『言志四録』は、佐藤一斎が後半生の四十余年にわたって書いた4書1133条※)の訓戒語録集で、西郷隆盛が座右の書とし、幕末維新の多くの志士達がこれに学んだと言われている名著です。
※)4書は、以下となります。
・言志録:全246条
・言志後録:全255条
・言志晩録:全292条
・言志耋(てつ)録:全340条
言志という言葉からは、志を表すにあたり言葉を真剣に用いようという決意が読み取れます。
佐藤一斎は、19世紀美濃国岩村藩出身の儒学者で”朱子陰王”と呼ばれ尊敬されていますが、私には陽明学者としての印象の方が強いです。
佐藤一斎は、以前にも『重職心得箇条』で取り上げましたが、今回は『言志四録』です。
『言志晩録』第60条
「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず!」
は有名な一説ですね。
小泉純一郎氏が首相時代に引用したことで知名度も挙がったのでご存じの方も多いかと思いますが、いわゆる三学といわれるこの意味も残しておきます。
「若くして学べば、世のため人のために役立つ
壮年になって学べば、年をとっても衰えずいつまでも活き活きとしていられる
老いて学べば、肉体が滅びようともその精神は永遠に残る」!
といったところでしょうか。
『言志四録』は、西郷隆盛を始め多くの明治幕末の志士たちに愛誦され影響を与えています。
特に西郷隆盛は『言志四録』から101条を抜粋・抄録して『手抄言志録』とし、絶えず座右に置いて自らの行動の指針としたと言われています。
※)『手抄言志録』の101条は、こちらのサイトを参考にしてください。
南洲手抄言志録 南洲手抄言志録
また『武士道』の著作・新渡戸稲造も自身の著書『修養』の中で、随所に佐藤一斎の『言志四録』を引用しています。
更には教育学者・小原國芳や皇至道にも、教育の根本や生涯学習の根本を言い当てた思想として『言志四録』を引用しているのです。
また『言志四録』執筆以前にも一斎が林家の塾長となっていた折には、門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂、安積艮斎、大橋訥庵、中村敬宇など、いずれも幕末に活躍した英才が育っています。
教育者としても、卓越した能力を持っていたことが伺えますが、彼らが『言志四録』を読んで発奮したのは20代後半から30代前半のこと。
どれだけ、この『言志四録』の言葉が大きな力を持っているのか、推し量ることができるというものです。
『言志晩録』は、私も若い頃に一度触れたことはあるものの、『菜根譚』と同じく当時はあまり本気で読み込んでなかったというのが正直なところです。
志士達がこれを読んで幕末維新を進めた原動力にしたことを思えば、全くもってお恥ずかしい限りです。
最近改めて拝読していますが、まだまだその神髄を汲み取るまでの実践と成果には至っていないな、と痛感すること至極。
そんな中ではありますが最近実感するのは、こういった古典は年寄りの老後の楽しみ的な書物に貶めるのではなく、もっと今の若者がガンガン読み漁って発奮できるように道筋をつけてあげるのが、いい年をした大人の役割だと思います。
今の日本の国情は随分憂慮すべき状況だと思われますが、だからこそマンガや超訳類の安易書、読み捨て程度の情報雑誌ばかりに流されるのではなく、じっくりを熟考できる頭を養う意味でも、こうした良書、佳書は若い人達に身銭を切って読んで頂きたいのです。
本文は、以下のサイトなどで確認できますので、是非とも触れて頂き、自分の座右を探してみてはいかがでしょうか。
佐藤一斎「言志四禄」総目次
以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
【言志四録】
最上の人は宇宙の真理を師とし、第2等の人は立派な人を師とし、第3等の人は経典を師とする。
すべて事業をするには、天に仕える心を持つことが必要である人に示す気持ちがあってはいけない。
発奮するの憤の一字は、学問に進むための道具である。かの顔淵が「舜も自分も同じ人間ではないか」と言った事は、まさに憤ということである。
