日本版論語・童子問より学ぶ!伊藤仁斎を通して見る孔子、孟子の教えとは?

『童子問』は、江戸時代前期の儒学者伊藤仁斎が著した漢文体による問答形式の、上中下全3巻。189 章から成る儒教の概説書です。
といっても、『語孟字義』『論語古義』『孟子古義』『大学定本』『中庸発揮』のような仁斎の経書研究の成果と異なり、儒学やその研究法ないしは道徳や政治について思うところを紙片に1条ずつ記し蓄え、のちにテーマ別に整理したものです。
その中身は、宋の欧陽脩の『易童子問』などを範として童子と師匠との問答形式で仁斎の考える儒教の原理・方法・実践を論じており、特に朱子学・陽明学などの宋学を仏教や道教の影響を受けた考え方として排除し、仁斎の古学思想を余すことなく述べた代表的著作となっています。

ここでは、童子が全体にわたって53の問いをぶつけ、それにひとつひとつ丁寧に答えていく構成であることに大きな特徴があります。
この53という数が、『華厳経』入法界品で善財童子が訪ねた53の善知識の数と同じであり、それが東海道五十三次にもなっているのですが、こうした人倫を巡るプロセス、生き方を巡る起承転結、思索と表現を巡る師弟関係といった段階を踏みつつ、質疑応答が繰り広げられていることに、著者の意図を感じずにはいれません。

仁斎は『童子問』において、孔子の教えである『論語』を「最上至極宇宙第一の書」、『孟子』をその「義疏」(解釈する基準を与えるもの)とし、真理のすべてはこの2書にあり、後世の注釈書によらずこの原典本文の精読により孔子・孟子の主旨を明らかにすべきであるという、古義学の本領をまず説いています。
そして、『論語』の根本思想は
・「知り易く行い易い」堯舜の教えであり、
・それは平易・卑近で日常の実践の中に求められる「人倫日用の道」であり、
・『論語』の第一義である「仁」とは愛であり、
・それは君臣の関係に於いては義といわれ、父子では親といわれ、夫婦では別といわれ、兄弟では序といわれ、朋友では信といわれるが、みんな愛から発したものである
と考えて関連するさまざまな道徳の各論を述べ、事物の存在の根拠に「理」を据える朱子学などを批判しています。

その上巻では、「論語」に説かれた人倫日用の教えにこそ大きな意味があり、朱子学の説くような高遠な形而上の哲学は道に背くものであることが最初に強調されています。
「性」「道」「教」というような基礎概念が仁斎の思想・古学に沿って解説され、最も重要な主題である「仁」について、その本質が「愛」にあることが説かれます。
中巻では、「孟子」の「王道」論が儒学の政治論の核心として賛美され、「忠」「信」をはじめとした実践道徳が論じられています。
仁斎の個性的な「生々」「活物」の思想が述べられ、朱子学が考えるような「理」は「死字」であって「生々」「活物」を捉えることはできないと論断されるのです。
下巻では、文学や史学への見解が示され、さらに朱子学・陽明学をはじめ、仏教や老荘などの思想に対する批判が展開されていくのです。

仁斎は、儒学の目的は人間の生きるべき道を深く学びそれを実践する強い意志であることを悟り、学問とは知識の競い合いではなく人間性の修練であると唱えます。
そのために『論語』『孟子』の精髄を読み抜き、日本人の感性に即した儒学を、師と弟子の問答形式を用いて現代人が読みこなせる言葉として叙述した訳です。
伊藤仁斎という人は、儒学を大陸の輸入学としたままにせず、日本人が人生の生き方を社会生活の中で工夫する手立てとして「日本の儒学」としたのでした。

仁・義・礼・智とは何か。
人間関係の心得とは何か。
君主の人徳、倹約の心得、賞罰の判断はいかにあるべきか。
人生における数々の永遠のテーマを、親しみと温かみをこめて、諄々と説く普遍の人間学の名著といっても良いでしょう。
一度手にとってみてはいかがでしょうか。

