちとの手紙を焼き捨てる。
雲隠
帖名のみで本文は伝存しない。
帖名に源氏の死が暗示されているというのが古くからの定説。
なお「宿木」に出家後数年、嵯峨に隠棲して崩御したことが記されている。