人は須らく自ら省察すべし。「天何の故にか我が身を生出し、我れをして何の用にか供せしむる。我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり。天の役共せずんば、天の咎必ず至らしむ。」省察して此に到れば則ち我が身の苟くも生く可がらざるを知らむ。
人間は誰でも、次の事を反省し考察してみる必要がある。「天は何故自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。自分は天の物であるから、必ず天職がある。この天職を果たさなければ、天罰を必ず受ける」と。ここまで反省、考察してくると、自分はただうかうかとこの世に生きているだけでは済まされないことが分かる。
顔面(頭脳)が冷静ならば正し判断が出来る、背中が暖かいならば熱烈が人を動かすことが出来る、虚心坦懐にして我見がなければ他人を容れることが出来る、腹が充実していれば胆力が据わって物に動じない、人間はかくありたいものだ。
少しでも頭の中に誇り高ぶる気持ちがあれば、それは天地の道理と相はなれることである。
志のある人は鋭利な刃のようなもので、いろいろの魔物がすべて尻込みして近づけない。何かしようとする意志のない人は鈍ら刀のようなもので、子供までが馬鹿にする。
およそ大丈夫たる者は、自分自身に在るものを恃むべきで、他人の智慧や財力、権力などを頼みにしては何が出来ようか。
需という字は雨天を意味する、雨の降る時は心を静めて待てば晴れるのに、待たないとびしょ濡れになってしまうものだ。
俄かの出来事をうまく処理して信用を勝ち取り、その功績が土台になって平日の信用がますます加わる場合がある。また、平日の信用があるために、時に臨んで手柄を顕すこともある。
人が自ら励み一所懸命になっている時は、その心は光に満ちて明るく、少しもつまらない考えとか遊ぼうとする気持ちはなく、また心に掛かる煩いや気に掛かる思い等はないものである。
人は、「外物のために煩わされる」と言うかもしれない、しかし、自分はこう思う、「すべて万物は皆自分と一体であるから、必ずしも煩いをしない、思うに、煩いをするというのは、自分自らがするのである」と。
聖人はすべて事の起こらない内に先を見て事を処理し、機先を制するものである。事を発しない内に処理するのは先天の本体である誠であり、機が動き出してから処理するのは後天の工夫即ち敬である。
山中の岩屋の中に棲み世を超越した心を持っている者こそ、内閣に列して天下の重きに任じて立派な政治を執ることが出来る。また、礼儀を心得て身を慎み心を和らげる音楽の実際を弁えた人こそ、始めて大事を統率する大将に適任である。
敬⇒①自分としては慎み、②他人に対しては敬う、③純一無雑な心的状態。
他人の禍あるを見て我が身に禍の無い事が真に安らかであることが分かる、また他人が幸福であるのを見て自分は幸福でないために他人の妬みを受けず却って安穏を得ることを知る。
善き事をせよと責める言葉は、なるべく遜へりくだって言うべきである、くだくだしく言うな、やかましく言うな。
世の中の大きい、小さい様々の人間のする仕事は、皆学問である。
自分の意に叶った物事は実は恐るべきものであって決して喜ぶべきものではない、これに反して物事が思うに任せない失意の時は慎まなければならないが決して驚くべきものではない、この時こそ自己反省して鍛錬する好機である。
青天白日というものは、常に自分自身にあるのであって、自分の外にあるのではない。
胸の中が清々しく心地よいならば、世間に起こるあらゆる困難も何ら行き詰まることなく処理して行ける。
人は忙しい中にも静かな時の如き心を持たなければならないし、また、苦しみの中にあっても楽しみを保つ工夫をしなければならない。
急がない事は早くやってしまうが良い、そうでないと滞って遅れる事になる。急ぎの事はゆっくりやるが良い、そうでないとあわてて失敗する事がある。
立派な人物は、何処にいてもどんな地位にいても不平を抱かず、それぞれの地位に応じてするだけの事をして決して齷齪あくせくしない。
宇宙万物は皆一体であって、万物を一体ならしめるものは結局情を押し広げたものに外ならない。