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以下、参考までに現代語訳にて一部抜粋です。

【努力して人のことを思いやるという道理】
ある人が問う。
「反省と忠恕には、ちがいがありますか。」
先生は答えた。
「ちがいはない。
忠恕とは、自分のために行動するときの心で、他人のために行動すること。
反省は他人を責める心で、自分を責めること。
自分自身に反省の心を向けることができるなら、きっと他人へ忠恕の心を向けることもできるでしょう。
異なる点はない。だから、孔子や曾子はただ忠恕のことを言い、孟子は反省を言うのです。その本質は同じものだ。

忠というのは、己れのすべてをつくすという意味で、その意味は理解しやすい。
ただ、恕という字の意味ははっきりしないものだ。
字書に、『己れの身になって他人のことを体するのを、恕という』といっている。
十分に他人の心を自分の身になって考えれば、自然と人のことを大目に見る気持が生じてきて、残酷で薄情でありすぎるということにはならないものだ。
だから、恕という字には、大目に見るという意味もある。
一般に、人と接するときに、よくよく他人を自分の身になって考え、大目に見る気持があるときには、親しいものと縁遠いもの、遠方のものと近所のもの、目上のものと目下のもの、大きなもおのと小さいもの、それぞれにいちばん落ち着いた場所におさまり、仁は行なわれ、義はゆきわたり、道はすべてのもののなかに含まれるようになる。
曽子が、忠恕を夫子の道としたのは、このような考えによるものである。
すぐれた役人が裁判の判決をするようなもので、その罪は正しく当たっている。
しかしよくよく罪人の心を我が身になって考えると、やはり、いくらかは憐れになり大目に見てやれる事情があるものだ。
まして他人の過失で、その罪に、たしかに思いやることができる点のある者には、当然大目に見てやるべきだ。
だから、昔の人には、三赦と三宥という法があって、それとなく努力して人のことを思いやるという道理に合致していたのである。
時には、にくむべきこと、責めるべきことでも、思いやらねばならぬことがある。
恕ということに努力しなければならないのは、以上のごとくである。」

【意志の弱さは、悪の発生源である】
ある人が問う。
「倹約を守ることは、なかなかできないと思いますが、それを可能にする方法を教えてください」
先生は答えた。
「世間一般の奢りはたいてい妻妾の願望から生じる。奥にたむろする女たちのおねだりが通るのは、夫の姿勢が軟弱で、妻妾を制御する方法を見失うからである。
男が厳として不当な支出を認めず、節制の方針を明確に貫けば、女連中も自然に自粛して、限度を越したおごりが生じない。この場合に気強く合理的に振る舞うのが、倹約を守るための要である。
とは言うものの奥なる閨門の奢りは、せいぜいのところ金銭を無駄に費やし、用もない衣服を溜め込むに過ぎない。
しかし、男がいったん肝を据えて華麗に奢侈を始めたら、男の裁量で際限なく支出するから、太夫ですら家庭もあっけなく破綻させるまで、君主であれば国を滅ぼすに至るまで、中途にして止めるということができない。
総体に、男子が厳しくしつけられず、意志力弱く、まだ少年気分が抜けない時は、何事につけ適当なところで止めることができず、欲しいものを欲しいだけむさぼる癖がつき、志が堅固で誠意があり謹直な人物に近付くのを嫌がり、気の張りをなくして家業を顧みず、遊び怠けて好き放題に逸脱し、そうなれば、『大学』に、『小人閑居して不善をなし、至らざる所無し』と言うとおりに、悪い事なら何でもしてやろうと、意気込んで悪所に踏み込む。これが、あらゆる悪の発生する腐敗した溝泥(どぶどろ)なのである」

