三浦梅園は、生涯宮仕えせず自然の探究に一生を捧げた江戸時代の自然哲学者にして、思想家、医者であった人物です。
そんな梅園が著した、江戸時代の商品経済における価格について説明した経世論『価原』を整理してみたいと思います。
そもそも『価原』という題名ですが、価(賃金、物価)とは何かという本質・原点を追求することから来ており、江戸時代の経済論、貨幣論の傑出したものとして有名になりましたが、論は広く政治政策論にも及んでいるものです。
経世論(経世思想、経世済民論)とは、江戸時代の日本で「経世済民」のために立案された諸論策、もしくはその背景にある思想のことです。
梅園は、哲学「条理学」を当時の経済問題に適用し、作物の豊凶・貨幣流通量・物価・労賃の間の基本的関係を考察しています。
その分析方法「条理学」は、明末清初の中国の自然哲学などを梅園が吸収して独自に体系化したもので、経済現象を仮想の一島に抽象化して考察するなどその科学的方法は注目すべきものであり、欧米の経済学や学問的方法との類似も指摘されています。
『価原』において梅園は、まず世を治めるために必要なものとして、水・火・木・金・土・穀という六府(六つの材料)と、それらを用いた正徳・利用・厚生の三事を挙げています。
六府とは、実体経済そのものと言い換えてもよいでしょう。
貨幣と物価の関係については、貨幣経済のもつ問題性を鋭く指摘し、金銀などの貨幣の流通量が、物価水準に及ぼす貨幣数量説に通じる考え方が示されています。
その上で世の趨勢をつかむためには、世の中の各要素の増減を勘案し、宜しいところへ調節する方法が必要だとされています。
また、貨幣の流通については、有用な貨幣と無用な貨幣の区別をし、経世済民のための貨幣発行が説かれています。
併せて、国家運営と個人商売は明確に区別し、国家における経世済民としての経済では、民と我の区別がないため、義こそが利だといいました。
個人商売は乾没というものであり、自らの得が利であり、他人の利益は損であるため、自分の利こそが利だというのです。
そして、貨幣における貴金属の含有量の違いについては、悪貨は良貨を駆逐するという考え方が示されています。
貴金属の含有量の低い悪貨によって、含有量の高い良貨が駆逐されることが語られています。
また、金銀などの貨幣は、交換手段の役割を担うものとして考えられています。
そのため、貨幣に踊らされることの愚が指摘されています。
『価原』の中で梅園は、一貫して経済における廉恥礼譲を重視しました。
恥を知って礼儀をつくし謙虚であれば、金銀の奴隷になることはないというのです。
廉恥礼譲を説くのは民の生活が安定してからであり、生活が安定しても廉恥礼譲がなければ贅沢に流れて貪欲に陥ると考えたのでした。
また貨幣の奴隷にならないために、貨幣の危険性を認識し、貨幣の影響力を抑える方法も提案されています。
金が掛かって借金になるところを禁止し、金持ちの金を世の中にうまく流通させ、各地の経済状態を安定させて、各人が仕事を楽しんで行えるようにすべきことが説かれています。
そして最後に経済については、各人がその分に応じて不正をしないことであり、利用・厚生・正徳のことだと説いています。
要は、利用が初めであり、厚生が本であり、正徳が主であり、徳が正しく行われていれば、人は正しく感化されると考えたのでした。
本来貨幣は、モノやサービスの通商を利便ならしめる、交換手段の役割を果たすべきものです。
モノやサービスの社会的な配分を滞りなく実現するためには、過不足なき貨幣があれば事足りるはずです。
それが本来の職分をはずれ、投機に基づく過大な資金需要を作りだし、これに金融システムによる信用メカニズムが応えています。
モノやサービスの社会的配分においては、貨幣の多寡は実際の経済に規定的な役割をもつべきではないのが理想です。
しかし、人は貨幣を渇望し、貨幣に重きをおいて、梅園が「游手」と呼んで批判した有閑階級や金融仲介業者を生み出すことになります。
そうして、この「游手」の力が世界を動かしているわけです。
