播州の田舎から出て、倒産しかかっていた大坂の米仲買・大名貸商人升屋を番頭の立場から立て直し、ついに仙台藩の蔵元へと発展させた山片蟠桃は、同時に江戸後期を代表する論策『夢の代』を著した知られざる思想家でもあります。
とくに大名貸商人としては仙台藩や豊後岡藩などの依頼を受け、それらの藩の財政再建に成功した功績を持つのですが、番頭としての激務の間に懐徳堂で中井竹山・履軒兄弟から儒学を、先事館で麻田剛立(豊後杵築藩出身で三浦梅園の親しい友人)に天文暦学を学びます。
この懐徳堂とは大阪町人が資金を出し合って作った学塾で、蟠桃は西欧医学・天文学・地理学・歴史・経済学といった自然・人文両界の本質の把握に努め、その見識は松平定信にも知られるようになったといわれています。
そこで蟠桃が中井竹山、中井履軒、麻田剛立といった人たちから学んだこと、そして自らが現場で知ったことをまとめて著したのが、以下、全12巻から成る『夢の代』となる訳です。
・天文第一 (地動説を支持して潮の干満、や気温、雷、暦やニュートンの万有引力といったことを説明している)
・地理第二 (日本の地理や世界の各国の情勢を記載し、ヨーロッパ各国の植民地帝国主義について警告をしている)
・神代第三 (応神以前の古事記や日本書紀の記載を神話として否定し、神話と歴史を峻別)
・歴代第四 (古代の日中韓の交流、源氏物語や土佐物語、太平記を始めとする、日本の歴史・制度の変遷を説く)
・制度第五 (刑罰や貨幣、冠婚葬祭、海外貿易、官位、度量衡、封建制度における経済についての方策を示す)
・経済第六 (商人より農民を尊ぶべきこと、米価の変動、窮乏者の救済や、備蓄米の必要性を提案)
・経第七 (儒教の聖典である四書五経について論じている)
・雑書第八 (史記や老子などの古典を論じ、座右の書として『貞観政要』や『名臣言行録』などを挙げている)
・異端第九 (仏教について。主に仏教批判)
・無鬼第十 (迷信を排撃して徹底した無神論を展開する)
・無鬼第十一 (同上)
・雑第十二 (医学、健康法について、近代医学の成果を紹介)
その内容ですが、ざっと以下のような趣旨で著されています。
・封建の世が想定されているため、徳が重視され、農業や百姓が尊重されている。
各々の職業において、各人が納得することで太平が実現できる。
・民が道徳的であるためには、民を富ませることが必要である。
為政者は、まず自身の襟を正すべきである。
・食料危機に際しては、窮乏者の救済や、標準価格より少し高い程度での供給を提案する。
値段の上下に関わらず、数年分の食料を蓄えておくべきである。
蓄えは、時機を見て金持ちに売り、貧乏人に与え、物価を均一にして公平を保つべきである。
いざという時には、方策として商人の蓄えを政府が利用する。
・貧民救済については、長期的視点を持ち、説得や強制的な手段によって、富民の財産を救済に用いるべきである。
・物価については、高くて売れないと値段が安くなるという価格調整の原理を示す。
物品には標準価格というものがあり、過度な価格競争によって価格破壊に至る。
価格が下がれば、売り上げが伸びる。価格を上げるにも下げるにも、工夫が必要である。
役人は、物価による価格競争に惑わされないようにすべきである。
・経済については、民が何を信じているかが重要である。
民に何かを信じさせるためには、自身の行いの正しさによってしか為しえない。
・政治においては、統計という手法が重要性である。
富は奢りを生み、奢りは羨みを生む。
羨むことのない心が、まことの楽しみを生む。
・倹約については、財用を確保して国家を運営する必要性を認識すべきである。
・危機対策については、価格の高い低いに関わらず食糧の備蓄の必要性が重要である。
食糧を他国から調達する方法も考慮すべき。
費用はかかっても、餓死者を出さないのが政治の役割である。
・相場については、売買によって目まぐるしく動く人間の人気の集まりである。
市場における価格の調節機構は、人気によって左右されるため、その流れは天に任せるべきである。
そもそも『夢の代』は江戸時代には刊行されませんでしたが、それでも40冊以上の写本が現存しており、例えば幕末に吉田松陰は獄中で読み、きわめて高い評価を与えていたなど、広く読まれたことが伺われる著作です。
『夢の代』の序文には、蟠桃の想いが綴られています。
「夏の日は長くてうんざり。
こんなときは昼寝がいちばんと思って、枕に頭を載せたところで、はたと気づいた。
おれはもう五十をすぎたというのに、これまでいたずらにめしを食らい、暖衣に身を包み、眠ってばかり。
これではいくらなんでも情けない。
そうはいっても世間の人に道理を説くなど、とてもできそうもない。
そうだ、せめて自分が竹山、履軒先生に習ったことを書きつらねて、子孫の教戒にできれば、これ以上の本望はあるまい。
こう思って、硯を前になにやら書きはじめたものの、ついつい眠気が襲ってくる。
それを無理やり抑えて机にかじりついて筆を走らせるという始末だ。
このなかにはご政道にふれた部分もあるかもしれないが、どうかおとがめにならないでいただきたい。
この書はうちうちに見るもので、外に広めようというのではないのだから。
眠いのをがまんして書いたので、はじめ『宰我の償』という書名にしたのだが、履軒先生がぱっとしないとおっしゃるので『夢の代』と改めることにした」
宰我というのは『論語』のなかに出てくる孔子の不肖の弟子の名ですが、この序文からわかるのは、蟠桃は、孔子に懐徳堂の中井竹山・履軒をなぞらえ、自らを宰我になぞらえることで、恩師に報いようとしたのではないでしょうか。
荻生徂徠は、徳川吉宗の助言者を務め、儒教の理念から出発して、できるだけ社会から商業の要素を排除しようとして、さまざまな規則を導入することを提言しました。
対して蟠桃は、国中で商業が発達しているという現実から出発し、それをよりよいものにしようと努めています。
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福沢諭吉は、儒教をかさにきた権威を批判し、不仁不義不忠不幸といった非道徳を嫌いました。
対して蟠桃は、身分制度を重んじながらも、君主や主君に苦言を呈することこそが儒教道徳なのだという信念を持ち続けました。
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こうした山片蟠桃という人は、理念からではなく現実から出発し、虚妄を排して実証を重んじ、知によって世の中を切り開く、まさに時代的にも思想的にも、荻生徂徠と福沢諭吉の中間にあった人ともいえるでしょう。
蟠桃が人生の締めくくりとして、何かを残しておきたいという気持ちに突き動かされて書き上げた『夢の代』。
当時は実に先進的な考えと信念を持っていた蟠桃に、触れてみてはいかがでしょうか。