【人を動かすものは、優しさと思いやりである】
ある人が問う。
「国家の太平が長く続く時は、人々はみな安逸に流れ、互いに贅沢の度を加え、時間が経つにつれて怠け心が募り、日常の習慣となって、とうとう風俗にまで定着します。けれど人々は必要以上の贅沢の中に浸っていると自覚しません。そのとき急に節倹を目指して統治しようにも、その方針に従う者はおそらくないでしょう。どうすればよろしいのですか」
先生は答えた。
「『論語』に言う。『君子の徳は風である、小人の徳は草である、草は風にあたれば必ずなびく』と。
いいかね。民は上からの命令に従わず、自分の好きなようにする。強制はできない。だから、問題は君主が何を好むかの態度決定にある。口先だけではなく思想と挙動を以て、具体的に範例を示さなければならない。
孔子は言う。『上(かみ)礼を好むときは、すなわち民あえて敬せざることなし。上(かみ)義を好むときは、すなわち民あえて服せざることなし。上(かみ)信を好むときは、すなわち民あえて情を用いざることなし』と。『情を用いざることなし』とは、人々が真心と情愛をもって接し合う状態である。
孔子が説き明かしているように、民は上の好むところによって挙動を律する。上がもっぱら派手を好んで、下に節倹を要求すれば、どんなに苛酷な厳刑をもってしても無駄である。上自身が倹を好むときは、特に訓令を発しなくても、民の間に自然と倹が行われる。
ゆえに、下を令せんと欲するとき、上は自分の好きな道楽を謹慎する決意が必要である。上が心から節倹を好むときは、下の民が従わないなどという心配は無用である」

【人間関係の原則は不公平で良い】
ある人が問う。
「学問は性の内部で芽生え成長するのでしょうか、それとも外から取り込むものなのでしょうか」
先生は答えた。
「内外一致である。内にある資質は外から入ってくる要素の感応し、外来物は内部を豊かにする。両者のどちらを欠いてもいけない。たとえば人の身体はひとつにまとまっている。ところで、精神の働きは内であり、見たり聞いたりの知覚や必要な動作は外である。もっぱら精神機能を尊び、視聴動作をなくすなどあり得ない。
それから生活に必要なたくさんの物質、つまり飲食物、薬、住居、衣服、日常に用いる多種多様にわたる器物道具、何でも外から整える。それなのに学問だけ内の外のと気にするのはおかしい。
木は土がなければ生えず、魚は水がなくては生きられない。そうであるのに、木や魚からすれば、土も水も我が身の外にあるものである。しかし、外なるそれらと少しでも離れては生きられない。
同じように、人間は学問にせよ生活にせよ、必要な物品は例外なく外部から調達しなければならない。もし外から入れるのが嫌だったら、土を離れた木、水のなくなった魚、それらと等しく一日も生きておれない。わかりきったことである。
人間の道徳である五倫、これもそうだ。礼儀正しい父子、仲の良い兄弟、いかに親しくても身体は別々である。いわんや君臣夫婦朋友、お互い血の繋がりによってではなく、道徳の心情によって特定の人間関係が維持されている。このような交流を他人だからとて疎んじられようか。
おおよそ内外の二字、古人の称するところと、後世の言い習わすところと、その意味ははるかに異なっている。いわゆる内とは親しみを表すの辞、外とは疎んするの辞。
『大学』に、『本(もと)を外にし末(すえ)を内にすれば、争民は奪うを施す』と言うのは、本である徳を疎んじ、末である財に親しめば、利を争う人は、みな強奪の情をほしいままにする、の意味であるらしいが、下の四字については定まった訳がなく、荻生徂徠は文字に欠誤があろうと考えている。いずれにせよ上の四字は、本をいい加減にして末を大切にする、と言わんとしている。
『荀子』に、『聖なる者は、倫(人倫)を尽くすものにして、王なる者は、制(法度)を尽くすものなり。ふたつながら尽くす者は、もって天下の極となすに足る』と記されており、この系統の考え方を縮約して、『荘子』天下篇に『内聖外王の道』と表現した。内には聖徳を備え、外は明王として君臨する、の意である。また、聖人を本質とし、王者として顕現する、と解することもできる。いずれにせよ、内外を区別し対照する論理の古い形である。
当代においては、性をもって内とし、性にあらざるものをもって外とする。ただし、外なるものを捨てるのではない。孟子に向かって告子が言う。『食い気と色気は人の本性である、愛に基づく仁の徳は人の心の中に内在するもので、外界にあるものではない。しかし、正邪を判断する義の徳は、自分以外にあるもので、心の中に存するものではない』と。
孟子はそれに反論するのだが、それはともかく、私の見るところ、告子が義を外にしたのも、外なるものとして義を行うつもりであり、義を捨てて忘れてしまうわけではない。古代の聖賢は初めから内外を区別しなかった。内外を分けて対立させるようになったのは、後代の儒者が考え出したお粗末な浅見である」