結果、財や労働、生産、消費という経済の実体に対して、貨幣の力の優位は増すばかりで、社会の均衡を欠き歪めていきます。
それはグローバリズムが発展し、格段に社会的格差の広がった現代の社会を見回しても一目瞭然です。
私達は、金融のグローバリズムによって混乱させられた世界を自覚し、地域と勤労に根ざす新たな取り組みを始める必要が出てきています。
そしてその基には、「人々六府の眞貨たるを覺り」、「今は唯六府の運となるべき金銀、還りて主となる」状態を変革しようとする『価原』の精神が必達です。
改めて三浦梅園が唱えた『価原』を見直す時期に来ているように思えます。
以下のサイトなども参考にしてみてください。
三浦梅園『価原』 本文と評註
以下、『価原』で示されている概要です。
【六府三事】
梅園は、『書経』[大禹謨]の既述を参考にして、世を治めるための材料として、水火木金土穀の六府が挙げられています。
この六つの材料を用いて、正徳・利用・厚生の三事を行うことが世を治めることだというのです。
【金銀と物価】
金銀などの貨幣と物価の関係については、貨幣の流通量が、物価水準に影響を及ぼす(=貨幣数量説)というのです。
【権柄】
梅園は、世の中の趨勢をつかむためには、秤の錘調整して釣り合わせる技術が必要だというのです。
具体的には、世の中の各要素の増減を勘案し、宜しいところへ調節することが、バランスを執ることだというのです。
【有用の貨】
金銀などの貨幣が流通していることは皆が好むことであるから、そこに有用な貨幣と無用な貨幣の区別をし、経世済民のために貨幣発行すべきだというのです。
【経済と乾没】
国家における豊饒と、商売における豊饒が区別されているのです。
経世済民としての経済では、義こそが大事な利であり、商売においては、自分の利こそが大事な利なのだというのです。
すなわち、国家を運営する人は、皆のことを考え、商売をする人は自分の利益を考えるということです。
【悪貨の弊害】
悪貨は良貨を駆逐するという考え方です。
貨幣における貴金属の含有量の違いにより、貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じる場合、実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、実質価値の低い貨幣が流通するのです。
明和9年(1772年)に発行された南鐐二朱判は、一両当りの含有銀量が21.6匁でした。一方、同時期に流通していた元文丁銀は、一両当り27.6匁でした。このため南鐐二朱判が悪貨となり、広く流通することになったのです。
【金銀の役割】
金銀に踊らされる人は、ちっぽけな人間であり、国家にたずさわる人材ではないというのです。
続いて、金銀などの貨幣は、交換手段の役割を果たすものに過ぎないというのです。
【廉恥礼譲】
梅園は、廉恥礼譲を貴びます。
廉恥礼譲とは、清く正しく恥を知り、礼儀をつくして謙虚であることです。
生の充実のために利用できるものがあり、利用するもののために生があるのではないというのです。
金銀などの貨幣の必要性が高くなると、人は金のための奴隷となるというのです。金を借り、金に振り回されて、破産してしまいます。
金銀などの貨幣の影響力を抑えておけば、危険性は軽減されるというのです。
ただし梅園は、銀などの貨幣をなくせという暴論ではなく、貨幣の危険性を認識せよということです。
すなわち、金がかかるため借金につながるところを塞ぎ、金持ちの金を世の中にうまく流通させ、各地の経済状態を安定させ、各人が職業を楽しんで行えるようにすべきだというのです。
そのため、民の生活を保障し、それから廉恥や礼譲などの道徳を説くべきだというのです。生活が保障されていても、廉恥や礼譲などがなければ、贅沢に流れて貪欲に陥ると考えられています。
【利用・厚生・正徳】
経済は、各人がその分に応じて不正をしないようにすることであり、つまりは利用・厚生・正徳のことだというのです。
この三つについては、〈三事、利用を初とし、厚生を本とし、正徳を主とす。徳正しき時は人感化す〉と説明されています。