【卑近を厭う者は本当の学問を知らない】
ある人が問う。
「先生が人の世を貫く道理を説かれたのは、十分に納得できます。しかし、あまりにも平俗に噛み砕かれたので、拍子抜けしております」
先生は答えられた。
「世俗に通じた議論は、当然に内容が真実である。議論が高まり、興奮している場合は嘘っ八である。だから学問は実生活を拒否しない。平素をいい加減にする者は、人の道を心得ていない。世に生きる者の道は、例えれば大地である。
人が踏みしめる地面ほど、天下に卑しいものはない。しかし、人が踏みしめて身体を支えることができるのは、地面だけである。地面を離れたら人は、立ってもおれない。それどころか、この大地というものは、人や物などあらゆるものを載せて重いと言わず、大海を包み込んで河川を導き、自然の万物を支えて揺るがない以上、人間の足もとに卑しく横たわるなどと、軽んじても良いのであろうか。
天もまた同じである。人はただ青々とした天を仰いで知っているものの、目の前に広がる空間が、全てどこからどこまでが天であるのかを思ってもみない。天は地の外側を包む。地は天の内にある。地面から上はまるごと天である。左右前後もまた天である。人間は天と地の間に取り囲まれて生きている。だから天を遠いと言うことはできない。
『孟子』は言う。『道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む』と。つまり、親を親しむ親情と、長者を尊ぶ尊敬と、この道は極めて手近なところでなし得るのに、新しく世に現れた抽象理論を求めて、遠く赴くまわりくどい行動を指し示す。私は『孟子』の語を借りて、『およそ事はみな近きに求むべくして、遠きに求めるのは無駄であり無効である』と諭したい。
世の学者は必ず、自分の進む方向が身近にありふれて、珍しくないと卑下するあまり、ことさらに込み入って捻った論を立て、また、突拍子もないような捻じれた解釈を示し、どうだ、やっぞ、すごいだろ、と世間に高姿勢で臨む。
あるいは世にも稀な変った材料を探って持ち出して来て、これぞ天のなせる超自然、奇跡であると触れまわり、新しい学問を開拓したと、面構え大きく世を欺く。
諸子百家は聖人の道から外れているのだが、この連中は特に甚だしく高論奇行に走る。みんな質実にして正統をゆく学問の道を知らないからである。仮にも、卑近というこの二文字を語り説くのを恥としない姿勢であれば、道を求めて進歩が早く、学問の見通しがきき、本筋から遠くへそれることはない」

【富や地位や名誉を求める気持ちは自然である】
ある人が問う。
「財産に身分地位に名誉象徴に俸禄、おしなべて人間の精神生活と関係のない外物であると聞かされました。これらの何かを与えるという誘惑に乗ってもよろしいのでしょうか」
先生は答えた。
「富や地位や名誉褒賞や禄高は、すべて人間社会になくてはならぬ制度である。ただし、倫理的に正しくて筋の通った受け方か否かを吟味せよ、という条件をつけておこう。単に外物だからというだけの理由で厭うのは短慮である。君はまだ宋学における排俗思想の影響を脱していない。
富貴爵禄を排斥する一見カッコいい議論を、きれいさっぱり洗い去ってしまわなければならない。そういう形式論理にこだわりながら歳をとれば、必ず人間社会にいろいろある事柄の、どれもこれもに気を悪くして、世の中のすべてがイヤになり嫌いになる。
そのあげくは心が冷えて沈み、望みも願いもない心境に陥って、日常生活もおろそかになり、ついには人間関係から身をひく結果になるだろう。それは、はなはだよろしくない状態であろう。
そもそも君の飲食衣服は、当然すべて外物ではないか。今もし衣服を着ず裸で空腹ならば、五日十日も経たぬうちに、必ず命を落とすであろう。
また、漢方に必要な生薬である朝鮮人参に黄芪(こうき:根が滋養強壮剤となる)の類は、その多くが日本にないので外国産を輸入する。それを外物だからとしりぞけて用いなければ、たちどころに死を迎えるであろう。外物の憎むべからざること、かくのごとくである。
社会生活の礼儀をわきまえず、理非なく外物を嫌う片意地は、必ず世のはぐれ者となろう」

【倹約は、あらゆる善の基本である】
ある者が問う。
「身を守る方法をお教えください」
先生は答えた。
「節倹が要である。そもそも倹はあらゆる善の基本である。贅沢はすべての悪がそこから生じる発足地である。
倹約か贅沢かのいずれを選ぶか。その選択は自分ひとりの善悪が分かれる要所であるだけではない。その家が節倹であるときは幸福が子孫に伝わり、その家が身分不相応に贅沢をすれば、様々なわざわいが子孫に及ぶ。慎むべきである」
孔子の言葉にもこうある。
「豪奢にしていると尊大になり、慎ましくしているといやしくなるが、むしろ尊大であるよりも、いやしい方がまだましである」

【倹約は意志力の試金石である】
ある人が問う。
「『礼記』(らいき)に、『重税を取り立てて人民を苦しめる家臣よりは、主家の財をかすめ取って私腹を肥やす家臣の方が、まだしも害は少ない』とあります。また『論語』に、『季氏は(魯〔ろ〕の家老の分際で、周王室の大功労者であった魯の君のご先祖)周公よりも富んでいた。それなのに、求(冉求〔ぜんきゅう〕はこの時、李氏の家宰〔封地のの取り締まり〕として仕えていた)は、李氏のために税を取り立てて、さらにそれを増やした。先生はいわれた「わたしたちの仲間ではないね」』と記されています。聚斂、すなわち取り立ての厳しい収税のやり方を、聖賢はとことん非難されますが、その理由はなぜでしょうか」
先生は答えた。
「民の怨みを被る点では聚斂が最もはなはだしい。小人が君につかえると、民から税を絞れるだけ絞り、もっぱら君の利得に奉仕することだけを考え、民の生活事情を念頭に置かない。民の暮らしを案じる心遣いが、正味のところ君主のためになると気が付かない。
そもそも民のために取り計らって、君のために務めない者はいまだかつてない。同時に民のためにして君のために事を運ぶ者もいない。
ゆえに少しでもよいから民のためになるようにするなら、少しではあっても治政に効果が表れる。まして、大いに民のためにする時は、大きな効果を生むものだ。
『史記』孟嘗君伝の一挿話。『食客三千人と謳われた孟嘗君(もうしょうくん)は斉(せい)の宰相であっても、客たちをとても賄いきれないので、領地である薛(せつ)の国の親しい人々に貸し付けた金の取り立てを、食客の馮驩(ふうかん)に依頼した。憑驩は利息を出せた者には元金を返す期限を定め、貧しくて利息さえ出せぬ者の場合は証文を取り上げて焼いた。腹を立てた孟嘗君を憑驩が説得する。「役にも立たぬ借金の証文を焼き、当てにならぬものを投げ出しましたのは、薛の領民が殿さまの御恩に感じ、お名前も高くなりますよう念じたからなのです」。その一年後、孟嘗君は宰相を免ぜられ、やむを得ず自分の封地である薛へ引っ込んだ。そのとき民は残らず出てきて、若者は老人に介添えし、子供は手を引かれて、孟嘗君の国入りを、百里手前まで来て迎えたという』
証文を焼くのは大きな事件ではない。しかし、それによって民の心を得たこと、効果はかくのごとくである。まして、もっと大規模な温情の場合は想像に余りあろう。
上が聚斂を好めば、民は必ず怨む。怨みが治まらないと怒りに点火する、怒れば離れる。離れたとなれば背く。そうなれば身を守るのさえ難しい。
殷の紂王(ちゅうおう)の倉庫であった鹿台(ろくだい)の財宝も、後漢末の梟雄(きょうゆう:悪人の首領)董卓(とうたく)の屋敷であった郿塢(びお)に積まれていた黄金も、無事に保持することができない。
考えてみれば、険に意を用いるときは自然に余る。余りがあれば人に施すことができる。逆に贅沢をすれば不足する。足りない時は厳しく取り立てざるを得ない。聖人が倹約を尊んで聚斂をしてはならぬと戒めるのはこのためである」